ケロイド   作:石花漱一

158 / 196
三十三、三回目の選抜レース④

 それ以降は田上も気が抜けた様にレースを見ているだけだった。今目の前にある問題に改めて直面したのか、それとも、とりあえず一人をスカウトした緊張から抜けて気が抜けてしまったのか。そのどちらかではあるのだろうが、田上には自分の心の中にあるのがどちらなのかは判別がつきがたかった。

 タキオンは相変わらず田上の隣にじっと座っていた。時折、隣の田上の手をぎゅっと握り直したり、凝った体を伸ばしたりはしていたが、終始無言ではあった。はたして、タキオンが今から起こるべき問題に何を思っているのかは、その表情からは分からない。ただ、ひたすらに田上に寄り添おうとしている健気な少女のようにも見えた。

 田上の気が抜けた影響はマテリアルにもきているらしかった。相変わらず、レースを見てはメモを取っているが、時折何も見ていない目付きで景色を見つめながらぼーっとしている時間が増えた。三人ともこれより後に誰もスカウトはする事が無いだろうと分かり切っていたからその様な気の抜け方をしていたが、それでも、何かあるかもしれないと思ってレースを見つめていた。

 

 そして、何事も起こらずに今日の選抜レースはお終いとなった。田上はどうにも妙な心地でいつものベンチへと向かった。一仕事終えてほっとしたはずなのに、まだもう一仕事あって、自分は必ずそれに向き合わなければいけないという心地だ。どうにも面倒だったが、ここであの話を終わらせるわけにもいかないと思って、田上はタキオンを連れてベンチの方へと行った。マテリアルは、別れる際に「私も話に交ざりましょう」と頑固に粘ったが、田上がそれ以上に頑固に粘ったので、結局マテリアルは根負けして去って行った。ただ、マテリアルが来たところで二人の『恥』の部分が話しづらくなるだけというのは分かっていたので、田上もマテリアルを帰さない訳にはいかなかった。

 田上とタキオンは、朝の時の様にノロノロとベンチに座り、そして、抱き合った。田上ももう今は何を話せばいいのか分からなくなっていたので、随分長い事黙っていた。気は重いが、朝ほど重いかと問われれば違った。何だか問題に焦点が合わないふわふわとした心地だ。先程の一仕事終えた心地の延長線の様なものだろうと思う。まったくどういう物だろうか…、とぼんやりとタキオンを抱き締めながら、田上は、次第に重くなっていく胸の中でそう思った。話す事が見つからない。問題に焦点が合わないのだからしょうがないだろう。それでも、田上は何か口火を切ってみるしかないと思って、タキオンにこう囁くように言った。

「今日の人、遠目から見て何か思うことはあった?」

「……」

 ここで、タキオンは何も話さないかに思えたが、田上が次に口を開こうとした直前に言った。

「君、………やっぱり、黒髪で長いのが好きだろ?」

「え?」

「……聞こえてなかったのならいい…」

「いや、聞こえてた。…黒髪で長いのが好き?」

「………以前に君が言ってた……松林何たら…」

「ああ。芸能人の話…。……気にしてたのか?」

 田上の声は重苦しくも、少し物事を面白がるような響きを持っていた。

「………気にしてないよ…」

「…気にしてただろ?……まぁ、偶然もあるもんだね…」

「君、…そうすると、……カフェも好きなんだ…」

「カフェさん?…好きじゃないよ…。髪を切ったお前も素敵だよ…」

 すると、これにはタキオンは何も答えなかった。照れているのか、それとも、怒っているのかは抱き締められて居るので、田上からは確認できなかったが、少なくともタキオンはこういう場面で怒る様な女ではなかったような気がする。

 田上は、腕を伸ばしてタキオンの髪に触れた。そうすると、短くなっているのが分かる。これを感じると、田上もあの時の後悔が胸に滲みだしてきて、自分の事が嫌になった。そのせいで、またこんな言葉が出た。

「………お前は、……俺が恋人で居てほしいんだよな?…」

「…ああ…」

「……はぁ…。…俺は、タキオンの恋人が俺なのは、…あんまり振り回しすぎて可哀想だと思う…」

「……私も振り回してる…」

 タキオンは、不安にさせてくる田上の言葉に身を固くして、少し強く抱き締め直しながら言った。田上は、それにまた、鼻からため息を吐いた。

「…俺は、…お前が好きだよ。…でも、お前に誇れるような彼氏じゃないよ…。あの時からそんなに変わってない…」

「……好き…」

 タキオンは尚も身を固くして、抱き着きながらそう言った。田上は、タキオンがそうやって抱き締めてきてくれるのを苦しく思った。

「……本当に、…振り回してるけど、好きでいてくれるんだよな…?」

「……好き…」

「……どうしたもんかなぁ…?」

 田上はお先真っ暗という心地で目の前に続いている道を眺めた。この道は、以前にタキオンと田上が研究室に住んでいた悪意とかいう良く分からない物に襲われて辿り着いた菜の花の花壇の前に続いている。その菜の花も今は見頃を終えて、別の花にすり替わっている。なんとまあ見頃を終えたらすぐに捨てられるなんて、人間というのはなんて薄情なんだろうかと思いながら田上はそれらの花を見た覚えがある。

