ケロイド   作:石花漱一

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三十二、マンハッタンカフェ⑦

 二時間目が終わると、田上は帰ってきたタキオンを迎え入れた。タキオンは、先程よりもまた、元気を蘇らせて、田上の膝の上に座った。そして、二人とも黙したまま見つめ合うと、タキオンは首を傾げた。田上の表情が、普段よりも元気が無さそうに見える。――悩みでもあるのだろうか?そう思いつつも、タキオンの方も正面切って口を開くのが億劫の様に感じられたので、ただ見つめ合ったままでいた。田上の方は、先程のマテリアルとの話を脳裏に渦巻かせていて、これをタキオンに打ち明けるべきか否かを考えていたばかりに、口を開けていなかった。結局は、幾分元気なタキオンの方が、田上にこう言った。

「不動産の方に電話をかけるんじゃなかったのかい?」

「ああ、そうだった」と田上は気の無さそうに言った。そして、タキオンに「そこのスマホを取って」と注文したので、タキオンは、すぐ背後にある田上の机の上からスマホを取って「はい」と渡した。スマホを受け取る時の手も、元気が無さそうだったし、田上がスマホを見つめて電話を掛けようとしてからも、スマホを見つめたまま、固まって動かなくなったので、遂にタキオンは聞いた。

「何か悩みでもできたのかい?」

「ん?…んー…、別に、……あんまり言うのもねぇ…」

「何かあるのかい?」

「んー…、……別にねぇ…。言うべきことかと言われると」

 そこでマテリアルが「言っちゃったほうがいいんじゃないですか?」と口を挟んだ。これに、タキオンはいつもの様にイラッとしたが、今回は話の流れとして都合が良いので、無視せずに同調した。

「マテリアル君もこう言っているよ?…君たち二人で何か話してたのかな?」

「いや、……そういうわけじゃないんだけどね…」

「言ってみたまえよ。隠し事は無しだよ?」

「隠し事…ってわけでも…無いような気がするんだけどねぇ…」

「なら言いたまえよ」

「んー、……どうも…んー」

 田上がどうしても話そうとしないので、タキオンも、田上の頬を少し引っ張ると、微笑みながら言った。

「言いたまえよ。何がそんなに言いにくいんだい?私が怒る様な事だったりするのかい?」

「まぁ、…怒ったり怒らなかったり…。言いにくいんだよね…」

「言葉にしづらいのかい?」

 タキオンがそう言うと、またマテリアルが口を挟んできた。

「私が言っても良いですか?」

 これには、タキオンも、多少顔をしかめながら、マテリアルの方を振り向いた。ただ、このまま田上と、うだうだ中身の無い話をしたところで、何も話が進まなさそうだったので、タキオンは仕方なく「言ってみたまえ」と言った。マテリアルは、田上の方に了承を取るようにアイコンタクトを送った。田上は特に嫌そうな顔もせずに、ただ事の成り行きを眺めるようにマテリアルの方を見ていたので、マテリアルは口を開いた。

「田上トレーナー、タキオンさんの扱いに困っていたようなんです」

「…私の?」と言いつつタキオンは田上の顔を見た。田上は、一瞬目を合わせた後に、横に目を逸らした。タキオンは、少しの間その顔を見つめ続けていたが、やがて、振り返ると「それで?」と聞いた。

「それで、…田上トレーナーからその事について相談を持ち掛けられまして、――タキオンが俺の話を聞いてくれないからどうしよう、と」

 タキオンは、そこでまた田上の顔を見た。今度は、俯いてタキオンの方を見ようとはしていなかった。

「うん、まぁ、自覚が無い事はない」

「そうでしょう。まぁ、だから、私は田上トレーナーに――エスコートして差し上げては?と提案したんです。タキオンさんも女ですから、男の人に頼りたいってものはあるでしょう?」

 そう言われると、タキオンはマテリアルを睨みつけて言った。

「勝手に人の心を想像して、圭一君を困らせないでほしいね。こっちは満足してるんだ」

 すると、マテリアルはタキオンを苛立たせるような満足げな表情を取って言い返した。

「ふーん。満足ならいいんですよ、満足なら。どうぞ、不動産の方に電話して、二人で仲良くやってみてください」

 タキオンはもっと何か言い返したかったが、これ以上やると彼氏の前でみっともない口喧嘩にまで発展しそうだったので、その衝動は押し殺した。その代わりに、田上の方を向くと言った。

