結局、タキオンから連絡は来なかった。田上も、向こうが相当反省しているのだろうと思った。タキオンの連絡を今か今かと待つばかりに、不動産の担当の方へ連絡が遅くなったまである。連絡はメッセージでできたから、いつでも送ってよかったのだが、残念ながらその日の内に、向こうから返信が来ることはなかった。
明日の買い物は、どうしようかと思った。明日は土曜なので、午前中にトレーニングがある。つまり、確実にタキオンと会い、何かしら話すことになる。
その時に、タキオンからの誠意が籠もった謝罪が聞けるだろう。自分は許してしまうかもしれなかった。タキオンに謝られて懇願されたら、無理に押し返すことはできない。頭に血が上ってない限り無理だ。でも、それだけで許したくはなかった。喧嘩して仲直りした直後に、よくものうのうと二人でお買い物デートができるだろうか?田上はしたくなかった。かと言って、折角、二人で住むことになるかもしれない家の為の買い物をするのに、一人でするのはもっと嫌だった。田上はそこの所で葛藤した。自分自身のプライドと言えば、そうかもしれなかった。しかし、そうでないような気もする。タキオンの事を好きか嫌いかの狭間で揺れているようなものだ。つまり、底の方は復讐心だった。復讐心がプライドなのかと問われれば、そうかもしれない。しかし、そうでないかもしれない。
田上は揺れていた。その日は、夜の一時を過ぎてから寝た。普段は十二時までに寝ているので、今日は一時間ほど遅かった。その遅い時間に、何かの為になった事をしたのかと言うと、別にそうでもない。専ら、ネットサーフィンや、脳をあまり使わない暇潰しのゲームをして、時間を、ただ、無為に浪費しておくに留まった。
それから、少し眠たくなってきたときに、布団の中へ入りこんだ。あまり眠りたい気分ではなかったので、一人で延々と話し続けているラジオをつけ、偶に出てくる下ネタを鼻で笑ったりした。その後に、もういよいよ寝たいと思ったから、切りの良い所でラジオを止め、ただ虚空を見つめた。
――タキオンは何をしているだろうか?と思った。流石にもう寝ているだろうと思った。ラジオを止める時に、ついでに時計も確認したのだが、もう一時五十分になっていた。こんな時間には、もうタキオンには寝ててほしかった。
――泣いてやしないだろうか、と思った。
その後に、田上も、流石に笑ってしまった。タキオンは、このような事で枕を濡らすような女じゃないだろう。
すると、その次には不安になった。
――自分の思い違いじゃないだろうか?タキオンは、もしかしたら、本当は、このような事で泣く女なのかもしれない。
あまり、タキオンが、枕を濡らしている姿は想像できなかったが、タキオンがもし泣いていたとすると、自分はその気持ちを察してやれないダメ男のように思えた。無論、深夜の為に頭が上手く回っていないから、そのような考えに至るのもあった。
そして、深夜の如く、田上は、すぐに、その気持ちから切り替わって、明日タキオンと仲直りできたら、何を買おうかと考えていた。買うものは一応リストとしてまとめておいたが、それを思い返して、買う際の、タキオンとのやりとりを妄想するだけでも良かった。ただ、どの妄想にも、――明日、仲直りができるかは、ほとんど無理そうだけどな…という感想が付いて回った。
その内、ぼんやりとタキオンの事をあれこれ考えながら、田上は眠りに就いていった。最後には、――仲直りできたらいいな…、と思っていた。
タキオンは、話し相手に同室のデジタルを選んで、色々田上についての議論や愚痴を並べた後、夕食を食べたり、風呂に入ったりして、順当に生活を行い、布団の中に入った。
そして、布団の中に入りながら――圭一君は、ちゃんとご飯を食べただろうか?と思った。田上は、風呂には入っていたが、夕食はもう体が怠かったので取らなかった。
タキオンは、圭一君がああいう時に夕食を取るはずがないと考えていたから、その予想は間違っていなかった。
その次に、――もう寝ただろうか?と考えた。
これも、寝てないと結論を出し、それが見事的中した。何か励ましの連絡でも送ってやろうと思ったが、明日会った時が一番話しやすいだろうと思ったから、送るのはやめた。
その次には、――自殺なんかしてはいないだろうか?と思った。流石に、そんな短気過ぎる男ではないから、タキオンもそれは否定した。しかし、一度田上が自殺した所を想像してみると、どうも不安になっていけなかった。寝返りを二三度程打った後、その場に留まっているのに耐えられず、一度トイレへと立った。
それから、タキオンは部屋の方に戻ってくると、スマホの方を取り出し、自分のLANEの画面と向き合った。田上にメッセージを送るかどうか、大いに悩んだ。時刻は、もう十二時を過ぎた頃である。普段電話をしている時であれば、もう二人は布団に入っているはずである。田上は、八割方、起きているだろうと、タキオンは思っていた。
さて、どうしたものかと思って、二十分程スマホの画面と睨めっこをしたが、とうとう田上にはメッセージを送らなかった。やはり、明日直接会って、謝って仲直りを申し込んだ方が、話は拗れずに済みそうだった。
タキオンは、ドクンドクンと鳴り響く自分の心臓の音を聞きながら、ベッドの上に寝転がっていた。これが、圭一君の為に鳴り響くことがあれば、走る瞬間の喜びに打ち震える時もある。そして、今、自分の体を動かす血液を、体中に回すためにも、一生懸命に働いている。
この心臓の音が止まったとしたら、どうだろうか?圭一君は悲しむだろうか?
