ケロイド   作:石花漱一

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八、幸助と別れる日(前編)

八、幸助と別れる日

 

 朝になると、誰かが自分たちと同じ部屋で鞄をごそごそと漁っている音で目が覚めた。タキオンが、目を開けると、そこにはいつものように田上の顔があって、目を瞑って眠っていた。恐らく幸助か賢助のどちらかだろうと思って、タキオンは、キョロキョロすることはせずに田上の顔を見つめ続けた。思わず邪魔したくなるいい寝顔だった。だが、そんなことはせずにタキオンは息をひそめて、鞄を漁っている人物が部屋を出るのを待った。

 その人は暫く、ゴソ、ゴソゴソッと鞄の中を漁っていたが、やがて「ここにあったのか…」と小声で呟くと、鞄を床に置いて歩き出した。そして、タキオンの横の布団をバフバフと踏んで隣の部屋に抜けていった。声から察するに、鞄を漁っていた正体は幸助だったと思われる。タキオンは、それを確認するために田上から体を離すと、隣の布団の中身を見た。やはり、そこには人の影はなかった。タキオンは、体を元の場所に戻した。田上は、まだ眠っている。そこで、タキオンはどうしようかと考えた。

 目の前にいる田上を無理矢理起こして、自分の相手をさせるか、それとも、一人で起きて、田上の家族に朝の挨拶を告げるか。前者の方が魅力的に思えたが、その時には少しの申し訳なさも発生するだろう。今のタキオンはそうだった。だからと言って、前者を軽々しく捨てることも忍びなかったので、タキオンは田上の頬を軽くちょんちょんと突いた。

 田上は起きない。

 もう一回、ちょんと突いた。けれど、田上は起きなかった。その後暫く、息を吹きかけたり、顔をいじったりもして、田上が起きることを願ったが目を覚ますことはなかった。仕舞いには、鼻を塞いでみようかとも考えたが、それをすると絶対に起こしてしまいそうだったので、それはやめた。代わりに顎の肉を少し引っ張ってみたが、やっぱり田上は起きず、タキオンはため息をついて天井を見た。丸い電灯が、今は朝の日差しに暗く浮かび上がって見える。この、程よく侘しい感じがタキオンの好みではあったが、すぐに目を逸らすと田上の顔を見てそれから起き上がった。

 体を半分起こしたところで、枕元に置いてある田上のスマホを見つけた。そこで、時間を確認するともう八時になってはいるようだ。タキオンは、名残惜しそうに田上の顔を眺めると、遂に意を決して立ち上がった。

 あんまり大した冒険じゃないのはタキオン自身も理解していたが、少し田上から離れるのが億劫に思えたので、嫌なものであるには違いなかった。別に危険な敵も罠も何もないが、何かが怖くて進みたがらなかった。

 タキオンは襖の前に立ち、もう一度振り返ると、――トレーナー君の所に戻ろうかなぁ、と思ったが、その頃にはもう隣の部屋に行くことを決めていたので、タキオンは大きく息を吸うと隣の部屋へと続く襖を開けた。

 

 思った通りであったし思った通りではなかったが、タキオンが「おはよう」というと炬燵に入っていた幸助から「おはよう」と返ってきた。ただ、今は自分のゲームで忙しかったようだ。言葉を返すには返したが、タキオンの顔を見ていなかった。

 タキオンは、そのままトイレの方に歩いて行き、台所にいる賢助にも挨拶をした。「おはようございます」と言うと、「おはよう、アグネスさん」と返ってきた。実ににこやかな人で、ちょうど鍋に火をかけているところだった。

「今日の朝ごはんにみそ汁を作ったけど、基本的に朝から昼にかけて、昨日の正月の残り物を消化してもらう予定なんですよ。アグネスさんは、それで大丈夫?…もし、あれだったら、別に何か作ってもいいですが…」

「いえ、全然大丈夫です」

 タキオンは、そう言って、トイレの方に歩いて行った。

 それから帰ってくると、炬燵の方に行こうかとも思ったが、やることもなさそうなのでタキオンはもう一度寝室の方に戻ってトレーナー君の懐で温めてもらおうと考えた。

 そうして隣の部屋に行くと、田上はまだ寝ていたのでしめしめとタキオンは喜んだ。少しの冒険をして見事帰ってきたタキオンは、田上と同じ布団に入ると嬉しくて抱きしめそうになったが、どうにも体勢が上手くいかなかったのでそれはやめた。さすがに、田上の上に乗って全身を預けて抱きしめるというのは、今の田上を親のように甘えるようなタキオンでも恥ずかしいことだったのでしなかった。

