暫く、タキオンが田上の肩に安心して寄り掛かったまま時間が過ぎたが、やがて、田上が「よいしょ」と言いながら立ち上がり、そのまま、渡り廊下の石の塀の上から校庭の方を見た。
タキオンは、自分を置いて立ち上がってしまった田上を見上げながら、じっと黙っていた。田上は、一通り校庭の全貌と、そこに並んでいる数十人くらいの生徒たちを見回した後、タキオンの方を見下ろすと言った。
「お前も立ち上がって見てみれば?良い風が吹いてるよ」
田上の前髪は確かに気持ちの良さそうな初夏の風に吹かれて、さらさらと流れていた。タキオンは、数秒田上の事を見つめていたが、やがて、無言のままに立ち上がって、自分も田上と同じ校庭の方を向いた。確かに良い風が吹いている。少々強張った体を解してくれそうな風だ。
それから、タキオンは校庭に体育座りをして並んでいる生徒たちの列を見た。その中に見覚えのある長い黒髪がある。恐らくタキオンと同学年の子達がいる授業であるから、その黒髪の子はマンハッタンカフェで間違いないだろう。カフェがあそこで行儀よく体操服を着て、体育座りをしていると思うとタキオンには少し可笑しかった。そんな中で、田上がタキオンにこう聞いた。
「お前は俺の事を良く知ってるだろ?」
「ん?うん」
「…でも、俺はあんまりお前の事を…知ってるって言えば知ってるんだろうけど、お前の知らない所って、もっとあるような気がするんだよね」
「うん」
「…だからと言って話を始めるのもあれなんだけど、…お前の話をもう少し聞きたいなぁって。…教えて?」
田上がそう頼むと、タキオンも流石に苦笑した。
「教えてと言われてすぐに話し出せるような私じゃないよ。 何が知りたいんだい?私が答えられる範囲だったら教えてあげるよ」
「ん~…、お前の好きな色は?」
「…好きな色…。…あんまり色で物を揃えるという事はしないが、…強いて言えば、…白か…青系の色か…」
「ふ~ん」
「そういう君はどうなんだい?何色が好きかな?」
「俺は、…黒かな?」
「うん。君のは分かりやすいね。君の物は黒系の物が多いし、服も黒を好んでいる」
「まぁ、そうだろうな」
「…次の質問は?」
「……うーん…、んー……、何があるかなぁ?…俺の事好き?」
「好きさ。今までに何回言ったと思ってる?」
「何回も言われてる」
田上は、少しニヤケてそう言いながら、タキオンから顔を逸らして目の前に広がっている景色を見つめた。
「うーん……、何があるか…?…お前の小さい頃の話を聞かせてよ。お前結構多才だし、習い事も結構やってたみたいだけど、具体的に何をやってたの?」
「うーん、…まぁ、短期間のもあるが、…習字、そろばん、水泳、体操、ピアノ、ジュニアレース、柔道も短期間だがやっていた。…あとは、…ああ、プログラミング、英会話、ダンス、バスケ、バレーボールも短期間、…確かそのくらいかな?……恐らく…、まだあったかな?……まぁ、思い出せないや。まぁ、それ以外でも私は器用だから結構こなせるよ」
田上は、想像以上に出てきたタキオンの習い事に少し驚きながら言った。
「お前…、そんなにやってて怪我しなかったのか?」
「怪我は、…二三度はしたが、元の運動神経が良い。足の事は君も知っての通りで、それは幼い頃から分かっていたから、大体は適当にやっていたね。柔道で結構危ない怪我をしそうになったから、そこではすぐにやめた」
「お前、……エリートだな…」
「君もここに居る時点で充分にエリートさ。君は何の習い事をやってたんだい?」
「俺のはそんなに多くないよ。…学習塾に、ピアノに、サッカーに、ソフトボールに、…水泳に、…えー、…絵の教室に行ったんだけど、どうにもつまんなくて半年くらいでやめたかな。そして、卓球、将棋は…見学に行ったんだけど、やめたんだったかな?…あとは、……ないか?一回合唱団に入れられそうになったけどそれはぎりぎりで回避したし、……そのくらいかな?…習字もだね。これも半年くらいだけど」
「それはどうだった?楽しかったかい?」
「んー」と田上が首を傾げていると、タキオンが質問を重ねてきた。
「何割くらいだった?楽しさ何割、つまらなさ何割」
「んー…、…まぁ、…学習塾は確実につまらなさ十割なんだけど、…まぁ、…結構やめたい奴も多かったからなぁ…。…まぁ、…八九割つまらないのが多かったかな?…友達も居たから多少の気の紛れもあったけどね……。そんくらいかな…」
田上がぼんやりとしながらそう言うと、タキオンは、唐突に田上の頭に手を伸ばしてきて、その頭を撫で始めると「今までよく頑張ってきたねぇ」と言った。田上は、そう言うタキオンを見つめながら恥ずかしそうに口角を上げると、「撫でるのはやめろよ」と言った。それに対して、タキオンは首を振った。
「ううん。これくらいの事はしてあげないと君が報われないよ。勿論、今君と私がここでこうして話していられるのは、君がつまらない習い事を一生懸命やってきたってのもあるかもしれないが、その人生の八割をつまらないことに捧げた君は、本当に頑張ってきた人間だから、何度でも何度でもこうして頭を撫でてあげなくちゃ。君を褒められる人間は周囲にはあんまり居ないようだから、彼女である私くらいは存分に褒めてあげなくちゃね」