確実に悲しむだろう。それはタキオンにとって明白な事だった。圭一君は、自分の事を好きでいてくれている。それも特大の「好き」だ。そんじゃそこらのファンなんか目じゃないくらいに、好きでいてくれている。そう思うと、タキオンは少し嬉しかったが、それだけに今日は悪い事をしてしまったと思った。
――明日、謝ったら許してくれるだろうか? 今日の田上の顔を思い出してみると、タキオンは堪らなく悲しくなった。身から出た錆ではあるのだが、あれ以外の方法があっただろうか?きっと、正面から今後の進路を話し合った所で、自分から話を逸らそうとしてしまうか、または、自然と別の方向に逸れていって、話が有耶無耶になってしまう未来しか見えない。
あのままでは、埒が開かなかったのだ。だから、多少意地悪な方法で田上の前に突きつけた。自分の前にも突きつけた。だから、身から出た錆であることに間違いはないのだが、今度は、その錆を正面から見つめて、話し合わなければならない。その錆が体から離れて、目の前に落ちてくることこそが目的だったのだ。頭に血が上って、普段よりも真剣になった時こそ、正面から見つめ合って話し合わなければならない。
タキオンは、自分の心臓の音を、尚も聞き続けながら、――圭一君は明日、私と話してくれるだろうか?と思った。タキオンが田上を怒らせたことに間違いないが、それでも頭を冷やしてきますと言う程の冷静さはあった。そして、明日話しますとも言った。心変わりがなければ話してはくれるだろう。その後に許してくれるのかが、タキオンにとっては問題だった。
――その時にまだ怒っているだろうか?
少なくとも、一晩で冷めるような小さな事で喧嘩したのではないから、話す時にはただの優しい圭一君であるはずがなかった。二言三言で許してはくれないだろう。少なくとも、議論に持ち込まれるはずだ。そうなるとキツイ目で睨まれるかもしれない。自分が悪かったのは分かっていたが、できる事なら睨まないでほしいなぁ、とタキオンは思った。お前とは付き合えないと、いつものように言われるかもしれない。全くそうでもないのに、自分の事を駄目男と評価している田上が、愛おしくもあったが、そんな食い違った低い評価をするよりかは、もっと自分の事を、正当に、順当に、頼りになる偉大な男だと認識してほしかった。勿論、自分らの関係が、決して、普通のものと言えるとは思っていなかったが、もう少し上手く行かないものかと思い、タキオンは目を瞑りながら少し眉を寄せた。
もうそろそろ、タキオンも、眠りに就きそうな心地だったが、まだまだ田上については考えることがあった。ただ、それは眠気に侵された、あまり回りの良くない頭の中で、堂々巡りに行き着くことが多々あった。タキオンは、田上の為に、少しの不安に侵された眠りについたが、それでも、田上のことは好きだった。そして、田上も同様に、タキオンの事が好きだった。
朝起きて、タキオンは、田上に、モーニングコールをするかどうか迷った。実際、田上は、自分のモーニングコールを当てにして起床しているらしかったから、ここで電話をしないでおくと、田上は寝坊するのではないかと思った。それに、場合によっては、田上は、朝、寝ぼけているあまりに、思わず、自分からの電話に出てきてくれるのではないかと思った。そこで、特に重要な話し合いをするつもりはなかったが、一度だけでもいいから、トレーニング前に、田上の声を聞いておきたかった。ここで、田上に電話をかける勇気が出たのは、もしかしたら、タキオンも寝ぼけていたからかもしれなかった。
タキオンが電話をかけて少し待つと、田上との電話が繋がった。しかし、いつものようにおはようとは言わなかった。もしかしたら、思わず、いつもの様に電話に出てしまった後で、タキオンと喧嘩したことに気付き、黙る事しかできなくなったのかもしれない。
だから、タキオンは、とりあえず、電話の向こうに「おはよう」と呼び掛けてみた。すると、電話の向こうから、微かに「んん」と唸り声の様なものが聞こえてきたような気がした。その事に、タキオンは少し嬉しくなったが、あまり調子には乗らずに、「昨日はすまなかった」と言い、次いで「また、トレーニングの時に話したい。もう一度謝るよ」と言ってから、別れの挨拶を告げ、電話を切った。
朝食を一緒に取るのは、もう諦めていたから、敢えて誘うという事もしなかった。それに、今回の問題は、二人の意見を取りまとめてくれる人が必要だろうと思ったから、二人だけで朝食を取るのは、あんまり芳しくないような気がした。だから、マテリアルが居るトレーニング後が良いだろうと思った。
田上は、電話の後に、タキオンからの朝食の誘いが無かったことに気付いて、少々がっくりときた。もしかしたら、もう自分よりも、タキオンの方が怒っているのかもしれないと思った。
それは、タキオンと電話した時の声を聞けば、明確に、怒っていないと分かるのだが、田上には、その声を聞いたとしても、怒っていると疑わずにはいられなかった。
