ケロイド   作:石花漱一

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三十四、進路⑦

 二人共、昨日喧嘩して甘えられなかった時間を取り戻そうと、十分から二十分もの間、触れ合いの中に身を置いた。タキオンが頼むので、二三度キスもした。この時になると、田上も多少の罪悪感が湧いた。タキオンは、その田上の罪悪感には気付かず、また、気付いてないふりをしているだけかもしれないが、ただ嬉しそうに微笑んでいた。

 それから、二人共満足が行った時に、タキオンが口を開いた。

「……私は、どちらに進めば良いと思う?」

 タキオンは、田上の肩に寄りかかって、少し気落ちしたように聞いた。手は、相変わらず繋がれていた。田上は、少し間を空けてから、答えた。

「お前の好きにしていいよ。…まだ、心の整理がつかないって言うんだったら、大学にでも行って気を紛らわせばいい…」

「……遠い大学に行った時には?」

 これには、田上は、先程よりも長い間を空けてから、答えた。

「その時には、一緒に居られないかもしれない。…ごめん…」

「……君が謝る必要はないよ…。つまらない事を聞いた…。ごめん…」

「………お前の進路を縛る人間が良い人間だと思うか?」

「いや、…遠い大学に行く必要はないんだ…。…君の…答えを聞きたかっただけ…。ごめん…」

 田上はそう言われると、隣にいるタキオンの顔を見ようとした。しかし、その顔が俯かれているのを見ると、また目を正面の方に戻した。それから、何かを言おうとしたのだが、それを言うのは、憚られるように思って、やめることにした。

 本当の所は、タキオンに「他人を縛る様な彼氏は良くない」という趣旨の事を言おうとしたのだが、それでも、タキオンは田上の事を好きと言うだろうし、それによってまた傷付くだろうと思った。

 田上は、言葉を飲み込んだまま、目の前の整然と整えられた風景を見つめていたが、言葉を消化しきれはしなかった。タキオンが、田上に遠い大学に言った場合の事を聞いてくるのは理由があると思ったからだ。

 つまり、田上が、タキオンの事を思って、タキオンの行き先を自由に決めさせてくれるのではないだろうかという事を、タキオンが確かめたくて聞いてくるのだろう。すると、田上はその思いに答える事はできない。そういうタキオンに優しくすることは、どうしてもできない。何故なら、田上も、タキオンが遠くに行けば、寂しくなることが分かっていたし、そうして、寂しい想いを隠して付き合うくらいだったら、初めから何もない方がマシだと思ったからだ。

 田上は無意識に眉を寄せながら、自分とタキオンの関係を考えた。本来なら、田上はタキオンに元気に過ごしてほしい。そして、どうしてもタキオンを元気にできない自分は別れるべきだった。そう思う事こそが、タキオンの元気を失わせた。

 その後に、――いや、どうだろうか?と思った。タキオンは、別に元気を失ったわけではないかもしれない。何故なら、タキオン自身が、もっと私の事を頼ってくれと言っているのだから。

 そう考えた後に、またこうも思った。――いやいや、タキオンの様子を見れば、元気を失わせてるのは分かるだろ?現に寂しいっていていたじゃないか。

 田上は、果たして、自分がどうすればいいのか分からなくなって、タキオンと繋いでいる方の手の甲を、空いてる手でカリカリと掻いた。自分と居ればタキオンは不幸になる。自分と居なければ、少なくとも、一時は、もっと不幸になる。そして、今の所は、付き合いたいと言っている彼女と、別れる度胸も知恵もない。これが遠くの大学に行けば、少なくとも別れる口実になるので、田上は、依然として、別れるという行為を忘れるわけにはいかなかった。自分がタキオンを幸せにすればいい、という考えがふっと浮かんでくるときはあったが、そもそも、田上が、あまり付き合いたいと思っていなかったから、しょうがなかった。

 勿論、タキオンと一緒に過ごしていて、幸せじゃない事はない。むしろ、幸福この上ないと言えるかもしれない。それでも、倫理的観点や、田上の度胸から言って、タキオンと付き合うのは難しかった。

 一つには、タキオンがまだ女子高生であり、田上は二十五という、立派な大人であるべき年齢なのだ。決して、愛すべき大学生の先輩というわけではないのだ。立派な職に就いている立派な人間として、立派に人生を真っ当せねばならなかった。

 それが、結局の所、どちらの方へ転がって行くのかは分からない。田上の脳みその中には、毅然とした結婚願望などなく、タキオンが居なければ、この先数年は結婚する予定がなかっただろう。もしかしたら、そこら辺からひょいと、真新しい女性が飛び込んでくるのかもしれないが、どうも自信のない田上には、その人と、果たして、堂々と結婚できるのかは怪しかった。

