二人は夕食や風呂などの諸々の事を済ませ、部屋に戻った。そして、電話をした。電話の中身はとりとめのない物だったが、初めの方は少しの話があった。
「んー」とタキオンが唸った。二人共、電話口の初めの挨拶はしたのだが、その後が続いていなかった。だから、タキオンは、今まで流れていた沈黙を取り繕うかのように、唸ってから言葉をぽつりと発した。
「…ようやくだね…」
「うん…」
「……何か喋ってくれないか?私じゃ何にも思いつかない」
「んん…」と田上は曖昧な返事をしてみせた。それで、タキオンは、田上が自分の話をしっかり聞いてくれたのかどうか怪しんだのだが、田上は少し考えてから、こう口を開いた。
「…タキオンは、……信頼ってなんだと思う?」
「信頼?」
「うん…」
「何って…言われてもねぇ…。…どうして急に?」
「……俺、…お前と付き合えるのかなぁって」
「…うん。…私には、こうして自分の心を吐露してくれている事こそが信頼の証に見えるが?」
「…うん…。…そうじゃないんだよ。……俺は、…人が進むべき道を進んでいるのかな?」
「人?」
「……人…。…もしかすると、俺は獣と大して変わらないんじゃないか?」
「…君はれっきとした人間であると思うよ」
「……獣ってのはあんまり未来の事は考えていないだろ?」
「どうだろうね?知能の高い哺乳類はいるんじゃないかな?」
「知能が高くても高くなくても、獣の考えている事は繁殖か、次の食べ物って所じゃないか?」
「ゴリラは神経質だって言うね。縄張り意識が強いらしい」
「…じゃあ、後はライバルとかそういうものだ」
「ふむ」
タキオンは、これ以上話を乱すのも愚だと思って、簡潔に頷いて見せた。
「………俺は、……どこに行けばいいんだろう?お前と付き合って結婚してその先に何があるんだろう?結局は死ぬんだろ?」
「君と私の子供は私たちの影響を受けて、その後も生き続けるよ」
「…………」
それきり田上が黙り込んでしまったので、代わりにタキオンが口を開いた。
「君は……、何かを探しているんだろうね…」
「……うん」
「…探せる分だけ羨ましい物だよ」
「……お前は探すのは嫌なのか?」
「ここの所はね。君が守ってくれるし…」
「…………俺は、……お前にも守ってほしい。…お前が俺の為にしてくれたことは分かってる…。……やっぱり駄目かな…」
「駄目じゃない…。…私が君にしている事も分かってる…」
「……やっぱり、…俺が、お前に対して、申し訳ないって思うのは間違ってるよな。そういう壁を作れば作った分だけ話しにくくなる。…俺、お前に対してはもう少し無礼に生きる。…だから、お前も俺に対して無礼に生きて。俺に対して申し訳ないなんて思わないでくれ」
唐突な田上の変わり様に、タキオンも少し苦笑の様な心持ちで答えた。
「無礼に?」
「もっと、……でも、怖いよなぁ。無礼にして、傷付けて、そのまま立ち去られたらと思うと怖い」
「そうだろうね」
「………無礼な事を一つ言ってみてもいい?」
「一つと言わず何個でも」
「……もう少し……打ち明けてほしいというか、…今日のお前、いや、昨日から。お前少し変だよ。…お前の方にも俺は踏み込んでいいんだろ?」
「…それは…、…無礼な事かい?」
「いや、…この…俺は今から無礼な事を言うかもしれない。お前にもう少し踏み込まないといけないかもしれない。じゃないと苦しくて苦しくて」
「それはすまなかった。…私の責任だね」
「お前の責任じゃない。俺の苦しみは、俺が勝手にお前に共感した物だよ。だから、お前の責任も、俺の責任にしてほしいって事だ」
「………」
「…聞かせてほしい。…対面だとお前は誤魔化そうとするかもしれない。そして、俺も甘いから。許してしまうかもしれない。…だから、ここで話してみたい。 お前は、このまま走っていて辛くないのか?…俺をもう少し見てくれないか?」
「……」
「………俺は、お前と離れたくない。一生一緒で居たい。その為に、一先ず目の前にある問題を共有してほしい。一人で抱え込まないでほしい」
「………」
「お前が、俺の事を偉大な彼氏と言うんだったら、俺は本当に偉大な彼氏なんだと思う。俺が想像するよりも数倍偉大なんだと思う。その偉大な彼氏を一人にしないでほしい。偉大な彼氏は、お前が隠し事をしてるってことくらい分かる。でも、その内容が手に取るように分かるわけじゃない。……打ち明けてほしい…」
そう言ってから田上は口を閉じた。これ以上喋るのはあまり良くないだろうと思ったからだ。そして、タキオンが話し出すのをじっと待った。タキオンが話し出すまでいつまででも待つつもりだった。こちらも今は暇な時間だ。タキオンの言葉を待つことなど十分も二十分も造作もない事だった。
少し経ってから、タキオンは電話の向こうに田上がいるのかが気になって、小声で「圭一君…?」と囁いた。すると、普通に返事が返ってきたので、呼び掛けたのを後悔した。田上はこれを機にだと思って、こう言った。
「何か纏まるものはあったか?」
「………君の顔を見て話したい…」
「ええ?…テレビ電話?」
「テレビ電話じゃないよ。…君の近くで…」
「……どうかなぁ…?俺も、お前の困った顔を見てると、つい優しくしちゃいたくなるような気がするんだよな…」
「………君が傍に居ないと勇気が出ないよ…」