こうなってくると、むしろ、相手の機嫌が心配なのは、田上の方だったが、それと同時に、昨日の「簡単には終わらせない決心」を覚え続けなければいけなかった。
田上の心は、朝起きて早々に、また、もやもやとし始めた。昨日の夕食は食べていなかったが、不思議と腹が減った感覚はなかった。だから、今日の朝も食べずにおいた。もし、今日、タキオンと話すときに、朝食の話題が出て、そこで自分が食べてないと言った時に、タキオンが心配してくれたら嬉しいと、心のどこかで思っていた。
トレーニングまでの時間は、マテリアルと一度連絡を取って、その後はゲームで暇を潰して過ごした。丁度、ストーリーに重きを置いたゲームをやっていたので、田上はゲームのプレイの合間合間に流れるムービーを熱心に見つめていた。特に、特色すべき面白さはなかったが、そのキャラクターの中の一人に、妙にタキオンと雰囲気が似た女の子がいたので、田上はそれで少々気が散った。
トレーニングの時間になると、田上は、トレーニングの時にいつも着る服に着替えて、外に出た。それから、寮を離れて、地面を見つめながらぽつぽつと歩いて行くと、ウマ娘寮の前で、ばったりとタキオンに出会ってしまった。
タキオンは、怒っているような雰囲気ではなかった。どちらかと言うと、田上と話すタイミングができて嬉しそうなのを、落ち着きを持って堪えている顔だった。田上は、昨日よりかは断然怒っていなかった。けれども、こうして、タキオン本人と対面してみると、どういう顔をすればいいのか分からなかった。当然、まだ許したくない気持ちは残っているが、許してやってもいいんじゃないかという気持ちも、心のどこかにある。少なくとも、許してやったほうが自分の利益にもなるだろう。
田上は、あんまりタキオンを見ないようにしながら、「おはよう」と声をかけた。タキオンも「おはよう」と落ち着いた声で挨拶をした。それから、一人で歩いて行こうとする田上の横に並ぶと、また「ごめんね」と言った。
これには、田上は何も答えなかった。許してしまえと、心の中の自分が叫んでいたが、また、同時に、やっぱり許すな、と言う自分が、その叫びを押し止めていた。ただ、前から来る通行人とすれ違う為に、タキオンが、田上の方に身を寄せた時、タキオンの手が、田上の手と触れ合った。そうすると、田上はタキオンの方を見た。タキオンも田上の方を見ていた。一瞬二人は見つめ合った。田上はここで「ごめん」とでも言おうかと思った。しかし、やっぱり、それは許さない自分が、押し止めて、タキオンから目を逸らさせた。
トレーニング場に着くと、もうすでにそこにはエスとリリックが待機していた。その直後にマテリアルが到着した。どうやら、タキオンと田上を後ろから見ながら、歩いていたらしかった。だから、二人の事を愉悦の籠もった目で見つめながら、「まだ無理そうですかね?」と言った。それには、タキオンも田上も、同様に、不快に思ったので、二人揃って無視をした。
田上の態度は、昨日よりも柔らかくなったと言えども、いつものようにタキオンと仲良くとは行かなかった。無論、他の人たちにはできる限り優しく接していたが、タキオンだけにはどうも動きがぎこちなくなっていた。田上も、昨日よりかは多く、タキオンと目を合わせていたが、どうしてもその後に耐え切れなくなって目を逸らしてしまった。タキオンは、田上が昨日ほど怒ってないと知って、大分気が楽になった。まだ、話すタイミングではなかったから、マテリアルと打ち合わせて黙っていたが、それでも、目が合うと、期待するように田上の目を見つめていた。
トレーニングが終わると、早々にリリックが帰った。しかし、エスは、四人にくっ付いて土手の方に座ったので、少し田上がそわそわとした。タキオンもマテリアルも、これは大分内輪の話だと思っていたので、マテリアルの方が、エスにこっそり話しかけて、タキオンと田上の仲を取り持つ話し合いをするからと、エスを寮の方へと帰らせた。
エスは、好奇心のある目で三人の事を見つめていたが、素直に帰っていった。そこで、漸く、タキオンが、土手で、田上の隣に座って言った。
「昨日は本当にすまなかった。私だって、君と別れたいわけじゃない。……ただ、……本当に悪い事はしたと思っている。…本当に……、…君と少し話したいだけだった。……私たちの間で、勿論、進路は重要なものだ。…そうだろう?」
タキオンが、そう言って、田上の顔を見つめると、田上は地面に生えている草を指先でいじりながら、こくりと頷いた。タキオンは、田上の反応があった事に多少安心して、彼氏の顔を少しの間見つめると、また話し出した。
「…だから、……私も君と話したかったんだが、そこで少々意地悪を思いついた。君を敢えて焚き付けるようなことをした。君が嫌がるのは分かってた。ただ、…私も少し君を試したかった……。悪い事をしたと思ってる……」
