ケロイド   作:石花漱一

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三十四、進路⑧

 正門の塀に寄りかかって待っていると、程なくして田上が帰ってきた。田上は、正門の塀の陰に待っているタキオンに、気付かずに通り過ぎて行こうとした。それに気が付いたタキオンは、その後ろから忍び足で近寄ると、トントンとその肩をつつき、「圭一君」とからかうように呼びかけた。

 田上は、後ろを振り返ると、タキオンの顔を見て、「ああ、タキオンか。気付かなかった」と答えた。タキオンは、自然に田上の手を取ると、横を一緒に歩きながら「どうだった?」と事の顛末を聞いた。

 田上もただ書類などを持って、人と話してきただけなので、特に話す事もなく「まぁ、いい感じだったよ」と答えた。それに、タキオンが「いよいよ来週だね。私たちの新居は」と言った。

 田上は、口元に笑みを浮かべながら曖昧に頷いて、「そうだな…」と答えた。田上も複雑な心境であった。嬉しくないわけではないのだが、例の如く素直には喜べない自分がいた。それでも、喜んでいるタキオンの顔が嬉しいので、とりあえずは同調してあげた。

 田上は寮に一旦荷物を置きに戻り、それから、またタキオンに会うために戻ってきた。そして、二人の行先はいつものベンチだった。特に、今回はタキオンからの「君の膝枕で昼寝をしたい」という強い要望があった。その要望がなくても、二人はそこしか行く先がないので、そこに行かざるを得なかったが、今回は、特別、タキオンがそこに行きたがっていた。

 ベンチに着くと、タキオンは早速、田上の膝を枕に、ベンチに寝転がったが、先程寝たばかりなので、あんまりすぐに寝るという訳にもいかなかった。

 それで、タキオンは田上の顎を触ったり、服を触ったりして、ぽかぽかと当たる陽の光の暖かさを感じていた。タキオンは、その内に田上の首元に触れた。ここには、以前であればタキオンの誕生日の時に買ったネックレスがついているはずだったが、ここ最近は二人で話し合って、普段から着けてて失くしても滑稽なので、大事な時しかつけないようにしていた。

 そして、タキオンは昨日がその大事な日だと不図思った。昨日は、少々ぼんやりとしている所もあったから、タキオンは着けていたものの、田上のネックレスの有無を確認するのを忘れていた。そして、恐らくタキオンの記憶の限りでは、田上は付けていなかったような気がしたから、タキオンは、田上の鎖骨の間から首にかけてを、人差し指で触りながら言った。

「君、…昨日ネックレス着けていなかったね…」

「ああ、そうだね。着けてなかった」

 田上は今思い出したように言った。

「着けてもらわなきゃ困るじゃないか…」

「うん…」

 田上はそう頷くしかなかった。勿論、次の機会には着けて行こうと思ったのだが、とんとお洒落に頓着のない田上なので、次の機会に覚えているかどうかは怪しかった。それで、「善処する」と付け加えると、タキオンは田上の目をじっと見つめた後に、ゆっくりと身を起こした。それから、田上の方を向くと、静かに「首を出して…」と言った。田上は、言っている意味が分からなかったので、タキオンを見つめたまま動かないでいると、タキオンは田上の膝の上に座り、その背を曲げて田上の首に噛み付こうとし始めた。これが中々上手く行かないようだったので、何度か試行錯誤していたのだが、タキオンが、なにをしようとしているのか分かった田上が、慌ててタキオンの肩を押さえて言った。

「お前、なに人の首を噛もうとしてるんだ」

 タキオンは、少ししょんぼりとした面持ちになったが、次には「もう噛まないよ…」と言って、体の力を抜いた。田上はそんなタキオンを戸惑い見つめながらも、タキオンももうしなさそうな様子だったので、肩を押さえるのはやめた。すると、タキオンは力無く田上の体に寄りかかって、頭を田上の肩に置いた。これが、タキオンがまた田上の首を噛めそうな位置に頭が置かれたので、田上は少し警戒したが、タキオンはそのまま体を脱力させたままだったので、いつしか警戒を解いた。

 そうしたと思ったら、唐突にタキオンが動いて、田上の首を噛み始めた。これが、中々、田上に痛みを与えてくる噛み方だったので、田上もつい本気になって「痛い!」と言いながら、タキオンの肩を制止するように叩いた。

 すると、タキオンは少し落ち込んだ声で、「ごめん」と言って、自分の噛んだところに唇を押し当てた。田上は、タキオンに何故噛まれるのか、訳が分からなかったから、少し無理にもタキオンの体を引き離すと、こう聞いた。