「んー、…参ったな。……お前は、…どうしようかな…。……明日は選抜レースだしな…。……お前は、…今度こそ向き合うつもりはあるか?…今回ばかりは分からないで済ませたくない。一生懸命向き合って話したい」
「………」
「んー」と田上は、あからさまに答えなかったタキオンに少し苦笑しながら唸った。「んー…、こうして話されると怖いか?」
「………」
「…お前も苦しいかもしれないけど、俺も苦しいんだよ。苦しんでるお前を見てるだけで苦しい。俺がそういう人間だってのはお前も分かっているだろ?」
「……」
「んー…、どうしようかねぇ…。……じゃあ、直接会ったら話せるんだな?」
「……」
「これには答えてほしい。今は電話口だから、俺もお前の言葉を聞かないと分からない。…教えてくれないか?」
「………分からない」
「んー、分からないかぁ…。…まぁ、いいや。明日話そう。朝だったら、選抜レースが始まるまでに確か時間があったはずだ。…今回は逃がさないからな」
「……」
「…言葉がきつかったかな?ごめん。言い過ぎたかもしれない。…俺も明日はもう少し、今日よりも少しお前と向き合ってみようと思ってな。……何か話すことある?」
「……」
「……なにか…話してほしいとかある?朗読とかしようか?お前も元気ないみたいだし」
「……朗読は嫌だ」
「じゃあ、何が良い?」
「………そのまま喋ってて…」
「一人で?」
「うん…」とタキオンが頷くと、田上も苦笑した。
「一人で喋れって言われてもなぁ。あんまり喋る方じゃないからなぁ。……会話は無し?」
「うん」
「…それは困った。…通話続けながらゲームでもしてていい?偶に驚いた声を出すから、全く喋らないって事はないと思うけど」
「…駄目」
「うん、駄目か…。…じゃあ、どうしよう。…一人で霞みに向かって話しかけるって言うのもあれだから、お前もせめて受け答えくらいはしてくれないか?話題は俺が捻り出すから」
「…そのくらいなら…いいよ」
「じゃあ、…おすすめのゲームでもタキオンにプレゼンしてみようかな?」
「ゲームはやめてくれよ…」
「いや、結構面白くて深いゲームだから、一回聞いてみれくれよ」
「んん」とタキオンが返事をしてから、とりとめのない会話が始まった。話はあっちへ行ったりこっちへ行ったり、偶に黙ったり、急に思い出話に派生したりと纏まりはなかったが、まとまりが無ければ無いなりにタキオンを楽しませることができた。そのおかげで、電話を切って寝るころになれば、二人共電話を始める前よりかは少し気持ちが明るくなっていた。
朝は自分の目覚ましでタキオンは目を覚ました。そして、田上にモーニングコールをしてやろうかと思ったが、昨日の夜の電話を思い出すと中々手が進まなかった。その内に、段々と時間が過ぎていった。隣で起きて着替えを済ませたデジタルが、普段の様に嬉々として自分の彼氏兼トレーナーに電話しないタキオンを気遣わしげに見つめてきているのが分かる。しかし、気乗りしないのだからしょうがない。タキオンは、鬱病者の様にベッドの上に寝転がったまま身動き一つしなかった。
その三十分後くらいに突然スマホが鳴った。タキオンにはすぐにそれが田上からだと分かったが、電話に出るのは億劫だった。しかし、タキオンが、今現在、最も会いたい人物こそ田上でもあったので、この機を逃せばもっと話がややこしくなると思って、渋々タキオンはスマホの画面をポチリと押して電話に出た。電話の向こうからは、田上の優しげな「タキオン〜?」と呼び掛けてくる声が聞こえる。返事をしようかどうか迷って、結局返事をしない事にした。すると、田上が「返事をしてくれなきゃ困るよ~」と呼び掛けてきた。これには、またタキオンも大いに迷ったが、生憎声を出そうにも出す気力が湧かなかった。その為に、タキオンは田上の「じゃあ、一応食堂で朝ご飯を食べながら待ってるからな?」という呼び掛けにも答えられずに、ベッドの上で寝転がっていた。
その後は、タキオンの胸は、後悔の苦しさによって押し潰されそうになりながら、息をしていた。このまま自分は放っておかれるのだろうか?と思った。その時に、同室のデジタルのスマホの通知音がピロンピロンとうるさく鳴っていたので、それを多少八つ当たり気味に鬱陶しく思っていた。
すると、唐突にデジタルの足音がしたかと思うと、横になっていたタキオンの腕を軽く叩かれて「タキオンさん」と呼び掛けられた。タキオンは振り返るのも億劫だったが、多少の自尊心が働いて、ゆっくりと機嫌の悪そうな面をしながら振り返った。振り返ると目の前にスマホが掲げられていた。どうやら電話の画面のようだ。そこに『タキオンさんのトレーナーさん』と書かれている。つまり、この電話は田上と繋がっているようだった。タキオンは、何故この二人が結託しているのか分からずに、機嫌の悪そうな顔のままデジタルの方を見上げた。デジタルの方は目が合うと、コクンと頷いてから電話の方に「タキオンさんは目の前に居ます」と呼び掛けた。すると、そこから田上の声が聞こえた。
「タキオン、…迎えに行くのは難しいから、何とか着替えて外の方出てきてくれないか?そこだったら俺も待てるから。…どう?」
ここでも声を出すのは億劫だった。しかし、今はデジタルが見ていたので、タキオンはデジタルの方を向くと、コクンと頷いて見せた。すると、その意図を読み取ったデジタルが、電話の方に「タキオンさんは着替えて行くそうです。今頷きました」と言った。それに田上が「ああ、ありがとう」と返事をすると、最後にデジタルの方に向かって感謝の言葉を告げた。電話が切られると、デジタルの少し心配そうな目を他所に、タキオンは、一人で、黙って普段着に着替えて、部屋から出て行った。