「特に心配しなくていいよ。多分、君は昨日の事を言っているんだろうけど、あれは一過性の出来事だから、もう大丈夫だよ。君の言う事もちゃんと聞いてるよ?」

「…昨日だけの事じゃないよ」

 田上は悲し気な目つきをしながら言った。タキオンも、今の話には無理矢理蓋をして、終わらせようとしていた所だったから、その返事を聞くと、田上と同じような悲しげな顔をして、目を見つめ合わせた。二人は、少しの間黙って目を見つめ合わせていたが、やがて、田上が大きく目を開くと、気を取り直すように、指先でタキオンの頬にそっと触れ、首を抱き寄せた。タキオンは、初め、キスでもされるものと思って目を瞑ったが、残念ながらキスではなく、ただ単に肩の方に抱き寄せられただけだった。タキオンは多少がっかりしたが、今は、文句を言って、田上とキスをし直すという元気もないので、その位置に収まってじっとしていた。田上は、手にあったスマホをいじると、そのまま不動産への電話を始めた。どうやら事は順調だったようだ。タキオンが気を引く様に、田上の首に鼻を擦りつけても、田上は反応を全く見せずに、冷静に、不動産会社の人と話をしていた。土曜の昼二時半から。その様に言っているのが聞こえて、タキオンはじっとしながらも少しの嬉しさが胸に込み上げてくるのを感じた。

 田上が電話を切ると、タキオンは嬉しそうな微笑み顔を上げて「やったね」と静かに言った。田上も同じような微笑みを作りながら「やったよ」と静かに言い返した。それから、唐突に、タキオンはキスをしようとしたが、これは体勢の関係上、体を伸ばしてもぎりぎり田上の唇まで届かなかった。その為に、タキオンは諦めて、また田上の肩に頭を預ける事にした。

 田上は、タキオンがキスをしようとしていたのを分かっていながらも、諦めたタキオンに何かしてやれることができず、ただ、タキオンの太ももの上に、スマホを持った手を放っておくしかできなかった。

 この時の二人の頭の中にあった事柄は、先程の話の続きだった。田上がエスコートするとか、タキオンが話を聞かないだとか、そんな事が二人の頭を交互にぐるぐる回って取り巻いていた。二人共、次に出てくる言葉がどういったものなのか予想しようとしていた。果たして、マテリアルが話し出すのか、タキオンが話し出すのか、田上が話し出すのか。マテリアルが話し出した場合の予想は容易だったが、お互いのどちらかが話し出す場合は、どんな言葉が発せられるのか分からなかった。自分が声を出すのは半分あり得ないとしつつも、どうしても何も起こらなかったときの為に、自分が話し出すべき言葉も予想していた。しかし、予想するだけでは何も起こらなかった。ただ、互いの息遣いの音を聴いているだけだった。マテリアルから話し出してくれた方が、二人にとってもありがたい事の様に思えたが、マテリアルが話し始めたら、それはそれで、部外者に介入されたような不満が、じんわりと残るような気がした。

 タキオンは、その内に、自分が話し出そうか、と思った。田上は、話すつもりはなかった。タキオンも田上がこのような態度の人間であることを知っていたから、自分が話し出そうとピクリと手を動かした。しかし、その途端に『エスコート』という単語が頭の中に浮かび上がってきた。その単語を思い出すと、ここで話し出すべきなのは田上のような気がした。タキオンがやると元も子もないだろうというよりかは、田上は今ここで動き出そうとしているんじゃなかろうか?その動きを私は阻害しようとしているんじゃなかろうか、という思いだった。当然、今の田上にその様な思いはなかったが、そう思ってしまうと、今膨らみかけてきた思いが萎んで、田上に話しかける勇気がなくなってしまった。その為にこの部屋には長い沈黙が漂った。