 田上は、あの通り雨に濡れた綺麗な黄色の菜の花を今でも鮮明に覚えているが、あの時よりも気持ちは萎えてしまっている。タキオンとのバランス感の無い恋人生活に疲れ果ててしまった。別に、田上が自ら別れたいという気持ちは起こさないが、もっと器用に生きれたらと深々思った。タキオンが自分の事を好きと言ってくれるなら、自分もタキオンの事を好きであり続けるし、大切にしたいと思う。ただ、その縛りが解けたらどんなに良いかとも思う。少なくとも、今目の前に直面すべき問題は立ち所にして消える。逃げるという行為によって二人はここまで苦しめられている問題から解放されるのだ。しかし、タキオンが自分を好きと言ってくれるからしょうがない。行き場のない難題に押し潰されて、二人揃って死んでしまうという落ちもあるかもしれない。

――そうなれば本望かもしれない。田上は不図そう思った。そう思ったと同時に、そんな自分を嫌った。恋人として二人揃って死ぬ事を自分は美談だと思っている。死んだら結局タキオンを苦しませたまま死ぬだけになるじゃないか、と自分を戒めた。

 どうせだったら、自分の事を嫌いだと言って、振ってくれたらどんなに良かっただろうか。それであれば苦しむのは自分一人だけになる。

 田上は、田上の事を嫌いだと言うまでのタキオンの心境を想像もしないで、そう考えた。想像したのならば、一概に「苦しむのは自分一人だけ」なんて言えないだろう。タキオンが嫌いになるのならば、タキオンが田上を嫌いになるべき苦しさをタキオンに与えていることになる。

 田上は、自分自身の苦しみとタキオンとの苦しみを照らし合わせて、何とか二人共救われるべき道が無いのだろうか?と考えた。目の前にある『別れる』という道を選択しないで、付き合い続ける事のできる道は無いのだろうかと悶々と考えた。

 

 田上が悶々と考えているうちに、タキオンが唐突に田上の耳元で「好き…」と囁いた。田上はその声で現実へと引き戻された。そして、それには何も答えずに、ただタキオンの背をよしよしと撫でてあげた。すると、タキオンは今まで田上に抱き着いていた身を自ら引き剥がし、田上と目を合わせるとこう言った。

「どうせ、答えは出ないよ…」

「………嫌いって言ってくれないか…?」

「言わないもの…」

「……はぁ…」

「……好きだもの。…一生傍に居たいもの…」

「……」

「……答えは出ないよ…」

「……でも、…俺はお前が苦しんでいるのを見るのは嫌だ…。お前にはできるだけ笑っていてほしい…」

 それにタキオンは目を細めてこう答えた。

「…できないかもね…」

「…できないじゃ嫌なんだよ。それに、お前の逃げ道を塞いでいるのは俺なんだ…」

「……君が居てくれるだけでありがたいよ…」

「…苦しくないか…?」

「…君が居ればどうってことない」

 田上はその言葉に返すべき言葉が見つからず、暫く困って眉を寄せた表情で、タキオンの事を見つめていた。それから、こう口を開いた。

「お前の逃げ道を探してやることができない…」

「…君が居れば…」

「俺が居た所で苦しんでる顔をしてるんだった、そのタキオンの彼氏である俺も苦しい。トレーナーとしてでも苦しく思う。なんとか、お前をどうにかしてやりたいんだけど、どうもその解決方法が分からない」

「成り行きに任せてみたまえ…」

 タキオンは静かにそう言った。田上はそのタキオンの表情をまたじっと見つめてから言った。

「……俺と付き合ってから、お前も変わったかな?…」

「…私は元々こんなもん…」

「………面白い事を言えるような男じゃないからなぁ…」

「……」

「…せめて、お前が安心できる場所になってやれていればいいんだけど…。…安心できる場所か?」

「…君はいつでも大切な人だもの…」

「……あのアパートはお前の安心できる場所になりそうかな?…」

「……」

「…助けようとするのは駄目かな?…お前を…お前を俺は一体どう扱えば良いんだろう?」

 田上は困り果てて、ため息と苦笑まじりに言った。すると、タキオンがこう返した。

「私を愛して…」

「愛してる。…だから…、だからかは分からないけど、…だから、お前の扱いに困ってる。お前を一体どうすりゃいいんだろう?……何もしないのが吉なのかな?…でも、…何もしなかったらしなかったで、トレーニングをしながら苦しんでるお前を見る羽目になる。…お前は本当にトレーニングをしてて楽しいのか?」

「…楽しいとは言ってない…」

「じゃあ、…じゃあ、やめるか?」

「………」

 タキオンは田上から目を逸らして視線を下にやった。

「そこの所が矛盾してる。…これも放っておくべきなのか?…お前の安心安全な基地になるためには、余計な茶々は入れないほうが良いのか?」

 田上は返答を求めるべく、タキオンの顔をじっと見つめたが、タキオンは俯くばかりで微動だにしなかった。

「それでも、俺はこの問題を見逃すべきじゃないと思う。これは昨日から変わらない。俺も、これまで、お前をチームの一つにしようとしてきた悪さがあるから、強くは言えないけど、ここで強く言えなきゃ彼氏としてここに居る意味がない。…教えてくれないか?お前が何を思っているか…」

「………分からないよ…」

「…だよな…。今までこの壁にぶち当たってきた。…お前くらい頭が良いと分かりそうなもんだけど、お前が分からないって言うんだったら、相当分からないもんなんだろうなぁ…。…心当たりとかないのか…?」

「……」

「……宝塚記念の出走は思い切って取り消そうか?ここからだと、夏レースは出ない予定だから、夏一杯まで時間がある。天皇賞・秋を目標に据えて、それまでに心の整理を順々にして行こうか?特に、本格化の時期は落ち着かないって理由で出走を取り消す子も偶にいる。お前が宝塚記念から身を引いたところで誰も怒らないよ」

