ケロイド   作:石花漱一

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三十三、三回目の選抜レース⑧

 暫く黙っていると、今度はタキオンの方から話しかけてきた。丁度タキオンが田上の手をそっと軽く撫で始めた頃だった。

「私の事好きかい?」

「……好きだよ」

「……ごめんね。…何もしてやれない彼女で」

「……そんな事はない。俺の方がタキオンに迷惑をかけてばかりだ」

「…もっと苦しんでる君に寄り添えればいいんだけど…」

「もう十分に寄り添ってもらってる」

「……そうか…。…君も私に言いたくもない事言って辛いだろうね…」

「……」

「……ごめんね…。私こそ君をたくさん笑わせてあげられたらいいのに…」

「十分笑わせてもらってる。…タキオンはよくやってるよ」

「君もよくやってる。…こうして話に付き合ってくれる…」

「…」

「……私の事好きなんだろ?」

「……好きだよ」

「……これで別れる事になったら悲しいなぁ…」

「……あんまり別れたくはない…」

「…そうだね…」とタキオンは、少し嬉しそうに声色を明るくしながら、呟くように言った。

 それから、また話は途切れたが、あんまり間を置かずに、また、タキオンが言った。

「…好きでいてくれて嬉しい…」

「…ああ…」と田上は、唐突な言葉に戸惑いながら頷いた。

「………圭一君…」

「……何?」

「………呼んだだけ…」

 タキオンが微笑みながらそう言ったので、田上も少し笑みがこぼれた。そして、ツッコミを入れるように「………俺たちはティーンか」と静かに言った。

「私はティーンだよ」

「ああ……そうだったな…」

「……君も十分ティーンだ」

「ティーン?」

 田上は苦笑した。

「ティーンだとも。まだ十代の様な顔つきをしてる」

「……お前に当てられて若返ってるのかもな…」

「二十五なんてまだまだ子供だよ」

「……世間はそう見てくれないよ…」

「なぜだい?」

「お前が女子高生で、女子高生に手を出す奴は大概猥褻目的だ」

「でも、君と私は純粋に付き合っているだろう?」

「…どうだろうね?…メディアが批判的に報じればこっちは批判される側になるんだから。…そりゃあ、理性的な人は、俺が何にも悪い事はしてないって分かるんだろうけどねぇ…」

「…実際そうだよ…」

「……お前の悪口じゃないんだけどさ…」

「うん…」

「……実際、女子高生と付き合おうとしている俺は、皆からバカみたいに思われてんのかな…?」

「……そこら辺の世間の評価は私も知らないが…、…少なくとも私たちの身近な人、マテリアル君やリリー君、私の父さん母さん、君のお父さんなんかは、私たちの事を応援してくれているよ。…皆決して私たちの事をバカだなんて思ってない」

「…そうだな…。………お前とキスするのは罪じゃないよな?」

「…私が君に無理矢理されたと思ってないし、しっかりと判断できるくらいの能力はあるから、罪じゃない。それに、君はちゃんと一線を引いてる。教育者として望ましい位にね…」

 田上は、今の「教育者」という言葉が引っ掛かったから、タキオンの顔をじっと見つめた。

「……お前は一線を引かれないほうが良いのか?」

「…そうじゃない。…今の所一線はあるべきだよ。…あるべきだ。過ちなんてあるはずもないが、何度か危ない場面はあったから、このまま明確な線はあったほうが良いと思う。特に、世間に有無を言わせないためにもね。……ただね、………私は君ともっと仲良くなりたい…。……君が、…少し冷静でありすぎるというか。一線があるためにその一線以上に身を引こうとしているというか…。私と彼氏彼女として触れ合っている時でさえ、教育者として私を見てくるときがある。……そういう意味では、私は一線はいらないと思ってる…」