寮の外に出ると、田上がベンチに腰かけてスマホを見ながら待っていた。そして、寮から出てきたタキオンに、すぐに気が付くと、目をスマホから離して立ち上がり、「おはよう」と呼び掛けた。
タキオンは、出会いたい人に出会えた嬉しさに、少しの高揚を覚えながらも、口は開かないままでいた。そうすると、田上も微笑みながら「じゃあ、朝ごはん食べに行こうか」と言った。タキオンは俯きながら微かに頷くと、田上が差し出してきた手を取って、田上の寮の方へと歩いて行った。
朝ご飯中も、タキオンは終始無言でいた。田上が幾らか話しかけてくることがあったが、頷くだけでも会話が進んでくれたので、タキオンにとってはありがたかった。田上の優しさが身に染みた。
朝食が終わると「話そうか」と言われて、タキオンは田上に手を引かれるままにいつものベンチへと誘われた。その道中では何も話す事はなかったが、タキオンは必死に自分の心を捜索していた。一体田上に何と話せばいいのだろうか?嘘を吐いて縋れば許してくれるだろうか?彼は自分の不誠実さを見抜くだろうか?分からない物を分かるという方法は一体何なのだろうか?
そんな事を考えているうちに、ベンチへと着いてしまった。田上は、「とりあえず、座ろう?」と言って、あまり動きたがらないタキオンの腕を引っ張って自分の前に立たせた。そして、自分の方が座るとその腕を広げたのだが、どうも、タキオンは、その腕の中に飛び込んで、田上に抱き締められる気にはなれなかった。そこに行くまでの手間を思うと、やる気など起きなかった。
それでも、田上に「来て」と言われると、おずおずと田上にしがみ付きながら、その膝の上に抱き合いながら座った。田上は、まずはタキオンをここに落ち着かせようと思い、敢えて何かを話すという事はしなかった。タキオンはそれがあり難かった。田上の体にもたれて、首に鼻をつけて脱力すると、田上の温かさを感じることができた。
そういう行為が一段落着いた後に、田上がぽつりと言った。
「アパート暮らしはここよりも寂しいかもしれないから、毎週遊びに来てね」
「……うん…」
「……お前は、…俺のどこが好きとかある?」
これには、タキオンは口を開かなかった。
「……お前は、…俺の事を愛していると思う」
「……」
「…冗談事じゃないくらいに。…お前が、前に――君の事を愛せない、って言ってたのが、俺の中で引っ掛かってたから、今言ってみた。俺からしたら、お前より良い人は居ない」
「……」
「…タキオン、キスしよう。今は誰も居ないよ」
「……したくない…」
「…しよう?ちょっと唇が触れるだけだよ。そんなに苦しい物じゃない。むしろ、そうして俺の言葉を聞かないふりをしている方が辛いと思うよ」
「……」
そうやってタキオンが黙っていたのだが、そうすると、埒が明かないと思った田上は、タキオンの体を強引に目の前まで引き剥がすと、タキオンと目と目を合わせた。タキオンは、田上の真剣な目に見つめられると、その圧に耐え切れなくなって横の方に目を逸らした。田上は、それでも、タキオンと話すにはキスが一番だろうと考えていたから、タキオンの顔を見つめ続けて良い時機を見計らった。しかし、自分でもそのタイミングがあまり良く分からなかったので、遂に田上はタキオンに「目を瞑って」と頼むと、素直に応じてくれたタキオンにキスをした。
やってみて、田上は、本当にこれで良いのか?と思った。自分としては、ただ唇と唇が触れた様にしか感じない。以前、タキオンが自分にやってくれたように、言葉を吐き出しやすくなるようなキスをしてみたかったのだが、これをして見つめ合った後に、タキオンが話してくれるのかどうか分からない。
そんな事を思いながらも、田上はずっとキスを続けている訳に行かないので、唇を離してみた。二人の目が見つめ合わされた。先程よりかは多少見つめ合う時間は長かったが、それでもタキオンは何も言わずに目を逸らした。田上のキス作戦は失敗である。これには合う合わないがあるのかもしれない。
さて、どうしよう。自分に、タキオンの口を開かせる技術はないが、今日は絶対に聞き出さなければいけないという覚悟は持ってきた。あるのは覚悟だけである。それでも、頑張って考えながら、とりあえず、タキオンに何か聞いてみようと思った。こうやって甘やかしているだけでは一向に前に進まない。何か、タキオンの感情を揺さぶらなければならない。それを思って、質問を作り出した。
「……タキオンは、……崖っぷちで喧嘩をするのは嫌だろ?…俺も嫌だ」
「……」
「……それとも、…別れたいって思ってる?」
こう言うだけでも、田上の胸は張り裂けんほどだった。タキオンもきっと辛いだろう。その証拠に、タキオンはこう口を開いた。
「……別れたくない…」
「…そうだよな…。…ごめんな…。お前に口を開かせる方法が、その瀬戸際を思い出させることくらいしか思いつけなくて…」
田上は、困った顔をしながらタキオンの頭を撫でた。タキオンは、また、田上の肩に自分の頭を置いていた。
「…あんまり、別れる別れないなんて言う事を繰り返すのは、俺も嫌なんだけど、…そういう話をしたくないんだったら、タキオンももう少し何か反応してくれないか?」