「人生の八割もじゃないよ…」と田上は、相変わらず撫でられている事に照れながらそう言った。
「いいや、楽しめるかもしれなかった時間を八割も奪われたんだ。君は褒められて当然の人間だよ」
「……お前、……本当に変わってるな…」
「おや?またキスしてほしいのかい?」
タキオンは撫でるのをやめて、田上との距離を詰めた。田上は、もう今度は後には引かないでタキオンの顔を見つめたまま、「できるだけ優しく頼むよ」と言った。それから、校庭に居る人たちからキスをしている所を見られたくもないので、石の壁際にまた座ると、同じようにキスをした。
そして、存分にキスをした後に、田上はタキオンの顔を見ながらこう言った。
「……お前の好きな人って?」
「圭一君だよ」
タキオンがそう答えると、田上は顔を逸らしながら「変わってる」とまた言った。そして、またキスが始まり、落ち着くまでには暫くかかった。田上も懲りずに「変わってる変わってる」と繰り返していたので、二人共やめ時は捉えられなかった。田上がようやく「変わってない」と言い始めてから二人は落ち着いてきた。
それから、また石の壁に寄りかかると田上は言った。
「実際問題お前はどうする?俺の上位互換が現れたら」
「今の君と居るのが幸せだと言っただろう?」
「……お前は、……。お前を好きになってくれる人が居たら?お前が俺と付き合ってるのなんてどうでもいい。俺と付き合ってくれないか、って言うイケメン俳優が現れたら?」
「ふぅん?…まぁ、そんな人間選ぶ余地もないね。君との生活の方が心地良いもの」
「………お前押しに弱そうだからな…」
「なに~?彼女の事を信じてやれないって言うのかい?そういう君はどうなんだい!美人女優に詰め寄られてみろ!断れるのかい!」
「……どうだろうな…」
案外素直に言葉を発しなかったので、タキオンは少し神妙な顔で田上の顔を見つめた。
「そこは断るってはっきり言いたまえよ…」
「………酒の席だったらどうか分からない…。…まぁ、素面だったら、普通に断る。…………これ……言ってもいいのかなぁ…」
田上はそう言いながら、頻りに手を開けたり閉じたり、指先を掻いたりしてモジモジさせていた。
「なんだい?」
「…………」
田上は、困ったように前髪を掻き上げた後、少々泣きそうな面でタキオンを見た。タキオンは、田上を憐みながらその顔を見返した。
「…言いにくいのかい?」
「……いや、…………」
「嫌いになんてならないよ?」
タキオンがそう言うと、田上は、困った顔で、タキオンの事を見つめた。
「………考察。…ただの考察。…俺の不安だと思って聞いてくれ。………別れたいだなんだって言ってるけど、……俺はお前に別れてもらうと非常に困る…」
「…大丈夫だよ」
タキオンは、不安そうに自分の手をガリガリと掻いている田上の手をそっと撫でながら言った。
田上はその仕草に少し安心した心地になって、浅くなった息を整えながら言った。
「………お前は、……俺が、お前の事を好きだから、お前も、俺の事を好きなんじゃないかと思って…」
「私が、恩返しの為に、君を好きになってるって言いたいのかい?」
タキオンはなるだけ優しく聞いた。
「いや、……言いたくないなぁ…」
「いっその事打ち明けてしまった方が楽になるんじゃないのかな?私は実績があるよ?お前のせいで夢が一瞬で叶ってしまったと言われたこともあった」
タキオンが冗談めかして言ったので、田上も多少表情を和らげさせた。
「お前、やな事覚えてるなぁ…」
「実際、私も嫌だった」
「…ごめん」
「大丈夫。全く気にしてないとも。…それで、…キスでもしたら言う気になるかい?」
「…言うよ…」
田上はそう言ってから、暫く、地面の一点を見つめ続けた後に、口を開いた。
「………お前は、…お前は…、俺の事が好きと言うより、お前の事を好きでいてくれる俺が好きなのであって、……他の人間がお前の事を好きだと言ったら、…簡単に俺の事を見捨てるんじゃないかな…、と思って…」
「君の事を見捨てるわけがないじゃないか。世界で一番大切な人だぞ?」
「……お前が押しに弱い理由…」
「…あるのかい?」
「……お前をスカウトした時、…俺は結構押しが強かった…」
「ああ…、あれだね。…んー、……あれはもう私のモルモット君が居てくれたなら誰でもいい状況だったし、…君もそれなりの情熱を示した。試験管にある得体の知れない薬を三本飲み干すくらいにはね?」
タキオンはそう言いながら田上に微笑みかけた。
「君の押しが強かったというよりも、私が求める情熱量に君が見事に応えてくれたと言ったほうが正しいだろう。君がただ私のトレーナーをやりたいと言ったんじゃダメだった。それこそ三本も一気に飲み干すくらいの度胸が必要だったよ」
「…もうあの時みたいな度胸はないな…」と田上は自虐気味に言った。
「いいや、あるね。八歳も年下の女子高生と付き合う度胸はあるじゃないか」
タキオンがそう言うと、田上は面倒臭そうな表情をして、タキオンの事を見つめた。
