ケロイド   作:石花漱一

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三十三、三回目の選抜レース①

三十三、三回目の選抜レース

 

 タキオンは、土曜が来るのを今か今かと心待ちにしていた。今日の九日を過ぎれば、金曜の十日。そして、当日の土曜の十一日だ。別に、この日から入居するというわけではないのだが、自分の夢にまで見た結婚生活が、この日から間近に間近に迫ってくるような気がしたので、タキオンのワクワクは止まらなかった。この九日の夜に、田上との通話が終わった後も、土曜の事を考えるとそわそわとして眠れず、ここまで来ると、一度スマホの電源をつけて、そのカレンダーで土曜までの日数を数えようかと思ったくらいだ。ただ、幾ら数えたところでその日までの日数は変わらないし、指折り数える程、遠い日にちであるというわけでもなかった。そして、タキオン自身が早く寝付きたかったため、スマホを見るのはやめておくと、ぼんやりとこれから起こりそうな田上との幸せな日々と、一筋縄ではいかない自分たちの関係性の事を考えた。そうしながら、タキオンの意識は次第に眠りの方へと落ちていった。

 

 金曜の朝に起きると、いつものように、タキオンは、田上の方に電話を掛けた。そして、田上もいつものように電話に出てきた。タキオンは、多少寝ぼけた頭でベッドに寝転がりながら「いよいよ明日だねぇ」と言った。田上もあんまり起きていない頭で「明日だねぇ」と眠そうな声をして繰り返した。それから、一頻り話すと、タキオンは電話を切って授業に出る支度をした。その後すぐに、――そう言えば、出なくてもいいと言われていたんだった、と思い出したが、特に授業に対する忌避感も起きなかったため、タキオンはそのまま着替えを終わらせた。

 田上と朝食を取ることは怠る必要がなかったため、タキオンは着替えるとすぐにトレーナー寮へ向かった。そして、共有スペースの方で田上と出会うと、田上が少し驚いた顔を見せて「行くんだ…」と言った。タキオンは余裕そうな笑みを見せるとこう返した。

「別に、行くと言ったのは、元はと言えば私だったからね。ただ、まぁ、休みたい時は君の懐でぬくぬくと休むさ」

「そうしてくれ」と田上は静かに微笑しながら言った。

 この頃では、タキオンは田上の所に毎朝通っているので、奇異の目で見られることは少なくなった。栗毛のウマ娘とそのトレーナーが話しながら食堂に向かうのは、朝に共有スペースに居る大体の人が見慣れたものだった。田上もその状況に慣れてしまって、あんまり人目は気にしないようになっていた。

 

 食堂でご飯を食べている最中にタキオンはこう言った。

「君が朝にここに来てくれれば…」

「俺はもう寮の人じゃなくなるんだから、ここに来て食べたら駄目なんだぞ」

「あれ?そうか…。でも、修さんだったら許してくれるんじゃないか?」

「駄目だよ。もしかしたら、よしみで許してくれるかもしれないけど、俺はそんな事はさせない」

「そうだよねぇ。君の事は分かってる。そういう事はできない人間だ…。ただ、カフェテリアは朝も通常運転だ。…あれはどうだったかな?確かこの学園の関係者であれば、朝でも食べて良いはずじゃなかったかな?」

「それはそうだね。…ただ、…お前の授業が始まる前にここに来て朝食か…」

「君の家もそんなに離れていない。たかが二十分かそこらだろう?そして、君は家で朝食をとらなくてもいいわけだ。恐らく、今私が起こしている時間とさほど変わらないんじゃないかな?」

「……六時五十分?」

「そんな所だろう。寝て起きて、服を着替えて、髭も剃って、家から出るのに十五分ほどかかるとして、そこからトレセン学園まで二十分。で、朝食をここで食べるのであれば、大体いつも三十分くらいで食べているわけだから、私の授業までには十分に間に合う」

「でも、…それだとトレーナー室で話す時間はなくなるけどいいのか?」

「んー…、まぁ、朝食を取る時間は変わらないわけだ。私の我儘も多少含まれている以上、これ以上の負担は、あんまり君にかけたくないからね。あんまり早く起きるのも嫌だろ?」

「……お前だけの我儘じゃないよ。俺も迷いこそしたけど、これには賛成なんだから。…別に、これはお前の罪じゃない。あんまり分からないかもしれないけど、…お前が俺を賛成と思う以上に、それ以上に結構賛成だ」

