ケロイド   作:石花漱一

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三十三、三回目の選抜レース⑨

 田上の部屋の前まで行って、その扉をノックすると、困った顔をした田上が、その内側から出てきた。タキオンは嬉しそうに「おはよう」と挨拶をすると、田上の返事も聞かずに少々強引にその中に入った。田上も特に引き留めはしなかったが、困ったな、という顔をすると、念の為、自分の部屋の前の廊下を確認して、誰も居なかったことを確かめた。

 田上が部屋の方に視線を戻しつつ扉を閉めると、タキオンは田上のベッドに寝ながら嬉しそうにごろごろ転がって、尻尾を振っていた。田上はそんなタキオンの背中に向かって、聞かないと分かりつつも「困るよ…」と言った。タキオンはニコニコしながら、「君を困らせに来た」と言った。それだから、田上はもう早々に諦めて、自分の朝の支度にとりかかった。

 田上が、シャツに着替えて髭も剃ってタキオンの前に出てくると、タキオンは嬉しそうにしながら「一緒に寝よう?」と言った。田上はまだ時間もある事なのでどうしようかと迷ったが、とりあえず、ベッドの際に座ってタキオンに言った。

「何かあったのか?」

「いや、昨日の夜の延長戦みたいなものだよ。君と触れ合いたい」

「触れ合いたい?」

「そう」

 そう言った後に、二人が見つめ合う数秒ができたが、その後に田上が突然手を動かしてタキオンの脇をくすぐろうとした。しかし、それは簡単にタキオンに防がれてしまった。タキオンは、自分の脇に伸ばされた田上の腕をしっかりと握って、ニヤニヤしながら言った。

「ウマ娘の反射神経は舐めちゃいけないねぇ、圭一君?」

「…流石だね」

「ほら、こっちへおいで」とタキオンが田上の腕を引っ張ると、田上は簡単にそれに持っていかれた。ここで変に抵抗してもお互いが怪我をするだけなので、田上は仕方なくタキオンにされるがままに、その横に向かい合って寝転がった。タキオンは田上の顔を見つめて嬉しそうに微笑みながら言った。

「好きかい?」

「好きだよ」

「…もっと」

「…大好きだよ」

 田上はそう言いながら、タキオンの顔の横の髪の毛を指先で軽くくすぐってあげた。タキオンは、それにもっと嬉しそうな笑みを浮かべた後、田上の胸に抱き着いて、そこに顔を埋めた。田上はその頭を優しくなでてあげた。すると、タキオンが田上の胸に顔を埋めたまま言った。

「好きって言って」

「好きだよ」

「…昨日の私みたいに言えないかい?」

「昨日のお前みたいに?…酔ってないからなぁ…」

「…私に甘えて?もっと強く抱きしめて?」

 どうも昨日の夜とは入っているスイッチが違うようだぞ?と田上は思いながら、タキオンの言うようにしてあげたが、経験上、ただ言われるがままにするのはあんまり良くないだろうと考えたから、田上は、田上の胸に埋まっているタキオンの脇をチョンとつついた。

 その途端に、タキオンがふふっと田上の胸の中で笑い声を上げたが、田上の胸に顔を埋めるのをやめるという事はしなかった。だから、もう一つチョンとつつき、二つ目は、もっと大胆に脇をくすぐった。すると、ハハハハとタキオンが笑いながら身を捩り始めたので、二人共怪我をしないように配慮しながらくすぐって、また、くすぐられていた。

 そして、タキオンが散々笑った後に、田上が手を放すと、今度は、タキオンがまだ整わない息の中で田上の脇をくすぐり始め、第二ラウンドが始まった。田上はタキオン程脇が弱くはなかったが、それでも雰囲気に飲まれて、二人でベッドに寝転がって、ふふふふふとずっと笑っていた。

 それから、暫くくすぐり、くすぐられ続けた後、タキオンは満足そうに田上の胸に顔を埋めながら「好き」と言った。田上も「好き」と言い返した後、タキオンがこう言った。

「…もっと好きって言ってくれないか?」

「…好きだよ。好き好き。大好き。好き好き好き」

 言ってて、自分でも少し阿保らしいと思ったが、その言葉に偽りはなくタキオンの事は大好きだった。タキオンは、そう言われると、田上の胸に顔を埋めたまま、おでこを強く二三回擦った。それから、またこう言った。

「もっと」

「…昨日は酔ってるみたいだったけど、今日は甘えん坊だな」

「四の五の言わずに」

「好きだよ」

 田上はそう言いながら、今度はタキオンの栗毛のウマ耳を触ってみた。一度目は、田上の触れてきた指先にぴょこんと揺れて、田上の手を避けたが、タキオンは無言だった。二回目に触ってみると、タキオンも田上が触ってきていると気が付いて、胸に顔を埋めるのをやめ、嬉しいような迷惑なようなという顔をしながら「耳を触るんじゃないよ」と注意した。

