タキオンはぼんやりと空を見たり、視界の端に移る物に焦点を当てたりしていた所だった。時折、田上の事も見つめていたが、田上がタキオンの顔を見た時には、空に流れる雲を見つめていた。空の青さに雲の白さが良く映えていた。そこで、タキオンは田上の視線に気が付いて、田上の顔を見上げた。
田上は、タキオンと目を合わせると微かに口角を上げたが、それは微かも微かで、果たしてタキオンに伝わる程口角を上げられたか自信はなかった。ただ、田上は急に黙り込んでしまった自覚はあったため、タキオンに怒っていると勘違いされないようにも何か伝えなければならないと思った。けれども、言葉を発する気にはなれない。表情で何かを伝えるのも、今以上の表情の変化は無理だったから、せめてもの優しさの証として、田上はタキオンの頬をそっと撫でてあげた。
タキオンは、田上が頬を撫でてくれている事には無頓着な様子で、暫く田上の事を見つめていたが、やがて、自分を撫でてくれている手に意識を移すと、その一見愛想のない手に自分の頬を優しく擦りつけた。
田上は、それに反応して、タキオンの顎の下を指先でカリカリと掻いてあげたりした。すると、タキオンは嬉しそうに幸せそうに口角を上げて、田上の事を見つめた。二人は見つめ合ったが、見つめ合うばかりで言葉は出ない。田上は出す気がない。タキオンは、田上が言葉を発するのを待っている。
それだったから、田上は何か言葉を捻り出してやろうかとも思ったが、元より何も言うつもりが無く、また、発すべき言葉を持ち合わせていなかったから、捻り出そうと思っても何も出てこなかった。
それでも、田上がこの沈黙に耐え切れなくなるにつれて、何か言葉を発したいという気持ちは強くなったのだが、迷いの中に沈んでいる思考は、何の言葉も田上には与えてくれなかった。ある一つの言葉を思い浮かべれば、迷いの様なものがそれを打ち消してしまう。
田上は、その言葉に確固たる自信が持てなかった。これは、田上の中でも明白な事だった。自分に自信が無いのは言わずとも分かる。堂々巡りの堂々巡りから抜け出せずにずっとぐるぐる回っているのも。
田上は、未だタキオンとの行き先も見えずに、ぐるぐると回る思考をぼんやりと見つめているのだった。
この時間が終ると、昼になった。それまでは、黙り始めてから三十分程あったが、二人は一言も話さなかった。昼のチャイムが鳴って、五分から十分程した後に、田上が「昼飯、食べる?」と簡潔に淡白に聞いただけだった。タキオンはそれに首を横に振った。昼休みになったので、渡り廊下にも人が通るようになった。だから、田上はタキオンの肩を叩いて、身振りで「邪魔だよ」と伝えた。
タキオンは、残念そうな顔をしながらも素直にそれに従って、寝転がるのをやめ、代わりに壁際に座っている田上の肩にくっついて、離れまいとした。田上もここで大の男の大人が女子高生と肩を寄せて座っているのは目立つので嫌だったが、タキオンが余りにも甘えてくるのが申し訳なかったり嬉しかったりしたものだから、二人で昼休み中そこに座っていた。
その間も、手を繋いだり、身動きはしたりしたものの、一言も話さなかった。昼休みが終わって、やっとマテリアルがこの渡り廊下に来た。タキオンと田上が二人で、特に幸せの絶頂でもなさそうな表情で座っているのを見ると、呆れた顔で「お昼ご飯は?」と聞いた。二人共揃って首を横に振った。すると、マテリアルは「じゃあ、ちょっと待っててください」と言うと、数分の後に二つのおにぎりを持って帰ってきた。
それを「少ないかもしれませんが」と言って、田上とタキオンに渡し、自分はタキオンの隣に座り込んだ。田上は、おにぎりに一口かじりついたが、その時にタキオンはおにぎり一個じゃ足りないだろうと思って、自分の分を「食べるか?」と言って差し出した。タキオンは、手に付いたご飯粒を咥えながら無言のまま首を横に振った。田上は、それでもタキオンの事が気になったから、もう一口だけ食うとタキオンが自分の分を食べ終わるのを待った。それから、食べ終わった時にもう一度「食うか?」と問うと、タキオンは嬉しそうに口角を上げて、田上の顔を見つめた後、「食べる」と返した。だから、田上はタキオンが自分のおにぎりを美味しそうに頬張るのを見つめた。
タキオンがおにぎりを食べ終わりそうな頃合いに、マテリアルは、タキオンを挟んだ向かいの田上に、身を乗り出して話しかけた。
「それで?午前中丸ごとかけてした話は実を結びましたか?」
田上は、これに無言で首を傾げるだけにし、誤魔化した。マテリアルは、それに少し眉根を寄せると、今度はタキオンの方に向き直って言った。
「タキオンさんは、優しい彼氏を持って嬉しいですか?」
タキオンも、また手にご飯粒を咥えながら、田上と同じように無言のまま頷いた。マテリアルはそれに不満そうな顔をすると、自分だけ立ち上がって、校庭の方を見ながら言った。
