ケロイド   作:石花漱一

156 / 196
三十三、三回目の選抜レース②

 五時間目の休みになってトレーナー室に行くと、そこにいつものように座っている田上に、タキオンは甘える事にした。これも、いつものように、田上の膝の上に正面から座って、抱き合うという形だった。そうした中で、タキオンは、田上に、こう自分の不安を吐露した。

「…私は子育てを上手くできるだろうか…」

「タキオンなら良いお母さんになると思うけど?」

「……君ならそう言うが、私はそうは思わない…。静岡に行った時の桜花への態度を見ればわかると思うが、…私は、子供にも容赦がない時がある…」

「そういう時は俺に任せてみれば?」

「…何も君が家にずっと居るわけじゃない。子供と二人きりの時もあるだろう。そういう時になって、私が年甲斐もなく、愛すべき自分の子供に理不尽に怒ってしまわないかが心配だ…」

「ゆっくりでいいよ。タキオンが産めるようになったら子供を作ればいいんだから」

「……君も随分と私との結婚の話に抵抗がなくなったものだね」

「抵抗すると辛いし、お前もそういう風に動いてくれたから」

「……子供ができるのが楽しみじゃないわけじゃないんだ…。…ただ、…君が好きで…」

 その後の言葉が続かなかったので、代わりに田上が話し出した。

「気持ちは分かるよ。そういうのも含めて、あんまり焦る必要はないんじゃないか?俺はずっとお前の隣に居るよ」

 そう言うと、タキオンの笑った吐息が田上の首筋に掛かるのを感じた。

「……やっぱり君は偉大な彼氏だ…」

 これには田上も少し笑ってしまったし、少し離れてその会話を聞いていたマテリアルは、阿保らしいと思った。

 

 六時間目の授業に行く前は特に甘えてから行った。あんまり授業に出たくない様子だったし、その後のトレーニングもしたくなさそうな様子ではあったが、本人が行くというので敢えて田上が止めるという事もしなかった。もしかしたら、自分に止めてほしかったのかもしれないとも思ったが、そこまで思いを巡らすと面倒なので、本人がやるがままにさせてやろうと思った。

 六時間目を終えて戻ってくると、案の定タキオンはトレーニングを嫌そうにはしていたが、田上に抱き締めてもらえば行けると言っていたので、田上はタキオンが満足するまで抱き締めてやることにした。

 この日は、珍しくリリックが五分程遅れてきたが、特に問題があるわけではなかったので、そのままトレーニングをさせた。様子を見るに、リリックの調子は少なくともタキオンよりかは良さそうだった。田上に心を開いてくれるような気配はあんまりなかったが、マテリアルとの様子を見ている限りでは、熱心にマテリアルの話を聞いてくれていそうだったので、田上は安心した。タキオンの方はと言えば、真面目にトレーニングに取り組んでくれてはいるのだが、クラシック期のような元気さはなく、不図すると、タキオンのピークはもう去ってしまったのではないかと思う時もあった。タイム自体はあまり衰退の気配はないが、新記録はここのところ出せていなかった。トレーニングも真面目にしていると言っても、集中できているかはまた別なので、そういう所が新記録を出せていない要因かもしれない。かと言って、田上もそれ程ほいほいと新記録を出せるとも思っていなかったので、――このままタキオンが無事に宝塚記念を走り切ってほしいなぁ、と思うことくらいしかできなかった。

 そのままトレーニングはぼんやりと過ぎていった。休憩に田上の元へ戻ってきたタキオンにあまり元気が無く、田上の下へ来るたびに憔悴していっているようであった。それでも、本人は義務感の為か真面目にトレーニングを続けようとするので、遂に田上の方が折れて、タキオンの両手を掴むと「辛かったら言っていいんだからな」と言った。そして、これでタキオンだけを特別扱いしていると言われても面倒なので、丁度近くに居たリリックの方にも「リリーさんも辛かったらいつでも言ってね」と言わざるを得なかった。

 リリックの方は、特に何ともない顔で「はい」と頷いたが、タキオンの方は小さくコクンと顎を頷かせると、その他には何も言わなかった。田上は心配そうな顔でタキオンの顔を見つめた。タキオンは、その視線に気が付くと、不意に目を逸らしてから「次のトレーニングは?」と覇気の無い声で聞いた。田上は、心配そうな顔でまた数秒程タキオンの顔を見つめた後に「良いんだな?」と聞いた。しかし、タキオンは田上と少しの間目を合わせて「いい…」と言ったので、遂に田上はタキオンを止められずにいた。そして、タキオンが一生懸命走っている時になって、――やっぱり止めればよかった、と思った。