 それでも、田上は「タキオンの耳が可愛いから」と言いながらその耳を触ると、タキオンは頭をぶんぶんと振り払って「触るな」と先程よりも強めに言った。田上はそれでも反省した様子もなく、「お前の耳面白いよ?」と言った。

 その後にまた、タキオンの耳をチョンと触った。これにタキオンは頭を振りながら「君がやるんだったら仕方がない」と言って、田上の耳の方も触りだした。ただ、田上は特に耳は弱くないので、平気な顔をしながらタキオンの耳を触り続けていた。

 タキオンは耳を触られるのを我慢して、一生懸命田上の耳を触り続けていたが、田上がタキオンのウマ耳の穴に人差し指を突っ込むと「うわっ」と一声上げて、それからちょっぴり本気で怒りながら「耳の穴に指を入れる事はないだろう?」と田上のほっぺを少し強めに引っ張った。田上は大笑いしながら「痛い痛い」と言って、タキオンの耳に指を突っ込むのをやめた。

 タキオンはその後も少し頬を引っ張り続けた後に、「君もだ!」と言うと田上の耳に自分の指を突っ込んだ。今度は田上が「うわっ」と声を上げる番だった。流石の田上も耳の中に指を突っ込まれたら反応する。それで、反射的にぶんぶんと頭を振ったのだが、一度タキオンの指から自分の耳を外せたきりで、その後はウマ娘の力で頭を押さえられて田上は指で耳をほじられることとなった。ただ、二回目は急でもなかったので、耳に異物感を覚えながらも多少の我慢はできた。それでも、田上が嫌そうな顔をしてじっと耳をほじられ続けていたから、タキオンは嬉々として田上の耳をほじり続けた。

「俺の耳ほじって楽しいかよ」と田上は、タキオンの方に嫌な顔をしつつ面倒臭そうに言った。タキオンは顔に得意気な笑みを浮かべたまま何も答えなかった。だから、田上がやり返そうとタキオンの頭の方に手を伸ばすと、タキオンはその手を押さえて「私のはダメだよ」と微笑みながら言った。

 それに、田上は尚の事面倒で嫌そうな顔をしながら「なんで?」と聞いた。タキオンは、それにまた微笑んだまま首を横に振った後、今度は動き出して、田上の上に乗っかってきた。田上もそれに本気で抵抗するほど悪い事をされてる気分でもないので、耳の指を感じながらこの妙な時間が過ぎ去るのを待った。

 タキオンは、横になっている田上の上に乗っかると、興味深そうに田上の耳を眺めた。それから、その耳にふっと息を吹きかけてきたので、田上がまた反射的に頭を振って「やめろよ」と抗議した。タキオンは、嬉しそうに笑いながらこう言った。

「分かった分かった。面白いから、これからも、唐突に、圭一君の耳に息を吹きかけてやろう。……それにしても、…不思議だねぇ…。こんなに耳の形が違うのに、同じ種として生殖ができるのだから」

「不思議だね」と田上が適当に相槌を打つと、タキオンはまた嬉しそうに笑った。

「不思議だろう?ウマ娘はなぜこの世に存在しているんだろうね?」

「…研究してみれば?」

 田上がそう提案すると、タキオンは苦笑いをした。

「研究なんて、…ねぇ?私の容量は君で埋まってしまっているよ」

「俺の容量はそんなに厖大か?」

「…まぁ、…それもあるだろうが…、…一番は君の隣が心地良すぎるという事だね。私を包んで守ってくれるから、私はそれに安心して甘えていていい」

「……それは良くとればいいの?悪くとればいいの?」

「好きなようにしてくれ。私は…、…私は、…考えたんだが、昨日は君に好意を伝えて君がそれを改めて確認してくれて事無きを得たが、…私が…弱ってしまった時?…そう言うと気があるだろ?」