 何しろ、エイと飛び込む度胸が無いのである。度胸さえあれば、最早、タキオンの事も倫理観など気にしていなかったかもしれない。むしろ、倫理観を盾にして、自分の度胸の無さを取り繕っているだけのようにも思う。実際に、こうしてタキオンと手を繋いでみれば、キスをしてみれば、幸せな事には幸せなのである。タキオンとキスをするときには、倫理観が頭をよぎるが、それは、もしかしたら、自分の度胸の無さがそうさせているのかもしれない。でなければ、自分が、タキオンの事を、節度ある女性と認めてしまった以上、キスしてしまった以上、ただの生徒ではないと認めてしまってもいいのである。

 こうなってくると、田上は、タキオンの事を、真正面から見つめなければいけないように思うが、そうなると、倫理観に責任を転嫁したくなるのである。度胸を持てと言われたところで持つ方法が分からない。言うは安しだ。それに、倫理観もまるっきり関係がないわけではない。関係しているからこそ、それを引き合いに出して責任を転嫁するのだ。

 こう頭の中でぐるぐる考えた所で、結局、自分は、タキオンと共に歩む道を選んでしまうのではないかと思ったし、また、そうなるのが嫌だとも思った。タキオンは、今の所、田上との家庭に縛られたくない理由を、自由でありたいから、若くありたいからと言っていた。田上も、その気持ちが分からないでもなかったが、それは、まだ、自分が大学に通っていた頃の話で、今の田上は、あまりそれに共感しそうにはなかった。少なくとも、今、田上が考えている上では。

 それから、田上は考え事を元に戻して、今、目の前にいるタキオンの事を考えた。タキオンは、先程の言葉から一向に話し出そうとしない。何を思っているのだろうか?自分が話し出すのを待っているのだろうか?それにしたって、自分は、今、何も話さないで考え事をしていたのだから、うんざりして、タキオンの方から話しても良さそうだ。自分の事を待っているとしたら、何を待ってくれているのだろうか?タキオンの事を許して、好きだと言うのを待っているのだろうか?

 田上は、生憎、少なくとも、好きと言いたい気分ではなかった。今、好きと言ってしまえば、それが、あまりにも安っぽい言葉のように思えたし、嘘臭くて堪らなかった。それでも、キスをしてしまっているし、タキオンが居なくなれば、非常に困るのは、田上自身が言った事だったから、田上は自分の事をバカだと思った。今なら、以前に読んだ詩に共感できた。『知的な探求心』という詩だ。

 その詩では、主人公の何某が、短刀を腹に何度も突き刺すも死ねずにいる。田上は、今、その短刀を、腹に刺したいという思いが湧いた。そして、腹の中を掻っ捌き、できる事ならその内臓を懇切丁寧に調べ上げて、自分が、今まで何を考えていたのか解き明かしたいと思った。それが、今、一番目に見えるものとして、田上自身に大きな知恵を与えてくれるだろう。

 それこそが『知的な探求心』なのだろうと思った。自分の腹を掻っ捌いて、その中にある臓物を、懇切丁寧に調べ上げる事こそが知的な探求心なのだ。そして、その探求には、大きな痛みも、同時に伴うのだろうと田上は思った。

 そして、渋い顔をし、また、タキオンの白く小さい手を見つめた。今度は、何だか、大きな田上の手に埋もれて、憐れっぽく見えた。

――この檻から逃げ出すことができればいいのに…。

 田上は、そう考えている自分こそが嫌いだった。

 

 実際問題として、タキオンと別れれば、二人共困るのは明白だった。タキオンは、その後に立ち直れるかもしれない。ただ、田上がどうかは分からない。もう元のようには戻れない。それは、タキオンも、もしかしたら、そうかもしれないが、田上は、タキオンと別れたら、世界が灰色に見えるのじゃないかと思った。

 田上は、これはあまりにも、バカげて、使い古された詩的な表現だと思ったが、実際そう思えてならなかった。結局、田上の現在の世界は、タキオンによってのみ彩られているのである。ゲームや小説では、タキオンの色程強い色彩を伴って、田上の世界を彩ってはくれないだろう。精々セピアが良い所である。

 ところが、タキオンの色はこれとは全く違うのだ。美しい花々が色とりどりに咲き乱れるように、赤、白、青、黄、緑、夜の暗闇までもが彩度豊かに描かれるのだ。タキオンの居る世界に色のない場所などない。色が全く同じ場所などない。色褪せない。それ程の感動と喜びを、タキオンは、田上に分け与えてくれているのだ。

 田上は、小説などで、男にとっての女性は特別なのだ、という論を聞いた事がある。実際そうなのではないかと、最近思い始めている。タキオンという女性と触れ合って初めて、田上の世界は華々しく彩られ始めた。これは、男友達と触れ合ったとて、絶対に得られる色でなかった。タキオンという女性が田上の目の前に立って初めて、得られる多大なる尊敬すべき色なのだ。

 田上がそれ程までに絶賛を寄せているタキオンと、なぜそんなに別れたがるかの議論は、今の所、別として、田上は困ったように横のタキオンを見た。顔を覗き込む事はできなかったが、自分の体に寄り掛かってきているのと、微動だにしていない様子は確認できた。何か話してやろうという気は湧いた。しかし、肝心の内容はまだだった。そして、雰囲気もあまり話し出せる雰囲気出なかったから、田上は口を開くまでに大分苦心したが、隣のタキオンにこう言った。