「……カフェは怒るよ…」

「カフェさんはなぁ…。また、違った情熱のある子だから怒るかもしれないけど、基本的に優しい子だと思うからお前をぐちぐちと責めることはしないと思うよ」

「…どうだろうね…。菊花賞で私に負けたことを根に持ってるから…」

 そう言われると、田上も苦笑した。

「お前もカフェさんに勝てるほど速いんだよ…。…お前の走りをまたあの舞台で見たいんだけどなぁ…。俺も最近大きい音に敏感でな…」

「……そうなのかい?」とタキオンが田上の目を少しだけ見つめながら、少しの心配によって、そう聞いた。

「ああ、今日の選抜レースでも思い知ったんだけど、どうにも大きすぎる音を聞くと、苦しくなるんだよ。…大阪杯の時の経験が尾を引いてるのかもしれないんだけどね…。流石に、あの時みたいに気を失ったりはしないと思うんだけど、宝塚記念もどうするか考えておいた方が良いと思うんだよね」

「難儀な体になったね…」

「嫌なもんだよ…」

 そう言って、田上はため息を吐いてから、また口を開いた。

「緊張もあるんじゃないかと思うんだけどね。…前はまだマシだったんだけどなぁ…」

 その後に、タキオンが唐突に「キス…しよう…」と言ってきたので、田上は仕方なくというわけでもなく、従順にそれに応じた。

 その唇が触れ合っている中で、田上は――もっと自分もキスをせがんだほうが良いのだろうか?と思った。今日の午前中のキスはタキオンの口を開きやすくさせるためのキスだった。ゴールデンウィークにタキオンの両親の家へ行った際にそれに関する話をしたような気がするが、結局、今はタキオンがするがままに任せているし、何かタキオンの心境も変わったのか、ほとんどこういった風に求めてこなくなったような気がしている。そして、田上もあまり求める性質ではないので、こうしてキスも一日に一回程度だ。今までが多すぎたのかもしれないのは確かだったが、田上から求めたほうがもっとタキオンも愛されている心地がするんじゃないだろうかと思った。ただ、自分から求めるのはどうにも照れるし見っともないような気がする。

 そう考えていると、タキオンが唇を離して、田上もそれに合わせて目を開けた。目を開ければ目の前に綺麗な彼女の顔があるが、今現在は少し曇っている。――この顔をどうにか元の様に笑わせてあげたいのだが…。自分たちが背負っている罪が重すぎるのかもしれない…。

 そう思った後に、タキオンは、はぁとため息を吐いて、また田上の体にもたれかかり、その肩に自分の頭を置いた。そして、そのままこう喋った。

「私を走らせてくれ…」

「……走るのは楽しいのか?…」

「…嫌いじゃない…。……嫌いじゃない…」

「………少なくとも、明日のトレーニングは休みだ。一緒に来てリリーさんの走るところを見てみればいい。そしたらお前も何か分かる事があるはずだ。それに、もしかしたら新しい仲間も増えるかもしれない…」

 その後に、タキオンは「黒髪長髪…」と呟くように言った。田上は、それに少し笑ってからこう返事をした。

「偶々だよ」

「いや、君の好みは分かってる。…私も黒に染めようかな…」

「あんまり無理に染めてもらうと俺が困る。それに、タキオンの髪色も十分に好きだよ。…これ言ってもいいかな?」

「…ん?」

「…タキオンがもしかしたら怒るかなぁって事」

「…言ってみたまえよ…」

「……遠目から見たらお饅頭みたいに見えるから俺は好きだよ」

 そうすると、タキオンは田上にもたれかかるのをやめて、背筋を伸ばすと顔と顔を合わせた。

「君、そんなこと思ってたのかい?」

「…怒った?」

 タキオンは、田上の言葉に少し表情を明るく微笑ませてこう返した。

「怒ったかもしれないね。…お饅頭?そんなこと思ってたのかい?」

「栗毛だろ?そして、髪の毛もいい具合にふんわりとしてるからお饅頭みたいだと思って。別にバカにしてるわけじゃないからな?あの髪型も好きだったよ?」

「…なら、あの髪型のままにしておくのもアリだったな…」

「いいよ。今の髪型も十分に好きだよ」

「あれと今のどっちが好きだい?」

「…長い方かな…」と田上は微笑みながら言った。タキオンもそれに微笑み返した。

「じゃあ、あの髪型が良かった。…君は長い方が好きなんだね?」

「…まぁ、ストレートな黒髪になんてしなくていいよ。それとこれとは別で、タキオンの髪型は特に好きだから」

 そこで場はようやっと一種の和みに包まれて、先程の苦しさから一時の逃れを得ることができた。二人共、目の前にある問題は何にも解決していない事を理解しつつも、その問題の前で、二人座って微笑み合っていた。

 まだ、この和みを維持していたかったが、話題が終わるにつれ、先程の問題もまた二人を押し潰そうと迫ってきているのを感じた。しかし、それでも、その時の和みが幾らか二人の心を別の方向に導いて、敢えて、今目の前の問題に触れるという事はせずに二人の会話を続かせた。

