ケロイド   作:石花漱一

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三十四、進路①

三十四、進路

 

 金曜になると、すっかり常連となったエスが、長机の上に原稿用紙を広げながら、抱き締め合って座っている田上とタキオンをぼんやりと見つめていた。それから、唐突にこう聞いた。

「なんで二人は付き合っているんですか?」

 田上は唐突に質問されたので、「俺?」と聞き直した。無論、田上とタキオン以外に、このトレーナー室で付き合っている男女はいない。エスは「そうです」と答えた。

「なんでお二人は付き合っているんですか?」

「……そりゃあ、……付き合っているのは…」と田上が返答を考えながら、自分を抱き締め続けているタキオンを見つめた。

 タキオンは、田上の首筋に顔を埋めて、その顔を見えなくさせていたが、田上が窮しているのは分かっていたので、「君が好きだから」と田上に聞こえる程度の小声で言った。田上はその声を聞きながら「まぁ、二人共お互いが好きだったから…」と答えた。その答えを聞くと、エスはつまらなそう長机の上に自分の体を伸ばした。それから、こちらを見てきている田上にこう言った。

「いや~、今書いてる小説があんまり上手く行かないんですよ~」

「へぇ?」

 二人が自分を挟んで会話しているのをマテリアルが、興味深そうに自分のスマホから目を上げながら見つめていた。

「私の小説読んでくれませんか?厳しめの評価で良いので感想もらえるとありがたいんですが…」

 田上が気軽に「いいよ」と答えると、エスは「ここに在るので全部じゃないので、ちょっと寮まで取りに行ってきます」と言って、トレーナー室から出て行った。

 それから、またトレーナー室に戻ってくると、もう教室の方に帰らなければいけない時間だったので、エスは、そのまま田上の机の上に、それなりの量の原稿用紙を置いて立ち去って行った。そして、タキオンもチャイムが鳴ったので、そのまま田上にキスして去って行った。

 田上は、これも仕事の一環だろうという事で、原稿用紙を何枚か手に取ってみた。そこで、マテリアルが声をかけてきた。

「どんなもんですか?」

「まだ読んでないから分かりません」

「ああ、長さの方です。原稿用紙何枚くらいですか?」

「ああ、…えー」と言いながら、田上は右端に振られた番号を見た。そして、一番下に敷かれている原稿用紙の番号を見てみると、『七十五』と書いてあった。それをマテリアルに報告してみると、マテリアルは早速計算を始めた。

「えー、四百字原稿で七十五枚ですから…、ああ、丁度三万文字ですね。…それより少ないかもしれませんが、…へー、三万文字ですかぁ…」

 マテリアルは、その容量の程度を、あまり具体的に掴めていなさそうな声で言った。

「凄いんですかね?」

「……まぁ、…頑張っているんじゃないですか?」

 そう言いながら、田上は一枚目の一番初めに書いてある題名に目を留めた。それは、少し字を消した跡が見える所の上に『幽霊』と書いてあった。田上はそれを無頓着に読み進めた。

 話自体は、まぁ、頑張ってネタを考えて書いたのだろうな、と思える出来だった。プロの作家には及ばない、高校生が考えて作ったような出来だった。これを面白いと評価するには、まだあと二歩も三歩も足りないだろうが、まぁ、プロの方にも、話自体があんまり面白くない人も居るには居る。プロになれるかなれないかで考えたら、それはもう運だろうが、面白いかそうでないかで考えたら、あんまり大した出来ではないのは間違いなかった。

 田上は、できるだけこの小説の良い所を探したかったのだが、どこまで行っても、高校生が頑張って書いた小説というイメージから脱却することができなかった。それで、――自分が、高松信夫などの歴史に残る様な偉人と、そこら辺の高校生を比べてるからいけないのだ、と考えて、またその小説の出来を考えてみた。すると、まぁ、少しは面白くなったような気がしたのだが、それでもそれでも、あんまり面白くないのは変わらなかった。