「うん」

「そういう時に、少し危うくなるんだよね。…言ってしまえば、昨日の事の発端も私が弱ったせいと言えばそうだ」

「…」

「……だからねぇ、…君も分かっているとは思うが、私たちは結構騙し騙しだ。勿論、お互いの好意に偽りはないだろう。…そうだろう?」

「そうだよ」

「……だから…、…まぁ…、なんだろう。……私から苦しい時も離れないでいてくれると嬉しいよ…」

 タキオンは弱気な口調でそう言った。

「………なんか……」

「んん?」

「………なんか、…俺の言おうとする言葉、全部が波風が立ちそうな気がする」

「…どんな言葉だい?」

「……お前の事は好きだけど、…あんまり期待はしないでほしいと言うか何と言うか…」

「…私は君の事が好きだよ?」と言いながらタキオンは田上の頬をちょんちょんとつついた。それに、田上は少し嬉しそうな顔をしながらも物憂げに言った。

「それは分かってるよ…。…俺もお前とずっと仲良くありたいけど、それが未来の確定事項ですか?と聞かれて、――はい、と答える程自分の事はそんなに信頼して無いんだよ」

「……それでも、私たちには実績があるよ。何回ぶつかりあっても、今こうして同じベッドの上で寝転がっているという実績が」

「…でも、…騙し騙しだって言っただろ?」

「…それはそうだ。しかし、…言っちゃ悪いだろうが、君もキスくらいで騙せる部類の男だ」

「…言っちゃ悪いな…」と田上は、多少呆れながらそう言った。

「それが、…それが、…君がキスくらいで騙せるくらいのバカな男だとは思ってないよ。私だって君のキスで騙される時がある。…肝心なところは、キスによってぎりぎり踏み止まってくれるという所だね。お互い好きなんだから離れる理由はないはずだ。それでも、離れようとするから解決したいんだけれども、…手っ取り早い?…そういうと語弊があるかな?…まぁ、適切な解決策が見当たらないからキスで一先ず場を終えている感覚がある。…これは君にとっても好都合だろう?…勿論、問題は残ったままだが、私たちの間で最重要課題なのは、二人で手を取り合って生きていくという事だ。二人で夫婦として生きるという事だ。これが最重要ならば、キスをして、一旦問題を忘れるというのも一つの手だろう?…そうだね。『騙す』じゃない。『忘れる』だね。『忘れさせる』でもない。二人共、一旦忘れようという協定をキスしている間に結ぶんだ。…だから…、まぁ、話が逸れてしまったような気がするが、やはり、キスは必要だね」

「…でも、…お前、今はキスして忘れることに問題を提起したんじゃなかったのか?」

「それはそうだね。尤もな意見だ。…ただ、君も分かる通り、私たちの間に横たわっている問題は一朝一夕では済まない。…何が言いたいかと言えば、…私たちはこれからも一朝一夕に行ける程簡単な道を歩きはしていないが、繋がれた手が解かれるほど軟な根性もしていないって事だね」

「……俺は半分解いてたし、…付き合ってる相手がお前じゃなかったら、もうとっくの昔に縁は切れてるだろうな。…もって、三週…。…いや、…お前とだからここまで困難な道になったってのもあるだろうから、……普通の一般的な女性と付き合った場合、二か月から三か月の間で、お互いに不満が溜まって別れる事になってそうだな…」

「じゃあ、向こう八十年は別れる事がなさそうだね、私たちは」

 そうタキオンは言ったが、それでも、田上はあんまり納得が行っていなさそうに「どうだろうね…」と返事をしたので、タキオンは笑いながら耳をふっと吹いた。

「私、君の事好きだからね」

「…俺だって嫌いじゃないよ」

「…好きって言って?」

「……好きだよ」

「……私も」

 それから、タキオンは田上の耳をまた吹いて、田上に鬱陶しそうに頭を振らせた。

「…君ももう少し…なんだろうね?…自分の事を愛してやれればいいと思うが…」

「…どうだろうね…」

 田上がまたそう言ったから、タキオンも笑いながら、今度は田上の耳に指を突っ込んだ。そして、また田上は鬱陶しそうに首を振った。

「お前やめろよ。俺が適当な返事したら、耳に何かするの」

「いいじゃないか。君の反応が面白いんだから。…好きだよ」

 そう言いながら、タキオンは、また、田上の耳に指を突っ込んだ。田上は、それにはもう頭を振らずに、じっと我慢をしながら言った。

「それで、俺がしようとしたら、お前は簡単に捻じ伏せるんだろ?」

「…不快かい?」

「……まぁ、不快だね」

「…じゃあ、やめてやろう」

 そう言うと、タキオンは田上の体から降りて、また田上と一緒にベッドの上に寝転がった。それから、田上はため息を吐くと、横のタキオンと体を向かい合わせて見つめ合いながら言った。

「……俺はやな奴だな…」

「…?なんで今の話の流れで君がやな奴になるんだい?」

「……不満を盾に今のをやめさせた」

「……でも、私が悪いだろ?冗談とは言え、君が嫌がる事をやっていたんだから」

「……ごめんな…」

「……そんな君でも私は好きだからね」とタキオンは少し強めの口調で言った。「私、君の申し訳ないと思ってる顔も好きだよ」

「……俺はバカだよ…」

「君ねぇ。圭一君ねぇ。君は全然バカじゃないよ。私を思いやってくれる最愛の人さ。君以上に私を大切にしてくれる人は居ないし、それに、私はバカな君でも断然好きだ」

「……変わってるよ」と言いながら、田上はタキオンの目から自分の目を逸らした。すると、タキオンはもう少し田上に近づいて、その視界に入るようにしながら言った。

「私は今の事で全然不快だなんて思っていない。むしろ、自分が悪い事をしてしまったと思っているんだから」

「お前に悪い事をしてしまったと思わせた俺が不快なんだよ…」

「…じゃあ、君は私に耳をほじられるのが気持ちよくて気持ち良くて仕方がなかったのかい?」

 田上は、これに無言で微かに首を横に振った。

「そうだろう?少なくとも、一回や二回だったら君もまぁ悪くはなかっただろうと私は思うが、流石にやりすぎた。しつこかったから君も嫌がったんだろう?」

「………論調が良くなかった」と田上は、絞られた喉からそう声を出した。

「論調?不満を盾にしたから?…私は、そういう君でも好きだけどね」

「…だから変わってる…」

 そう言った田上を、悩まし気な目で見つめた後、タキオンは言った。

「…君は、…圭一君は、……まぁ、……私は、……何と言えばいいかな?……少なくとも、私は迷惑を掛けられたところで、君に絶対的な信頼は置いている。迷惑を掛けられたら多少は面倒かもしれないが、今の所は皆上手く行ってる。君は上手く行ってないと考えているかもしれないが、私としてはもう君とこうしてベッドに横たわって健全に付き合っているという事で万々歳さ」

