二人はまた、背に負って、負われて歩き始めた。二人の雰囲気は暗いと言うよりかは、二人共それぞれ物思いに耽っていた。故に、会話は生まれていなかった。今回も、背負う時に「行こうか」とタキオンが声をかけたのみである。
タキオンは、田上の重さに押されるようにして、自分が歩く先の地面を見つめながら歩いていたのだが、やがて、こう言った。もう、大分暗くなってきたときだった。
「…私は、……一体どうすればいいんだろうね?…背負っている君を振り落として、自分一人で走って行くこともできないし、そうしようとも思わない。けど、一人で走りたい自分もいる。それに対抗して、走りたくない自分もいる。…思春期と言えばそうかもしれない。……子供っぽい私は嫌いかな?」
タキオンは少し気落ちしたように言った。今度は、田上も声が出せそうだから言った。
「お前の事は好きだよ」
「…そりゃあ、ありがたい」
タキオンは、それから暫く黙って考え込んだ後に、またこう言った。
「君が、…私が子供っぽいかな?と聞く時の答えとして、常套句だったのが、――お前は大人だよ、だった。……これは、つまり、子供である私は嫌いという事なのだろうか?」
田上は、これに少し考える時間を要したが、答えることはできた。
「……その時は、お前が、自分が子供っぽい事に対して落ち込んでいるんだと思って、そう声をかけたんだと思う。あと、…俺の心として、子供のお前と付き合うと耐え切れなかったから、自分に言い聞かせる意味でもそう言っていたのかもしれない。…実際、お前は俺よりずっと大人っぽい所もあるんだけどな…」
「……じゃあ、子供な私は嫌いかい?」
「……嫌いじゃないと思う…。大人の女性でも、お前より子供っぽい人は居るからな…」
タキオンは、これに何も答えなかったが、その後に田上がまた付け加えた。
「お前の言う『子供』が、俺の言う『子供』と合致しているのかは分からない。果たして、俺がその部分を愛しているのかも…。……お前の言う子供ってどんなところ?」
「……我儘…。…自分勝手…。私利私欲…。甘えてる…」
「…俺が、…その部分を好きかどうか…。……あんまり好きなわけでもないよな…。それで、仕事ができなくなる時もあるし…」
「……君が…、…君が…、優しい人間のように見えてくる…。全てを許してくれそうな気がする…。私を見つめてくれるだろう…。それでいて、私たちは同じ場所に立っていない…。明らかに、私が子供の立ち位置にいるような気がする…。何も高校生という肩書だけのせいじゃない。……ただ…、…どう言えばいいんだろう…。…ただ…、…優しく撫でてほしいと言うか…、君と同じ場所に立ちたいと言うか…、それでいて、私は君に憧れているだけかもしれないとも思う。…自分よりも立場が上の大人である君に憧れて、恋と言う名を被った盲になっているだけかもしれない…」
「……俺は、…お前の事好きだよ…」
田上は、少し乾いた喉から、掠れ気味の小さな声で言った。タキオンは、それに落ち込んだまま「うん…」と頷いた。
「………子供っぽいだろうか?」
「……タキオンの悩みは、多分、学生と教師っていう壁から来てるんだろうと思う。……俺が、子供のお前とは付き合えないみたいなことを言ったからだろうな…」
「…その壁はあるだろうと思う…」
「……俺は、それをどうすればいいのか分からない…。子供っぽいお前を認めてしまうと、いよいよ俺が悪い人みたいになる…。俺は、…少なくとも、初め付き合う時に、子供っぽいお前を認めちゃいけなかった。大人のお前と付き合わなくちゃいけなかった。今も……どうすればいいのかは分からない…。………でも、…こうして背負ってくれている間は、少なくとも、お前の事は好きでいられる…」
タキオンは、「そうだね…」と答えてから、またこう言った。