 『幽霊』という題名だけを見れば見栄えは良いが、内容は男と幽霊が恋に落ちて奔走するコメディに近い話だった。これは田上の偏見だから完全にとばっちりではあるが、『幽霊』という二文字を見た場合、おどろおどろしい感じを抱き、ホラーかもしくは、それっぽい純文学なのかと思ってしまう。これは完全に偏見なので、エスにその事を告げたら逆に怒られるだろう。それにしたって、エスが「上手く行かない」と言うのも頷けるような内容だった。エスだって、薄々この小説が面白くない事に気が付いているかもしれないから、「上手く行かない」と言っているかもしれない。

 田上は、脳内で感想をまとめて、再び休み時間で戻ってきたエスにこう言った。

「まぁ、好む人は居るのかもしれないけど、あんまり俺好みじゃなかったね」

 ここでアドバイスをあげてしまうと、鬱陶しがられてしまう可能性があるので、田上はもう少しこうしたらいいというのは言わなかった。自分は元から小説の専門家ではないのだ。

 エスは、田上の感想を聞くとがっかりしたようにため息交じりに「そうですよねー」と言った。その後に、タキオンがトレーナー室に入ってきた。どうやら、タキオンの教室よりもエスの教室の方が近いようで、こういうことが起こった。タキオンは、自分の彼氏と喋っている女を警戒するような目つきで見ながら、田上の膝の上に座ろうとしたが、エスが目の前で見ていると言うのにそれをするわけにもいかず、田上とエスの二人の顔を交互に見つめた後「何の話をしているんだい?」とぶっきらぼうな態度で聞いた。

 田上は、エスの小説はあんまり触れられて欲しくない話題だと思ったので、話す話さないの判断は本人に任せるために、エスの方を見た。エスは、特に自分の小説の深層に触れてこない限りは大丈夫だと思ったので、タキオンの質問には簡単に答えた。

「私の小説の話です。さっきの時間に感想欲しいって言ったの聞いてませんでした?」

「おや、聞いてなかった」

 タキオンが、少々敵対心強めに言葉を返したので、田上は内心で冷や冷やしていたが、特に問題になる様な言動は、その後飛び出してこなかったので、安心した。タキオンは、田上の横に立ったまま、彼氏の方を見下ろして聞いた。

「それで、どんな話だったのかな?」

 これも言っても良いか迷う質問だったので、田上はエスの方を見た。これは、エスも少しは嫌だったようだが、こう答えた。

「幽霊と一人暮らしの男性が恋をする話です」

「へぇ」とタキオンは感心した声を出した。「私にも読ませてくれないか?」

 そう言いながら、タキオンは、田上の机の上にまだ置いてあるエスの原稿用紙に目を落とした。しかし、エスはそれをひょいと掴むと、自分の方に引き寄せた。

「駄目ですよ」

「ええ?圭一君は良かったのに?」

「田上トレーナーは良いですよ。…タキオンさんはどうですかねぇ?」

 エスは、いかにも嫌そうな目付きをしてタキオンを見た。これは、タキオンも少しショックを受けた顔をして、「圭一君が良くて、私がダメなのかい?」と再び聞いた。

「タキオンさんは、……少しバカにしてきそうですもん」

「ええ!?しないよ!しないとも!そうだろう?」

 最後の言葉は田上に向けられたものだった。田上もタキオンが無闇矢鱈に人をバカにするとは思えなかったが、田上と違ってあんまり発言に気を遣わなかったりする。そこの所を警戒されたのかもしれない。

 そう思いつつも、田上は聞かれたことに対して「そうだよ」とだけ答えた。エスはそれでもタキオンを怪しむのをやめずに、最終的には「まぁ、タキオンさんは同年代だから駄目です」という結論に落ち着いた。

 タキオンは、これに大いに不服そうで、話が終わって田上の膝に落ち着ける状況になっても、田上の膝の上で、田上に向かってずっと文句を言っていた。そして、エスはウマ耳にイヤホンを突っ込みながら、長机に突っ伏して目を瞑っていた。

 こうしてこの休み時間も終わっていった。

 