 田上は、タキオンを微笑んで見つめながら言った。

「アパートは楽しみだな。わざわざこんな人気のない所に隠れなくても、キスできる場所があるんだ」

「…私もだよ…」

「買い物も幾らかしないといけないだろうからな…。付き合ってくれよ?」

「勿論だとも。…歯ブラシなんて、君の家に私の分も置いておいて問題ないだろう」

「歯ブラシ?」

「君の家に毎週泊まりに行くんだ。そのくらいの事をしたって問題あるまい」

「…問題はないけど…」

「…それに、…布団かいベッドかい?」

「…一応、布団で寝る予定だけど…」

「なら、布団も一つでいいからね?私は君と寝るだけでいいんだから」

「……一枚?」

 田上は、少し照れて口角を上げながら言った。

「一枚だとも。これまでも一緒に寝てきただろう?」

「でも、…二枚あった方が寝やすくないか?」

「私は一枚でいいよ。一枚の内に二人でくっついて寝るのが良いだろう?」

「でも、…今から夏だよ」

「夏だとくっつかないのかい?」

「そういうわけじゃないけど…、まぁ、…ごたごた言う程の事でもないんだけどね」

「じゃあ、ごたごた言うな。…あそこは、近くに公園があるのもいいね」

「いいだろうね」

「……卒業したら一旦はあそこに住むだろ?」

「住むの?卒業と同時に引っ越しとかじゃなくて?」

「…赤ちゃんが…生まれてからとかでも良いんじゃないかと私は思うのだけれど…」

「あの研究室にある大量の機材やら薬品やらはどうするの?あれはさすがにあの家には入りきらないよ?」

「あれは、学園の方に寄付でもするか、お爺ちゃんの家の方に送るとでもするよ。そこは心配しなくていい」

「……」

 田上は一瞬今後の研究について聞きたくなったのだが、それを聞いてしまうと今の問題に触れてしまう可能性がある。それに気が付いて田上が一瞬黙り込むと、タキオンが「どうかしたのかい?」と聞いてきた。

「いや…、特に何でもないんだけど、…少し元気になったな」

 田上がそう言うとまた少しだけタキオンの顔が曇ったが、先程まで曇りはしなかった。

「……君と休日に一緒に居てることは楽しみだもの…」

「俺も楽しみだ。……もうそろそろ日が暮れるな…」

 田上は西から差してくる陽の光を感じながらそう言った。タキオンもその光の温かみを背中で感じていたが、それを心地良い物だとは思わずに、田上の顔を見つめ続けた。

 すると、田上も、草や木に映る陽の光を見るのをやめて、影になっているタキオンの顔を見つめた。二人は暫く黙ってその目を見つめ合わせ続けたが、やがて、タキオンがこう口を開いた。

「明日が休みなのはほっとするよ…」

「それは良かった。……また、あのエスさんとの兼ね合いも考えて行こう。無理にお前を仲良くさせたりなんてしないよ…」

 田上がそう言うと、タキオンは殊に表情を苦しげにさせて、その田上の顔を見つめた。言おうか言うまいか迷っているような顔だったから、田上は何も言わずにその言葉を待つことを選択した。すると、タキオンはこう言った。

「私は、…私は、…君に他の女と仲良くなってほしくないんだよ…」

「俺はずっとお前の事が好きだよ。大丈夫。お前を急に崖から突き落したりなんてしないよ」

 田上も自分の言葉の裏にある罪を自覚していたが、それでもそれを無視して言わざるを得なかった。しかし、田上の言葉の裏にある罪はタキオンにも伝わる。そして、それを田上が無視して言ったばっかりに、タキオンも声に出して言う事はできなかった。ただ、田上がその罪を口にしたところで、事態は一向に楽な方向へと向かわない事を二人は自覚していた。だからこそ、胸に宿る苦しさがあった。

 

 二人は、その後も言葉数少なに話をしていたが、二人共特にこれと言った気分の回復も見せずに寮へと帰った。それでも、夕飯を食べて風呂に入れば、幾らか気分はさっぱりする。特に、脳みそはよく働く。さっぱりしながらも、罪によって凝り固まって動かない脳みそを二人共持ち寄って、電話で話していた。ここにも特筆すべき事はない。ただ、タキオンが田上に「明日は授業に出るのか?」と聞かれて、少し悩んだ後に「行くよ」と答えただけだった。田上はこれにやはり心配を覚えたが、動かない脳みそを動かす術はなかった。

 そして明日が来た。今日はエスが訪ねてくるようである。果たしていつ頃訪ねてくるのか聞いておけば良かったと田上は思った。放課後なら放課後で、田上はゆっくりしておけばいいし、休み時間に来るのなら、田上は常にそれを待ち続けなければいけない。それでも、まぁ朝に来る事はないだろうと思って、田上はタキオンを自分の膝の上に抱きながら、トレーナー室で過ごしていた。

 タキオンは、まだ少し眠たかったのか、田上に抱かれながらその首元でスースーとゆっくりと息をしていた。まだ眠りには就いていない様なので呼び掛ければ反応はするが、眠いのをわざわざ煩わすのは可哀想だと思って、田上はタキオンを抱いたままでいた。

 タキオンは、その内に微睡みの方へと就いていたので、タキオンが授業に出るべき時間になると田上が少し揺すって起こしてあげなければならなかった。タキオンは口を開けて寝ていたようだったので、そこから涎が垂れて田上の肩の所をじんわりを湿らせていた。タキオンは、口元の涎を拭いて、次いで自分が田上の肩につけた涎を見つめながら「もう時間?」と寝ぼけた声で聞いた。田上は、「もう時間だよ」と返答した。タキオンは一瞬固まって何も考えていないかのようにじっと身動きをしていなかったが、やがて、ため息を吐くと「仕方がない」と言って立ち上がった。

 田上はこれになんと声をかければいいのか分からなかった。「行かなくてもいいんだよ」と言うのは、立ち上がって進もうとしている彼女の前向きな心を阻害しているような気がするし、「いってらっしゃい」と言うと、それはそれで彼氏として薄情のような気もする。