「……懐かしいですね…。学生時代を思い出します。…渡り廊下でこうしてたむろして、校庭で遊んでいる男子を眺めてたりしました…。…タキオンさんもどうです?良い風ですよ?」
マテリアルがそう聞くと、タキオンは「いい」とだけ返したから、マテリアルは「残念です」と言って、一人で校庭を見つめていた。ただ、それも長くは続かずに、ある程度の心地良い風と心地良い懐かしさの余韻に浸った後は、すぐにタキオンの隣にしゃがみこんで話しかけた。
「タキオンさんは、初恋は田上トレーナーでしたよね?」
「…そうだが?」
タキオンがそう答えると、マテリアルはニヤリと笑った。
「初恋は叶わないって言われてますよ?」
「…叶ってる」
「いや?もしかすると、結婚まで行けないのかもしれませんよ?」
妙に憎たらしいニヤニヤ笑いをしてくるマテリアルを鬱陶しそうに見つめながら、タキオンは「何が言いたいんだい?」と言い返した。すると、マテリアルはすぐにニヤニヤ笑いをやめた。
「…別に…、…なんであなた方は…上手く行ってるようで、行ってなさそうで、行ってそうなんですかね?」
タキオンは、表情を変えずにマテリアルを見つめ続けたから、マテリアルは言葉を続けた。
「……田上トレーナーを無事彼氏にできて満足ですか?」
タキオンは、何も答えなかったが、一瞬目は逸らした。
「……田上トレーナーを彼氏にできて、あなたの心は充分に満たされましたか?」
「……」
「……いや、…こんなこと言いたかったんじゃないです。…もうちょっとタキオンさんと仲良くしたいんですがね。…どうしても…羨ましさだったりがあるんですよ。………好きなパンの種類は?」
「……圭一君が、一年位前に作ってくれたパン」
それで、マテリアルの視線が田上の方に向いた。
「あなた、パンも作ってたんですか?」
「いや、あれは市販のパンに色々と付け足しただけ。俺が生地から作ったのじゃないよ」
田上がタキオンに向けてそう言うと、タキオンは多少驚いて眉を上げながら「そうだったのか」と言った。それから、「あれをまた食べたい」とも言った。田上としては、作るのが少々面倒だったため、今までタキオンがあのパン菓子について何も言わなかったのを幸いとしていたが、ここに来て作ってほしいと言われると、当然の如く困った顔をした。
「……あれは面倒だったからな…」
「……引っ越し祝いに…」とタキオンは、甘えるような微笑みを作ってその話に食い下がった。そうされると、田上も断り切れずに、「まぁ、……お前が覚えていたらな…」と答えた。
田上がそう言うと、マテリアルが口を挟んだ。
「私も引っ越し祝いパーティーに行っても良いですか?」
「……君はダメだよ」とタキオンが断ったが、マテリアルも食い下がって、田上からの返答を求めた。田上も困りながら「…引っ越し祝いパーティーはするつもりはないんですけどね…」と答えた。その後にタキオンが付け加えた。
「私たちが引っ越す家は、私たち二人だけの場所なんだから、気軽に来てもらっちゃ困る」
「ええ?なんで?」
「私たち二人だけの場所だからだよ」
「なんで私は仲間外れなんですか?それに、家の場所くらいは知っていてもいいでしょう?」
マテリアルがそう言うと、タキオンは迷惑そうな顔をしながら田上の方を振り向いた。
――このバカになんとか言ってやってくれ、という顔だった。
ただ、田上も別に家の場所なんて知ってもらっても構わなかったので、タキオンの意向とは反対に「良いけど?」と答えた。すると、タキオンは首を横に振って、またマテリアルの方を向いて言った。
「やっぱりダメだ。あの家は、私たちが二人きりになれる場所が欲しくて買ったんだ。君が私たちの住所を知りたいと言うんだったら、その代わりに家賃を払いたまえ」
「ええ!?そりゃあ、余りにも横暴ですよ!いくら彼女だと言ったって、そんな横暴は許しませんからね!」
「許してもらわなくていいとも」
「ほ~、…やりますね?田上さん、許さなくても良いって言うから、あなたの彼女ボコボコにしてやってもいいですか?」
「存分にしてやってください」
田上は、マテリアルが冗談を言っていると分かっていたから、適当にそう返してやった。すると、タキオンが――何を言っているんだこの人は、という表情で田上の顔を見る。そこをマテリアルが後ろからタキオンの両頬をぐいんと引っ張った。タキオンの顔が横に伸びた。と思ったら、今度は、タキオンの下唇を左手で伸ばし、右手で眉間を上に引っ張った。その変な顔を見ると、田上も思わず鼻で笑ってしまった。それから、タキオンが苛立って頭をぶんぶんと横に振ると、マテリアルの方を振り向いて「構わないでくれ!」と怒った。マテリアルは、そんなタキオンに臆さずに、むしろ小バカにした態度をとった。
「いいや、構いますよ。 あなたね、田上トレーナーの前で完璧を保とうとし過ぎなんですよ。もうちょっと鼻の穴を豚みたいにするくらいの変顔をしてみたらどうです?」