「ふぅん?…なら、そういう事にさせてもらおう。君も二人きりの時間は時間は欲しそうだものね」

「実際欲しいよ」

 その後に、田上の脳裏には様々な考えが閃いては消えていった。タキオンへの罪悪だったり、喜びだったり…。そういった取り繕えない物の為に、二人の間を妙な沈黙が通り過ぎて行った。そして、田上には、また、昨日の夜の電話の事が思い起こされた。

――許されない心配をする必要はないわけだ。

 この言葉の裏にある物。その真偽を今ここで確かめてみようかと思った。しかし、そう思いこそしたはいいものの、どうやって聞けばいいのかという事が、遂に、田上の頭の中には思い浮かべることができなかった。田上が急に黙ると、タキオンは田上の心の中に起こった大体の事が察せられた。その主なるものが、罪悪だ。だから、タキオンは少し同情するような声色を使いながら言った。

「……アパートは思ったよりも広いかな?」

「…ん?…うん。写真と実際に見るのとじゃ感じは変わるかもな…。それに、あれにもっと物が増えれば、あれよりも手狭に感じるかもしれない」

「それは重大だな。…机とか置けば本当に違うかもしれない」

「…違うかもしれないけど、…そんなに大きい机も要らないよ。とりあえず、二人しか来ない予定なんだから」

「そうだね。…それに台所があって、テレビは買うのかい?君の部屋にはパソコンしかないようだけど」

「…お前が欲しいんだったら買ってもいいよ」

「…なら、買ってもらおうかな?休日に行くと言っても、何度も繰り返せば、日がな一日君と家でぼーっとしているというわけにもいかないだろうし」

「…もっとデートとかもして良いだろうね」

「遊園地とか行ってみるかい?」

 タキオンがそう言うと、田上は少し渋い顔をして見せた。

「遊園地はあんまり好かないな。行ってもいいけど、ジェットコースターとか苦手だし、キャラクターものもあんまり楽しめないからなぁ」

「私もそんな所だね。趣味が合っているようで良かったよ。史料館とか博物館とかならどうだい?」

「そこら辺ならいいかもね。…ただ、あんまり科学専門に寄り過ぎると俺も困るけど」

 田上がそう言うと、タキオンは微笑んで「分かった。そこも考慮に入れておこう」と言った。それから、またタキオンが口を開いた。

「君、高松信夫が好きだろ?あそこの記念館?とかどうだい?」

「それはいいかもしれないけど、タキオンがつまらくないか?」

「私も高松信夫に興味が無いわけじゃない。実際、面白い小説を書く人物だ。その人物の来歴を見てつまらないと思う事はないよ。それに、君も一緒なんだから」

「うーん…」と田上は唸った。どうやら、高松信夫の記念館でも田上はあまりお気に召さなかったようだ。その代わりに、田上はこう言ってきた。

「デートしたい?」

 その様がなんだか不安そうに見えたから、タキオンは少し苦笑しながら言った。

「デートは君が言い出したんじゃないか」

「そうだけど…、散歩って俺たちの性に合ってるような気がしないか…?」

「まぁ、合ってない事はないと思うが、偶にはどこかに出掛けて見たほうが良いんじゃないか?結婚して子供を産んだらあんまりこういう時期は無いんじゃないか?大概子育てで忙しくなるだろうし、二人きりで遊びに行くという事もなくなる。そうなってから、――嗚呼、あそこに二人で言っておけばよかったなぁ、とか、――二人の思い出作りをしておけばよかったなぁ、と思ってもしょうがないんじゃないかい?」

