ケロイド   作:石花漱一

160 / 196
三十三、三回目の選抜レース⑥

 タキオンが手を放してくれたのは、それから五分後だった。これは案外短かった。田上としては、これがあと三十分程は続くのかと思っていたが、思っていたより、田上が上に乗っているのが苦しかったらしい。

 タキオンはすぐに放してくれた。ただ、放した後も駄々は続いた。田上が「とりあえず、土手に上がってくれないか?」と頼むと、「キスしてくれないとヤダ」と答えた。これでは少々子供っぽすぎる。しかも、体が大きいのだから性質が悪い。

 これに田上は困りつつも、どうしようもないのだから、とりあえずタキオンの横に寝転がった。タキオンは横に寝転がってる田上の手を取って、その手を揉みながら気を引こうとした。田上も、これを無視するほどうんざりしている訳ではないので、タキオンの方を向くと「どうした?」と聞いた。

 タキオンは言葉にならない物、または、言葉にできそうなのにできない物を口の中に溜め込んでいるという表情をしてから、「私を見て…」と言った。田上はタキオンを安心させるように微笑みながら「ずっと見てるよ」と言った。タキオンは、また同じような顔をした後に、「私だけを見て。…愛して…」と言った。

「愛してるよ…」と田上は優しく言った。

「……愛して…」

「愛してる。…ずっと好きだよ」

「……私の顔撫でて…」

「いいよ」

 田上はそう言うと、タキオンの方に寄ってから、その顔に手を伸ばすと、右手の親指でタキオンの目の下周辺を、円を描きながら擦り始めた。

 タキオンは、多少落ち着いた顔になって、力無く開かれた目で、自身の優しくてかっこいい彼氏の顔を見た。タキオンから見れば、その顔の周りには薔薇で彩られていてもおかしくなかったが、実際に他の人から見れば、まぁ、普通の男である。本人だって薔薇で彩られるような美男になった覚えはないと言うだろうが、タキオンの視点では、全く尊敬すべき、かっこよくて、優しくて、偉大な彼氏だった。そして、田上も、その様な彼氏になりたいとは思った。幾ら薔薇で彩られてなかろうが、タキオンからそう思われているのであれば、田上はそれでよかった。

 田上は暫くタキオンの顔を撫で擦っていた。少々人の往来もあって田上も気にしていたのだが、タキオンがうっとりとして撫でられているので、中々やめるにやめられなかった。田上は頑張ってやめ時を探していたのだが、いつの間にか、安心しきっているタキオンにつられて、他の事を考えなくなっていたので、もういいやと思うと、時折タキオンの頬の撫で方を変えたりしながら、タキオンが話し出すのを待った。自分から話し出すとタキオンが不安になってしまうかもしれないので、タキオンから話すのを待つほかなかったように思う。

 タキオンは長い事田上に頬を撫でられ続けていた。そして、田上も長い事それに付き合って頬を撫で続けてあげていた。日はもう地面の彼方に落ちそうな頃合いである。田上とタキオンは、陽の光の最後のきらめきを浴びながら、土手の上に寝転がっていた。トレーニング場には、まだ人が居る。陽が落ちれば、また帰る人も続々と出てくるが、まだ人はたくさんいた。田上は撫で続けている。タキオンは撫でられ続けている。これがいつまで続くのか分からなかった。田上も、タキオンが安心しているから、それに付き合ってあげているが、果たして、陽が落ちてからもここに寝転がって、撫で続けてあげなければいけないのだろうか?

 その事に思いを巡らすと、――もうそろそろ動かなきゃな、という気持ちになったが、タキオンの顔を見れば、その顔があんまりにも安心しているので、田上は中々言い出しづらかった。

 日は、地平線へと吸い込まれていった。田上は、西に背を向けて寝転がっていたから、それが見えるはずもないが、遂に暗くなり始めていたのは感じていた。けれども、タキオンは田上の顔を見つめたまま動こうとはしない。

 田上は、――タキオンは子のまま動かないつもりなのだろうか?と思った。動かないつもりならば、門限が過ぎてもここに寝っ転がっている事を考えているかもしれない。今のタキオンならば、十分に考えて良そうなことだった。こうなると話はややこしくなる。どうも、田上一人ではタキオンを制御するのは難しい。タキオンも、田上の前では、プライドを掃いて捨てているので、何をしても良いと思って行動している。そうなると、タキオンのプライドを呼び覚ますためには多少なりとも友達が必要だ。門限まで行けばフジキセキが来るだろう。少なくとも、そこまではこうしていても大丈夫そうだが、田上としては、別れる際のタキオンを想像してみるとあまりにも憐れだった。あれでは、タキオンの友達にも迷惑をかけてしまうかもしれないだろう。幸い、タキオン周りの友達は優しい人物が多いが…、田上はタキオンの事を思うとやりきれなかった。友達に迷惑をかけるにしろ、かけないにしろ、あんな憐れなタキオンを送り出すとなると可哀想で可哀想でならなかった。ただ、このままこうしているだけでは、その状態からは抜けられないように思う。だから、田上は成功するにしろしないにしろ、一応動いてみたほうが良いだろうという事で、タキオンを撫でるのをやめると、その体を抱きしめる為にタキオンの方に近寄った。

 相変わらず、言葉を発するという事はしなかった。言葉を発してしまえば、余計な事しか言わないような気がした。だから、言葉には言い表せない物を最大限タキオンに伝えるために、タキオンの体を抱きしめた。また、タキオンの良く回る口を封じるためでもあった。

