ケロイド   作:石花漱一

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三十二、マンハッタンカフェ⑧

 部屋に戻ると、田上はベッドに寝転がりながら、早速、タキオンの方に電話を掛けた。時刻は八時四十分の数分前だった。田上も案外話が首尾よく進んだので、しめしめと思いながら電話を掛けたが、一度タキオンを待たせたという事実があるので、タキオンの機嫌はそう簡単には直っていなかった。

「八時三十七分…」と電話に出てきたタキオンは言った。

「時刻は守れているが、やっぱり私を待たせていながらも田中君と話した罪は重いねぇ…」

「ええ?守ったのに?」

「その前に無視しようとしたんだ。その罪は重いよ。君は今、執行猶予付きだぞ」

「次、罪を犯したら?」

「その時は私が君の家で同棲をするしかないね」

「それは、…まぁ、気をつけないとな…」

「…今の返事が気に入らなかったから、もう刑を執行しようかな?」

「ええ?」

「冗談だ。 それにしても……、話は順調だったのかな?」

 今まで快活だった口調を少し落として、タキオンは聞いた。

「まぁ、それになりに」と田上も返事をした。

「……私の事はどうしたいんだい?」

「…田中は、無理にくっつけるのも良くないって言ってた。まぁ、良くないと思う。それに、田中のチームも折り合いの良くない子達はそんなにくっつけてないらしい」

「それで?」

「…まぁ、俺も無理にくっつけるのは良くないと思う。…思うんだけどねぇ…」

「だけど?」

「……お前の態度は、むしろ俺とリリーさんを引き剥がそうとしてるだろ?」

「まぁ、悪く言えばそうなるだろうね」とタキオンは他人事のように返事をした。

「…うん。……お前ともう少し上手く付き合えたらなぁ、と思うんだよ」

「…………どうする?」

「ん?」

「…私…、…私、……許してくれるかい?」

「俺は初めから怒ってないよ。ただ…、お前とこれからも上手く付き合っていきたいと思ってるから、…そして、その上でチームとも上手く付き合いたいと思っているから、今回田中に相談したんだよ。 だから、ちゃんとお前は俺の彼女だよ。田中は、俺とお前が付き合ってるって言っても全然否定はしなかったよ。俺が付き合っているという事が面白いとは言われたけど」

「……言ったんだね」

「言ったよ。あれを相談するには、タキオンと付き合ってるって事を言った方が早いと思ったし、田中自体も噂は聞いてたみたいだからね。聞かれたら隠すのもなんだろうと思って、言った」