 それでも、交際してすらいないのに同じ布団に入るという行動はした。タキオンにとってはこれくらいがセーフゾーンであったし、第一、目的としては安心感を得ることだったので、同じ布団に入る以外の選択肢がなかった。

 タキオンは、田上の懐に入ると、嬉しそうに田上を見つめ、それからもぞもぞした。ここであっても暇なのは同じことだった。タキオンは、田上の顔ばかり見つめているわけにもいかないので、何をしようか考えていた矢先、田上が大きな大きな欠伸をした。その時、タキオンは少し田上から離れた場所にいたので、すぐにごろごろ転がっていくと、田上の懐に入り言った。

「おはよう、トレーナー君。まだ眠いのかな?」

 田上は目を開けることもままならず、珍妙な顔のまま頷いた。すると、タキオンが言った。

「おや、ならば二度寝は良くない。朝ごはんを食べて、眠気を飛ばそう。なにより私が暇なんだ。あっちの部屋に行って、共に過ごそう」

 タキオンの言葉に田上は適当に頷いた。タキオンは、それに少し気を悪くしたような顔をして、田上の頬を突きながら言った。

「君は、また私の機嫌を損ねたいのかい?早く起きたまえ。ほら、早く」

 最後に二回強く頬を突いたが、田上は目も開けなかった。その代わりに早口でこう言った。

「まだ眠たいんだ。頼むからもう少し寝かせてくれ」

 そう言うと、大きな手の平でタキオンの頭を掴み、その口を塞ぐように自分の胸に抱き寄せた。タキオンはそんなことをされても悪い気はしなかったようだ。ニヤッと笑うと、田上の胸の中から顔を出して言った。

「君、寝ぼけて何しているのか分からないんだろうけど、私が学園にこれを告げたら大問題だよ」

「……うん、大問題でもなんにでもなっちまえ。…今は、とにかく寝かせてくれ」

 田上はとことん眠たいようだった。タキオンは、その言葉を聞くと、寝かせてあげようかと大人しくなったが、次に一度暇になるとこう言った。

「やっぱり君も起きろよ。暇だ。ほら、起きろ起きろ起きろ起きろ…」

 ここでタキオンが田上の頬を何回も何回も突いたので、田上は鬱陶しそうに首を振りながら、次いで大きな欠伸をした。

「起きるよ」

 そう言っても、田上は目を瞑っていたが、同時にタキオンの髪の毛を手でくしゃくしゃにした。

「うわぁ、やめろよ」

 タキオンが、情けない声を出したので田上は目を閉じたまま、ニヤリと笑った。そして、再度欠伸をすると、ようやく目を開けてタキオンを見た。それから、「おはよう」と一言声をかけた。

「おはよう。やっと起きたか、この寝坊助め」

 タキオンは、少し怒りながらそう返した。その言葉に田上はニヤリと笑ったが、「あーああ」と言うと、天井を見た。

「今日が三日、明日は四日。そして、明後日は五日か…。思ったよりも早かったなぁ…」

 タキオンもそれに賛同した。

「…確かに、思ったよりも早かったね」

 タキオンも天井を見た。先ほど見た時より日が昇ったのか、少し天井が明るくなっていた。

「帰ったらどうなるんだろう?」と田上は言った。

 その後に「タキオンと離れたくないなぁ」と言いたかったのだが、さすがに言ってしまえば、女々しくて気持ち悪いだろうと思って、その言葉をぐっと飲みこんだ。そもそもタキオンとは付き合ってすらいないことを田上は確認しないといけなかった。この家に来てからタキオンとの距離というものを感じなくなったが、その感じがなくなると一気に勘違いに転じてしまいそうで恐ろしかった。神社に行った時などもこの思いを感じたが、どうにも厄介だったから、少しだけ、ほんの少しだけ田上の胸の内に――早く帰りたいという思いが在った。大半は、――勘違いでもいいからタキオンとこの生活をもうちょっとだけ続けたらなぁという思いだった。

 