「…しょうがないかもねぇ…」

「だろう?だから、…子供を産むまでに何度か君とデートはしておきたいよねぇ…」

 二人の未来に漠然と横たわる不安の影を無視しながら、タキオンはそう言った。田上もまたその不安の影を感じながらも、直接口に出す事はできずに、また別の案を出した。

「登山とかかなぁ…」

「うん。登山はいいかもね。歩くのは嫌いじゃない。そこら辺の低い山でも登って、日帰り登山とかかい?」

「そんなに本格的なものはするつもりはないよ」

「うん。それがいいよ。散歩の延長線みたいなもんだ。一度落ち着いたら行きたいものだね」

 タキオンがそう言うと、田上は少し考えてから言った。

「宝塚記念が終わらないと落ち着けないかな…」

「そんなものかい?」

「…月末辺りに越したいと思っているから…、それを考えると、…そして、六月頭には宝塚記念…」

「…今年の夏合宿はいつから行く予定なんだい?」

「七月中旬辺りだと俺は思ってる。そこから、八月下旬に帰ろうかな?」

「…じゃあ、その間になるのかな?登山に出掛けるのは」

「まぁ、お前もトレーニングで忙しくなるからな…」

 田上は、そう言いながら、タキオンの顔をじっと見た。タキオンも見つめ返したが、二人の間にある陰には、相変わらず、手をつけずにこう言った。

「それじゃあ、休憩のための、気分転換のための登山というのもアリじゃないかな?」

「……皆で行くか?」

 これには、タキオンも少し眉を寄せた。

「皆は嫌だよ。今話してたのは、私たちのデートの話だろう?」

「ああ、そうだったな。ごめん。 それでも、…気分転換に登山はいただけないな。…流石に、低山でも胃もたれするくらいなんじゃないか?」

「まぁ、休憩かと言われると、…疲れに行くようなものかもしれない」

「…ただ、来週なら少し空いてるからな…。また、引っ越しの予定によっては潰れる可能性も普通にあるけど、…この時期が登山は良いだろうなぁ…」

「丁度いい春だものね。それとも、初夏かな?」

「どっちにしろ、登山には良い季節だ…」

「そうだね」

 そういう会話を繰り広げながら、タキオンと田上はぼちぼちと朝食を食べていった。

 

 結局登山については詳細な予定が決まらないままに、朝食の時間は過ぎていった。金曜の朝である。タキオンは明日の予定にそわそわとしながら、授業に出て行った。今、むしろ人が恋しかったのは田上の方だった。てっきりタキオンが居てくれるものだとばかり思っていた田上は、内心で密かに喜んでいた。

 それは、自覚するまでもなかったのだが、不意に――タキオンに居てほしかったなぁ、と思うと、むしろ、タキオンに、授業を休んでほしいのは、自分なのかもしれないと思った。当然、田上の人恋しさは、タキオンに向けての恋しさなので、マテリアルが居たとしても何にもならなかった。マテリアルの方は、何も知らないままに、田上に話しかけているが、田上は話しかけられるたびに、タキオンへの恋しさは募っていった。

 田上は、自分の事を――女々しい奴だな、と半ば軽蔑するように、半ば喜ぶように思った。田上は、男が女々しい事についてはそれ程思う所はなかった。確かに、頑として堂々たる男らしさが欲しいと思う時もあったが、田上の女々しさの中には、タキオンとの楽しい幸せな日々が詰まっていたので、それを女々しさだと言うのならば、田上は全くそれを苦だとは思わなかった。むしろ、それを男が感じてはいけないというのなら、田上は男という物を軽蔑してやろうとさえ思った。

 そんなまとまりのない事を妄想しながら、適当に仕事をこなしていると、いつの間にか一時間目の終了を告げるチャイムが鳴って、タキオンがすぐに帰ってきた。

 タキオンは、トレーナー室に入ってくると、すぐに長机から椅子を取って、田上の横に置き、そこに座った。田上は、ここでも少し期待していたことが裏切られた。タキオンが、自分の膝に座ってきてくれるのではないかと思ったのだ。田上も少し戸惑って、この自分の気持ちを打ち明けてしまおうか、それとも、しまいか考えたのだが、結局、自尊心が勝ってしまってタキオンに打ち明ける事はできなかった。もしかしたら、察しの良いタキオンが自分の不満に気が付いてくれるのではないかと期待したのだが、そもそも自分の膝の上に座ってほしいという欲望がそれ程強くなかったために、田上の動作や言葉に、その不満が現れる事はなかった。ただ、その不満を休み時間中にずっと抱えながら、いざタキオンが再び授業に出るという段になって、その我慢に綻びが生じた。チャイムが鳴り、タキオンが「バイバイ」と言って部屋から出ようとしたところで、田上の笑顔が少し覚束なくなった。そして、これが容易にタキオンには察せられて、「何かあるのかい?」と聞かれた。田上は返答に窮したが、とりあえず、「ないよ」と言って、タキオンを見送ると、それを言うのは先延ばしにした。

 