「…正直者だね」

「正直で彼女と上手く付き合っていけるんだったら、いつまでも正直でいてやるよ」

「じゃあ、彼女の為に、偶には嘘も吐いてやったほうが良いのかな?」

「どうだろうね?…お前、察しは良いから、俺が嘘吐いても大体見破れると思うよ」

「君も嘘を吐くのが下手だからね。すぐに動揺するし」

「まぁ、得意だとは思ってないよ」

「そうだろう?…私の事好きかい?」

「好きだよ」

 田上がそう答えると、暫くの沈黙の後にタキオンがため息を吐くのが、電話の向こうから聞こえた。

「私…、私、…いつからこうなったのかねぇ…。もっと君と笑いながら上手く行く生活を想像してたよ」

「立場がこんがらがってたからな…。仕方ないよ」

「本当に。…良かったことと言えば、君と相思相愛だったということくらいだよ」

「もうすぐ、休日だけは泊まりに行けるよ」

「…そう言えば、思ったんだが…」

「うん」

「…金曜の夕方…。休日に泊まりに行くとすれば、金曜の夕方…まぁ、君と一緒に電車に乗って帰るわけだ」

「うん」と心持ち動揺しながら田上が頷いた。

「すると、…帰る時は、…君と月曜の朝の電車に乗って朝帰りかな?」

「ああ…。どうだろうね?」

「アリかな?」

「…いや、違う違う。騙されるところだった。土曜にはトレーニングがあるよ」

「いや、それには私も言い返せる。土曜にトレーニングがあったって問題あるまい。君と一緒に行けばいいんだから」

「その理論だと、授業にだって、俺と一緒に行けばいいんだから問題あるまいとなるよ?」

「それも良いだろう。あくまでも持ち物は寮にあるが、生活は君と共にするという事だね?」

「それは一線」

「まぁ、それは分かってる。金曜の午後からくらいは良いだろ?同棲じゃないんだから。休日に君の家に遊びに行くだけなんだから」

「ん~…」

「私は君の言う一線はしっかりと守っているよ?何も悪い事はしていない。それなら、返事はイエスしかないんじゃないかな?」

「ん~…、まぁ、断る理由もないか」

「君も私と泊まるのは楽しみだろ?」

「まぁ、そうだね」

「まぁ、なんて言わないで、はっきり、楽しみと言いたまえよ」

「楽しみだよ。楽しみじゃないなんて一言も言ってない」

「…今のはあんまり良くなかったかな?」

「何が?」

「…押しつけがましいというか、…面倒というか…。 私、君にとって面倒な女かなぁ?」

 タキオンは、少々弱弱しくなった声を出して聞いた。田上が、それに答えかねていると、またタキオンが口を開いた。

「面倒な女だろうね…。この上なく面倒だよ…。君はまた、豪いのに捕まったね」

「お前を豪いのだなんて思ってないよ。元々好きだったんだから」

「君もどうかしてるよ…。私って、本当に恵まれてるじゃないか…。君のような男に惚れられて…」

「それを言うんだったら、俺も恵まれてる。お前みたいな人に好かれるのは、前世でよっぽど徳を積まないといけなかったんだろうね」

「君は現世でもよっぽど徳を積んでるよ。私みたいな女を好きだと言ってくれる」

「それは、好きになるべき物をお前が備えているからね」

「いやぁ、私なんてもう…面倒だろ?君は面倒だったから、友人に相談したんだろ?」

「面倒じゃないよ」

 その言葉の後に、田上が続けて言おうとしたのだが、それはタキオンが遮った。

「いや、面倒だよ。君が一つにしたいチームを敢えて崩しているんだから」

「じゃあ、面倒は今面倒じゃなくなった。タキオンはそのままでいい。チームは二つ。マテリアルさんと俺で何とかなる」

「…マテリアル君も、…嫌だなぁ…。…君に面倒な女だって思われたくないなぁ」

「それに関しては、もう手遅れだよ。出会った当初から面倒な女だった」

「……そんなに面倒だったかな?」

「面倒だよ?俺の他に担当にお弁当作っていく奴なんて、多分いないよ」

「可愛い彼女にお弁当を作るのが面倒なのかい?」

「その時は彼女じゃない。…まぁ、弁当は朝起きるってこと以外は苦もなくできたから。あと、お前時々研究室で一晩を過ごすから、こっちは気が気じゃないし、トレーニングも行くと言ってて普通にサボるし」

「それはすまなかった。…そこからどうやって私を好きになったんだい?」

「それは、……お前と一緒に会話とかをしていくにつれて、思ったよりもできる人間だったし、モルモット君と言いつつも健康は気遣ってくれていたしね」

「…モルモットが健康じゃないと、正確なデータが測れないだろう?」

「普通に優しさもあると思ったけどね。実際、こうなってからも俺に優しくしてくれているし」

「優しいかい?」

「優しいよ。分かるだろ?普通に俺が困ってたら、アドバイスとかしてくれるし、手を差し伸べてくれる。これを優しいと言わずしてなんて言うんだ?」

「…優しいと言うんだろうね…」

「優しいよ」と田上がもう一度言うと、話は一旦そこで途切れた。それから、またタキオンが気を取り直して言った。

「私…、…君と暮らしたい…」

「そうだね…」

「社会人として生きている君は、また私とは違った世界が見えているのかもしれないけど、…私たちの周りには、なんでこんなに柵が多いんだろう?」

「…もしかしたら、…俺がただ生み出しているだけなのかもしれないね…」

「柵を?」

「…そう。…俺が言った事も結構多いだろ?」

「…でも、君が私と付き合いたくないと言った事も、年齢という柵があったわけだよ。それは、人によっても変わったかもしれないが、そういうのを総じて柵というんだ。君の心も柵の一つかもしれないが、何も柵は一つだけじゃない。私の心もその一つだし、原因も探せば幾らでもある」