 タキオンは、このまま一言も発さないで教室に戻るのは嫌だった。せめて、キスを一瞬だけでもいいからしておきたい。そのような思いはあったが、この状況を自分にはどうにもできないだろうという想像が、身に染みて感じられると、タキオンはそれだけでやる気がなくなった。タキオンは、鬱のような身動きの取れないもどかしさに苛まれ、寄り掛かっている彼氏の肩の骨を、肌に感じた。

 

 やがて、三時間目のチャイムが鳴った。タキオンは重い体を上げて田上の顔を見た。田上も見つめ返してきていたが、その顔は彼らしく悩み深げだった。タキオンはその顔にキスをしてから授業に出ようかと考えたが、見つめているうちに、その勇気は再び萎んでいった。遂に、タキオンはキスをしないままにため息を吐くと、「行ってくるよ」と言って田上の膝から降りて扉の方へ行った。田上は一度「いってらっしゃい」と擦れた声で言ったのだが、タキオンが、ドアを開けようとしたところで、その後ろ姿を呼び止めた。タキオンは、振り返ったまま彼氏の顔を見た。彼氏は、暫く迷ったように目を泳がせた後、こう言った。

「辛いんだったら、授業には出なくてもいいよ」

 意外な言葉だったので、タキオンは一瞬固まった。それから迷った。これまでの田上の言動の違いから田上の本人の心の揺らぎを見て、果たしてこの揺らぎを信用しても良いものかと迷った。タキオンは、暫く自分の手が掛けられているドアの取っ手と、田上とを見比べて、どちらを取ろうか迷っていたが、やがて、表情に少し安心したような笑みを浮かばせると、「君もどうにも妙な人間だな」と言って、先程よりも確かな足取りで、田上の下へと向かった。それから、タキオンは田上の膝に座って、首に抱き着くと、耳元でこう言った。

「これからも授業に出なくてもいいのかな?」

「…俺はそう言ったものの、先に何があるのか分からない。高校を卒業しないで中退したら、就職するときに仕事の幅が狭くなるだろうしね」

「君の隣に永久就職だから問題ないよ」

「問題ないならそれでいい。想像ってのは、…何の為にあるんだろう?」

「君との生活を楽しむためだよ」

「…自分に都合の良い事だけを考えてもいいもんなのかな?」

「色々と考えすぎると、行きつく先は鬱じゃないかな?」

「…俺は、…お前の将来が心配だよ…」

「君の隣に永久就職だが?」

「それで問題が無いんだったらそれでいいんだよ。…問題は、あった場合だよ」

「どんな場合だい?…これが想像だろ?」

 そう言いながら、タキオンは、田上の前へ体を起こして、顔を見つめた。田上は、そのタキオンの顔を見ながら言った。

「……俺が職を失った場合」

「君、学歴は良いんだから、すぐに再就職できるよ」

「職の失い方も問題だ。何か…お前との関係が世間で炎上してしまったら?顔は割れてるし、アグネスタキオンはトップレベルのアスリートなんだから」

「それにしたってね。二人合わせれば貯金もいくらかあるだろうし、なんなら、私のおじいちゃんの伝手を頼ろう。コネだ。コネ。そのコネで就職できる」

「コネって言っても…ねぇ。…おじいちゃんもそう簡単じゃないんじゃないか?」

「いやぁ、やってくれるよ。孫夫婦が困っているんだ。それに、世間でバッシングされる事と言えば、『付き合っている』という事だ。飲酒運転で捕まれば、そりゃあ、君も、私から延々とお説教を聞かされなきゃいけないが、付き合っているという事だけで世間からバッシングされるんだったら、おじいちゃんも目はかけてくれるはずだ。あんまりにも孫夫婦が可哀想だろう?世間から存在そのものを否定されるんだから」

