ケロイド   作:石花漱一

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三十三、三回目の選抜レース⑦

 暫くの間、不定期にタキオンが「好き」と田上の耳元で呟いてきたが、田上はそれに何の反応も示さなかった。ただただ、どうすればいいんだろう、どうすればいいんだろう、という考えが頭の中をぐるぐると行っては返ってくるばかりで、そこから一向に先へと進まなかった。また、進もうともしなかった。進みたくなかった。形の見えない答えを出す事に対して躊躇いがあった。その定かでない物を定かにするという事が、田上には怖かった。そうして、これまでタキオンと付き合って行こうとしたが、結局、何が正しくて何が正しくなかったのかすら分からない。分からないのなら仕方がない。分からない自分が悪いのだ。

 田上の思考はざっとこんなものだった。『分からない』という事柄から先へ進めない。分からない自分が悪い。自分が悪くないのだとすれば、何故自分が悪くないのか分からない。すると、きっと分からない自分は悪いのだろう。

 こういう思考回路では、田上は、迷路で、ずっと行き止まりに当たっているようなものだった。そして、学習もせずに、また同じ所をうろついては、行き止まりに当たる蟻だ。しかも、他の人の話を聞こうとしないから、尚の事性質が悪い。タキオンが慕ってくれているのが奇跡の様なものだろう。田上もタキオンに感謝こそすれ、その本人の言い分はあんまり理解していなかった。だから、その手を解いて、また、自分だけの力で迷路に挑もうとする。挑もうとすると、ここがどこか分からない。そして、タキオンがまた後から追いかけてきて、田上に色々話をする…。これの繰り返しだった。

 さあ、この思考のどつぼにはまった憐れな男は人の話も聞こうとしないから、どこへ行けばいいのか分からない。そして、他人の話も聞こうとしないから、助けてくれる人もどのように話せばいいのか分からない。これが悪循環である。タキオンだって、今打てる手が思いつかないから、田上の感情に訴えようと好きだ好きだと抱き着きながら囁いているのである。

 無論、タキオンに感謝はしている。感謝はしているがこの先がどうなのか分からない。分からない分からない。果たして、この憐れな男を助けることができるのだろうか。それとも、誰からも見捨てられた男はこのまま一人で朽ちて死んでいってしまうのだろうか。これも全く分からない。

 

 道の脇の電灯が瞬いている。そこに小さな虫が少しだけ寄り集まっている。田上とタキオンに当たる光の光量には、ほとんど影響を及ぼさないくらいの小さな虫が、点、点、点とまぁ適当に並んでいるくらいだ。田上の思考は最早別の場所へと行っていた。タキオンの寮の寮長はフジキセキで、先程会ったからいいが、自分の寮も勿論門限があるわけで、寮長も居るわけで、そうすると、田上もその人を待たせていることになる。ただ、田上としても、タキオンとの話をこのままにして放って行くわけにもいかなかった。できるのならば十二時まで話していてもいいだろう。――怒られるかもしれないなぁ、と思いながら、寮長の優しさに期待しておいた。

 それからも話は進まない。タキオンが何か言わない限りは進まないだろう。田上は、元より話すつもりはない。話す気力もないし、何を話すべきか考える力もない。だから、もうこの状況を上手くまとめる話を考えるのはタキオンに任せた。ただ、タキオンが何を考えているのかは分からない。先程から、微動だにしないようである。いつの間にか好きと囁くこともやめてしまったようだ。今はただ眠っているかのように田上の首にしがみ付いたままだ。ただ、様子としてあんまり眠っているようではないから、何か考え事をして固まっているだけなのかもしれない。

 考える事を放棄した田上は、頭の中で適当にそんな事を考えていた。タキオンが話す事に期待をしていたが、それほど解決への期待はしていない。田上には、このまま自分の悩みが解決されないように思えた。そして、タキオンとの関係は付き合ったまま続いて行くように思えた。