「……なんで…上手く行かなかったんだろうね…」

「…十分上手く行ってる。私たちの理想が高すぎた。ここまで悩んでおいて、普通に暮らそうという方が…贅沢すぎるかもしれない」

「…結婚すると思ってもなかったけど、結婚するんだったら、もっと…普通の…、普通の…なんだろうね?普通の何かになると思ってた」

「私は…、普通に暮らしたいとは思っている。今、普通に暮らすのは贅沢すぎるかもしれないと言ったばかりだが、案外、…やってみたら普通に…暮らせない物かな?」

「…どうだろうね…」

「…私。…業が深いのかなぁ?…君と些細な事で笑って暮らせると思ってたんだけどなぁ…」

「些細な事でも笑えるよ」

「そりゃあ、笑えることには笑えるだろうが、…君は心のどこかにずっと罪を背負っているだろ?私は、その罪越しに私の事を見てほしくないんだよ。言ってもどうしようもない事は分かってる。君にとっちゃ、年下の女子高生と付き合うなんて、それまでの人生で考えたこともなかったことだと思うから。…どこかでその罪を清算できないものかな?…今のままだと、結婚生活にまでその罪が付き纏うような気がするんだよ」

「罪は一生物じゃないのか?」

「…そうとは思いたくないね。君もそんな事は思わないほうが良い。……アパートに越せば何か変わるかな?」

「…これは、チームの事に関して何だけど…」

「うん」

「スカウトしてもう一人入ってきたら、また何か変わるかな?と思ってたりするんだよ」

「うん」

「…なるべく、人当たりの良さそうな人をスカウトしたほうが良いのかな?」

「……私も、君の指導の対象だからね?他の人ばかり気にかけて、…私を疎かにしたらいけないよ?」

「うん」

「…何か、ここ最近その様なものを感じるんだよ。リリー君をトレーナーとして気にかけないといけないからって、私から目を引き剥がそうとしているだろ?まぁ、大切にしないといけないってのに気が付いたならいいが、…リリー君はあくまで担当であって、私はそれ以上の恋人なんだ。そして、それより前の苦楽を共にしてきた。リリー君以上の絆がある内は、私には、それ相応の視線を注がないといけないんだよ?」

「それは、俺も気を付けなきゃいけないと思った」

「…うん。…君も気が付いた事ではあるから、あんまり強く言うのも違うのだろうけど、…トレーナーとしての君に立ち戻った際に、今までの事を全て忘れてしまうのじゃないかと不安になってね…。悪い事をしたかな?」

「いや、…俺も分かってる事ではある。悪い事じゃない。タキオンの言いたい事も分かる。…トレーナーと…恋人と。その立場に立つ良い塩梅の場所を見つけないといけない。だから、もう少しフラフラするかもしれないけど、許してね」

「…許してもらうのは、むしろ私の方だね。私は、君の事を許さないなんてことは全くないから」

「俺だって全くないよ」

「…じゃあ、二人共許されない心配をする必要は全くないわけだ」

 そう言ったタキオンの声は冗談を言ってるようではあったが、田上にはその言葉にそれ以外の意味も含まれているように感じた。ただ、電話口であったので、その言葉の真意までは測ることができなかった。

 それから、二人はいつもの様に、堂々巡りの会話を順々に巡りながら、意味の無い囁きや討論を交わしていた。二人共それを分かっていながらも、抜け出す術を知らなかった。ただ、二人が寝る時になって、それが途切れるだけだった。

 