 次は、マテリアルがエスの小説を読ませてくれと頼んだので、エスは、悩みつつも読ませる許諾をした。それで、次の時間はマテリアルが読んでいて、読み終わった後に田上の方を向くと、困った顔でこう言った。

「これはどう言ったらいいんでしょうかね?」

「面白かったですか?」

「…いや、……あんまり大人二人が揃って面白くないって言うのもちょっとおかしいですよね?」

「でも、嘘は見破られるんじゃないですか?」

「そうですよね…。…でも、お世辞でも言われたら嬉しい事ってありますからね…。…どう言ったらいいんだろう?」

 そう考えながら時間は過ぎて、休み時間となった。エスは、早速トレーナー室へ訪れると、立ったままマテリアルに本の感想を尋ねた。マテリアルは、できるだけ悪い表現を使わないように気をつけながら答えた。

「ああ、あの小説ですね。…私、設定は結構良いと思いましたよ?まぁ、話が途中でしたから何とも言えないんですけど、一旦最後まで書いてみたらどうですか?」

 マテリアルにそう提案されると、エスは困ったような面倒なような顔をして、ため息まじりに言った。

「最後まで書ける胆力があれば良いんですけどね…。どうも、…面白かったですか?」

「面白いには面白かったですよ?」

 マテリアルは、お世辞を使ったが、エスは納得のいかない表情をした。

「本当ですかぁ?…面白いんだったら書いてみても良いんですけどねぇ…。どうも、…先が続かないんですよね…。…あれ、あとでネットの方に上げてみる予定なんですけど、…反応どれくらい貰えますかね?」

「…フォロワーってどのくらいいるんですか?」

「ちょっとです。百三十くらいだったかな?」

「じゃあ、…五十人くらいは反応してくれるんじゃないですか?」

「いやぁ、マテリアルさん、ネットを舐めちゃいけないですよ。百三十って言っても、十人かもう少しはボットですし、その内の百二十人も別に私のファンじゃないって場合があります」

「へぇ…。…他の小説は上げてないんですか?」

「…まぁ、ぼちぼちです…。評価あるのもあれば、ないのもある感じです」

「ほぉ…。…じゃあ、私には分からないかも」

「田上トレーナーは好みじゃなかったんですよね?」

 田上は、この話題をしっかりと聞いていたが、急に話を振られて驚いた。膝の上には、もうすでに、エスとマテリアルの会話の間に、トレーナー室に入ってきたタキオンが座っていたので、身動きができないままに「まぁ、あんまり俺の好みではなかったね。…他の人がどうかは分からないけど」と言った。その後に、タキオンが他の女との会話に嫉妬するように、田上の首を手でそっと触った。

「そうですよねぇ…。あれを最後まで書いて面白い物になると思いますかね?」

「それは書いてみないと分からないんじゃないですか?」とマテリアルが言った。エスは、その言葉に自嘲気味な顔をした。

「どうでしょうかねぇ…?…うーん…」

 唸りながらエスは、マテリアルの横に座って、長机の上にぐでんと上半身を伸ばした。

「…そもそも、飽きちゃったんですよね…」

「…なんで、エスさんは小説が書きたいの?」と田上は唐突に聞いた。タキオンは、その後に田上の耳たぶを触り始めた。だから、田上は鬱陶しそうに頭を振った。それでも、タキオンは耳たぶを触るのをやめなかった。

「なんで?……うーん………、小説家になってがっぽがっぽ稼ぎたいからですかねぇ…?」

「レースでそれをしようとは思わないの?」

「うーーん………、まぁ、GⅠを取れるようなウマ娘じゃないってのは分かってます」

「いけるかもしれないよ?」

「…そうかもしれないですけど、……走るのは本当に…あんまり本気でやりたくはないです。確かに、好きは好きなんですけどね…」

「じゃあ、エスさんが求めているのはお金じゃないんじゃないかな?別に、小説家にならなくてもお金は稼げるし、トレーナーっていう職もある。走るのが好きだったらね」

「そりゃあ、良いそうですけど、…トレーナーって頭が良い人がなる職業なんでしょう?」

「中央のトレーナーは、資格を取るのにある程度の学力は必要だけど、トレーナーになるだけだったら、地方の方の資格を取れば、まぁ、エスさんのテストの成績は、こっちはあんまり知らないけど、地方くらいなら頑張ればいけるんじゃないかな?」