 田上は、一つため息をつくと、傍にいるタキオンを避けながらノロノロと起き上がった。タキオンは、田上が起き上がると、「起こしてぇ」と赤子のように手をバタバタさせた。

 田上は、タキオンの両手を持つと「ん!んん!」と力を込めてタキオンの半身を上げさせることに成功した。そして、言った。

「女子高生を起き上がらせることなんて、一生に一度あるかないかだ。…もう、なくてもいいな」

 それを聞くと、タキオンはニヤリと笑って、体を後ろに倒した。そして、再度「起こしてぇ」と赤子のように手をバタバタさせた。田上は、物凄く嫌そうな顔をしたが、持ち前の優しさを見せてタキオンを起こしてあげた。今度は、両足で立つまで手を引っ張ってあげた。

 そして、「もうするなよ?」という目つきでそっと手を離すと、タキオンが笑い出した。

「そんなに警戒しなくてもいいよ。二度あることは三度あるって言うけど、あれも言葉の綾だよ。何回もあれば、それを警戒しなさいよ、ってことだよ。…おや?そうすると…君はそれを実践してたわけだ。いやー、すまないすまない」

 全然すまないという声の調子ではなかったが、田上はそれを聞くと「いいよ」と返して、自分はさっさと隣の部屋の方に行った。

 そこで、タキオンが言った。

「ああ、私はここで着替えておくから、入ってくる時は気を付けてね。君、そういうのにこだわるから」

 最後の一言は余計かに思われたが、田上は何も言わず、ただ「オッケー」と返した。そして、自分は幸助と賢助に「おはよう」、「おはよう」と言いながら、トイレの方へと歩いて行った。

 

 田上が、トイレから帰ってくるとタキオンはもうそこにいた。出来立てのご飯とみそ汁を前に、昨日の残り物を食べていた。夢中になって食べていたタキオンだったが、一度自身のトレーナーを見つけるとこう言った。

「ほら、早くトレーナー君も食べなよ。昨日の残りがまだあるって」

 タキオンは、そう言って自分の右隣のスペースを少し開けた。田上は、そこに入り込むと、目の前に少しそわそわしている幸助を見つけた。目の前に財布も置いていたので、田上は気になって聞いた。

「何かあるのか?」

「ん?…いや、ちょっとお土産を買いに行こうと思ってるんだけど、店が開くのが九時からなんだよね。あんまり急がなくてもいいんだけど、落ち着かなくて」

「何を買うんだい?」

 横からタキオンが口を挟んできた。

「いや、和菓子をちょっと…ね?」

「和菓子!」

 突然タキオンが大きな声を上げた。

「和菓子か。これは、私の好みだねぇ、トレーナー君」

 いやに猫撫で声で田上にそう言ったから、嫌そうな顔をして田上は言った。

「なんだよ。金ならあるだろ?自分で買いに行けよ」

 そう言うと、「えー」という声が隣で上がった。

「君も一緒に行こうじゃないか。昨日、クレープを食べることができなかったんだし、行こうよ。君の分も買ってあげるよ?」

「高校生に奢られて喜ぶほど、俺も落ちぶれちゃいないよ」

「そんなこと言わないで」

 タキオンが少し詰め寄ってきた。

「和菓子はおいしいよ?とっても甘いんだ。紅茶にもよく合うよ。…ほら、私を助けると思って、ねえ?行こうじゃないか。店によってもオリジナルの和菓子があったりするものだ。私はそれが食べてみたいなぁ」

「…いやだよ。それにクレープはどうするんだよ、クレープは。帰ったら食べに行くんじゃなかったのか?二度手間か?」

「二度手間!?スイーツを食べに行くと言うのに、それを手間だって!?......君、まだ従順なモルモットとしての自覚が足りないよ。私がなにかをしたいと言ったら、君の返事は『イエス』か『はい』しかないんだから」

 田上は、何も言うことはなかったが、物凄く嫌そうな顔をした。

「そんな顔をしないでおくれよ~。……そうだなぁ、何か…何か欲しいものはあるかい?買ってあげるから」

「俺は五歳児か。欲しいものなんてもうとっくに自分で買ってるよ」

 タキオンの落胆する声が聞こえたが、田上は自分の前に置いてあった箸とみそ汁をそれぞれ手に取ると朝ごはんを食べ始めた。

 朝ごはんを食べている間中、タキオンは和菓子のプレゼンをして田上をついて来させようとしていたが、それも終盤になると幸助の「どれ、もうそろそろ行くかな」という言葉で焦りに変わった。