「……ごめん…」

「……キスなんて恋人同士なんだからもっとしてもいいはずなのに、君はいざという時になって身を引こうとする」

「……お前を傷つけたくないから」

 タキオンは暫く黙って一点を見つめた後に、ふぅとため息を吐くと、少々弱弱しく田上に「ごめん…」と言った。

「今のは言葉がきつかったかもしれない…。…責めるつもりはなかった。…君はよくやってる。…私が別れるって嘘を吐いても、逃げずに向き合ってくれている…」

「……」

「……もっと君と仲良くなりたいって言うのは本当だ…。君はどこか…壁を作ろうとしてる…。それが君を守るための壁か私を守るための壁かは知らないが、私はその壁を取り払いたい。もっと恋人の様にキスをしてもいいはずだ…」

「……」

「……君が私の事を好きだっていうのは伝わっているから安心してくれ…」

 タキオンはそう言いながら、田上の手に指を絡めて、優しく握った。

「……私は、その一線であり、壁であるものを壊せたらと良いと思うんだよ…。君が一体何に怯えているかは知らないが、…私に対しては、何の怯えもなく接してくれたら嬉しいなぁ…」

 田上は、これに、申し訳ないと思ったが、一線を壊したいと言われているのもかかわらず、申し訳ないと思うのも失礼なような気がして、果たして自分がどう思えばいいのか分からなくなった。

 そうやって、黙っていると、タキオンが田上の手を強く握ったり緩めたりして、その田上の手の感触を充分に感じながら言った。

「……私、…君の手好きだよ…」

「………俺、…お前の声好きだよ。…手も好き。小さくて面白い。………勝ち気なところも好きだし、俺に優しい所も好き」

 田上は、その後に、目を右往左往に動かして、何か他に言える事はないかと考えたが、その内に照れが出てきてしまって、恥ずかしそうに「うん…」と言った。タキオンは、トレーニングの時から一番の微笑みを顔に浮かべて言った。

「私も君の声が好き。君の顔も好き。私に優しい所も好き。照れ屋なところも好き。時々、そういう…情熱と言えばいいのかな?私の好きなところをついうっかり言ってしまって、その後に少し照れるのも好きだ。…それに、抱擁力があるところも好きだね。案外安定感のある体だ。流石男性と言ったところだね。…それに、…まだある。君の私を慕ってくれている所も好きだ。本当に、嘘を吐けない所も好き。付き合いたくない付き合いたくないって言っているのに、好きかと聞かれて――好きと答える所は、本当に君の良さが出ている。中々愛でがいのある男性だね」

 田上は、照れを抑えきれずに多少口元を緩ませながら「俺はそんなにいい奴なのかなぁ?」と言った。すると、タキオンは熱心に頷きながら言った。

「うんうん。そうだよ。君はとてもいい奴だ。人に対して思いやりのあるとてもいい奴だ。自分が苦しいって言うのに、私への気遣いは怠らないとてもとてもいい奴だ」

「…それは…建前の可能性もあるかもな…」

「ああ、…そうだね。…もっと君の好きなところはあるよ?……何度も言うけどね。君の手は好きだ。私の手なんかと全然違うから興味深いし、触っていて頼りがいがあるんだよ」

「…そんな感じはしてる」

「だろう?それくらいに私は君の手が好きなんだ。…そして、君とのキスも好きだ。大好きだ。君と私の世界が繋がっているような気がするし、キスする直前に私しか見ていない君の目も好きだ。そして、その時に私を抱き締めてくれる腕も好きだ。限りなく強く抱きしめてくれるんだけど、そこの力加減にある優しさが私には分かる。私を苦しくさせまいと少しだけ力を緩めているのが。それでも、抱き締めたくて力がこもっているのが。なんて可愛い奴だ。君はこの地球上で最も素晴らしい男性だ」

 田上は、フフッと笑いを漏らしながら、「そんなに褒めても何も出ないぞ」と言った。すると、またタキオンに熱心に返された。

「そういう謙虚さが、私の彼氏の売りだね。誰に見せたって文句を言われない最高の男性だ。私の人生は君に出会えて実に運が良かった。少し怖がりな所もあるけど、そこもまた一つ…ギャップというものだろう。こんなに頼りがいのある男性なのに、私以外の人にはそうそう心を開こうとしないのが、特別感があって良い。信頼されているという感覚だね。恐らく君の人生の中で、私以上に信頼している人間はいないだろう?」