「…私は完璧なんか保ってない」
タキオンはマテリアルの言葉を受け付けない態度だった。
「いいや、保ってます。田上トレーナーの前でのあなたの女の顔と来たら、反吐が出るくらいにおんなおんなしてます。あなたもうちょっと元気はつらつだったでしょう?それが今は田上トレーナーの前で、お淑やかな女性でいたいのか知りませんけど、甘えに甘えて、媚び売ってるでしょう?」
「…違う。…余計な事を言うな」
「いいや、言わせてもらいますね。そうでもしないと、あなたと田上トレーナーの未来が心配ですから。田上トレーナーは、男だから甘えられて嬉しいのかもしれませんけど、私は女の立場としてあなたの魂胆ははっきりと分かります。 田上トレーナーを喜ばせて、ずっと好きでいてほしいんでしょう?」
「……恋人に好きでいてほしくて何が悪い…」
タキオンは、苛立ちと嫌悪の籠った目でマテリアルを見つめた。
「そりゃあ、私だって気持ちは分からなくもないですが、私は、田上トレーナーに媚びを売らない様なあなたが好きですし、田上トレーナーだって、媚びを売らない強いあなたを好きになったんでしょう?」
「……私が完璧じゃないのは圭一君だって知ってる…」
「…ふん…。そりゃあ、知らない事はないでしょうが、あなたが変顔をする姿は知らないでしょう?」
「…そんなの知らなくていい」
「そうやって、自分の汚い所を隠すんですか?」
「もういい!」
そう言うと、タキオンは立ち上がって、田上の方を見下ろした。
「来てくれ。もううんざりだ。…私を慰めてくれ。この女のせいで不快な思いをした」
「そうやって、逃げるんですか?いいでしょう、逃げてごらんなさい。私に仕返しのパンチの一つもできない弱虫人間。次のレースもどうせ負けますよ。私は分かります。迷いのある人間にGⅠという舞台を走り抜けるはずがありませんとも」
タキオンは、言い返すのを我慢するために、一度歯を食いしばると、その後にマテリアルを完全に無視しながら「行こう」と田上に呼び掛けた。田上は座りながらタキオンを見上げていた。ここで、マテリアルの味方をすべきか、タキオンの味方をすべきか迷った。
マテリアルの言う事は尤もだと田上は思った。ただ、田上はそう思ったとしても、タキオンを放っておくわけにはいかなかったから、マテリアルの方を向くと、「すみません」と言って、立ち上がった。
マテリアルも、何か、目の裏に迷いの様なものがある表情をしていたが、今はマテリアルに構っている訳にはいかなかったから、田上はタキオンと手を繋ぐと、タキオンに連れて行かれるわけではなく、自分がリードしてタキオンと連れ立って歩いて行った。
行先は、二人とも分かっていた。いつものベンチだ。タキオンが怒った時に行こうと言う場所は、大概そこだろう。田上は、何か話をしなければいけないと思いながら、階段を下りるタキオンと歩調を合わせながら、優しく手を握っていた。
二人は、ベンチの所まで来た。そして、タキオンは、田上の膝の上に頭をのせて、ベンチの上に寝転がった。二人がつないでいた手にはじんわりと汗が滲んでいた。
田上は、タキオンが自分に後ろめたさを持って、田上の目を見ようとしていなかったのは分かっていたが、それでも話さざるを得なかった。目の前の景色を見つめて黙しているタキオンに、田上は優しい口調の中に厳しさを滲ませて聞いた。
「マテリアルさんになんであんな口を利いた?」
タキオンは、何も答えなかった。ただ、拗ねた子供の様に目の前の景色を見つめていた。田上も少しは待っていたが、話さないだろうという事は分かっていたので、早々に次の言葉を言った。
「……マテリアルさんに向かって、――この女、って言うお前はあんまり好きじゃない。……多少言葉が率直なのは知ってるけど、…それでも今回のはあまり嫌だった…」
田上は、そこで一呼吸入れてから、また言った。
「………やっぱり、…マテリアルさんから見ても、俺がお前を弱くしているみたいだ…。…もっと良い人が居るのにな……」
田上は、わざわざ自分から後に続かない様な言葉の重ね方をした。そして、また思考を一通り揃えた後に言った。
「……俺が、…自分自身の事を、お前にとって良くないって思っていることは、お前も知ってると思うけど…、…こういう言い方もダメだな…。………何にも話せなくなる…」
田上は、目を落としてタキオンの髪の毛を見つめた。もう少し前屈みになって覗き込めば、タキオンの顔が見えそうだったが、わざわざそれをやってしまうと、タキオンに嫌がられそうだったからやめた。また、自分があまり動きたがらないのもその原因の一つであった。