 二時間目の休みになって、またタキオンは帰ってきた。どうも授業が退屈だったらしく、田上に頻りに文句を言っていた。それから、不意に思い出すと、タキオンはこう言った。

「君何か隠しているんじゃないのかい?」

「隠す?」

「隠しているだろ?一時間目の休みで出て行く時に、君の表情が何か言っていたもの」

「…そんなに何か言っていたか?」

「言っていたとも。何を言っていたんだい?」

「…もうすぐアパートだなぁって」

 田上は嘘を吐いた。しかもその嘘がタキオンには分かりづらかった。田上ならそういう事を考えそうだという事を、ぴったり田上は言った。ただ、どこか嘘臭い雰囲気もあったため、タキオンは田上の顔をじっと見つめると、「本当にそれかい?」と聞いた。田上は、本当の事を言ってしまおうか迷ったが、自尊心と言えばいいのか、それとも、羞恥心と言えばいいのか、その様なものに押し阻まれて結局「本当だよ」と言った。この言い方によって、タキオンの疑いはさらに深まったが、これをどこから解剖すればいいのか分からなかったため、その後に言葉を続けることができなかった。

 そうして、二時間目の休みも過ぎた。

 

 三時間目の休みになると、田上に感化されたのか、タキオンも授業に出るのが億劫になり始めた。その為に、今回は田上の膝に乗るという事をした。田上はこれに大喜びだったのかと言うとそうでもなかった。こうなってくると、何だか悪いような気がしてきたし、普通に心配でもあった。何が心配かと問われると、その実体は掴み難い。ただ、自分とタキオンの将来に対して、掴み難い不安を持って、その不安が、これからの自分たちに対して、どのような影響を及ぼしてくるのかと恐れているだけだった。だからして、実体は掴み難かった。

 ゆらゆらと揺れる幽霊船に乗っている心地だった。不安の波が船体を揺らすたびにぎしぎしとなる木の音。風が吹く度にバタバタとなびくボロボロになった帆の音。その音と共に、やがて船が沈んで、不安の波にさらわれていく妄想をひたすらに繰り返すのだった。全てが妄想の中に過ぎず、実体のない不安に怯える。ただ、その妄想こそが、二人を繋ぐ橋になっていたから、容易に、不安の実体すらも見つめることは敵わなかった。

 田上は、自分の中に燻る不安の中に、何か意味を見出そうとして苦心していた。何か高尚な意味があるんじゃないか。何かまとまりをもった物体として生きて、そこに蠢いているのではないか?その様な物を持って、自分の不安と向き合おうとしていた。

 明日になればいい事がある。明後日になれば、何かが変わる。今の二人はそうやって過ごしている。果たしてそこに何の望みがあるのかは分からない。ただ、二人の関係が明日も明後日もこれからずっと続いて行けばいいと思って、未来を願っていただけだった。

 タキオンを抱いている田上には、今重なり合っている二つの心臓が、体を伝わってその鼓動を響かせてきてるような気がする。二人の体が溶け合って、一つになっているような気がする。この罪悪も明日には消えるのだろうか?と思った。もしかすると、田上の罪悪がタキオンにまで伝わって、二人共このまま罪悪を抱えたままに、生きてゆかなければならないのだろうか?タキオンと自分の未来に、これから何が起きるのだろうか?目の前に掛かる靄は一体何なのだろうか?どうすれば、この靄は晴れるのだろうか?青空は美しいのだろうか?天の底まで見渡せるのだろうか?

 田上の思考は、掴めない靄を追っているに過ぎなかった。

 

 四時間目にはしっかりタキオンも授業に出た。弱音を吐きこそしていたが、授業に出れない程神経は参らなかったようだ。

 昼食に向かう道中で、田上は気が向いたので、この際だから言ってしまおうと思って、「実は、二時間目の休みの時に俺が言った事は嘘だった」と言った。すると、タキオンは平然として「だろうね」と言ったから、田上は驚いた。見透かされていた。それから、自分は本当はタキオンを膝に乗っけて抱き締めたかった、と打ち明けたら、タキオンは「なんだそういう事だったのか」と微笑してみせた。その後に、二人の横を生徒が一人通り過ぎて行ったので、田上はその微笑から不意に目を逸らした。

 その後に話は途切れたのだが、カフェテリアで二人で昼食をとっていて、また話は戻った。タキオンが、「あれで満足したのかい?」と聞いてきたからだった。そこで、また田上の自尊心とのせめぎ合いが起きたのだが、ここはもう自尊心の方を捨てて言った。