「そりゃあ、……頭が良い人には悪い人の事は分からないでしょうよ」

 ここで少し空気が悪くなったのを田上は感じたので、話題を少し変えることにした。

「……じゃあ、小説家になってがっぽがっぽ金を稼げたとして、その金で何かしたい事とかはあるのかな?例えば、車を買いたいとか、家を買いたいとかあるけど…」

「うーん……、…ペットは買ってみたいですねぇ…」

「ペットは…、まぁ、それなりのお金があれば買えるんじゃないかな?がっぽがっぽ稼いでまで買いたいのかな?」

「……うーん……」

 エスの反応があんまりよろしくないので、田上はここで迷った。あんまりエスを追い詰めすぎても良くない。対話自体を拒まれてしまえば、後のコミュニケーションが難しくなる。そして、知り合ってまだ日も浅い。踏み込むべきかそうじゃないか選択すべきだが、…田上はやはり対話を続けることを選択した。

「んー、…エスさんがお金を稼ぎたいって事を否定するわけじゃない。これは、本当にそうなんだけど、…お金って結局使う所が必要じゃないかな?勿論ね?生活の為に定期的なお金が必要だったりするけど、まぁ、それなりの仕事に就いて、それなりに贅沢すぎない生活をしていれば、生活はある程度できるわけだよ。寒さをしのげる部屋があれば、衣服もあって、食事もある。あんまりブラックじゃない企業に勤められれば、普通に暮らすことができると思う。…つまり、無理にがっぽがっぽ稼がなくても、暮らしは充分に成り立つって事だ。…分かるかな?」

「うーん」とエスは、机の上に体を伸ばしながら、唸るように頷いた。あんまり良い兆候ではない。田上の話が頭の中で処理されているのかどうかも怪しい。所詮大人の戯言と思われているのかもしれない。こういう女子高生に何て言ったらいいのだろうか?と困りながら、田上は、遂に耳の穴に指を伸ばしてき始めたタキオンの頭を見た。それから、また長机で体を伸ばしているエスの方を見ると言った。

「……エスさんは、お金に価値があると思っているのかな?」

「……あるんじゃないですか?」

「でも、値段を付けられているのは、『物』だよ?『商品』だよ?」

「……はい…」

「……俺が言いたいのは、…お金自体に価値は無いって事だね。…勿論、円安とかドル高とか言われるけど、人の認識として、商品があって、その後にお金が付いてくるんじゃないのかな?需要と供給はもう習ったでしょう?…そしたら、同じ商品でも状況によって、値段が変わるという事も分かると思う。…分かったかな?」

「………でも、……お金があれば、なんでも解決できませんか?」

「そりゃあ、お金があればほとんど困る事はなくなる。好きな本だって、迷わずに幾らでも買えるかもしれないね。…だけど、そうした時に、本当に自分が欲しかったものは分かるかな?」