 それでも、結局、田上は心配そうな顔をしたまま、タキオンに「いってらっしゃい」と呟くように言った。タキオンもまた田上と似たような感じで、少しばかり暗い顔をしたまま「いってきます」と言って出て行った。少なくとも、田上にはそう見えた。

 

 田上はタキオンが去った後のトレーナー室でふーーとため息を吐くと、机の上に腕を組んでうつ伏せになった。それから、そうしたままでもう一度ため息を吐いてから、同じ部屋に居るマテリアルにこう言った。

「どうすればいいんでしょうね?」

「ん?」

「…どうしたらいいんでしょう?」

「ん、やっと私に話す気になったんですか?二人だけの問題を?」

「…二人だけの問題は二人だけの問題に変わりありません。…ただ、マテリアルさんなら分かるかもしれない事を聞くだけです…」

「なら、どうぞ」

「……どうしたらいいんでしょう?」

 田上は困ってしまって、もう一度その言葉を繰り返した。

「何を?」とマテリアルは当然そう返した。

「………人の心です」

「…具体的に」

「……タキオンです」

「はい」

「………もしかしたら、今日もう一人入って来るかもしれないんですよね?」

「そうですね」

「………折り合いはつきますかねぇ?」

「…どうでしょうね?……折り合いがつくつかないの問題じゃないですよね。結局、タキオンさんも、リリーちゃんに対して当たりが厳しいかと言うと、そうじゃありませんもん。タキオンさんがきつくなる時は、必ずあなたが居ますもん」

「………どっちにしろ、俺に他の子に指導に当たってほしくないって事ですよね?」

「まぁ、そんな態度ですよね」

「………タキオンは…。いや、タキオンが、授業に出るようになった事はどう思います?」

「良いんじゃないですか?」

「……それが、…俺にがっかりした顔をさせないためだったら?」

「それは、…まぁ、あんまり芳しくはないですよね…」

「そうですよね…」と言ってから、田上は暫く俯いて黙り込んだ。それから後、顔を上げると、マテリアルにこう言った。

「俺としてはタキオンが普通に学校生活を送ってくれるのが嬉しいんですよ。…まぁ、研究だ実験だなんだかんだと普通の女子高生並じゃないのは分かってるんです。…分かってるんですけどね……」

 その後の田上が言い淀んだ言葉をマテリアルが引き継いだ。

「どうしても嬉しくなっちゃうんですか?」

「そうなんですよ…。…タキオンの為になれているんでしょうかね…」

「……少なくとも、あなたの膝の上に抱っこされながらぐっすり寝ていられるくらいなんですから、為になれていないことはないでしょう?」

「……そうですかね…」

「そうだと思いますよ。…で、最終的に何が言いたいんですか?」

「………タキオンは、………」

 田上はそこで言葉を途切れさせた。本当はその後に「俺と付き合って正解だったんでしょうかね?」と言おうと思ったのだが、これを言ってしまうと二人だけの問題にマテリアルが介入してくるような気がする。ここで線を引いておきたいが、そうなるとその後の言葉が続かない。その為に黙り込んでしまった。

 当然、マテリアルは「なんですか?」と聞いてきた。田上は、まだ他に言い表す言葉があるような気がして、それを難しい顔をして探しながら言った。

「………タキオンは、………優しいですよね…」

「ええ…」

「………タキオンは、…………」

「俺の為に生きてるとか?」

 思いがけない所から、成程、それらしい言葉が飛んできたから、田上はそれに便乗して「そんなところですかね…」と言った。

「ふむ。……そんな所があるような気もしますね。…まず、タキオンさんは第一にあなたですからね。そして、多分、第二に自分?そんな感じがしますね」

「そうですよね…」

 思いがけないそれらしい言葉は、それなりにタキオンと田上の二人の間にある問題に触れていたので、マテリアルの何気ない核心を突く言葉に、田上は少し落ち込んでしまった。

「…………大阪杯あたりは…、タキオンも俺に向かってぶつかってきてましたからね…」

「んーー…、まぁ、そうですね…。あなたの事が好き以前に、あなたの事を助けたいって言ってましたから」

「………あの子は、俺の事は忘れたほうが良いとは思いませんか?」

「忘れるなんて可哀想でしょう?好き以前にとは言ってましたけど、あなたの事が好きなんですから。それに、今は幸せそうじゃないですか」

「幸せそうに見えますか?」

「十分幸せでしょう?少なくとも、私からはそう見えますよ?好きな人の腕の中で寝て、好きな人と同じ職場で、好きな人とキスできて。最高でしょう?」

「………」

 田上は首を傾げながらその事柄について考えた。それは、言葉だけ聞けば楽しそうではある。でも、実際のタキオンは、表情が楽しいとは違う。あれで内心楽しいのであれば、もっと表の方に出してほしいものだ。