 そう言っている間に、タキオンは、まるで当然かの様に、立ち上がって、田上の膝の上に向き合いながら乗ってきた。そして、田上も特に疑問を抱かずにそれを受け入れて、タキオンの顔を見ながら「ああ…」と答えた。

「だろう?そういう所が良いんだ。私の彼氏は。君は。実に可愛げのあるやつだ。こうやって褒めてるだけで嬉しそうにしてくれる。いつもは不愛想なふりをしてるけど、私の前ではこうなんだからね」

 田上は、もうニヤニヤ笑いが抑えきれずに顔を横に逸らした。タキオンはそれを嬉しそうに見つめながら言った。

「もしこれをデジタル君やカフェやアルト君やハナミ君に言ってみれば、驚いたり面白がったりするだろうね。…デジタル君は、また少し違うかな?…でも、普段の君は堅物そうという印象だから、私とのプライベートの間では、こんなにデレデレしてると言えば、少なくとも、何かしらの反応が得られるのは確実だ」

「…あんまり言わないでくれ」

 そう田上が困ったように頼むと、タキオンは微笑みながら「分かったよ」と言った。それから、田上の顔を見るのをやめて、その首に抱き着くと、耳元で言った。

「ちょっと怒りん坊の君も好きだよ。その後で、少し後悔して申し訳なさそうな顔をしている君も好きだ。何かに悩んでいる君も好きだ。…そういう時は気軽に相談してくれたら嬉しい物だね。…でも、相談できない君も好きだよ。何かよくあろうとしてる君が好きだ。私の頼らずに一人で歩いて行こうとするのは少し寂しいけど、そんな君も好きだよ」

「……言ってることが矛盾してないか?」と田上は冗談めかして言った。

「矛盾してるかもしれないけど、私はどんな君でも好きだ」

「……でも、…流石に、別れたいって言った時は嫌いだっただろ?」

「んーー…、…それは、君が何もかも一人でこなしてしまおうとするからなんだもの。…でも、そういう君も好きだ」

「んん?」

「とにかく私は君が好きなんだよ。どんな君でも好きだよ?浮気したって好きだ」

 これには、田上も少し苦笑した。

「浮気したら絶対喧嘩になるだろ?」

「浮気は確実にしないだろうが、喧嘩したとしても今みたいに仲直りできる」

「…浮気はもう彼女に飽きてるからするんじゃないか?」

「…君は私に飽きるのかい?」

「……未来に確証は持てないよ…」

 田上が表情を苦しげにさせながらそう言うと、タキオンは一度田上の顔をじっと見てから、また田上の首に先程よりも強く抱き着いて、安心させるように言った。

「そんな君も好きだよ」

 田上は、タキオンの体温の温かみを感じながら、暫く目を瞑って呼吸を整えていたが、やがて、ため息の様な深呼吸の様な息を吐くと、気を取り直してこう言った。

「分かった。付き合おう。…付き合おう。…でも、まだあんまり良く分からない事があるから話は明日だ。今日はもう帰らなきゃ」

「本当かい?もう大丈夫かい?」とタキオンは少し不安げになりながら、田上の顔を見つめた。その顔を見ると、田上は少し自分に嫌気が差したが、表情を頑なにして言った。

「もう夕食は食べれないかもしれないけど、風呂には入れよ」

「入ろうとも」

「…まぁ、大丈夫だよ。少なくとも、明日俺が急に失踪って事はない。今は、…お前に褒められて少し気分が良くなった。…だから、付き合い続けても良いんだけど、まだ何も解決はしてない」