 この夜になると、マンハッタンカフェの方に変化が訪れた。夢に悪意、もといロードが現れたのだ。カフェは、初め真っ白になった世界に驚いたが、遠くの方に突っ立っている自分の影法師のような人影を見ると、ここが夢の中の世界だと察した。ロードは、遠くの方に突っ立ってニヤニヤしているように見えたが、一向にこちらの方に向かってくる気配はなかった。カフェからも近づく気はなかったので、その内にソファーが欲しいと考えた。すると、真っ白な世界の中に、カフェの休憩部屋のソファーがポンと現れた。カフェは、それが本物なのかどうか手触りで確認しながら、そのソファーに腰かけた。ロードはまだ動こうとはしない。まるで、彫刻のようにそこに突っ立っているままなので、カフェはそろそろこれが本当に彫刻なのではないかと怪しみ始めた。すると、今度はカフェの頭上にポンとトゥルースが現れた。これはどうやら自立して動いているようである。まさか、トゥルースがここに来れるものと思ってもいなかったので、カフェは不思議そうな顔をしながら「あなたは……?」と聞いた。トゥルースは、向こうのロードの方を一睨みした後、カフェの方を向くと言った。

「お前こそなんでここに居るんだ?」

「いつの間にか…」

「ここはあいつの作用でできた世界だぜ?」

「そうですか……。……それにしては居心地は良いですね…」

 トゥルースは、カフェから一歩身を引くような目つきで彼女を見た後、「じゃあ、俺はあっちで少し話してくる」と言って、空中をふわふわと漂いながら遠くのロードの所へと行った。カフェは、その間にコーヒーが欲しいと思ったので、ソファーの傍らにいつものコーヒーをポンと出すと、自分に最適な温度で出来上がったコーヒーをコーヒーカップに注いで飲んだ。

 どうやら、遠くに居たロードは彫刻ではなかったようだ。トゥルースが近づいてくると、いきなりその顔にパンチを当てた。それで、トゥルースが怒ってパンチをし返そうとすると、それをひょいと避けてそのまま走って行った。その走っている間も終始トゥルースの怒りを煽り続けていたので、トゥルースは顔を赤くさせて、空中を滑るように追いかけて行った。カフェはあんまり騒がしいのも嫌だったので、極力そちらの方に目を向けないようにしながら、この世界の事を考えた。

 トゥルースは「あいつの作用でできた」と言っていた。これは恐らく間違いがないと思う。カフェは度々こういう類の怪奇に会うから、今回も怪奇現象の類の一つだろうと分かる。怪奇の中には、夢によって自分に語り掛けてくるものがある。そういう時にはカフェも丁寧に話を聞いてあげたりするのだが、今回はどうやら違うようだ。この真っ白な世界はむしろ、自分に何かを作り出せ、と言っているようであった。カフェは、この世界に何が在ったらいいだろうか?と考えた。それから、上を見上げた。

――青空があったらいいな…。

 すると、上空一面に晴れやかな初夏を思わせる青空が広がった。

 今度は――芝が欲しいな、と思って、地面を見た。その後に青い芝が自分の足元一面に広がり、地平線まで行って青空を境目を共にした。カフェはそれに多少の満足を覚えながら地平線を見ていた。のんびりとした春の午後だった。その内に蝶がひらひらと舞ってきて、カフェの膝にとまってきたのでそれを微笑みながら見つめていた。すると、カフェのすぐ後ろの方でロードの声がした。

「春はいいよなぁ…」

 カフェは、驚きながら後ろを振り返り、ソファーに寄り掛かって同じ蝶を見ていたロードと目を合わせた。今は、夢の中だからロードの顔は鮮明に見え、その顔の具合が自分の幼い頃にそっくりなのを自覚した。それから、警戒しつつ「ええ…」と頷いた。ロードは、幼いカフェの顔をニヤリとさせると言った。