「……分かった…」とタキオンは、擦れた小さな声で返事をした。田上は、またその返事に報いるように、タキオンの頭を優しくよしよしと撫でた。
「……じゃあ、一個質問をしよう。…宝塚記念の話をお前は避けたがるよな?…お前にはなんでか分かるか?」
「………分からない…」
「うん…。うん、…そうだよな。…分からないよな…。…じゃあ、俺が予想するに、一昨日、昨日のお前のトレーニングの態度、いや、ここ最近のお前のトレーニングの態度。やっぱり、前の頃とは違う気がするんだよ。前は、サボりも結構な頻度であったけど、その代わりにもっと楽しそうにトレーニングに臨んでた。実験でも何でもしていいよ。俺は、お前が楽しく走れるのが一番だと思ってる。お前は、失敗すれば次に進むのが嫌だったみたいだけど、別にそれだけじゃないだろ?お前は可能性を探求したかったんじゃないのか?」
「……私の可能性は探求し終えた。…目的は達成した…」
「じゃあ、普通にサボっていい。俺を鎖か何かだと勘違いしてないか?そりゃあ、恋人に良く見られたいって気持ちは分かる。それで少しくらい頑張るのも青春の一つだろう。楽しめるんだったら、楽しめば良い。…でも、今のお前は少し頑張り過ぎだ。お前の性に合ってない。お前はもっと自由にやっていいはずだよ」
「……」
「俺はお前の事好きだよ。お前にだって散々トレーニングをサボられて、ずっとトレーニング場で待ちぼうけをしてた時もあった。それでも、俺はお前を好きになった。かっこいい女性だよ。尊敬したくなるような人だよ。俺の膝の上でこうして抱き合ってくれているのが信じられないくらいだよ。そして、ちょっぴり自由気ままで奔放な人だよ。そういうお前が好きだよ。…今は、気を張り詰めすぎてる…」
「……」
「お前が俺に依存してるのかは知らないし、関係ない。お前はれっきとした俺の彼女だから。何回もキスをした。引っ越したら遊びに来てくれるって約束までしてる。結婚の夢も語り合ってる。だから、俺に…気に入られようなんてしなくて大丈夫だよ。昔のようにサボっていい。俺はお前を縛りたいわけじゃないんだ。…いや、…そこは信用できない場所かな?俺もチームをまとめたくて奔走してたから、お前にも色々迷惑をかけたかもしれない。そういう所でお前を一つに縛ろうとしていたかも…、いや、してた。やろうとしてた。すまなかった。自分の利ばかりを優先してた。お前の事なんてちっとも考えてやれなかった…。ごめん…」
そう言うと二人共口を閉じたまま、じっと身動きもしなくなってしまった。田上は自責の念に駆られてそうなっていた。タキオンもその事は分かっていたので、「そんな事はないよ」と言いたかったのだが、また同時に言いたくもなかった。これがどうしてなのかは分からなかったが、田上には、タキオン自身に関する事で、自分を責めて落ち込んでもらいたくはなかった。だからと言って、タキオンには励ます気力もない。
そうやって、少しの間じっと黙っていたのだが、田上も、今日は落ち込みに来たのではなく、タキオンの話を聞きに来たのだ。この際、自分の事は棚に上げるか後回しか何かして、とりあえず、タキオンの話を聞かなければと思った。そう思って、口を開いた。
「……タキオンは、…俺を許してくれる?…それとも、まだ怒ってる?」
タキオンは、心の中で「分からない」と答えた。当然、田上にはそれは聞こえない。
「……悪い事をしたなぁ…。やっぱりダメだったか…。…お前も、俺に自分の姿を認めさせないとって必死だったかもしれないなぁ…」
「……」
「……お前は、俺の気を…引こうと抱き着かなくてもいいはずだ。……ここの良い塩梅が分からない。…俺も寂しがり屋になる時があるからなぁ…。…とりあえず、…お前は今ほど俺に縛られなくてもいいはずだ。……俺が縛ってたのかなぁ?」
「……」
「……俺の事嫌い?」
「……ううん」
「…良かった…。…タキオンは、俺に縛られてたと思う?」
「………うん…」
「…そうだよな…。…ごめんな…」
田上は苦しそうにそう言った。
「…………ごめんな…」
「……」
「………」
ここでまた二人とも黙ってしまった。田上も、まだ先程までなら耐えられたが、今回ばかりは、タキオン本人に、田上が迷惑を掛けていたことを突きつけられてしまったので、田上は、これ以上話す根気と勇気を失ってしまった。例え、迷惑を掛けてもらって良いと言われていたとしても、実際に迷惑をかけて、その迷惑のかけ方がタキオンの逃げ道を塞ぐものであったとしたなら、田上の自責の念は測り知れない物だった。今はもうタキオンを抱きしめて、どうにか胸の痛みを堪える事しかできなかった。
二人は、時を忘れて自分たちの胸に伝わる痛みを堪えてじっとしていた。タキオンだって田上の痛みは苦しい程に分かる。実際に、田上が、無意識のうちに力を込めて、タキオンの服を握っている所からも分かる。そんなに力が入る程に苦しいのだ。タキオンは、今田上に優しい言葉を掛けてやりたかったが、強く抱き締められているのが苦しいのと同時に心地良かった。