「……タキオンは、……俺に、もっとこうあってほしい、とか思わないのか?遠い大学に行くのを許してほしいとか、……もっとフレンドリーな若者らしくあってほしいとか」

 これを聞いたところで、タキオンからの返事が返ってこないので、田上は隣のタキオンの顔を覗き込んだ。すると、これが目を瞑っていたので、田上の体に寄り掛かったまま寝ていたのだと気が付いた。しかし、まだ微睡みの最中のようだったので、田上が一つ「タキオン?」と呼び掛けると、タキオンはすぐに目を開けて、多少眠たそうな目で「なんだい?」と聞いてきた。

 田上は、先程の言葉を改めて言うのは、なんだか恥ずかしいような気がしたし、あれは、第一声で唐突に言うからいいのであって、面と向かって言うと、また、意味が違ってくるような気もした。

 それでも、それ以外の言葉が思いつかなかったから、先程の言葉をそっくりそのまま繰り返した。すると、タキオンは顔に微笑を浮かべて、「君は君のままでいいんだよ」と言った。これは、確かに、違う意味に捉えられているような気がした。しかし、タキオンらしい返答でもあったので、田上は「違うんだよなぁ」と少し眉を八の字にさせた。

「こう……、遠くの大学に行きたくはないのか?」

「元々行くつもりはないって言っただろう?」とタキオンは、穏やかと言いつつも、少々疲れ気味とも言える様子で答えた。

「…うーん……。タキオンの要望ってないか?……隠さないで言ってほしい。…もっと明るくなってほしいんだったら、何とか考えるし、もっと…優しくなってほしいとか…」

 田上が選択肢に困って、そう付け足すと、タキオンは、先程よりも口角を上げて「君はもう充分に優しいじゃないか…」と言った。

 それから、こうも言った。

「…君の言いたい事は分かったよ。……そうだね……。できる事なら、……私にもっと甘えてほしい物だね。…やはり、…私を守るためか君の身を守るためか、一線が引かれている。一線を超えないために、その線の存在を知らせる危険ラインだ。……そりゃあ、恋人の私からしたら寂しいよ…。抱き締める事一つだって、距離を置いてしようとしてくる…」

 この答えに、田上は大いに困った。これは、田上だって、やりたくてやっているわけではないのだが、簡単に心を許そうとすると、一線を超えてしまいそうで怖かったのだ。

 それだから、危険ラインは、田上にとって確かに必要だった。年齢や立場という壁を超えない限り、確かにそれは必要だった。そして、今は、田上の責任上、年齢と立場を超えてしまう事はできない。

 これが、もしかしたら、先程マテリアルにも言われた「タキオンに責任を持ちすぎ」という事なのかもしれない。しかし、ここで田上が責任を持たねば、誰が責任を持つだろうか。壁を超えようとしてくるタキオンを、しっかりと大人の立場として、止めなければ、恋愛としてままならない。少なくとも、世間体ではそうだ。

 タキオンは、世間体など関係なしに、すぐに年齢と立場の壁を超えようとしてくるが、田上はそうも言っていられないのである。元々ある世間体が吹き飛ばされるのだ。タキオンは、世間体というものを気にしないからいいかもしれないが、田上は絶対にダメという意志を持っていた。

 ここで手を出してしまえば、親族にだってあまり良い顔はされないだろう。自分が、ちゃんと節度を守れる、立派な人間だと証明するには、タキオンと一線を置くのが一番なのだ。そして、その一線を超えないために、その一歩手前で踏み止まる危険ラインが必要だった。ぎりぎりまで進んで、自分が果たして踏み止まれるのかは怪しかった。

 このように、二人の関係は複雑混迷を極めている。責任と倫理と度胸と何と…。一言でとても言い表せない二人の関係であったし、言い表そうとすると、互いが複雑に絡み合っているので、言葉にするのも一苦労だった。

 度胸があれば、もしかしたら、全てが解決できるのかもしれない。だから、タキオンに対する責任や倫理が、一欠片でも発生しなければ、まだもう少し、二人の関係は穏やかに行っていたのかもしれないと願わざるを得なかった。

 それから、そう願った時に、また、田上の度胸は、タキオンと真正面から向き合うには、不完全極まりない事を知るのだった。

 

 田上は、タキオンの「距離を置いてこようとしてくる」という発言に、少々困った顔をした後にこう言った。

「そりゃあ、………俺だってお前の事は嫌いじゃない。むしろ、嫌ってほしいくらいなんだよ」

「…どういう理屈だい?」

「……俺はもうどうすればいいのか分からん。お前の事は嫌いじゃない。でも、……トレーナーという立場上、それ以上接近できないのを分かってくれないか?」

 田上は、タキオンが「寂しい」と言った時の顔を思い出しながら、苦しそうにそう言った。タキオンは、口の中に出てきた言葉を外に出そうか迷った。それで、一瞬田上の顔を見つめたが、ここで口に出さなければ、何も進展しないと思い、少々強引にも、田上の膝の上に対面で乗り、キスをした。