「…俺の部屋に入るのは規則違反なんだけど」と田上は、唐突に冗談めかして言った。タキオンはそれに微笑みながらこう返した。

「そこはご愛嬌さ。ギリギリセーフという事にしておいてくれ。…君もまさか大好きな私の事を突き出したりはしないだろう?」

「どうかな?」と田上は、微かに微笑みながらそう言った。

「する事はないさ。君も私と二人きりの状況が心地良いんだから。君の顔を見ればすぐに分かる」

「…今悩んでるのに?」

「…私に打ち明けられるだけいいものだよ。存分に私に打ち明けたまえ。そして、私が弱った時は、できるだけ私から離れないように寄り添いたまえ。昨日みたいなことは起きるかもしれないが、私たちには離れる理由が無いんだから、結局はまたここに戻る。本当に、もし世間が君を否定するのであれば、私は山奥に逃げるか、海外に逃げるかのどちらかを選択するよ」

「山奥には逃げたくないなぁ…」

「そうだろう。まぁ、世間も健全に愛し合っている男女を引き裂くほど酷くはないと思うがね」

「テレビは勝手だよ」

「勝手だろうね。…しかし、…まぁ、私も現役から退けば、テレビにも他のネタが入り込んでくるさ。まさか、十年も二十年もただ結婚しているだけの男女に構う程テレビも暇じゃあるまい」

「…一年でも嫌だね…」

「もう、そういう時は、おじいちゃんにでもテレビ局に圧力を掛けてもらうよう頼もうかな」

「そんなに権限が強いのか?」

「どうだろうね?詳しい仕事の内容は分からないが、…まぁ、流行り廃りだよ、ゴシップネタなんて。そして、第一私たちはなんにも悪い事はしちゃいないんだ。そんな私たちを誰が咎められる?」

「…お前は未成年だ」

「そして、君は健全に付き合おうとしてくれている」

「…キスはした」

「キス?…構わないだろ?そんなもの地上波で幾らでも流れてる。子供でも見れる環境であるというのに、私たちがキスしたくらいで騒ぐんだったら、世間はよっぽど暇だ。…無論、君が私に無理矢理キスしたという事実があるなら別だが、そんな事実はない。むしろ、一番初めにしたキスは君に何の許諾も取っていない、ただ思いが通じ合っている事が分かったからしたキスだった。それで君が世間からバッシングを受けるんだったら、私だって受けるべきだ。そうだろう?」

「そうかもしれないな」と田上は少し安心している面持ちでそう答えた。だが、タキオンはまだ少し憤りが収まらなさそうにこう言った。

「大体ね。この場合で成人男性だけを責める事の方がおかしいんだ。責任があるって言うけど、私たちを非難する人間には責任が無い。そりゃあ、君の方には私と寄り添っていく責任と言うか、当然の事があるけど、こっちにだって、君と寄り添いたい意思がある。その意思があるにも関わず全て無視して非難するって言うんだったら、あまりにも理不尽だ」

「…責任ある大人が女子高生を正しく指導して、安易に年上と付き合わないようにしろって事じゃないか?」

「それにしたってだよ。勿論、バッシングなんてまだ起こってない事であるから、全て私たちの妄想でしかないがね?あるとしたら、…本当に、小学生だったら私も何とか言うよ。中学生でもストップをかけるね。そして、現行の法の下では、十六歳以上の私とは今すぐにでも結婚していいはずだ。いいはずだよね?」

「うん…」と田上が困ったように唸りながらそう返事をした。

「法で認められているんだからしょうがない。そして、こっちには健全に付き合おうとしてくれている心優しき成人男性が居る。これの何が悪いってんだい」

「うん…」

「……まぁ、結局の所全部私たちの妄想でしかないし、全くこっちは法に守られているし、さらに君は猥褻犯じゃない」

「……」

「何か不満でもあるかい?」

「………お前を…好きになった俺は……どうなんだろうな?」

「…バカと呼ばれるのを気にしているのかい?」

「…鋭い…」

 田上はそう言いながら、微かに口角を上げた。

「…二十五歳が女子高生と結婚するのは良しか悪しか…」とタキオンは考えながら言った。「…しかし、私と結婚するときは、君は…じゃないな、私は晴れて女子高生から卒業して、…大学に進むかは…まぁ、追い追いだ」