その内に時間が経つと、道の向こうからマテリアルがやって来た。二人共初めは人が来たと思って、身を硬くして通り過ぎるのを待っていたが、その人からマテリアルの声がすると、田上はゆっくりと顔を上げた。大分悩みに満ちた顔だったので、マテリアルも、顔を見ただけで――これは何かあったな、と勘付いた。それで、マテリアルは仕方なく、田上とタキオンの横に座ると、「今回は何ですか?」と聞いた。田上は言おうかどうか迷った。その後に、言ったとしてもこれをどう説明すればいいのだろうか?と思った。これは二人だけの問題であるかつ、お互いにしか話せない『恥』の話だ。マテリアルに軽々しく話せるものではない。そうやって迷っているとマテリアルはまた口を開いた。
「私はあなたの補佐ですけどね。同じチーム内のウマ娘に関する悩み事に一つや二つくらい打ち明けてくれちゃってもいいんじゃないですか?」
「……そういう問題じゃないんです」
「じゃあ、どういう問題なんですか?言っちゃってごらんなさい」
「……二人だけの問題です…」
「あなた方は二人だけの問題かと思っているかもしれませんが、そいつは間違いですね。こっちは、もうすぐ選抜レースに行くはずだってのに、田上トレーナーが現れないんで探しに来たんです。私の連絡無視したでしょう?」
「……」
「まぁ、何でもいいです。あなた方二人だけの問題じゃありません。あなた方がこの世界に二人だけで生きていない以上、私にだって関係があります。あんまり言えた口じゃないかもしれませんがね」
「………タキオンと二人で話してきたことです…。…あんまり簡単に話せることじゃありません…」
「それも間違いですね。人間、『あ』と口を開けば『あ』と口から言葉として出てくるんです。物理的にあなたが話す言葉は何の違いもありません」
田上は内心で迷惑だと思いながらも、簡単に離れていってくれないマテリアルに丁寧な言葉遣いで話していた。
「じゃあ、精神的に違うんです…。これは物理的には、マテリアルさんも、俺とタキオンの関係のうちに含まれているように見えるかもしれませんが、実際は、二人の問題なんです…」
「じゃあ、三人の問題にしましょう。チーム内の問題にしましょう。別に、この輪の中にリリーちゃんが居たって問題ないでしょう?三人寄れば文殊の知恵だし、四人寄ればそれよりもっとですよ」
「いや、…良いんです。…タキオン、…ごめん。仕事だって。…終わったらまた話さないか…?」
タキオンはそれに田上の耳に届くくらいの小声で「うん」と頷いた。田上はそれに「ありがとう…」と言った。それから、二人は組み重ねていた体を離して、ベンチから立ち上がった。マテリアルはその様子をしかめっ面でじっと見ていたが、二人が立ち上がると自分も立ち上がって言った。
「私は、あなた方を、自分たち二人だけの世界に逃げさせたりしませんよ。ここで密会している事は知ってるんです。あなた方が暇そうな時間になったら、真っ先にここに張り込んで話に割り込んでやりますからね」
「…やってみてください」と田上は、悲しげな顔をしながら言った。この言葉に、マテリアルは自分が非常に軽んじられていて、また、田上とタキオンの二人の世界にマテリアルを入れるつもりが無い事を感じた。そしてまた、マテリアルを上手く黙らせる言葉でもあった。
ここで「やめてください」とでも言われたら、マテリアルにも言い返す言葉の一つや二つあったかもしれないが、この上ない悲しげな顔で「やってみてください」などと言われたら、思わず口を噤むほかなかった。
それでも、三人で選抜レース場に着いた時には、マテリアルも我慢ならずに口を開いた。
マテリアルは、三人で観客席に落ち着いた時にこう言った。右手の方に座っていたタキオンに向かって言った。田上は、タキオンのさらに右手の方に座っていたから、話しかけやすいタキオンの方が標的になった。
「タキオンさんは、…最近私と面と向かって話していないような気がしますね。気のせいですかね?」
「…気のせいだろ」とタキオンは迷惑そうな顔をしながら返事をした。
「ふーん?…まぁ、気のせいでも何でもいいです。実際私はそう思ってるって事なんですから。…タキオンさん、髪短いの結構似合ってますね。いつ切られたんですか?」
マテリアルの質問があまりにも白々しかったので、タキオンはその質問は無視した。すると、マテリアルは一人で勝手に会話を続けた。
「ああ、あの時でしたね。私が叩いた時。…まぁ、あんまり私も良い事はしてませんが、タキオンさんもイメチェンできてよかったでしょう?」
「……よくも抜け抜けとそんな口が利けるね…」とタキオンはマテリアルの事を睨みながら言った。
「いやぁ、申し訳ない。私も結構その時の事は反省してますよ。少なくとも、もうちょっとやりようはあったんじゃないかと。でも、叩かないと聞かなかったような気もするんですよねぇ…」
「……」
「…今回の事は何ですか?…アパートの事があなた方の間で取り沙汰されているんですか?」
「…そんなんじゃないよ」
「…私にも少しくらいは教えてくれませんかね?あなた方の尻拭いをしてるのは私でしたよ?私が知りたいって言った時くらい教えてくれたっていいじゃないですか。これは、あなた方が思っている以上に私に迷惑を掛けているんですからね?本当に、毎回尻拭いをさせられていると言っても過言じゃないんですから」
「じゃあ、今回は君に迷惑を掛けないようにするよ。今まですまなかったね」
「いいや、どうせ掛けます。で、私が尻拭いをします。私が居なかったら、あなた方の恋路はもっと困難を極めてましたよ?私はもっと感謝されるべきです。時間外労働までしてる。労基に訴えますよ?」