——またここに辿り着いた…、と田上は、風に揺れて擦れる木の葉の音を聞きながら思った。あまりに露呈しない不満の海を泳げば、行先は必ずここになる。また、ここ以外にどこへ行こうという当てもなかった。二人きりになれる場所はここだけだった。渡り廊下も半ば自分たちから出て行ってしまった。あそこは、ここと同じくらい心地のいい場所ではあった。トレーナー室は、マテリアルが常駐しているから元よりダメだった。
――もっとマテリアルさんの事を頼ったほうが良いのだろうか?と田上は思った。ただ、マテリアルだってこれと言って、人生の真理を弁えているわけではない。あの人は、あの人自身が正しいと思う事を自分たちにぶつけてきているだけだった。それが時に正しかったりもするのだが、やはり、タキオンと田上の二人の心情は、完全に捕まえ切れているわけではなかった。
もしかすると、田上自身も、タキオンの心情を完全には捕まえられていないのかもしれない。いや、きっとそうだろう。まだ、マテリアルの方が女だけにタキオンの心情を捉え切れているのかもしれない。田上と言えば、ただ、年下の女の子に好きだ好きだと言われて、ニヤニヤ笑っている中年のおじさんのようなものかもしれない。実際、嬉しい事には嬉しいのだから仕方がない。だから、田上としても、このような男はタキオンにとって良くないだろうと思っているのだが、タキオンは離れたくないと言う。
そうすると、もっと強く拒否したほうが良いのかもしれない。自分が後になって後悔するのは目に見えているが、それでもやるべきなのはそうかもしれない。ただ、もっと強く拒否できるのならばもうやっているし、大阪杯辺りの荒れていた頃にタキオンが離れていかなかったのであれば、今更拒否した所でもう遅い。そもそも女子高生などに恋をしなければよかったのだ。
そう言ったところで、これも後悔先に立たずであるし、自分の場合は、女子高生であっても、同年代の女性であっても、同じような後悔は重ねていたように思う。今はタキオンが弱っているから、自分の後悔が、より漠然と、曖昧に、輪郭を大きく見せているのだが、タキオンがちゃんと物を言うようであるならば、おそらく自分はタキオンが恋人で良かったと心底から思うだろう。また、もうすでに思っている事でもある。
なんとか状況の打開と言うか、空気を震わす振動が欲しかったのだが、田上からはそれは一向に出てきそうになかった。マテリアルからは、もしからしたら出てくるのかもしれないが、タキオンはその空気の振動を嫌に思っているようだった。そして、それが田上の口から発せられるのも至極嫌なようであった。これが田上にとってはそれ相応に困る事である。タキオンと言葉が通じ合わないというのは、非常に面倒臭いのである。むしろ、大阪杯で荒れていた自分の方が、より聞く耳を持っていたように思う。
今回のタキオンは一体どういうことなのだろうか?何が不満なのだろうか?田上が女の子と一緒に居ると言ったって、それはただの教え子であって、タキオンの様な恋人じゃない。また、浮気なども、今の所タキオン以外の女性で、良いと思える女性は全くいない。
――この『今の所』がいけないのじゃないだろうか、と田上は不図思った。田上が、未来の事を不確実だと疑っているのもそうだが、タキオンはそこの所を全部取っ払ってまでも、自分との未来を信じてほしいのではないのだろうか?
ただ、これに思い当たったとしても、今突然にタキオンに合わせて変化する事は、不可能と言っても過言ではなかった。しかし、やはり、タキオンは自分に不信感を抱いているものじゃないかと思う。これは、田上の中でほとんど決定されたものだった。
――タキオンは、自分に不信感を抱いている。
これをどうにかしたい。右にでも左にでも持っていけるものなら持っていきたいが、田上にはどうしても未来を確実だとは言えなかった。今、机にある消しゴムを取ろうとしている自分が、次の瞬間には鉛筆を取っているかもしれない。そんな不信感を田上は未来に対して持っていた。恐らく、タキオンも田上が未来に対して不信を抱くと同様に、田上に対して不信を抱いているのだろう。
そうすると、――結局自分が悪い、という思考に田上はまた舞い戻った。自分が悪である限り、タキオンに未来はなかった。離れたくない。離れたい。離れるべきだ。遠ざけろ。でも、離れたくない。その様な思考の渦の中で、田上は溺れそうな自分をただ眺めていた。
次に話し始めたのは、田上が黙ってから十五分から二十分ほど経った後だった。相変わらず、状況は変わらないが、田上はタキオンと話すために、何とか言葉を発さなければと思った。田上は、タキオンの真意を知りたい事には間違いなかった。ただ、タキオンがその真意を教えてくれないだけだった。
田上の頭は、ただひたすらに――自分が悪い、という方向に持っていきたがっていたが、それを口にしてしまえば、タキオンが自分にさらに不信感を抱くことが想像できたので、その言葉は余程の事がない限り口にはしたくなかった。かと言って、それ以外の言葉が思い当たらない。そんな中で、別の話題を探そう探そうとして、こんなことを言った。