「そうだろう」

「だから、明日も話に付き合え」

「……明日のトレーニングは?」

「明日はダンスレッスンだ」

「ああ…、そうか…」とタキオンは嫌な顔をして見せた。田上もその表情に嫌な思いをしながら言った。

「俺は、リリーさんとお前とを交互で見学してるから、休憩で暇があったら来てもいいよ」

「…ありがとう。…好き…」

「…俺も。…あんまり話す時間…、いや、ダンスレッスンの後はまだ時間があるか」

「そうだね。…また今日の様になってしまうと面倒だが…」

「まぁ…、なんだ。……お前が彼女で良かった」

「私も君が彼氏で良かった」

「…じゃあ、お互いウィンウィンな関係だな」

「そうだね。…もっと私を力強く抱きしめてもいいからね。…君の思いを私で発散してくれ。君が苦しくなったら、前みたいに私に抱き着いて――行かないで、と言って良いんだからね」

 そう言われると、田上は少し迷うようなそぶりを見せたが、その後にこう言った。

「…じゃあ、…抱き締めてもいい?」

「良いとも」

 それから、田上はタキオンの体を抱きながら顔を軽く埋めて、「行かないで」と言った。ただ、あんまり思ったようなハグにはならなかった。できる事ならもっとタキオンが苦しくなるくらいに抱き締めたかったし、座っているからかタキオンの位置が少し高くなって、思ったような抱き心地にもならなかった。

 そして、タキオンはそんな田上の表情をすぐに読み取って、「これで良かったのかい?」と聞いてきた。田上は、また迷いこそしたが、タキオンが何でも許してくれる様子なので、仕方なく「ちょっと立って抱き締めたいし、もう少し強く抱きしめても良かった?」と言った。

 タキオンは、微笑みながら「全然構わないさ。私も君に抱きしめられるのは好きだから、何度でもやってくれていい」と返事をした。それで、田上とタキオンは立ち上がって、ハグを仕切り直した。

 これも田上の理想通りとはいかなかった。思いっきり力を入れたかったのだが、ただ力を入れているだけでは、自分が果たして力を入れてタキオンを抱きしめているのか、普通に抱き締めているのか分からなかった。それで、少しどうしようか迷った挙句、タキオンの髪に自分の頭を擦りつけてみれば、少しは思うようになった。ただ、やっぱり何処か物足りないような気がして、今度は「行かないで…」と呟いてみた。しかし、これは適当に言ってみたものなので、自分の中の何かが発散された気はしない。田上は頭の中で少し悩みながら、さっきの方がまだマシだったなと思いつつ、タキオンを抱きしめていた。

 少し経った後に、田上は残念そうな顔をしながら「あんまり上手くも行かないもんだね」とタキオンに言った。タキオンは田上を見上げながら「なぜだい?」と聞いた。

「……まぁ、…自分の理想通りとはいかないよね。…ハグするのも…」

「物足りなかったのかい?」

 田上は無言でうんと頷いた。

「物足りなかったらもっとしてもいいけど」

「……まぁ、いいよ。このままやり続けても、物足りないのは変わらないような気もするし。………まぁ、……今日もたくさん話したな」

「実に有意義な時間だった」

「お前がそう思ってくれるんだったら嬉しい。…また明日も会おうな」

「ああ」

 タキオンがそう返事をすると、田上は手をちょっと振って立ち去って行こうとしたが、その前にタキオンが「キス」と言って呼び止めた。田上は、振り返るとタキオンの顔を見た。タキオンは、顔に微笑を浮かべながら、寮から漏れる明かりの前に立っていた。だから、田上も微笑を浮かべると、タキオンの下に歩み寄って、タキオンを軽く抱きながらキスをした。今度は結構思っていたようなキスだった。田上はその事に少し満足感を覚えながら、また見送ってくれているタキオンに手を振って、その場を後にした。

 ウマ娘寮の中から一際高い笑い声が聞こえてきた。

 

 タキオンが賑やかなウマ娘寮の中に入ると、フジキセキが中等部の子とトランプをして遊んでいるのを見つけた。だから、タキオンはそこに寄って行くと、静かな声で「終わったよ」と告げた。すると、フジキセキは陽気な声で「ああ、終ったんだね!」と答えた。