そこで、タキオンは次の言葉を言おうとすると、その前に田上が口を開いた。視線は、相変わらず地面の草に向けられていたが、流石に、話すときは草をいじってはいなかった。
「……お前だけが悪いとは思ってない」
「え?」
「お前だけが悪いとは思ってない」
「ああ。…うん、…そう言ってくれると助かる…。………それで、私は、…自分が蒔いた種ではあるのだが、今ここで君の真意と私の気持ちを照らし合わせたいと思ってる。そして、これを冷静に運ぶために、マテリアル君が必要だ。言わば、司会者役をしてほしいと思ってる。……その前に、今一度聞いておきたい」
そして、タキオンは、少し黙してから言った。
「……すまなかった。ああいう所には行きたいとは思っていない。私もこれから君と一緒に過ごしたい。…君は?…また、…一緒に過ごしてくれるかな?」
田上は、身動きもせずに地面の草を見つめ続けると、おもむろにタキオンの方を向いて言った。
「……お前は、どうするつもりだ?…大学に行かないって言うんだったら、どこに行くんだ?」
「それを今から話し合いたい。…君の気持ちも分かる。でも、私の気持ちもある。それを打ち明けて話さないと、この話は進まないと思うんだ」
そこで、タキオンの隣に座っていたマテリアルが「私、この場所あんまりかもですね」と言って立ち上がると、田上の隣の方へと座り、タキオンとマテリアルで田上を挟む格好となった。その様子を見た後に、タキオンが言った。
「どうだろう。……君が私にとことん愛想が尽きたと言うんだったら、また別の話になる。…あんまり嫌いになってほしくはないが…」
田上は、地面を見つめたまま何も話さなかった。それで、タキオンも田上がまだ迷っているのだろうと察したから、こう言った。
「まぁ、すぐに言えるものでもないかもしれないね。…とりあえず、私から話してみようかな?君から話してみてと言ったところで、何を話せばいいのか分からないだろうしね」
それから、タキオンは、また、田上に答えを求めるように見つめたのだが、当然返ってくる事はなかったので、話を始めた。
「私は、…君に何回か零したように、自分で子供を育てるのは、…何と言うか…、難しいんじゃないかと思ってる。それと言うのが、…まぁ、私がこう…縛られるのが耐え切れないと言うか、…いや、…確かに実際にやってみたら上手く行くのかもしれない。ただ、今、十八歳の私が、君との結婚生活を意識してみた時に、まだ、自由にいたいという気持ちがあるんだ。そこでだ。…君との関係がある。君は、昨日言ったように私と離れるのが嫌らしい。これは、承知している。…だけど、…私の気持ちと君の気持ちは食い違っているように思う。…君は家庭を持ちたい。私は、もう少しこのままでも良いのじゃないかと思っている。勿論、君に言えば、子供を作るのなんかはまだ後でも良いと言ってくれるかもしれない。しかし、君が家庭を持ちたい願望があるというのもまた事実だろう?」
田上は、俯いたまま何も話さなかった。
「…こういう風に、私たちの気持ちは矛盾していながらも、お互い傍に居たいと思っている。この際、大学の話はまた後だ。どこに行こうと、君の蟠りも私の蟠りも解けない。私は、君が家庭を持ちたいという願望を分かっている。それでいて、自由でもいたいと思っている。…ここで君の真意を聞かせてほしい。…少々遠回りな質問ではあるが、私が遠くの大学に行きたいと言った場合、君が別れたいのは本当なのかい?」
田上は長い事地面を見つめたまま話さなかったから、タキオンもそろそろ別の質問に変えて話し出そうかと思っていた。その頃になって、やっと田上は口を開いた。
「俺は、……お前が遠くの大学に行くんだったら、別れたほうが良いっていう気持ちは変わってない……」
「ふむ。……なぜだい?」
「…………傍に居てほしいから…」
「ふむ。……まぁ、そうだろう。君、私の事が好きだものね…。…それじゃあ、ここの近くの大学は?大阪は遠いかもしれないが、ぎりぎり同棲しないで別の場所に住まないと大学に通えない場所は?」
「……知らない…」
「ふむ。……傍に居てほしいからと言っても、別れるという理由にはならないだろう?君が昨日あそこで咄嗟に別れると言ったのには理由があるはずだ。傍に居てほしいというのであれば、他の解決を見つけようとするはずじゃないか」
「………実際、お前が言ったように、…遠くの大学に行けば俺から自由になれる。……そして、俺は遠くに行って楽しんでいるお前を信じる事はできない。これで、利害は一致する…」
「してないじゃないか。私は、君と一緒になりたい」
そこで、若干の話の険悪さを感じ取ったマテリアルが、口を挟んできた。
「そこが矛盾してるんですよね。一方で、タキオンさんは自由でいたくて、田上トレーナーは、家庭を持ちたくて。タキオンさんの傍に居たくて。…タキオンさんの求める自由って一体何ですか?これは、田上トレーナーを責めてばっかりもいられませんよ?タキオンさんだってそこの所が曖昧なんですから」