「…………タキオンは、……。……俺は…お前の事がもっと知りたい……」
当然の如く、田上の頭は――自分が悪い、という方向にあるので、その後の言葉は続かなかった。だが、自分の本心の中の一つを言えたので、一応の所は満足をした。それから、またできるだけ別の話題としての言葉を考えて言った。
「…………お前の…心の中にある言葉をもっと聞きたい……。……俺が、お前にとって大切な人間であるって言うんだったら、…もっと聞かせてほしい…。…あんまりこんな口を利けるような人間でもないかもしれないけど…」
タキオンは、田上の方を振り向く気配はなかった。ただ、風が吹くのと同時に、そのウマ耳をぴょこんと揺らしただけだった。田上は、その動きに反応して、タキオンのウマ耳を見つめながら、次に何を言えばいいのだろうかと考えた。今の自分からは、あれ以上の言葉が出ないような気がした。だから、ただもう諦め半分でタキオンの耳を見つめていただけだったが、タキオンが不意に身動きをすると、ごく小さな声で「手」と言って、自分の手を田上の方に上げた。
田上は、これを「手を繋いでほしい」のだと解釈をして、自分の手をタキオンの手に触れさせた。すると、タキオンは、田上の指先を握ったが、握ったまま何もしようとはしなかった。ただ、目の前の景色を見つめて、田上からは目を逸らしていた。しかし、田上は、タキオンの方から動き出したので、これでも満足だった。タキオンから動き出す方がまだ望みがある。動かないのが一番面倒だった。タキオンが動いたとすれば、その後にまた何か言葉を続けるかもしれない。そう思って、田上はぼんやりと少し楽な心地になってタキオンと手を繋いでいると、田上の予想通り、タキオンは小さな声でこう言った。
「幻滅したかい?」
この声があまりに小さく不意に発せられたものだったので、田上も一度では聞き取れなかった。だから、「ん?」と慌てて聞き返すと、「幻滅したかい?」とタキオンがまた言ってくれた。
「幻滅は、…してないよ。タキオンが、俺の周りにいる女の人が嫌いって知ってるから」
「………嫌いに…ならないのかい?」
「嫌いになってるんだったら、もうとっくの昔になってる。お前と同じだよ。…俺もお前の事が好き…」
「…………変わってる…」
聞き覚えのあるその台詞を聞くと、田上はふふふと軽く笑った。それから、タキオンの頬をちょんちょんとつつきながら言った。
「じゃあ、俺たちは変わり者同士だね」
「………こんな面倒な女、捨てても良いんだよ…」
こう言われると、田上は少しだけ表情を曇らせた。
「……お前、少し俺に毒され過ぎてるよ…。前は、そんな事言わなかっただろ?」
「……人は変わるんだよ…。君と付き合って変わったのは確かだが、何も君のせいだけじゃない…。君と付き合いたくてたまらなかったから、多少強引なところもあったし、それを後悔して言いたくない事も言った…」
「俺は、それでもお前の事を尊敬してるよ」
「……そうだろうね…。…そして、…私も君の事が好きだとも……。私の事を好きでいてくれないか…?」
「ずっと好きだよ」
田上はこう言った言葉の裏に、未来への不信感を思い出した。そして、自分の言葉の嘘臭さがタキオンに伝わっていやしまいかと多少の不安を重ねた。タキオンだって、甘い言葉を囁かれて、それに完全に夢中でいられるほど子供ではない。田上が未来を信じていない事など、普段の言動からも承知の上だろう。それでいて、タキオンの都合のいいように甘い言葉を囁いて、優しいふりをしているのだ。
――自分はどんなに悪だろうか?と田上は思った。最早、これは悪い大人が女子高生を誑かしていると言っても違いない。いくらタキオンが、田上の言動の裏にある物を知っていると言っても、結局の所、田上は女子高生に甘い言葉を囁いている悪い大人なのだ。そして、タキオンも、その言葉が、自分をさらなる深みへ引きずり込む、甘い言葉と知っていても乗っかろうとしてくるのだから、田上は、女子高生を誑かしている悪い大人に他ならなかった。それでいて、その女子高生の方が離れないでほしいというものだから、調子に乗って甘い言葉を吐き続けるのだ。そして、離れようと思っても離れる事のできない、罪悪ともいうべき物に苦しめられるのだ。田上は、この流れから逃れる術を知らなかった。
田上の言葉の裏にある嘘の匂いを感じ取ったのか、タキオンは何も話さなかった。もしかしたら、田上が話し出すのを待っていたのかもしれないが、田上は自分を責め立てるのに忙しく、タキオンに何か言葉をかける暇などなかった。だから、タキオンは、暫く経った後にまた自分から口を開いた。
「………好きって……言ってくれないか?」