 トレーニングが終わった後は、その罪滅ぼしとしてできるだけタキオンの傍に居てあげて、できるだけタキオンがしてほしい事もやってやるようにした。そして、トレーニングよりタキオンの身の方が大事だという事も何度も言って聞かせた。それについてのタキオンの返答は、「今日は少し疲れすぎていただけだよ。心配かけたね」だった。田上にはとてもタキオンの疲れが今日限りの物だとは思えなかった。それでも、二人でトレーニング場の前の土手に座って幾らか話していると、タキオンの表情に明るさが戻ってきたので、田上の心情は複雑ながらも、どちらかの方向へ踏み出せずにいた。

 

 夕食を食べ、風呂に入り、タキオンからの電話を待っている時に、田中からメッセージが来た。

『今日も彼女と通話ですか?』

 その後に両眼をカッと見開いている兎のスタンプが送られてきたから、田上はスマホを見つめながらふふふと笑った。それから、こう返信した。

『うるせえ』

 そして、テニスの球をラケットで叩いている熊の動く画像も送り返してあげた。田中からは『笑』と来たのみだったので、田上はそれに返信はしないで、タキオンの電話を待った。

 タキオンはそれから五分後に田上に電話を掛けてきた。田上が電話に出たのがすぐだったので「待ってたのかい?」と言ってきた。田上も特に待ったつもりがなかったので「ううん」と返すと、「良い彼氏だ」と謎の高評価をされた。

 それからは、大体明日の事について話した。――どんな家なんだろう。やっぱり私も同棲したい。毎日夕食を作りに行くよ。卒業したら一旦はそこに住むことになるのかな。二人きりの生活も楽しみだ。子供はどうなるかな。

 子供の話の時なると、話に一瞬の不安の影が差したが、大体それは有耶無耶になって流し去られた。

 二人共明日が来るのが楽しみだったし、またドキドキもしていた。ここで漸く二人の人生が重なり合うような気がしたからだ。

 二人共、電話口で弾みにくい会話をそれなりに弾ませながら、夜を過ごしていた。

 

 朝起きると、タキオンは早速田上に電話をかけてこう言った。

「いよいよ今日だ」

 田上はそれに苦笑しながら、まだ眠たそうな声で「引っ越すのはまだ先だよ」と言った。すると、確かにタキオンは少し引っ越しと見学とを楽しみのあまり混同していたようだった。だから、自分の気を取り戻すと、少しがっかりして「ああ、そうか…」と頷いた。それから「早く君と同棲したい」とも言った。これには田上も苦笑するしかなかった。

 食堂にはタキオンは体操服で来ていた。朝食を食べてから暫くした後にトレーニングが始まるからだ。その時もタキオンは終始そわそわとした様子だった。話自体に広がりはないので、見学の話をすれば、昨日の夜に話した事の繰り返しになるだけだった。それでも、タキオンはその話をするだけで楽しいようだった。田上もタキオンが楽しんでいる姿を見れば、自分も楽しかった。

 朝食の後は、トレーニングが始まるまで二人はいつものベンチで過ごした。タキオンはその際にこう田上に言った。

「君の家に泊まるようになれば、ここでこうして君の顔を眺める事も少なくなるんだろうね」

 特に残念と言ったそぶりではなかった。むしろ、嬉しくて嬉しくて堪らないといった表情だった。田上は、自分の膝を枕にして、ベンチに寝転がっているタキオンの髪を撫でながらこう返事をした。

「平日はここに居るんだから、あんまり変わらないよ」

「そうか…」と言いながらタキオンは複雑そうな顔をして見せた。「むしろ、…ここに平日すらも居ないといけないのか…。…君の家に泊まるだけっていうのはどうだい?」

「え?」

「住所はそのままだよ。君の家にあくまでも泊まりに行くだけ。彼氏の家に毎晩泊まりに行くというだけだよ」

「お前、それは前も言ってたけど、駄目だよ。同棲と全く変わるところが無い」

「そうだろうねぇ…」とタキオンは言いながら、目の前にある田上の鼻に手を伸ばして、その鼻の頭をチョンと突いた。

 

 やがて、トレーニングの時間になった。やはり、この時間が近づくにつれて、タキオンの元気はなくなっていった。ここでまた田上は「嫌ならトレーニングの調整をするよ?」と提案した。タキオンは、少しそれに悩むそぶりを見せたが、やっぱり首を横に振ると、「いや、いいよ」とその提案を断った。田上は、難しい顔をしながら「お前の事が心配だよ」と言った。タキオンはそれに少し微笑むと「私は愛されてるね」と返した。