「随分長かったけど、…君が予想してたよりかは早く終わったね」

「…問題の肝心なところは解決してないさ。だから、私の見立ては間違っていない。…ただ、私たちの仲は良かったからね」

「へぇ…、私は男性との交際はまだこなしたことが無いんだけど、どういうものなんだい?」とフジキセキは、トランプゲームをしつつタキオンと話した。

「……まぁ、…あんまり気負い過ぎるのも良くないだろうね。…楽に付き合える人を選んだほうが良いと思うよ」

「成程…、それでモルモット君か…」

 フジキセキは対戦相手の顔を真剣に見つめながら、上の空のように言った。それで、タキオンもこの話が続かないと思ったので、トランプゲームを観戦し始めた。二人で対戦する心理ゲームのようだった。タキオンもルールはあまり良く分からなかったが、二人共真剣に場にカードを出したり、お互いを睨めっこしたりしていたので、見ていて面白かった。その内に、フジキセキが突然ふふふふと笑い出して、中等部の子があーと悔しそうな声を出して、気の抜けた様に横にあったソファーに寄りかかった。二人は、掃除の行き届いた綺麗な床でゲームをしていた。

 そして、そのゲームが終わると、タキオンもそろそろ行くかと腰を上げて、減ったお腹がタキオンに食べ物を恵んでくれと訴えているのを無視して、部屋に行き、同室のデジタルに「今日は大変だったよ」と一言言ってから、風呂の方に向かった。

 

 田上は寮に入った時に、共有スペースで寮長の柊さんがぼんやりとテレビを見ていてくれて、助かったと思った。部屋に居たら、折角寛いでいる所にわざわざ自分がお邪魔しなければいけないと思って、気が重たかったのだ。田上はいそいそと柊さんの元へ行くと、「あの~」と呼びかけた。

「すみません。門限破ってしまって」

 柊さんは、少し驚いた様子で田上を「ああ」と見て、言った。

「いえいえ、ホント、テレビをぼんやり見てるだけでも楽しいので全然大丈夫ですよ」

 それから、唐突に少し顔をにやつかせて小声で言った。

「生徒寮の寮長から聞いたんですが、…あの…GⅠの子と付き合ってるってのは本当ですか?」

「ああ…、…まぁ、はい。…あの…俺の教え子の事ですよね?」

「はい。それです。…それで、色々と交際上の問題があって遅れるって聞かされたんですが?」

――フジさんはそこまで言ったのか…、という呆れと、――柊さんもお節介だな…、というこれもまた呆れから、田上は少し顔をしかめた後に「はい、そうです」と答えた。すると、柊さんはハハハと笑ってから言った。

「君もまだ若いからね。若いにしちゃよくやってるけど、…女なんていうのは面倒なもんだよ。こっちの言う事なんて聞こうともしない。あの子がどんな子かはあんまり知らないけど、付き合うのに用心するに越したことないよ」

 田上はそれに多少苛々しながら聞いていたが、返事は「はぁ」の一言で済ませた。ここで反論して揉め事を起こしもしょうがないだろう。タキオンだって、そんなバカな真似はしてくれなくていいと言うはずだ。それにしたって、寮長があんなことを言うとは思っていなかった。普段からそこまで話す事はなかったが、優しそうな人だとは思っていたし、実際に優しかった。あの人の年齢ももう三十後半という所だったはずだ。あの人が女にどういう価値観を持っているのか知らないが、わざわざ自分に言わなくたっていいだろう。確かに、男女関係で苦労はしているが、半分か半分以上はこっちのせいでもある。いや、全部と言ってもいいかもしれない。そんな事情を知りもしないでよくあんなことが言えたものだ。

 そこで、田上は柊さんの顔を思い浮かべたのだが、よくよく思い返せば顔が赤みがかっていたような気もする。酒の匂いも少ししてたような気もする。…という事はもしかしたら、柊さんは酒に酔って調子に乗ってあんなことを言っていたのかもしれない。――それでも、碌な奴じゃないな。と思いながら田上は階段を順々に上って、自分の部屋の前まで行くと、そのまま扉を開けて中へと入った。