「んー…」と田上は難しそうな顔をして、納得行かなそうに唸った。そんな彼氏の顔を微笑んで撫でながら、タキオンは言った。

「君は何が恐ろしいんだい?」

「恐ろしい?」

「私は君から離れないよ?」

「…それは、…分かってる…」

「本当に分かっているのかな?私が君の元から離れていく想像なんかしていないかい?」

「……だから、想像って何のためにあるんだろう?って言った」

「私との生活を楽しむ為だよ」

「宗教って何の為にあるの?」

「多少なりとも救われるためじゃないか?」

「じゃあ、想像と宗教の違いは?神に祈れば何とかなると信じても良いのか?」

「…想像は…、難しい事を聞くね…。宗教については、成り立ちは様々だろう。人間皆死ぬ事が怖いのはそうかもしれないが、仏教だったり、ヒンドゥー教だったり、キリスト教だったり、イスラム教だったり。信じるものは人それぞれじゃないか?」

「想像は?」

「想像?…想像と宗教に、君が、どのような繋がりを感じているのかが分からないな」

「……神が居れば上手く行くって考えている所に、想像力はないだろ?」

「ふむ」

「…想像ってのは現実を見る事じゃないのか?」

「しかし、君は寺で葬式をするだろ?故人を偲ぶだろ?」

「まぁ、そうだね」

「カフェは幽霊は居るという。そして、実際に。私たちは何の力もなく物が宙に浮かぶ様を見ている。このような物を信じてみるのもアリだろう」

「うん」

「君は何か物を想像するときに、理由が必要だと思うかい?」

「…要るんじゃないか?」

「私との生活を想像するのに何か理由が必要かい?性欲?女に対する性欲があるから君は私の傍に居るのかな?」

「…そういう場合もあるかもね」

「それじゃあ少しつまらないじゃないか。君は性欲から私を見ているのであって、私自身の事を見つめちゃいないじゃないか」

「じゃあ、何の為に傍に居るんだ?」

「それは君の心に聞いてみるといい。理性じゃなくて心に」

 それから、田上は、タキオンの肩を見つめながら、少しの間考えていたが、やがて、首を傾げながら言った。

「心?」

「心。君の心臓に聞いてみるといい。何が君の心臓を高鳴らせるか。…私だろ?」

「…性欲は?」

「そんなもの捨て去ってしまえばいい」

「…ない事はないだろ?」

「ない事はないだろうが、何も君は、性欲一つでこの世の中が回っているとも思っていないだろ?」

「案外あるかもしれない」

「なんでそんな事を言うんだい?あるわけないだろ?君だって、頭は良いんだからそんなことくらい分かるだろ?」

「あるかもしれないんじゃないか?」

「ないだろう?子供向けの特撮に君は性欲を感じるのかい?」

「ともすればあるのかもしれない」

「君は何もかも疑いすぎだよ。たまには私を信じてみてくれよ」

「……信じてない事はない」

「まぁ、…その言葉も分からなくもないがね。…私たちウマ娘が走るのに性欲が絡んでいると思うかい?」

「ともすれば」

 こう繰り返し言うと、流石にタキオンも苦笑して、田上もそれに釣られて笑ってしまった。

「もう君も疑り深い性格で困るよ」

「俺も困る」

「話がまとまらなくなってきたよ?」

「…もういいや…」

「私も何だかもう飽きたよ…」

 そう言うと、タキオンは、また、田上の体に身を預けて力を抜いた。

「君がこのままずっと私を許して、体を預けさせてくれていたら嬉しいんだけど…」

「仕事があるから、…まぁ、もう少しくらいはいいよ…」

「ありがとう、私の王子様…」とタキオンは静かに呟くように言った。田上はその言葉を聞くと、こそばゆさや、その言葉と自分との距離の遠さを感じたが、それにはあまり触れないで、それから一区切りつく時間の間、タキオンと田上は話し続けた。

 

 次の休み時間になると、アルトとハナミが訪ねてきた。二人共タキオンの事を心配して見に来ただけのようで、別に教室の連れ戻そうというつもりでもないようだった。二人は、長机の椅子に座っているタキオンを見ると、特に何の元気の無さを見つけられなかったので「な~んだ」と言った。タキオンは「失礼だな」と返したが、友人たちを強く追い払おうとはしなかった。ただ、田上と居る時よりも少し明るく振舞うと、友人たちを、なるべく刺々しくならないように追い払おうとした。そんな様子を見ながら、田上は――タキオンにも俺の知らない部分があるんだろうなぁ、という感想を抱いた。

