それから、数十秒の間、息を必死に整えようとしているタキオンを、田上はただ黙って見ていた。タキオンの目の端からは、一粒涙が出た以降は何も出てこなかった。
タキオンは、必死に息をしていた。それは次第に落ち着いていった。そして、タキオンがようやっと落ち着いた時、また口を開いた。
「……君はいつ私の事を認めてくれるんだろうね?」
田上は、何も答えなかった。ただ、その言葉が耳から脳の中に入って、そこの中をずっとぐるぐると徘徊し続けて止まろうとしないから、その言葉を、じっと見つめて考えることができなかった。
田上が黙っていると、タキオンがまた言った。
「……すまない…。君が私を好きでいてくれることは知ってる…。…つまらない事を言った…。…すまない…」
田上は、先程と同じような心地で、タキオンの言葉に答えなかった。そして、またタキオンが言った。
「……私は、…私は…」
タキオンは朦朧としている人のようだった。息もまた苦しげになってきた。
「私は、……君に好かれたい…。だから、弱い自分を君の前に曝け出してる…。…でも、…君はそれに罪悪感を感じるようだね……」
タキオンは、田上の返答を待っていたが、田上は何も答えなかった。
「…………圭一君、……圭一君…」
タキオンはそう田上に呼び掛けた。答えを求めておらず、ただ呼ばれているだけなら、田上も答えることができたし、また、答える気があった。
「うん…」と田上は返事をした。タキオンは、その声を聞くと、苦しそうながらも表情に笑みを浮かべた。
「圭一君……」
そう言うと、タキオンは自分の頬を撫でてくれている田上の手に、自分の手を伸ばした。そして、それにそっと手を添えながら、撫でてくれる田上の手に、嬉しそうに愛おしそうに頬擦りをした。それから、また「圭一君…」と頬擦りしながら独り言のように言った。田上は、これをタキオンの愛情表現だと思ったから、敢えて返事をするという事をしなかった。ただ、この愛おしくもありながら、自分に振り回されてばかりいる憐れな女性を見つめていた。
その後の二人に、あまり言葉は交わされなかった。田上は最早、タキオンをベンチまで連れてきたときとは違って、もう何も話す気が無かった。タキオンは、今ここにあるかもしれない言葉を捨ててまでも、田上と仲良くいる事に徹していた。そうしていないと、また崖っぷちのいざこざにまで発展しそうで嫌だった。それは、田上も同様に感じ取っていたので、田上も、この、自分を好きでいてくれる憐れな子を、愛おしく思うような目で見つめていた。
その内に、五時間目のチャイムが鳴った。これは、田上の心に少しの動揺を走らせたが、状況は全く変わらなかった。タキオンは相変わらず田上の膝枕に頭をのせて、田上はそれを愛おしく見つめていた。
そのチャイムが鳴って、十数分した頃、つまり、六時間目のチャイムが鳴って数分した時、マテリアルがぶらぶらと道の向こうを歩きながら、こちらの方へやって来た。
マテリアルは、敢えてこちらを見ないように、花壇の花々を見つめながらやって来たようだった。恐らく、田上とタキオンがここに居る事は、ほとんど当たっていると思ってここまでやって来たようである。
タキオンが、マテリアルの存在に気が付くと、途端にその表情を強張らせて、マテリアルが来る方とは反対の方に顔を向けた。そして、田上の手首に鼻を擦りつけていた。田上は、それを困ったように見つめながら、マテリアルがやってくるのを待った。
マテリアルは、一歩一歩に時間をかけて、さらには花を見つめるために立ち止まってしゃがみこんだりした。それから、のんびりのんびりと田上たちの前まで歩いてくると、目の合った田上に言った。
「あんまり上手く行ってなさそうですね」
「まぁ、……そこそこです」と田上はマテリアルを見上げながら答えた。
そして、マテリアルがベンチに座ろうと思って、タキオンに「ちょっと私も座りたいのでどいてください」と言ったのだが、タキオンは全く反応をしようとしなかった。マテリアルは、それにフンと鼻を鳴らした後、田上に言った。
「やっぱり、彼女にするには面倒すぎませんか?」
「……良い人間ですよ…」
田上は、手首に鼻を当てて動きを止めているタキオンを感じながら、マテリアルに向かってそう答えた。
マテリアルは、これにもまた鼻をふんと鳴らすと、タキオンが占領できていないベンチの端の中の端に座った。中々尻が収まる面積が少なかったので、果たしてベンチに座っていると言ってもいいのかは怪しかった。マテリアルもそれを感じたようで、もう少し自分の分の面積を確保するために、タキオンを少しだけ押し、尻を動かした。そこで、一応落ち着けたようだったので、マテリアルは田上に顔を向けた。タキオンは、マテリアルに対しては知らん振りを決め込んでいたので、少し押されたくらいでは反応しなかった。
「…それで、どうするつもりですか?…トレーニングは?」
「…俺はちゃんとしますけど、…タキオンは…」
「タキオンさんも、もうちゃんとトレーニングしないと駄目な頃ですからね。本当に、舐めた真似してちゃ勝てませんよ?」