「………私は子供っぽいんだろうか?」
「…自分が子供っぽい事に悩んでいるのか?それとも、子供っぽい事によって俺から愛想を尽かされるかもしれないと思って悩んでいるのか?」
「……自分が子供っぽいという悩みも、ひいては君に愛想を尽かされたくない事に繋がる」
「……なんと答えたらいいのか分からないけど、…お前は俺を大人と言ったけど、俺だって子供っぽい所はあるよ?」
「…例えば?」
「…んー…、お前、俺が童心を持ってるって言った事があっただろ?それはもうそうだろ?」
「それは、良い子供っぽさじゃないか?君は私の様に我儘かい?」
「…遠くには行ってほしくないって言った」
「…それはそうだろうが、それはもしかしたら、君の一生涯で一度の我儘かもしれない」
「同棲したらもっと出てくるかもしれないよ?」
「それは、…そうかもしれないが、君のは結構些細だ。私の我儘を見てみろ。際限がないじゃないか」
「うん…」と田上はここで認めざるを得なくなった。
「君は迷惑だろうね…」
これは、あんまり口に出して「うん」と認めるのも可哀想だったので、田上は何も言わなかった。すると、タキオンはまた言った。
「…迷惑だろう?」
「…まぁ、…そうじゃない事はない…」
「んん…」とタキオンは唸った。「………もっと君に甘えられたらなぁ…」
タキオンはそう言ったが、田上は何も言わなかった。この時もまた、何と答えればいいのか、咄嗟に考えつかなかったからだ。そして、そのまま、二人は黙ったまま、寮の近くまで歩いて行った。そこで、またタキオンが言った。
「私の事好きかい?」
「…好きだよ」と田上は答えた。
「好きなら私に恋人らしい事をしてくれないか?」
「恋人らしい事?」
「恋人らしい事。…してくれないか?」
「…どんな事?」
「……君の考える恋人らしい事。…私を君に惚れさせてみてくれよ」
「…もう惚れてるだろ?」と田上は真面目な声で聞き返した。
「御託はよしたまえ。今一度、私を惚れさせるような事、…ドラマの様なことでもいいよ。…恋人らしい事をしてくれないか?」
「うん…」と田上は不満そうに頷くと、少し考えた後に、タキオンの首にそっとキスをした。そうすると、タキオンは、くすぐったさ半分嬉しさ半分で、ふふふと笑った。それから、田上は、小さく「好きだよ」と囁きもした。これは、田上も、少し気障ったらしいと思ったが、タキオンはまた嬉しそうに、小さくクスクスと笑うと「ありがとう」と言った。
「……優しいね…」
「そうだね」と田上が返事をした。
「……私たちの恋は順風満帆と言えるんだろうか…?」
「……言えるんじゃないか?」と田上が答えた。
「……そうかもしれないね…。…そうじゃないかもしれないね…。…私は、…君に…抱き締められても抱き締められても足りないような気がする…。…もういっその事、死んでしまったら迷いもないし、苦しみもないし、渇望もないし、幸せもない、何も感じる事のない世界に行けるような気がする…」
「…泣くよ?」と田上が少し脅し付けた。タキオンは、それに少し笑みを浮かべた。
「…私の葬式で君が大泣きしている姿は見てみたいな…」
「…冗談じゃないよ。せめて、大往生して死んでくれ。俺を一人残して死んでいくな」
「…君を一人残して死にはしないさ…。むしろ、私の方が先に旅立たれる可能性が高いんだから、君は健康に気を遣って長生きしてもらわないと」
「…お前が八十になるまでは生きるつもりでいるよ」