 それから、こう言った。

「私が君の言い分を聞いた事があったかい?」

「……酷い」と田上は口調は軽く、だが、タキオンを責めるように一言発した。それに、タキオンは微笑みながら、またキスをして、田上の目を見つめながら言った。

「君は、私の事を縛っていると、自分の事を責めているようだったが、私だって君と同じように、…もしかしたらそれ以上に、君の事を縛っている。君が逃げようとしても簡単には逃がさないもの。…私の心の中にある物を分かっているかい?……君への独占欲だよ。簡単に他の女に渡したりしないもの。簡単に君を遠くへ行かせないもの。君が海外へ移住するって言ったら、私も絶対に君についていくとも。一度、私に心を開いて、キスをしてしまった以上は、簡単には逃がさない。…重い女だって事は、初めから知っているだろう?」

 田上は、この質問に何も答えなかった。すると、タキオンは、また、田上とキスをしてから言った。

「もしかしたら、遠くの大学を希望する瞬間があるかもしれないと、私も少し思っていたんだが、今ので吹っ切れた。少なくとも、君と生活を共にしないといけない。…浮気はしちゃいけないものね」

「浮気はしないよ」

「…君は誠実だからね。…でも、君ばっかり私の事を縛ってもらってると思われても困る。私には責任がないかい?…大いにあると私は思うね。そして、その責任を全うするために君の生活を支えるし、縛る。絶対に君を放さないからね」

「……でも、冷静になって考えてみろ。俺はお前に縛られてるのに慣れてるし、そんなに苦もないからいいけど、お前は、俺に縛られ慣れてない。縛られるのが苦しそうだった」

「それは問題ない。君のは程度が軽い。むしろ、君の方が苦しいくらいに締め上げてあげよう」

「…いや、…お前だって苦しいはずだ。現に、君を放さないと言ったところで、それじゃあ実生活が儘ならない。束縛すればするだけ、縛れない俺にお前が苦しくなるはずだ」

「……じゃあ、君が私を縛ってくれ」

 タキオンは、思わぬ反撃を受けて、少し悲しそうにそう言った。そんなタキオンに、田上は、優しさと同情を感じて、少し和らぎつつも厳しい目を向けながら言った。

「そもそも縛りに行く方向が違うから、お前の思ったような結果にはならない。俺がお前に望んでいるのは現実の方だ。理想郷に行きたいと言ってるお前と俺とじゃ方向が違う。今回の遠くの大学に行かないでほしいのは、言っても、そこだけは譲れなかった俺の利己心だ。お前ほどに、俺は縛れないよ」

「じゃあ、君は全然縛ってないじゃないか。…裏切者」

 最後の言葉は、恨みがましさの中に冗談を秘めていたので、田上のダメージにはならなかった。むしろ、少しの笑いを誘って、田上の厳しい目を和らげさせた。

「そりゃあ、お前に比べたら縛ってないかもしれないけど、……やっぱり年長者として利己心出して、縛るのはあんまり良くないだろ?」

「君は、たった八歳年が離れているだけで、年長者を気取るのかい?私の事が大好きな癖に?」

 これに、思わず、田上も顔に笑みを作ってしまった。

「八歳も年が離れてたら充分に年長者だろ?」

「私はそんな考えには反対だね。君だけが責任を負っていいという考えの一助になりかねない。 君も私に充分頼っているじゃないか。私としてはまだ不満が残るから九割くらいだがね。 私に頼っているという言葉を成立させるほどには、充分私に頼っている。その事を君は認めるべきだ。君は責任を負いたそうな顔をしているが、君は一人で責任を負えるほど偉大な事はしてない。私に溶けてズブズブじゃないか」

 この言葉には、田上も顔を渋くさせた。

「偉大な男だと言ってただろ?」

「無論、私にとって、君は、とてつもなく偉大な男であることに間違いない。しかし、他の人から見ればどうかな?」

「他の人からも、そう見てほしい、みたいな事を言ってなかったか?」

「他の人からもそう見えるべきだが、実際、私が君のことを偉大だと見る以上に、偉大に見えている人間は居ない。…君は、もしかしたら、凡才なのかもしれないね」

「……それを偉大だと思ってる人間に言うのか?」

 田上がこう切り返すと、タキオンは少し悲しげな顔をした。

「……すまないね…」とタキオンが悲しみを堪えるように言った。そうされると、田上も申し訳なくなって、少しの間黙った。

「………俺が凡才なのは初めから知ってる。……結局どうするつもりなんだ?お前の言葉一つじゃ、俺は簡単には動かない。かと言って、お前の言葉に影響され過ぎたくもない…」

 その後に、タキオンは、また一つキスをすると、言った。

「キスをすると案外動いてくれる。私に視線が向いてくれるんだね。……ここ最近は、君に気を遣ってキスはやめておいたが、今の君の態度を見るとそれは逆効果だった。もっと頻繁にキスをしないと、君は、…君の方こそが私に気を遣ってしまう。気を遣えない程に、君の頭を私の事で熱中させないといけない」