「愛されてる自覚があるなら、もう少し俺の言葉も聞いてほしいけど…」

「しかし、もう後戻りはできないだろう?」

「…できる。俺がなんとか融通を利かすよ。だから、苦しいんだったらいつでも言ってくれ」

「……苦しくはないよ。昨日が少し疲れていただけ」

「じゃあ、今日のトレーニングは少し緩くしようか」

 この提案には、また少しタキオンも悩んだが、田上がどうして譲らなそうな顔をしているので、「分かった。そうしよう」と頷いた。何だか、こういう距離の取り方は、菊花賞以前を彷彿とさせた。

 タキオンが、田上の事をそれ以上前に踏み込ませないやり方だ。以前は、それをはっきりとは感じていたなかったが、今は恋人してありありと感じる。それだけに、田上はそういうやり方が怖かった。タキオンが自分を置いてこのまま何処かへ行ってしまうのではないかと思った。しかし、今は恋人としてできうるかぎり手を繋いでおかなければならない、タキオンを一人で何処かへとやってはいけないという覚悟もあったので、膝枕の上で申し訳なさそうに自分を見てきているタキオンに向かって、少ししかめっ面のような真剣な眼差しを向けた。タキオンはその眼差しを受けると、横の方に目を逸らした。

 

 トレーニングには、田上がタキオンを背に負って連れて行った。別に、田上が無理矢理というわけではなく、タキオンがそうしてほしいと頼んだからだ。そして、いつものトレーニング場に着いたのだが、タキオンは田上の背から降りようとはしなかった。時間がそれほど切迫していたわけでもないので、田上も無理には下ろさなかったが、そうすると、もうすでに到着していたリリックとマテリアルが傍に寄ってきて、タキオンの事をからかうように見つめ始めた。からかうようにニヤニヤしているのはマテリアルの方だが、リリックの方は、二人のおんぶしている様を見ながら、この奇妙な関係に思いを馳せていた。トレーナーと教え子、女子高生と成人男性というカップルは今見ても奇妙に思うくらいだった。なぜ、この二人は付き合うことにしたのだろう。リリックの謎は未だに解けていなかった。

 すると、タキオンをおんぶしたままの田上が背をかがめて、リリックとほとんど同じ目線に立ちながら言った。

「リリーさんは、何か行きたい場所とかある?」

「行きたい場所ですか…?」

「うん」

「……千葉の遊園地に…」

 そう言うと、タキオンと田上は揃って苦笑した。リリックには何の事だか分からなかったので、その様が少しムカついた。それから、田上はこう言った。

「それは、チームの皆で行ってもいいもの?」

「……分かりません」

 誤魔化すための微笑みを浮かべながら、リリックはそう言った。田上は、「そうか…」と少し悩んでいたが、次にこう言った。

「リリーさんは登山とか行きたくない?」

 すると、タキオンが口を挟んだ。

「おい、君。登山は私とのデートだろ?」

「違うよ。別でそういうのをやってみるのもいいのかな?と思って。…で、リリーさんは?」

「私ですか…?……登山は楽しいですかね?」

「まぁ、皆で話しながら登る登山は楽しいかも?あ、あれだ。登山と言っても、富士山に登る様なものじゃなくて、そこら辺の低い山に一日で登って下りてくる、日帰り遠足みたいな登山だよ?」

「ええ……いつ頃に?」

「いつ頃にって言うのがまだ決まっていないんだよね」と田上は苦笑して見せた。その後にタキオンが言った。

「何しろここ最近は私との用事で詰まっている。引っ越しに、私とのデートに、トレーニングもしかりだね」

「…登山した後はまた通常通りトレーニングですか?」

「いや、そこは様子を見るよ。リリーさんが疲れていたんだったら、次の日、そのまた次の日くらいまでは休んでもいい」

「うーん…」とそれでもリリックが悩んでいると、田上はこう言った。

「別に登山に限らず、もし、チームの皆で行きたいってものがあるんだったら行ってほしい。遊園地も行きたいのであれば考えるよ」

 その後に、タキオンが、田上の気を引く様に、少し強く抱きしめてきたので、田上もそれに応えるように、少し背筋を伸ばして、タキオンを背負い直して見せた。タキオンの期待した反応ではなかったが、ここで話の腰を折るのも彼氏に可哀想なため、後で小言を言ってやろうとタキオンは思った。

 リリックは、田上にそう言われた後でも「うーん」と考え込んでいたが、最終的にこういう結論を出した。

「行きたいのは登山くらいですかね…。あんまり良く分かりません」

「うん。まぁ、ないならないでいいよ。あと、思ったんだけど、デビューの日。俺が付き添っていくって言ったんだけど、本当はマテリアルさんの方が良かったりする?…一応、経験は俺の方があるけど…」

 これにもリリックは「うーん」と悩んだ。まずマテリアルの顔を見て、次に田上の顔を見て、それから、田上の背で話なんてそっちのけで顔を俯かせているタキオンの様子を見た。そして、また田上の顔を見ながら「うーん」と唸ると言った。