「…ありがとう」とタキオンは満足そうに言ってから、こう続けた。「…でも、…少し分かったね。…今死んでいく若者たちの気持ちが…。…昨今じゃ、若者の自殺が増えているって言うだろ?あと、不登校も。…そういう若者はね。もう何もいらないんだよ。…目に入る物全てが手に入ってしまって、もうつまらないんだ。大人になったって良い事無いだろ?社会に揉まれる。ブラック企業。不況。パワハラセクハラ。そんな嫌な事が毎日目に入ってくる。どこそこで事件が起きた、責任はどこにある?日本政府のあれがだめだこれがだめだ。若者は政治に関心を持つべきだ。日本の明日はどっちだ。不況だ不況だ。騒がしい大人たちがうるさいのさ。…何もないんだよ。生きる糧になるものが。金だと言えばいいだろう。最近は、推し活なんていうのも流行っている。そう、推しにすればいいんだね。自分がこの世にいる理由を。推しに金を払ってこの世に生き続ければいいのさ。僕らには、私らには何もない。でも、推しがいる。だから、この世に生きている。辛うじて生きている。…何もない事はないだろう。衣服があれば、住む場所があって、食べ物があって、仕事がある。仕事の方は無い人も居るだろうがね。散々恵まれた暮らしをしているよ。それでも足りないのさ。足りないけれども、何が足りないのか分からないんだ。何故って、身の回りには何もかもある。彼氏もいる。金もある。名誉もある。地位もある。…私は、君以外に何を求めているんだろうね?」
「さぁ?」と田上は、辛うじてそう答えた。タキオンは、暫く考えた後に、またこう言った。
「日本の明日はどっちだと思う?」
「……」
「私は、君以外に何を求めたらいいんだろう?」
「……」
「………今をぎりぎり生きている人の中には、今まで育ててくれた親とか一緒に生きてきた家族とかに申し訳ないから、自殺しないで生きているという人も居るだろうね。あとは、単純に死ぬのが怖いから。……私は、……今死んでしまうと君に申し訳ないからな…」
「……死にたいの?」と田上が少し不安になって聞いた。
「死にたいわけじゃない。…でも、君がこの世からいなくなるって言うんなら死んでもいい」
田上は、この言葉に複雑な心境を抱いて、何か言葉を投げかけてやりたいと思ったが、容易にその言葉は出てこずに、田上はその背に負われていた。
そうしたまま、二人はウマ娘寮の前まで来た。もう帰ってもいい頃だった。日はすっかり暮れていた。タキオンは、背中に背負っている田上に「どうする?」と呑気さを装って聞いた。
田上は暫く迷った後に、「下りようか…」と呟くように言った。タキオンは、その言葉の通りに田上を下ろして、タキオンは田上と向かい合った。田上は、ここでもタキオンに何か言ってやりたいと思ったが、何か出てくることもなく、二人は見つめ合っただけだった。それから、タキオンが「せめて、ぎりぎりまで、ここで座って話しをしていようか」とベンチを指しながら言った。田上は、その言葉に、考えを口に含んだ顔で頷いた。
タキオンは、田上と二人でベンチに座ると、こう言った。
「さっきの話の続きだが、…こう物質が豊かになっていくと、自分たちに何が足りていないか分からなくなるものだね」
「…そうかもね…」
「……私は…」とタキオンが言うと、その体が田上の方に傾き、その右手が、田上の方に伸ばされようとした。しかし、それは姿勢の為か、それとも、他の何かの為か、途中で勢いを失うと、空中をかく様にまた元の位置に収まって行った。田上はそれには気が付かなかった。ただ、少し近づいてきたタキオンを感じつつも、暗い中に、寮からの明かりでぼんやりと浮かび上がる、自分のがさつな手を見つめていた。
タキオンは、田上の横顔を暫く見つめると、もう少し田上の方に傾いて、頭をその肩に擦りつけた。
「……他のカップルはどうやって過ごしているんだろうね?……一見楽しそうに見えるカップルでも、もしかしたら、裏ではいつ別れてもおかしくない状況にあるんだろうか?」
「………どうだろう…」と田上が低い声で答えた。
「遊園地に行って一人一人聞き取り調査していこうかな?――あなたは、明日自分が幸せだと言えますか?とね」