田上は、困ったようにタキオンの横顔を見下ろした。タキオンは、二人が自分の事を見つめていると分かっておきながらも、その視線にはできるだけ応えないように、田上の腕だけを見つめていた。そのようなタキオンを少し見つめると、田上はまた顔を上げてマテリアルに言った。
「どっちにしろ、勝つも負けるも本人の自由です。まぁ、…なるようになればいいんじゃないですか?」
「でも、タキオンさんは宝塚記念に出たがっていたんでしょう?」
「まぁ…」
「なら、田上トレーナーが尻を引っぱたいたほうがいいですよ。タキオンさんが望んだことなんですから」
田上は、また困ったようにタキオンを見下ろした。タキオンの方からも何か言って欲しかったが、この様子ではマテリアルが何処かに行かない限り、タキオンは口を開いてくれなさそうだった。
そして、またマテリアルが言った。
「どっちにしろ、本人が出たいと言った以上、最大限の準備をさせて出させるべきです。それが、他の走者に対する責任ってもんでしょう。侮辱ですよ、侮辱。トレーニングも碌にしないで、GⅠに出ようなんて」
その後に、マテリアルも、少し言葉がきつすぎたと思ったのか、田上と一緒にタキオンを見下ろすと、少し柔らかな口調で言った。
「いいですか?タキオンさん。あなたは私の事が嫌いでしょうから、私の言葉も聞き入れないかもしれませんが、あなたの好きな田上トレーナーだって、あなたが明確に宝塚記念に出たいという意思表示をしっかりと見たんですからね?あなたが初めに出たいと言ったんでしょう?」
それから、マテリアルは複雑そうな視線を田上に送ると言った。
「六時間目も戻らないつもりですか?」
「…まぁ…」と田上は曖昧な返事をした。マテリアルは、そう言った田上の顔を一瞬見つめると、次には、はぁとため息を吐きながら立ち上がった。そして、「トレーニングには間に合わせてください」と言うと、タキオンと田上を置いて立ち去って行った。
マテリアルが来たとしても、状況にあまり変わりはなかった。
マテリアルが立ち去ると、田上は膝元に居るタキオンに目を向けた。タキオンは田上の手首に鼻を押し当てて、目を瞑っていた。田上は、そのタキオンを――どうしたものか、と思いながら見つめていた。
タキオンは、田上にまた咎められるか、話しかけられることを恐れてか、目を開けずに狸寝入りを決め込んでいた。目を瞑っていたとしても、今までの話を聞いていたことは確実で、起きている事も確実だったから、狸寝入りに、目に見えるような効果はなかった。しかし、タキオンが田上に話しかけられたくないという意図で、狸寝入りをしていたのは田上も分かっていたから、田上もあまり話しかけづらかった。
ただ、田上も何も言わないわけにはいかなかったから、タキオンの頬に掛かっている髪の毛を指先でそっと撫でると「タキオン」と呼んだ。タキオンは、顔を僅かに動かしたきりで、他の反応は見せなかった。だから、田上は、尚も、タキオンの頬に掛かっている髪の毛を指先で触りながら、「タキオン」と呼んだ。田上には、碌な話をする予定はなかった。トレーニングをするにしろ、しないにしろ、タキオンに強要するという事はしたくなかったから、この件については放っておくつもりだった。
しかし、やはり、恋人として、トレーナーとして、意思の疎通は必要だった。それは、目を合わすだけでも、ぼんやりと伝わるものがある。声の調子で明らかに伝わるものもある。だから、ただ名前を呼ぶという関係でも良いから、田上はタキオンにこちらを向いてほしかった。田上は、それから二、三度「タキオン」と呼んだ。しかし、タキオンはただ拒否するように僅かに顔を動かすばかりで、 田上の方を向いてはくれなかった。田上はこれに困ってしまったが、だからと言って、タキオンに何もしないわけにはいかなかった。これは、義務感よりもただの寂しさに近い感情の方が強かった。田上は、元の様にタキオンとつまらない事を色々と話したかったので、自分と話す事を拒否してもらわないで、せめて目を開けて、こちらを一目でも見てほしかった。意思を伝えてほしかった。
田上は、それから五回ほど間隔を空けてタキオンの名前を呼んだが、タキオンは一向に振り向いてくれなかった。それで、田上も、タキオンがもう頑固なモードに入っているのだと解釈すると、諦めてタキオンの顔を見たり、目の前の草木を感じ取ったりした。
そうすると、タキオンも、名前を呼んでくれなくなった田上の事が気になって、そっと目を開けた。田上は、ぼんやりとした顔で目の前を見つめていて、タキオンが目を開けた事には気が付いていなかった。だから、タキオンは少し身動きをして、頭を上げた。
少し――圭一君が気付いてくれたら嬉しいな、という思いもあった。しかし、田上は気付かないままに目の前を見つめていた。これが、タキオンがもう少し高く頭を上げて、五秒ほど待ってみても何の反応もなかったため、タキオンは田上の気を引くことを諦めた。それから、ベンチに足まで入るように折りたたみながら、体を横向きにし、田上の膝の上に再び頭をのせた。これでも、田上は気が付かなかった。
タキオンは、ぼんやりと目を閉じたり開けたりを繰り返しながら、――圭一君は何を考えているのだろう?と思った。あのような上の空の時は、必ず何か考えている時だ。――死んだお母さんの事だろうか?それとも、私の事だろうか?