「田上トレーナーが、…いいですかねぇ…」

「俺に気は遣わなくても全然大丈夫だよ。マテリアルさんの方がたくさん話せて良いんだったらそれでいいし、俺の方が頼りがいがあるって言うんならそれでいい。…言っても、マテリアルさんもいざという時には頼れると思うけどね」

「んー……、もう少し考えてみて良いですか?」

「いいよ」

 そう言った後にトレーニングが始まった。タキオンに「トレーニングを始めるよ」と言っても背中から降りようとしなかったので、仕方なくリリックだけトレーニングを先にやらせることにした。すると、後輩にだけトレーニングをやらせるのが癪だったのか、すぐにタキオンは田上の背から降りた。降りたと言って、やる気が満ち満ちていた訳ではなく、しょうがないからやってやろうという態度だった。そこでまた田上は「辛かったらいつでも言えよ」と念押しするとタキオンをトレーニングへと送り出した。

 確かに昨日はいつもよりも疲れているらしかったが、それでも、今日の午前中に見るタキオンの顔は菊花賞以前よりも明るさを失っている事は事実だった。田上は、今ここで無理矢理にでも引退させた方が得策なのだろうかと考えたが、いまいちその方向へと踏み出すことができなかった。そこに何があるのかが分からない。自分の愚かな自尊心だろうか?タキオンを無理に引退させることによって、世間から自分が非難されることを恐れているのだろうか?確かに、その方面は嫌ではあったが、最近は世間は思ったよりも心が広いのかもしれないと思っている最中でもあった。となると、一体何なのだろうか?タキオンを想う心だろうか?それとも、自分がタキオンの状態を軽視しているのだろうか?一体どこへ行きつこうとしているのだろうか?タキオンをこのまま走らせても良いものなのだろうか?

 そんな事をトレーニングの最中に悶々としながら考えていた。

 

 トレーニングが終わって、タキオンがシャワーを浴びて着替えてくると、タキオンは余所行きの可愛い衣装を着て、いつものベンチに座っている田上のもとに来た。田上はタキオンのお洒落な格好を見ると、途端に何も考えないで服を着替えてきた自分がバカみたいに思った。少しの恥ずかしさがあったが、何もタキオンの前で恥ずかしさを押し隠す必要もないので「俺ももう少し服を選んで来たら良かったかな?」と聞いた。タキオンは座っている田上の服装をじっと見つめると、「いや、変わらず君はかっこいいよ」と言った。これをタキオンが平気な顔で言うので、田上は照れてふふふと笑う事しかできなかった。

 その後の時間は、特に書き記す事もないままに過ぎていった。適当に「今日は良い日和だ」などの事を喋って時間を過ごし、昼食を食べ、そしてもう不動産会社の方に行こうという事になった。見学にはまず不動産の方に行く必要があるらしかった。田上も以前は一人暮らしをした事があったのでこういう事もしたはずだったのだが、何をどうしたのかはとんと覚えていなかった。

 不動産会社は人の足で歩いて十五分程らしかったので、二人は手を繋ぎながら正門から外へ出た。ここに来ると田上は多少身構えた。今まではトレセンの中だから紛れているという安心感が、大した根拠もなくあったのだが、ここからはもしかしたらトレセン学園の有名な田上トレーナーとその教え子のアグネスタキオンになる可能性がある。その緊張した様子に気が付いたタキオンが声をかけてみると、田上にそういう事を言われたので「今更じゃないか」とタキオンは笑った。田上も今更なのは自覚していたので、――どうか誰にも話しかけられませんように、と祈りながらタキオンと手を繋いで歩いていた。

 

 道中で、高校生くらいのイヤホンを付けた男にジロジロと睨まれた以外は、特にこれと言った事もなかったので、田上はほっと一安心したが、不動産で応対してくれた人には自分たちの名前を打ち明けなければいけなかったので、これで田上の精神はすり減った。

 自分たちの担当をしてくれたの長田という女性の人だったが、二人の名前を聞くと一瞬目をカッと見開いて、キラキラと輝かせた。その時は手を繋いでいなかったので特に付き合っているという素振りは見せていなかったが、やはり、不動産に男女が二人で来たという事はそういう事だろう。ソファーのある場所に通されて、対面で座った時に早速「彼女さんとの同棲ですか?」と聞かれた。田上はすぐに首を横に振って否定した。