「したくないんだったらしなくていいよ…」
「あー、残念ですね。感謝の心が足りてません。いいですか?私が何回あなた方の間を奔走したか分かりますか?あなたの背を何回押したか分かりますか?私が居なかったら、あなたたちはもしかしたらここで一緒に座っていないかもしれないんですよ?もしかしたら、あのベンチで一緒に密会できていないかもしれないんですよ?」
「…君が蒔いた種もあるじゃないか」
「ええ、ありましょうとも。でも、それ以上にあなた方の行動は目に余る時がありますし、あなた方の仲を引き裂きたいとも思っていません」
「じゃあ、ありがたかった。私が今世紀で一番の感謝を君に送るよ」
「態度に出てませんねー。田上トレーナーは、私の相談に乗ってくれたりもするので、最悪チャラにしてあげましょう。でも、タキオンさんは私に迷惑しか掛けていませんからね」
「…私だって、君の為に何かはやってるさ」
「どうでしょうねぇ?…何かありましたか?…あ、…まぁ、いいでしょう。一つはありました。でも、それ以外はありません。それじゃあ、チャラにはできません」
「なんだい?その一つは。言ってみたまえよ」
「……カラオケですね」
マテリアルは嫌そうな顔をしながら言った。すると、これによってタキオンの優勢となった。
「ああ、カラオケだったね。存分に私に感謝したまえよ」
「いや、それ以上にあなたは私に感謝すべきです。今あなたが一番好きな人は誰ですか?」
「……なぜ、言わなければならない」
「私の感謝を最大限に感じてもらう為です。あなたは本当に田上トレーナーしか見ていませんが、そうして見れることは、本当に私の奔走あってこそですからね?言い訳や反論はさせませんよ?まず、あなたがその事を認識すべきです。私は、あなた方の為に大変頑張りました。それは事実だと思いますか?」
「………事実だろうね…」
「よし、それでナツノマテリアルは報われました」
「…勝手にしたまえ」
タキオンは多少苛つきながら言った。
「ええ、勝手にさせていただきましょう。それで、今回は何ですか?」
「君には関係ない。二人だけの問題だ」
「夫婦喧嘩をしていたとしたら、隣の部屋の住人は介入しちゃいけないって事ですか?」
「その通りだ。特に、君には関係ない」
「なんで私だけ仲間外れにするんですか?タキオンさんを支えていたのは私ですよ?あの時辛いって言ったじゃないですか」
「そして、君は私に何度も圭一君は駄目だと言った。そこからして、君が介入する余地はない。そして、今回は夫婦喧嘩じゃない。私たち二人の問題だ」
「なんでそう――私たち二人の問題だ、と揃って繰り返すんですか?」
「私たち二人の問題だからだ。分かったらもう口を挟まないでくれ。私ももう答えない」
「ええ?なんでですか?」
マテリアルはタキオンの方を見て言ったが、タキオンはもうマテリアルの方には絶対に向かないぞ、という素振りで田上の肩に頭をもたれ掛けさせていたので、マテリアルもそれ以上の抵抗は諦めた。田上の方に話しかけようかとも思ったが、あんまりこちらの方も話が通じなさそうなので、これも諦めた。
マテリアルは、ぼんやりとしながらこれから始まるレースを眺めていた。友達だと思っていた人がいつの間にか恋人を作ってしまって、視線は全て恋人の方に奪われてしまったような感覚だった。特に嫉妬などの感情はないが、ただ一人残された女の憂鬱を味わっているようだった。これからどうなるのか、とか、二人は幸せになるのだろうか、とか、また新しい友達が自分にできるのだろうな、とか。憂鬱にも似た喪失感と苛立ちと喜びと、そういう物が織り混ざって、マテリアルは芝の方を見つめながらぼんやりとしていた。
一レース目が終わり、二レース目が終わり、三レース目が終わった。田上として、めぼしいウマ娘は居なかったようだ。マテリアルも概ね同意見だった。皆普通に走って普通にゴール板を通過しているような気がする。ただ、まぁ、特徴のある子と言っても、リリックの様に走ろうとしなかった子などが目に映るかもしれない。それか、飛び抜けて速い走りを見せる子か。タキオンなどはその類だろうが、今の所未来のGⅠウマ娘に成りそうな逸材は居なかった。
四レース目になって、田上は不安げな顔で「もうそろそろ行ったほうが良いですかね?」と聞いてきた。中々めぼしい子がいなかったので、不安になってきたのだろう。それにマテリアルは微笑みながら「別に、無理してウマ娘をスカウトする必要もないでしょう?」と諭した。これが、タキオンを間に挟んで行われた会話であったので、田上とマテリアルがそうやって話している事に、タキオンはあまり良い顔をしなかった。それでも、仕事なのだから多少の我慢はしていた。
五レース目になってもあまりめぼしい子はいなかった。そういう子は大体一回目か二回目の選抜レース辺りで、どこかのトレーナーに熱烈なスカウトを受けて行ってしまったのかもしれない。田上は、今更、――もう少し焦っておくべきだったかなぁ、と後悔した。そして、お昼休憩が挟まったので、タキオンと田上は二人でカフェテリアへと向かった。マテリアルには、タキオンが直々に「私は圭一君と二人だけで食べたい」と言ったので、マテリアルだけ別に食べる事になった。