 そう言ったところで、田上は遂に耐え切れなくなって言った。

「ちょ、ちょっと待ってね?…タキオン、お前耳を触るのをやめろよ。せめて耳たぶにしてくれ。穴はやめろ。話しにくくてしょうがない」

 そして、話をまた元に戻した。

「えー、…エスさんの目的は小説家になる事なのかな?それとも、がっぽがっぽ金を稼ぐことなのかな?」

「……小説家にはなりたいです…」

「じゃあ、がっぽがっぽ金を稼ぐことは違ったわけだ」

「……はい…」

「………小説家で何か好きな人は居る?俺も多少の本は読むけど…」

「………勝俣与太郎と、……高松信夫と、……明日野小川さん……、J.R.トンプソン…ですかね…」

「ああ、高松信夫は俺も読むよ。エスさん何が好きとかある?」

 そう聞かれると、エスは気怠そうに身を起こして田上を見ながら言った。

「んー……、『無花果の木』ですかね?…あの無花果の木の周辺で起こる物事の描写が面白いです」

「ああ~、それいいよね。俺も好きだ」

「田上トレーナーは何が好きなんですか?」

「俺は~、『沢下り』だね」

「ああ~、私もそれ好きです。良いですよね~。高松信夫の自然への造形と言うか、こう~…自然の儚さと雄大さを一緒に感じれるような作品。…分かりますかね?」

「全然分かるよ。いいよね~。…J.R.トンプソンの『閉じられた物語』も読んだことあるよ」

「本当ですか!?いいですよね!あの作品も!いいですよね~。ファンタジーの中のファンタジーって作品です」

「うん。滅茶苦茶面白い」

「本当に面白いです」

 ここで、タキオンが田上の首筋に頭を擦りつけてきた。これは、甘えていると言うよりかは、エスとの話で盛り上がり過ぎたため、タキオンが嫉妬してきたのだろう。大分、主張するように強く頭を擦りつけてきている。それでも、田上とエスが好きな小説の話に花を咲かせていると、今度はむくりと体を起こして咎めるように田上の顔を見つめた。

 そこで漸く注意はタキオンの方に向いた。しかし、タキオンは何も言わないし、田上も「何?」と聞いた以外は口を開かなかった。

 タキオンは、結構怒っているようだったが、田上の顔を眉を寄せたまま何も言おうとしなかった。それで、田上が、タキオンと見つめ合わせていた目を一瞬だけ逸らすと、タキオンは田上の顔をがっしりと掴んで、その唇にキスをした。田上が、タキオンの事を撥ね退ける事もできずに、手だけを優しく落ち着かせるようにタキオンの肩に置いていると、エスが「うわっ」と言う声が聞こえた。それに、マテリアルが呆れた様にため息を吐くのも聞こえた。

 今回のキスは長かった。田上とタキオンがキスをしている裏で、エスがマテリアルに「これ、帰っても良いんですかね?」と質問する声が、静かな部屋に小さく響いた。田上は、――申し訳ないなぁ、という気持ちを抱きながら、エスが静かに扉を開けて部屋から出て行く音を聞いていた。そして、チャイムが鳴った。チャイムが鳴ってもタキオンは暫くキスをやめなかった。田上は、ひたすらにタキオンをなだめるために、その肩をしっかりと大丈夫だよと掴んでいた。