「いえ、同棲ではなく、…彼女が俺の引っ越す家を見たいと言っていて…」

「ああ、はいはい。了解しました」と女性はハキハキ喋りながら、満面の笑みで頷いて見せた。田上は、もう少しこの女性が大人しくなってくれないものかと思った。

 それから、他の幾つかの物件も紹介された後、田上の気も変わらなかったので、実際にその物件を見てみようという話になった。田上はもう少しタキオンが話に割り込んできそうな物と思っていたから、不動産についてから終始黙っているタキオンを不思議に思った。それで、女性が運転する車に乗って、田上の自宅となるべき場所へ向かっている途中に小声でタキオンに話しかけた。

「お前、大人しいね…」

「そうかい…?」

「…終始黙ってる」

「…君の邪魔しちゃ悪いだろ?」

「そうだね…」

 田上はそれ以上話す事が無かったので、顔に微笑を浮かべたまま、また先の道の方を車窓から眺めた。

 家に着くと「これがこうこうで、どれがあれあれで…」と説明をされた。そして、タキオンと二人で手を繋ぎながら部屋の一画一画を見て回った。手は当然田上が繋ごうと思って繋いだものではない。それどころか、タキオンの手が、田上の手に繋ぎたそうに触れた時は、少し手を振るって、その手を撥ね退けたくらいだった。それがタキオンの癪に障ったのかは知らないが、今度は先程よりももっと積極的に手に触れてきたので、田上は仕方なくその手を受け入れた。

 内装はまぁ簡潔なもので、何も物を置いていないから当然だろう。これが箪笥や机などを置いてみるとどのようになるだろうかと思って、田上は頭の中で空想してみた。そして、実際にタキオンの意見も聞きたかったので、それを口に出して聞いてみた。

「ここにこのくらいの机を置いてみたら狭いかな?」

 田上が身振りで机の大きさを示してみると、タキオンは「んー」と悩んだ後に、「それ程狭くはないだろう」と言った。

 ここで起こったことはこれくらいなものだった。大して広くもない部屋二つに、台所、風呂、トイレがある。一階である。ベランダがある。ベランダから道路を挟んだ向かいの方には公園がある。子供たちが遊んでいるのが見える。総じて、この家の評価は「悪くないんじゃないか?」だった。少し不安だった。自分たちが間違った方向に進みだそうとしているんじゃないかと思って、田上は、そのような曖昧な口ぶりで、タキオンにも同意を求めてみた。タキオンの表情からは何を思っているのか読み取れなかったが、言葉は「良いと思うよ」の一言だけだった。それによって、田上の不安はまた少し増したが、それ程強い不安でもなかったので無視する事にした。

 それから、一向は再び会社の方へ戻る事となった。この帰りの来るまでは何も話さなかったが、タキオンが満足そうに田上の手を握ってきた。

 

 不動産会社に帰れば、再度また何やかやと説明があったが、田上も生き急いでいる若者故、特に何かを思う事もなく「これに入居したいと思います」と決めた。タキオンも隣でしっかりと頷いて見せた。そして、申込書やら何やかやに色々と書きこまなければならなかった。これにはタキオンも少々退屈そうだったから、「お前だけ先に帰っててもいいよ」と声をかけたのだが、タキオンは首を横に振ってそれを拒否した。

 いくらか書き物をした後に、担当の人から「それでは、これから一週間ほどの入居審査をさせていただきますので云々」と言われたので、田上はそれにコクコクと頷いてから「はい」と返事をした。

 これにて、田上の自宅との初対面は終わった。外に出ると、思ったよりも早く終わったことに気が付いたので、田上は「コンビニでアイス買って、適当な場所で食べるか?」とタキオンに提案した。タキオンはこれに嬉しそうな顔をして「うん」と一言頷いた。

 タキオンの口数は不動産を出てからもあまり増えはしなかった。ただ、表情を見る限りは嬉しそうである事に間違いないので、タキオンの元気に関しては心配していなかった。しかし、やっぱり不思議でもあったので、アパート行きの車の中でしたように「今日は大人しいな?」と言った。タキオンは、田上にそう言われると、俯かせて地面を見ていた目を上げて答えた。

「ん?そうかい?」

「…元気が無いのか?」

「いや、…そういうわけじゃないよ…」

「…どういうわけ?」

「………そういう気分」

「…そうか…」

 田上はこの言葉を判じかねた。明らかに普段のタキオンの様子と違う事は確かなので、この言葉の裏に何かあるものじゃないかと思った。しかし、そういう気分であるという視点から見れば、タキオンは確かにそういう気分によって、大人しくなってしまったのでないかと思ってしまう。そういう気分とは一体どういう気分なのだろうか?これは、確実にタキオンに答えをはぐらかされている。かと言って、自分もそういう気分の時がある。大人しくなりたいというか、やる気が出ないというか。そういう事を無理に説明させるのも如何なものだろうか?