田上も、一応、窘めることくらいはしたのだけれど、ここはマテリアルが譲ってあげたので、結局二人で食べる事になった。ただ、二人でカフェテリアに向かったところで、口数はあまり多くなかった。また、田上も選抜レースが完璧に終わるまでは落ち着けなかったので、ここでまた二人の問題に向き合うという事もできなかった。
こうなると、一人でぺちゃくちゃと話してくれるマテリアルが居た方が、まだ場は盛り上がっていたかもしれなかった。二人は、互いの間にある空気の膜によって話す事を妨げられていた。
昼になって二人は先程の席へと戻った。そして、マテリアルが来るのを待ちながら、――リリーさんをスカウトしたのは果たして正しかったのだろうか?と思った。別に、リリーさんをスカウトしたからと言って、トレーナーとして未熟であるか、金を稼げなくなるか、と言われればそうではない。ただ、ああいう子を拾ったとしても、今の自分では持て余し気味になるだけである。タキオンがあまりにも大きく膨れ上がりすぎて、自分の手では持つことすら敵わない状況となった。マテリアルさんが居なかったら、本当にリリーさんは寂しい想いをしていただろうと、しみじみと項垂れた。
次の子はどういう子にすればいいのだろうか?やはり速い子にすればいいのだろうか?それだと、まだ経験の浅い自分には、スカウトした子の方が振り向いてくれないかもしれない。最近、チームの形を成してきたようなものの、これまでベテランとして名を馳せてきたトレーナーに比べれば、自分はまだまだである。まだ、一人の子でしか実績は残していない。リリーさんは、まだデビュー前だ。
そこで、田上は、――別に、スカウトした子全員が振り向いてくれなくてもいいじゃないか、と思った。手当たり次第にスカウトすれば…、とここでまた別の反論が生まれた。――無責任に何人もスカウトして、自分の手に負いきれないくらいの人数が来たらどうするんだ。確実に何人かは断らないといけなくなるぞ。
ただ、そうやって手当たり次第にスカウトして、人数が過ぎれば断るというのも一つの手である。手ではあるが…、と考えていたら、また田上は別の事を思った。――俺は別に人数ぴったりに人は集めなくていいんだ。選抜レースは六月にもあるし、あと一人来てくれればいい。それに、誰にもスカウトされなかった子を受け入れる所もあるので、こういう所でわざわざスカウトする必要もない。
まぁ、ただ、やれるだけはやってみようとも思った。
マテリアルが来て、六レース目が始まった。うんうん、成程、と思いながら田上はレースを見ていた。まぁ、良い走りをする子も居る。前回の選抜レースで見た子もいる。そこで、田上は不図気になって、隣のタキオンに聞いた。
「スカーレットさんはもうスカウトされたんだったよね?」
「ああ。今は元気にトレーニングをやっているらしいよ。…最近あんまり話してないね…」
「お前をあんなに慕ってくれる後輩も…珍しいかな?…お前案外年下に受けはいいよな」
「そうだね…」
タキオンがぼんやりとしながら返事をしたので、話はここでしまいとなった。そこで七レース目となった。
七レース目になると、田上はある子に注目した。あんまり落ち着きのない子だ。これも、リリックと同じ黒髪で長髪の女の子であるが、リリック程気分の悪そうな面はしていなかった。ただ、首やウマ耳をしきりに左右に振って、目をきょろきょろと動かして、ゲートに入った他の人たちを見ている。その内に、ゲートがばっと開いた。流石に、ゲートの他の人たちが構えたら自分も構えたのでスタートに失敗する事はなかった。
ただ、それでも集中できていないのか、スタートの反応は良くなかった。ゲートからは他の人たちより少し遅れてスタートした。前はあっという間に塞がれていたが、それでも前の方に行きたかったのか、じわりじわりと外の方から前へと移動していっていた。ウマ娘は比較的前にも後にも伸びる事の無い集団となって走っていた。
そうすると、その子も途中で前へ行くのを諦めてしまったのか、急に前へ進み続けるのをやめて、五番手くらいの位置で甘える事にした。それから、また一団はずいずいと走って行き、コーナーから最終直線の方に入った。ここで観客席の方から声援が上がった。今日も何回も聞いた声援ではあるが、田上はここの所とんと大きな音が苦手となっていた。――タキオンの宝塚記念は大丈夫なのだろうか?と苦しそうに不快感を耐えながら最後を見守った。
その子は初めの方が悪かったのか、気が散りやすいからなのか、最後のラストスパートに少し遅れて、八番目くらいの位置になってから、その子も伸びだした。すると、伸びは良かった。例えハンデがあったとしても八番手からすいすいと進んでいき、最終的には三着でゴールした。これは、ラストスパートのタイミングさえしっかりしていれば簡単に一着を取れたのではないかと思う。――この子は…、と田上は思ったが、さあ果たしてどうしようか、となった。
今はもう、トレーナーが観客席から抜け出して、その子らにスカウトをかけている時間だ。当然、一着の子が一番トレーナーに囲まれていたが、三着のその子も十分に数人ばかりのトレーナーに名刺などを渡されていた。比較的嬉しそうではある。…さあ、どうしようか。
そんな事を考えて田上が動けずにいると、マテリアルが隣から話しかけてきた。
「あの三着の子の伸びは良かったですね?見てませんでしたか?」
「…見てました」
「で?どう思いました?」