タキオンは、返答を求めるように田上の顔を見てきていたが、田上は返す言葉を思いつかなかった。
「……もし、私が急に君に――私と心中してくれ、って頼んだら、君はどうする?」
これは、田上も隣のタキオンの顔を、少し不快そうに見つめた。
「……死なないし、死なせない」
「でも、もう今目の前で私が死のうとしたら?それとも、私が包丁を持って君に襲い掛かったら?」
「……んー…、刺されたらもうお終いだけど、…死ぬのは何とか止めたいな。…こんなこと話してて気分良くはならないだろ?」
田上がしょうがなさそうな顔で言った。タキオンは、それで少し我に返って、自分も仕方がなさそうに口角を上げた。それから、自分の両手で、鼻から口にかけてを覆うと、言った。
「ああ、…悪かったなぁ…。君の事がどうしても欲しいなんて思わなければよかった、。…あれのせいで負い目ができた…」
「俺は気にしてないよ…」
「そりゃあ、君は気にしてないだろうさ。でも、…私は、…工作をしたと言ってもいいね。計画的に君を私の物にしたかった。…君が初めから私の事を好きだったからよかったよ。だけど、例えば、私のキスで君が責任を感じて、私と付き合ったとしたらどうだろう?」
「…大阪杯の時の初めのキスは衝動的だったんだろ?」
「そりゃあ、そうだとも。…あれ以降だね。私の心残りは。フジ君をスマホで殴ったのも申し訳ないし…」
そう言ったところで、ウマ娘寮のドアがガチャリと開いて、フジキセキが出てきた。タキオンは、人の気も知らないで、ニコニコしながら出てきたフジキセキを、困ったように見つめた。フジキセキは、二人を見つめながら「もう門限だよ、お二方」と言った。タキオンは、そのフジキセキを尚も困ったように見つめながら、こう言った。
「おでこの傷はもう大丈夫かい?」
「おでこ?」
「…あの時のだよ…」
「ああ、全然もうとっくに完治したよ。傷跡も残ってない。まだ気にしているのかい?」
「本当にすまなかったね…」
「私は、初めからタキオンの事は許しているよ。治ったんだからいいじゃないか」
「……君はなんでそんな強いんだい?」
「強い?」
「心だよ。…悩みはないのかい?」
「悩みなんて、私でも探せば幾らでもあるよ」
「だが、少なくとも、私たちより生きやすいだろう?」
「…んー…、どうだろうね?私だって、レースやトレーニングで上手く行かない事があったり、将来の事だってちょっと不安だったりするよ。君もそうだろう?」
「私も…まぁ、そうだがね…」
「なら、私たち二人は仲間だ。ついでに、そこのトレーナーさんも仲間だ」
田上は、少し微笑んだ。タキオンもそれにつられて少し微笑むと、フジキセキの方に向かって「ありがとう」と言った。フジキセキは、その後にタキオンに片手を上げると、「私が帰ってくるくらいまでは話しててもいいよ」と言って立ち去って行った。どうやら、門限が近いので、寮にいない子を回収しに行くらしい。
タキオンは、去って行くフジキセキの背を見送ると、田上と目を見合わせて「どうする?」と聞いた。田上もどうという予定もなかったので、「どうする?」と聞き返した。
タキオンは、また少し微笑みながら田上の顔を見つめると、「もう少しここでこうしていようか」と言って、田上の手を握った。
田上は、右手を握られた感触を感じると、その手を優しく握り返した。タキオンは嬉しそうに、田上の肩に体を寄せた。それから、フジキセキが来るまで、「今日は疲れたかい?」と何気ない会話の一時を過ごした。
二人は寮に戻った。田上は、自分の寮へ帰る道すがら、疲れがどっと押し寄せてきたような気がした。特に、タキオンに今まで背負われていた分、使っていなかった筋肉が今日の疲れを教えてくれた。田上は、早く風呂に入らねばと思った。早く風呂に入って、この疲れを湯船の上に浮かべなければならない。そう思いながら、ふらふらと寮までの道を歩いて行った。