 友人たちは、特に何の心配も抱かずに帰ったように思えた。少なくとも、タキオンはそう考えていたし、ハナミは実際そうだった。ただ、アルトは表情に出さないながらも、タキオンがここ最近弱っていることを知っていたので、果たして大丈夫なのだろうかと思いながら帰って行った。しかし、こういう付かず離れずの付き合い方をしている以上、踏み込むのはなんだかいけない事の様に思えたし、それに、タキオンには頼りになる大人の彼氏がいた。この人が居る以上、アルトが踏み込むのではなく、踏み込むべきは大人の彼氏の方だろう。実際、二人の仲の良さはアルトもある程度知ってはいたが、田上の方がどれだけ頼りになるのかは知らなかった。その為に心の中に心配を滲ませながらも、――田上トレーナーという相談できる相手が居るんだから大丈夫、と自分の心に言い聞かせて、その場を後にした。

 二人が帰ると、タキオンと田上は目を見つめ合わせた。タキオンの表情は、心なしか暗くなって田上を見ていた。田上は、――俺がこんな表情をさせているのだろうか?と思い、少し申し訳なくなった。ただ、タキオンの顔には微笑が浮かんでいて、田上の方に近づきながら「うるさい人たちだったね」と幾らか平気そうに言った。田上は、心の中で色々な事を考えながらも、僅かな笑みを浮かべて頷いた。その彼氏の表情の取り方に、タキオンは覚えがあったから、不図立ち止まるとこう言った。

「後ろめたいのかい?」

「……俺よりももっと良い人間は居るよ」

「それじゃあ、生きていること自体後ろめたいのかい?」

「場合によれば」と田上は返答を濁した。タキオンは、目を細めてそう言った田上の顔を見つめていたが、やがて、また、歩き出すと田上の膝に座って、首に抱き着いた。

「私が抱き着いている事に、君が喜んでくれればいいんだけど」

「…喜ぶ…」と田上はオウム返しに呟いた。

「そう。君は片思いをし続けてきたわけだから、その状況の時の自分から見れば、今の状況はこの上ない事だと思わないかい?」

「残念ながら、俺は、お前の事が好きであっても、付き合いたいとは思っていなかった」

「じゃあ、素直にこんな状況を喜ぶべきだ。君を好きになってくれる女性なんて、この先現れないかもしれないぞ?」

「それは失礼じゃないか?」

「君と私との仲になれば、失礼でも良いもんだよ。君を好きになってくれる人なんて、私以外に居ないぞ?この、この上ない幸運を君も感じたまえよ。私だって、私のような人物を好きになってくれる人なんて、そうそう居ないもんだと考えている。少なくとも、君くらいに好きになって、一生懸命に私の事を考えてくれる人なんて、今後二度と現れないと言っても過言じゃないだろう」

「考えてるかな?」

「そりゃあ考えてるよ。二時間目の休み時間の時も、私の将来が心配だと言っていたじゃないか。私の将来が心配なばっかりに、エスコートできない自分を私から引き剥がそうとしている」

「それじゃあ、考えていないんじゃないか?」

「考えているだろ?」とタキオンが、田上の言い分が分からなさそうに、眉をひそめながら言った。

「考えてないよ。…思いやりがない」

「じゃあ考えているじゃないか。君は自分なりの思いやりをもって、私から離れようとしてくれている」

「それはお前の事を考えているというのか?」

「考えているだろう?確かに私の嫌がる事ではあるが、私の将来を思って身を引こうとしている」

「嫌がるって言うのは、タキオンに対して思いやりが無いって事じゃないのか?」

「思いやりなんて都合の良い方便だよ。人間が思いやりで構成されているのかと言えば、そうじゃない」

「…でも、…お前は、――愛とは相手を思いやる心だ、とか言ってなかったか?」

「ああ…、そう言えば言っていたね。…愛も方便かな…」

 タキオンは、田上からの思いがけない反論に、少し窮してしまった。そして、田上の複雑そうな顔を見ると、また少し弱り、田上の首に抱き着き直して言った。

「ああ…、行かないでほしい…」

「…行かないよ…」と言いながら、田上は、自分の心の複雑さに少量の憤りを感じ、タキオンの背を優しく撫でた。

 