「進路相談はもう始まっているんじゃないか?」

 田上は心配そうに聞いた。

「…まぁ、やってはいるが、…第一志望は君のお嫁さんと書いてやってもいい」

 タキオンはそう冗談めかして言ったが、田上は心配そうな表情を変えなかった。だから、タキオンも面倒臭そうな顔をしながら言った。

「私にも展望はあるが、それを全て捨てても君の妻になってもいい」

「……俺に止める権利はないけど……、どうなんだろうなぁ…?」

「ここの近隣の大学に進むのが一番多いのかな?トレーナーを志す人も居るには居るが、それなりの学力が居る。…私ならいけるがね」

「……トレーナーになるのか?」

「それは考え中だ。……現役は卒業と同時に退く。これは決定事項だ」

「…それで、俺の嫁に?」

「…なるだろう?入籍する分には問題が無いはずだ。……しかし、大学に進むとなると、…君との結婚生活は遠のくからね…」

「子育てしながら勉強は難しいか?」

「できないことはないだろうが、私としては敢えて面倒な道に入り込みたくはない」

「……どうするつもり?」

「……決定権は私になるからね…。親からも何しても良いと言われている…」

「……研究者に?」

「……私としてはあんまりそこの所に専念するつもりはないんだ。…うんざりしている感じもある…。…どうしたものか…」

 タキオンが困ったようにシーツの皺に目を落としながら呟いたので、田上はその顔に手を伸ばして、垂れ掛かっている髪の毛をそっと掬い上げた。そうしてくれた田上を嬉しそうに困ったように見つめながら、タキオンは言った。

「私にどうしてほしい?」

「……何してもいいよ」

 田上は優しく答えた。

「トレーナーになっても?」

「ああ」

「私は、君のチームに所属するよ?」

「……それは、…また妙な事が起こりそうではある」

「……まぁ、トレーナーは半分冗談のようなものだ。…思い立ったらやってやろう。…どうしたものかね…」

「まぁ、…大学をやめて俺の家で生活しててもいいよ」

「…いいだろう。…いいだろう」

 タキオンはそう繰り返しながら、暫く考え込んでいたが、やがて田上の顔を見ると言った。

「…しかし、…子供もいないし、君も居ないのに、日がな一日君の家でぼーっとしているのもなぁ…」

「…家事があるよ」

「そうか。…料理を作って、掃除洗濯…していれば暇潰しにはなるか…。しかしねぇ…」

「…家事が嫌なら俺がしててもいい」

「そうすると、私はただの役立たずになってしまう」

「適材適所だよ」

「そうだろうがねぇ…」とタキオンは、今度は難しい顔をして、ん~と唸りながら考えた。「……働くか君の嫁として専業主婦になるか…。君がそもそも人間として優秀だからね」