 ただ、自分にはそれが負担である。タキオンと付き合い続ける限り、罪を背負って隣に立たなければならない。それは田上には辛かった。もっと楽な道があったらそちらの方が良かったが、そちらの道に行けるならもうとっくの昔にそうしている。それができなかったから、タキオンと今付き合っているのだ。自ら入り込んだ茨の道が苦しいという事は分かっていたが、こんなにも自分の肌を傷付け、絡めて身動きを封じ、先へと進めなくさせるものだとは思っていなかった。俗っぽく言えば、愛の力のなんとやらが解決するとか、まぁ、なるようになるだろうという楽観しかなかった。まぁ、なるようにはなっている。なるようにはなっている。なっているからこそタキオンと付き合っている。これからも付き合っていくかもしれないが、なるようになると言われても、その道中がずっと苦しいのであれば、田上はあんまりありがたくなかった。欲を言えばもう少し楽でありたい。現状が多少は良い物とは知りながらも、もう少し楽になりたい。もっと彼女が隣で笑ってくれるような彼氏になりたい。そんな理想が田上にはあった。

 時間は順繰り順繰りと進んでいっても、一向にタキオンは話そうとしない。何度か体勢を変えるために少しは動いた事があったが、基本田上の上に乗る事はやめなかった。そうすると、田上の脳内にも段々と焦りが出てきた。ただでさえ待たせているというのに、トレーナー寮の寮長はこんなに待たされて一体何と怒るのだろうか?とか、フジキセキがもうそろそろ自分たちを呼び戻すために帰ってくるのではないだろうか?という事だ。時間を見れば、タキオンとここに寝転がりだしてから、恐らく三十分以上は経っている。フジキセキは、「十二時は過ぎないように」と言っていたが、恐らく冗談ではあるだろう。長くとも、一時間を過ぎれば心配して戻ってくるはずだ。三十分経った頃にここにまたやってきてもおかしくないだろう。果たしてタキオンはどのようにするつもりだろうか。タイムリミットは必ずある。それまでに自分たちの関係を上手く修復する術が思いつくのだろうか?田上は、ちっとも動こうとしないタキオンに、どうするつもりなのかと頭の中で問いかけた。しかし、当然その声がタキオンに聞こえているはずもなく、田上がタキオンの頭の中の思惑を読み取れるはずもなく、ただただ時間ばかりが過ぎていく状況だった。

 それでも、田上にだってこの状況を動かす術が思いつけないから仕方がない。思いつけたらもしかしたら行動しているかもしれないが、今の所は、「自分はタキオンの為にとってよくない」という考えしか浮かんでこなかった。

 それからも時間は過ぎていく。もう十五分ばかり時間が経った。もうする事もないので、時折自分の手の傷を痛々しそうに眺めたり、タキオンの呼吸の音を聴いたり、肺が膨らんでは萎んでいく体の動きを感じたりしていた。田上には、未だにタキオンが何を考えているのかとんと見当がつかない。タキオンも何も話さない。もうそろそろ動いてみたい心地はあるが、こうして落ち着いてしまうとこれが心地良い事のように思えてしまう。冷静になってみれば、これは異様な光景だろう。もし、ここを歩いてくる人が居たとすれば、タキオンと田上が折り重なっている光景にぎょっとしただろう。もしかしたら、新手の妖怪かと思うかもしれない。

 田上は、時折悩ましげにため息を吐いていたが、それはすぐに夜闇に吸い込まれては消える。タキオンが胸の上に乗っていて苦しいというのもあるが、相変わらず悩みも尽きない。退屈でもある。心地良さもある。

――自分はここからどうすればいいのだろうか?と思った。

 タキオンが、本当に、いよいよ動かないような気がしてくる。田上自身が解決しないといけないような気がしてくる。しかし、自分はタキオンにとって良い存在ではない。タキオンが何と言おうと、その心を傷付けてしまっているのだから、良い存在であるはずがない。しかし、別れたら別れたらで、道は八方塞がりである。タキオンを今のままで突き放してしまうと、それはそれで可哀想だし、自分を求めてくれている。また、今の大切な職を失わなければ、タキオンとの完全な決別はできない。そして、実家の住所がばれてしまっている以上、そこにも居座れない。帰る事も出来ない。父はこの前の帰省でもタキオンの事を気に入っていたようだったから、息子が彼女に黙って失踪したとなったら、父に連絡を入れた途端にタキオンにまで連絡が行くだろう。この為に、家族まで捨てなければいけなくなる。幸助の所に行くのはダメだろう。祖父母の家に行くのも難しいだろう。父が祖父母に連絡をつければ、自分が居るのがばれてしまうかもしれない。という事は昔住んでいた鹿児島に帰るのが良いのだろうか?しかし、行方不明者届が出されてしまえば、自分はあっけなくみつかるかもしれない。となると、タキオンをストーカーとか何かに仕立て上げて自分に近づけなくするほかないが、そうするのは忍びない。そこまで拒絶するほどの敵意は生憎持ち合わせていない。むしろ、ストーカーに仕立て上げてほしいくらいなのだ。