しかし、幾らタキオンでも、何の情報もなく、上の空の田上が、何を考えているかを知る事はできなかった。強いて言えば、話の流れから、返事を全くしなかった自分の事について、考えているのかもしれないが、それが横の方に逸れて、全然別の事を考えてしまっているかもしれない。そうなってしまうと、タキオンに田上の頭の中身は当てられない。それでも、自分の恋人が何を考えているのか知りたくて、タキオンは、一人で、頭を悶々と悩ませ続けていた。
田上の思考は長かった。タキオンと話すのは、もう六時間目の終わりのチャイムが鳴る頃と決めて、ぼんやりと考えているのかもしれない。それにしたって、もうタキオンの事を見ても良い頃合いだと思う。
少なくとも、タキオンはそう思って、――圭一君が次に声をかけてくるのならば、自分も圭一君の方を向いて、目でも見つめ合わせてやろうと思っていた。
名前を呼ばなくても、自分の方を向いてくれた気配があったなら、振り向いてやろうと思っていた。しかし、一向にその時は来ない。
タキオンも、何度か田上に気が付かれようと、わざとらしく頭を上げて田上の顔を確認しようとしたりしたのだが、田上は全く気付かない。その内、タキオンは目の前に居る田上が人間かどうか怪しくなって、その太ももを揉む事までした。確かに、人間らしい肉の付き方と触感をしていた。そして、そこでもう耐え切れなくなって、田上の腕をちょんちょんとつつくと、「圭一君」と呼び掛けた。
田上は、一度目では振り向かなかったが、二度目に「圭一君」と呼ばれると、すぐにタキオンの方を見て、少々ぼんやり感が抜けきらない様子ながらも「ん?」と聞き返した。タキオンは特に話す予定はなかったのだが、聞き返されたことによって、何か話さなければいけないように感じた。だから、田上と目を合わせると、少し微笑んで「トレーニングはするよ」と言った。田上は、この答えに急に目が覚めたように眉を寄せたが、すぐには答えずに、少し目を泳がせた後にこう言った。
「するの?」
「……まぁ、君のためだからしてやるよ…」
タキオンは、そう言いながら、また体勢を仰向けへと戻した。田上は、当然、この「君のためだから」という言葉が気に掛かったが、そういえば、「恋人として走ってくれ」と言ったのを思い出して、それもあながち間違いではないような気がした。
ただ、間違いでないならないで、あまり田上にもよろしくないように感じた。何故と言えば微妙なのだが、これは田上とタキオンの方向性の違いにあった。タキオンは、最早走りに対して田上の事を原動力にしていた。田上は、自分の事を原動力などにせず、自分の欲求のままに走ってほしかった。
けれども、これを本人に言ったところで詮無い事だった。タキオンは、今や田上に溺れ切っていた。田上という浮き輪が無ければ、海の底に沈んで行ってしまうような勢いだった。その田上からして、あまり浮力のない浮き輪だから、絶妙な具合だったが、田上は、これ以上タキオンを沈ませないためにも、努力をしなければいけなかった。だから、自分のやり方で、必死にタキオンを引き上げよう引き上げようとして、更に自分が居なければ駄目なようにさせた。
それなので、田上は自分のやろうとしたことが失敗して、最早どこへ進めばいいのか分からなくなってしまった。故に、タキオンの言葉に違和感を覚えようと、それを本人に告げれば、沈みそうな浮き輪が「沈みそう」と伝えているようなものだった。そして、タキオンは沈みそうな浮き輪に乗るのが愉快なようであった。
田上は、以上の一通りの事を考えた後、タキオンに何かを言ってやろうと思って、口を開いてからやっぱりやめた。やっぱり、ここで何か言ったところで、あまり意味のない物の様に思った。タキオンは、口元に少しの笑みを浮かべながら田上の顔を見つめていた。
やはり、考えている事を明確には分からなかったが、田上が、微かに口を開けて閉じたり、真剣な目でこちらを見てきていたりする様子で、田上が、何かを考えて、自分に物申そうとして、やっぱりやめたのは伝わっていた。だからと言って、今、タキオンが、田上と正面切って話し合えるほど、体力や気力を持ち合わせているのかと言うと、そうでもなかった。
ただ、やはり恋人同士であったので、田上が言わなかったことを、そのまま言わないままにさせているのは、なんだか二人の間に通ずる道に、蟠りができているようで嫌だった。その為に、タキオンは田上と目を合わせて、「圭一君」と呼んだ。その後の言葉は言わなかった。前述のように体力がなかったし、それを理由として、言葉は要らないだろうと思っていた。
言葉を発したくなかったのを体力のせいにした。それでもタキオンはそのままで良いと思っていたから、「圭一君」と呼び掛けた後、田上の手を取ると、自分の頬の所まで持ってきた。また、撫でろという事だ。二人の間に触れ合いがあれば、ある程度通ずるものはあると思っていた。
田上は、そんなタキオンを仕方が無さそうに見つめながら、親指で優しくタキオンの目の下を擦ってあげた。タキオンは、嬉しそうに、居心地よさそうににっこりと笑った後、目を瞑って、田上が、自分の顔を撫でてくれるのを受け入れていた。
それから、六時間目が終わるまで二人は触れ合いながら過ごしていた。田上に、顔やその周辺を、揉まれたり撫でられたりして過ごしていたタキオンは、時折、その人に「圭一君」と囁くように呼びかけていた。