 田上が言葉で語り掛けなければ、タキオンも、積極的に、言葉によって何かを行ったりしようという事もないだろう。タキオンならば、抱き締められている現状こそが嬉しいはずだ。そんな中で、田上は目に見えない物を伝えるしかない。

 田上は、タキオンの頭を胸に抱いて、無言で抱き締め続けた。タキオンも初めに撫でられるのをやめられると、戸惑ったような顔をして田上の事を見つめていたが、やがて、黙って抱き締められると、田上は自分の事を抱き締めたかったのだろう、と思ってそれに甘えた。まあまあ強くタキオンは抱き締められていたが、二人の行動に少しの変化が訪れたことによって、タキオンの脳みそも少しは働くようになった。田上が動いたことによって、周囲の変化に少し気が付いた。暗くなっている。暗くなりつつある中で、田上が動いてタキオンをより近くで抱き締めたという事は、そういう事だろう。田上もタキオンに帰る準備をさせようとしている。そんな事は御免だったが、心のどこかに素直に寮に帰れそうな自分も居る。そんな自分も御免だ。帰りたくなかった。このまま田上に抱き着いてずっとずっと過ごしていたい。ただ、タキオンだってそんな事ができないのも重々承知である。帰らなければいけない。帰らなければいけない。圭一君だってそう願っている。明日に続く日々を一緒に過ごすためには帰らなければいけない。しかし、そんなのは嫌だ。ここにある自分自身という存在を圭一君にもっと知らしめてやりたい。君の目の前に立つ立派な女という存在を認めさせてやりたい。自分は自由な女だ。学校の規則なんかに縛られる人間じゃない。最も君を愛している人間だ。私たちの愛を引き裂ける者は居ない。例え、法に背こうとも、私は君を愛している。こんなにも愛しているんだから、規則が私たちを縛っていいはずがない。私を規則が縛っていいはずがない。私は自由な人間だ。私は、自由に君を愛している人間だ。

 タキオンはそんな事を思いながらも、どうにもならない現実に苦しんでいた。強い愛は、自由の保証になるものではない。確固たる思いは、不条理を変えられるものではない。こんなにも愛しているのだからとルールを破っていいわけではない。少なくとも田上はそう考えている。だから、最低限タキオンの自由を叶えてあげようとアパートを借りてくれた。それでも、タキオンの飢えが完全に治ったわけではない。

――いっその事、圭一君を引っ張って駆け落ちでもしようか、と思った。仕事も友人も家も家族も何もかも捨てて、世間の柵の全くない山奥へ引っ越そうかと思った。ただ、タキオンにだって、そこまで過酷な生活を送る度胸は無かったし、田上だって嫌がるだろう。

 この優柔不断な彼氏をどうにかしてやりたかった。見てる見てると言いつつも他の子の事もちゃんと気にかけているこの屑をどうにかしてやりたかった。世間の目ばかりを気にして、彼女の事を気にしてやれない正真正銘の屑だ。こうなったら…、と思うと、タキオンの口からすぐにその言葉が出てきた。

「圭一君。……別れる…」

「は?」と結構な衝撃を受けた田上の声が聞こえた。そして、強く抱きしめていた腕が解かれて、田上がタキオンの顔を見つめた。タキオンの目からは涙が出ていた。

「なんでそんなこと言うの?」と田上は動揺を隠し切れない声で聞いた。

「……だって、……きみが、…意地悪なんだもん…」

「意地悪?」

「……だから別れる…」

「え……」と田上は不安げな顔をした。タキオンはそんな彼氏の顔を可哀想と思いつつも、自分の言葉は止められなかった。

「私が、…君に…――私だけを見て、って言った時に……、君は……君の返事は適当だった。……嘘吐いてた……。…だからもう……君の事嫌い……」

 田上の表情の裏に、様々な考えと、色とりどりの不安が渦巻くのをタキオンは認めた。それでも、タキオンは田上に何か返事を求めた。不安の裏から何かを取り出してほしかった。

 二人は、暫く見つめ合っていたが、タキオンは声を堪えることができずに、シクシク言いながら顔を俯かせることになった。田上は、その後どれ程の時間が経ったのか自分でも認識できないくらいの時に、擦れた声でこう言った。

「ごめんな…」

 道は自分の思うように進んだ。タキオンは自分のことを嫌った。この道の方が良かったのだ。田上はそう思った。

「……迷惑掛けてごめん…」

 それから、田上はここでうだうだと寝転がってもしょうがないと思ったから、決別の証にタキオンの頭の下に敷いていた腕をそっと引き抜き、体の距離を離して、タキオンに背を向けて西の方を見ながら寝転がった。もう、何もかもが嫌になった。結局彼女を泣かせることになり、フラれた。最低の人間である。今日はもう動く気力が無いから仕方がないが、明日はもう何もかも放り投げて自殺しようとさえ思った。すると、タキオンがしくしく泣きながら田上の服を引っ張って「違…う~」と唸るようにして言った。そして、殊にしくしくと泣きだした。田上もこの言葉の意味を十二分に理解したが、もう本当に自分が嫌になったので、ゆっくりとタキオンの方に体の向きを変えるとこう言った。

「………お前も………俺とじゃない方が幸せになれるよ……」

 タキオンは、必死に言葉を出そうとしながらも、泣き荒れた息を整えることができずに、苦しそうに息をしていた。

「わ……わ………君が好き……」

 そして、田上の体に抱き着きながら、顔を服に埋もれさせてわぁと泣き出した。田上も泣きたい心地だった。これだけ大きな声で泣かれていたら、周りの人も自分たちの事を見ているだろう。それがどうという事はないが、田上は、果たして泣いているタキオンをどのように扱えばいいのか分からなかった。