 田上の思考はここまできて、また行き止まりに当たった。タキオンと素直に付き合えばいいというのは分かっているのだが、生憎どう素直になればいいのか分からない。目の前にある幸せを享受しろと言ったって、素直に享受できるほどの度胸は持ち合わせていない。こちらは、女子高生と付き合っているのだ。ただの女ではないのだ。一流のアスリートである女子高生と付き合っているのだ。そこで幸せを享受しろと言ったって、それなりの度胸が無ければそうそう幸せになれるはずもない。何年か経った後にようやく噛み締められるような幸せだ。そして、生憎田上の体は何年も苦しみに耐えられるほど丈夫にはできていない。それが苦しみでなくなるというのならば、田上は喜んでそれを受け入れてやりたいが、生憎その方法が分からない。タキオンとキスしている間が、何もかも全て忘れられて幸せであるというのならばそうしてやってもいいが、残念ながら常にキスをしながら仕事をするわけにもいかない。飲食を忘れてキスをするというわけにもいかない。いつかはやめて、互いの顔を観なければいけない時が来る。そういう時になって、田上は確実に笑っていられる自信はない。なぜなら、そのキスが、今ある悩みを忘れるためのキスであった場合、幸せという名のホルモンに侵されていた脳は、また悩みの為に笑えなくなってしまうからである。一時的に幸せが凌駕していたとしても、その後に訪れる悩みの解決にはなっていない。これが実に厄介だ。これまで誤魔化し誤魔化しやってきたが、とうとう誤魔化しがきかなくなった。もしかしたら、別の方法で誤魔化せるのかもしれないが、目の前に居るタキオンに熱中するという方法ではもう田上の心は誤魔化されない。心がもうすでに別の方へと向かっている。この方へとタキオンと一緒に走ってゆかねばならない。しかし、この道が一番険しくて困難な道なのだ。

 田上の思考がここまで行きつくと、タキオンが田上の首に自分の鼻を擦りつけてきた。田上はその感覚を味わいながら、タキオンが何か話し出さないかと待った。しかし、タキオンは田上にただ甘えたかったようで、頻りに頻りに田上の首に鼻を擦りつけていた。そして、また田上の念頭に時間の事が思い浮かんでくる。早くしないと食堂の方も閉まってしまう。残り十分で行ったって遅いだろうから、せめてタキオンだけは夜食を食わせてあげたい。そう思っているうちに、田上のお腹がぐぅと鳴った。少し照れながら――タキオンに聞こえたのだろうか?と思った。タキオンは、田上のお腹の音が聞こえた時に一瞬ピタリと動きを止めたが、その後にまた鼻を擦りつけるのを再開した。これは、どちらかと言うと甘えていると言うより、構ってほしいようだ。

――ここで構った所で…。

 それでも田上は、仕方がないからタキオンの頭を撫でてあげようかと思ったら、右手の方はもうすでに乾いた血で汚れていたので、左手の方でそっとタキオンの脇腹辺りを撫でてあげた。左手でタキオンの頭を撫でるには、少し労力を使いすぎるので、脇腹辺りしか撫でれなかった。しかし、タキオンは一向に鼻を擦りつけるのをやめなかった。

 田上は――どうしたものか…、と思いながら、タキオンがもうそろそろ話しだしてくれるのではないかと期待した。そうでなければ、タイムリミットは刻一刻と近づいてきてしまう。また中途半端にフジキセキに寮に連れ戻されてしまうのが落ちだろう。

――タキオンはどうするつもりなのだろうか?それとも、自分が話し出さなければいけないのだろうか?