 

 田上は、部屋に入るなり荷物を放って、自分のベッドに倒れ込んだ。それから、悶々と先程柊さんに言われたことを思い出していた。

――女なんてのは面倒なもんだよ。

 どのような経験をしたらそんな事が言えるのだろうか?奥さんか、または彼女かと過去によっぽど酷い喧嘩をした事があるのだろうか?しかし、酷い喧嘩と言えばこちらだって負けていない。こちらは、怒って出て行ったタキオンを追いかけて、真冬の雨に打たれて寒さで死にかけても尚タキオンの事が好きなのだ。恋人に首を絞められる一歩手前まで行ってもタキオンの事が好きなのだ。こちらの喧嘩だって全然負けていない。これに勝てる喧嘩と言ったら、本当に刃傷沙汰とか、自殺未遂、心中未遂まで行っていたのかもしれない。しかし、こちらもタキオンがもし本当にやっていれば、どうなっただろうか?タキオンに自分は殺せない確信が強くあったからいいが、あの確信が嘘であれば、田上も今頃この世には居なくなっているかもしれない。

 すると、そんな事が起こるはずもないのに、無駄に変な事を想像して居るのが嫌になって、田上は頭を軽く振って、その考えを頭の中から払った。

 少なくとも、田上とタキオンは何度もぶつかり合っている。その度に、…まぁ、お互いの事が好きなので仲直りしている。今しがたもそうだった。――彼女と別れる程の喧嘩とは一体どんなものだろうか?と思った。今日は別れる一歩手前まで行った。そこでまた引き返した。お互いにとってお互いが必要な存在だった。田上は、これが必要でなくなった場合が怖いのだが、それは今考える事ではない。――柊さんは元々彼女が好きではなかったのだろうか?…それとも、彼女が元々柊さんの事を好きではなかったのだろうか?…一体どうなのだろうか?

 田上はベッドの上でごろんごろんと寝返りを打ちながら考えた。

――柊さんの基本は優しそうな人だから、…女性側が悪かったりするのだろうか?しかし、酔ってあんなことを言うくらいだから、優しさの裏で鬱憤でも溜めているのだろうか?その鬱憤を女性側に晴らされていて、遂に破局となったのだろうか?

 それから、田上は天井を見ながらまた別の事を考えた。

――俺も歳をとれば、女は面倒だと考えるようになるのだろうか?三十後半になっていればどうだろうか?タキオンとも結婚して、子供も二三人居るかもしれない。はたまた、お互いがお互いに愛想を尽かして別れているかもしれない。

――嫌だなぁ、と田上は思った。それから、天井を見るのをやめ、壁のある右の方に体を向けた。そして、何だか落ち着かなかったので、今度は壁に背を向けて、左の方を見た。これでも何だか背中が落ち着かない。それで、毛布を被ってみると自分がまだ風呂に入っていない事に気が付いた。だから、田上は自分の着替えを用意すると、そのまま風呂に入りに行った。

 

 丁度風呂から部屋に戻った時に、机に置いていたスマホが、電話がかかってきているのを告げていた。タキオンだ。田上はタキオンからの電話の事をすっかり忘れていたから、湯船にはずっとぼんやりと浸かっていた。だから、この電話がずっと掛かってきていたのではないかと内心焦ったが、風呂上がりで心も体も寛いでいたので、のんびりと電話に出た。電話の向こうから話しかけてくるタキオンは、そこまで怒っている様子ではなかったので、もしかしたら、今初めて掛けてきたところだったのかもしれない。

 タキオンは開口一番に「圭一君…、好きだよ」と言った。田上はそれに苦笑しながら「ちょっと待ってね」と言って、風呂上がりの後始末をほいほいとして、タキオンとの通話を続けた。田上が後始末している間もタキオンは「圭一君の事好きだよ~」と何度も何度も言っていた。それに適当に相槌を打って、後始末を終わらせた後に、田上はベッドに寝転がりながら「なんでそんなに好き好き言うんだ?」と苦笑しながら聞いた。すると、タキオンは「ん~」と眠そうな唸り声を出しながら言った。