 田上は、とりあえず、タキオンを落ち着かせるだけ落ち着かせて、後始末はその後に考えようと、ただ黙ったまま陽が落ちてしまった土手の草の影をじっと見つめて、タキオンの背を軽くぽん…ぽん…と一定のリズムで叩いていた。タキオンは、その後も「違う~」と唸るように言って泣いていたが、やがて、田上の胸に顔を埋めながら、息が整うようにまでなった。

 その後に、タキオンが「ごめん…」と小さく言った。田上はこれに応えようか答えまいか迷ったが、不思議と自分の喉から声は出てきそうだったので、こう言った。

「………お前は、……俺とじゃない方が人生を楽しめると思う……」

「……傷付けてごめん……」

「………傷付いたんじゃない。…最初から傷は付いてる。…そうじゃなくて、…単純に、お前も俺とじゃない方が、もっと笑って暮らせると思う……」

「……不安にさせてごめんなさい……」

「……謝らなくていい。……お前も俺とじゃない方が良いと思う。……お前と同世代の良い人を探してあげるよ…。…多分、そっちの方が良かった…」

「……ごめん…」

「……お前の気持ちは良く分かる…。けど、お前は俺とじゃない方が良かった。…もっと穏やかな人と過ごせればよかった。…タキオンが嫌なら別に、同世代の人も探さない。……お前はもっと穏やかに過ごせるはずだ…」

「……嫌いにならないでください…」

「……嫌ってなんかない。………嫌いじゃない。………もっと良い人が居る…。俺みたいなやつに固執しなくても、お前に振り向いてくれる人はたくさんいる。…お前はそれくらいに魅力的な人だ。…大丈夫。きっと俺よりも素晴らしい人が見つかる…」

「君が最高レベルだ…。…君以外となると大概低レベルだ…」

「そんな事はないと思う。…きっと俺以上にお前を溺愛してくれる人が居る。お前に愛を注いでくれるのは、別にこの世に俺一人だけじゃない。たくさん居る。……その人と幸せになったほうが良い…」

「……嫌だ…」

「…………俺も嫌だ…」

 田上は、この後に息が整わなくて仕方が無くなった。息を吐きたいのに吸っている心地がするし、吸いたいのに吐いている心地がする。段々と胸が苦しくなる。田上は、それを一生懸命整え整え言った。

「………お前は俺以外とが良い。…大阪杯の時に――一人にしないでくれ、みたいなことを言ったのは悪かった。…あれは嘘だ。……一人は慣れてる。俺が一人になることを心配して付き合ってくれているんだったら、全然大丈夫だ。…俺はこれまで一人で生きてこれたから、これからも十分一人で生きていける…」

「……私も悪い…」

「…大丈夫。罪は全部俺にある。…元々、教え子なんかに手を出しちゃいけなかった…」

「……私の好きな人の事を否定しないでくれ…」

「………いや、…否定しないといけない。お前が好きになった人は…駄目な奴だった。女の子を傷つけるだけで、それ以外に何もできない奴だった」

「…そんな事ない」

「いや、そうだった。…お前も好きな人の事をバカにされると嫌かもしれないが、俺はお前の好きな人の事をバカにする程度の人だ」

「そんな事は知ってる」

「……その好きな人は、お前を傷付けるような人間だ。傷付けて逃げるような人間だ。……俺はそういう奴とは別れたほうが良いと思う。これ以上、そんなバカに付き合わないほうが良い。その内お前の方が駄目になる」

「…私はまだ駄目じゃない」

「今じゃなくてもその内駄目になる。今のうちにやめておいたほうが良い。お前の友達だったら皆多分そう言うと思う」

「…私の友達はそんな事は言わない。…皆、――あのトレーナーは良い人だったのに、って言う」

「……人間には裏表があるもんだ。同棲してみて初めて分かる事もある」

「……私は、君の裏表を知っていても尚好きだと言っている」

「…論点がずれてる。……友達が、お前にあのトレーナーをやめておけ、と言うかだ」

「ずらしているのは君だ。…付き合っているのは私たちだもの」

「だから、外から客観視してくれる人が必要なんだ」

「なら、猶更私たちは別れるべきじゃない」

「そういう事じゃない。…お前の友達は、絶対に、俺の事はやめておけって言う」

「なら、君は私の友達の事を舐め過ぎだ。私の友達は、それ程人を見る目が無いわけじゃない」

「……違うんだよ。……俺は確実にやめておいたほうが良いんだ」

「良くない」

「……そう強情になってもらうと困る。……例えば、今この現状、俺がお前を泣かせたって現状を、友達に言えばどうなると思う?しかも、これが一回や二回じゃない。何回もだ」

「普通のカップルだって喧嘩くらいする」

「なら、俺はその人と付き合うのはやめておけって言う。そんな理不尽な怒り方をするやつとは付き合わないほうが良いって言う」

「君は理不尽じゃない」

「俺は理不尽だ。……自分に向かってこんなことを言う奴なんだから、相当な屑だってのは分かるだろ?…屑は自分の事が屑だって十分に理解してるんだ」

「だから、私は君が好きだ」

 田上は、タキオンの強情さに困ったように眉間を掻きながら、また言った。

「……でも、お前は俺とじゃないほうが良い。そうした方が確実に、今後の人生が豊かになる。こんなに根暗な男とよりも、穏やかで優しい男性とお付き合いをした方が確実に良い」