「お前、なに人の首を噛もうとしてるんだ」

 タキオンはじっと俯いたまま、暫く何も言わなかったが、やがて「ごめん」と一言だけ言った。首を噛まれたと言っても、肉を引きちぎる程強く噛まれたわけではなかったから、田上もそこまで怒ってはいなかったが、それでも痛い事には痛かった。

 それで、少しタキオンの事を睨んでいたのだが、自分から必死に顔を逸らし続けているタキオンが段々と憐れに見えてきた。だから、田上もとうとう自分の怒りを静めて言った。

「立ってくれ。…歩こう。…お前、ちょっとストレスが溜まってるんだよ。昨日の今日で。おんぶしようか?お前もそっちのほうが良いんじゃないか?」

 タキオンは、微かに頷くと、自分から立ち上がってくれた。そして、田上が地面にしゃがんでタキオンを背負う体勢を取った。タキオンは、黙ったまま田上の背中を見つめた後、ゆっくりとその背に体重をかけていった。田上は案外重かったタキオンの体重に苦心しながらよっこらしょと立ち上がると、「お前、重いなぁ」と言いながら、道を歩き始めた。

 

 田上は、花壇の前を通りかかる時に「おばあちゃん」と呼び掛けた。

「おばあちゃん、花が咲いてるよ。見えるかい?」

 田上が、タキオンの元気を出させるために、冗談を言っていると分かっていたから、タキオンも嬉しそうに微笑みながら「見えるとも、じいさん…」と答えた。

 それから、寮の前の方まで行くと、体操服姿のハナミとアルトにあった。どうやら、トレーニング後らしかった。ハナミとアルトは、田上に背負われてるタキオンを見ると、嬉々としながらやって来た。

「おやおや、タキオンさん。良いご身分ですね」とハナミが、田上に挨拶した後に、タキオンにそう話しかけた。タキオンは、田上の背中の上で居心地よさそうに脱力したまま、ニヤリと微笑んだ。

「アグネス様のご来訪だ。跪きたまえ」

「やなこった」と言いながら、ハナミは、脱力しているタキオンの鼻をつついた。これに一瞬顔をしかめると、次に、「立つ」と田上の方に言った。だから、田上はタキオンを地面におろすと、疲れ体をうーんと伸ばした。

 タキオンは、少しの間友人たちと話していたが、やがて、友人たちが寮の方に去って行くと、また田上の方に向かって「おんぶ」と言った。だから、田上はまたタキオンを背中に担ぎ上げた。それから、二三歩歩いた後に言った。

「俺、筋トレしようかな?」

「筋トレ?」と友人たちと話して、大分機嫌が戻ったタキオンが言った。

「そう、筋トレ。…あんまり貧弱過ぎないかな?」

「…別に私はしなくても良いと思うよ」

「…お前、結構抱っことかおんぶとかねだってくるから、その度に俺はぜえぜえはあはあ言ってるような気がするんだよな…」

「でも、普通に私の事は持ててるじゃないか」

「そうかなぁ?」

「そうだとも。君が筋肉をつけたいなら、別に私も否定はしないがね」

「……どうしたもんかねぇ…」と言いながら、田上は多少汗をかきつつ、また道を歩いて行った。

 

 二人は正門の前まで行った。そこまで行くと、田上はタキオンを下ろして休憩した。そして、その時に田上はタキオンに向かって聞いた。

「なんで、あの時、俺の首を急に噛もうとし始めたんだ?」

 タキオンは、言いにくそうに、目を空中に泳がせた。それで、田上も、あんまり無理して言わせるものでもないと思っていたから、「言いたくないんだったらいいよ」と言って、話を打ち切った。その後に、また、田上は、タキオンを背に負って歩き始めた。

 

 また、ゆっくりゆっくり太陽の光の下を、汗を滲ませながら歩いて行ったが、ある所でタキオンが「おりたい」と言った。特に田上の気を遣った訳でもなく、背中に乗っているのが退屈だから降りたそうだった。

 そこから、七十メートルくらい歩いたのだが、またそこで、田上に、おんぶをねだったので、田上は従順にその言葉を聞いた。

 特段、喜んでそれをしているというわけではなかったが、渋々それをしているというわけでもなかった。ただ、足腰が弱ったおばあさんを元気づけようと、外の花々や風の匂いを感じさせてあげるために、その体を負ぶさって、外を連れ回してあげているような感覚だった。

 タキオンも、実際に、たまに歩きたがる所や、黙って田上の背に乗っているのが、おばあさんらしいと言えばそうらしかったので、田上は、一人で、その共通点に笑みを堪えていた。