 田上は、これに嫌そうな目をタキオンに向けたが、タキオンはその目を見つめると、微笑んでからまた田上にキスをした。

 その後に、田上が顔を逸らして、この状況をどう打開しようかと考えていると、タキオンが田上の顔に手を添えて、またキスをした。これでは碌に考えられそうになかった。これが、終るたんびたんびに繰り返されるので、田上もついにタキオンの目を見ながら言った。

「お前、いよいよいい加減にしないと嫌いになるぞ」

 タキオンは、これに少し眉を動かしたが、顔は平気そうにさせて言った。

「君は私の事なんて嫌いにならないもの。本当は嬉しいんだろう?」

 そう言ってまたキスをした。これを終えて、タキオンが田上の顔を見ると、田上は少々怒り気味の様子だったので、タキオンにも田上の言葉が本気なのだと分かった。それでも、平気な顔をして、田上と目を見つめ合わせたままでいると、段々とタキオンの顔は泣きそうになってきた。そして、その決壊の前に、タキオンは、それを隠すように田上の首に抱き着くと、「捨てないで…」と耳元で掠れた声で言った。

 田上はこれを聞くと、いよいよ本当に自分に腹が立ってきた。何もできない。彼女を喜ばせてあげられない。彼女の要望を聞いてあげられない。「別れないで」と幾度も言われているのに、未だにその気持ちを変えることができない。自分を責めるなと言われているのに、この止まない怒りや後悔は、一体何の為に存在しているのだろうか?俺に何をしろと言うのだろうか?どうやって生きろというのだろうか?大切な彼女一人すら満足に笑わせてあげられない男が、どうやって生きろというのだろうか?こんなにもこんなにも好きだと思われているのに、それにどうしても応えられない自分は、一体何なのだろうか?存在していいのだろうか?後世に子孫を伝えて良いのだろうか?何を許せばいいのだろうか?何に怒ればいいのだろうか?何を大切にすればいいのだろうか?

 田上は終いには泣きたくなって、それを我慢するように鼻息を荒くさせた。耳元では、タキオンが少しすすり泣く声が聞こえ、首筋にはその荒くなった息がかかった。そうなったタキオンの背を、一生懸命に撫でて、温めてやりたいと思ったが、どうしてもそれはできなかった。この怒りはどこへ爆発させればいいのだろうか?一体どこから流れ出てきているのだろうか?何が俺を怒らせているのだろうか?

 今度は、自分自身の体を掻きむしりたくなった。丸裸にして、全身ボロボロにして、永劫続く苦痛を味わって、そして、その苦痛を罪として受け止めながら、自分が悪かったのだと思って死にたかった。なぜ自分は生きているのだろうか?それはタキオンの為である。田上の世界に色を与えてくれたタキオン自身の為である。優しく撫でてあげたかった。恋人のように和やかな冗談を投げかけてあげたかった。それでいて、それが余りにもできないので、自分自身に無性に怒りが湧いた。

 

 田上は、この間に固まったまま、ただタキオンの存在だけを感じていた。その呼吸や心臓の鼓動、微かな衣擦れ、田上の縋るために籠る力。田上はその存在を感じながら、自分の意識を必死にこの世の方へと保っていた。田上の左手は無意識にタキオンの衣服を強く掴んでいた。田上の右手は、宙を掴むように、ただ有り余る力の放出先に困っていた。

 田上とタキオンは、二十分程抱き合ったまま動かなかった。そして、田上が、行き場のない怒りにケリを着けるように、一つ大きなため息を吐くと言った。

「許してくれ…」

 行き場のない怒りをタキオンにぶつけるのも憚られるから、田上はそれを堪えるようにしてそう言った。タキオンには何の反応もなかった。だから、田上は少し迷った末に、タキオンを元気づけるように力強くその背を撫でた。これは、擦ったと言っても正しいかもしれない。田上の手は有り余る力が漏れ出すような手つきで、タキオンの背を撫でていた。それが、多少の怒りの発散にもなっていた。

 それから、もう事のほとんどを片付けてしまおうと思ってこう言った。

「タキオンにはすまないけど、…さっきの入居審査の話は嘘だった。もう来てる。明日、契約できるそうだから、…まぁ、お前は来ても来なくても良いけど、行くつもりだった。そして、今日は、ちょっと新生活に必要な物を買い揃えるつもりだった。…店の方で。…お前も誘えたら良かったんだけど、……どうする?落ち込んでるならいい。…行く?」

 そう聞くと、タキオンの頭は田上にすりすりと擦りつけられ始めたが、田上にはそれがイエスかノーか分からなかった。だから、もう一度「口に出して答えてくれないか?」と困ったように言うと、タキオンは「行かせてくれないか?」と力無く意気消沈したように答えた。