 ただ、何度も言ったように田上には何を話せばいいのか分からない。しかし、時間は待つことを知らない以上、田上が話し出さなければいけないのかもしれない。しかししかし、闇雲に話したって解決にならないまま、タキオンとの雰囲気に流されて、また同じことを繰り返すかもしれない。

――どうすればいいのだろうか。どうすればいいのだろうかと、その一つの言葉を延々と頭の中で繰り返しながらも、どうにも田上の頭の中に焦りが湧いて仕方がなかったので、とうとう田上は口を開いた。

「タキオン…」とまず初めにそう呼びかけた。何だか久々に出す自分の声のような気がして、その言葉が異様に大きく暗闇の中に響き渡ったように思えたし、掠れて小さく夜闇に溶けて行ったようにも思った。ただ、タキオンにはしっかりと聞こえていたようで、彼女らしい小さな声が「ん?」と街灯の下で返事をした。そこで、田上は一つ深呼吸をした後に言った。

「………好きだよ」

 その言葉と「ごめんな」と、直前までどちらの言葉を言おうか悩んだが、その時はもう口が開くに任せてそう言った。タキオンは、相変わらず田上の首に鼻を擦りつけながら嬉しそうに「んん」と小さく返事をした。そして、その後に言葉が続かなかった。そうなると、田上も自分の至らなさを悪く思った。少し後悔さえもした。話せもしないのに、話せると思って無理矢理飛び出したのは、愚かだと思った。

 田上は、次に言うべき言葉を必死に考えたが、その内にタキオンが田上の首に頭を擦りつけ出して、その髪の毛が田上の顔に掛かってきたので、それを鬱陶しく思い始めた。そうすると、そちらの方に気を取られて、頭の考えが疎かになった。ただ、そうなった方が言葉は出やすかったかもしれない。田上は、考えが足らなくなったので、口が開くままにこう言った。

「タキオン…、…髪の毛邪魔…」

「…んん」とまたタキオンが嬉しそうに唸った。そして、田上に言われても頭を擦りつけるのはやめなかったし、むしろ、もっと髪の毛が邪魔になるように擦りつけ始めた様に思った。それに、田上は少し可笑しさを覚えながら、「タキオン…」とまた言った。

「タキオン…。………ごめんな…」

「うん…」

「………ごめんな…」

「うん」

「……」

 どうしてもその後が続かない。自分は一体どうすればいいのだろうか?タキオンは助け舟を出してくれないのだろうか?なぜ助け舟を出してくれないのだろうか?いつもは目を見て、優しく言葉を投げかけてくれるのに。自分は一体何をしなけれいばいけないのだろうか?二人の為に自分ができる事は何なのだろうか?

 そんな事を悶々と考えている間に、ハッと――もう帰らないと、と思いついた。だから、タキオンの背を軽く叩くと、「おい」と呼んだ。

「もう帰らないと。流石に、ここに居過ぎた」

「………嫌だ」とタキオンは田上の首筋に顔を埋めながら答えた。これには田上も困る。しかし、話すにしろ帰るにしろ、必ずどちらかは行わなければならない。このままグダグダと街灯の下で寝転がっていたって何の意味もない。そして、話せないのならば、今日はさっさと引き上げて帰るべきだ。田上の考えはこうだったが、頑固そうなタキオンの口ぶりを見てみると、ここから簡単に動けないのも分かる。それから、田上自身の考えを話す気もないので、田上はやっぱり諦めて、街灯の眩しさに少し苛立った。

 タキオンは田上に帰る事を促されてから、その頭を擦りつけてこなくなった。ただ田上の体にひしとしがみ付いているだけの、つい十五分前と変わらない状況になった。田上は、その逆戻りに倦怠感を覚えながらも、もういよいよ我慢がならなくなったので、タキオンの事を構わず起き上がろうとした。そして、少し起き上がったところで、タキオンの強靭なウマ娘の力で簡単にまた寝転がらされてしまった。田上は、自分の苛立ちを抑えるように一度大きく深呼吸をすると、厳しめにタキオンに言った。

「タキオン。もう帰らないといけない。話は後からだ。結局、話してもいない。しかも、お前の所の寮長はフジさんだからいいけど、俺の所の寮長はわざわざ外に出て探しに来るような人じゃない。寮でずっと待ってるんだから帰らないといけない。それに、お前も飯を食べなきゃいけない。体が資本なんだから」

「………喉を通るわけがない」

「通るにしろ通らないにしろ、何かしないといけない。結局、ここで寝転がってるだけだ。お前も何も話す事が無いんだったら、帰ったってなにも問題ないだろ?問題あるんだったら帰って通話で話せばいい」