 次の所まで行くと、校舎の陰の草地に、ひっそりと座っているカフェがいた。田上は、そのカフェを、一瞬気が付かないで通り過ぎそうになり、何か居ると思って振り返って見ると、カフェだったので「わ」と思わず声を出した。

 タキオンも、その声で、カフェの存在に気が付いたが、田上の背で脱力した姿勢を崩そうとはしなかった。

 田上は、座っているカフェの目線と合うように、四つん這いの姿勢になって、タキオンとカフェに会話をさせてあげた。

 カフェは、初め、田上とタキオンに挨拶をしたきりで済ませようとしたが、田上とタキオンが、カフェの目の前で落ち着いていると、「なんですか?」と迷惑そうに言葉を発した。タキオンは、田上の背の上で寛ぎながらこう言った。

「君は幽霊をナンパしたりするのかい?」

「…するわけないでしょう?」とカフェは至極迷惑そうだった。

「……ナンパされたりは?」とタキオンは相変わらず呑気な調子で聞いた。

「ないです。……用がないのなら帰ってくれませんか?」

「…だって、圭一君。…どうする?」

「あー」と田上は疲れた声を出した後、こう言った、「ちょ、ちょっと下りてくれないか?休憩したい」

 田上の疲れ具合が面白かったので、タキオンは微笑みながら素直に下りて、カフェの前の草地に、カフェと同様に座った。そして、田上も座り直すと、一息吐いてから言った。

「カフェさん、ここ最近はどう?順調そう?」

「……探りを入れに来たんですか?」とカフェが、田上を怪しみながら聞いてきたので、田上は慌てて首を横に振った。

「そうじゃないそうじゃない。まぁ、カフェさんが元気ならそれでいいけどね…」

「タキオンさんは如何ですか?」とカフェの方が聞き返した。

 田上はこの返答に一瞬迷った。校舎の影は、ひんやりとしていて、汗を掻いている田上には心地が良かったのだが、急に、座っている草地が、濡れているような冷たさに感じた。それで、少し自分の尻の辺りを、濡れていないか触って確かめた後、タキオンの方を向くと言った。

「タキオンは、…最近は少し調子が悪いね」

「…ああ…、そうだね」とタキオンは動揺を少し漏らしつつも、平静を保って答えた。

「それがどうって事もないだろうけどね。……悩みがあるならいつでも聞かせてほしいもんだね」

 田上は、少し話の着地のさせ所が分からなくなって、曖昧なような、当たり障りのないような、それでいて、これ以外の言いようが無いような答えを出した。

 タキオンは、その答えに迷いながらも、視線を田上の方に投げかけると、「そうだね…」と穏やかに答えた。カフェは、その二人の顔を見比べた後に、タキオンの方に向かって言った。

「タキオンさんには悩みがあるんですか……?」

「……実の所ね。……圭一君の好みのタイプが長髪の黒髪らしいんだよ」

「………はい」とカフェは、面倒なカップルを目の前にしてしまって、なぜ自分はすぐに逃げなかったんだろう、と後悔しながら返事をした。

「君とかまさにそうだろう?」

 田上の方は、タキオンの方を、驚き、また、意味が分からないという目付きで睨んでいた。

「そうですね……」とカフェが返事をした。田上は黙ったままだった。タキオンは、田上の事はわざと見ないようにしながら、話を続けた。

「そこで君に質問だが、私、髪を長くして、黒く染めても似合うかね?」

 カフェは、タキオンの顔をまず見、それから、田上の顔を見た後に、こう言った。

「横のご本人様に聞かれてみては?」

「圭一君はちょっとファッションに疎いもの」

「私だって、精通しているわけではありません……」

「同じ女じゃないか。どうだと思う?それだけ聞かせてくれよ」

「………それを好みと思うかは、トレーナーさん次第じゃないですか?」

「うぅん…、君も口が上手いね…」

「あなたほど軽口じゃありません……」とカフェは切り返した。

 その答えに不満そうにした後、タキオンは、その表情のまま田上の方を見た。田上は、特に思う所もなく、タキオンの顔を見つめ返した。自分の好みが暴露されたことも、初めは驚きはしたものの、カフェのことなど、好きでも何でもないので、平気なままで今の会話を聞いていた。

 二人は暫く見つめ合った後に、タキオンの方が口を開いた。

「……どう思う?」

「…お前がやりたいんだったらやれば良いと思うよ」

「…そうじゃないよ。…君の好みに合うと思うかい?」

「……特に、…今のお前の髪の色は好きだと思うけどな…」

「そうかい」とタキオンは頷くと、ゆっくりとカフェの方に顔を向け、それから、おもむろにヘアゴムをポケットから取り出した。そして、それを昨日の様に、後ろで結ぶと、カフェに向かって言った。