タキオンは、田上の方を向かないままそう言った。田上は多少迷いこそしたが、あんまり長くならないうちに「好き」と言っていた。田上も今はあんまり好きと言いたい気分ではなかったが、それでも、タキオンの事は好きであることには間違いないし、弱っているタキオンにわざわざ逆らうようなことはしたくなかった。
それから、また少し間を空けて、タキオンが言った。
「私を……君の物にしてくれないか?」
田上はタキオンの髪の毛を見つめたまま黙っていた。すると、タキオンがもう一つ言った。
「……何してくれてもいいよ……。…髪を引っ張っても、暴力振るっても…」
「……俺にそんな嗜虐趣味はない…」
「……でも、…君、怒ってるから…」
「……さっきの言葉が嫌だったのか?」
「……いや、…そんなんじゃない…。…午前中にも言っただろ?――爆発したい、って。だから、もし私に乱暴して、君の怒りが発散されるんだったら、私はそれでもいい……」
「……俺は怒ってない…」
「……無論、形の上では怒ってないだろう…。…けど、…怒って私の事を見つめてくれるんだったら、それでいいよ…」
「………乱暴されたいの…?」
「…そういう趣味は私にもない…。しかし、……私を大切に思うんだったら、怒ってほしい…」
田上はこの言葉の意味が分からずに、暫くタキオンの事を見つめながら黙るしかなかった。そして、またタキオンが言った。
「……なにも怒ってほしいんじゃない…。ただ…、…ただ…、…私の目を見てほしい…。その為には、君の怒りをどうにかする必要がある……。だから、…私に怒ってくれ…」
「……怒ってほしいんだな?」
「君が怒りたいんだったらそうしてくれ…」
田上はそう言われて、一瞬だけ怒るべきか否か悩んだが、すぐにタキオンに怒る理由はないのだと思った。自分に潜在的な怒りがあったとしても、怒ることができないのは午前中の時にも言った通りだ。まず怒る理由がない。また、タキオンに切れ散らかしたくもない。田上がそう考えている間に、またタキオンは言葉を続けた。
「怒ってもどうか私の下から離れないでいてほしい…」
「……それじゃあ、怒れないだろ?」
「……そうだろうね……。いいよ、…私も頑張るから……」
「…そんな落ち込んでるお前に俺は怒れないよ」
「じゃあ、…なんでもいいから私にぶつけてくれ。君の中にあるものを曝け出してくれ…」
「……そう言って曝け出せるんだったら、とっくに曝け出してるよ…」
「そうだね…」
そう言った後に、タキオンはこのベンチに座って初めて、顔を田上の方に向けて、目と目を見つめ合わせた。そこで少々の間が空いた。二人共、長らくお互いの顔を見たいと思っていたのが、漸く叶ってみると、面と向かって話すのは久々のような気がして少しの照れ臭さや罪悪感の様なものが湧いた。
それから、タキオンは多少安心した顔をして言った。
「マテリアル君が言ったのは、あまり的外れでもないように思う…。私だって、君の前に立つ時は少しの不安がある。……別に、圭一君が悪いって言うんじゃない。ただ、私は、君の前に立ちたくて立ってる。不安にさせられるのもそんなに悪くないかもしれない…」
「…お前、…やっぱりそういう趣味があるんじゃないのか?」
「被虐趣味?…そういうのじゃないと思うけどねぇ…。…うん、…ただ、君に抱かれるのは心地が良いという話だよ」
「…俺に抱かれると、不安になるのに、心地が良いの?」
「…まぁ、…言ってみれば、君は私と付き合いたくないのに、好きと言われれば嬉しいわけだろ?」
「うん…」
「そういうものだよ。私も好きと言われれば嬉しいんだ…」
「ああ、…そういうことだね。……俺は何て言えばいいと思う?」
「……そういう事を私に聞き続けてくれ…。そうすれば、私たちの絆は繋がっている…。…急いては事を仕損じる、だよ」
「……時間は待ってくれない」
「…その通り。…しかし、過ぎ去ってしまえば、案外思ったほどでもないような心地になる。…だから、私に優しくしてくれ…」
そう言って、タキオンが、田上の顔に、伸ばすために上げた腕を、中途半端な所で止めたから、田上がその手の指を掴んで、軽く揉んだ。
「怒ってほしいのに、優しくしてほしいのか?」
「……恋人に優しくされて嬉しくない女なんていない…」
「……お前の話を聞いてると、訳が分からなくなる」
田上は呆れたように言った。
「…そうだろう。…私も実際適当だもの。…その時その時に思いついた事を言ってる…。君もそうしたまえ。…そして、あの家に引っ越した時には何の躊躇いもなく、私にキスやハグを求めたまえ。あそこは躊躇わなくても良い場所になる…」
そう言ったタキオンの顔を田上は困ったように見つめた。すると、またタキオンが言った。
「……今日は悪かったね…」
「……大丈夫だよ…」と田上は、音が喉の奥で詰まってしまったような小さな声を出した。
「………私は、…変わらず不安だよ……。君と私の未来がどうなるか……。動き出した方が楽にはなるんだろうけどね……。生憎、力が出ない…」