「………八歳も年下の自覚はあったんだ」
「あるとも。まぁ、年齢など私たちの間では些細な違いに過ぎないけどね」
「………やっぱり、お前は普通の女子高生よりかは数段考え方が大人びてるよ…」
「妻と呼んでくれたまえ」
タキオンが相変わらず自信満々なので、田上は思わず鼻で笑ってしまった。
「……妻…」
「なんだい?私の事を呼んだかな?」
タキオンは少々食い気味にそう答えた。その様子を見ながら、田上は少し口角を上げた。
「……八歳年下と付き合うとは思わなかったなぁ…」
「私も八歳年上をこれ程好きになるとは思ってもみなかったよ」
「………八歳年上って言ったらもうおじさんだろ?…」
「…いいや?考えてごらんよ。私が二十になった時は君は二十八だ。まだ同じ二十代だぞ?」
「…そうか…。でも、二十って言ったら、まだうら若き乙女だよ」
「二十八なんて、まだ私の父さんの年齢も超えてない」
「……二十五は、…もう落ち着くべき年なのかなぁ?」
「…二十五で落ち着くべき年と言うんだったら、二十もうら若き乙女じゃなくて、落ち着くべき年だよ。それに、…そうだね。まぁ、私という所帯でも持って落ち着いてみたまえ」
「…世の中の人間ってのは何を考えて生きてるんだろう?」
「ん?」
「……二十五ってのは大人なのかな?子供なのかな?」
「そんなのは人それぞれだろう?」
「……精神的自立。経済的自立。…性的自立?」
「…それと、生活的自立。社会的自立だったかな?」
「……精神は、…微妙だな…。お前が居ないと無理そうだ」
「…まぁ、鬱病になる人はそれなりに居るから、精神的自立ができていない人は、社会の中にはそれなりに居るだろうね」
「経済的自立はできてる。…性も…まぁまぁだろう…。生活もできる…。社会は、…まぁ、自分の役割は築けているかな?」
「社会は、社会人としての言動についてじゃなかったかな?」
「…まぁ、それなりにはできてる。普通かな」
「…それで?」
「……お前は何ができてる?」
「私かい?」
「お前。…経済は、未だできてないだろ?」
「学生だから当然だね」
「…精神も…微妙なところじゃないか?」
「なぜそう思うんだい?」とタキオンは冷静に聞いた。
「……やっぱり、…お前、俺に頼ってるところがあるだろ?」
「…まぁ、否めはしないだろう」
「…生活は、…まぁ、…まぁ、それになりにか…。最近は、徹夜もめっきり減っただろうしね」
「そうだね」
「…性は、…まぁ、それとして、…社会…。これも微妙?」
「…礼儀はしっかりと教えられたもの。そういう場に行けば、君よりも遥かにしっかりと立ち回れる自信はあるよ」
「じゃあ、社会もオッケー。まぁ、ただ、社会に出て適当に一人暮らしするってなったら、これ全部を一人でしないといけなくなるからな…。鬱になるのも無理はない」
「ふむ」
「……性は、…普通だろ?」
田上は言いにくそうに聞いた。
「まぁ、女性としてあるべき生理現象は起こっているよ」
「…ってなると、お前ができてないのは、精神、経済…かな?」
「そこは二人で暮らす上で重要なのかな?」
「…俺が言いたいのは、……自立できてない人間を好きになっても良かったのかな?って事だったんだけど、…お前は案外しっかりしてるよな。精神だって、ちゃんと悩みを相談して真面な答えが返ってくるくらいにはしっかりしてる」
「そうだろうね」
そこで田上は、「立とうか」と提案すると、また同じようにタキオンと二人で校庭の方を眺めた。
「……そもそもは、まだ、世間知らずで、幼気な女子高生を誑かすのがいけないんだろうけどな…」と田上は、呟くように言った。
「少女趣味に一定の線を超えさせないためかもしれない」
「…それにしたって、…まぁ、十六を超えれば、結婚は法律で認められるわけで、子供も産めるには産める。でも、倫理的にあまり認められてないのは、時代が変わったのと、まだ女子高生が世間に出てないって事だよな」
「世間に出てれば偉いのかい?」
「…偉くはないけど、…ある程度物事は知れる。男だって俺だけじゃないのが分かる」
「私も当然知っているとも」
タキオンが不満そうにそう言うと、田上も少し困った顔をした。
「…でも、触れ合った事のある男は少ないだろ?」
「先生の中にも男がいる。話した事もある。碌でもないのもいる。そんな中、君は私の事を大切に大切に思ってくれている」
「そりゃあ、大切なのは大切だけどさ…。…もっと良い人間も居ると思うんだよな…」
「でも、君は私に別れてもらうと非常に困るんだろ?」
タキオンは、少しだけからかうように言った。その顔を田上は面倒臭そうに見つめた。
「…そりゃあ、困るには困る。…一番大切だし…。…でも、お前が俺に騙されているんだったら別だ。……この世にはもっと良い人間がいる…」
「君よりも良い人間が居るんだったら、一度会ってその顔を拝んでみたいものだね」
「女子高生を誑かさない様な奴はいるよ」
「女子高生を誑かさない奴の一体何が偉いんだい?先生方は女子高生を誑かしはしないが、頭ごなしに怒鳴る人間がいる。そういう人間のどこが偉いんだい?」