この質問にはタキオンも困った顔をした。
「私が求める自由?…んー…、難しい質問だね……」
「それは、言ってしまえば、家庭に縛られない自由みたいなものが欲しいわけですよね?」
「うむ……」
「それじゃあ、田上トレーナーと付き合っている理由はないじゃないですか。タキオンさんは、遠い大学に行きたい…わけじゃないけど、遠い大学に行く。田上トレーナーは、無理。それで利害が一致します」
そう言ったマテリアルをジロリと睨んで、タキオンは言った。
「君は私の味方じゃなかったのかい?」
「いいえ。司会者として呼ばれたので、話をまとめてだけですよ」
「そうかい…」とタキオンは恨めしげに言いながら、少し考えたが、すぐにこう言った。
「そもそも、私は遠い大学に行きたいわけじゃない。君を裏切りたい訳じゃない。その事は承知しておいてくれ。ただ、…私は少し複雑なんだよ。家庭に縛られたくはないんだけど、君と同じように家庭を持ちたいと思っている。…少し私を自分の事だと思って考えてくれよ?…この先まだ何かあるかもしれないだよ。出会いじゃないよ?出来事が。大学生らしいと言えばそうかもしれない。尤も、大学生らしいという理想は、理想に過ぎない事は分かってる。実際なってみればなんてことはないかもしれない。…もしかしたら、ほとんどないかもしれない。ただ、…何と言えばいいんだろうね?……私は、もう少し若いままでいたいというか、…綺麗でいたいというわけじゃないんだ。若い心というかだね…。…困ったな…」
「大学には行きたいのか?」
「そこなんだよ。行って大したことが無いかもしれない。行って、君と別れるというのならば、行きたくはない。でも、若いままでいたい。大学生とは、若さじゃないか」
「別に若くない人も居るだろ?」
「そりゃあ、居るだろうけど、…揚げ足取りを聞きたいわけじゃないんだよ…」
「そうですよ。あんまり良くないですよ」と隣からマテリアルが口出しした。田上は、むっつりと黙り込んだままだった。その後に、タキオンがまた話し出した。
「まぁ、私にとって大学とは若さなわけだ。家庭を持つという事は、老いという事だよ。まぁ、年を取るのが嫌なんじゃない。ただ、若くなくなるというのが嫌なんだ。…苦労を知るという事が年を取ると言うのならば、私はそれが嫌だ。…苦労は、…別に知らないわけじゃないがね…。……ただ、苦労に苛まれながら過ごす…。そういうわけでもない。ただ、…望みがあるんだよ…。…こう…、何と言うかだね…。自由であることに間違いないんだ。……何と表現すればいいんだろうね?…」
そう言って、タキオンが困りきった顔をした時に、田上が口を開いた。
「………大学には行ってもいい…。別に、俺が許可を出すような事じゃない」
「それは、君の了承も必要だよ!」
「俺はお前の親じゃない」
「でも家族だ」
タキオンがじっと田上の事を睨みつけた。その険悪さをまた感じ取ったから、またマテリアルが言った。
「まぁ、二人共付き合っているので、話し合いは必要ですからね。それに、田上トレーナーもタキオンさんに責任という物を負いすぎてるように思います。負いすぎるあまりにそれから逃げようとしていると私は感じました。タキオンさんだって、充分に話のできる人間ですからね?……まぁ、私が責め過ぎてもあれなので、これ以上は言いませんが…、問題としては?…タキオンさんが、自分でもあんまりよく分からない自由を欲しがっていて、田上トレーナーは……なんでしょうね?結局、タキオンさんとは付き合いたいってことでいいんでしたっけ?…遠い大学に行くなら付き合いたくない?それとも、もう本当に付き合いたくない?」
この時の田上は、もう考え過ぎて疲れてしまっていたから、何も答える気力がなかった。だから、黙っていたのだが、両脇の女性二人は、田上に答えを求めるように見つめてきていた。それでも、田上は頭が疲れて回らないので、答えないでおくほかなかった。すると、タキオンは田上の疲れを察していながらも、諦めきれずにもう一度聞いた。
「私とは付き合いたくないのかい?」
田上もタキオンの声には弱かった。だから、せめてもの報いとして首を横には振ってあげた。それで、タキオンは少し安心した声で「そうかい」と言った。その後に少し考えてからタキオンが言った。
「そう言えば、話は変わるが、もうそろそろじゃないのかな?入居審査。もう通知が来ている頃かもしれないと思っていた頃なんだが…」
田上はこれに動揺したが、面と向かって話していなかったので、その動揺はタキオンに悟られなかった。ただ、すぐに答えることは当然できなかった。田上は、ここで素直にうんと頷けば、その後楽に買い物に誘えるかもしれないと思っていたのだが、やっぱり無理だったので、首を横に振って嘘を吐いた。タキオンは、多少がっかりしたように「そうか…」と言ったので、田上の胸には罪悪感が湧いた。