「穏やかで優しい男性が君だ」

「そうじゃない。穏やかで優しい男性は自分の事を屑だなんて言わない」

「それは穏やかな男性に対する偏見だ。穏やかな男性だって、時には悩む事もある」

「…俺は穏やかなんかじゃない。…お前をこんな風に突き放す奴だ」

「じゃあ、突き放すな」

「…だから、お前は俺と付き合わない方が、今後のお前の人生にとって良いんだよ」

「私は悪くなったって構わない」

「自暴自棄はダメだ」

「君は自暴自棄の意味を履き違えている。私は全然自暴自棄なんかじゃない。君と一緒の人生だったら、必ず良くなると信じてる」

「俺の事を過信し過ぎだ」

「君は自分の事を信じていなさすぎる」

「俺なんて信じなくたってどうにかなる。俺を信じる方がダメだ」

「その根拠を明確に論じたまえ」

「俺はお前にとって悪だ。何回も泣かせているし、苦しめてきた」

「その根拠は、全くの主観であり、論ずるに値しない」

「いや、俺は俺を客観的に見てこう言った」

「なら、君は客観的の意味を履き違えている。客観的とはただ自分を遠目に見るのではなく、多様な視点によって自分を見つめる事だ。今の場合は、私の考えを君は全く考慮に入れていない。私は君の事を悪だなんて思っていない」

 こう論理的に自分の牙城を崩されてしまうと田上も困った。ただ、相変わらず、自分がタキオンの彼氏でいてはいけないと考えていたので、こう聞き返した。

「……逆に、…タキオンはなんでそんなに俺の事を信頼しているんだ?根拠を明確に述べてみろよ」

「優しいからだ」

「それじゃあ、」

「話は最後まで聞きたまえ」とタキオンは相変わらず、田上の服に顔を埋めながら言った。「これは私だけの考えじゃない。恐らくマテリアル君だって、リリー君だって、君の友達皆だって、日の浅いエス君だってそう言うだろう。皆君の事を優しい人間だと思って、慕ってついてきてくれている」

「……皆お前に接するときの俺を知らないからだ」

「少なくとも、マテリアル君は知っているはずだ。明日直接聞いてみてもいい。彼女は、確実に――田上トレーナーは優しい、と答えるはずだ」

「……あのな…。…駄目なんだよ」

「何が?」

「……俺が人と付き合っちゃ。…駄目なんだよ。……考えてもみろ。実際にお前はどうしてる?優しい人間がお前の前で優しいままでいてくれるか?そんな大した優しさじゃないよ。……外面だけだ」

「内面を知っている私も、マテリアル君も、同様に、君の事を優しいと言う」

「……お前も人を見る目が無いな…」

「私の人を見る目は世界最高峰のつもりだが?」

「お前は自分の事を過信し過ぎだ」

「そんな事ないさ。私は私の事を正当に評価している」

「……お前も冷静じゃない時がある。…俺はそんなときにお前をどう扱ってやればいいのか分からない。だから、ただ優しいだけじゃ駄目だ。賢くて穏やかで優しい男の人を探せ」

「その人に私は今抱き着いている」

 ここで田上は一つため息を吐いてから言った。

「だから、……駄目なんだよ。……お前は泣きたいのか?」

「君に泣かせてもらうならそれが本望だ」

「俺は本望じゃない。…よくよくじっくり考えてみろ。お前ならしっかりと分かるはずだ」

「君の根は優しくて賢くて、頼りがいのある男性だと」

「違う」

「違わない」

「……頼りがいのある男性だったら今頃お前は泣いてない」

「私が泣き虫なだけだ」

「お前は言うほど泣き虫じゃない」

「違う。君の前だと泣き虫になっちゃう」

「…なら、尚の事別れたほうが良い。彼氏の前で泣いてばかりは嫌だろ?」

「違う。君は私に好きなように泣かせてくれる」

「……はぁ…。……とにかくお前は俺と別れたほうが良い。…もうそろそろフジさんが来るかもしれない。立ち上がらなきゃ」

「嫌だ。……私が悪かったから、もう一度付き合うって言ってくれ」

「…………あのな…」

「私が悪かった……」

「俺の方が悪かった…。だから、もう責任を取らなきゃいけない」

「責任取るんだったら、私一人を置いて去る様な真似をしないでくれ…」

「……お前には仲の良い友人がたくさんいるだろ?」

「…君は最も仲の良い友人であり、恋人だ」

「…分からないか?……お前は、俺と居ない方が楽なんだよ。俺が居ない方がもっと楽に過ごせた。今も研究を続けているかもしれない」

「君と過ごした日々はこれまでにないくらい幸せだった」

「……そうかもしれない。…でも、もっと幸せにしてくれる人が居る。…結局、……俺は…人を愛するという事に耐え切れなくなって、逃げようとしてる。…これだけでも十分俺がダメな奴だって分かる」

「そうじゃない。君は全くダメな奴なんかじゃない」

 タキオンはそう言うと、唐突に埋めていた顔を上げて、田上の顔を見つめると、そこまで顔の位置を上げてからキスをした。田上もキスをされると分かっていても抵抗はできなかった。恋人であるのは嬉しかったが、どうにもタキオンが重荷であることは分かっていた。そして、その重荷に自分が耐えられない事も。これが別にタキオンじゃなくても同じことだっただろう。別の誰かだったとしても、人の命という重荷に耐えられる自分ではなかった。それでも、田上は雰囲気に流されて、タキオンとキスをしていた。

 人の足音が聞こえた時にタキオンは唇を離した。そして、その足音の方に目を向けた。田上の後の方から足音がしたので、田上は振り返ってそちらの方を見た。見るとフジキセキだった。ニコニコしながらこちらへ近づいてきて「やっぱり、二人で一セットだね」と言った。タキオンはそれに煩わしそうな顔をした。それにすぐに気が付いたフジキセキは、ニコニコするのをやめて穏やかな顔で「おや、私が来てはいけなかったかな?」と言った。田上は、少し眉を寄せながら「今、圭一君と重要な話をしていた所だったんだ」と返事をした。