「圭一君、この髪型も結構好みらしいんだよね」

「そうですか……」とカフェは鬱陶しそうに頷いた。

 そんなカフェには構わないで、タキオンは話を田上の方に振った。

「そうだよね?これは結構確信があるんだが、君、この私が後ろに結ぶの嫌いじゃないだろ?」

「まぁ、…嫌いじゃないね」と田上は素直に答えた。

 すると、タキオンはカフェの方を向いて、「ほら」と得意気に言った。カフェは特に興味もないので、相変わらず、迷惑そうな顔で、タキオンを見つめ返すだけだった。

 その後に、唐突に人の笑い声がしたので、三人はその声がした渡り廊下の方を見た。見ると、校舎の方から、三人ほどの中等部のウマ娘が出てくるところだった。そして、その中に、長いツインテールのダイワスカーレットが紛れ込んでいた。

 タキオンは、すぐにそれに気が付いたが、折角友人たちと話している所だったので、敢えて声はかけないでおいた。すると、向こうの方が、タキオンの事に気が付いて、嬉しそうに手を振りながら「タキオンさん!」と声をかけた。スカーレットは、友人たちに一声かけて離れると、タキオンたちが座っている草地にやってきて言った。

「お久しぶりです、タキオンさん、トレーナーさん。お元気でしたか?」

 田上は、黙って頷いて見せ、タキオンは「久方ぶりだねぇ、スカーレット君。私は元気だとも。君は元気かい?」

「はい!偶然お会いできてよかったです!」

「…君の友達が待っているようだが?」

「ああ」

 スカーレットはタキオンと会えたことに興奮して、友達の存在をすっかり忘れていたようだった。それで、スカーレットは友達の方を振り向いた後に、タキオンの方を見ると、「もう少し話していたいです」と言った。

 タキオンは、静かに「いいとも」と頷いた。すると、スカーレット一旦友達の方に戻り、皆で話さないか?と声をかけたのだが、これは友達の方が遠慮して断ったので、カフェとタキオンと田上とスカーレットの四人で話す事となった。

 ただ、ここで問題となってくるのが、スカーレットとタキオンの仲は良いが、他はそれ程でもないという事だ。

 勿論、田上もカフェも面識はあったが、そこまで仲良く話す程じゃなかった。そして、スカーレット本人の興味は、大きくタキオンの方に傾いていたから、田上とカフェが会話に入る様な余地はなかった。

 カフェは、この場にいてどうしようかと思った。帰ろうかとも思ったのだが、この場所は結構居心地がいい。ひんやりと冷たく草花が足に絡みついてくる。もう少しここに居たかった。

 そして、この突如始まった会話が、すぐに終わるというのならば、それを耐えてでもここに居たかった。しかし、タキオンとスカーレットが、和気あいあいと話しているのを見ると、これが長引きそうだとも思った。

 カフェは、少し迷った挙句、自分が会話に巻き込まれないのならば、周りの騒音を無視して、自分だけの世界に居座るのでも良いかと思った。だから、足元のたんぽぽを見つめると、それを指先でちょんちょんとつついた。その姿を暇な田上がじっと見ていた。

 カフェは、初め、田上が見てきている事には気が付かず、たんぽぽを指先で触った後、地面を小さく這いずり回っている蟻を見つけて、少し身を傾けた。それから、空中に漂っている小さな光の玉がこちらに流れてきたのに気が付いて、カフェはそれに触れた。

 これは、カフェにしか見えない類の物である。このような物に触れると、何だか良く分からない温かみを感じるのだ。過去を思い出す懐かしさと言うってもいいのだろうか?それとも、生命の生きる暖かさと呼べばいいのだろうか?もしくは、そのどちら共かもしれない。

 しかし、カフェは、その正体が何であるかは理解できないながらも、それが生命そのものだとは感じ取っていた。もしかしたら、これが魂と呼べるものかもしれない。今から母親の胎の中に入りに行く途中なのかもしれないし、今この世にすでに生きている人の生命の欠片が、ここへふわふわと漂ってきているのかもしれない。

 カフェはこの光の玉の行き先を知らない。ただ、行先があるかのように、自分が邪魔をしたとしても、方向を見失わずに漂っていく。決して一直線ではなく、あっちにふらふらこっちにふらふらとしてはいるが、行き先だけは見失わなかった。

 カフェは、この光の玉を途中まで追って行った事がある。まだ、小さい時分の時だ。あの時は、母親と共に手を繋いでいたからよかった。光の玉は、山の方へと隠れて行った。もし、母親が手を繋いで自分を引き留めていなかったら、自分は光の玉に魅了されて、神隠しにあっていたに違いない。カフェにはそんな確信があった。