田上の方は、それには何も答えなかった。答えるとすれば、タキオンと同じように愛おしげに「タキオン」と呼びかけるのだが、ただ単に呼びかけるのは、何だかバカバカしくて嫌だった。まるで、ティーンのカップルのようだったからアホらしかった。しかし、それに何の反応もしないのも、少し心持ちが悪かったので、名前を呼ばれた時は、タキオンに伝わるように少し強く肌を揉んであげたりした。
そして、六時間目が終わった。こうなると、二人共動かなければいけなかった。タキオンは、田上に甘え倒しだったし、できることならトレーニングには行きたくない様子だった。だから、田上は、何度か「行かなくても良いんだぞ」と提案したのだが、それについてタキオンは聞く耳を持たなかった。だから、田上は、それでもあまり行きたくなくて、甘えてくるタキオンを背に負いながら、とりあえず、着替えをする段まで運んでいった。
この時に、タキオンは、自分の進路についてぼんやりと考えながら、着替えをした。その為に下着まで脱ごうとして、慌てて替えの体操服を手に取ったくらいだった。
進路については、タキオンの中でも定まっていない。ぼんやりと頭の中に浮かんでいるのは、田上の妻として家で過ごすか、大学に行って田上と結婚しながらも勉強を進めるかだった。就職についての予定は特になかった。ただ、レールに沿って進む自分とレールから外れて進む自分が居るだけだった。
レールから外れる事に関しては、我慢しようと思えばできる。他の人から白い目で見られるのは慣れている。ただ、自分が家事育児に従事する憐れな専業主婦となるのが嫌だった。勿論、心底嫌ではない。田上に頼めば、仕事の合間にある程度の家事はしてくれるだろう。育児だって、田上は理解のある人間だし、子供を作りたくないと言えば、ある程度までは作らなくても良いだろう。
ただ、田上の理想としては子供ができて、家族が居る事のようだった。タキオンにだってその理想はある。ない事はない。ない事はないのだが、まだ、…少し自由な身でいたかった。遊んで暮らしたかった。家庭に縛られない身でいたかった。
これも、前述のように田上に頼めば許してくれるかもしれない。ただ、やはり田上の理想は家族が居る事だ。その理想を前に、ただ自分が遊んで暮らしているというのも罪悪感のようなものがあった。
そこで、タキオンの思考は、またレールの話に戻った。
――十八で子供を作るのは…、と思ったのだ。正確には、子供を作る瞬間は十八ではなく、十九にはなるだろう。しかし、自分が、家事育児をしている裏で、友達は遊んで暮らすのだ。ハナミやアルトやカフェやデジタルやフジキセキは、恐らく大学に入ってすぐにという事はないだろう。本人らの進路先はあまり聞いてはいないが、就職に進むのはあまりいないだろう。皆、大学に行きたがるはずだ。
自分は一体どうすればいいのだろうか?まだまだ遊んで暮らしたい自分が、家事や育児に励みながら、隣ではぬくぬくと遊んでいる友人たちを羨望の眼差しで見つめるのだろうか?
勿論、田上に言えば、どうとでもなる。しかし、あの人には理想があり、また不安定であり、結婚という確固たる証拠でもなければ、また揺らいでタキオンの下から離れてしまうような人間だった。
――そもそも、自分たちの結婚生活は理想の物になるのだろうか?
タキオンは今更そこの所を疑った。結婚すれば仲良くなるといつの間にか思っていたが、別にそうとは限らない。田上に自分たちの結婚を納得させない限りは、まだ「俺よりも良い人が居る」と言っている可能性がありそうだ。全て納得した時に結婚するという考えも勿論あるが、あの根の方で頑固な人間は、いつ二人の結婚に納得するのか分からない。いつの間にか、結婚すれば仲良くなると勘違いして、父母に「卒業すれば入籍する」と公言してしまっていたが、タキオンとしては、結婚してまであのような別れる別れないの喧嘩はしたくなかった。その為には、田上を納得させることが最優先事項だろう。
そこで、タキオンは思考が横の方にずれてしまったのに気が付いて、また大学の事を考えた。とにかく、田上とはまた話し合わなければいけないのは最優先事項だった。けれども、いざ話し合うという段になって、タキオンが明確な答えを出せるのかは別だった。しかし、田上の言うように時間は止まってはくれない。
タキオンは、ぼんやりと要らない事や要る事を考えた後、紙とペンを取り出して、その白い紙に、適当に、行くかもしれない大学の名前を三つ書いた。それを、体操服のポケットに折りたたんで入れると、タキオンは外で待っている田上のもとに行った。
田上は、タキオンを負ぶさるために外で待っていた。タキオンが出てきたときは、「遅かったな」と声をかけた。特に、重要な会話でもなかったため、タキオンはそれを「うん」と答えて済まし、田上の背に乗っかった。今は、田上に大学の名前を書いた紙は渡さなかった。タキオンとしては少し気が引けたし、また、もう少し田上が困るタイミングで渡したかった。例えば、トレーニングの直前などだろう。