「こういう距離じゃないと感じられない事がある…」とタキオンが田上の首筋に尚も顔を埋めながら言った。

「どちらにしたって何も話してないんだからしょうがない。ここで一時間くらい寝転がってたけど、何も進展してない。なら、この後二三時間寝転がってたって同じだ」

「………行かないでほしい…」

 こう言われると、田上も言葉に詰まったが、気を取り直すとこう言った。

「何も俺はそっちの道を選びたくて選んでるわけじゃない。少なくとも、今は不可抗力だ。お前も俺に対して話す事が無いんだったら、俺を押さえるのをやめてくれ」

「………嫌いだ…」

「……嫌いになってくれていい。俺には、むしろ、そっちの方が好都合だ。…嫌いになったんだったら、早く俺の上から下りてくれ」

 田上にそう言われても、タキオンは動かないように見えたが、その内徐々に徐々に田上の横に手をついてずり落ちていったから、田上も一先ず安堵した。しかし、これを果たして安堵と呼んでいいのかは不明だった。

 タキオンがずり落ちると、田上は半身を起こして、仰向けに寝転がっているタキオンの顔を見た。タキオンは、目だけを動かして田上の事を睨んでいた。そんなタキオンに田上はこう言った。

「運んでやろうか?」

 タキオンは、一瞬ピクリと眉を動かして田上を見つめていたが、やがて、睨むのをやめてコクリと頷いた。だから、田上はまた土手の時の様にタキオンの上に覆いかぶさると、タキオンが自分にしがみ付くのを待って、それから起き上がった。今度はまだマシに立ち上がることができたので、田上はそのままタキオンをウマ娘寮へと連れて行った。

 

 ウマ娘寮の前まで行くと案の定タキオンは田上から離れたがらなかった。だから、ベンチに座ってこれからどうしようかと考えていると、寮の中からフジキセキが出てきた。特に田上たちに寮の中から気が付いたわけではなかったようだったが、心配になって少し外を見に来ただけのようだった。タキオンは、フジキセキが来ると物凄く嫌そうな顔をした。そして、フジキセキの催促には応じず、「私はここに居る」と田上の事を抱き締めた。遂に、フジキセキの前でも恥も外聞も無くなった。

 そんなタキオンの前で、田上とフジキセキは困ったように顔を見合わせた。それから、不図フジキセキが思い立ったように言った。

「結局、問題は解決したのかな?タキオンの見立てよりかは早かったようだけど」

 田上に向けられた質問のようだったので、田上は苦笑いをしながら言った。

「どうでしょうね…。…まあまあです…」

 そう言うと、タキオンがそれを否定するようにより強く田上を抱きしめたので、尚の事困った。

「まぁ、まだもう少し掛かりそうだから私は帰っておくよ」と言って、フジキセキは寮の方へ帰って行った。その合間にフジキセキがこう付け加えた。

「ああ、トレーナー寮の寮長さんにも君が大幅に遅れるかもしれない事を伝えておいたから、気兼ねせず話しておくといいよ」

 田上は、フジキセキの気の利きようにかなり感心したが、トレーナー寮の寮長への申し訳なさは消えなかった。確かに、タキオンとフジキセキは友達であり仲が良いが、こちらはあくまでも寮長とただの住人という関係だ。幾ら優しくとも迷惑をかけている事には他ならない。

 それでも、まあ多少の心配はなくなって、少し落ち着いてベンチの上でタキオンを抱き締めることができた。だからと言って、状況が何か変わっているというわけでもない。相変わらず、行き止まりにぶち当たって転倒しているようなものだ。――せめて、タキオンが何か話してくれたらなぁ、と田上は思った。

 田上も、タキオンには結構な信頼があったので、何かこの状況を打開する一言を軽くポンと投げかけてくるのではないかと期待していたのだが、一向にその言葉は投げかけられない。むしろ、タキオンの様子は山を越えて下って、また上ってきていて、悪くなっているような気がした。つまり、冷静さがまた欠けてきたという事だ。

――食堂はもう行けないなぁ、と田上はぼんやりと思った。先程腹が鳴った時から田上はずっとお腹が空いている。しかし、もう時間が時間なので急いで食べに行く気はなかった。修さんたちなら頼めば出してくれそうな気はするが、それにしたって行く気力がなかった。せめて、タキオンだけでも食べさせてやりたかったが、この様子ではタキオンはまだあと十分二十分以上は粘りそうな気がする。食堂はその頃には閉まるだろう。はぁ…、と田上はため息を吐いたが、その後に言葉を続ける気はない。ただ、疲れ気味の体にタキオンの重みを感じて、――早く下りてくれないかなぁ、と思うだけだった。