「君、君!一緒に行こうよ。私は幸助君と二人でなんて嫌だよ。さすがに気まずくてやってられないよ。だから、ね?行こう?美味しいものもあるし」

 タキオンは、そう言って田上の肩を揺さぶった。そこで田上もため息をついて言った。

「あんまり行きたくないけどなぁ…。ここでタキオンがついていったら、幸助の方が可哀想だし」

 田上は、そう言うと立ち上がり、また言った。

「幸助、タキオンがついていきたいって言ってるから、少し待っててくれ。俺が、着替えないといけない」

 幸助は、「うん」と頷いて、それから、壁にもたれかかってスマホを見始めた。

 

 隣の部屋で着替えて出てくると、幸助はうんと一つ伸びをして、田上に言った。

「お前の子供の面倒はお前が見ておけよ」

 そうすると、タキオンは怒って言った。

「君、いつも私を舐めているかのような口ぶりで話すけどね。君、大学生なんだろ?あんまり年も変わらないじゃないか」

「大学生だって高校生より成長してるよ。特にお前よりかは。…だって、見てみろ。親でも何でもない圭一に甘えっぱなしじゃないか。少なくとも俺にはそう見えるね。俺に舐められたくないんなら、少しは圭一から離れろ。そして、物を言え。そうしないと俺は一生お前を舐め続けるね」

 この言葉にタキオンは何も言い返すことができずに打ち負かされてしまって、反論しようにもできなかったので気晴らしに田上の手を少し強く掴んだ。

「早く行こう、トレーナー君。君の弟、嫌いだ」

 そう言うと、タキオンは田上の手を引いて玄関まで連れて行った。その後でこう言った。

「弟!早く来たまえ。君がいないと和菓子屋の場所が分からないだろ?」

「お前も俺の事大概に舐めてるだろ!」

 引き戸の向こうで幸助がこういうのが聞こえた。

 その会話を終始、半笑いで眺めていた田上だったが、台所にいた賢助も同じ顔をしているとわかると、二人揃って吹き出した。

 賢助が言った。

「アグネスさんも馴染んできたみたいで嬉しいよ」

 タキオンは、その言葉をいい意味として捉えていいのか判じかねていたが、やがていい意味だと捉えると、顔を微妙に歪ませて微笑んでいた。

 そして、幸助が引き戸の向こうから現れると、玄関の扉を開けようとしたが、その時に思い出したように言った。

「君、財布は持ったんだろうね?」

「え?タキオンが買うんじゃないの?」

 田上はそう聞き返した。

「私が買うにしろ、君が買うにしろ、大した違いはあるまい。...と、私は思うんだけど、さすがに自分のお金で買った方がいいかな?」

 途中でタキオンの良心がその心の中に現れたようで、言い方ががらりと変わった。その変わりようを田上は少し可笑しく思ったが、微かに笑みを表情に浮かべただけでこう言った。

「いや、別に使う予定のない金だ。お前ぐらいにだったらくれてやるよ」

「あ、じゃあ、俺にもくれてもらっていい?」

 横から幸助が口を挟んだが、それには「いやだ」とはっきり答えた。

「金があるのに俺から集るな、阿保め。赤子の時から出直してこい。俺がしっかりと教育してやるよ」

「おや、君、運転しなくても暴言が出たね。元々そういう性質なのかい?」

 今度はタキオンが横から口を挟んだ。だから、もう田上は鬱陶しくなって「うるさい」と一喝した。タキオンは、その言葉を聞いてハハハと笑ったが、すぐに気を取り直すと「さあ、早く財布を取ってきてくれ」と言った。

 

 そして、一行は家から出掛けて行った。しっかりと尻ポケットに財布を入れた田上は、寒い寒いと言いながら外に出て、タキオンの手の温かさを感じた。幸助は、誰も手を繋ぐ相手がいなかったので、一人ですたすたと前を歩いた。幸助にとってはあんまりいい気分とは言えなかっただろう。後ろでは終始、疑わしい関係の男女が歩いているのだから。兄の方は、タキオンに気があることを幸助は察していたが、タキオンはどうにも分からなかった。やってることは恋人同士なのに、本人はそうではないというのだ。これについては兄も同じことを言っていた。「だったら何なんだよ!」と幸助は叫びたがったが、そう叫んだら「トレーナーとその担当している子です」と返されるのが関の山だろう。

 あんまり面白くもなかったが、幸助は別にそんなことを理由に断る術を持ち合わせていないので、少なくとも兄がうるさい子供の面倒を見てくれるのならいいか、と思い、和菓子屋についていくことに何も言わなかった。