タキオンはそう思って、田上と二人で早めにトレーニング場へと来て、他のチームメンバーが来るのを待った。その頃には、タキオンも田上の背から降りていた。手はポケットに突っ込んで、もぞもぞと紙をいじって、かさかさと音を立てていた。この音が、もしかしたら、田上に聞こえていやしまいかとタキオンは思っていた。しかし、田上は熱心にクリップボードに貼り付けている紙を読んで、今日の予定を確認していたので、タキオンの事など気にも留めていないようだった。これで、田上がタキオンの様子がおかしいのに気が付いて「何をしてるんだ?」と声でもかけてきてくれれば、タキオンの方も話を切り出しやすかったのだが、上手くも行かないものだった。
その内に、リリックの方が来た。リリックは、田上に一つ挨拶をした後、二人から三歩ほど離れた場所でじっと自分の手を見つめていた。その手に何があるのかタキオンは知らなかったが、リリックは、田上と同じように熱心に手を見つめていた。
次に、エスが来た。こちらは、マテリアルが遅れるという伝言を携えてやって来た。それが少しばかり遅れるという事だから、まぁ、マテリアルさんを待って始めても良いだろうという事になって、タキオンが田上にあの紙を渡すというの先延ばしとなった。
しかし、タキオンもここでじれったくなってしまった。だから、思い切って、ポケットから折りたたんだ紙を取り出すと、それを平たく広げて、田上のクリップボードの上に、半ば乱暴に置いた。田上は、少し驚いてタキオンを見つめ返した後、その白い紙に目をやった。三つの大学の名前が書いてある。ここからあまり近くないものだ。それが、縦に三つ並んで書いてあるものだから、まさかと思って田上はタキオンを見やった。
「…これ、…お前の大学?」と田上は聞いた。この時すでに心には動揺が走っていたが、田上はそれをできるだけ押し殺して聞いた。しかし、押し殺そうとした分だけ、それがわざとらしかったので、タキオンには、田上が動揺している事が容易に分かった。それで、首を縦に振りながら言った。
「うん。…私がここに進みたいと言ったらどうする?」
「言ったら…?」とタキオンの話を半分に聞きながら、田上は最早動揺を隠せていない声でオウム返しに言葉を発した。目は、白い紙に熱心に注がれていたが、動揺により、文字の識別はあまりなされていないようだった。田上は、その後二回ほど「言ったら…」を繰り返した後、タキオンの方をじっと見た。
「お前がもし俺と暮らせない場所まで行くんだったら、……別れる事も視野に入る…」
これはタキオンの予期していない回答だった。実際、その紙を田上に渡した後の反応をタキオンは何も予想はしていなかったのだが、精々、他の選択肢を一旦提示されるくらいかと思っていた。
「ええ!?私は?私が行きたい場所は?君は自分の為に、彼女の大学まで縛るのかい?」
この言葉で、田上の胸に多少なりとも罪悪感が湧いたが、それが田上を引き留める道具とはならなかった。
「違う。行きたきゃ行けばいい。ただ、お前がこの大阪の方の大学に行くんだったら、俺はもうお前と連絡を取りたくはない」
「なぜ?私が君を裏切ったとでも思ってるのかい?」
このタキオンの指摘は図星のようだったが、田上はそれを無視して言った。
「違う。元々、俺とお前は付き合うべきじゃなかった。それを、お前が自分から出て行くって言うんだったら、折角俺の縛りから解放される瞬間だから、別れたほうが良いと思うんだよ。…お前は、もっと若い子と付き合って、それなりに幸せになればいい。…元々、付き合うべきじゃなかった」
タキオンは、こう言われると、強い言葉を我慢するために歯を食いしばった。
「……いいよ。…元々、そんなレベルの低い所に行くつもりはない。……悪い事をした。…君を試すような真似だった。…すまない」
そう言ってから、タキオンは手をおずおずと差し出した。仲直りに手を繋ごうという事だった。田上は、内心でこの出来事に怒っていたし、それは表情にも明らかに出ていた。ただ、それを言葉として放出する事はなく、ただ、タキオンと仲直りの握手をしないことで仕返しをした。
そうしたことで、田上の気分は尚も悪くなった。タキオンは、自分のしでかした過ちに少し泣きそうになりながら、繋がれなかった右手を下ろした。その後にマテリアルが来た。
田上は、できるだけ、今しがたの怒りを押し隠しながら、トレーニングの始まりの挨拶をしたが、それはタキオンが落ち込んでいる様子や、田上がそもそも怒りを隠し切れていない様子から、チームメイトにも明らかに伝わっていた。
田上は、怒るのを必死に抑えるために拳を握り締めていた。
タキオンは、落ち込みながらトレーニングに励んでいた。田上は、できるだけエスやリリックには優しく接した。タキオンには、できるだけ目を合わせないようにした。それが、尚の事タキオンを落ち込ませた。エスとリリックは、気を遣って何の声もかけなかったが、マテリアルは、そういう訳にもいかず、とっととこの二人に仲良くなってほしかった。だから、トレーニング場を走っている三人を遠目に言った。
「…今日のタキオンさんは、不調そうですね…」
確かに、先程計ったタイムも、ここ数日で飛び抜けて低かった。しかし、田上は自分の心の整理ができない余りに、何も答えることができずに、ただ遠くのタキオンを見つめ続けていた。マテリアルは、そうして何も答えない田上の顔を覗くと、無神経そうに言った。
「怒ってるんですか?」
田上は何も答えなかったが、それで退くようなマテリアルではなかった。
「またタキオンさんと喧嘩したんですか?…明らかに落ち込んでますよ?…今度は何があったんです?」