「もう少ししてたいかな…」

「まぁ、昼休みにはいつもの様にする予定だったからね。君がするしないと言ったところで予定はあんまり変わってなかった」

「そうだね」と田上は、少し微笑んで言った。その後にタキオンがこう聞いてきた。

「君、その雰囲気に似つかず結構甘えたがりだものね。…世の中の男性という物は、皆そんななのかい?」

「…どうだろうね?…俺の友達は多分違うだろうし、…色んな作品の中でも男の方がそんな描かれ方をしているのは少ないんじゃないか?」

「いや、分からないよ?ドラマとかにはそういうアイドル的ななよなよした男が、女性の方を後ろから抱き締めるイメージがある」

「…俺はなよなよしてるのか?」

 タキオンは、自分に対してバカにするような事は思っていないと分かりつつも、今のタキオンの口調が面白かったので、微笑んでそう言い返した。すると、タキオンの方も微笑んで言った。

「なよなよしているかもしれないね。昨今、草食系という言葉が流行りつつあるし、世の中の男性の大概がそうなのかもしれない」

「女性が強くなると、男性が弱くなるからな…。女性にビビってしまう男性も少なからずいるだろうな…」

「いやぁ?陽キャという言葉もあるんじゃなかったかな?」

「そりゃあ勿論陽キャも居るだろうけど、…陰キャは結婚できない時代かもね…」

「…陰キャも結婚するんじゃないか?」

「そりゃあ、する人もいるだろうけど、…やっぱり親にお見合いさせられて結婚してた頃よりかは結婚しにくくなっているんじゃないか?」

「ああ、それは結婚しにくくなっているのかもしれない。…核家族化の弊害かな?」

「いや、…むしろ、…社会が結婚しない方向に動いているのかもしれない。金が無いから少子高齢化が起こってるなんて言われているかもしれないけど、実際俺は金はあるけど恋人がいなかった」

「世の中は晩婚化か…」とタキオンは、箸で小さく食べ物を摘まみながら、ため息まじりに言った。

「…不況があんまり良くなかったんだろうな…。高度経済成長期…、バブル経済…、それがが弾けて皆終わった。そして、就職氷河期だ…」

「私らの親の世代だ…」

「…バブルの頃は、結婚やマイホームや車とか、色んな夢があったかもしれないな…」

「そして、バブルがはじけた時にその夢が終わった。…私らの親の世代が、世の中を信じるなという事を子供たちに一生懸命教えてきたのかもしれない」

「…そんなんじゃ夢は生まれないよなぁ…」

「…私たちの子供にはたくさん夢を持たせてあげたいね…」

「夢…ねぇ…」と呟きながら、田上は昼食を一つ口に運んだ。

 

 あの会話から、少しの間二人は物思いに沈んだまま、ただ黙々と昼食を食べていたが、ある時タキオンがこう言った。

「団塊の世代は二次大戦のあとの、ベビーブームの世代だったよね?」

「ああ」

「そして、次が団塊ジュニア」

「うん」

「なにもその流れが日本の人口を支えているわけじゃないだろうが、…こう連日少子高齢化少子高齢化と騒がれてくると嫌になってくるね」

「…人と人との繋がりが弱くなってるのかなぁ…」

「…結婚に魅力を感じないのかもしれないね…」

「子供を作るのだってな…」

 そう言いながら田上が何気なくタキオンを見ていると、タキオンは少し眉を寄せて言った。

「私に文句があるかい?」

「文句?…ああ。ないよ。何かあってお前を見てたわけじゃない」

「……君は子供が欲しいのかい?」

 タキオンは、先程よりも少し声を小さくさせて聞いた。

「…分からん。……まぁ、ぼちぼち考えるよ…」

「そんなに気にしなくてもいいよ」

「分かってる…」

 それから、また少しの沈黙が続いた。タキオンの皿はもう空になっていて、田上が後はもう少なくなっている残りを食べ切るだけだった。そのもう少しの残りを食べ切る間に、田上はまた口を開いてきた。