 そう思いながら、二人はコンビニの中へ入って行った。

 

 コンビニの中に入ると、やはりアイスを選ばなければならないため、自然とタキオンの口数は多くなっていった。田上は、今の自分の心配は杞憂で終わったのではないかと思った。タキオンは、「これは君の好きなものかい?」「あれはどうだい?」とやはり普段よりかは大人しめの口調で聞いてきた。田上は、んーと悩みながら、最終的にはタキオンがお勧めしてきた物とは全然違う物を選んだ。タキオンは特にそれに難色は示さず、むしろ「アイスは一つずつかい?」と図々しく聞いてきた。田上も彼女の前では甘いから、「お腹壊さない程度にしろよ」と言った。それで、タキオンは二つのアイスを選んで、二人で計三つのアイスをレジへと持っていった。

 コンビニを出て暫く歩くと公園が見つかったので、二人はそこのベンチに座ってアイスをぺろぺろと舐めた。この時のタキオンの笑みなどは、今日一番の物だった。公園では子供が遊んでいる。携帯ゲーム機で遊んでいるのが二人、田上たちと反対向こうのベンチに座っていて、サッカーをしているのが四人。これは中央でわーわー言いながら遊んでいた。田上はサッカーをしている方ではなく、携帯ゲーム機を持って俯きながら黙々と遊んでいる二人に目を向けながら「俺もああしてたなぁ」と言った。

「ああ?」とタキオンが聞き返した。

「ゲーム機を持ち寄って、公園に来たのに、ゲームをして遊んでたよ」

「…幸助君とかい?」

「幸助だけじゃなくて、幼馴染とかとも遊んでた」

「サッカーはしなかったのかい?」

「サッカーもしたよ。だけど、わざわざ公園に来て、ゲームをするって面白くないか?」

「夏だと暑いだろう?」

「夏は…どうだったかな?…夏はクーラーの効いた友達の家でしてたときもあったかも」

「君の家では?」

「俺の家だとゲームは自由にやらせてもらえなかった。母さんが厳しかったから」

「ああ…」

 そう言って、タキオンは田上からゲーム機で遊んでいる二人の方に目を戻した。田上も釣られて目を戻しながら言った。

「あの頃に帰りたいんだか、帰りたくないんだか…」

「…帰りたいのかい?」

「…どうだろう?…今はやっと楽しくなってきた頃だよ。タキオンが居るから。…ただ、これまでずっとあの頃に帰りたい帰りたいと思い続けてきて…、…どうなんだろうねぇ…」

「…」

 タキオンは、今度は、サッカーをしている子たちが走っている芝の方を、見るともなく見つめた。田上との距離が近いのか遠いのか、急に分からなくなったような気がした。隣に居るのが本当に田上なのか怪しむような気さえあった。タキオンは、ここで田上に何か聞いてみようかとも思ったが、生憎今は口を開く気分ではなかった。さらに、アイスも食べているから、二本目が溶けないうちに、早く一本目を食べ終わらなければならない。二人は沈黙のうちに、芝生の上の少年とゲームをしている少年とを見つめていた。

 

 タキオンが二本目のアイスを食べ終わる頃には、とうの昔に田上はアイスを食べ終わっていた。そこで二人は公園にあったゴミ箱にそのゴミを捨てると、タキオンは少し手が汚れたと言って、水道で手を洗いに行った。

 手を洗い終わって、田上が座っているベンチの前に戻ると、タキオンは一度田上の前に立ち止まって彼氏の顔をじっと見つめた。それから、また動き出すと田上の横に座り、彼の肩に体をもたれ掛けさせた。田上は「もう帰ろうか」と言おうと思っていたのだが、ここで言うタイミングを逃した。ここでそんな事を言っても、タキオンは確実に「帰らない」と返すだろう。それに、田上ももう少しここに居ても良いと思うくらいには、このベンチでくつろいでいた。もしかしたら、この公園が柵や木に囲まれて閉鎖的かつ、子供だけしかいなかったからかもしれない。

 タキオンは、田上の肩に寄りかかりながら、その右手を左手でそっと握った。それから、二人は手で会話をした。と言ってもお互いが何と言っているのかは分からない。じゃれ合いの様なものである。タキオンが握ると田上の手が反応して手を広げる。すると、タキオンがその手の平をちょんちょんとつついてみる。それにまた田上が反応して、タキオンの手をちょんちょんとつつき返す。そんな事をして二人で暫く会話をしていた。何も察する事のしなくていい豊かな会話だった。

 会話はあまり長くは続かなかったが、充実した物ではあった。その後は、二人共肩に触れるお互いの温もりを感じながら、いつものベンチとは違った日の当たり方、背もたれの感覚、見慣れない景色を感じていた。いつまでここに居るのか、二人の頭に具体的な予定はなかった。これから死ぬまでここに居ても良いかもしれないと、田上は、タキオンの小さな手を感じながら思った。タキオンもまた同様に、田上の大きな手を感じながらそう思った。日はまだまだ長い。そして、二人を再びトレセン学園へと連れ戻す事件も起こらない。田上は、うとうととした頭で――もう本当にこのままここで死んでしまうのかもしれない、と考えた。