 フジキセキは、田上に一度目をやって、少し頭を下げた後、こう言った。

「私がその話に割り込んでいいのかは分からないけど、とりあえず、今日は門限があるんだ。一緒に来てくれないかな?」

「……私と圭一君の交際関係に関する重要な話し合いだ。これで、もし私たちの関係が破綻したら一生君の事を恨むぞ」

「ふむ」とフジキセキは余裕そうな顔をしながらも、じっとタキオンの顔を見つめた。それから、こう言った。

「十分だよ。それ以上経ったら私も君を連れ戻さなくちゃならない」

「研究室で徹夜も許してくれたんだから、今更これを許さない君じゃないだろう」

 その言葉に返答は与えず、フジキセキは笑みを浮かべながら去って行った。そして、タキオンと田上は顔を見合わせた。トレーニング場の強いライトで、タキオンの顔は薄く照らされていた。田上はその顔を見ながら――この子をどうやって振ればいいんだろう、と考えた。その後に、タキオンがこう言った。

「……私とのキスの責任は取ってもらうよ」

「……責任を取れるほど優秀じゃない」

「圭一君」

 タキオンは、もう勝利を確信しているような微笑でそう呼びかけてきた。この呼び方も付き合い始めから変わったものだ。そして、田上がそう呼ばれることが嫌いじゃない事も十分に知っている。そんなタキオンを、田上は恨めしげに見つめながら言った。

「……お互い冷静になろう」

「そうだ。冷静になろう」

「……俺はお前に流されて付き合ったと言っても過言じゃない」

「…そうだろうね。でも、」

「でも、じゃない」

「いや、でもだ。でも、君だって私の事を好きだと言った。大事にしないとな、と言った」

「そして、実際の所はお前を泣かせた。大事にしないとなと言った挙句にだ」

「それは、君が私を大事にしようしすぎるとするあまりに私を泣かせただけだ」

「それが何度もあった」

「その度に私は君に惚れてきた」

「……冷静になろう」とまた田上はタキオンを諭すように言った。タキオンも田上を諭すように「冷静になろう」と繰り返した。

「俺は、…愛なんか信じちゃいない。世の中はいつも流動的だ。お前の気持ちだって、俺と離れれば簡単に変わる。簡単に他の男に擦り寄れるようになる」

「それを簡単だと思っているのだったら、君は私の事を何にも分かっていない」

「そうだ。彼女の気持ちを理解できない奴なんて捨てちまえ!」

「嫌だ!私の事が好きな癖に!」

「……お前の事が好きだからこそ、もっと良い人と結婚した方が良いと思うんだ!」

「彼女の気持ちを尊重してくれよ!私の気持ちをもっと尊重してくれよ!」

「いや、ここだけは譲れない。…お前はもっと良い人と結婚できる」

「だから、君がその『良い人』だと言っているんじゃないか!」

「それは違う。彼女を泣かせるような人間が良い人であるはずがない!」

「私が好きな人間は皆良い人だ!フジ君だって門限なのに十分をくれる約束をして帰って行った」

「そりゃあ、お前の友達は皆良い人かもしれない。…俺以外は!」

「君も例外じゃない!私の友達の中でも特に、最高に良い人だ!」

「良い人はこんな風に彼女と口喧嘩したりなんかしない!」

「口喧嘩をする人が悪い人とは限らない!」

「どういう理屈だ!」

 ここで二人共一度一息つくと、タキオンが「冷静になろう」と言った。

「私は君が好きだ。君も私が好きだ。これでいいじゃないか」

「…俺にお前を幸せにはできない」

「君が私を幸せにするというのなら、私も君を幸せにしたい。君は俺を頼ってくれと言ったが、……あれはどうしたんだい?私を幸せにしたくないのかい?」

「結局その後に泣かせた」

「…まぁ、良い。私だって君を幸せにしたい。君と幸せになりたい。…別に、男だけが女を幸せにするわけじゃない。女の私だって君に頼ってばかりじゃない。君を幸せにしたい。君と幸せになりたい」