 

 それから、二十分間は二人共黙ったままでいたが、ここでまた田上が耐え切れなくなって言った。

「タキオン…。もうそろそろ下りないか?帰らなくてもいいから、せめて俺の隣に座ってくれないか?俺ももうちょっと疲れた」

 すると、意外な事にタキオンは素直に下りてくれた。田上は意外そうな表情を隠せないまま「ああ、ありがとう」と感謝の言葉を告げた。そして、これは予想の通り、タキオンは田上の隣に座ると、その体を田上にもたれ掛けさせた。田上は、この右からの重みを感じながら、さあ、ここからどうしようかと思った。一瞬頭の中に過ったのは、――このまま全力で走って逃げればタキオンを撒けるのでは?という事だったが、流石にタキオンはウマ娘でありその中でもトップレベルで速い方だ。ここで逃げたとしてもすぐに追いつかれるだろう。

 田上が逃げられる可能性があるのは、タキオンに田上を追いかける気力がなかった場合だが、そうなると、走って追いかける元気すらないタキオンをたった一人で残していくのは、本当に可哀想である。もしかすると、田上が逃げたことにショックを受けて、ずっとここに居続けようかもしれない。流石に、フジキセキが様子を見に来るだろうから、タキオンは少なくとも誰にも気が付かれずにここで一晩を過ごすという事はなさそうだが、想像すればするほど可哀想だった。そして、不意に思いついた事があったので、田上は適当な話のタネにでもなると思って言ってみた。

「フジさんは良い友達だな…」

 タキオンは何も答えなかったが、話を聞いてくれている確信はあったので、田上はそのまま話を続けた。

「覚えてるか?…あの、お前がフジさんをスマホで殴った事件」

「……思い出させないでくれ…」とタキオンが極めて小さい声でそう答えた。

「もう、お前も辛かったんだろうなぁ…。俺が…、俺が…、悪かったんだろうなぁ…」

「……君は悪くない…」

「いや、…俺がお前と付き合って無ければあんなことにはならなかったと思う。……フジさんは、それでも許してくれるんだからいい友達だよ…。…そういう友達は大切にしておけよ。……俺が言えたようなもんじゃないけど…」

「………君が一番…」

「………そうかもしれないけどな。…まぁ、友達も選んだほうが良い。俺みたいな、発言が右往左往する奴よりももっと良い人間がこの世にはたくさんいる。お前は俺に視界を奪われてる。 もっとたくさんいるはずだ。考えてみれば、お前は女子校に居るんだよ。本当にこの世の男のおの字も知ってない様な小娘だ。お前は、…俺もだけど、…人と付き合うには早かった」

「さっきも聞いた」と田上の話はタキオンに遮られてしまった。そして、田上もさっきも話したような覚えがあるので、話の途中で固まるとふーと疲れたため息を吐いた。

「……お前は…、俺と付き合うべきなんじゃないんだけどな…」

「君が私の事を嫌いだって言うんだったら、素直にそう言ってくれ。…別に暴力を振るったりはしない…」

「俺は…」と田上はここでどう答えるべきか迷った。ここは絶好のタキオンを突き放す好機である。だが、しかし、田上も本心からタキオンと別れたいわけではないので、ここで「嫌い」と言ってしまって、取り返しのつかない事になるのを恐れた。田上にはまるっきり度胸が無いので、そういう状況になってしまったらどうすることもできない。

 田上は、数秒黙った後にこう言った。

「……嫌いじゃない…」

「………でも、………君の態度は………そういう事だ……」

「…ごめん。………タキオンは、…どうしたらいいと思う?どうすれば…?」

 田上は困り果てながらそう言った。

「……私にも分からない…。…けど、別れるのは確実に悪手だ」

「悪手と言ったってな…。実際、お前が俺と付き合うのは、俺も悪手だと思ってる…。悪い奴だろ?」

「君は悪くない」

「でも、実際にお前を泣かせてるんだ。お前に嫌な思いをさせてるんだ。別れたいって嘘でも言わせてるんだ。そして、…こうやって色々別れたいって言われるのも嫌だろうと思う」