 結局、二人は四時半という時になって立ち上がった。ゲームをしていた二人組がもう帰ろうとしていたからだ。よくよく見ると、片方の方が習い事のバッグの様なものを背負っていたので、これから習い事があるのかもしれない。――ご苦労だなぁ、と思いながら、田上はその背を見送った。そして、もうそろそろ自分たちも立ち上がらないと、このままここで死んでいるわけにもいかないと思って、隣で微動だにしないタキオンに「おい」と声をかけた。

「おい、もう動こう。帰ってからでもできるぞ」

「……ここでもう少しこうしていたっていいじゃないか…。門限は七時だ…」

「……俺も少し飽きてきたんだけど…」

「…じゃあ、体勢を変えるかい?」

「んー」と田上が曖昧な返事をしていたが、タキオンはそれが是であるか非であるかに関わらず、ゆっくりと素早く田上の体に手を回すと、田上がベンチから離れないようにしながらその膝の上に抱き合うようにして座った。…が、今回のベンチは背もたれのあるベンチだった。足を伸ばすゆとりがない。暫くどうにかこうにか落ち着ける位置を探してもぞもぞしていたのだが、やがて、不満げな顔をしながら田上に「ここじゃ、足を伸ばせない」と言った。田上も苦笑しながら「じゃあ、帰るか?」と聞いた。それには首を横に振って、もう少し足の位置を試行錯誤したのだが、やがて諦めると田上の隣にまた戻って、田上の手をぎゅっと握りしめた。

「離さない」

「……まぁ、あんまり遠くもないからいいんだけど…」

 田上はまたタキオンの小さな手を感じながら公園の景色を見つめる事にした。陽はまだ高い。日暮れまでは幾らかある。その中でどうやって暇を潰そうかと思いながら田上はサッカーをしている子供たちを見つめている。

 不意に、サッカーボールが男の子の脇を通って、田上の方まで来た。その頃には、タキオンは、田上の膝の上に頭を乗っけて、ベンチに寝転がっていた。田上はそのボールを男の子たちの方へ蹴り返してあげた。すると、「ありがとうございます」と礼儀正しく頭を下げてくれた。田上も無言で頭を下げ返したが、男の子たちの視線はすでにタキオンの方に注がれていた。男の子たちからしたら、年上のカップルがこうしてベンチでくつろいでいる事など興味があって堪らないだろう。しかし、奇異の目で見つめた後でも、あんまりジロジロ見つめるのも失礼と思ったのか、すぐに目を逸らしてサッカーをしに戻った。

 田上は、――周りから見たら俺たちはバカップルみたいな物なんだろうなぁ…、と思いながら今の視線の事を考えていた。かと言って、今タキオンに膝枕をやめろという事もできない。もう少し大人としての分別を持てと言う事もできない。また、注意するほど悪い事をしているとも思っていない。それらの要素が組み合わさって、バカップルとして今ここに居る。

 これは大人としての分別を持っている大人でもやる事なのだろうか?若気の至りなのだろうか?歳をとればもう少し落ち着きそうな気もするし、万年バカというのもありそうな気もする。三つ子の魂百まで、という事なのだろうか?すると、田上の頭は――三つ子の頃の俺はどんなものだったかな?という考えに引っ張られていった。父や母の思い出話で聞く限りでは、夜泣きの激しい子だったらしい。これは三つ子よりも少し前の頃かもしれない。言葉の覚えは悪い方だったらしい。それで、母が気を揉んでいたという事を話していたのを覚えている。すると、俺の魂というのは言葉の覚えが悪いという事なのだろうか?――そういう事でもないだろう。もう少し何かあるはずだ。

 そうして考えていると、下からタキオンの手が伸びてきて、田上の顎をくすぐった。これは構ってほしいのだろうとすぐに分かったから、タキオンの為に下を向いてやると、タキオンが微笑を浮かべながら「圭一君…、好き」と言った。田上もタキオンに釣られて微笑しながらも、それに言葉は返さずにタキオンの頬をぷにぷにとつついてやるだけにした。すると、それだけでは満足できなかったらしく、再度元に戻ろうとした田上の視線を引き戻して、タキオンは「好きだよ」とまた言った。田上は、その言葉にどんな意図があるのだろうと思ってタキオンの顔を見つめていたが、やがて、田上にも好きと言ってほしいのだろうと気が付いて「俺も」と言った。それ以降は、また平和な沈黙が続いたから、田上は思考を再開した。