「君に好きってちゃんと言わないと、君が、私が君の事を好きって事を忘れてしまいそうだからだよ~」

「…ありがとう」

「礼には及ばないよ~。好きだよ。一緒に居てくれ~」

「酒に酔ってるみたいな絡み方をしてるぞ」

「…君と酒に酔ってみるってのも良いかもしれないね。…私がお酒飲めるようになったら、一緒に酔おう?」

「いいけど、俺はあんまり強くないぞ」

「弱くなってる君ってのも見てみたいもんだ~。…むしろ、べろべろに酔わせてみたいねぇ~。君、酔ったら甘えてくるタイプなんじゃないのかい?」

「知らない。あんまり酔い過ぎないようにしてるから」

「……君のお義母さんの命日の時だったかな?…酔って帰ってきただろ~?」

「ああ、…あれか」

 田上は、あんまり思い出したくなさそうな調子で言った。

「圭一君は覚えているかい?…あの時私に――手を繋いで、って頼んできたんだよ?まだ付き合ってもないのに自分からそう頼んできた。私、あの時は嬉しかったねぇ~」

「お前が嬉しかったらよかった」

「ふふふ…。だから、また君を酔わせてみたいね。…別に、私と飲まなくとも君だけ飲ませるという手もあるか…」

「俺はあんまり飲みたくないよ。…そもそもあんまり美味しくないし」

「でも、…君中々甘えてくれないからねぇ。…それに、私としては甘えてくる君は好きだね。…普段の君が嘘のようにデレデレになるんだから」

「…あんまり飲ませないでやってくれ。お前の前で裸になってもしょうがない」

「脱ぎ癖があるのかい?」

「…いや?…酔い過ぎたらそんな事もするかもしれない」

「…君がキス魔になれば面白いだろうが、…まぁ、君があんまり酔いたくないって言うんなら仕方がない。私の二十歳の誕生日くらいに許してやろう」

「酒を飲みたいのか?」

「いや、…君と色んな事をしてみたい。酒を飲むというのもその一環だろう」

「じゃあ喫煙は?」

「君がしてたら私もするが、生憎喫煙の予定だけはないだろう?」

「そうだな…」

「君の顔と喫煙って合うと思うんだよね」

「似合ってるって事?」

「そう。…時々、君上の空だから、そういう時に煙草を口にくわえさせれば映えると思うよ」

「そして、彼女ができたから禁煙するのか?」

「ん?どういう事だい?」

「いや、…そういうのあるだろ?好きな人がたばこ嫌いだから、自分もやめるってやつ」

「ああ、…うん。君にもそういう雰囲気はあるからね。映える事には間違いない。…君、俳優なんて目指してみたらどうだい?」

「いよいよ酒を飲んでる奴の台詞っぽくなってきたぞ」

「構わないよ。どちらかと言えば、私は君に酔ってる」

 タキオンの臭い台詞に田上は思わず笑ってしまったし、タキオンも言った後でふふふふと笑っていた。

「私、圭一君の事好きだよ~」

「お前、本当に酒飲んでないだろうな?話に脈絡が無いぞ?」

「飲んでないよ~」

「じゃなきゃ眠いのか?」

「…眠い事には眠いが、それで電話切るなんて言わないでくれよ~?まだ君と話してたい」

「…お前、ふにゃふにゃだな」

「…これを君の隣でしたい。君の隣でうとうとしたいね。それで、君の膝枕で寝れたら私は本望だ~」

「本当に今日はどうした?疲れたのか?」

「疲れた事には疲れたね~。…君の隣で眠りたいなあ…。不摂生したい。夜遅くまで君と起きて、眠くなった瞬間に君の膝で眠りたい」

「…本当に、お前は俺の事が好きだな」

 田上が、多少タキオンのよくわからない酔っているような調子に困りながら、それでも、少し嬉しそうに言った。

「好きだとも~。好きだ~。好きだ~。好き好き~」

「…お前…、そのテンションは俺が困る。お前…、お前なぁ…」