 カフェは、光の玉を見ながら、その記憶を引き出した時、あの時目の前にあった山の強い緑の匂いを思い出した。あの時は夏だった。蝉がうるさい程に鳴いていた。山の手前にあった用水路は、さらさらと涼しさを掻き立てるように流れていた。山は自分よりも何倍も何倍も大きく、杉の木の枝が自分を招き入れるように垂れていた。

 カフェの両親は、カフェが幽霊を見える事に対して理解があった。その助けとしてトゥルースが尽力していた。赤ん坊の頃から、何もない所を見つめる子だったらしい。その頃からトゥルースもカフェの傍に居たらしい。何しろ記憶の無い赤ん坊の頃だったので、らしいとしか言えなかった。

 トゥルースも、カフェが赤ん坊の頃は、カフェの事を考えて、なりを潜めていたらしいが、カフェが言葉を喋れるようになってくると、カフェを介して、両親と話をしたらしい。そして、子供の内は誘われていくような事があるから、充分に注意するようにとも伝えたらしい。

 両親も、初めは少し気味悪がったらしいが、カフェがまるで見ているかのような口を利くし、人柄も悪くはなさそうだったので、次第に打ち解けていったらしい。ただ、トゥルースは勝手気ままに家の外や内を行き来して、常にいるという事はしなかった。これは、自分を家族の一員として数えないでほしいからという理由もあったそうだ。

 山はカフェにとって常に魅力的だった。緑の葉一枚一枚が、カフェの脳裏に焼き付く様に揺れている。枯れ枝や葉をざくざくと音を立てながら、歩いて行くのが小気味いい。だから、登山には両親と共に何度も連れて行ってもらったりもした。

 ただ、登山道を歩くよりかは、その緑の奥の方にカフェの興味は注がれていた。あの草木を掻き分け、緑の匂いを嗅ぎ、枯葉の音を聞きながら、奥へ奥へと進んでいったら一体何が自分を待っているのだろうか?

 トレセン学園に入寮して暫くは、登山にはいかなかった。まだ、自制が利かないだろうとトゥルースに諭されたし、自分でもその自覚があったからだ。

 中等部も入って後半になってから、カフェは初めて、一人で山へと足を踏み入れた。おそらくと、自分が思い描いていた通りでいて、それ以上の山が目の前にあった。カフェは登山道を上って行くうちに、段々と山の茂みの奥の方へと目を奪われ始めた。しかし、その時には、トゥルースが、お目付け役で、しっかりとカフェの事を監視していたので、心を奪われ始めたら、トゥルースが、「おい」と声をかけてきた。そうしてから、カフェは自分の世界で息をし始めるのだった。それからも、何度か、暇なときに山へ足を運んだが、山の奥の緑には、憧憬の眼差しを向けるばかりで、足を向けようとはしなかった。

 カフェは、ぼんやりとそんな事を考えて、光の玉をそっと漂うに任せながらも、その暖かさを分けてもらうように、手を添えていた。それが、段々と、自分の手の届かない所へ行くと、カフェは追うのを諦めて、目の前で話しているタキオンとスカーレットに目を向けた。

 この二人の接点はあまり分からないが、カフェは、スカーレットの方を物好きとして捉えていた。そして、タキオンがスカーレットに対して、妙に優しいのが、少し可笑しくもあった。

 スカーレットが、タキオンに対して、全幅の信頼を置いているのは、一つに、この優しさが向けられているせいでもある、と思ったのだが、それ以上の絆が、二人にはあるようだった。そんな二人を微笑ましく思いながら、横に目を流していくと、自分を見てきている田上と視線がぶつかった。何故見てきているのかは分からなかったが、先程の自分の、他の人には見えない光の玉に触れる、という奇行を見つけたからではないかと、予想をつけた。

 特に、隠すような事じゃないし、もう白い目で見られるのも慣れっこだったので、カフェはそのまま目を逸らして、目の前の草地を見つめた。すると、田上の方から話しかけてきたので、カフェはまた目を上げた。

「カフェさんは、…タキオンの好きなものってどれくらい知ってる?」

「タキオンさん……ですか…?」

「うん」と田上が頷いた。

「………紅茶や……甘い物……。……トレーナーさん…」

 ここで、田上は苦笑したが、カフェは大真面目だったので、続きを考えた。

「……走る事も好きですよね……」

「お洒落もそれなりにするよね」

「…ええ……。…それくらいですかね……」

 タキオンは自分の名前が出されたし、珍しく田上とカフェが喋っているので、スカーレットとの話を中断して、そちらの方の会話を見つめていた。その内の一つには、自分の彼氏と親友の女が、二人だけで話しているのに、嫉妬心が湧いたというのもあった。