「…実際、結婚に魅力が無い物かな?」

「それは君に聞いてみるといい」

「俺は、結婚したくなかったわけじゃないよ。お前とのアレは、間にいろんな障壁があるからな?勘違いされてもらうと困る」

「分かった」とタキオンは若干の反省を隠しながら頷いた。

「…ただ、高校くらいの時期は、結婚が嫌だったんだよ」

「ふむ。それは?」

「結婚すると子育てするだろ?そうすると、子育てに時間を取られてゲームができなくなる。自分の自由な時間が奪われる」

「今は?」

「今は、目の前にお前が居るのに結婚しないなんて言えるわけないよ」

「……私に気を遣ってるのかい?」

「そんなんじゃないよ。結婚したいからこそ、結婚よりゲームなんて言えるわけがないって事だよ」

「ああ。すまなかった」

 これにはタキオンも反省の色を見せた。その表情を見ると、田上は最後に残っていた料理を口に思い切り掻っ込んだ。そして、多少頬張りながら咀嚼を少しの間繰り返すと、全てを飲み込んでから立ち上がって言った。

「ベンチに行こう。あそこが好きだ」

「私も」と言いながら、タキオンも立ち上がり、食器を片付けに行った。

 

 ベンチに向かう途中人が居ない道すがら、田上はタキオンにこう話しかけた。

「そう言えば、…結婚って、俺たちが付き合う時に初めから…目標と言うか、…あるべきものとしてあったけど、世間の人から見たらどうなんだろうな?…やっぱり重いのかな?」

「…まず、私に君を振り向かせる必要があった。そして、君は生半可な覚悟で振り向いてくれる人じゃなかった。私たちの関係性からしても、それを乗り越えるために私の覚悟は必要だった。君は、特に女子高生と遊ぶような関係というのは好かなかっただろう。例え、私が君の好きな人であったとしてもだ。だから、結婚の話はどうしても避けられなかった。私が君に一生を捧げるという覚悟を、君に見せなければいけなかったはずだ。…つまり、その話を避けて私たちは付き合えなかったわけだね。そして、事の成り行きとして、そのまま今こうして結婚の事を考えているわけだ。…君も、付き合うなら結婚する人という思想を持っているだろう?」

「まぁ、できるだけ付き合った人と結婚はしたいけど…」

「なら、私たちは結ばれるべくして結ばれたわけだ。やはり、私や君が、交際を、恋人のお試し期間として捉えている人と交際したとしても、上手く行かなかったのじゃないかと思うね」

「……そうすると、…今の俺たちの関係ってどうなんだろう?」

「結婚への準備期間って所だね。それか、式場の控室で待っている時間だ」

 タキオンの冗談のような言い草に、ふふっと微笑むと、田上は言った。

「実際、普通に付き合うとして、両想いである必要はあるのかな?」

「ないんじゃないか?君は、…好きでもない人から告白されたとして、その人と付き合うことになっても、できるだけ結婚はしたいと思うのだろう?」

「…どうだろうね…。初めの方はそう思って付き合うかもしれないけど、付き合っていくうちに、金遣いが荒かったり、あまりにも礼儀がなってなかったりしたら、疲弊するかもしれない」

「疲弊するっていう所に、君の優しさが垣間見えるね」

「お前、俺の事を買い被りすぎじゃないか?」

「私の偉大なる彼氏を真っ当に褒めて何が悪い。それに、君も褒められるんだったら悪い気はしないだろう?」

「そりゃあ、悪い気はしないけど、…買い被ってるだろ?」

「私は、君の事を真っ当に見つめているつもりだよ。そして、実際に君は優しい」

「……お前に優しくしたかな…?」

 田上は、以前の事を思い出しながら、多少弱弱しく言った。

「君は、少しの暴言で、それまでの行いが全てチャラになると思っているのかい?確かに、君は私を遠ざけようと嘘を吐きこそしたが、君にはそれ以上に頂いたものがある。今こうやって、隣を歩いて、私を見て話してくれているだけでもありがたい物だよ、偉大な彼氏君」

「偉大かなぁ?」

「偉大だよ。言っておくが、私は君を尊敬しているんだからね?」

「尊敬されるほどの人間か?」

 田上は少し嬉しそうに微笑しながら言った。

「尊敬されるほどの人間だとも。もっと君は世間で評価されるべきだ。この私と付き合うって言うんだから」

「それを言ったら、お前は自分の事を見下げ過ぎだ。お前こそ、もっと世間で評価されるべきだ。偉大な彼女だ」

「そういう他人を敬う姿勢こそ、君の尊敬すべき点だね。私の偉大なる彼氏だ」

「…お前だって、本当に良い彼女だよ。多分、俺はこの先の人生でお前以上の女性に出会える気がしない」

「それこそ買い被りだというんじゃないかな?」

「いや、俺は真っ当にお前の事を見てるつもりだね」

 タキオンが先ほど言った事をそのまま繰り返すと、タキオンも微笑を浮かべて、「そうかもしれないね」と答えた。それから、二人はベンチまでゆっくりと途切れ途切れに会話を続けた。