「そりゃあ、そういう人間はいるけど、何も世の中そんな人間だけじゃない。女子高生を誑かさない人間と無闇に人に怒鳴りつけない人間が、一人の人間の中に入っている事だってある。そういう人間と付き合えばいい」
「じゃあ、まさにそういう人間が目の前にいるじゃないか」
「……俺は、…お前が居ないと生きていけない…」
「ふぅん?」
田上の突然の物言いに、タキオンは思わず笑ってしまい、次の言葉が出てこなかった。
「…お前が傍に居てくれる状況が嬉しいから、そのままにして放っておいているけど、本来の大人であれば、もっと強く断るべきだった」
「でも、それが女子高生を誑かすという行為にはならないんじゃないかな?」
「でも、はっきりと強く断らない時点で、誑かしているようなもんだろ?」
「誑かすとは欺くという意味だ。君は欺こうとしていない。しっかりと、私にも、不本意ではあるが、他の男性が居るという事を示してくれている。その存在を明確に知っても尚、君を選ぶというのならば、それは決して『誑かす』という言葉には当てはまらない。もっと別の言葉があるはずだ」
「……屁理屈だ…」と田上はタキオンを恨めしそうに見ながら言った。
「屁理屈ではあるかもしれないが、君が私の事を騙している、操っていると誤認してもらっては困る。私はしっかりと私の意志でここに居る」
「…じゃあ、なんて言葉が当てはまる?」
「…んー、…君が、私と付き合う事を不安に思っていると言った方が断然正しいだろう?理由はまた様々あるかもしれないが、例えば、怒られるかもしれないとか、私を幸せにできるはずがないとか、そんな事を思っているんだろう。それならば安心したまえ。私は君を不幸せになんてしない」
「…俺がお前を不幸にするかもしれないんだろ?」
「大丈夫。私が不幸になったところで、君が幸せならばその幸せを半分程分けてもらうさ」
「……俺が幸せとは限らないだろ?」
「…でも、私が傍に居てくれるだけで嬉しいんだろ?」
「…嬉しさと幸せは関係ない」
「あるとも。私が隣に居て幸せだろう?」
「………幸せじゃないって言ったら?」
「私は少々傷付くね。無闇に彼女を傷付けるもんじゃないよ」
タキオンは、少し冗談めかして言った。田上は、そう言ったタキオンの顔から目を逸らすと、校庭に散らばっているウマ娘たちの影を見つめた。
「………俺にもああいう学生時代があったなぁ…」
「帰宅部かい?」
「ああ…、友達とそれなりに楽しくやってたよ…。あいつらは、今どこで何をしてどんなことを考えて暮らしてるんだろう…」
「LANEは交換してないのかい?」
「…大内に引っ越す前の学校で、…二三人交換したかな?…で、…引っ越してからも二三人くらい交換して、……最後に話したのが…いつだったかな?」
「スマホはないのかい?」
タキオンがそう言った後に、田上がポケットを確認すると「トレーナー室だ」と呟いた。
「でも、…確か、…大学に入って二三年経ってから、幼馴染の奴から一回連絡が来たような気がする」
「なんて?」
「……なんだったかな?……――最近どう?みたいな感じだったと思う」
「何て返したんだい?」
「……――まぁ、普通だよ、みたいな感じかな?」
「それは、どのくらい前からの幼馴染なんだい?」
「もう幼稚園くらいの頃からだよ。同じ団地だった」
「へぇ。 君のアルバムまだ見てないなぁ」
「今度帰る時に見せてやるよ…」
そう言いながら二人は、またサッカーをしているウマ娘たちを見つめた。ボールがぽーんぽーんと飛んでいく。流石に、スポーツ強豪校なだけあって、皆の運動神経も凄まじい。そんな中で、田上は、ゴールより少し前の、ディフェンダーの位置に突っ立っているカフェを見かけた。
「あれ、カフェさんじゃないか?ゴール近くに居るの…」と田上はそこの所を遠く指差しながら言った。タキオンは、難なくカフェの事を見つけ「ああ、カフェだね」と言った。
「カフェさん、サッカー上手いのかな?」
「…運動神経は良い方だろう?」
そして、またカフェの方をじっと見つめていると、丁度カフェの方にボールを蹴り転がしながらウマ娘が進んできた。それにカフェは少し小走りで近寄ると、いとも簡単にその子からボールを奪って味方の子にパスをし、またディフェンダーの位置に突っ立ち始めた。
「やることはやるんだね」とタキオンが独り言のように言った。田上はそれに反応して、自分も口を開いた。
「タキオンはサッカー結構上手かったよね?どう?」
「…何が?」
「…カフェさんとどっちが上手い?」
「…んー、…まぁ、サッカーの腕前に関しちゃどっこいどっこいって言ったところだろうね。…私が、…。まぁ、同じくらいか…」
タキオンは、一瞬カフェよりも優位な自分を示そうとしたが、やっぱりそうでもなかったので、言葉を続けるのは取りやめた。
「…バスケもやってるって言ってたね」
「…まぁ、…上手いには上手いがそれなりだね。…技術がある分カフェよりかは上手い」
「……俺より上手いんだろうね…」
田上がぼんやりそう言うと、タキオンも少々面倒そうな顔をした。
「当たり前だろう?こっちはトップアスリートだぞ? 君はどこに話を持って行きたいんだい?」