 田上は、「そのくらいかぁ…」と頷くと、会話の続きに困ってタキオンの方を見た。すると、スカーレットとの会話を取りやめていたので、田上が聞いた。

「今の話聞いてた?」

「私の好きなものの話だろ?聞いてたよ」

「他に何かある?」

「うーん……、研究もやぶさかではないが、……最近はめっきりだねぇ…」

「やるやる言っておいて、全然やってないもんな」

「そうだねぇ…」とタキオンが返事をしたところで、スカーレットは会話に加わってきた。

「そうです。タキオンさんを訪ねて、研究室に行ってみても、ここ最近はほとんどいないので、なにかあったんですか?」

「んーー…、なにか…というよりも、なんにも失くなってしまったと言った方が正しいかな?…まぁ、要するに飽きだ。トレーナー室なら私もいるよ。休み時間はいつもそこに居る」

 すると、スカーレットは目を輝かせて、タキオンを見つめ始めた。何か言う言葉に迷っているようだったので、タキオンも黙って見つめ返していたらこう言った。

「タキオンさんって、トレーナーさんのどこが好きなんですか?」

「おや?」とタキオンが照れ臭そうにはにかんだ。「君も物好きな淑女に育ったもんだね」

 スカーレットは、このタキオンの言葉に、ふふふと笑った。

「でも、タキオンさんって、実際に、そういう話にあんまり興味がなさそうだと思ってましたので、意外なんです。トレーナーさんって、タキオンさんにとって、どういうところが魅力的なんですか?」

 スカーレットは、その後に、タキオンと田上の間に座っていたので、タキオンと田上両方が見える位置に少し下がってから、田上の顔の方も嬉しそうにチラと見、タキオンに顔を向けた。

 田上は、――また可笑しな事が始まったな、という面持ちでタキオンが可愛い後輩であるスカーレットに詰められるのを見ていた。

「圭一君って言ってもだね…。そりゃあ、彼の魅力的な所なんて、言えばキリがないほどあるよ」

「例えばどんなところですか?」とスカーレットは、タキオンと田上を交互に見ながら言った。

「そりゃあ、……君に言うべき言葉なのかな?」とタキオンは、スカーレットの前で困った風になった。

「じゃあ、日頃の感謝を伝えるという意味で、トレーナーさんに言ってみたらどうですか?」

 どうやら、スカーレットは、二人の恋の中身を暴露させると同時に、二人の恋のお膳立てをしてやりたいようだった。そんなスカーレットに、尚の事困りながら、タキオンは、チラと田上の方を見てから、スカーレットに言った。

「まぁね、彼の良い所としては、まず…良い所しかないという点にある。だから些細な悪い所など全く気にはならない」

「へぇ」とスカーレットは嬉しそうに頷いた。

「そして、第二に、その些細な悪い所も裏を返すと、私の事を思ってやっている事だから、尚の事良い人だ。君も恋人にするなら、このくらいの男を選びたまえ。私も、圭一君に好きになってもらって大いに幸運だったと思っているね」