「それを義務にされると困る」

「義務なんかじゃない。さっき私が泣いたのが証拠だ。あれは義務から出た涙なんかじゃなかったと、私は確信して言える」

「…その内、義務になってしまうかもしれない」

「その時には私を助けてくれ」

「助けてくれとお前は言うけど、俺だって常に助ける事のできる人間じゃない。今、お前の現状がその証拠だ」

「じゃあ、そんな私を一人放って行っておきたいと言うんだね?私の事が好きで好きでたまらない癖に?」

「………お前じゃ駄目だ…」と田上は少々疲れ気味な声で言った。それと反対に、タキオンはまだまだはっきりとした口調で言った。

「私が君を幸せにする」

「自分の幸せも碌に築けていない癖に人を助けようとするな」

「私の幸せは君の幸せだ。これは人助けなんかじゃない。私の幸せを築く道中だ」

「…利己的な人間に助けて貰うつもりはない」

「……私が君の事を大切に思っているなんて、君自身がよく知っているくせに」

「……とりあえず、今日はもうお終いだ。もう頭が回らない」

「じゃあ、好きって言って。付き合うって。そうじゃないと、私はフジ君が来ても帰らない」

「人の前で惚気ろって?」

「君が嫌ならフジ君は追い払う。…別れると言ったのは私が悪かった。けど、それで君の心の内が聞けた」

「俺は、むしろお前の心の内が聞きたい」

「今話してる。君が好き。君と付き合いたい。君を幸せにしたい」

「…それだけじゃない。…俺に隠してる事もあるだろ」

「……それは…今話すと、話がややこしくなる」

「……それを解決できない限りは、俺はお前に信頼されてないと受け取る」

「……前にも言っただろ?私にも少々測りがたいんだよ。…そんな時に君が傍に居てくれるだけでも心強いんだ…」

「……そんな曖昧な物でこの話を終わらせる気か?」

「…いや、…そんなんじゃない…。…ごめん…」

「……だから、俺は他の人の方がお前には似合うと思う。俺は、彼女にきつい事を言って謝らせるような彼氏は嫌だ」

「……時には厳しく言わないといけない事もある…」とタキオンは田上から視線を落としながら言った。

「じゃあ、それに俺の心は耐えられない。…他の人が良い…」

「………他の人を探すのだって簡単じゃない…。私の周囲には君以上の人は居ない…」

「…それは、お前がこれまで他の男を見た事が無いからだ…」

「小学生までは知ってるし、君の友達も見た事がある…」

「それは小学生だし、俺の友達と言ったって、表面上を軽くさらったくらいにしか接してないはずだ」

「………私を一人にしないでくれ…」

「…それが困る。…お前は一人じゃない」

「……君程触れ合った人が居なくなった時の喪失感くらい君も分かるだろう?」

「……そりゃあ、一時の苦しみだなんて言う事はない。でも、俺が居ると…、お前は…」

「君と居る時こそ一時の苦しみだ」

「……」

 田上が返答に困っていると、ここでフジキセキがまた道の方を歩いてきた。タキオンはその姿を認めると、苛立ったように眉を寄せてから、田上の方を見て言った。

「もうフジ君が来た。…好きって言ってくれ」

「……他の人との方が良いよ…」

 タキオンは、そう言った田上を、目を細めてじっと見つめていたが、やがて、一瞬だけフジキセキの方に目をやると、こう言った。

「分かった。君の言うようにしよう。付き合わない事にする。でも、距離感は同じだ。立場だけが取り除かれた」

「…それじゃあ、意味がない」

「……時間は待ってくれないから仕方がないじゃないか…」

 田上とタキオンは暫く目を見合わせていたが、やがて、田上がため息を吐いてゆっくりと立ち上がると、フジが「話は終わったかな?」と言った。タキオンは、煩わしそうな面をしながら、「君が居なければ、今日の十二時でもここに寝転がって話していたかった」と言った。田上は、フジキセキに一礼すると先に道を歩き出した。フジキセキの方も一礼し返したが、田上の様子を見ると、戸惑ったようにタキオンの方を見て「纏まらなかったのかい?」と聞いた。タキオンは、去ろうとしている田上の背を少しの間見ていたが、次にフジキセキの顔を見ると、首を横に振って言った。

「…私には分からないよ…。分かりたかったが、時間が有限だった」

「……大丈夫かい?…もしまだ話していたいなら、もう少し融通を利かせてみてもいいけれど…」

「…あの様子じゃ話してくれないし、もう少しじゃ絶対に収まらない。実際、十二時までかかるか、それ以上の問題だと思う」

「何がそんなに困っているのかな?力になれるのならば、私が力になってあげたいが…」

「…どうだろうね?…君が一言、マジックみたいにポンと答えを出せるのならばそうしてみてもいいが、これに答えを出すには数時間話し合って初めて、答えが出るかどうかだ…」

 そう言われた後に、フジキセキは、心配そうにタキオンの事を見つめていたが、タキオンはその視線には構わず、前を歩いて行っている田上の下へと少し小走りで行った。

 それから、その右手にタキオンは自分の手を絡ませた。田上は、暫くそれを無視していようと前を見つめたまま歩いていたが、やがて、立ち止まるとタキオンの方を向いて言った。

「やっぱりダメだ。手を放せ」

「…好きなのに?」

「……そうだ。…良くない。…教育上」

「…好きなのに…」

「…あのな。…ダメなんだよ。女子高生と大人がこういう事しちゃ。未成年と大人がこういう事をしちゃ」

「……君とのキスは好きだった…」

「……残念だったな」

「…君は未成年とキスした…」

「警察に言いたいんなら言えばいい」

「…そんなんじゃない。誤解しないでくれ。誰が好き好んで君を警察に突き出す。…でも、私に――好きと囁いて、キスまでしたんだ。私はそれを忘れないよ。君の声を忘れないよ」

「………俺だって忘れない」

 田上は何と反論したらいいのか迷った挙句、どうにもタキオンを一言で黙らせる方法が思いつかずにそう言った。タキオンはその言葉に笑みを作った。

「なら、二人共忘れずに、夫婦円満だね」

「………頼むから…諦めてくれないか?」

「君が私の事を諦めない限りは、私も君の事を諦めない」

「諦めてるだろ?」

「全く諦めてない。自分より良い人と付き合ってほしいと言ってる。という事は、まだ私の事を大切に想ってくれているという事だ。 相思相愛なのに付き合わないなんて、こんなバカな話があるかい?…どうなんだい?」

 タキオンは少し怒り気味に聞いた。

「……事情によって付き合えない人たちもいる」

「今は封建時代じゃないんだ。親に子供の結婚が左右される事なんて、よっぽどのことが無い限りないし、その他もよっぽどの事だろう。私たちには付き合えるだけの金はある」

「……お前は女子高生で、俺は成人だ」

「それは、法律でも規則でも、私たちの交際関係を縛るものはない」

「倫理観だ」

「なら、君がその倫理観を捨ててキスをした女は誰だい?その人の名前を言ってみたまえ。…タぁ~?」とタキオンが自分の名前を催促し始めた所で、田上はフジキセキの存在を気にした。フジキセキは、夜闇に埋もれて存在感をできる限り消していたが、田上にはすぐに見つかってしまった。そして、田上の視線を追ってタキオンも振り返ると、そこにフジキセキを認めた。フジキセキは困った顔をしながら「おや、見つかってしまったかな?」と言った。