 時間はゆっくりとしつつも、幾つもの流れを複雑に組み合わせた川の様に流れていった。タキオンはそれ以降は授業に出なかった。また、田上からも最低限しか離れようとしなかった。田上が仕事をしたいと言えば、できるだけ仕事をしやすいように譲歩しつつも、田上の体にしがみ付く事だけはやめなかった。マテリアルは、その光景にまたうんざりとした。田上もそれを感じ取った。その為に自分の悩みは深まっていったと言っても過言ではなかった。チームを取るか、タキオン個人を取るか。仕事を取るか、タキオンを取るか。自分を取るか、タキオンを取るか。その様な悩みが二人の周りをぐるぐると取り巻き、中でも、チームとの兼ね合いは田上の苦心するところだった。自分を変えればいいのか、チームを変えればいいのか、タキオンを変えればいいのか。チームの有様は少し変わったように思う。まだ、マテリアルとリリックが、タキオンに寛容になったのか、それとも、マテリアルとリリックがタキオンに呆れたのか。田上としては、皆皆仲が良いチームが良かった。全員で肩を組めれば最高だろう。全員で勝利を祝い、敗北を励まし合えれば、この上ないチームだろう。その様な理想を体現したいにも関わらず、立ちはだかる障壁は多かった。田上は、少しこの理想を見つめ直すべきかもしれないと思い、七、八人のウマ娘を抱えているチームに所属している友達の田中に連絡をとってみようと思った。

 

 タキオンが、どうにも田上から四六時中離れようとしないので、田上はトレーニング終わりに座るいつものベンチで、タキオンに断りを入れざるを得なかった。風呂に入った直後の、まだ、タキオンからの連絡を無視しても良いかもしれない時間に、田中へ連絡を取る。もしくは、田中の寮部屋のドアを叩いて普通に話すという選択肢はあったが、田上はどうも対面して話すのが面倒だというのと、前者は普通に念頭になかったのとで、田上は今わざわざタキオンに断りを入れた。そして、わざわざタキオンに断りを入れたことによって、自分が田中と何を話すのかを問われることとなった。

 咄嗟の嘘が苦手だった田上は、当然言葉に詰まった。ここで、「田中のチームはどんな感じなのかを話す」と答えても、察しの良いタキオンには角が立つだろう。チームの問題の渦中にいるのは大概タキオンと田上だ。そして、タキオンもその自覚があると言っていた。ここで、チームの話題を出すのもどうかと思えたが、上手く嘘を吐くのも難しそうだったので、ここは仕方なく「ちょっと友達にチームの事を色々と聞こうと思ってな」と答えた。そして、案の定タキオンは少し顔を曇らせた。それから、少し迷った後に「私、やっぱりダメかい?」と聞いた。田上もこの返答に迷いつつもこう言った。

「ダメとかじゃない。ただ、…なんかもう少し住みやすいというか、…お前と俺とマテリアルさんとリリーさん、そしてこれからスカウトして入ってくる子と、折り合いのいいチームが作れないかと思ってね。…友達の田中、前に一緒にバドミントンをした事がある人。あの人が、大きめのチームの補佐をしてるから、そいつに聞けば、もう少し良いチームの在り方が分かるんじゃないかなぁと思って」

「…成程…」

 タキオンは、それ以降の言葉を続けそうな気配がなかったので、田上はタキオンに「良いかな?」と再度了承を取りつつ、メッセージを田中の方に送った。別に、電話のような物でもないので、タキオンと相談しながら送った。

「何て送ろう?」と田上は聞いた。

「聞きたい事があるんだろ?」とタキオンが、少しだけ気分が落ちてしまったような表情を取って言った。

「まぁ、聞きたい事はあるんだけど、…。今更だけど、電話の方が良いのかなぁ?」

「君のしたいようにすればいい」

「…じゃあ、とりあえず、なんかメッセージを送っておくか」

 そう言うと、田上はスマホの画面をポチポチと触り始めた。

『本日はお日柄も良く…』

 そのような調子で始めたのは、特に二人の間に礼儀が必要なわけではなく、ただ田上が話し出しの言葉に困ってしまって、冗談で話し出しを有耶無耶にしようとしただけだった。しかし、結局、ベンチに居る間に田中から返信が来ることはなかった。――きっと仕事が忙しいのだろう、と適当に見当をつけると、田上は、タキオンと二人でベンチの上でのんびりとした。