 だが、和菓子屋も近くなった頃、後ろからタキオンに声をかけられた。

「ねぇねぇ、君。君って、確か今日帰るんだったよね」

 タキオンが田上から少し離れて、幸助の横についた。幸助は黙って頷いた。すると、タキオンは後ろを振り向いて田上の方を気遣わしげに見たから、何があるのかと思って、幸助も振り向いた。

 田上は、「俺のことはいいから」と手を振って追い払う仕草をした。そうなると、タキオンも幸助の方を向いて言った。

「いや~、君の兄貴を引っ張り出してきたのは良かったけど、実は私には用というものがあってね。君と、君のお父さんに聞こうと思っていたものだが、トレーナー君には聞かれちゃいけないのだよ」

 タキオンがそう言うと、幸助は悪い予感がして、「何だよ。…嫌だよ?俺は」と言った。

 タキオンは、困ったように笑っていた。

「そう言わないでくれよ。実のところ、今まですっかり忘れていたからその機会がなかったんだよ。だから、この機会にぜひ君と話しておこうと思ったんだ。…なに、長く時間は取らないし、別に迷惑をかけるつもりもない。二、三個聞き取りをさせてもらえればいいんだよ」

 タキオンは、「最低限譲歩しているんだよ?」と言っている風に首を傾けた。幸助は、本当にあんまり嬉しくないことではあったが、タキオンがその話の後に提示した、「君と二人で店の中に入って、田上君には話を聞こえないようにするだけでいい」という提案に、これ程かと嫌な顔をして頷いた。

 タキオンは、相変わらず困ったように笑いながら、「トレーナー君、君もすまないね」と後ろの方に声をかけた。

 その後は、幸助の方に少し興味を持ったようだった。タキオンは、田上の横を離れ、幸助の横についた。田上は、寂しさを感じて、幸助の隣で楽しそうに話しているタキオンを見ると心が切なくなった。――いずれはああなってしまうのかもしれない。田上はそう思った。

――タキオンがもし、タキオンにとってのいい人を見つけてしまったならば、俺の見る景色はこうなるだろう。もしかしたら、後ろからすら見れないかもしれない。…いや、きっとそうだろう。

 田上の心は沈んだ。もう、あんまりタキオンの楽しい顔は見たくなかった。田上の胸は堪らなく苦しくなり、心臓は早鐘のようになった。何かを叫んで、タキオンの注意をこちらに向かせたかったが、見えない壁があるような気がして、それも無意味に思えた。

 こちら側の世界。あちら側の世界。住んでいる場所が違う。

 田上の足は、遅れがちになった。ノロ、ノロ、ノロ、と一歩ずつ歩くようになった。どんどんとタキオンが遠ざかってゆく。膝から崩れ落ちてしまいたくもあったが、タキオンの背を追うことは田上の使命であった。

 昔、こんな歌を聞いたような気がした。

『愛より素晴らしいものはない。愛があれば世界は平和で、人生は豊かになる』

 尤もらしい言葉だったが、それが愛と言うならば、田上の持っているタキオンへの愛はそれとは違うということになるのだろう。田上にとって愛とは、肺を動かすための力だった。心臓を脈打たせる力だった。だが、それを素晴らしいと思ったことはない。

 田上は、大きなため息を吐いた。――これで、幸せというものが逃げていくなら、そのようにすればいい。田上は半分自暴自棄だった。

 しかし、田上の前に光明が差した。不図目を上げると、タキオンが心配そうに後ろを振り向いているのが見えた。あんまり見てほしくない気持ちもあったが、その顔を見ると、思わず笑顔になりそうだった。実際のところは、笑顔にはなっていない。だが、ほんの少しばかり大きく目を見開いて、口元に活力を戻らせた。

 タキオンは、田上が遅れているのを見ると、幸助に別れを告げて田上を迎えにやってきた。

「やあ、トレーナー君。君、もう少し早く歩いたらどうだい?」

 ごく普通の言葉だったが、田上はそれだけで嬉しくて、口角を上げて「うん」と頷いた。声の調子はごく普通のものだった。しかし、タキオンはそこから何かを読み取ったのだろう。田上にこう言った。

「…君は、目を離したらすぐにこうなってしまう。…どうなっているのかは分からないが。……それでも、私は心配だよ。あんまり遅れずついてくるんだよ」

 タキオンは、田上の手を軽く引いた。田上の足取りは軽くなった。すぐにタキオンに連れられて幸助の隣まで行くと、「今日も寒いね」と弟に強がった。

 弟は何も気が付いていなかったようだ。

「ぜひ、お前の教え子もそう思って、菓子屋なんかについてくるって言わなければよかったのにな」

 まだ、先程のことを引きずっていた。

 