「……どこだろうな…」と言いながら、また田上は遠くにいるカフェの後ろ姿を見つめた。今は味方が攻めているようなので、暇を持て余し気味である。尻尾が時折左右に振られるのが見えた。そうすると、タキオンが突然に言った。
「私が、髪を長くして黒く染めたら似合うと思うかい?」
「……やりたきゃやれば?」と田上は多少驚きながら答えた。
「君が、好きだって言ってくれないとダメじゃないか」
「……別に、お前がそんな髪型にしたら嫌いになるとかはないよ。…よっぽど突飛だったら――お前急にどうした、ってなるけど」
「…私が長くして染めたら、君の目には突飛に映るんじゃないのかい?」
「……どうだろうな…」と言いながら、田上はぼんやりと遠くに居るカフェを見つめた。すると、タキオンは少し田上に詰め寄って言った。
「カフェよりも私の事を見たまえよ。嫉妬するじゃないか」
そう言われると、田上は無言のままにタキオンの事を見つめ、その後に、後ろを振り返るとそのままストンと腰を下ろして、石の壁に寄り掛かった。タキオンも同じように田上の横に座り、彼氏の横顔を眺めた。
田上は、頭の中で何か考え事をしているように、目の前の壁を見つめていたが、やがて、タキオンの視線に気が付くと、タキオンの方を静かに見つめ返した。タキオンも特に口を開く理由もないので、田上の顔を見つめ続けた。すると、田上が言った。
「………お前は、……。こっちに来る?もう少し近寄ってもいいよ?」
タキオンは、無言のままに田上の横へ寄り添うと、その肩に頭を乗せた。田上は、その様にしたタキオンにまた「俺の胡坐の上に、頭をのせてもいいよ」と静かに言った。
タキオンは、ありがたくそれに従うと、渡り廊下の進行を遮るような形でゴロンと横になった。田上は今も床の汚さが気になりはしたが、先程よりかは幾らか寛容な気持ちでもあった。こうなっても二人は会話らしい会話をしなかった。田上が、膝枕を許しはしたものの、タキオンの顔を見たまま何も話そうとしないのでこうなる。タキオンも話しかけられれば、話すつもりはあったのだが、明らかに今の状況は、自分の嫉妬心が作り出してしまったような状況なので、ここでは様子見だった。
田上は、タキオンの顔を見ながら何か考え事をしているようだった。上下逆さまに合う目が右に動いたり左に動いたり、タキオンを見つめたりするのを感じながら、タキオンはそれを察した。タキオンには、田上が何を考えているのか明確には分からないが、大方、タキオンの嫉妬心について自分の考えをまとめようとしているのではなかろうかと思う。頻繁に目を合わせてくれるのでそれ程退屈はしないが、今の所、タキオンには田上を待つことしかできなかった。
十数分後に田上はこう話し始めた。
「お前の嫉妬心はどう扱えばいいと思う?」
これはまるでタキオンの予想した通りだった。だからと言って、碌な返事は用意していなかったので、「私?」と単に聞き返した。
「そう。…お前。……仕事ができなくなる」
こう言われながらじっと見つめられると、タキオンも弱くなってしまうので、目を逸らしながらこう答えた。
「……無視してくれてもいいよ」
「…無視したら怒るだろ?……お前の事が好きだと言っても、特に嫉妬心がやむでもない…。……どうしたらいい?」
「……私に答えは出せない」とタキオンは、目を逸らしながら少々苦しそうに答えた。田上は、そんなタキオンに優しい顔や声をするでもなく、ただじっと見つめながら言葉を発した。
「……今のも流石に些細なこと過ぎる。…風景と一体化してるような遠くに居るカフェさんを見てるだけで嫉妬するのか?」
「……忘れてくれ」
「……忘れてお前は納得するのか?」
タキオンは、田上から目を逸らしたまま何も答えなかったから、また続けた田上が言った。
「お前が俺と暮らしたいんだって言うんだったら、俺はお前を養うために仕事をしないといけない」
「……私の実家には財産がある」
「…幾ら甘いおじいさんでも、孫夫婦の生活費をただで出す程甘くはないと思う。…それに、俺はそういう暮らしはしたくない。…お前の理想はなんだ?…俺とどういう暮らしをしたいんだ?」
「…………楽園」とタキオンは、拗ねた子供の様に答えた。
「……俺にとっては、お前が俺を好きでいてくれることが結構な楽園だ。…あんまりモテるような人間じゃないから。……お前は、……何が怖いんだ?何が怖くて俺と楽園に逃げようとしている?」
タキオンは相変わらず拗ねた子供の様に、自分の手を少し掻いていた。田上は、その様子に一瞬目を留めつつも、タキオンの顔を先程よりもじっと長く見つめ続けた。
タキオンは、答えるつもりはなかったのだが、田上の長い視線に耐えかねて、「……知らない…」とぽつりと答えるしかなかった。田上は、少々難しい顔で尚もタキオンの顔を見つめ続けていたが、やがて、おでこをポリポリと掻くと、ため息を吐いてタキオンを見つめるのをやめた。