 チャイムが鳴ってから一分ほど経った後にタキオンは、唇を離し、悲しそうな顔をして言った。

「私以外の人に好きな物を話さないでくれ」

「たかが小説だよ」

「されど小説だ。君が好きな物を話したいんだったら、私も君の好きな小説を読むよ」

「タキオンは、充分俺と好きな物の話をしてくれてるよ」

「…私以外にしないでくれと言っているんだ。…こうなるから、私は新しい人間をスカウトするのは反対だったんだ」

「…抱き締める?」

 田上がそう言いながら腕を広げると、タキオンは、悲しげな顔に少しの嬉しさを滲ませた。

「ハグで誤魔化そうとするなんて悪い彼氏だ」

 タキオンは、そう言いながらも、田上の体に抱き着いて、その肩に頭を落ち着けた。

「……大丈夫か?……授業はどうする?今回は休む?」

「休む…」

 タキオンがそう言うと、田上は少し残念そうな顔をしたが、声ではしっかりとタキオンを安心させるように「うん」と頷いていた。

 それから、タキオンを落ち着けるために、その背をぽんぽんと叩いていたが、ある時、こう言った。

「俺も……ダメだなぁ…」

 タキオンは何も答えずに田上の体に寄りかかり続けた。田上も、その後二三分は口を利かなかったが、またこう言った。

「タキオンは、……タキオンは、俺の事が好きなんだろ?」

 同じ部屋にマテリアルが居るので、できるだけ小さな声でそう聞いた。タキオンは、当然の如く「好き」と呟くように答えた。

「………俺にお前の命は重いよ…。…自分の命だけでもままならないのに…」

「……」

「……はぁ……」

 田上のため息で、部屋に重苦しい空気が流れた。そこでマテリアルが言った。

「……あなた方って、卒業したら入籍するんでしたっけ?」

「……はい」と田上が、鬱の様に表情を動かさずに答えた。

「タキオンさんは、大学に行くんでしたっけ?」

「……悩んでる所です…」

「…どこにもいかないで、田上トレーナーと結婚して、無職になるかという事ですか?」

「…そんなところです」

「……その選択は、まぁ、はっきり言ってしまえば、普通じゃないですよね」

「そうですよねぇ…」

「…そこを田上トレーナーがどう支えてあげるかですか?」

「……右に行こうにも左に行こうにも、どちらかにしろ、悩んでる所です…。まぁ、あと少しくらいの時間はあるはずです」

「進路相談ってどんなもんですか?」

「…もう始まってるそうです」

「…先生にはどう言うつもりでしょうね?もし、行く先が結婚って言うんだったら。……タキオンさん、どうするつもりですか?」

 タキオンは、何も答えずに、ただ、田上に庇ってくれと頼むように、頭を少し強く擦りつけた。だから、田上が代わりの応えた。

「…これも二人で相談している事です。決めないといけない時になったら決めます」

「……私は、…二人のその態度が気に食わないですね。どちらにしろ、あなた方二人の問題は、チームの問題になるんですよ?あなた方が安定しなければ、チームが迷惑を被るんですよ?」

「……できるだけ影響は与えないようにします」

「じゃあ、この部屋でキスは一切しないように、タキオンさんに言ってもらいたいところですね。私たちの前で絶対にキスをするなと。こっちは気まずくなるんですよ。目の前でキスを突然おっぱじめられると」

 マテリアルは、半ば切れ気味にそう言った。田上は、申し訳なさそうな顔をしながら言った。

「できるだけそう言っておきます」

 その言葉を聞くと、今度は、気に入らなそうな顔をマテリアルはした。

「……ちょっとここらで、三人で話し合いませんか?私だってもう付き合いは、三か月?くらいはあるんですから、仲間外れはダメです。一緒に大阪杯を勝ったんですから」

「……だって。…タキオン」と田上は、自分の身を縛っているタキオンを少し揺らして聞いた。

 タキオンは、明確に首を横に振って、マテリアルとの話し合いを拒んだ。これは、マテリアルにも見えていたから、マテリアルは眉を寄せると田上に向かって言った。

「まぁ、少なくとも、あなたはもう今度という今度は、話してもらわないと駄目ですよ」

「…何をですか?…」

「……タキオンさんについてです。タキオンさんとあなたの関係と言ってもいいでしょう。あなた方二人が悩んでいるんだったら、私だって当然、あなた方二人の一番身近に要る人物として相談を受けてもいいはずです」

 田上は、真っ直ぐに見つめてくるマテリアルの目に耐え切れなくなって、少し目を逸らしてから曖昧に頷いた。

「まぁ、…そこじゃ少し距離間ありますし、タキオンさん下ろして、一旦こっちに来ませんか?」

 マテリアルはそう言って、自分の目の前の席を指差した。ただ、田上はこの提案に苦々しげな表情をした。タキオンを下ろすと言っても、この状況ではそう簡単に下りなさそうだったからだ。それでも、田上は、タキオンの方を優しく叩いて「タキオン?」と呼び掛けてみた。今度も明確に首を横に振られた。そして、そのままむくりと体を起こすと、マテリアルの方を不機嫌そうに振り返って言った。

「私たちの事に首を突っ込まないでくれ。こっちだってしっかりと話し合っているんだ。今更、君が横入りする必要なんてない。…邪魔だよ」

「邪魔だよぉ?それは、こっちの台詞ですよ!私に邪魔だよってあなたが言う権利があるんでしたら、私にはもっとあります!ここでキスするなって言ってるんですよ!あなたが、授業に出る前にちょこっとキスするのだって、私は渋々目を瞑ってあげてるんですよ!あなたが!授業に出るのが!大変だろうからと思ってね!」