「世界が滅ぶときはどんな時だと思う?」

「……」

「地球温暖化かな?最近騒がれてる」

 そう言うと、ロードは姿を消して、今度は、カフェの前の方に現れた。

「それとも核戦争かな?冷戦の時代がまた始まるか?」

 そして、また消え、次はもっと間近で、カフェの膝にとまっている蝶を観察した。

「ある人はこう言うかもしれない。――人間が滅びるのは、長い時間をかけて進化した昆虫が殺虫剤を克服し、人間の住処を奪う」

 それから、ロードは蝶を見るのをやめ、カフェの顔を見上げた。

「それとも、巨大地震?火山の大噴火?地球温暖化は氷河期の前触れだった?やっぱり戦争かな?進化した蟻が人間を食い潰すのか?人間は退化し、知能を失う?宇宙人の侵略という手もある。高度な科学技術を持った宇宙人に我々人類は壊滅せしめられ、ただの家畜としてどこか遠い知らない星で生涯を全うするのだった…」

 ロードはニヤニヤとしながらカフェの顔を見た。カフェはそれを睨みながら見つめ返し、言った。

「何が言いたいんですか?」

「いやぁ、お前がよく考えている事、夢に見る事だよ。つい昨日も夢に見ていた」

「……趣味が悪いですね…」

「誉め言葉をありがとう。趣味が悪いのはそちらさんも同じで。もしかしたら、人類皆に滅んでほしいと思っているんじゃないかと思ってね」

 すると、唐突に横の方にトゥルースが現れて、切れ気味に言った。

「カフェはそんな事を思う子じゃない!余計な事を吹き込むなよ!」

「おや、保護者面したバカが出てきた。カフェはお前が大事に守るべき卵じゃないぞ?どこへでも羽ばたいて行ける可能性のある雛だ。それをお前が正しいと思う道へと向かわせてあげるべきじゃない」

「でも、お前が今やっている事はカフェを混乱させようとしているだけだ」

「そうだ。混乱させて何が悪い」

 そこで、カフェが口を挟んだ。

「この人の相手をしちゃだめです。混乱させたいんですから。そして、そういう夢を見る事もまた事実です。これが変わりようがありません。それから、その夢を見た後にどう行動するのかは私です。いつものようにコーヒーを一杯飲みます」

「いつものように」とロードはニヤニヤしながら繰り返した。その顔を、カフェは睨みながらも、ロードを退けて、近くの机からコーヒーカップを取り、それを一口飲んだ。

 

 コーヒーを一口飲むと、カフェは暫く空を眺めていた。すると、段々と空に陰りが見え始め、雲が徐々に勢力を増した。そして、数分程もすれば空は雲で覆われて、今度はぽつりぽつりと雨が降ってきた。――このままでは本降りになるだろう。そう思ったカフェは、次に雨を防げる場所が欲しいと思った。ただの自転車小屋のような屋根か、それとも、しっかりとしたレンガ造りの家か。

 そう思って空をぼーっと見つめ、顔に当たる小粒の雨を感じていたのだが、一向に屋根が現れる気配がなかった。自分の視界の目の前に、自転車小屋のような屋根、暖かい部屋が現れるような気がするのだが、それはしっかりとした実体を持った形にはならずに、ただ朧げにカフェの意識の中をふわふわとしているだけだった。その内に、カフェの視界の外から「ちゃんと思い描いていないからだよ。屋根が現れないのは」と言うロードの声が聞こえた。カフェはそれも無視して、ただどんよりとした空から降る雨を見つめていた。

 暫くすると、自分が座っていたソファーもそこから消えて、カフェの体は地面へと放り出された。カフェはたいして驚きもしなかった。意識は何か別の事を考えているようで驚きはしなかったが、一方で何も考えていないようでもあった。例えるならば、眠気に襲われていながらも起きている状態に近い物だ。しかし、それにしては自分は何か考えていた。その思考の実体が掴めない。そんな感覚だ。