立て続けに質問をされると、田上もただ腕組みをしながら首を横に振った後、「何もありません」と答えた。これは普段の田上の様子からすれば、明らかなる嘘である。ただ、マテリアルも詳しく事情を知らない以上、その嘘の中身について議論する事ができなかった。
だから、「嘘でしょう?」と言うと、また「何があったんですか?」と問い詰めた。その後に、「ここで田上トレーナーが言わないんだったら、タキオンさんに聞くことになりますけど」とも付け加えられた。すると、田上は眉根を寄せて、じっと黙り込んだ後、またこう言った。
「聞きたきゃタキオンの方に聞いてください。…俺から何も言うことはありません」
「ふぅん」とマテリアルは、多少ニヤニヤしながら田上の顔を見つめていたが、次には、トレーニングの指導の方に戻らなければいけなかった。
休憩時間では、普段は楽しそうに話しているタキオンと田上も、人一人二人分の距離を空けていた。田上は絶対にタキオンの方を見なかった。タキオンは、申し訳なさそうに、悔やむように、チラチラと田上を見る事があったのだが、田上がこちらを見てくれないとなると、ため息を吐いて項垂れた。
やがて、休憩時間が終わった。マテリアルは、その二人の間にある残念な空間を見つめて、鬱陶しく思ったのだが、今はチームメイトが居て、トレーニングをしている以上、その時間を必要以上に奪うわけにはいかなかった。だから、タキオンと田上と自分とで、改めて話をする機会は、トレーニングの後へと持っていかれた。
トレーニングが終わると、田上はてきぱきと片付けをして、もう早々に寮へと帰ろうとしていた。タキオンへの挨拶は、チーム皆で「お疲れさまでした」と行った時の一言だけだ。これは、相当に怒っているらしいことが、マテリアルにも伝わっていた。けれども、今更田上の怒りに怖気づくわけでもないので、マテリアルは「あなたはちょっと待ってて下さい」ときつめに言うと、こちらも、落ち込みながら帰る準備をしようとしているタキオンを呼び止めて、三人で向かい合った。他の二人は、もう一度「ありがとうございました~」と言いながら帰って行った。
その二人を見送ってから、マテリアルはタキオンに向かって言った。
「それで?今回は、私が見ないうちに何があったんですかね?」
「あんまり君には関係ないよ…」とタキオンが、嫌そうに言った。
「大ありですよ。あなた方は気付いていらっしゃらないかもしれませんが、あなた方の様子が険悪なので、リリーちゃんもエスさんも気を遣ってたんですからね?」
マテリアルのその言葉に、タキオンは恨めしそうに睨んだだけだった。
「まぁ、睨みたいなら幾らでも睨めばいいでしょうが、今回の主題はそこじゃないんです。私は、あなた方にチームの為だけじゃなく、あなた方の為として仲良くやってほしいので、こうして話し合いの場を設けたんです。それとも、一週間後くらいに仲直りしますか?一週間険悪なままで過ごしますか?」
そこで唐突に田上が口を開いた。
「応急的に接着剤でくっつけた所で、またすぐに離れるんじゃ、意味が無いんじゃないですか?」
「え?」とマテリアルが聞き返したので、田上はまた同じことを繰り返した。それから、マテリアルが次のように述べた。
「それじゃあ、あなたはタキオンさんと仲直りしたくないんじゃないですか?」
「…それは俺の口からは言えません。タキオンの方に聞いてください。…そして、今日はもう俺に話す気はありません。頭を冷やしてくるので、タキオンとは明日話します」
田上は烈火を目の奥に宿したまま、できるだけそれを押し殺した口調で話した。それから、そのまま自分の荷物を持って、寮の方へと速足で歩いて行った。
マテリアルは、引き留めるという事はしなかった。ただ、田上の静かな勢いに押されて、速足で去って行くその背を見つめているだけだった。その背は、階段を使わずに土手を駆け上がると、次第に見えなくなった。そうして、一息吐けるようになってから、マテリアルは、はぁ~と思わず感心してしまったような長いため息を吐いた。
「とんでもなく怒ってますね。…本当に何をしたんですか?」
「…………志望する大学を書いて渡した……」
タキオンは、項垂れて地面を見つめながら答えた。それに、マテリアルは驚いた声を出した。
「それであんなに怒ってるんですか?」
「………私たちの未来に背くようなことを私がした……。けど、……あれ以外に良い話の切り出し方があっただろうか……」
タキオンはしきりに自分の両手を擦り合わせていた。マテリアルはそのタキオンを憐れそうな目で見た後に聞いた。
「なんで怒ったんですか?そりゃあ、大学の名前を見ただけで怒る人間はそんなにいないでしょう?なにか、田上トレーナーに大学での苦い思い出とかがない限り」
タキオンは、顔を苦くさせて、しきりに両手を擦り合わせた後、こう言った。
「……圭一君は、…口では――お前の自由にしていいって言っているが…ね…。…私は、どうもそれが嘘臭いと思った。…だから、わざと行く気のない遠い場所にある大学を紙に書いて、提示した。…まぁ、私の睨んだ通り、圭一君が動揺した…。…だから、もしかしたら、圭一君は私に怒っているんじゃなくて、動揺した自分に怒っているのかもしれない。いや、…私たちの関係性も決して普通の人のようじゃない。……普通の人間になりたいんだろうね…」