 それから、しばらく歩くと和菓子屋についた。店の名前は、『竜之甘味処』という名前だった。それなりに繁盛している店のようで、広い店舗の中に数か所の食べるスペースもあり、テラス席も存在していた。

 ここの店にひとまずタキオンたちが入った。田上は、待たされることとなったが、「絶対に待っててくれよ。話はすぐ終わるから」とタキオンに言われて、田上は少し嬉しそうに頷いた。その後でタキオンはあることに気が付いたようで、幸助にこう聞いた。

「……あれ?会計はどうするんだ?田上君に財布を持たせたが、別にそうする必要もなかったんじゃないか?」

「…俺は、お前らを待つ義理もないから先に帰るときは必要なもの買って帰るけど、…ここの店は普通に食べられる場所もあるぞ」

「ああ、そうか。あるよね、こんだけ広いお店なんだから」

 タキオンは、顎に軽く人差し指を当て、納得していた。

 こうして店の外で待たされていた田上だったが、段々といたたまれなくなった。寒空の下で身を切るような冷たさに晒されていたのもあったし、道行く人の目に何もせずぼーっとしている男として晒されているのもあって、タキオンが早く来るのを願った。

 タキオンは、田上の予想よりかは早く帰ってきた。本当に二、三個の質問だったようだ。田上が、二分待ったか待っていないかくらいで、タキオンは駆け付けた。

「トレーナー君。中を見てごらんよ。東京では聞いた事がなかったが、案外美味しそうだぞ。場合によっては、今後もここから取り寄せたりするかもしれない。…とりあえず、美味しそうなもの全て買わなければ」

 タキオンの興奮した面持ちに、田上は苦笑しながら言った。

「話は終わったのか?」

「ん?…ああ、終わったさ。…まぁ、普通の回答を得られたよ」

 タキオンは、その話で少し落ち着いた。

「…君の父さんの話も聞いてみないと分からないね。…案外、それ程の成果は得られないかもしれない」

 タキオンは、顔を曇らせた。しかし、その後に続く言葉が何も出てこないと、こう言った。

「……中に入ろう。…中で食べていくのかい?それとも買って帰るのかい?」

「タキオンはどっちにしたい?」

「私?う~ん、そうだなぁ。…私は、家に帰って食べてみるのもいいけどなぁ。ここで食べるのも捨てがたい。だが、しかし……。ん!」

 タキオンは、悩み始めそうなところで声を上げた。

「いい案を思いついたぞ!それに、ちょっと私の心の中で引っ掛かっていたことでもあったんだ。君のお父さんにお土産を買って帰ろう。私は、出て行くと言っておきながら、のこのこ帰ってきてまだ何も言っていないのが、ずっと引っ掛かっていたんだ。君のお父さんに美味しいものを渡して、それで――すみませんでした、と謝ろう。うん、いいぞ。トレーナー君もこれでいいと思うよな」

「別に俺の父さんはとっくに許してると思うぞ」

「君のお父さんの問題じゃないんだよ。私の問題だ。さすがにこればかりは、謝らないと気が済まない。多大なる迷惑をかけてしまったんだからね。これで、私がまだヘラヘラ笑って、あの家にいるようじゃ、不誠実かつ礼儀のなっていない人間だと思われてしまう。そんなことはごめんだね。…よし!君の父さんにもとびっきりのものを買ってあげよう。…君の金でね」

 最後は、少し後ろめたかったのかタキオンがそう言った。だから、それを察した田上はこう返した。

「じゃ、父さんに渡すのは俺たちがかけた迷惑のお詫びの品だ。二人で渡そう。元はと言えば、俺が原因を作ってしまったんだし。…これで問題はないだろ?」

 タキオンは、嬉しそうに頷いた。すると、店の自動ドアが開いて、幸助がもう出てきた。手には、薄いピンクで塗られた桜が描いてある小さな紙袋を持っていた。

「もう買ってきたのか?」

 田上は聞いた。幸助は、そう言った田上の方を何とも言えない顔で見つめると、次にニヤッとして「ああ」と頷いた。なんだか妙に腹の立つ顔だった。――タキオンが聞いた事と何か関係があるのだろうか?田上はそう思ったが、そのことは聞かず、また少し興奮の戻ったタキオンと一緒に店の中に入った。

 