日は、暖かに照っている。渡り廊下には心地いい風がさらさらと流れている。もう昼も近いので、腹も多少空いてきた。先生の声も、相変わらず、近くの教室の窓から唸るように聞こえてくる。その言葉にもならないような唸りに、田上は多少の懐かしさを覚えながら、これからのタキオンとの生活を思った。
まず、初めにやってくるのは、タキオンとの疑似的な同棲生活の様なものだ。思えば、あと一週間で引っ越さなければいけない日がやってくる。田上は、それに不意に気が付いて、時間の流れの早さに少し戸惑った。それから、その事を少し頭の片隅に追いやりながら、新しい家でタキオンと何をするのかを考えた。
恐らく、前にも言った通り、あそこが自分たちの新しい拠点となる。それ以上かそれ以下かと問われれば、そのどちらでもないだろう。ただあそこが自分たちの新しい拠点となって、そこで作戦会議をしたり、飲み食いをしたりして、次の場所を目指す。田上の思う物としてのあの家はそれだった。あくまでも、あの家は自分たちの終点ではない。あそこからまたさらにやらなければいけない事がある。タキオンが卒業すれば同棲如何、進学如何で、あの家の立場も揺らぐだろう。子供が生まれれば、またあの家では手狭にはなるだろう。あくまでも、あそこは自分たちの拠点でしかない。タキオンはそれをどう思っているだろうか?あの家の事をどう思っているだろうか?と考えて、田上はタキオンの顔を見つめながら聞いた。
「入居審査が順調に行けば、来週に引っ越すことになると思うけど、準備は良い?」
「……いいよ」
「……あの家は楽しみか?」
「……楽しみ…」
「タキオンは、あの家に引っ越すことをどう思ってる?」
これには、タキオンが何も答えなかったから、田上が続けて言った。
「俺は、あそこで終点じゃないと思ってるよ。ゆくゆく、結婚するんだったら、あの家は多分狭すぎる。それに、お前がどこか遠い大学に進学するんだったら、俺の家には居られないだろ?」
タキオンは、そう言っても手をもじもじと掻いたままだった。だから、田上は一旦そこで言葉を切ると、続きを考えてから言った。
「お前、進路はどうする?お前だけの問題じゃないぞ?俺とお前の問題でもあるんだ。…そこから目を逸らしたままでもいけないだろうしね…」
田上は、またタキオンの顔をじっと見つめた後に続けた。
「答えてくれない?」
そう言っても、タキオンは目を逸らしたまま答えようとはしなかった。こうなると少々面倒臭い。強情なのは田上もタキオンも似たようである。それでも、まだ田上は少し言い足りなかったから、こう発言した。
「二人の問題だよ?一緒に考えてほしい。別に、お前が俺の嫁になりたいなんて言っても、誰も責めはしないよ」
すると、やっとタキオンが重い口を開けた。
「……する…」
「する?責めるの?誰が?…先生?」
タキオンは、田上から極力目を逸らしながら頷いた。
「……金ちゃんは責める人間だね…」
「ああ…、あの人はね…。俺と付き合うのも反対みたいだったしな…」
「……ああいう人間は私に普通に生きてほしいと願う…」
「先生は一つの課題だし、…俺も果たしてお前が大学に進まなくていいのかっていう不安もちょっぴりあるからね…。もし、結婚が上手くいかなかったときに、一番の被害を被るのはお前だからな……」
「……上手くいく」
「…上手くいけばいいと思ってるけど、……。そりゃあ、上手くいけばいいけどね?…大学はどうするの?進学先は本当に話し合っておかなくちゃいけない。…俺と結婚する?とりあえず、大学に進む?」
「……迷っている所だ…」
こう言われると、田上も少し躊躇ってからまた言った。
「志望校を書く紙とか、そういうのがあるんじゃないか?」
「…ある…」
「…期限は?」
「…来週」
「の?何日?」
「…水曜」
「…お義父さんたちは?」
「…まぁ、LANEとか電話でそれなりに連絡は取っているよ…」
「なんて?」
「…――好きにしなさいって」
「で?どうする?」
「……迷ってるところだ」
「…その…――好きにしなさい、には、俺との結婚も含まれてるんだろ?」
「含まれてない事はないだろう。…私たちがそういう選択をしても、向こうは驚かないはずだ」
「……その迷いは、土壇場で決めるつもりなのか?」
「………場合によれば、トレーナーを目指すという進路もある…」
「研究職は?」
「しない」
「楽しくないのか?」
「楽しくないわけじゃないが、…私の足については達成した」
「ウマ娘の果ては?」
「……追わない…」
ここでまた、田上は、タキオンの事を一頻り見つめてから言った。
「……トレーナーになっても、俺はお前を補佐にしたりはしないからな?」
「………なぜ?」
「なぜ?…夫婦のあれこれは、あんまり職場に持ち込まないほうがいいと、俺が思うからだ」
「………」
「………タキオン」
「……」
「…お前は俺と暮らしたくないのか?」
「………違う…」
「…なら、…俺に何をしたいのかを教えてくれ。できる限りは応援するよ」
「……じゃあ、君の補佐になる…」
「…それは、なぁ?……お前の目的は、俺の補佐になりたいんじゃなくて、俺と一緒に居たいってことだろ?マテリアルさんは、正真正銘俺とタキオンが、どのようにトレーニングをしているのかが知りたかったから、俺たちの補佐になった。…お前の場合は、俺と一緒に居たいだけで、特にトレーナーになりたいわけでもない。……お前もまだ若いから、そういうのはあるだろうけどな…」