「見つかってしまったねぇ!ちょっと、圭一君ともう少し話すから君は先に帰っててくれ」

「分かったが、くれぐれも十二時に帰って来るなんてことはしないように」

「分かった」

 タキオンは苛立ちながらそう返事をした。田上は内心で早く帰りたいと思いながらも、タキオンの前から動けずにいた。そして、二人はフジキセキの背を見送ると、話をまた再開した。

「それで、君が倫理観を捨てる程の情熱を注いだ女は誰かな?」

「……」

「タぁ?」

「……」

「キぃ?」

「……」

「オぉ?」

「……」

「最後くらい言いたまえよ」

「……お前…、俺はやめておけよ」

「…君が自分から求めてキスしたくなる人は?」

「……あのな…。…俺と付き合うよりもそこら辺の通りすがりの男と付き合う方がマシだぞ」

「通りすがりの男と付き合うのを見るのは嫌なくせに。…ああ、分かった。じゃあ、その君が誰とも分からない通りすがりの男と結婚式をする暁には君を呼んでやるよ」

「…元カレを呼ぶ結婚式なんて聞いた事が無い」

「君は私の為に嬉しくない事を嬉しいと言うんだろうね。おめでたくもない事をおめでとうと言うんだろうね?勿論、君は私の担当トレーナーだったんだから、食事の場では昔話の一つや二つ聞かせてくれるんだろうねぇ」

「…俺は行かないよ」

「じゃあ、私が君に会いに行く。君が誰とも分からない旦那と会いに行くよ。そして、君に幸せそうな笑みを見せりゃ、君は満足なんだろ?」

「……その頃には俺もお前じゃない別の誰かと結婚しているかもしれない」

「私と結婚できなかった人間が、他の誰かと結婚できるかい。私は最優良物件なんだぞ。私みたいな女は他に居ないぞ」

「……そうだろうな…」と田上は極めて小さな声で言った。

「そうだと思うんなら何故手放す。その最優良物件は君が良いと言っているんだ」

「最高級の食べ物だって、貧乏舌には――唐揚げが良い、って言われることがあるんだ。…俺には勿体ないよ」

「遠慮せずに受け取りたまえ。高級品なんて貰っておくだけ得って言うだろ?」

「…豪華な上着を着て、そこら辺の半ズボン履いてるおじさんみたいなもんだ」

「君はまだまだお兄さんだよ、圭一君」

「……」

「……また、…キス…」

 タキオンがそう唐突に言うと、そっと田上に近寄ってきた。田上も今キスをするような気分じゃなかったから、タキオンが一歩進むと同時に自分は一歩退いた。タキオンはその後に躊躇いなくもう一歩を踏み出した。田上も負けじともう一歩後ろに下がった。そこでタキオンは足を止めると、眉を寄せて言った。

「なんで逃げる…」

「……さあ…?」

 そしてまた、タキオンは田上の前に一歩踏み出した。田上もまた一歩退いた。

「なんで逃げるんだい?」

「……付き合って無いってさっきお前が言った」

「距離感は変わらないもの。キスしても構わない」

「ダメだ。絶対に、俺は付き合ってもいない女とキスしたりなんかしない」

「…じゃあ、君の好きな人とキスをしよう。私が好きって事は変わらないだろ?君が私を遠ざけようとしているのは自責の念からだろ?」

「…付き合ってないんだろ?」

「じゃあ、今付き合った。だから、キスをしよう?」

 そして、タキオンが一歩踏み出すと、田上も一歩退いた。

「…なんでキスしたいんだ」

「…君がもう一度私の事が好きで堪らないって事を思い出してほしくて」

「…もう好きだ」

「なら、キスしよう。相思相愛に言葉は要らない」

 また、タキオンが一歩踏み出したが、田上も一歩退いた。そしてまた、もう一歩もう一歩、とやっていくうちに後ろ向きで歩く田上をタキオンが一歩一歩追いかけて行く、なんだか滑稽な構図になった。田上は、もうすでに道からはみ出していた自分たちが植木にぶつからないように途中で方向を変えて、今度は石畳の道の方へ行こうとした。これがいけなかった。後ろ向きに歩いていたから田上は石畳の縁の段差に躓くと、そのまま地面の方へと倒れてしまった。タキオンも少し驚いてしまって、「圭一君!」と大きな声を出してしまった。幸い、田上も受け身を取る事はできたが、手の平と肘に擦り傷ができた。ただ、これを好機と捉えたのはタキオンだった。すぐに田上の上に跨ると、体を仰向けにして押さえつけた。田上は自分の手の平と肘にできた傷を痛そうに見やりながら、同時にタキオンの方も面倒臭そうに見た。

「怪我した」と田上が言った。これには、タキオンも田上の傷を見ながら表情を落として「少し焦らせ過ぎたね。すまない」と謝った。しかし、すぐに表情から陰りを失くすと、田上に言った。