 緩やかな五月の温かみを帯びた風を感じると、トレーナー室に居た時よりかは、幾らか気分が良くなった。――やっぱり、室内に籠ってるだけだとダメだろうなぁ、と思いながら、田上は、タキオンの膝枕の上に頭をのせて、ベンチの上に寝転がっていた。

 

 田中と偶然相見えたのは、大浴場の湯船に使っている時だった。田中の方から声を掛けてきたのだが、特に連絡を見たからというわけではなさそうだった。ただ単に、田上の姿を見たから声を掛けてきたというだけだった。田上は、いつ話を切り出そうかと思いながら、田中と話していた。その内に、もう湯から上がりそうな雰囲気になったので、ここしかないと思った田上は漸く口を開いた。

「田中のチームってどう?」

「どう?」

 急に改まった口調で話しかけられた田中は、半笑いになりながら聞き返した。田上は、このような返しをされると、少々困ってしまう性質だったので、眉を困ったように寄せながらも少し考えてから言った。

「いや、…お前のチームってどんな感じなのかなぁと思って」

「何?あの美人の補佐さんと何かあったりしたの?」

「いや、違うよ。…まぁ、隠してもしょうがないだろうから言うけど、…タキオンがね…どうしようかなぁって…」

 田上がそう言うと、田中の目もきらりと閃いた。しかし、すぐには口を開かないで、少し含みのある表情をしながら声を低めて言った。

「俺、噂を聞いたんだけどさ…」

 この話し出しから田上には、田中が何を言おうとしているのか容易に察しができた。大方、田上とタキオンが付き合っているという噂だろう。しかし、その内容をここで話すのもどうかと思われたから、すぐさま田上は遮った。

「その噂はここで言うのは少し危ないかもしれないな」

 そして、またもや田中の目はきらりと閃き、言った。

「なら、上がろうぜ。結構長話してたから俺ものぼせる」

「俺ものぼせる」

 田上はそう言いながら立ち上がった。

 

 風呂から上がると、田中が「折角だからゲーム機持ち寄って喋ろうぜ」と言ったので、田上も一度部屋に戻って、ゲーム機とスマホを取ってから、田中の部屋に行った。スマホにはタキオンからのメッセージが何通か届いていた。田中と話して長湯をしていたのでタキオンを待たせてしまった形になったのだろう。田上は、これに申し訳ないと思いながらも、放置して、スマホを持っていくだけにした。すると、これが、丁度田中の部屋をノックした時に鳴り始めたから困った。これを放置しておけば、その内どこそこに迷惑をかける結果になるかもしれないので、田上は仕方なく部屋に入りながら、田中に断って電話に出た。電話に出ると、開口一番タキオンが言った。