 タキオンは、切れ気味に熱弁したマテリアルを鬱陶しそうに見つめた後、田上を見た。田上は、問いかけるようにタキオンの事を見つめていた。タキオンは、それに少し申し訳なさそうな顔をしたが、次には、田上の首に抱き着いて顔をその首筋に埋めてしまった。

 そして、田上とマテリアルが顔を見合わせることになると、マテリアルが立ち上がって「私が近づいた方が良いですね」と少し苛つき気味に言い、田上に近い側のパイプ椅子を引っ張ると、少し田上に近づけて、その上に足を組んで背もたれに寄りかかって、偉そうにしながら座った。

「タキオンさんの行く先はどうするつもりです?…卒業と同時に引退で良いんでしたっけ?…そこら辺の予定は特に異議はありません。結婚だって、お二人が幸せにやれて、私がタキオンさんのウエディングドレス姿を直に見れるんだったら、文句はありません。……田上トレーナーはまだ自信が無いようですが、これからタキオンさんと一生を過ごすという事の覚悟はありますか?」

 マテリアルがそう言い切るか、言い切らないかの内にタキオンは急にもぞもぞと動いて、田上から立ち上がった。それから、田上の顔を一瞬だけ見ると、そのままスタスタと無言のまま扉の外へ歩いて行ってしまった。これは、どうするべきか迷って、田上はマテリアルの方を見た。タキオンの狙いは明らかに話の中断だった。マテリアルは、少しの間黙って眉を寄せ、タキオンが去った扉を見つめていたが、やがて田上の方を見ると言った。

「恋人にするには、少し重すぎないですか?」

 田上は、首を少しだけ傾げて「そうでもないですよ」と答えた。これには、マテリアルもどうしようもなさそうに微笑み、「どうぞ追いかけてください。それで、出来れば回収して連れ来てください。でも、別に、私たち二人ならまた後ででも話ができるので、連れてこなくても良いです」と言った。だから、田上はすぐに立ちあがると、小走りになってタキオンが去った廊下を探しに行った。

 

 タキオンは、案外すぐ近くの階段の段に座って待っていた。田上がそれを見つけると、座りながら「遅い」と文句を垂れた。田上は、「ごめん」と軽く謝りながら隣に座るとこう言った。

「マテリアルさん、お前のウエディングドレス姿が見たいってよ」

「そりゃあ嬉しい限りだ」とタキオンは、階段の下の方に視線を送り続けながら言った。

「俺たちの結婚式まで予定立ててくれてるんだから、案外良い人だな」

 これにはタキオンは何も答えなかったので、田上は次のこう提案した。

「渡り廊下の方に風にあたりに行かないか?ここ、廊下だから少し人の耳も心配だし…」

「……今更人の耳が心配かい?」とタキオンは頑なに階段の下を見ながら不機嫌そうに聞いた。田上はここで選択を迫られたような気がしたが、よっぽどの事を言わない限り平気だろうと思うと、今までの調子は変えないで言った。

「…人の耳も心配だけど、俺、渡り廊下で話したくて。外で話す方が好き。こうやって階段で話すよりも」

「……じゃあ、キスしたまえ」

「…いいよ」

 田上はそう答えたが、タキオンはこちら側を見ようとしなかった。だから、田上は少しの出来心の為に「タキオン」と言いながらその頬をぷにっとつついた。途端に、不機嫌そうに階段の下を見つめていたタキオンの目が和らいで、口の端が上がった。そして、タキオンもこれ以上は耐えられないと思うと、田上の方を微笑みながら向いた。

「したまえ」

「…じゃあ」と田上が言うと、タキオンの右頬に自分の左手を添えて、軽く数秒くらいキスをした。そして、唇を離すと、タキオンが「好き」と小さく吹き消されるような声で言ってきたので、田上も「好き」と囁いた。それから、二人は三秒ほど見つめ合ったが、田上がすぐに気を取り戻すと「行くよ」と優しく言って、立ち上がった。タキオンも彼氏が行ってしまうのならば仕方がないので、自分も立ち上がって渡り廊下の方へと行った。

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