「……良いかな、と…」
「良いってどっち?遠慮するの方ですか?」
「いや、…良い走りだったな…と…」
「スカウトするには及びませんでしたか?」
「…まぁ、したほうが良いかもしれませんね」
「じゃあ、行きなさいよ」とマテリアルは苦笑しながら言った。タキオンも微笑んでそんな田上を見つめてから言った。
「もしかして、…私の事を気にしてたりするのかい?…」
「いや…、いやって言うのも変かな?…お前も勿論気にしてるけど…」
「じゃあ、私の事は気にしなくてもいいよ…。…仕事だからね…。行ってきたまえ」
田上は、そう言われると行かざるを得なかった。勿論、田上の躊躇いは単純な気恥ずかしさと言うかなんとやらで、決してタキオンを気にしていた物ではなかった。しかし、唐突にタキオンにあんな態度を取られるとこちらも気になってくる.。この言葉の裏にタキオンが要求しているものがあるのかもしれないと思って、少しの間タキオンの事を見つめていたのだが、タキオンが全く表情を崩さないのを見ると、仕方なく、田上は観客席から出て行って、その子の方に歩いて行った。タキオンが何かを主張していたのは分かっていた。しかし、それを掬い上げる事のできない自分が酷く憎らしく思った。
三着だったその子、つまり、『エス(es)』という名前の子の近くまで来ると、田上は顔を取り繕って話しかけた。
「エスさんこんにちは」
「ああ、こんにちは」
「スカウトってのは今も受付中で良いですか?」
「ああ、はい。一度寝かせてみようかなと思いまして」
「じゃあ、僕も君をスカウトさせていただいても良いですか?」
そこで、エスは田上の顔をまじまじと見つめ始めた。こういう顔は何度かされたことがある。田上の顔をどこかで見た事があるのだけれど、それが思い出せないという顔だ。田上の顔という物は、タキオンの顔の脇にひょっこりとあるものなので、そういう事が度々起きる。そして、この子も例にもれず「ああ!」と脳内にくっきりはっきりと浮かび上がった田上の顔に大きな声を上げた。
「あれだ!田上トレーナーだ!アグネスタキオンさんのトレーナーさんですよね?」
「ああ、はい。そちらの方向で知られている方が多いと思います」
「うわー、会いたかったんですよ。うわー、凄い」
その合間に、田上は「はい。田上圭一です」と言ってとりあえず自分の名刺を渡した。エスは「ありがとうございます」と言いながら名刺を受け取り、こう言った。
「え、…とりあえず、今日は寝かして冷静になりたいと思うんですけど、明日ってトレーナー室の方にお伺いしても良いですか?」
「ああ、大丈夫です。必ず、補佐か自分かが居ますので」
その後に、、エスは「うわー、凄い」と繰り返した。そして、とりあえず、二人は別れる事にした。田上は思いがけない手ごたえを感じて内心舞い上がっていたが、タキオンの事を思い出すとすぐに舞い下がってしまった。今から入ってくるあの子には、今のチームの状況を話さないといけないだろう。タキオンと田上の関係から、その関係に問題がある事まで。そう思うと気が重かった。また、選抜レースが終われば、タキオンとの話もある事を田上は覚えいた。――まったく、上手く行かないな…と思いながら、田上は観客席の方へと再び戻っていった。
観客席に戻ると、田上はタキオンの隣に座った。タキオンは何も聞かずにただ隣に座ってくる田上を受け入れていたが、マテリアルはそうも行かなかった。早速こう聞いてきた。
「どうでしたか?」
「…まぁ、…良かったですね。明日トレーナー室の方に来たいって言っていました」
「おお、良いどころじゃありませんよ。確定じゃないですか」
「まぁ、…ただ…。そうかもしれませんね…」
田上の含みのある沈黙にマテリアルは少し眉を寄せて聞いた。
「何かあったんですか?」
「…いや、…まぁ、…俺とタキオンが付き合っているって言うのが、向こうからしたら特殊だと思われるんじゃないかと思ってですね…」
「ああ」とマテリアルは、その田上の言葉の裏にある物を読み取った。
つまり、タキオンによるトレーナーの独占問題だろう。それをタキオンに気遣って言いにくいから、こういう言い方になったのだ。
マテリアルもそれは面倒だと思った。現状をそっくりそのまま説明すればあまり良い印象は抱かれないだろう。折角好印象を抱かれているにもかかわらず、そういう所で取り逃がしてしまうのは実に惜しい。そして、そういう所で取り逃すのであれば、この先、碌な子が入ってこないんじゃないかと思った。ただでさえ狭い門なのだから、門のその先が思ったよりも狭い事を悟らせてはいけない。――その為に、自分がいるのだろう、とマテリアルは不意に思った。田上が現状タキオンで手一杯のなのだから、自分が受け皿になれるよう努めるべきだ。それに、受け皿にならなければ、わざわざこんな二人の補佐になった意味が分からない。
最初は勿論、あの二人の仲の良さにGⅠをとれる秘密があるのかもしれないと思って入ってきたマテリアルだったが、今ではもうその仲の良さが案外単純でない事はよくよく分かっていたし、その複雑な仲の良さが簡単には解けないでほしいとも思っていた。だから、自分が受け皿になるべきなのだ。この二人が安心して喧嘩や談論ができるようにできるだけ負担を減らすのだ。それこそが自分の役目だ。
そう思いながら、ぼんやりと次に始まるレースを待った。