「今日は長湯だったね」

 決して穏やかとは言えない口調ながらも、怒って大きな声を出すという事もなかったので、田上は少しほっとした。

「ちょっとね。…今日のベンチで話しただろ?田中に連絡取っても、その後全然連絡が帰ってこなかったじゃん」

 田上がそう言うと、部屋の机の前でスマホをいじっていた田中が、「あ、ホントだ」と呟くのが聞こえた。田上はそれを無視して話を続けた。

「それで、大浴場の方に入ってたら、偶々田中と会ったんだよ」

「ふぅん?それじゃあ、色々聞けたのかい?」

「いや、今から聞くところ。だから…」

「ええー?私との電話は?」

「ちょっと後回しかなぁ、と」

「待ってたのに」

「そんなに時間は掛からないよ」

「どのくらい話す?八時四十分ごろまでには戻れるかい?」

「それは…、どうだろうね?事によると、話が長引くかもしれない」

「待ってたのに」とタキオンは、再度恨みがましく言った。

「それはもうごめん」

「どうせ、私のメッセージも無視して話そうとしてたんだろ?」

「それは、…そうかもしれない」

「…正直なのは君の良い所だ」

「嘘も吐くよ」

「平気で嘘を吐くような男じゃないからね。…じゃあ、八時四十分?」

「善処はする」

「分かってるね?八時四十分を過ぎたら、十秒毎に私の顔を思い出したまえ。そして、早く戻って彼女を喜ばせたいと思うんだ」

「重々承知しております」

「分かったなら良し。彼女の為に早く帰ってきたまえ」

「オッケーです」と答えながら、田上は電話を切った。そして、隣を見ると、田中がスマホを見つめてニヤニヤとしていた。どうやら、ニヤニヤしているのはスマホの画面が理由ではなく、田上と電話口の相手の会話のようだった。

「彼女ですか?」と田中は、電話の終わった田上に聞いた。田上は、首を縦に振るか横に振るか迷ったが、どちらもしない代わりに、「お前が聞いた噂って何?」と聞き返した。すると、田中はこれまたニヤニヤしながら言った。

「うーん、…今の電話の相手は彼女って事でいいの?」

「……まぁ、そうかもね」

「ふふふ…。 俺が聞いた噂はね、田上トレーナーとアグネスさんが…付き合ってるって、噂なんだけど」

 これに田上は返答しかねる微妙な表情を見せたが、その後にこう言った。

「俺と女子高生が付き合ってたら変か?」

「いやいや、全然大丈夫。むしろ、お前が付き合ってるって事が面白い。別にダメだとは思わない。全然ね。…で、実際の所は?」

「…まぁ、…本当だ」

「じゃあ今の電話も?」

「タキオンから」

 すると、田中は調子の良さそうな口笛をヒューイと吹いた。

「いや、凄いね。案外お前も度胸あるんだな?」

「俺は、その付き合ってるって事で、お前に相談があってきたんだよ」

「ふむ」と田中が少し表情を引き締めて返事をした。

「…お前の所のチームってどんなもん?…ウマ娘の子の仲の良さって、やっぱりばらつきがあったりする?」

「まぁ、…ない事はないね。俺、日によって変わったりするけど、大体二人の面倒を見る事を指示されてるのよ。それで、…年齢によっても仲の良さの違いがあったりするしねぇ…」

「やっぱり、中等部と高等部じゃ駄目かな?」

「ん~、…いや、やっぱり、その人本人の相性もあったりするよ。面倒見の良い子とかだったら、中等部でも結構気軽に話しかけたりするしね。…こればっかりは、…仲の悪いのを無理にくっつけようとしても無駄だと思うけどねぇ…」

「そうか…」

 そう返事をしてから、田上は暫く考え込み、その後に言った。

「…やっぱり、俺のチームのタキオンと中等部の子もあんまり反りが合って無いような気がするんだけど…、無理にくっ付けるのは駄目か…」

「まぁ、無理はあんまり良くないよ、無理は。うちのトレーナーも、無理が在りそうな子たちはあんまりくっつけないようにしてる」

「そうか……。ただね、…タキオンの方がねぇ…」

「彼女がどうかした?」と田中は、真面目な顔から、すぐさまからかうようなニヤニヤ顔に切り替えて言った。

「…あいつが…、まぁいいか。マテリアルさんが居るし。…うん。分かった。追い追い考えるわ」

 そう言って田上がすっくと立ち上がると、田中が「あれ?ゲームは?」と聞いた。それに田上は、少しの照れを滲ませた微笑みを作って言った。

「タキオンに早く帰ってきて電話しろって言われてるから」

「まさか、それ毎日やってたりするの?」

 それに田上は微笑みながら頷くと、「じゃあ。ありがとう」と言って、部屋から出て行った。田中は、「彼女がいる奴は、誰かの為にやる事があって良いな」と言いながら田上を見送った。その後に、田上は田中に口止めをしていなかった事を思い出して、慌てて田中の部屋の方に戻ると、出てきた田中に「他の奴らには言うなよ?」と念押ししておいた。あんまり人の約束を破るやつでもないだろうし、これで大丈夫だろうと思った。

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