「必要な話し合いだ」

「必要…何だろうけど、……つまんない男だと思わないか?」

「つまらない男はそんな事言わない。…自覚すらしてない」

「……お前にとって俺が面白い男であるとするならば……、…どうしたらいいんだろうな…」

「別れるのは悪手…」

「………そうかもしれない…。…うん…。…悪手と言ったってなぁ…。……堂々巡りなこと言ってもいい?」

「…良いとも」

「……俺はバカな男だよ。お前に何と言われようと、これで定まってる。…悪い彼氏だよ…」

「……君の事は好き」

「…お前は良い奴だよ。…こんな俺でも好きでいてくれる。…恵まれてるわ…」

 到底恵まれてるとは言えいなさそうな表情で田上は呟くように言った。

「……私も恵まれてる…。…こんな状況でも話し合いに応じてくれる彼氏がいる」

 タキオンがそう言うと、田上も少し嬉しくなって口の端を少しだけ上げて、目も少しだけ柔らかくした。

「果たしてこんなものを話し合いと言っていいのか知らん。…こんなのどう見ても、適当な事喋ってうだうだやってるだけだ」

「…じゃあ、うだうだと適当な事を話してくれる彼氏が居て、私は幸せだ…」

「……幸せになってくれて嬉しいけどね…。…俺はどうするのが正解だったんだろうな…」

「……正解なんて誰にも分からないさ…」

「そりゃあ、分からないだろうけどさ。最善策ってあるだろ?」

「無い」

 タキオンがそう言い切ると、田上も少し笑ってしまった。

「どうして?」

「結果はすでに結果だからだ。過去に最善策を求めた所でどうしようもない。私たちが考えるべきは今の事だ」

「……今の事って言われても…、過去から学ぶ事、教訓にする事ってあるだろ?」

「…あるだろうが、それを気にし過ぎてしまえば本末転倒だ。あくまでも、過去は過去の事象だ」

「……じゃあ、今は今は最善策があるだろ?」

「……私は君と付き合い続けたい。…しかし、それを最善と呼ぶのかは君が決める事だ」

「……じゃあ、俺が別れても良いのか?」

「…そんな事は言っていない。私は、私の最善に向かってくれるように、君に働きかけ続ける…」

「………最善…って言ってもさ?…こう…あるだろ?車道を渡る時は左右を見たほうが最善じゃん。曲がり角を曲がる時は、ミラーを見るとか慎重にするとかした方が最善じゃん」

「…それを最善と呼びたいなら好きにすればいいが、もしかすると、君が慎重に角を曲がっていれば、廊下を走っていた私にはぶつからなかったかもしれない。…ぶつかった未来で私と幸せになっていれば、君は将来でも今でも、あの時私とぶつかってよかったと言うだろう…」

「そりゃあ、…となると、何が最善かは分からないな…」

「そうだ。…言ってしまえば、最善策なんて主観的なものでしかない」

「……でもさぁ……、…あの時こうしたかったとかあるだろ?本当はこうしたかった。けどできなかった。電車に乗れば、目の前に老人が居て席を譲りたかったけどできなかった。お前にもっと優しくして、たくさん笑わせてあげられるような面白い男になりたかったけど、残念ながらそれは無理だった。 それがあるだろ?」

 その間に、タキオンが「君は面白い男だ」と言ったので、田上も微笑しながら「ありがとう」と返した。

「これはお前にもあるだろ?」

「…あるだろう…」

「……過去は過去だと言ってしまえばそれまでなんだけどさ…、思い返してみれば湧く物もあるよな…」

「そうだね…」

 ここで二人の会話は途切れた。そして、田上は相変わらず行き止まりの夜闇の中にタキオンと二人で佇んでいる事に気が付いた。弾んでいる会話の中で忘れていたが、ここはまだ寮の外だった。

 田上はため息を吐いて、――これからどうしたらいいんだろう、と再度思った。タキオンとしては、田上の口から「付き合う」という言葉が聞けるまで帰らないつもりだろうが、田上は未だにタキオンに改めて付き合うと言う気にはなれなかった。決して、照れなどではなく、単純にタキオンとこれからも付き合っていける元気が無い。気力を無くした残念な男だった。

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