 そう思っていると、マテリアルがまた言った。

「それで不幸せだなんて言っているんだったら自惚れていますよ。好きな人を腕の中に寝かせている時に幸せを感じないんですか?」

「そりゃあ、……感じない事もないですが、……ね。……果たして、幸せなんですかね?」

「幸せじゃないんですか?」

「……俺は構わないですけど、……タキオンは幸せになれますかね?」

「そりゃあタキオンさんがそれで幸せだと言うんなら、幸せなんでしょう」

「………幸せそうな面してますか?」

「してますね。この上ない幸せそうな面をしてます。一緒に悩んでくれる彼氏が居て嬉しいという顔ですよ」

「………幸せですかね…」

「…じゃあ、あなたは逆にどうなんですか?タキオンさんは幸せじゃないと思うんですか?」

「そりゃあ、……タキオンに――幸せか?って聞けば、幸せって答えると思いますよ」

「…じゃあ、あなたが見て。タキオンさんに聞くんじゃなくて、あなたが実際にタキオンさんを見て、幸せそうに見えますか?」

 これには田上も答えかねた。田上から見れば、タキオンのトレーニング風景などは本当に幸せなのか疑わしい所なのだが、タキオンが幸せと言えばそうなのかもしれない。また、実際に不幸せそうに見えると言うのも憚られるし、不幸せそうと言えば、それはそれで何が不幸せそうなのかは分からなかった。タキオンはただ分からないというばかりだし、田上が実際に目に見えるものとして不幸せそうに見えるのは、表情ばかりだ。

 しかし、こう色々と考えた挙句で、やっぱり、不幸せそうに見えると言いにくい理由は、憚られるからだった。それで、田上が言い淀んでいるとマテリアルがまた言った。

「タキオンさんは幸せそうに見えるんですか?」

「……」

「はいか、いいえで」

「……まぁ、…不幸せそうですよね…」

「あなたの目は節穴ですか!?タキオンさんが不幸せそうだと? 私から言わせれば、以前の大阪杯の頃の方がもっと不幸せそうでしたよ?それが念願叶ってやっと付き合えたんですから幸せに決まってるじゃないですか」

「……幸せなんですかねぇ…」

 田上はため息まじりに言った。

「じゃあ、分かりました。その不幸せの原因は何ですか?言ってごらんなさい。私が判決を下します」

 それに答えるために田上がじっと考え込んでいると、段々と自分の考えは滑稽だったのではないかと思い始めてきた。タキオンが自分の膝の上でぐっすりと眠れるのは知っている。好きでいてくれるのも知っている。そして、付き合っている事も当の本人だから知っている。ただ、走るのが楽しくなさそうな事も事実ではある。田上はその事実を重く受け止めていたが、よくよく考えてみると、幸せさと不幸せさを天秤にかけてみたら、まだ少し幸せさの方が勝っているのではないかと思う。

――では、自分の考えは全て杞憂だったのだろうか?

 改めてそう考えてみたが、果たして、杞憂かと言われるとそうでもないような気もする。少なくとも走る事は楽しくなさそうであり、タキオンの義務と化しているのではないかと思う。

 これがどのように発展するのかは分からない。そのまま表に表れずに過ぎて行く場合もあるだろうし、これから田上とタキオンが、一生懸命話し合わなければいけない事もあるだろう。それを心配し過ぎるのは、ともすると杞憂かもしれない。ただ。ただ、田上には思うことがあった。だから、それをマテリアルに言ってみた。

「……タキオンに…」と言ったところで気が付いた。これは二人の話であった。田上の恥の話であった。これを言うべきなのかどうか迷った。ただ、これも他に表せられる言葉がありそうだったので、こう続けてみた。

「……タキオンに…。むしろ、俺がタキオンを苦しめているような気がします」

「…つまり、あなたがタキオンさんの不幸の原因だと?」

「……まぁ…」

「ふむ。…では、被告人は有罪ですね。…理由は勿論、虚偽の証言をしたためで、あなたは全然不幸の原因ではありませんもの」

「……でも、二人で話している時に実際にそういう事がありました」

「どういう事?」

「…………タキオンが、俺のせいで迷惑を被っていたことがあると…」

「…それは、タキオンさんが実際にそう言ったので?」

「ええ…」

「んー…、まぁ、タキオンさんはあなたの腕の中でぐっすり寝ていたという事実がありますし、有罪は変わりませんね」

「……」

「だって考えてみてください?もしあなたが無罪で、その言葉通りに不幸の原因で、別れましょうとなってしまった場合、一番傷付くのは誰ですか?…タキオンさんですよね?」

 そうだろうな、と心の中で思いながらも、田上はそれを口には出さないで黙ったままでいた。

「…むしろ、タキオンさんが彼女だという事で苦しんでいるのはあなたなのでは?」

 田上は、この言葉を頭の中で反芻しながら考えていた。いよいよ田上の恥に抵触しそうな気がしてきたが、不思議とこの方向から触るのであれば、あんまり田上の心も傷つかないような気がした。だから、田上は言いにくそうにしながらもこう言った。

「タキオンだって立派な人間ですけど、……俺はこの先どうなるのか分かりません。……なら、本格的に傷付けないうちに去ってしまった方がお互いにとっていいんじゃないですかね…」

「でも、タキオンさんなら大抵の傷は受け入れるつもりでありますし、なんなら、田上トレーナーが別れようと言った方が本格的に傷をつけるようになりますけどね」

「……だから、…どうすればいいのか困っているんです…」

「タキオンさんなら大抵の事は受け入れてくれますよ」

「……そうですね…」と言って、田上は、マテリアルとの会話を断ち切ろうとした。もうここから先は駄目だった。答えの出ない問いにマテリアルと二人で話し合ったってしょうがない。ただ、マテリアルも察しの良い女だったから、田上がこの話を避けたことに勘付いた。だから、こう言った。

「何かあるんですか?」

「……いや、…タキオンなら大抵の事は受け入れてくれると思います」

「あんまり顔は納得しているようには見えませんけど」

「そうですか?」と田上はわざと少し目を見開いて、少しでも表情を明るくさせようと努めた。

「そうですね。また二人だけの問題ですか?」

「……まぁ、タキオンとも追い追い話すだけです。…仕事しましょう、仕事」

 田上がそう言うと、マテリアルもフンと鼻を鳴らしたが、その後は二人共黙々と仕事に取り掛かった。

 