 カフェは、泥に汚れた自分の背中のぐちゃぐちゃとした感覚を感じながら、風呂に入りたいと思った。すると、今度はそれが実体として現れ出た。広い風呂にただ一人の自分が居た。カフェはそれに少しの喜びを感じながら、冷えた体を暖かいお湯に浸からせた。その風呂には窓があり、内から外の雨降りを眺めることができた。――やっぱり、こっちのほうが良い、とカフェは心地良い湯に浸かり、外をしとしとと降る雨を見やりながら思った。特に、外に居る時に、雨が降りしきる中にいた方が良いと意識して考えていたわけではないのだが、不図カフェはそう思った。

 それから、一頻り湯を楽しんだ。自分の腕からさらさらと流れ落ちる水を掬っては流れ、掬っては流れる様を見て、そこに一種の喜びと平穏を感じた。それを暫く繰り返した後に、カフェはゆったりと湯に浸かりながら、隣で同じように湯に浸かっているロードに向かって言った。

「あなたは、湯に浸かって楽しいんですか?」

「まぁ、言っても湯なんてもんは、俺たちにとっちゃ微かにしか感じられないもんだからね」

 そう言って、ロードは立ち上がると、そのまま着るという動作もせずに衣を身に纏い、宙に浮き始めた。カフェは、それに呆れながら「体は拭かないんですか?」と聞いた。それに、ロードは得意気な顔をしながら言った。

「体が濡れるも濡れないも俺の自在よ。服を着るも着ないも俺の自在。指先一つでどうとでもなる」

「……湯にもう少し浸かってみてください」

「なぜ?」

「……命令です」

 カフェにそう言われると、ロードは含みのある目つきでカフェを見下した後に、何も言わずに服を脱いでお湯に浸かった。ロードは、これから何を言われるのか、という面持ちで、湯の気持ち良さも知らずに湯に浸かり続けていたのだが、カフェは黙ってお湯を掬ったり流したりして遊んだまま暫くの間は声をかけなかった。

 

 十数分してから、カフェはロードに話しかけた。

「ここからはいつ出られるんですか?」

「……出たいと思った時に出れるよ」

「そうですか……」

 そしてまた沈黙がある程度続いた後に、カフェが口を開いた。

「あなたはどこから来たんですか?」

「……言う必要は?」

「…ありません…」

 また暫くの沈黙の後、カフェが口を開く。

「あなたはこれからどうするおつもりですか?」

「……湯から上がる」

「……じゃあ、百秒数えてください…」

「…命令?」

「…命令です…」

 それだからロードは仕方なく、カフェの為に百秒を、適当に口が開くに任せて数えた。特に、風呂から早く上がりたいという意思もなかったため、長くしたり短くしたりして数えた。

 カフェは、百秒数え終わると、ロードに「そのまま服を着ないでこっちに来てください」と言った。どうやら、脱衣所に向かうようだった。これもまたしょうがないので、ロードは広いタイルの床の上に足を音をペタペタと響かせながら、カフェの後をついていった。

 脱衣所に着くと、案の定ロードはプラスチックのベンチに座らせられて、そこでもふもふとしたタオルでカフェに髪の水気を拭われ、体をしっかりと拭かれた。そして、軽い服を着せられると乾いた椅子に座らせられ、カフェはどこからともなくドライヤーを取り出した。それから、ロードの髪を丁寧に乾かしていった。ロードは心地の良い温かみに頭を支配されながら、頭をぼんやりぼんやりとさせて行った。それでも、不図気を取り戻すとこう言った。

「俺になんでこんなことを?」

「気が向いただけです……」

 そう言いながら、カフェは微笑を浮かべ、未だに丁寧にロードの髪を乾かそうとしていた。ロードは、尚もこの心地良さに頭を支配されつつも、なんとなくカフェがしようとしている事に察しがついていた。恐らく、自分を成仏か何かさせようとしているのだろう。――できると思っているのだろうか?この小娘の愚かさを心の中でせせら笑ったが、とりあえず、ドライヤーが終わるまでは待つことにしてあげた。