 思考は上手くまとまる様な気もしたし、まとまらないような気もした。バカップルの自分たちに対して、碌な答えは出ないような気がした。結局は時が解決するような気がしたし、解決しないような気がした。それでも、田上の脳みそは、暇である今、考えることくらいしかできないので、まとまりのない物にまとまりを付けようとしていた。

 そうしていくと、段々と疲れてきた。もう早く帰りたいなぁ、という頭で思考をストップさせた。タキオンは、田上の膝枕でぬくぬくと楽しそうである。田上は楽しくない。ここに、田上は、自分と他人との狭間を感じた。それと共に遠慮も感じた。タキオンに遠慮をしてもいいのだろうか?と思った。タキオンならば遠慮はするなと言うだろう。しかし、遠慮をせずに言ったところで、この状況はタキオンが作り出しているのだから、タキオンがうんと言わない限りは終わらない。ここに自分と他人との乖離を感じる。

 ぼんやりとした頭の中で、夫婦という物はどのようにして存在しているのだろうと思った。一心同体と言いたくとも、一人一人の感性があって夫婦は存在している。これがぶつかり合って弾ければ離婚する。弾けなければ離婚しないのだろうか?結局は、ぶつかり合わなければならないだろう。例えそれが、怒鳴り合うなどの物理的な行為でなくとも、精神の中でぶつかり合わなければならないかもしれない。自分の利と相手の利がすれ違う中でぶつかって、精神を消耗する。そして、いつかは離婚する。このような離婚の仕方もあるかもしれない。――自分たちの精神はどうなっているのだろうか?田上はここの所が気になった。果たして、自分が、このままタキオンに合わせ続けるのが、離婚しないコツなのだろうか?それとも、自分の利を押し通そうと無理を言って、タキオンを自分に合わせさせるのが離婚しないコツなのだろうか?

 そこで田上は今の自分たちの状況をそれに重ね合わせた。これは、タキオンが自分に無理を言っている図である。自分の我儘よりタキオンの我儘の方が多いかもしれないと思う時もある。我慢とは一体何なのだろうか?社会生活における我慢とは一体自身の生活にどのような影響を及ぼすのだろうか?自分の我慢はやがて積み重なってタキオンとの諍いを起こすのだろうか?それとも、人を思う心として、我慢は我慢のままに消化されていくのだろうか?言うべきことをガツンと言った方が良いのだろうか?タキオンを甘やかしてはいけないのだろうか?

 そこに行き着くと、田上は――タキオンを甘やかしたい、と思った。確かに多少の我慢を強いられるが、田上に取ってタキオンはいつでも愛すべき人だった。できるだけ諍いなんて起こしたくない対象だった。多少の我慢なら何とかなる。

『多少の我慢』

 これが田上に取って問題だった。結婚の成功。つまり、末永く、死ぬまでその関係を持続させることが望みだった田上にとって、失敗するのは絶対に避けなければいけない恐怖に似た感情を持っていた。完璧主義者と言えばそうだろう。田上の頭の中には、今はタキオンしかない。タキオン以外と結婚するのはあり得ない。また、したくない。田上は、愛を尊ぶべき物と思い、自分こそを尊ぶべき者と思いたかったから、このような思いに背く失敗はしたくなかった。失敗した時こそ、自分の牙城が崩れて行く時だろう。その為に些細な事でも心配の種だった。

 果たしてこれが正しいのか。自分が今進んでいる道が正しいのか。これを誰かに教えて欲しかった。その道はこれこれこういう理由で完璧に正しい。それ以外の道はない。その道を行けば必ず成功する。

 それを、田上が絶対に納得できるこの世の森羅万象ともいえる理論で教えて欲しかった。そして、後に不安や不満が全く残らないようなものだ。言ってしまえば、科学がそうなるかもしれない。科学的にあなたの女性を愛する心は性欲によって支配され、愛される心は性欲によって支配され、この世は性欲によって全てが回っている。ただ、田上だって自分をもっと尊ぶべき物、科学などという凡庸で稚拙な物理だけを振り回したもので構成されている物ではないと思いたかったため、どっちにしろ科学などもあまり信用せず、精神に対する熱心な信仰者だった。

 そんな事をぼんやりと考えていると、タキオンが田上の顎をまたくすぐってきた。田上は、まだ考え事に思考を奪われている目でタキオンを見た。それから、徐々に目の前にいるタキオンを認め始めた。そして、少し微笑むと「帰るか?」と聞いた。タキオンは、田上と同じように微笑みながら、「帰ろう」と頷いた。

 帰っている時の二人の口数は少なかったが、後ろ姿の仲は良さそうだった。少なくとも手は繋いでいた。ただ、近づいたり離れたり、フラフラとしていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。