 田上は、それを憐れの様にも、自分を責めるための材料のようにも思ったが、ここで自分が意気消沈しても仕方がないので、もう一度タキオンの背中を強く擦ると、改めて「迷惑かけてごめん」と謝った。それがあまりにはっきりした口調だったので、タキオンも他の言葉を言う気もなくただ「いいよ」とだけ答えた。それで、二人は一旦立つことになった。

 

 昼食の時間はもうとうに終っていた。田上の頭の中では、店の方で昼食を済ましてしまおうという考えがあったが、それはまだタキオンには伝えずにいた。タキオンは、田上から離れて、寮で着替えをして出てくることになった。意気消沈していたので、なんだか心配でもあったが、一人で歩いて行けるくらいの元気はあったので、田上は小さく手を振って送り出した。そして、田上は、今寮の前でタキオンを待って居る所だった。

 田上も寮に行って、色々と準備をしてから戻ってきたので、それなりの時間は使ったつもりだった。しかし、タキオンはそれよりも五分ばかり遅かった。田上が、遅いなぁとスマホを確認している所で、タキオンはやって来た。

 寮のドアを開けて出てきたタキオンは、髪を後の方で束ねて一まとめにし、大阪杯の時のようにしていた。そして、服はタータンチェックでコーヒー牛乳色、半袖のワンピースを着ていた。それが、あんまりにも可愛く見えたから、田上はタキオンを見つめたまま、少し言葉を失ってしまった。それで、田上がタキオンの事をじろじろと見つめていると、タキオンが「どうかな?」と静かに首を傾げて見せたので、田上は慌てて「可愛いと思うよ」と答えた。この一瞬の間に、田上は今までの事を全て忘れてしまっていたので、普段の調子でタキオンを褒めてしまった事を少し後悔した。しかし、その答えにタキオンは儚げながらもにこりと笑ってくれたので、田上は――仕方がないか、という気分になった。

 毎度の事ながら、こういうお洒落をしてくる彼女に対して、自分自身の、服への気遣いが全くなっていないことに、少し劣等感の様な物を感じてしまっていた。それも、それを指摘されて、タキオンが買ってくれた服があると言うのに、今回は頭からすっぽりとその服の存在が抜けていた。その事を、店へ行く道中でぽつりと話すと、タキオンは力無く微笑みながら「私は全く気になっていなかったがね」と言った。実際、全く気にしていなさそうだったので、田上も気にしないことにした。

 それよりも気になったのが、タキオンの元気が一向に回復しない事だった。こういう喧嘩をした後の気分の回復は、あまり早い方ではないと、田上は思っていたが、それでも、タキオンが、また、いつものように笑っている姿が見たかったので、田上はできるだけタキオンが寂しくならないように努めた。その甲斐あってか、タキオンは時折嬉しそうに微笑んでくれたが、満面の笑みとまではいかなかった。

 今に始まった事ではないが、ここの所、タキオンが弱ってきつつあるのは感じていた。喧嘩が多いせいもあるだろうが、一番は、自分自身がそうさせているのではないかと、田上は思っていた。

 つまり、タキオンが弱らないと、田上が振り向いてくれないのではないか、という事だ。だから、タキオンは、田上を振り向かせるために、弱るようになる。田上も、今やってみせた様に、タキオンをできるだけ落ち込ませないように、積極的に話をするようになる。

 これでは悪循環の様に感じた。それならば、田上は、タキオンの気分次第で、自分の態度を変えるなという話だが、これがやってみるとなると、中々面倒なように感じた。これにも、喧嘩の原因が関わってくる。田上に心を開けと言われて、そんな簡単にできるものでもない。少なからず立場があるのだ。実際に、タキオンがあのベンチに座っている時に発した言葉も間違いではないように感じた。

「キスをすると案外動いてくれる」

 まさにその通りである。キスした直後、している瞬間は、倫理観や責任の壁を貫いた向こう側に来てしまっているのだから、壁のこちら側に居る時とは見える景色が違う。

 勿論、している瞬間に罪悪感が湧いてくることもあるが、タキオンに無理矢理されるとなると少し違うのではないかとも思う。つまり、仕方がなかったというものだ。自分のせいじゃない。不可抗力。その事を言い訳にできるから、少しばかり、自分の心も救われるのだろう。

 ここで、田上は、自分が、タキオンと歩きながら考え込んでしまっている事に気が付いて、少々慌てて隣のタキオンの顔を見た。タキオンは、前を見て歩いていたが、田上が見てきているとなると、その方に顔を向けて、嬉しそうに微笑を浮かべた。田上もそれにつられて、嬉しそうに微笑を浮かべた。

 

 田上とタキオンは、店に入ると、まず、店内にある飲食店の方に行って、田上もタキオンもオムライスを頼んだ。このオムライスはメニューの中からタキオンの方が先に決めたのだが、ここで、そこら辺にいるカップルの様に同じメニューを頼んでみたいという田上の中での欲が働いて、そう決められたものだった。特に、それが二人の間で意味を持ったというものでもないが、心持ち嬉しいような気がしたのは、田上だけでなく、タキオンの方も同じだと思う。