「しかし、君が転んでくれたことで大分やりやすくなった」

「…酷いな…」

「転ばせたのは狙ったわけじゃない。それは断じて違う」

「…でも、それに乗じてる…」

「そりゃあ、今このチャンスを逃すと君がキスをさせてくれない」

「…無理矢理…するんだな…」

「無理矢理はしない。ただ、君が本気で拒否したいならしてくれ。流石に、君の血でも顔に塗り付けられたら私も止まるさ。……いいね?」

 タキオンはそう言うと、田上の顔の上に自分の顔を近づけてきた。田上は元よりタキオンを拒絶する術がなかった。例え手で撥ね退けようにも、その後のタキオンの悲しそうな顔を見れば許してしまいそうな気がする。そして、何よりタキオンの事が嫌いではなかった。

 田上は、自分の甲斐性の無さを呪いながらタキオンとキスをした。数秒程唇を重ねてから、タキオンは体を起こした。それから、優しくて柔らかな眼差しで田上を見つめた。田上は、その目に耐え切れなくなって、眉を寄せながら目を逸らした。タキオンは尚も田上の事をその眼差しで見つめていたが、暫く経つと口を開いた。

「付き合ってくれよ…」

「……俺には勿体ないよ…」

「…あんまり自分の事を卑下しないでくれ。…君は、私が惚れるくらい最高にかっこいいんだから」

「……根拠がない…」

「根拠ならある。私が君に惚れたという事だ。本当にかっこよくない人間だったら、私は君に惚れていないもの。かっこいいからこそ君に惚れたんだ…」

 田上は、そんな事を言うタキオンを暫くじっと眉を寄せて見つめた後に言った。

「俺は、…お前の事は信じてないから仕方がない…」

「……何をしたら信じてくれる?という質問は無粋だろうね。これまでも、何回か君にそう言われたし、私は十分君に信じられるほどキスしたり、恋人らしい事をしてきた。私の親の家にも二人で遊びに行ったものね」

 タキオンが、田上の目を覗き込んでくるから、田上は横の方に目を逸らしながら返答をした。

「………信じてないんだから仕方が無いよ…」

「………だから、…君が私の事を心底から信じられるように男と女の関係になりたいと願ったんだ。…けれど、違うね。…君が私としたとしてもそうそう心境が変わらない事は分かってる。…無理矢理なら尚の事そうだ。…君が私を愛さないと…」

「…愛すほどの気力は、俺にはないよ…」

「……君の気力は日々絞りつくされているだろうからね…。君に気力があるんだったら、私に対しても諦めないという気持ちが湧いてくるんだろうけど、気力が無いならねぇ…。…私も君にしてやれることがほとんどなかったな…。ここ最近は特にそうだった。…抱き締めてもいいよ。疲れてるんだったら。私が悩んでいる事に対して、君の責任はないもの。そりゃあ、尽力してくれるのは私としてもありがたいが、それで君が責任を感じて別れたいって言い出すんだったら本末転倒だ。…私…、…私もダメだなぁ…。……君を追い詰めてばかりだ…」

「…お前は悪くない」

「私が悪いという事にしてくれ。じゃないと君が私と別れないといけない事になる」

「……どちらにしろ責任は感じるよ…」

「じゃあ、……私を一人にしないでくれ。……君のせいでこうなったわけじゃないんだ…」

「友達の前ではこうならないだろ?」

「そりゃあ、友達は友達だ。立場が違う。……結局、…君が私を振ったとして、その後に君の様な頼れる男性を見つけたとしよう。そうすると、私はまた同じようになると思う。なるのならば、君に解決してもらいたい」

「……俺に解決はできないよ…」

「…そうか。…じゃあ、私が頑張って解決するから、君はせめて私の傍に居てくれ…。私を一人にしないでくれ…。君の前でなきゃ、私は安らげない…」

 これには、田上も大分長い事黙り込んだが、タキオンの顔を力無く見つめると言った。

「……俺には無理だよ…。お前が悩んでるのに、黙って横で見ているなんてできない」

「…じゃあ、…じゃあ、これからどうするつもりなんだい?私と別れた後にどうするつもりなんだい?まさかトレーナーを辞めるつもりじゃないんだろう?」

「……どうだろうな…」

「俺以外の男と付き合ったほうが良いって言ったって、一朝一夕で君以上の男が見つかるわけがないし、私も積極的に探そうとは思わない。その間も、私の悩みは続く。そして、君はそれが放っておけないんだろ?じゃあ、結局君は私の事が放っておけないわけじゃないか…」

「………だから、……俺に愛想を尽かしてほしい…」

「尽かすわけがないだろ?私は君の事が好きなんだから」

「…でも、……俺じゃお前をどうにもできない…」

「圭一君にどうにもできなくてもいいよ…。一緒に居てほしいんだよ…」

「………俺はお前にとって良くない人間だ…」

「……居てほしいんだよ…。…悪い人間でもいいよ…」

「……俺よりももっと…健全な人間と付き合ってほしい…」

「でも、君は私の事を放っておけないんだろ?トレーナーを辞めないんだろ?じゃあ、現状は全く変わらないじゃないか」

「………やめておいたほうが良い…。こんな頑固な人間…。もっと付き合って楽しい人が居る…」

「………私の事は好きなんだろ?」

「………好き…」

 田上のその返答にタキオンは思わず、少し笑ってしまった。それから、少し笑みを作りながら田上にこう言った。

「そこだけは譲れないくらい私の事が好きなんじゃないか。…私も好きだよ。……君も可愛い奴だよ…」

 タキオンはそう言いながら田上の頬をそっと撫でた。それから、顎鬚のざらざらとする感覚を味わいながら、タキオンは微笑んだ。その後に、ゆっくりと前屈みになると、田上の上に抱き着いて体を密着させた。

 田上はそれに特に抵抗をする事もなく、ただ近くにある街灯の光と、物影の陰影を感じていた。そして、そのタキオンの重みを感じながら、――この子をどうしたらいいんだろう、とぼんやりと思った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。