そう言いながら、タキオンはどうしようもなさそうに顎の付け根の所を人差し指でポリポリと掻いた。マテリアルもタキオンに同情して、困った顔をしながら言った。
「まぁ、普通の人間として、人並みに暮らしたい願望があるんだろうなと言うのは、傍からあなた方を見てても分かります。…だから、…田上トレーナーの頭の中に理想があるんでしょうね。…彼女と一緒に暮らしたいとか、…それこそ、田上トレーナーはタキオンさんの事を溺愛していますからね。一緒に暮らしたいと思わなはずがないでしょう。それでいて、一緒に居てくれるかもしれない彼女が遠い大学に行きたいと言ったんだから、動揺しないはずがないでしょう。…田上トレーナーは何か言いましたか?」
「……まぁ、…私は若い人と付き合うべきだと言ったね…」
「そうですね。それが田上トレーナーにとっての普通ですよ。……まぁ、…あなたも難儀な人を好きになりましたね」
タキオンは、これに返事をせずにただ少し苦しそうに眉を寄せた。それから、マテリアルの話は世間話へと移行していった。
「いや、…まぁ、こうして話してて思うのは、タキオンさんは切羽詰まってた方がよっぽど冷静ですね。田上トレーナーに抱き着いて余裕のある時は私の話なんて聞こうともしない。けど、こうやって、喧嘩してれば、すぐに自分のやるべきことは見据えますね。ずっと喧嘩していてください」
「君が、仲良くやってほしいと言ったんじゃないか…」とタキオンは、嫌そうな顔をしながら言った。
「まぁ…仲良くやってほしくないわけじゃないですが、こっちの方がタキオンさんはずっと素直で良いです。それと反対に、田上トレーナーは不愛想になりますけどね」
「じゃあ、猶更仲直りさせてくれ」
「仲直りさせろって言ったって…、今日はどうですか?電話かけて出ますか?明日、あなたと話すって言ってましたけど…」
「…どうだろうね…。トレーニングをしなきゃいけないから、朝になったら、出てくるとは思うけどね…」
タキオンの顔は苦々しくなっていた。
「まぁ、…トレーニングがあるんなら出てきますね。出てこなくても、私が電話を掛ければ流石に義務感で私の電話には出るでしょう。……ふぅ。……毎晩電話してるんでしょう?今夜は?」
「……一回かけて出なければ諦めるかな…」
マテリアルは、そう言ったタキオンをまた憐れそうに眺めた後、「じゃあ、また明日。何かあれば、また言ってください」と残して去って行った。
タキオンは、その時になって、トレーニング後の疲労が、体に重たくのしかかってくるような気がした。それで、そのまま寮には帰らずに、土手に座って運動場の風景を眺めた。ここでも田上との色んな思い出があった。田上に無理矢理キスをしてしまった時もあったし、一緒に寝転がって空を見た時もあった。ついこの前にも喧嘩したばかりだった。そして、またすぐに喧嘩をしたところを見るに、田上には凡そ認められない物が、二人の関係性の中にあるのだろう。その大きな部分を占めるのが年齢であり、田上の大きな理想だったのだろう。
田上のこれまでの人生の中で、恐らく、八歳も年下の未成年の女子高生と付き合うなどと想像する事がなかったのではないかと思う。そうでなければ、そんなに拒否反応を起こす事もないだろう。それが分かっていたから、タキオンも田上の前で「大人になって出会いたかった」と零した。
目の前にいるタキオンが、成年ではない今、田上が目指すべき理想とは一体どこにあるのだろうか?
田上は、寮に帰ると、入居審査が通った通知が来ていた。田上はそれを戸惑いながら見つめていた。やる事はやったが、やったこと全てが崩れいっていそうな気配がした。田上には、これの動揺が凄まじく、暫くその通知を手に取って眺めたり、椅子に座ったり、部屋の中を意味もなくうろついたり、妙に体を動かしたくなったりしていた。
それから、頭を横にぶんぶんと振ると、脱衣所に脱いだ靴下を放り投げて、自分の机に座り、少し考えた後にその引き出しからカッターを取り出した。そして、それを頻りにカチカチ言わせて、出したり引いたりしながら、自分の手首を見つめていた。入居審査の動揺を過ぎ、タキオンの事を思い出していた。
リストカットをしたら、どれくらい痛いのだろうか?と思った。その次に、どのくらい気持ちいいのだろうか?と思った。田上は、リストカットに対して、不思議と麻薬みたいに気持ちよくなれるのかもしれないと思っていた。
その次に、――その傷跡を見たら、タキオンは悲しむだろうと思った。
そして、その次の次に、――タキオンなんか気にしてもしょうがないと思った。
タキオンこそ、この騒動の一番の原因だった。少なくとも、田上はそう思っていた。それから、あの部屋への入居も取りやめてしまおうかと思った。ただ、今更グダグダ言ったところで面倒事になるだけなのであんまりやる気はなかった。ただそうなりたいと望んだだけだった。その後に、田上は思い切って、恐る恐るカッターの刃を手首に押し当てた。まだ強く押してないので血は出ない。これを左右のどちらかに引けば、より強い痛みを感じる。田上は、その直前で固まったまま動かなかった。ごくりと唾を飲みこんだ。そのまま一二分ほど固まっていると、汗も吹き出してきた。息は浅かった。引く引かないの所で、田上の心は葛藤を極めていた。引くと決心すると、突然に心が引かないの方へ転がる。そう思うと、何だか物足りなくなる。引きたくなる。この手首に刻み付けて、タキオンへの復讐を成し遂げたかった。タキオンが悲しむのならばそれが良い。最早、田上は、自分がなにかに血迷って、リストカットをしようとしているのではなく、タキオンへの復讐のため、タキオンの心の中に、自分の手首の傷跡を刻み付けるためにやっているのだと分かっていたが、容易にそのカッターを手首から離すわけにはいかなかった。