 

 二人はベンチに座っていたが、今回の座り方は、タキオンが、田上の膝に横向きに座っている形だった。つまり、お姫様抱っこを中途半端に、膝の上に乗せたような座り方だ。その為に、田上の姿勢は少々辛さがあったが、今の所は、そのままタキオンを膝の上に乗せていた。

 話は、二人の良い所の褒め合いから、世の中の情勢について戻っていた。

「実際、結婚してないから、年々出生率も低くなっているんだろうな…」

「そうだろうね」

「結婚の自由ってのは勿論あるけど、…最近は、結婚の話をするなって風潮じゃないか?」

「結婚するしないも自分の自由なんだから、自分ではない関係のない人が私の結婚についてあれこれ言うな。結婚以外にも幸せはあるんだ、みたいな感じだね」

「そう。…こうして、お前を目の前にしていれば、結婚なんて楽しそうなもんかもしれないと思うんだけどね…」

「……まぁ、色々あるんだろう」

「…色々って言っても、…結婚以外の幸せって一体何だろうね?」

「…好きな事をして生きるって事じゃないか?…好きなお菓子を食べる。好きなゲームをする。好きな時間に寝る。子供の夜泣きに悩まされない。子供を成人するために掛かる金額は千万だ。…あとは、私のような俺のような人間が親になると、子供が不幸せになるという思想もあるね。世の中結局金であって、金の無い自分には子供は幸せにできない。あとは、自分の精神が未熟であると感じているとか」

「…世の中結局金なのかな?」

「私は君の事好きだよ」

「俺もそう。…金じゃないよな。目の前に恋人がいたら、止まるのは難しいもん」

「そうだね。…本当に愛し合っている恋人同士だけど、金が無いから結婚するのはよしましょうというカップルはあんまり聞いた事が無い。そして、幾ら不況だと言われていたとしても、余程の貧乏じゃない限り、日本社会の間では食って行けるんじゃないか?」

「…結婚するならゼロ円って思ってたけど、よくよく思えば、結婚するときには絶対に結婚式を挙げないといけないって考えている人は、その所が踏み切れなくなる原因なんじゃないか?」

「君は、確か結婚式は小規模のほうが良いと言っていたね?」

「うん」

「私も小規模がいいね。あんまりよく知らない親族に対面で結婚を祝われたところで、そんなにありがたみも湧かないよ」

「そうだね…」と田上はまだ物思いに沈みながら返事をした。それから、物思いに沈んでいる田上の表情を、タキオンが暫く見つめていると、唐突に田上が口を開いた。

「マイホームを建てなくてもいいという思想。車なんかいらないという思想は、不況の証だろうな」

「そうかもね。…『贅沢は敵だ』」

「……子供が贅沢品って言うのも何処かで聞いたな…」

「そりゃあ、贅沢品と思っている奴は思っているだろうよ。育て上げるのに千万もかかるんだから。ただ、そう言ってる本人も贅沢品として育て上げられたわけだし、初期費用に千万掛かるわけでもないんだから、贅沢品という言葉も怪しい物だね。つまり、家族の事を贅沢品と言って、自分の事を贅沢品と言っているわけだ。それなら目の前にいる人間も贅沢品だ。食事すらも贅沢だ。金のかかるもんなら何でも贅沢だ。 そういう事だろう?」

「…そういう人たちは、――食事に千万もかからないって言うかもしれないな」

「それなら、育てられた君らの肉体を見てみるがいい、と言うしかないかもしれないね。千万円の塊だ。それを売れば幾らか稼げるかもしれない」

「……でも、そういう人たちは…本当にお金が無い人たちかもしれない…」

「そこに至っちゃ仕方がないが、今の日本はほとんどの人が子供を育てられない程落ちぶれたものなのかい?」

「どうなんだろうな…?」と田上は難しい顔をしながら言った。「……不況不況と言いつつも、まだ立派に暮らしている人は居るからな…。…ただ、若者の貧困とも言うからな……」