「……」
「…お前はこの話にどう決着をつけたい?お前が親の金で暮らすって言うんだったら、俺は嫌だ。俺はこの仕事が楽しい」
「……あれだけ悩んでおいて?…」
「…お前とのあれこれもあったけど、俺は楽しかった。…お前は楽しくなかったのか?」
「…楽しくないことはない…」
「だろ?俺の気持ちも分かるだろ?」
「…でも……、でも……、…私は君を信用できない…」
「なんで?」
田上は内心で少し動揺しつつも優しく聞いた。
「………私が見てないところで浮気してたらどうする?……私は、そんな不誠実な人間と結婚するつもりはない…」
「……俺はお前のことが好きだよ。……俺のこと嫌い?」
「……嫌いじゃない。………すまなかった…」
「いや、いいよ。あんまり信用できる人間じゃないことも分かってる。…ただ、お前に対してはできるだけ誠実でありたいと思ってるし、浮気もするつもりはない。元より、お前以外の女子高生はまだ言動が幼いような気がする」
「………こんなこと言ってる私が、大人びていると思っているのかい?」
「充分大人びてる。…良い人だよ。…相談にちゃんと乗ってくれる尊敬できる女性だよ」
田上にそう言われると、タキオンは、少しばかりの笑みを口の端に浮かべた。
「そんなこと言ってくれるのは君くらいだよ…」
「そうかな?皆、心の内に秘めてるだけで、お前の友達の大体が、お前を尊敬してくれていると思うよ?スカーレットさんなんて、お前に結構懐いてたし、年下からの人望って稀にあるよな」
「全く、私をなんで尊敬してくれているのか分からないもんだよ」
「俺がお前の事を受け入れたくらいなんだから、それは大分誇っていい。お前くらい尊敬できる人だったから、俺もお前のことをぎりぎり許した。お前以外の人だったら、多分俺は絶対に付き合わなかった」
これにタキオンは多少のニヤリ笑いをした。
「どうかなぁ?君、押しに弱そうだからな…」
「お前の押しが強かったし、あのくらい押せる人物じゃないと、俺は女子高生とは付き合わない。俺が、少なくとも女子高生とは遊びで付き合う気はないって分かってるだろ?」
「…そりゃあ、分かっているけどね…。…」
タキオンが、まだ続きの言葉がありそうな様子で言葉を途切れさせたので、田上は「まだ何かあるの?」と優しく聞いた。タキオンは、田上と目を合わせたり合わせなかったりしながら、口を開いた。
「…それでも、…君仲良くしようとするじゃないか…。どうせ、私の時みたいに二人でお出かけしたりするんだろう?」
「それは、相手の方次第だよ。リリーさんなんかは、あんまり俺と絡みたがるような子じゃないしね」
「エス君は?」
「エスさんは…、まだ日が浅いけど、…お前みたいな感じじゃないと思うけどなぁ…。少なくとも、付き合う前の俺達でも夫婦漫才って揶揄されるくらいには、傍から見ても仲が良かっただろ?」
「そりゃあ、そうだがね…。……うん…」
「……どうかした?」
「…………私は、……嫌だけどね。……君が私以外の人に笑顔を向けるのが」
「他の人にはずっと仏頂面で居ろって?」
「…その方がずっといいよ…」
「良いって言ってもなぁ…。コミュニケーションは円滑なほうが良いだろ?」
「それじゃあ君の笑顔は嘘だって言うのかい?」
「嘘じゃないよ。何でお前に嘘吐かないといけないんだ。 そうじゃなくて、単純に…表情は柔らかい方が会話もしやすいだろ?」
「それにしては仏頂面だ」
「一々揚げ足を取るなよ」
「嫌だ。拒否する」
「ああ?」
田上は困ったように声を出して、タキオンの顔を見つめた。タキオンは、田上から目を逸らしこそしていたが、その口の端は微かに上がっていた。田上は、それを見逃さずに、タキオンが自分とじゃれ合いたがっているのだと解釈すると、タキオンの頬を軽く引っ張りながら楽しげに言った。
「お前、そういうのはダメだろ?お前にそう言われたら話が進まないんだから。俺よりも頑固だ」
「頑固で良いとも」
タキオンは、頬を引っ張られながらも嬉しそうに言った。
「お前、そう言っといて俺が本当に愛想を尽かしたらどうするんだ?後悔は先に立たないぞ?」
「……放さない」
「……お前も、……何て言えばいいんだろうな…?…お前、今の所俺がお前の思い通りになっているからいいかもしれないけど、思い通りにならなくなった時はどうするんだ?…どうするつもり?」
これには、タキオンは何も答えなかった。
「………お前、結構なんでもできる子だからな…。普通に俺を放さないつもりなのかもしれないけど、人間って言うのは、お前が思い通りにできる程甘くはないぞ」
「………君は…思い通りになってくれる」
「……お前のそういう態度に、俺が、もういよいよ限界だってなったらどうする?」
「…君はならない…」
タキオンにこう強情に言われると、田上も困って頭をポリポリと掻いた。