「好きだよ~。好き~。愛してる~。好き~。いつも好き~。大好き~」

「…お前なぁ。十代のバカップルじゃないんだし…」

「十代だよ~。君も心は私と大して変わらないさ~。好き~」

 タキオンが隙あらば「好き」と言ってくるので、田上は嬉しがりつつもこれはどうしようもないので「うるせえ」と一言つっこまざるを得なかった。それでも当然タキオンの好き好きは止まらなかった。田上も無理に止める必要はないと思っていたので、会話の端々に含まれる「好き」に照れつつも、適当にいなしながら会話を進めた。

 田上も何が何だか分からなかったが、タキオンが眠たいと言っていたので、これは眠さでおかしくなっているんだろうという事で片付けていた。タキオンも半分には眠さがあったが、今日泣くほどに盛り上がった弁論を無事に一悶着終えることができて、本当に嬉しくもあったのだ。田上と別れるまでに急接近した出来事が、無事に片付いて本当に本当に嬉しかったのだ。その為に、これ程好き好きと言っていると言ってもいいだろう。タキオンもその様な物だと自分では薄く気が付いてはいたが、敢えてそれを田上に知らせる必要もないだろうと思って、ずっと田上に好き好き言っていた。こう言って、田上が困惑しているのがさらに面白かったし、照れているのも面白かった。それで、もっと感情があふれ出してきたので、もっと田上に「好き」と言った。そして、田上が困惑して照れる。タキオンが、もっと好きになる。このサイクルで、タキオンは今とても嬉しかった。

 これは、二人が寝る時まで衰える事を知らず、二三時間の間常にタキオンは好き好きと言い続けていた。田上も途中でタキオンとの通話に飽きて、片手間で話しながらも、ゲームなどをして暇を潰していたりもしたが、それでもタキオンは言い続けていたから、田上は苦笑しつつゲームをやめた。

 そして二人は眠りに就いた。田上は、まぁそれなりに満足した眠りに就けた。彼女から延々と褒められ続けたのだから、満足しないはずもないだろう。タキオンも大好きな彼氏の事を褒めて褒めて褒め倒す事ができて非常に満足した。だから、こちらも良い眠りに就いた。

 

 翌朝目を覚ましてもタキオンは田上には電話を掛けなかった。それは、タキオンの頭の中にある計画があったからだ。その内容とは、田上の部屋の中に入るという事である。久々に完全に二人きりの空間で田上と過ごしたかった。田上が許してくれるのかは分からなかったが、半ば強引にでもあの中に入って、二人の時間を享受したかった。もっと二人で過ごしたかった。何て言ったって、自分たちが仲睦まじい恋人同士なのだ。規則というものがそれを縛っていいはずもないだろう。

 そういう考えを持って、急いで田上の寮へと向かおうとしたのだが、はたと立ち止まった。寮の朝の門限はあって無いようなものだ。むしろ、規則の方を変えたほうが良いだろうが、肝心の田上の部屋は、田上に開けてもらわなければならない。すると、電話はかけておいたほうが良いだろう。そういう事で、タキオンはトレーナー寮の前まで行くと、そこで突っ立ったまま田上に電話を掛けた。田上は、数秒の後、ん~と唸りながら電話に出て、「おはよう」と眠たそうな声で言った。タキオンはそれに元気な声で「おはよう!」と返した。田上は、その清涼に多少驚きながら「元気が良いな…」とこれもまた眠たそうに言った。

「元気は良いとも。今、君の寮の前まで来ている。君の部屋に入りたいから鍵は開けておいてくれ」

 そして、タキオンは、田上の「は?」という声を聞く間もなく電話を切った。それから、嬉しそうに寮の中へと入って行った。

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