 店の中に入ると、途端に暖かくなってタキオンと繋いでいた手に汗が滲んできた。田上はそれに気が付くと、手を離したくて堪らなくなったが、いくら手を振り解こうとしてもタキオンががっちり掴んでいたのでそれはもう諦めた。

 タキオンは、あちらこちらへと田上の手を引いては連れ回し、試食できるものがあると絶対に食べたし、田上にも食べさせた。田上は、あんまり試食するのも良くないと思って、タキオンを引き留めようとしたが、逆に口に甘いものを詰められてしまう始末だった。

 タキオンが気に入ったのは、餅の中にまろやかなチョコをたっぷりに詰め込んだものだった。しかし、田上は、これがあまり好みではなかった。それは、甘すぎたのが理由だった。タキオンにとっては、甘すぎるという方が丁度いいのだろうが、田上にとっては甘さ控えめの、むしろ渋いと言ったものの方が丁度よかった。これでは、二人の好みも全くと言っていい程合わなかったようで、田上が「おいしい」と言ったものがあれば、タキオンは微妙な顔をし、タキオンが「おいしい」と言ったものがあれば、田上が微妙な顔をした。

 ただ、田上の味覚の方は賢助のお土産を選ぶのには適していたようだ。賢助も田上も家族で、さらに同性だからか、あんまり味覚に違いはなかったし、田上も自分の家族の事なので父のことをよく知っていた。だから、田上はタキオンが「これ君のお父さんにいいんじゃないか?」と言ったものは、ほとんどそれに当てはまらないことを伝えた。タキオンは、不服だったようだ。

「だったら君が選べばいいんじゃないか」

 そう言ったが、その後に田上がこう提案した。

「じゃあ、俺とタキオンで一つずつ買っていくか。今タキオンが上げたものも父さんが絶対に嫌いと言うわけじゃないんだ。タキオンが買ってきてくれたものだったら何でも食ってくれるし、そもそもここの店はなんでも美味いんだ。当たりはあっても、はずれはないよ」

 田上が、そう言うと、遠くの方でレジの受付をしていた店員さんが微かに笑ったように見えた。田上は、それを見とめたが何も言わないでタキオンの話を聞いた。

「じゃあ、さっき言ったあの物凄く甘そうなやつにしてしまおう。あれは美味そうだぞ。…あれを目の前に出されて喜ばない人なんていないだろう」

 タキオンが、そう言うと、さすがに田上も口を挟んだ。

「できれば、あんまり極端な奴じゃない方が父さんも素直に喜びやすいかも」

 タキオンは再び不服そうな顔をしたが、すぐに気を取り直すと「それもそうか」と言って、慎重に選び始めた。

 その過程でタキオンは、自分の家族にもお土産を買って行こうということを言い出した。田上は、別にこれを否定しなかった。――ご自由にどうぞ。そのくらいの姿勢だったが、タキオンはその時に「家族の分は自分で出す」と言って聞かなかった。田上としては、どちらでもよかったので、一度「無理はしなくてもいいんだぞ」と言えばその後は何も言わなかった。タキオンはこれで満足だったようだ。その後もお菓子を選び続けた。

 

 それから時が流れて、二人はたくさんのお菓子類を持ってレジに並んだ。タキオンの家族へのお土産の分、田上の父への詫びの分、田上が自分で食う分。これらもそれなりに量があったが、一番はタキオンが自分で食べる分だった。これが大半を占めていた。

 少なくとも、店の八割の種類の菓子を一つずつ手に取るとタキオンはレジに並んだ。田上は、それに少しげんなりしたが、とやかく口出しすることもせず、ただ一応念のためこう告げた。

「俺は、あんまり口うるさくするのはしたくないけど、……お前はアスリートなんだぞ」

「ん?そんなの常識じゃないか。アスリートは甘いものをたくさん食べて体を作るんだ」

 タキオンは、ニコニコ顔でそう言っていた。こうなってしまえば、もうこれ以上言うことはタキオンの機嫌を損ねることに繋がる。その事を田上は知っていたので、不服そうにタキオンの持ってる菓子の山を見つめた後、ため息を一つついただけにした。

 そして、レジの会計へと進んだ。

 

 レジの会計を終えると、二人はまた寒い道を進んだ。タキオンが勝手気ままにお菓子を手に取って持つために離されていた手も、店を出ると繋がれた。菓子を入れた紙袋は、二つに分かれ、タキオンの左手、田上の右手に持たれることとなった。

 タキオンは終始笑顔だった。自分の大好きなトレーナーと手を繋ぐことができているし、それに自分の大好きな甘いものも食べることができる。これ以上にいいことはないだろう。