田上は、そう言ったタキオンを、若干の不安を滲ませた面持ちで眺めた。タキオンも見つめ返したが、今度は田上の方が口を開いた。
「……俺のせいか…?」
タキオンは、一瞬空に目をとめた後に田上を見て言った。
「…根拠は?」
「……俺と付き合ってから、お前は変わった…」
「ふむ…、まぁ、…間違いでもないだろうが、…私は君のせいだなんて一欠片もこれっぽっちも思ってない。私の事に対して、君だけに責任があると思うのは、私の事を少々侮りすぎじゃないか?」
「……実際、責任はある…」
「あるだろうが、それは君だけじゃなくて、私にも責任がある。君の方が年上だからって、君だけに責任を負わせるわけにはいかない。私にだって、選択する自由がある。それを君に嫌という程突きつけられたが、私はこちらの道を選んだ。…だから、私の責任は私の責任でもあるし、君の責任でもある…。…君は人の目を気にするかもしれないが、そこの所が私には嫌なんだ…。…私を見て…」
「…見てって言われて見れるほど、できた人間じゃない」
「その通りだろう…。私もそうだ。それでも君は私の事を尊敬していると言ってくれるんだから、私は君と結婚したほうが良い。こんなに私の事を尊敬して大切に想ってくれる男性が居るんだから、その人と結婚した方が今後の人生が数倍お得だ」
そう言ったタキオンに、少しの微笑みを浮かべながら、田上は聞いた。
「お前は俺の事尊敬してくれてるの?」
「んー…、…尊敬というより好きという気持ちの方が強いけれどね…。まぁ、君はこんな私でも尊敬してくれる偉大な彼氏だ。勿論、尊敬すべき人だね。…元より、私は尊敬できない人間とは付き合わないよ」
「そうか…」と頷きつつ、田上は――つまらない事を聞いた、と思った。それと同時に、タキオンの返答が思ったようなのでなかったのに、若干の不安を募らせた。田上にはこの不安こそがつまらなかった。自分がタキオンに対して何を試そうとしているのかは知らないが、その答えで一喜一憂すること程つまらない事はない。田上がその思案を表情の裏に隠していると、タキオンは、薄く微笑みながら言った。
「信じてないのかい?」
「……まぁ、……いや、特にそんな大きな事でもないけどな…。しょうもないことだよ…」
「いいじゃないか。…私の言葉が信じれない?」
「いや、……本当にしょうもない事」
「私に聞かせてごらんよ、そのしょうもないことを。…それとも、私が君のしょうもないことを受け止めきれない程子供だと?」
「……そういう時もある」
「んん?」とタキオンは力無く、それでも精一杯お道化て言ってみせた。「じゃあ、君は私の事を尊敬してくれていないじゃないか」
「ほらそう言う」と田上は冗談を真に受けたので、タキオンも少し不満そうな顔をすると、「冗談じゃないか」と言った。田上は、タキオンの目を少し見つめた後に「ごめん」と呟くように言った。それからすぐにタキオンは気を取り直して言った。
「じゃあ、その償いとしてしょうもないことを言ってもらおうかな?」
「……別に、……よくある事だよ。……タキオンの言った事が、…この…、自分の思った通りじゃなかったと言うか…、…もっとすぐ――尊敬してる、って言ってくれるのかと思ってたから、…お前が案外すぐに言わなかったから少し拗ねた?…別に拗ねてもないけど、…ちょっと…不愉快になっただけだよ」
「不愉快かい?…でも、そう言ってくれるだけでもありがたいんだよ。聞かないと言ってくれないかもしれないけど、聞けば言ってくれる」
「…だから、…俺の彼女はお前以外務まらないよ…」
「おや、……そうかい。良い事を聞いた。私以外務まらないか…。とてもいい事だね。なら、一生そのままでもいいかもしれない」
タキオンはそう言いながら、目を瞑った。目を瞑る前は、少し疲れた表情のようでもあったが、目を瞑ってみると、案外安らかそうな寝顔だった。タキオンは、田上の膝の上で、暫く黙って目を瞑ったまま、胸の上に手を置き、胸を上下動させて、息を吸っては吐き出す事を繰り返していた。
暫く安らかに、また、楽しそうに田上の膝枕の中で息を繰り返していると、タキオンは目を瞑ったまま田上に話しかけてきた。
「マテリアル君から何か連絡は来たかい?」
「…スマホを持って来てない」と田上は端的に答えた。
「ああ、そうだったね…」
そう言うとタキオンは、目を力無く開こうとしたが、やっぱり閉じたくなったのか、次にはゆっくりと瞬きをした。それから、眠たそうな目で目を瞑るか瞑るまいか迷っていると、タキオンは三秒ほど目を閉じた後、また目を開けて田上を見ながら言った。
「マテリアル君には、良い男をあてがってあげたほうが良いんじゃないかな?あれじゃあ、男ができない限り、落ち着かないよ。気性が荒い」
「少し言葉はきつかったけど、お前の事を思ってじゃないのか?」