「そうか?」

「そうだよ。自分の仕事をしながら私の身の回りの世話までしてくれるほど優秀だ。…それとも、トレーナーというのは皆その教育を受けて、トレーナーになるのかい?」

「…まぁ、担当にお弁当作ってあげるのはあんまり居ないかもしれないけど、…皆その気になれば作れるんじゃないか?」

「じゃあ、トレーナーは私が思ってたより難しいや。担当にお弁当を作って持っていかなければいけないという項目が含まれているなら」

「まぁ、含まれてはいないけどね…」

「……進路は、…これも話し合わなければいけない問題だね…」

「今年一杯で現役を引退するって言っていたけど、最終レースはどうするつもりだ?」

 田上がそう言うと、タキオンは面倒臭そうに田上の事を睨んだ。

「…少なくとも、…有馬記念か…ジャパンカップか…」

「走るつもりはあるんだな?」

「……あんまり君も余計な事を聞いてくるねぇ…。…まぁ、仕方がないだろうが…、具体的な予定と言われてもねぇ…」

「海外GⅠ?」

「……君、これからそこの所に挑戦する気はあるのかい?香港とかドバイとか」

「……場合によったらね…」

「……海外出張かい?」

 タキオンが、少し弱弱しく言った。田上もその様子に苦笑しながら、こう答えた。

「あんまり行くつもりもないし、これから俺の一生で、俺の目の前にお前以上のウマ娘が現れ出てくるとも限らない」

「……もし…君の目の前にクラシック三冠を取ったウマ娘が現れたら嫌だなぁ…」

「…嫉妬するのか?」

「そりゃあ、…まぁ…ね…」

「クラシック三冠を取れなかったことは気にしてるんだ?」

「…まぁ、…気にしていない事もない」

「じゃあ、…秋古バ三冠でも狙ってみるか?」

「……それは…また…、何と言うかだね…」

「そこら辺を目標にしてみてもいいんじゃないか?…秋古バ三冠を獲ったウマ娘はまた少ない。そこで、クラシックのリベンジをしてみたら?」

「………ちょっと…ここでそういう話をするのはやめないか?」

 タキオンが、困り果てながらそう言ったので、田上も優しく「分かった」と頷いた。それから、不図思いついた事を言った。

「そう言えばさ…。これ言ってもいい?」

「…ダメ」とタキオンがきっぱりと言ったので、田上も少し苦笑した。

「ちょっとだけ。タキオンにそんなにダメージを与える奴じゃない。ちょっと大阪杯の前頃かな?…その時に言った事が不図気になっただけ」

 珍しく引き下がらなかった田上に、タキオンは困りながらも「しょうがないなぁ」と発言の許しを与えた。

「タキオンがさ…。…俺が弱ってた時?大阪杯前だから、ちょっと弱り始めかな?お前、――大阪杯も所詮一つのタイトルさ、みたいなことを言ってなかったか?」

「んー、……まぁ、…言っていたような気もする…」

「その時と今とで、態度が少し違うような気がするんだけど、タキオンとしてはどういう感じなんだ?」

「……それは…、まぁ…、君の気を軽くさせるための嘘と言うか…。……宝塚記念の事を言いたいんだろ?」

 タキオンは、少し怒ったような口調でそう聞いた。

「まぁ、…そうだね」

「………………」

「俺のためについた嘘?」

「………それもあるだろう。……しかしだね…」

 そう言いながら、タキオンは眉間に皺を寄せて、またシーツの皺をじっと見つめながら考え込み始めた。そんなタキオンを少しでも安心させてやろうと、田上は、手を伸ばすとその頬を指先で軽く撫でてあげた。そうされると、タキオンは目を上げて田上を見、そして、ニヤリと口角を上げると、起き上がりながらこう言った。

「まぁ、…嘘ではある。…タイトルは…、君と私の間で大きな位置を占めている。……それだけだよ…」

 田上は、そう言って起き上がったタキオンを少しの間見つめた後に、こう返答をした。

「じゃあ、…あの時大阪杯で二着になってたら?」

 タキオンは、一瞬目を逸らして、また田上を見た。

「…同じように君に縋って泣いていたと思うよ…」

 そして、「さあ、朝食の時間だ」と気を取り直したように言うと、わざとニヤニヤしながら田上の手を引っ張って、その体を起こしてあげた。田上もタキオンは元気が欲しいのだろうと思うと、その手を引っ張られた力を使って、そのままタキオンに抱き着いてあげた。タキオンは、嬉しそうにうふふと笑うと、「圭一君、好きだよ」と囁いた。田上もタキオンの小さな肩をぎゅっと抱き締めながら「俺もタキオンの事が好きだよ」と返した。

 

 朝食の場では昨日の手の傷の事を話していた。

「君、度々怪我をするよねぇ?…大阪杯の時のだったり、私が…ごねた時だったりだね…」

「ごねた時?」

「んん?」とタキオンは少し唸って誤魔化そうとしたが、到底誤魔化せる状況ではなかったので、仕方なくこう言った。

「あれだよ。…マテリアル君が入ってきた辺りの事だったかな?」

「…ああ、あれな。…お互いあんまり上手く行ってなかったときだな?」

「まぁ、…そうだ。…あの時は私も酷い事を言ったような気がする…」

「……マテリアルさんが入ってきたのが、…一回目の選抜レース辺りだから?……一月末辺りから…もう…三か月くらいかな?冬を越したよ、おい」

 田上は、少々時の流れの早さに呆れながらそう言った。

「そうだねぇ…。あの時から私は明確に君が好きになった…」

 タキオンは、昔を懐かしみながら言った。そんなタキオンを少しの間じっと見つめた後、田上が言った。

「まぁ、お前の選択は間違っていなかったような気がするね…」

「選択?」

「…俺の弱った隙を突くというか、…お前の告白の仕方?あれを告白と言っても良いのか分からないけど。…一番初めにキスした時。あれは…まぁ、俺を逃がさないというか落とすには絶好のチャンスだった。…お前だったら、もしかしたら、俺を説得できていたのかもしれないけどね」

「…私もチャンスはあそこしかなかったと思う。…単純に好きだと伝えても君は逃げようとするだろうからね。キスという既成事実は必要だった。そして、君が私の事が好きだとはっきり言ってしまった状況も」

「好きとは言ってなかったけどな」

「女性に対して――俺を一人にしないでくれ、なんて、好きと言っているのと同義の中の同義だと思うが?」

「…そうだろうな…」

 田上は、その時の事を思い出して、少々苦々しげな顔をした。そんな田上を見ながら、タキオンは嬉しそうに言った。

「そして、見事私は数少ないチャンスを掴み取ったよ。あの時、キスをする事に怯んでいたら、君とこうして談話している事は、もしかしたらなかったことかもしれない」

「……男から告白するべきじゃないのかなぁ?」

「君、あんなに弱っていたのに自分から告白しようだなんて無謀にも程があるぞ。あれは私から君に告白するしか道はなかっただろう?」

「…まぁ、…そうだろうけど、…」

「…頼りになる人間になりたいのかい?」

 田上の言えなかったことを見事言い当てると、田上はタキオンを見ながら「お前、察しが良すぎるな…」と最早呆れたように言った。

「当たり前だね。君の事なんて大概の事なら手に取るようにわかる。何回話し合ってきたと思ってる?」

「……だから、正直にならざるを得ない時がある」

 田上がそう言うと、タキオンは得意気な笑みを浮かべた。

「…それで、…圭一君、頼りになる人間になりたいという願望は結構強く持っているだろうね?」

「…まぁ、ね…」

「……これは、昨日の話の続きみたいな物だからな…。…頼り…。…君、結構頼りにはなっているよ?常に私を支えようとしてくれているから、私もそれに乗っかって寛げている」