 一時間目の休みになると、タキオンはすぐに田上の下に来て、その座っている体に乗っかって抱き着いた。もう眠くはなさそうな顔だったが、田上の体に自分の体を密着させながら、手は、気怠そうに下の方へだらんと伸びていた。田上は当然そんなタキオンを静かに受け入れた。授業の成果について何かを聞くというつもりはあんまりなかった。迷いがあったのも確かだが、こういう場合のタキオンは何かを聞かれる事よりも静かに受け入れてくれる方が喜ぶと思ったからだ。

 そうして、二人とも静かに抱き合っていると、二三分後に不意に扉がコンコンと鳴った。田上はすぐに叩いた主がエスであることに思い至ったから、「どうぞ」と椅子の上から呼び掛けた。すると、エスは恐る恐る扉を開けながら、その陰から田上を見つけて頭をコクコクと下げた。それから、その田上に抱き着いている女子高生のウマ娘に目を留めて、ぎょっとした顔になった。田上は――不味いな、と思いつつも、「こっちがタキオンです」と紹介した。それで、エスは、ああと納得した顔になった。それからまたコクコクと頷くと、「少し待ってもらえませんか?」と言って、扉の奥に引っ込んでいった。田上は女子高生の奇妙な行動に疑問を覚えつつも、表情からして、特に大したことでもなさそうだったから、少しの間待ってあげた。

 エスは、本当に少しばかり田上を待たせたばかりで、「すみません」と言いながらトレーナー室の中へ入ってきた。そこで、ようやくタキオンは顔を上げてエスの方を目を細くしながら見つめた。新しい人物を警戒しながらも品定めしているような目つきだったが、エスの方が「こんにちは」と警戒心の高い先輩に少し怯えながら挨拶すると、タキオンも微かに頭を上下にさせてから、また元の様に田上にもたれかかって、エスから顔を見えないようにした。田上はそれに苦笑しつつもこうエスに向かって言った。

「もしかしたら、…噂とかで聞いた事があるかもしれないけど…、タキオンと俺は…交際してます」

 このような曖昧な話の切り方ながらも、田上はその後の返答をエスの方に求めるように見つめた。当然、エスはどんな反応を求めてられているのか分からず困って、少し黙った後に「ああ、…少し聞いた事はあります」と答えた。

 この言葉に田上は少し嫌な思いをしたが、マテリアルが「とりあえず座ったらどうですか?」と言ったので、エスの方をマテリアルの方に座らせた。そして、自分だけデスクに座っているのもあれだったので、田上は長机の移動するためにタキオンに声をかけた。タキオンは渋々ではあったが、嫌そうに頷くと田上の上から下りて、そのまま長机の席に座った田上の隣に自分も腰かけた。エスは興味津々と言った目つきでタキオンの事をチラチラ見ていたが、田上が話しかけると田上の方に目を戻した。

「それで、…一晩で冷静になれたみたいですか?」

「ああ、はい。…はい」

「…スカウトは受けてくれるって事でいいんですか?」

「……んー、と…、まだ少し何か聞いてみたいかなって思ったんですけど…」

「ああ、全然構わないです。聞きたい事があればどうぞ。お構いなく」

「……どのくらいのトレーニング頻度ですか?」

「…んーと…、まぁ日曜に一日休みがあるくらいかな?」

「それって、…増やす事はできますか?」

「……休みを?」

「はい」

「……まぁ、できなくもないけど…、やっぱりなるべくトレーニングはあったほうが良いんじゃない?」

「……私、他に趣味があるので、そこにも時間を使いたいので、…できませんかね?」

「ああ、それだったら、もうタキオンで経験済みだよ」

「タキオンさんが?」

 エスは、堂々とタキオンを見つめる機会ができて、できるだけその目に焼き付けようと目を見開いて、じっとタキオンの事を見つめた。タキオンは、嫌そうな顔をして、見ていたエスから顔を逸らして田上の方を見た。

「そう。タキオンは、…ご存じかもしれないけど、結構研究や実験が好きなタイプだったから、しょっちゅう無断でサボってたりしてたよ。…まぁ、だから、そこら辺は慣れてるから大丈夫だし、そんなに怒ったりしないよ。まぁ、ただ走りに身が入らなくなるのも困るけど…」

「走るのも十分に好きなので、全然大丈夫です。…トレーニングってどれくらいきついですか?」

「…まぁ、人に合わせるよ」と田上は隣のタキオンの事をチラッと見ながら言った。この視線の動きにあるのは、今のタキオンの走りに関しての事だ。

 タキオンはそれを読み取ったが、言葉に出すことはしなかった。田上もまた視線のみで言葉には出さなかった。

「このチームにもう一人、中等部の一年生の子がいるけど、まぁ、その子の体調にも合わせていろいろやってるよ」

「ふぅん。…このトレーナー室って出入り自由ですか?」

「チームの子だったらいつでもいいよ」

「じゃあ、私は?」

「…まぁ、お客様だから特別待遇だよ」

 エスは、その後にため息まじりに唸った。それから、少し考えた後に、こう言った。

「どのくらい走るのは速くなりますか?」

「うーん。…うちのチームはあんまり速さは目指してないかな?皆楽しく走れるのが一番だから。…まぁ、タキオンは元々才能があった。だから、誰でもタキオンみたいになれるわけじゃないけど、…まぁ、楽しさが一番だと思う。うちのチームの方針はこれだよ」