 これに、また、スカーレットは嬉しそうにうふふと笑った後、タキオンと田上の顔を交互に見ながら言った。

「え、…トレーナーさんの方が先に、タキオンさんの事を好きになったんでしょうか?それとも、タキオンさんの方が先に、トレーナーさんの事を好きになったんでしょうか?」

 スカーレットは相変わらず無邪気に聞いてくる。だが、田上は、これを、そう簡単に無邪気とは受け取れなかった。何故なら、自分に分が悪い質問だったからだ。

 タキオンは、田上を穏やかに見つめた後に、こう言った。

「時系列としては、君の方が先だったよね」

「まぁね」と田上は、迷惑そうに照れ臭そうに答えた。そんな様子にはとんと気が付かずに、スカーレットは田上に向けて、嬉しそうに質問を重ねた。

「ええ!本当ですか!意外です! タキオンさんのどこをお好きになったとか伺ってもよろしいですか?」

「……まぁ、…タキオンも良い人だからね。そんなもんだよ」

「いつからお好きだったんですか?」とスカーレットは、また、田上が困る質問を無邪気に重ねた。

「んーー」と田上が困っていると、タキオンの方が「菊花賞の後頃だろ?」と助け舟を出した。これに田上は頷いてみせると、スカーレットはもっと嬉しそうにニコニコとした。

「お二人ってとてもお似合いで素敵です!…結婚のご予定とかお聞きになってもよろしいんでしょうか?」

「ああ、…籍は卒業したら入れるつもりだよね?」とタキオンは田上に言った。

 田上はそれに黙ったまま頷いた。それを見ていたカフェは、少し驚きながら田上の顔を見た。この二人の間で、ここまで話が進んでいたとは、思ってもいなかった

。――案外度胸があるのかもしれない…と思いながら、カフェは田上の横顔を見て、次いで、タキオンの横顔も見た。

 タキオンは、田上の事を見つめ続けながら、話を続けていた。

「結婚式のご予定は?」とスカーレットが言った。それにタキオンは田上の顔を見てから言った。

「今の所は具体的な予定はないね」

「うふふ、私、タキオンさんの花嫁姿見てみたいです。…着物ですか?ドレスですか?」

「まぁ、予定としてはドレスで行こうとは思っているがね」

 田上は、横で話に頷いていた。

「そうですか!私、叔母の結婚式に行った時に、とても楽しかった思い出があるので、タキオンさんの結婚式にも行ってみたいです!」

 これにはタキオンも困ったように口角を上げた。

「どうかな?そんなに大きな規模でやるつもりはあんまりないがね」

「家族だけでしょうか?」とスカーレットは多少がっかりした声で聞いた。

「まぁね…。ただ、君と同じように、うちのチームの補佐のマテリアル君がね、見てみたいと言うから結婚式に参加しないまでも、時間がある時に、見れる時間は作れればいいと思っているよ。君も来るかい?」

 タキオンは、すっかり結婚式を催す気分になって、スカーレットにそう言った。スカーレットは勿論「行きたいです!」と元気よく答えた。それから、タキオンはカフェの方を向くと、「君はどうだい?」と言った。

「君はどうだい?良い思い出になると思うがね」

 カフェもその様に思った。実際、タキオンがウエディングドレスを着て、煌びやかで華のある空間に居るのは絵になるだろうと思った。ただ、タキオンの言うことに賛成するのは癪だったので、黙って見つ目返したままでいると、タキオンはスカーレットの方を向いて言った。

「これは賛成の顔だ。嫌な時ははっきりと嫌だと言うからね。…そんなに私のウエディングドレスは魅力的かな?」

 タキオンは改めて不思議に思った事を口にした。

「はい!とってもお綺麗だと思います!」

「マテリアル君も赤坂君も君も、カフェまで、私のウエディングドレスを見たいって言うんだからね」

「だって、タキオンさん、そういう服がとてもお似合いなんですもの。大阪杯の時の勝負服もとってもお綺麗でした!宝塚記念もあの勝負服で出走するおつもりですか?」

「いや、…そこの所は具体的に決めてなかったが、…圭一君、どうするかね?」

「…お前の来たい服を着ればいいんじゃない?」と田上は質問されたことについて率直な答えを出した。タキオンは、その答えにうーんと唸って宙を見つめた後、また田上に言った。

「君はどっちの方が似合うと思った?」

「……どっちも似合うと思うよ」

 田上の答えが余りにも適当なので、今度はカフェの方を向いて聞いた。

「君はどう思う?どちらの私と走りたい?」

「……どちらでも……」

「そう言うと思った。君も圭一君も似たようなもんだね。それじゃあ、スカーレット君は…」

「私は、断然大阪杯の時の服が好きです!勿論、以前の勝負服も嫌いじゃないんですけど…、あの時のタキオンさんは本当にお綺麗で素敵でした!」

「うーん…、私としては大阪杯の時の服の気分でもないんだが、かと言って、あの白衣という気分でもないんだよねぇ…。それに、勝負服もそう新しいのをぽんぽんと作ってくれるわけじゃないしね…」

「私、早くタキオンさんみたいにGⅠに出走して、勝負服を着てみたいです!」

「うん。君はいい線行っているからね。きっとGⅠに出走できるはずさ。ついでに、クラシック三冠も取りたまえ」

 すると、スカーレットは少し表情を申し訳なさそうにしてから言った。

「私、……実はティアラ路線に進んでみようかな…って…」

「おお、いいじゃないか。ティアラ路線もそれなりに張り合いがある。私の母と祖母もそちらの方を進んだ。じゃあティアラ三冠だ」

「はい!タキオンさんの期待に応えて見せます!」

 スカーレットがそう元気よく返事をすると、タキオンは母親のような目つきで微笑むと「あんまり気を張り過ぎないようにね」と気遣いの言葉を投げかけた。スカーレットはそれにも元気よく返事をした。それから、話は転換してタキオンがこう言った。