 会計はタキオンの方も一応財布を持って来ていたが、田上が払うことにした。これは年長者だし、男だから、格好つけたいという思いもあった。タキオンは、ここでは田上に華を持たせてやることにして、会計をする彼氏の横に、嬉しそうに佇んでいた。

 昼飯を食べ終わると、とりあえず、田上たちは、カーテンが売られていそうな場所に来た。田上が新居に引っ越す際に、一番に欲しいのは、プライバシーだった。カーテンは大きいのが合計で四枚ほど欲しかった。日中にかける白のレースのカーテン二枚と、夜にかけるもの二枚だ。柄はなんでも良かったので、タキオンに任せることにした。

 タキオンは、売り場に置いてあるカーテンを、嬉しそうに一枚一枚見比べた後、白を基調としたチェックの物と、レモン色を基調とした縦筋の入った物に決めた。途中で、色々とキャラクターの物やデフォルメされたパンダの物などあって、タキオンがそれを選ぼうとしたが、冷静に考えてみると、やっぱり趣味じゃないなという事で、普通のカーテンが選ばれた。

 そんな調子で、二人は、買い物かごに必要な物を揃えていった後、本コーナーに立ち寄った。特に理由はなかったが、なにか欲しい本でもないかな、面白そうな本でもないかなという事で田上が立ち寄っただけだった。本屋には色々な本があるので、二人で歩いていると別々の本にも惹かれるようになる。

 それで、田上が歩いてビジネス書などの表紙を眺めていると、いつの間にかタキオンが居なくなっていた。田上が辺りを見回すと、雑誌が置かれている所にタキオンが立って、その雑誌の中身を読んでいたので、特に何もないだろうという事で、田上は再び自分の興味がありそうな本を探すことにした。

 これが四五分ほどすると、田上の下に、タキオンが、ウマの尻尾を振り振りやって来た。見ると、手には先程の雑誌を抱えているし、またそれをよくよく見てみると、なんと結婚生活雑誌だった。田上は、戸惑いながら、タキオンを見つめ返して「なにそれ?」と聞いた。

 タキオンは、その雑誌の名前を口にしながら、田上の買い物かごに放り込んだだけだった。田上もその雑誌の名前くらいは知っている。結婚生活雑誌と言ったらこれだろうという様な雑誌だからだ。問題はなぜこれを持ってきたのか、だった。

 タキオンが、これを買い物かごに放り込んだ後、田上に顔を向けると、先程の機嫌から回復して、とてもニコニコし、からかうようにも見つめてきていたので、確信犯であることに間違いは無かった。

 それでも、田上は、タキオンの機嫌が回復したことが嬉しかったので、微笑みながら「楽しみなのか?」と聞いた。答えは勿論「楽しみだとも」という言葉で、それはタキオンのいつも通りの笑顔と共に発せられた。

 

 結婚生活雑誌を読んで、田上との妄想が膨らみ元気が出たようではあったが、普段よりかはまだ静かな方だった。ただ、幾らか普段通りの笑みは垣間見えるようになった。田上とタキオンは、本コーナーを一通り回った後、欲しい本が一つもないとなると、最後にお菓子コーナーに立ち寄って、タキオンの好きなお菓子を一つ手に取って、買い物かごに入れた。これを、帰る途中にある公園で食べてから帰ろうという事だった。

 一つ困ったのが、買い物かごの中身をレジに通すときだった。これは、タキオンと二人で居ると、まるっきり新婚が新居に引っ越すための買い物のようだった。そして、それを結婚生活雑誌が加速させた。

 無論、二人は結婚するわけではない。しかし、レジの人がこの品々を見たら何と思うだろうか?答えは前述の通りだ。

 田上はあまりタキオンを隣に置きたくなくて、今の考えをタキオンにそのまま伝えたが、いいじゃないかと言って取り合わなかった。田上は、あんまり自分が悪者にはなりたくなくて、それで、週刊誌というものを少し恐れ過ぎていた所もあったのだが、タキオンが渋る田上を見かねて、マスクをつけてあげるとなったので、一先ず田上の心は落ち着いた。

 レジのお姉さんは、マスクをつけたタキオンをチラチラと盗み見ていたが、特に二人に何も言う事はなく、田上は安心した。それで、色々な物を買いすぎて、まあまあな量になってしまった紙袋をタキオンと二人で持つと、タキオンの方がマスクを外しながら「言ったろう?」と言ってきた。田上は、今のタキオンにあんまり反論する気にはなれなかったので、微妙な表情をして、曖昧に頷くだけに留めておいた。

 

 公園でスティック状のチョコレート菓子を二人で分け合って食べた後、二人はのんびりと帰路へついた。途中で道を歩いている野良猫を見かけたので、二人はしゃがみこんでその猫を囲んだ。黒と白の毛並みの可愛い猫だった。妙に人懐っこかったので、人間から餌でも与えられているものじゃないかと思う。残念ながら、この猫に与えられる物は二人共持ち合わせていなかったし、わざわざ与えようとも思わなかった。ただ、タキオンがこう言った。