「うーん…。まぁ、私もそのくらいの緩さが好きです。…チームトゥルース…。また少し考えてみて良いですか?」

「いいですよ」

「……あと、…ここにまた来てみても良いですか?雰囲気が知りたくて」

「ああ、いいよ」

「トレーニングも見学してみたいんですけど…」

「ああ、あっちの、カフェテリアの奥の方の、少しだけ小さめのトレーニング場の方を使ってるよ。いつも授業が終わった十五分後くらいに始めてる」

「うーん…、はい。分かりました」

「あ、ただ、今日はタキオンもおやすみの予定だから、タキオンと二人で見学するのもいいかもね」

 田上が最後にタキオンの方を向くと、タキオンは――余計な事を言うな、というような目付きで田上の事を睨んだ。それに田上は微笑しながら、またエスの方を向いて、「タキオンは嫌みたいだから、まぁ、…特に触れ合う必要はないと思う。うん」と言った。

 エスはそれに「うーん」とまた唸るように頷いたが、その後にこう言った。

「……え、…田上トレーナーとアグネスさんは付き合っているんですよね?」

「うん。…まぁ、その通りだね」

「え、……失礼かもしれませんけど、…好きなんですか?」

「まぁ、…うん」

 これはタキオンの方にも送られた質問のようだったが、タキオンは机の一点を見つめるばかりで全く無視していた。

「…何か他に質問は?」

「……え、……まぁ、やめておきます」

「遠慮はしなくていいよ」

「いや、…話がずれそうだったからいいです。今日、見学行ってみたいと思います」

 そこで話が終わりそうな雰囲気となったが、マテリアルが手を高々と挙げて「はい」と言った。そして、皆が注目すると手を下ろしてこう言った。

「エスさんに提言したい事があります」

 エスは、顔立ちの良いマテリアルに少し見惚れながらもコクコクと頷いた。

「この二人が付き合っている事です。…これはね、言わないのは勿体ないというか、できれば二人の為に秘密にしてやってほしい物ではあるんですけれども、これを言わなかったら詐欺に当たると言ってもいいようなもので、エスさんにはしっかりと伝えておくべきものです」

 エスはまたコクコクと頷いたし、田上は申し訳なさそうに顔を俯かせた。

「田上トレーナーも立場があるもんですから、まぁ、私に丸投げしたようなもんです。誰も自分の恋人の事は悪くは言いたくないですからね。…それで、問題はですが…、問題は、…タキオンさんとの相性が必要なんです。やっぱり、田上トレーナーの恋人と言うだけあって、GⅠウマ娘だし、田上トレーナーが最初に担当したウマ娘だし、まぁ、幅が利くんです。そして、田上トレーナーも顔に似合わず温厚な人間ですから、タキオンさんの我儘もある程度までは抑えはするけれども、結局は、そのままです。まぁ、これも彼女だから仕方ないでしょうが、一緒にチームになる人にとってはそうじゃありません。三年間ほどを田上トレーナーの指導に賭けてやってくるんですから。私たちもそれ相応に報いなければいけません。…ただ、やっぱり相性です。今の中等部の子、リリーちゃんって言うんですけど、その子とタキオンさんの相性は上手く噛み合ってます。まぁ、噛み合っていると表現していいのかは分かりませんが、噛み合ってます。だから、ここはタキオンさんも、彼氏たる田上トレーナーのお仕事の為に、幾つかエスさんから質問を受けてみてはいかがでしょうか?」

「私がかい?」とタキオンは、マテリアルの方に――余計な事を言いやがって、という目つきを向けながら言った。

「そうです。あなたがです。田上トレーナーの事は好きなんでしょう?」

「……なんだい?質問は」とタキオンは投げやりにそう聞いた。これはマテリアルの策が成功したようである。田上は、――マテリアルさんの方がタキオンを誘導するのは長けているのかもしれないなぁ、と思いながら、タキオンの事を見つめていた。

 エスの方は、急に質問と言われてもすぐには出てこなかったが、タキオンには聞きたい事があったので少し経った後にこう聞いた。

「田上トレーナーの事はやっぱり好きなんですか?」

 これは聞くと、タキオンはマテリアルの方を向いて「NGは出して良いだろう?」と聞いた。マテリアルもそこまで縛る必要はないと感じたため頷いたが、今度はエスの方が少し機嫌を損ねた表情をした。ただ、その後にやっぱりまた質問をしてきた。

「…タキオンさんから見て、私は相性良さそうですか?」

「……学年は?」

「高等部の一年生です」

 タキオンは、エスを値踏みするように見つめた後に、こう言った。

「まぁ、私の邪魔をしないのであれば、相性は良いと言える。ただ、圭一君は私の彼氏だからあんまり馴れ馴れしくしないように。私も君と必要以上に馴れ合う気はない」

 田上は、少し険悪になりつつあるエスとタキオンの会話を心配そうに見つめた。――できるだけ、相性良くあってほしかったけどこれでは駄目だろうか?先行きに少々涙が零れてきそうだった。

 タキオンは尚も続けた。

「トレーニングなんかは仕方がないから私は黙っておくが、あんまり必要以上に接する事の無いように」

「はぁ…」

 エスはタキオンの事を睨み気味にそう返事をした。田上は本格的に落ち込んだ。これではもう駄目そうである。結局、タキオンへの質問もそれなりにエスはその場を去ってしまった。そして、時間もあまり残っていなかったため、タキオンもまたそのまま教室の方へと行った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。