タキオンは、ここで話の続きに窮したようだった。話も堂々巡りで、また初めの方に行き着いただけだった。まだ、明確な進路の答えというものは出てなかった。だから、今度はマテリアルが口を開いた。
「タキオンさんは、大学は結局行かれるんですか?行かれないんですか?」
「…それは、…また圭一君と話し合ってみない事にはだね…」
「そりゃあ話し合いは必要ですが、まだ、あなたの意見は固まってないんですよ。一体行きたいんですか?行きたくないんですか?」
タキオンは、困ったように吐息を漏らして笑いながら、まだトレーニングをしているウマ娘たちを遠くに見つめた。もう昼頃なので、終っている子の方が多い。丁度、汗を拭いている子達も幾人か見受けられる。タキオンは、その子らが自身のトレーナーと話しているのを見つめながら言った。
「私も、…まだあんまりよく分からないんだよ…」
「あんまりよく分からないじゃ済みませんよ?どちらにしろ。選択するのはあなたなんです。時間の流れが自ずとあなたに選択させるかもしれませんが、時間に流されて決めるようじゃ、後々に響きますよ」
「……それは分かっているんだけどねぇ…」
タキオンの頭の中にあるのは、田上の事であり、自分の事でもあった。田上と別れたくないことは間違いない。しかし、段々と――圭一君が自分の自由を縛っているのなら、別れるのも手なのではないか?と思い始めてきた。そして、そう思っている自分にうんざりした。
とにかく、田上と別れる事だけは避けなければいけないと、タキオンは思っていた。自分に自信のない男だが、これ程に良い人間は他を探してもほとんど見当たらない。田上が言うように、もしかしたら、そういう人が、自分の目の前に現れるかもしれないのだが、田上と別れる事を選択した自分の心理状態では、どんなにいい男と付き合ったとしても、結局別れるのではないかと思った。何故なら、田上と別れる確固たる理由もなく、その良い人を取り逃してしまった自分が、他の良い人で満足できる訳が無いのだ。
タキオンは、それでも頭の中にある「別れる」という考えを振り払えずに苦心した。田上に甘えたいと思った。マテリアルが、それを真正面で見ていなければ、それもできる(田上は、少し機嫌が悪かったとしても自分に甘いから)と思っていたのだが、今は生憎マテリアルが居る。
――しかし?とタキオンは思った。もうマテリアルの役目は終わったように思った。それぞれ二人の問題にすべき点は分かった。まず、タキオンは自分の気持ちを見定める事。つまり、進路はどちらの方に取ったらいいか。田上は、タキオンに対して責任を持ち過ぎない事。勿論、田上にも責任がない事はないだろうが、少なくとも、自分の判断を頼り過ぎずに、タキオンの判断もしっかりと聞く話し合いの姿勢が重要だった。
まぁ、今の所は、この問題において、田上の要素はあまり大きくないだろう。少しは頭も冷えて、タキオンの言葉を聞く準備はできているはずだ。ここで、マテリアルを除くと問題になってくるのが、やはり、話に進展が起こらないという事だ。二人だけだと、タキオンが田上に甘えたり、キスしたりして、話の進展を封じてしまう可能性があった。すると、マテリアルが居るこの状況の方が、また話は進みそうな気がする。それでも、タキオンは、せめて、圭一君の膝枕に寝転がれたらなぁと思った。
話は一時の中断を経た後に、タキオンによって再開された。タキオンは、田上に膝枕をしてほしそうに幾度かじっと見つめていたが、今、それを目的に話しかける勇気が湧かずに、結局やめることにしていた。それから、また話を本題の方に戻して、田上に話しかけた。
「私は、……どう動いた方が、君にとって好ましいかな?」
これは言葉にしないと難しそうな問いだった。だから、今はもう話す気のない田上は、それを完全に無視することに決めた。タキオンもその事が分かっていたから、無理に問いかける事はしないで、田上が答えやすい質問を考える事にした。ただ、その時にまた、――圭一君と二人きりであれば、圭一君も口が開きやすいだろうなぁ、と思った。しかし、マテリアルが話をまとめてくれている事もまた事実なので、あんまり簡単にマテリアルを除くわけにもいかなかった。
その後に、ぼんやりとした時間が過ぎた。昼のチャイムは鳴ったが、誰も動き出そうとはしなかった。田上は、元より逃げ場がなかった。タキオンは、話が終わっていないと感じていたし、マテリアルは話が終わるまで付き合う気だった。田上は、昼食を食べたら買い物に行こうと思っていた。
しかし、田上は予想すらしていなかったが、考えてみれば当然の如く、話は長引いた。このようなタキオンと田上との間の話で、話が簡単に済んだ事例は、恐らくほとんどないだろう。田上は、この話がいつ終わるのだろう、と考えた。恐らく、結末はタキオンと田上の仲直りで決着するだろう。進路はもしかしたら決まるかもしれない。決まるのかもしれないが、どちらに転ぶのかは田上には分からなかった。