 寒い道を信号に差し掛かった時言った。

「トレーナー君」

「ん?」

「何だか……」

 ここでタキオンの言葉が止まった。話しかけたはいいものの、話す内容が大したものではなく、さらには段々と恥ずかしいことのようにも思えてきたからだ。だから、タキオンはこう言った。

「私も落ち着かないといけないね。あんまりにもはしゃぎすぎてしまっていたよ。私は、子供じゃないんだ…」

「…お前は子供だよ」

 田上はそう言った。すると、タキオンは少し驚いたような顔をした。

「あんまり急いてもいけない。子供でいれるときがあれば、子供でいていいんだ。特にお前はな。幸せでなくちゃいけないんだ」

 ここで目の前から、横断歩道を渡ろうとしている自転車が通りかかったから、田上はタキオンの後ろに避けた。そして、再び横に戻ってくると言った。

「あんまり俺も急かしているような事を言ってる時があるけど、それは大人になるための道を示しているだけで、なにもその道を全力で進めと言ってるわけじゃない。言っただろ?俺は休息所だって」

「一人で勝手に休みたがる休息所だけどね」

 タキオンは、少しからかいまじりようにそう言い返した。だから、田上はこう言った。

「…この表現やめようかな。あんまり大したことのないような気がしてきたし、それになんかキザで物凄く恥ずかしい」

「おや、君がやめるというのなら、私が使う君のあだ名にもう一つ加えてあげよう。モルモット君に休息所君だ。いついかなる時でも私が呼べば来てくれ、それから休ませてくれる休息所君。…ただ、これは少し言いにくいな。もう少し言いやすく…」

「やめようか。あんまり俺をいじめちゃだめだよ。休息所で休みたくなる」

 タキオンは、フフフと笑った。

「その時は私が君の休息所として働いてあげよう。お客様に出す飲み物は、当然私の開発した薬も混ぜてある。私の元で休むというのなら、実験に参加しないわけにはいかないよなぁ、トレーナー君」

 田上は苦笑した。

「そりゃあ、当然だ。休んでいる間もモルモット君だ。薬を飲まなきゃ休ませてもらえない」

「……ふむ、人聞きが悪いな。君は、喜んで薬を飲むからモルモット君なんだろ?休んでいる間も君から進んで薬を飲むんだ。…無論、君が壊れてしまってはこちらとしても困るので、休むときはしっかりと休んでもらおう」

「言ってることがめちゃくちゃだよ」

 田上が指摘した。すると、タキオンはニヤリと笑って言った。

「要するに、君が大事ってことだ。そして、私も大事だ。だから、君の取るべき選択肢は、私のもとでしっかりと休みを取りながら実験をしてもらうってことだ。これから君も忙しくなっていくだろうが、自分のことも私のこともないがしろにしちゃだめだよ。しっかりと健康は保ってもらわないと困る」

 最後の方はタキオンも真面目な顔をしていたので、田上はどんな反応をしたらいいのか分からなかった。だから、少し顔を曇らすと「できたらね」と呟いた。その言葉にタキオンは不服そうな顔をしたが、何も言わずに前を向いた。

 田上は少し申し訳なく思ったのか、それに一つ言葉を付け加えた。

「休めるときがあれば休むさ」

 しかし、その言葉にはあまり効力がないように思えた。タキオンは相変わらず不服そうで、不満そうにこう言った。

「君の健康を願うのは少し場違いだったのかな?…昨日の初詣で健康祈願もしておけばよかったよ」

 今度はもう田上にも何も言うことはなかった。その時、一度田上の手がタキオンから離れようとしたが、指先がもう離れてしまうというところでタキオンは繋ぎ直した。そして、少し痛めつけるように手を握った。

 その手の痛みに田上は、思わず顔をしかめたが、あまり顔の曇りは取れなかった。その後もタキオンが何度か話しかけはしたが、顔の曇りは中々取れず、家に着く前にようやく気を取り直そうとため息を一つ吐いて、首をぶるぶると振った。そして、無理に明るい声を出してこう言った。

「タキオン、お前の手は本当に暖かいな」

 タキオンは、急に話しかけられて話が頭に入って来なかったようだ。数秒後にようやく「あ、ああ」と頷くと、今度はタキオンが顔を曇らせて田上の方を見た。

 なんでなのかは、田上には皆目見当もつかなかった。ただ、また少し肩を落とすと、家に帰り着くまで黙っていただけだった。

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