「若者の貧困。鬱。人手不足。AIによる失業。発達したインターネットによって、薄れゆく繋がり。年金の崩壊。生活保護の不正受給。政治家の汚職事件。…世も末かい?」

「末というにはまだ早い。…俺の思想は古いのかな?家族の形が俺の育ってきたようにあってほしいと思うのはダメなのかな?嫌いな弟ともそれなりに仲良く暮らして、同じ食卓を同じ家族が囲む。それは駄目なのか?」

「駄目という事はないだろう。世間の回答は、『多様性』だ。君の考える家族の形も在っていいが、押し付けちゃいけない」

「……結婚したくない人類がこの世に居るのか?」

「…君は人に触れるのが怖かったんじゃなかったのかい?」

「ああ。…皆怖いのか?」

「…どうだろうね?…私は、そんな事よりももっと明るい話をしたいな」

「…うん…」

 田上は、ここに無い心を無理矢理引き戻すように返事をした。そうだからと言って、二人に話すべき話題などなかった。明るい話をしたいと言ったタキオンにすら、特に話したい事もなく、ただ石畳の道の周りに生えている芝生を眺めているだけだった。そして、いつの間にか二人は体勢を変えて、抱き合うようになっていた。二人で抱き合うには、少し暑い午後だった。

 

 昼休みは、暑さにゆっくりと溶けるバターのように過ぎていった。田上もタキオンも、世界の事と自分の事を見つめて、あまり動こうとはしなかった。ただ、そういう時に、お互いの温もりが心地よかった。何も世界の事を真剣に考えているのは自分だけではない。自分たちの事を真剣に考えているのは自分だけではない。恋人が、今同じように思考を溶け合わせながら考えてくれている。目の前に自分と溶け合って、自分の事を理解してくれている人が居る。そう思うだけで、言い知れない勇気が湧いた。

 二人は時折話しながらも、大概は、この心地の良い暑さに身を委ねてぼーっと物を考えていた。結論は出さなくても良かった。二人共その道の学者であるわけでもない。ただ日本の未来を憂いている二人の若い恋人なのだ。そして、その憂いに答えなんて出そうものなら、その話はすぐに終いになってしまう。別に、答えが出せるという程複雑な社会問題に二人が精通しているわけでもなかったが、とある恋人として、一般的な先を見据える恋人として、社会問題と向き合って訳もなく語り合うのは、ある種の繋がりが密接に感じられるような気がした。

 そういうだらけた雰囲気のままに昼休みは終わった。タキオンは、いざ終わるという段になって、こんなに何もしなかったのを少し後悔した。先程自分が言ったように明るい話題をもっとすればよかったのに、結局、二人で暗い社会をただぼんやりと想像するだけで終わってしまった。別に、タキオンもこういう雰囲気が嫌いというわけではなかったが、折角の昼休みに他にできる事があって、それをふいにしてまでも社会について二人で語り合うというのはなんだか勿体ないような気がした。それでも、もう別れないといけないし、田上と昼休み中抱き合う事はできたので、多少満足しながらタキオンも戻っていった。

 そうして授業を受けている間にも、先程の余韻が残っていて、――これからの私と圭一君の未来には何が立ちはだかってくるのだろうか、という事をずっと妄想していた。席替えをしていたので、窓側の席ではなくなっていたのが惜しかった。そうすれば、ずっと外の景色を見続けながら考えることができたからだ。しかし、三四人の生徒越しに外を見るわけにもいかないので、タキオンはシャーペンを指の上でくるくると回し、その回る様を見ながら考えていた。大抵は、社会問題を真剣に考えるというよりは、田上と自分の生活の妄想だった。いつ頃に赤ちゃんは生まれるだろうか、とか、赤ちゃんの夜泣きは激しくないほうが良いな、とか、出産は苦しいんだろうか、とか、七十になった自分と八十になった圭一君はどんな未来を、どんななりをして生きているんだろうか、とか、いつ死ぬんだろうか、とか。

 そこまで行くと、タキオンも落ち込んでしまって、――早く圭一君に会いたい、といじけだすようになった。そして、寝たふりをして腕を組んで机に突っ伏していると、先生に「起きて」と注意されたので、タキオンは仕方なく顔を上げた。

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