その後、十分程は何気ない時間が過ぎた。マテリアルが、時折タキオンの方に話しかけたが、それは本題とは関係のない別の話だった。タキオンは、その十分の間に、田上に少しずつ肩を寄せて、最終的には二人の肩が寄り添う程までになった。田上は何の抵抗もしなかったが、タキオンが、田上に近づきたい意図で、肩を寄せているという事は分かっていた。それについて不快に思う事はなかったし、むしろ、嬉しさが胸の内にはあったのだが、自尊心なのか何なのか、一向に話し出そうという気配はなかった。
そうした後に、タキオンが味を占めて、田上の手にそっと触れ、田上が何の不快感も示さないとなると、その手を繋いだ。それから、田上を見て、「ごめんね…」と呟くように言った。それまでは、田上も何ともなかったのだが、その言葉を聞くと、途端に不快感が湧いて出た。
つまり、タキオンは、田上と手を繋ぎたくて繋いだのではなく、自分の謝罪を通しやすくするために、田上と手を繋いだ、打算的な物だったのではないかと感じたからだ。実際、タキオンにも、そのような打算がない事はなかった。しかし、同時に田上と手を繋ぎたくもあった。仲が直った証拠として、二人の間に繋がるものが欲しかった。その後に謝ったのだ。
この時のタキオンは、手を繋いでいるのだから、まさか許してもらえないとは思っていなかったが、田上に、許してほしいとも思っていた。だから、多少打算的でありつつも本心から謝ったのだ。
田上は、その事には気が付かずに、ただタキオンの言葉に腹立ちを覚えて、そっと拒否をするように手を解いた。タキオンは、これにショックを受けつつも、「ああ、ごめんね…」と言って、俯いた。田上はこれで多少の罪悪感を覚えたが、それよりも、今は、怒りの方が大きかった。
また、何分か経ってから、マテリアルが言った。
「さぁ、もうそろそろいいんじゃないですかね?私ももうお昼を食べたいんですけど、この分だと無理そうですかね?」
「…じゃあ、カフェテリアに行って話すかい?」とタキオンがマテリアルに聞き返した。マテリアルは、「私はそっちのほうが良いです」と言ったが、その後に未だに俯いている田上の方に目をやった。タキオンもそちらの方に目をやると、「圭一君はどうする?」と聞いた。田上は、ゆっくりと顔を上げると、タキオンの顔を、心持ち睨むようにしながら見つめ、「俺は帰る」と言った。
それから、すっくと立ち上がった。これは、流石に、タキオンも看過できないので、田上の手を掴むと「待ってくれ」と言った。
「待ってくれ。…私が悪かったよ。頼むから行かないでくれ。君の事が好きなんだよ」
田上はタキオンをキツイ目付きで見下ろした。今までの話でも、そうであるように、田上は、タキオンに懇願されても、彼女を許さなかった。今も許さずに、睨みながらこう言った。
「お前は悪くない。悪いのは全部俺だ」
そう言うと、田上はタキオンの手を振り解いて歩き始めた。こうなると、ごちゃごちゃ言っていられなかった。タキオンは自分もすぐに立ち上がると、田上の後を追って言った。
「君は悪くないよ。私の分の責任まで君がしょおうとしないでくれ。マテリアル君がいるのが嫌なら、あの人は帰らせる。頼むから私の事を嫌いにならないでくれ。君と離れて生きるなんて嫌だ…」
田上は鼻息荒く歯を食いしばって、必死に自分の言うべき言葉を考えた。その間に、マテリアルも追いついてきた。タキオンに「君は邪魔かもしれない」と言われて少々残念そうだった。その後に、田上はタキオンの方を向いて言った。
「俺は、お前が嫌いなんじゃない。自分が嫌いんだ。そして、自分の向こう側にいるお前が嫌いなんだ。……俺の事なんか好きにならないでくれ」
そう言ってまた田上は、タキオンが繋いできた手を解いて、立ち去ろうとしたが、今度はタキオンも手を放さなかった。
「なら、君の前に立って私が手を取るよ。私が決して、君自身を嫌いになんてさせない。圭一君みたいな魅力的な男性を捉まえて、なんでその人を嫌いなんて言えるんだろうね?」
「知らん!」と答えて、また田上は勢いよくタキオンの手を解こうとしたが、こうなるとウマ娘の手は簡単に解けない。タキオンは、いつになく真剣な目で田上を見つめてきていた。
「君が行きたい場所だったらどこへでも行くよ。私をそこへ連れて行ってくれ。いつものベンチに行くかい?それとも、君の寮の部屋かい?…トレーナー室?」
その時になって、田上はマテリアルを気にするような素振りを見せた。それを察したタキオンは、田上に「マテリアル君が居るのが嫌なら、仕方がないから彼女は追い払うよ。…どうする?」と聞いた。田上は、これは、礼儀の上から、中々言葉にすることができなかった。それでも、タキオンは田上の心を察すると、マテリアルの方に向かって、「すまないが、君は帰っててもらえないかな?」と言った。マテリアルもここで粘るほどバカじゃないので、「まぁ、しょうがないですねぇ」と言って立ち去って行った。