「君ももうスカウトされたらしいが、確か新米のトレーナーらしいね。その後は大丈夫かい?指導が厳しすぎるとかないかな?」

「いえいえ、本当に私の意図を汲み取ってくれるので、良いトレーナーです。ちゃんと気を遣ってくれるし、私が言葉にできない事も分かってくださるので、…はい、とても良いトレーナーだと思います。今度皆でお食事に行きませんか?」

 田上は、あんまり知らない人は苦手なので、おや?と思ったし、カフェも自分が含まれてやしないかと鬱陶しがった。ただ、スカーレットも、会話にあまり参加してこないカフェの事は数に入れていなかったらしく、校舎の陰でじっと動かないカフェに気が付くと、「カフェさんはどうします?」と聞いた。

 スカーレットは、カフェが、あまりノリの良さそうなヒトじゃないと見当をつけていた。その通りに、カフェは首を横に振ると、また黙って地面を見つめた。

 そして、スカーレットはタキオンに目を向けて「いかがでしょうか?」と言った。タキオンは、うーん…と考え込んでいたが、やがて、田上の方に向けると「どうする?問題は君の方じゃないかな?」と言った。

 そこで、田上は、改めて、自分が誘われている事に気が付かなかったふりをして、「え、それ、俺も行くの?」と言った。言った後で――これは失礼じゃなかったかな?と思った。

 ただ、スカーレットはそんな事は気にせずに「トレーナーさんも是非」と言った。これは面倒だった。スカーレットとは別に話せない事はないのだが、一緒に出掛けて楽しめると言える程の仲でもなかった。だから、田上は目線で、タキオンの方に、――どうしようか?と問いかけた。しかし、タキオンは表情を変えずに、田上を見つめてくるばかりで、田上の助け舟を出そうとしなかったので、今度は直々に田上が聞いた。

「どうする?」

「…君がしたいようにすればいいと思うよ」

 この返答には参った。恐らく、「問題は君の方じゃないかな?」と言った通り、タキオンは、田上が嫌がっている事を知っているはずである。となると、タキオンは、ここで、田上に助け舟を出してもいいのだが、察しのいい気遣いのできるタキオンにしては珍しく、田上に何の支援も寄越さなかった。ただ見つめているだけである。

 ここで「圭一君はあんまりそういう場は苦手だからね」と一言スカーレットに言ってくれてくれれば、田上も断りやすいのだが、生憎タキオンは何も言わない。もしかしたら一緒に行きたいのだろうか?と勘ぐりもしたが、そういう暇もほとんど与えられず、「どうでしょうか?」とスカーレットが聞いてくるから、尚の事困った。スカーレットも、田上があんまり乗り気じゃない事は知っているのだが、タキオンとスカーレットと田上と自分のトレーナーとの皆で、お食事に出掛ける事に意味があるらしかったから、中々諦めようとしなかった。それでとうとうついに田上がこう言った。

「まだ、宝塚記念までは忙しいし、その後にまたこの話を持ち掛けたら考えてみるかな」

 これで明確に断られたので、スカーレットは少々残念そうにしながらも「そうですか…」と言って引き下がった。その奥で田上を見ていたタキオンは、口元に笑みを浮かべながら――逃げたな、と目で言っていた。田上は、それに少し嫌そうな顔をして見せた。

 それから、また話は走りの方に戻った。スカーレットが、静かに草を眺めていたカフェに向かって言った。

「カフェさんも宝塚記念を走るんですよね?」

「……ええ……」とカフェは戸惑いながらも頷いた。

「タキオンさんと併走したりするんですか?」

 そう聞いてきたから、カフェはタキオンの方を見やってから、スカーレットを見て言った。

「…ジュニア期や中等部の頃はたまにしていましたが…、…ここ最近はしていませんね…」

「今はやっぱり一緒のレースに出るという事もあって、なされないんでしょうか?」

「まぁ…」とカフェはタキオンの方を見ながら曖昧に頷いた。

 実の所、自分たちも、これと打合せして取りやめたわけではないが、自然といつのまにか併走はしなくなっていった。タキオンは、田上の方にも向いて、問うように頷いた。田上は、ただ適当に相槌を打った。

 スカーレットは「へぇー」と言って、暫く間を空けた後、もう話す事が何もないとなると、立ち上がって言った。

「私、そろそろ行かせていただきます。タキオンさんとお話しできて良かったです」

「ああ、私も良かったよ。トレーナー室に居るからいつでも来たまえ。寮でもいいよ」

 スカーレットはそれにニコニコしながら頷いて、次いで、田上とカフェにも別れの挨拶をすると、元来た渡り廊下へと戻っていった。

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