 カフェがドライヤーをかけ終わると、ロードは話し出そうとしたが、その前に「体が冷えたのでもう一度浸かってきます」と言って、カフェがまた湯の方に消えると、ロードは話すタイミングを失ってしまった。そうして椅子に座ってぼーっと中を見ていると、空中を流れて漂ってきたトゥルースと目が合った。トゥルースは、ロードをバカにしたような表情を鳥ながら言った。

「まるで子供みたいだな」

「…悪いか?」

「……悪かないさ」

「……時代は変わった…」

「…何が?」

「……お前はなんだ?」

 その言葉にトゥルースは眉を寄せた。

「何だっていいだろ?」

「……この世界には秘密が多い…」

 そう言いながらロードは意味深な目をして見せた。トゥルースはそれに嫌そうな目付きを見せながらも、何も言わずに黙っていた。それから、ロードはまた言った。

「…仲良くやろうぜ、Truth〈真実〉君」

「……やんねぇよ」

 そう言うと、トゥルースはふわふわと宙を浮いて、湯に浸かっているカフェの方に行った。一人残されたロードは、脱衣所で余裕そうな笑みを浮かべて、カフェが上がってくるのを待っていた。

 

 カフェは上がってくると、脱衣所で体を拭いた後に、髪の毛から軽く水気を拭い、それから、服を着るとロードにこう言った。

「私の髪をドライヤーで乾かしてください」

「俺が?」

 ロードは迷惑そうな顔をしたが、カフェは有無を言わさずに「命令です」と言って、ロードにドライヤーを手渡した。ロードは、一度嫌そうな顔をしたものの、その後は大体従順だった。特にあれこれ言う事もなく、また、適当に済ませる事もなく「こっちはしっかりと乾いたか?」などの会話を図っていた。カフェはこういうロードの様子を見ながら、なぜこの子が悪意と呼ばれていたのか不思議に思った。無論、意地悪をする子ではあるが、どちらにしろ何気ない行為を楽しめる子でもある。――思ったよりも悪い子ではないんだろうな、と思いながらカフェはドライヤーの心地良い温風を感じていた。そして、ロードはこの思考を読み取れる能力が備わっていたから、カフェのこの思いを読むと、なんだか恥ずかしいような、それとも、苛立つような、モヤモヤするような物を感じた。ただ、それを口から言葉にしてカフェに何か投げかけるという気も起きなかったので、上がった時にせせら笑おうと思っていたのは、今はやめることにした。そして、ロードはカフェの心の声を聞かなかったふりをして、丁寧にドライヤーをかけ続けた。

 

 ドライヤーが終わると、ロードとトゥルースは二人共同じような格好をして宙に浮いていた。いつの間にか、トゥルースの方も湯上りの格好になっていた。一人だけ仲間外れは嫌だったようだ。それを、ロードは内心鼻で笑った。カフェは、外の雨を椅子に座って眺めていた。もうやる事は全て終わったようだし、ロードも今は意地悪をする気は起きなかった。ただ、それが暫く続くとロードも暇になったので、カフェの方にふわふわと漂っていくと、こう話しかけた。

「お前、俺をどうしようと思っている?」

「……元気になればいいと思っています…」

「…あれごときで、俺の魂が報われる、救われると思っているのか?」

「…あなたに魂が御在りで…?」

「……形になるものはある…」

「……それにしては、…不安定ですね…」

「不安定と言うよりは、不定だね。何にでもなれる」

 そう言うと、カフェはこちらに向けていた目を、また、窓の向こうにやってから言った。

「………あなたも人並みの生活をしてもいいはずです……」

「…人並み?」

「ええ…」

 そう言ったカフェは、どこか心ここに在らずといった調子だった。そんなカフェを見ると、ロードはなんだかバカバカしくなって、もうそれ以降話すのをやめて、空中をふわふわと漂った。その内に、何度かトゥルースと目が合いこそしたが、二人共何かを話すという事はしなかった。

 それから、いつの間にかカフェは寝て、この世界もお開きとなった。

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