寮の前には寮長の柊さんが立っていて、田上が帰ってくるとコクリと頷いて、「今日もお疲れ様」と言った。田上はそれに「お疲れ様でした」と返事をすると、その脇を通り抜けて自分の部屋へと急いだ。
着替えを取って大浴場に行くと、すぐに服を脱いで、暖かい湯船に沈んだ。それから目を瞑って、疲れが湯の中で癒されると共に、眠りに就こうとしたが、辛うじて田上の理性が生き残って、今ここで寝てはいけないと諭したから、田上は目を開けたまま、目の前の色のついたタイルの壁を見つめていた。
大浴場には、当然男ばかりではあるが、年老いたのも若いのもそれぞれ相応に居た。田上は、この中で言えば若い方だろう。そして、成功している方でもあるだろう。自分の成功は、タキオンと全くの偶然によって生まれたものだが、他の人々は自分の成功と勘違いして、自分を見てきているらしい。
ただ、田上が警戒するほど、この浴場に、自分の成功を妬んでいる人は居なかった。皆、自分のどこそこを洗ったり、何が映っているのか知らないが、湯の波を一生懸命に見つめたりと忙しそうである。田上もまだ、湯船に浸かりたい気分だったので、皆と同じようにして湯を見つめた。しかし、何も見つかるものがなかったので、人を観察しようかと思ったが、ここで裸の人間を観察するのは憚られる。
そして、タイルの壁を見る。きょろきょろしていると、人を観察している人間に見られるかもしれないので、また自分の目の前の水面を見つめた。ただ、これにも何もないので、田上は目を瞑った。
すると、理性が「お前は寝てしまうのではないか?」と自分に語り掛ける。だから、また目を開けたが、もう気を遣うのも苦だったので、田上は目を瞑る事に飽きては、目を開けて、目を開ける事に飽きては、目を瞑って、湯船に浸かっていた。そして、満足の行くまで体から疲れを取った後、田上は湯船からざばぁと上がって、脱衣所の方へ戻っていった。
脱衣所の方で鳩谷と霧島と国近を見たが、特にお互い話す事もなく、また田上以外、気が付いている様子もなく、淡々と服を脱ぐのもあれば、着るのもあった。そして、田上が初めに脱衣所から出て行った。
その後は、誰が出て行ったのかは知らない。ただ、田上は、――タキオンは今はもうご飯を食べ終わった頃だろうか?と思いながら、自分の部屋へと戻っていった。早く疲れを取りたくて、夕食はすっぽかしたので、しょうがないと思って、部屋に置いてあったパンを一つ食べた。多少ボリュームのあるカレーパンがあったのは助かった。空いた腹をまあまあ膨らませてくれた。それでも、少し足りなかったので、もう一つパンを食うと、田上は自分のパソコンの前に座った。
そして、もう引っ越しまで一週間もないという事に気が付いた。準備にはまだ全然手をつけていない。引っ越しは今週の土曜である。――もうそこまで来たのか!と田上はカレンダーを見ながら驚いた。
それから、――修さんたちには引っ越す事を言ってなかったな、と思った。もうこの寮で、寝て起きる事はなくなるだろうから、食堂も使わないだろう。果たして、この寮に属していない人間があの食堂を使って良かったのかは、田上も知らなかった。
それで、――少し寂しくなるな、と思った。今回の引っ越しは、生活圏が丸々変わる訳でもないので、別れはほとんどないと思っていたが、思いがけない所に別れがあった。
ただ、顔を出そうと思えば出せる所に、修さんもその奥さんの節子さんもいるので、偶には顔を出してやろうと思った。その後に、――二人共、いつ死んでもおかしくない年齢だよな、と思った。まるで、自分の実の祖父母の様な心持で、修さんと節子さんを見ていた田上だった。