「…それは良かった…」

 田上は、真顔でタキオンの顔を見つめながらそう言った。

「…ただ、まぁ、君が言った事も承知している。……あんまり自分を許したくもないだろうがね…。私としては、許せない事によって別れてしまうというのならば、君には自分を許してやってほしい物だよ…」

「……」

「うん。許してやってほしいと言われて許せるものなら、君はとっくにそうしている。君は元より私の事が好きなんだから。……さて、どうしようか…。……君は君のままでいて良いと思うけどね…。気を張りすぎると、双方にとって逆効果のような気もする…。……無論、もう別れる事はないだろうから、別れるに関して私たちの間で心配する事はない。…だから、状況が悪くなったところで、別れるという事は全くないわけだが、…それだからと言って、これを放っておけと言われてもだね…。むしろ、私たちの間に会話があるから別れていないと言っても良いだろうね?」

「そうかもしれないね」

 そう言いながら、朝食を口に運ぶ田上の様子を見ると、タキオンは嬉しそうに微笑んで言った。

「君の所作は可愛いもんだね」

「……子供っぽい?」

「…そんな事はないさ。…ただ、君の様子を見てると笑みが零れてくる」

「愛されキャラ?」

「…私の前でだけ警戒を解いている感覚があって良いね」

 田上は、それに、困ったように眉を下げて、口角を上げながら、またもう一口食べた。

 

 朝食が終わると、田上たちはトレーナー室へと向かった。朝食時の会話は、段々と逸れて、他愛ない会話となっていった。

 トレーナー室では、会話はやんで、二人共黙したまま考え事をしているだけとなった。タキオンが、椅子に座っている田上の上に乗っているといういつもの格好だ。それから、少し経つと、扉がコンコンと鳴ったので、考え事から覚めた田上がタキオンを抱えたまま「どうぞ」と言った。それから、――これが全然他人だったらどうしよう?と焦ったが、そんな事はなくエスが中へと入ってきただけだった。

 エスは、「おはようございます~」と小声で言って、田上を見、コクコクと許可を求めるように頷きながらそろりそろりと中に入ってきた。田上はそれを見ながら「おはようございます」と言って、エスの動向を見つめた。エスは、両側にそれぞれ四つの椅子が並んだ長机の田上から一番遠い席を選ぶと、そこに座った。それから、何か色々筆箱やら持ってきた原稿用紙やらをいじっていたが、田上の視線がやっぱり気になったようで、ある時急に動きをピタリと止めると、田上の方を見て言った。

「朝もここに来て大丈夫ですよね?」

「全然大丈夫だよ?」

 そう言った後に、マテリアルが「おはよーございまーす」と言いながら扉を開けて中へ入ってきた。そして、机の端に座っているエスを見つけるとニヤリと笑って言った。

「ああ、エスさん。ここに入る事に決まったんですか?」

「ええ」とエスはコクコクと頷いた。

「それは良かった。楽しくやりましょうね」

 マテリアルは、そう言ってから拳を握って小さくガッツポーズをとった。それから、田上の方に向き直ると、田上にも得意気にガッツポーズをして、エスの隣に座った。ただ、エスが、隣に座るマテリアルを、少し面倒臭そうに見つめたのを田上が見つけたので、こう言った。

「マテリアルさん、エスさん小説書きたいみたいだから、あんまり隣に座らないほうが良いんじゃないかな?」

「ああ、…小説ですか?」とマテリアルがエスに聞いた。

「ええ、…小説です…」とエスが答えた。そして、マテリアルが自分の原稿用紙を覗き込もうとするのを防ぐために、自分の手でその用紙をそっと覆い隠した。マテリアルは、感心した面持ちでへ~とエスの事を見ていたが、「じゃあ」と言うと、マテリアルはいつも自分が座っている、エスとは離れた席に座った。

 それから、今まで微動だにしていなかったタキオンが、田上の上で体を動かすと、その田上の顔を見ながらこう言った。

「君はバカじゃないと思うけどねぇ…」

「バカ?」

「ベッドの時の話の続きだよ。…私と結婚したからと言ってバカと呼ばれる所以は全くない」

「でも、女子高生と結婚する奴はバカじゃないのか?」

「それは全く中身が伴っていない。だって君、学歴は良いし、ちゃんと物を考える人だもの」

「物を考えてるかぁ?」と田上は怪しみながら言った。

「考えているとも。それが功を成すかは別として、私の事は一生懸命考えているだろう?そして、私の幸せを考えた結果、自分が離れたほうが良いのだろうという結論に行き着いた」