タキオンは、その背に向かって、「ありがとう」と呟くように言った。それから、また田上の方に向かうと言った。
「どうする?あのベンチに行くかい?君の部屋?トレーナー室?」
田上は、これに中々答えられなかったが、最終的に、「あのベンチに…」と多少の怒りが放出されて、疲れた人の様に答えた。タキオンは、優しく微笑を浮かべると「いいとも」と答えて、田上と手を繋いで歩いて行った。
二人でいつものベンチに辿り着くと、タキオンは手を握ったまま問うように田上を見つめた。田上はそんな視線には気付かずに、ただ悔いと罪悪と、未だに燻っている怒りに苛まれて困ったように俯いていた。それだから、タキオンは「座るかい?」と声を出して田上に聞いた。田上はそこでようやく顔を上げてタキオンを見ると、申し訳なさそうな顔をしながら「俺が座る」と自分に言い聞かせるように頷いた。
それから、タキオンは座った田上の前に立つと、「私はどういう風に座ろうかな?」と言った。田上はタキオンの顔を見上げた。すると次に「君とまた抱き合って話すのはどうかな?」と聞いてきた。田上は、困ったようにタキオンを見上げた後に、「それはちょっと…」と断った。タキオンは特に残念そうな表情は見せずに、田上の隣に座ると、その手を再び繋いだ。その繋がれた手を見つめながら、タキオンは二三分話さなかった。田上は、タキオンから何か言われやしまいかと、半ば恐れを抱いて待ち受けていたが、二三分は何も言われなかった。その後にタキオンが口を開いた。
「手を繋ぐのはダメかい?」
今更な事だと田上は思った。しかし、そう聞かれると途端に手を繋がれたくない自分が、勢力を増した。だが、今更な事ではある。田上は、返答に迷って暫く口を開かなかったが、結局、拒否する言葉も、賛成する言葉も吐かずに、現状維持を望んだ。自分の心のムカムカは、タキオンと手を払いたがっていたが、いざタキオンの手を払おうと思おうと、タキオンに手を繋がれているのが、案外心地の良い事だと気が付いた。その為に、田上は何も言わなかった。
田上が何も言わないままでいると、タキオンは安心したように、今まで無意識に力を入れて繋いでいた手の力を緩めた。それから、鼻からため息を吐くと、田上の肩に少し重心を置いて、再び「ごめんね…」と言った。
田上には、先程の時の様な不快感は現れなかった。ただ、隣に居るタキオンの、心地の良い重みを、肩に感じることができた。それが少し嬉しかった。その後に、田上は口を開く気になったので、こう言った。
「お前は悪くないよ…」
「だからって、君ばかり悪いと思っても私が困る」
「……でも、…そんなに謝らなくてもいい…。……いいよ…」
「……許してくれるのかい?」
「……許すも何も、……俺はお前に怒ってるんじゃなくて、自分に怒ってる。お前は、初めから悪くなかった。……俺がもっと冷静にお前の話を聞くべきだった。それを初めから怒ったから、俺は自分に怒らないといけなかった」
「でも、それで、私まで巻き込んで怒ってるんじゃ、元も子もない。…今はこうして隣にいれてるからいいが、…昨日の夜は寂しかったんだぞ…」
田上はその様な言葉を聞いて、多少の罪悪感を覚えながらも、同時に、それ以上に嬉しく思った。それでも、迷惑をかけた謝罪として「ごめん」と言わざるを得なかった。タキオンは、それに「いいよ」と優しく答えると、またこう言った。
「でも、あんまり気負い過ぎないでくれ。寂しかったが、結果良ければ全て良しなんだ。あんまり気負い過ぎて、別れる事なんて言わないでくれ…」
田上は、それに「うん…」と反省したように答えた。そして、またタキオンはこうも言った。
「…まぁ、君に別れないでと言ったところで、また君は言ってしまうかもしれないね。しょうがないだろう。だからこそ、君は気負い過ぎないでほしい。私は、私がこれまでにも言ってきたように、色んな事があっても、ちゃんと手を繋いでいる。安心したまえ。君の隣に居る彼女は、ただの女子高生じゃない。そこらの適当に生きてる大人よりも、立派な女子高生だ。私に身を委ねても全然問題ないんだ」
これに、田上はただ「ありがとう」と答えた。それから、タキオンは嬉しそうに静かにふふふと笑い、田上の手を強く握った。田上は、そうやって強く握られるのを感じて、自分の手を見つめた。くたびれた手だったが、そこに白くて小さくて柔らかなタキオンの手が恋人繋ぎで握られていた。
田上はそれを見ると、また心に嬉しさが湧いた。タキオンもまた、この手を見つめながら、隣の田上が喜んでいるかもしれないと思った。実際に、少し嬉しがるように、手を握り返されたのを感じた。タキオンの心も、田上の心も、今幸せになっていた。