結局、田上は、リストカットなどの、痛みや傷や血を伴うものはしなかった。元々、痛いのは嫌いだった。けれども、二十分から二十五分ほどの間、固まったまま、心の中をぐるぐると徘徊して動かなかった。そして、カッターを雑に引き出しへと閉まった後、前髪を掻き上げて俯き、それから、自分の手首を憎らしそうに一度殴って、二度目に摘まんだ。それでどうこうなるわけでもなかった。
その後に、田上の考えは、また入居審査の通知へと戻った。
田上は薄暗い部屋の中で通知を眺めていた。不備はないようであるが、今の所は不備があってほしかった。その通知には、これから契約をしなければならないと書いてあった。契約は、また不動産の方でするらしい。折り返し担当の方に連絡を頼むと書いてあったから、田上はこの前交換した連絡先で、あの担当に連絡をしなければならなかった。
――行くとしたら日曜かな…と田上はぼんやりと通知を見ながら考えていたが、今すぐに連絡をするという気は起きなかった。実の所、明日辺りに新生活に必要な物をタキオンと一緒に買いに行こうと思っていた。これは、まだタキオンに言っていなかった。ただ、田上の頭の中で予定を立てていただけだった。これをもしタキオンに言っていたとすれば、それを口実に、仲直りをするのも簡単かもしれなかったが、言っていない以上は、これを口実に仲直りをするわけにも行かなかった。ただ、田上もタキオンとの仲直りを諦めきれず、また、明日までに仲直りをするのは不可能に近いと思っていたから、ぼんやりと入居審査通知のことを考えていた。
田上の頭はもうすでにタキオンと仲直りしたいと考えていたのだが、それを真っ直ぐに考えるのには少し複雑だった。まだ、タキオンが遠い大学に行きたいと言ったことは覚えていたし、そういう大学に行くんだったら別れたほうがいいだろうという考えは変わっていなかった。
タキオンは、あれを「君の事を試したかった」と言っていたが、実際問題そこなのである。大学は自分たちの目の前にあった。午前中までは、その輪郭を見定めようとしながらも、まだぼんやりとしていた。それが、唐突にタキオンがあの紙を田上に渡してきたことによって、急激にその輪郭を鮮明にした。
その変わりように戸惑った節も、田上にはあるのだが、タキオンが言うように「裏切られた」と感じたことも、冷静になった今思い返してみれば、あるような気がした。実際にタキオンが遠くに行くと言うのであれば、田上にとってそれは看過したくない出来事なのだ。
元々、田上は寂しいのである。友達がいたとしても、完全に心を開く気にはなれない。そこに現れたのが、田上の人生で最大の理解者であるタキオンだ。年齢という壁はあったが、それでも好きだと言ってくれた。それが田上には堪らなく嬉しかった。そんなタキオンだったのに、今回自分の心を無視して、遠くの大学の方へ行きたいと言った。勿論、嘘だと言っていたが、田上はそれを再び思い出すだけで、多少心がムカムカしてきた。
明日、タキオンになんて言ってやろうと思った。その後に、もしかしたら、タキオンから電話がかかってくるかもしれないと思って、電話がかかってきたらなんて言ってやろうと思った。
とりあえず、思いつく限りの悪口雑言を頭の中に並べたが、流石に自分でも笑ってしまうくらいに乱暴な言葉だった。そんな言葉は、怒って頭がかっかと火照っていない限り、タキオンには絶対に言わないだろう。しかし、田上はなんとかタキオンに復讐してやりたかった。それでいて、タキオンに嫌われたくなかった。今の所は復讐心のほうが優勢であるが、悪口雑言を止めるくらいには、タキオンに対して親しみも持っていたので、中々上手い復讐の方法が思いつかなかった。
その後に、マテリアルから一言だけメッセージが来た。
『タキオンさんが後悔してましたよ』
田上はこれに目を留めた。この言葉が田上になんらの動きをもたらすこともなかった。むしろ、怒りを思い出させて、その怒りを少し煽ったくらいだった。しかし、田上は、もう何もする気がなかったので、マテリアルのメッセージに返信はしなかった。
タキオンが後悔していたことなんて、喧嘩した初めの方から分かっているのである。そして、そんなことで収まらないくらいには、あの時の自分は怒っていたのである。今はどうか分からない。タキオンの萎れた声を聞けば、もう許してしまいたくなるかもしれない。けれども、タキオンへの復讐を成し遂げるためには、まだ許すのは早かった。少なくとも、自分の怒りと同じくらい大きな後悔を、タキオンは抱かなくてはならない。
田上はそのように考えていた。だから、タキオンから電話がかかってきたとしても、出てはいけないような気がした。出たら思わず許してしまうだろう。それは避けなければいけない。あんまりくだらない事をしていると自分でも分かっていたが、タキオンになんの仕返しもせずに許すのは、どうしても癪だった。