「いや、…羨ましいって言っていたもの。そりゃあ、多少は私たちの行く末を案じているだろうし、私が圭一君を独り占めにしているのをどうにかしたいと思っているのだろうがね。…あれは普段から苛々してるよ」
「言っても、俺と話してる時は落ち着いてるよ」
「そりゃあ、君が男だからだ」とタキオンは、田上の事をしっかりと見据えながら言った。「君が男だから、…あんまり嫌だな。…想像すると、君の仕事が本当に立ち行かなくなってしまう」
「俺を引き離したくなるから?」
「そうだね。…まぁ、マテリアル君は、君に気は無さそうってのは分かるね。あの人も、人の彼氏をとろうとするほど落ちぶれちゃいない」
「俺は、そんなライトノベルの主人公みたいになるつもりはないよ」
「…どうだろうねぇ。…君、人が良いから、見る目のある女性だったらすぐに君の事を好きになる」
「だとしたら、見る目のある女性は今の所お前くらいしかいない」
「そう。…そうだねぇ…」
タキオンはそう言いながら、また目を瞑った。それから、目を瞑ったまま「君の手で撫でて」ととろとろとした口調で言った。田上は、「撫でて」と言われても、どこを撫でればいいのか分からなかったから、とりあえず、タキオンの前髪を梳く様に撫でてみた。すると、タキオンは無言のうちに田上の腕を掴んで、自分の顎の所へ持ってきた。どうやらそこを撫でてほしかったらしい。田上は、他にやるべきことも見つけられなかったので、タキオンの顔を見つめながら、その頬から顎にかけてを、丁寧に優しく、愛おしさを持って撫でていた。
暫くして、またタキオンが目を瞑って、田上の手で撫でられながら口を開いた。
「……エス君は、……君の恋愛の対称になるかい?」
「なるわけないだろ?」と田上は即答した。
「なら、何故私は君に今こうして撫でてもらえる?」
「それは、…お前が良い人だった。…良い奴だった…」
「……それは、……エス君が君にとって良い人ならば、君はエス君を好きになるかもしれないのかい?」
「それはないと思うよ」
田上がそう言うと、タキオンは、自分の胸がゆっくりと息をしている事を感じながら、空気を吐いたり吸ったりした。
「………どうだろうね…?……人は自分が思っているように動いてくれない時がある。自分の旦那は浮気をしないと思っていても、浮気をしている時があるし、自分は浮気をしないと思っていても、いつの間にか浮気の様なものになっている時がある……」
「……考えすぎじゃないか?」
「……そうかもしれない……。ただ、……私は怖いよ……。何が怖いって、……自分が具体的に何を怖がっているのか分からないのが怖い……。……こんな女子高生が好きなのかい……?」
田上は、この時、自分が嘘偽りなく「好きだよ」と言ったような気がした。タキオンは、口元に微かに笑みを浮かべた後、こう言った。
「君に…毒されていると言えば、そうなのかもしれないが、……やっぱり居心地の良さはあるね…」
「じゃあ、やっぱりお前は被虐趣味だ」と田上は言った。すると、タキオンは、また少し口角を上げながら、「そうかもしれないね…」と頷くと、その後はまたゆっくりを吸っては吐いてを繰り返していた。
また暫くしてから、タキオンが言った。田上は尚もタキオンの頬を優しく撫でていた。
「私は、……エス君からどう思われているのだろうね……?」
「……ただの…年上のトレーナーと付き合ってる珍しい先輩じゃないか?」
「……そうだろうか……?」
「…そうじゃないかな?」
「……バカにされていないかい?」
「そんなことする子じゃないと思うよ」
田上がそう言うと、タキオンは少しの間黙り込んでから言った。
「……私はする子だと思う…。君は、担当の事は持ち上げないといけないからね…。正直には言えないだろうが、…少なくとも、…私の事はバカにしている…。碌でもない人間だと思っている…」
「…タキオンがそう思っているだけじゃないのか?」
「……そうかな…?」とタキオンは不安そうに言って、案外すぐに折れた。田上もそれに若干の拍子が抜けたから、次の言葉に迷ったが、やっぱりエスもタキオンの事を心底バカにしているという素振りもなかったため「そうじゃないか?」と答えた。タキオンは、浅い息を重ねた後に、こう言った。
「少なくとも、…あの人は私の事を女子高生だと思ってる…」
「…女子高生だよ…」と田上が無作法に言葉を発した。すると、タキオンは「君もだ」と付け加えた。それから、また浅い息を重ねた後に、眉根を少し寄せながら「はぁ…」とため息を吐き、話し出した。
「君が認めてくれるのなら、私は大人になって君と出会いたかった…」
その後にまた苦しそうな顔をして、苦しそうに息をしていたが、少しタキオンの顔を見つめていると、その目の端からぽろりと涙が零れ落ちてきた。タキオンは、荒れる息を必死に深呼吸をして整えようとしていた。田上は、その流れた涙をただ見つめるともなく見つめていた。脳裏には、様々な思案が流れているようで、流れていない感覚もした。