「……そりゃあ、…俺はならないけど、…だからと言って時間が止まってくれるわけじゃない。……難しい選択だろうし、…お前の気持ちも結構良く分かるんだけどな…。…お前が言いたくないってのも。………」
田上はそう言いながら、今度は鼻の頭をぽりぽりと掻くと、タキオンの顔をじっと見つめた。表情は少々物憂げだった。タキオンは、その顔を下から見上げた。田上も見返してくる。二人の間に微かに通じるようなものはあるが、それは言葉ほど強くは伝わらない。風が吹けば流れて消えそうな物だ。
そのうちに、田上が目を逸らした。タキオンは逸らされた顔をじっと見ていたが、すぐには振り向いてくれなかった。田上は、何が気になったのか、少し遠くの渡り廊下の隅をじっと見つめていた。今度は、ホイッスルの音が一度校庭の方から聞こえてきた。しかし、その景色を見てはいないので、田上は校庭で何が起こっているのか分からない。恐らく、先生がホイッスルを吹いたのじゃないかという事だけは予想できた。それ以降は、どうなっているのか分からない。話している時には忘れていた教室からの先生の唸り声も聞こえてくる。
田上はその声に不意に耳を澄ませたが、やはり何と言っているのかは聞き取りにくかった。日本がどうのこうのと言っていたような気がするが、それも定かではない。田上の耳が別の単語を「日本」と聞き取っただけかもしれない。
次に田上は、タキオンについて考えた。これ以上踏み込むべきか否かだ。タキオンが勝手にやって勝手にこなしてくれるのなら田上はそれでいい。恐らく何の問題もないだろう。ただ、田上は、自分が余計なお世話を焼いてしまうのが怖かった。羞恥心とも言うべきだろうか?タキオンが勝手にやれるのならばそれでいい。しかし、それを自分が余計なお世話を焼いてしまって、タキオンがこなせることができるのにもかかわらず、それを邪魔してしまったらどうだろうか?タキオンが激怒する事はないだろう。あまりに邪魔に思って、嫌いになるという事もほとんどの場合はないだろう。タキオンは恐らく、何か自分で動くことができるならば、はっきりと田上に物を言うはずだ。邪魔ならば邪魔だと彼女らしい率直な言葉で言うだろう。だから、タキオンに嫌われるとかいうものについては、あまり気にしなくても良いはずだ。問題は、田上の心境と、巡り巡ってタキオンの事であった。
田上にこれ以上の碌な考えがない限り、あまりタキオンの将来について口出ししたくはなかった。タキオンの底力を信じれば尚の事だった。タキオンは、やる時にはやるというある種の信頼感が田上にはあったから、これ以上踏み込む事に迷うのである。そして、碌な考えを持っていないので、これ以上踏み込めば感情と感情のぶつかり合いになる。タキオンが、田上に何も言いたがらない以上、田上がタキオンの事を知りたいのであれば、踏み込みたいのであれば、果たして大きな感情をぶつけるしかないように思える。ただ、田上も自分から大きな感情を引き出すのは苦手な男だった。タキオンに説得されて、やっとタキオンの事が好きと言えるようになった人間だ。これ以上の感情の露出はあまり好まなかった。だから、これ以上踏み込むべきか否かを考えているのだった。
タキオンとの衝突をあまり好みたがらない以上、答えはほとんど決まっているようなものだった。タキオンの底力を信じて、自分は何も口出しせずに放っておくのである。ただ、多少の心配がある。そうすると、タキオンがどうするつもりなのか知りたくなる。それで聞いてみると、タキオンは何も教えてくれない。また、「分からない」と言う。
こうなると、自分が口出しすべきなのかと思うが、碌な考えは揃っていない。「なぜ自分に教えてくれないのか」と問おうとすれば、衝突は免れない。衝突すべきかどうか?タキオンと、何にもならない話を堂々巡りで続けるべきかどうか?タキオンを放っておくべきかどうか?
田上の選択肢はざっとこんなところであった。そう考えると、田上の考えは口出しできるでもなく、放っておくでもない、ただの現状維持である堂々巡りだろう。堂々巡りの先に果たして道はあるのだろうか?
運が向けば道は開けるだろう。運が向かなくても、時間は進むのだから、いつかは時間が状況を変えるだろう。状況が変わるのならばそうすればいい。ただ、田上の心の中には少しの焦りもあった。不安とも言うべきかもしれない。心配と言っても良いかもしれない。なんにせよ、明確なものは分からない。
ただ、タキオンが自分と結婚する事を選ぶかもしれないという恐怖だったり、タキオンが遠い大学に行くかもしれないという寂しさだったりが、田上の心を駆り立てた。だから、早い所タキオンから今後の予定を聞いて、自分の身の振るべき方向を定めたかった。
田上には、『予定は早く立てて、しっかりした準備をしたほうが良い』という思想もあったから、タキオンの答えが早めに欲しかったりもした。それでも、タキオンを動かせないからどうしようもない。タキオンが動けないのならば、田上も動けない。タキオンは、それどころか引き返そうとも言ってくる。エスが邪魔なようである。田上は、タキオンをどう扱えばいいのか分からない。
そこでまた思考は停止して、田上はタキオンの顔を見た。