「……あのアパートは、…猫は飼えたんだったかな…?」

 タキオンが猫の首筋をカリカリと撫でながらそう言ったので、田上は少しぎょっとしてタキオンの顔を見つめた。タキオンは、田上に見つめられても猫の首を撫でていたので、田上がこう言った。

「俺は飼わないぞ」

「…うん。…私が居るものね…」

「……なんだそれ?」と田上は、本格的にタキオンの言葉の意味が分からなくなって、聞き返した。タキオンは静かに口元に笑みを作った。

「……私たち二人共、猫になんて構っていられないもの…」

「……そうだな…」と田上は、猫の方を見つめながら、一応同調をした。

 田上は、猫を撫で続けているタキオンの事をぼんやりと見つめながら、その時間を過ごした。そして、唐突にタキオンが立ち上がると、田上に呼び掛けた。

「よし、行こう。有意義な時間だった。…私を買い物に誘ってくれてありがとう…」

 改めて礼を言ってきたタキオンを、戸惑いながら見上げると、自分も立ち上がってからタキオンに「うん」と一言だけ返した。猫は、立ち上がった二人の人間を見上げながら、気を引く様に、寂しがるように、ニャアと鳴いた。すると、二人は視線を猫の方に向けた。

 猫は、タキオンと田上の足に、交互に体を擦りつけて、もう一度ニャアと鳴いた。その後に、タキオンは田上の方を見ると、「この猫君の家で飼えないかい?」と言った。田上は、ペットを飼う気なんてさらさらなかったので、はっきりと断るように首を横に振った。すると、タキオンは足元の猫を見つめながら、「そうか…」と言った。そして、またしゃがみこむと猫の頭を撫でながら言った。

「君も保健所行きになるかもしれないから、良い人に拾ってもらいたまえ。…達者でね」

 それから、タキオンは、自分たちの荷物を持つと、田上に「行こう」と言って歩き出した。田上も、タキオンに続いて、その後を歩き始めたが、猫がもう一度、二人を引き留めるようにニャアと鳴いたので、田上は肩越しに後ろを振り返った。

 猫は、立ち止まったままこちらの方を見ていたが、やがて、長い尻尾を振りながら、田上たちとは反対の方に歩いて行った。その間に田上は立ち止まってしまっていたので、タキオンに「行くよ」と再び言われることになった。田上は、この寂しげな猫がどこに行くのだろうかと思った。いつか繁殖相手にでもぶつかるのだろうか?それとも、この人間たちが暮らす大きな街にたった一匹で過ごしているのだろうか?

 そんな田上の気も知らずに、猫は、道端で、呑気に毛づくろいを始めた。だから、田上は感傷に浸っていた今の自分を鼻で笑って、タキオンの隣で歩き始めた。

 

 諸々の荷物を田上の部屋に運び込んだ後は、タキオンと田上は手を洗い、それからベンチの方へ行った。

 ベンチの方へ行くと、その後の二人は、比較的仲が良かった。田上も、タキオンの事を想っていたし、タキオンも、田上の事を想っていた。キスもすれば見つめ合いもした。ただ、田上はどちらかと言うと、タキオンに夢中になっていない事もなかったのだが、タキオンを甘やかしていたという側面の方が大きかった。なるべく、タキオンが元気でいられるように、タキオンの事を見つめるように努めていた。そうすると、田上も、多少は、タキオンに夢中になって接していた。

 この日はそのようにして過ぎた。田上がタキオンを甘やかしたのには、償いという意味も込められていた。あれだけ迷惑をかけたのだから、タキオンにはもっと楽をさせてやろうと思った。

 次の日の日曜になると、田上は一人で不動産の方へ出かけた。そこで、契約をする手筈になっていた。これはもう本当に契約をするだけなので、ついてきたがっていたタキオンは置いてきた。そこに住むわけでもない部外者が、一人紛れ込むのはどう考えてもおかしいだろうと、田上が思ったからだ。

 タキオンは不服そうにしながらも「すぐに帰ってこれるはずだから」という田上の言葉を信じて、一人トレセン学園で待つことにした。いつもの友達は、手の届くところに見当たらなかったし、研究室に行く気にはどうしてもなれなかったので、タキオンは一人でいつものベンチに座って日向ぼっこをしていた。

 人が二三人、珍しく通りがかったが、ベンチに座っているタキオンには、目も止めないで過ぎ去っていった。タキオンは、暖かい陽の光を感じて目を瞑りながら、いつしか田上に包まれているような感覚になって、微睡みの中へと落ちていった。

 

 スマホがピロンとなった時に、タキオンは目を覚ました。もうあまりにも眠たかったので、タキオンはベンチの上に体を横たえて熟睡していた所だった。スマホを見ると、田上からメッセージが来ていた。

『今終わった。もうすぐ帰れると思う』

 タキオンは、そのメッセージに嬉しくなって、目を擦りながら立ち上がると、尻尾を左右に振りながら、いそいそとトレセン学園の正門の方に向かった。

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