「それを頭が良いと言うのか?」

「頭が良いとも。私が言うんだから間違いない」

 田上もそう言われると、良い反論ができずに不満そうな顔をした。タキオンは、その田上の頬を撫でながら言った。

「全く君の頭は良いとも」

「……ロリコンはバカにされるだろ?」

「ロリコン?君は、私の事を身体的に未成熟な幼い子供だとでも思っているのかい?見たまえ、私の体を。制服なしでそこら辺をうろついていたら、全く大人と見分けがつかない」

「……そうだろうな…」

 田上が、タキオンの顔から目を逸らしながらそう答えると、タキオンはまたその顔を愛おしそうに見つめながら言った。

「私と結婚しても、君は何も言われないよ…」

「うん…」と田上は唸るように頷いた。

 

 それから、十分程でエスは教室に戻っていった。そこで田上は気が付いた。タキオンは、毎回チャイムが鳴ってから教室に行っているのだが、普通に順当な学生としては、チャイムが鳴る前に教室に行くのが普通だ。しかし、あんまり急かすのも可哀想なので、田上はタキオンが行くと言い出すまでは、自分の体に抱き着かせてあげていた。

 田上は、タキオンの事を――教室の中の問題児なんだろうなぁ、と考えた。元より、問題児であることに変わりはないのだが、以前は、研究研究と言っていたので、別次元の問題児のように思えた。ただ、こうして授業に遅れてくる様な問題児は、田上の学生時代にも覚えがあった。そして、田上はその部類の女子でも男子でも、問題を起こすような奴は嫌いだった。できるだけ、平穏無事に授業を終えさせて欲しかった。

――タキオンは、教室では嫌われてるのかなぁ?と思った。確かに、一匹狼の感じはあるが、まぁ、仲が良い子も居るには居る。ハナミとアルトには、田上も感謝しなければいけないのだろう。

――カフェさんはどう思っているのだろうか?同じクラスではなかったはずだが、…タキオンを邪険に扱っている節はあるが、それ程嫌っていそうでもない。…まぁ、同じクラスじゃないから、そんなに関わる事も無いのかな?

 田上はそう思いながら、タキオンの背を小刻みに指先で叩いていた。

 エスが去った二三分後にチャイムが鳴って、タキオンは少々元気をなくしたように「ばいばい」と言いながら、立ち去って行った。田上は、その背を見つめ、考え事をしながら、タキオンの背に小さく手を振ってやった。そして、タキオンが行った後にマテリアルが嬉々として口を開いた。

「エスさんは捕まえられたんですね?」

「ええ」

「あの子は結構速そうですね」

「……速いかどうかはあんまり関係ないですよ。…リリーさんも遅そうとは言えない」

 そこで、マテリアルは自分の失言に気が付いて、「ああ、すみません」と謝った。

「そうですよね。速いかどうかじゃなくて、あくまでも楽しませなくちゃいけませんもんね。そういう指導方針は私、好きです」

「だから、あんまりチーム内で比べるような発言はダメですよ?」

「結果残した時はどうするんですか?…だから、…タキオンさんとリリーさんは同じ日…ではなくて、まぁ、一日違いだからほとんど同じでしょう。一日違いでレースをするわけだから、帰ってきたときに勝ったか負けたかどちらかしてるでしょう。それで、もしどちらかが勝って、どちらかが負けたら?」

「……その時は、勝った方には――よくやった、って言って、負けた方には――よく頑張った、って言ってやればいいんじゃないですか?二人の気持ちを尊重する方が重要ですよ。無理に負けた方を励ましても、本人はそんなに落ち込んでない場合があるし、勝った方も本人以上に喜ばなくて大丈夫です。走ったのは本人なんですから」

「でも、タキオンさんは彼女でしょう?」

 彼女だから喜んじゃうんじゃないですか?とマテリアルはからかうような目で語った。

「そりゃあ、タキオンが勝てば喜びますけど、リリーさんが勝っても同じくらい喜びますよ」

「それはそうでしょうけど、タキオンさんが勝ってリリーさんが負けた場合は?」

「そりゃあ、勝った本人以上に喜ぶことは…、以前はそうだったかもしれませんけど、今は飛んで喜ぶような元気はありませんよ。…こっちはリリーさんも頑張ったねって言ってあげないといけないんですから」

「…でも、そうしたらタキオンさんが嫉妬しますよ」

 マテリアルの的確でいやらしい指摘に、田上は、鬱陶しそうな顔をした。

「それはですね…。…今二人で話し合ってる最中ですから、…あんまり口出ししないで貰えると嬉しいかもしれませんね…」

「分かりました」とマテリアルは、ニヤニヤと小バカにしたような面持ちで頷いた。田上は、それに――面倒だな…と改めて思った。

 

 その日は、もうそれ以降特色するべき事はなかった。田上とタキオンは、堂々巡りで終わる議論に花を咲かせたり、咲かせなかったりしながら、その日を終え、次の日の水曜日も終え、木曜も終え、そして、金曜になった。

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