田上が、二月ごろに、ここに部屋を変えるために使った段ボールが、まだ捨てられずに放置されたままだったので、田上は、その箱の中に、必要な物を、音楽でも付けながら黙々と入れていた所だった。タキオンがいつものように電話を掛けてきた。田上はその電話に出た。タキオンは、電話に出てきた田上に多少軽やかに「調子はどうだい?」と聞いてきた。田上は、それに「まあまあ」と答えると、「今、引っ越しの準備をしてたところ」と続けた。
「ああ、もう引っ越しか。…思ったよりも早いな…」
「…お前と仲直り出来て良かった…。このままじゃ、一人で一人しかいない家に引っ越すところだった」
「…そうだね。…まぁ、何とかやってこれてるさ。今日やってみて、二人で話もしないで歩き続けるのは良い事だと思ったね。私たち、要らない事を色々と悩み過ぎていたような気がする。…今度またそういう意見の違いで揉めたら、…いや、日常的にあれをするのもいいかもね。君も筋トレがてらに私を背負って歩き続けたらどうだい?きっといい運動になるよ」
「まぁ、明日は無理だな。もう体がくたくただから、明日は体がガタガタになってる」
「そうだね。…私が背負ってもいいよ。また囁いてみてくれよ。――好きって」
この口調がからかうようだったので、田上は電話口で少し口角を上げた。
「あれは流石に、…ナルシストと言うか、…アホっぽくなかったか?俺、もうやりたくないけど」
「良いじゃないか。首にキスされるのも良かった。…噛んでくれても良かったよ?」
「嫌だよ」と田上が答えると、タキオンがハハハと愉快そうに笑った。
「でも、いいものだね。後ろから首にキスされるのは。あれが君のドラマのイメージかい?」
「…ドラマって言ったら…、まぁ、後ろからハグして、好きだよって囁くみたいな感じがないか?」
「君にして貰ったから、私の純情がときめいてしまったね」
田上は、電話口で苦笑してから言った。
「…純情が?」
「…純情だよ。…さては、私に純情がないと思ってるのかい?」
「…あるんだろうね」
「あるとも。…私もドラマを追いかけてみようかな?そうすれば、世の中の女性諸君の気持ちが分かるんじゃないか?」
「ドラマって言っても、追ってるのは、主演のアイドルだったり、女優だったり、俳優だったりするんじゃないか?」
「ふむ…、だが、…言ってしまえば妄想だろう?ドラマを見て、後ろからハグされる女優を見て、そこに自分を当てはめて、きゃあきゃあと騒ぐんじゃないのかな?」
「…イケメンに抱き締められたいの?」と田上が訝しく思いながら聞いた。すると、タキオンがクスクスと笑い出した。
「ふふふ、私が君以外に抱き締められたいと思うわけがないじゃないか」
「……俺は、もうそろそろお前が怖いよ」
「おや、どうしてだい?」
「……お前は俺の事が好きすぎる。そこらのイケメンの俳優よりも俺に抱きしめられたいって言うのは、…やばいよ」
「やばい?…そこらのイケメン俳優なんて、顔が良いだけで中身は知れないじゃないか」
「それでも、……まぁ、不毛だ。好きでいてくれて嬉しいよ」
「私もだとも。私だって、メイクをバッチリ決めて、テレビに出てる女優よりかは見劣りするだろう?」
「いや?…お前も充分美人だよ。俺の身に余るくらい」
「それと同じ気持ちさ。君も充分かっこいいんだね」
「…嬉しいね。……そうだ。ちょっと作業しながら電話したいから、あれするよ?俺のイヤホン、確か電話ができたんだよ。イヤホンで電話したくなかったから、今までその機能使ってなかったんだけど、試しに使ってみる」
「ああ、了解した」
タキオンがそう言うと、二人の会話はそこで途切れた。タキオンは、電話口から独り言として「イヤホンはどこだったかな~」と田上が言う声と、引き出しなどを開けるガサゴソガタゴトという音が聞こえてきた。それから、「んー」と田上の唸り声が聞こえた後に、「できた」と田上の声がより鮮明に聞こえるようになった。タキオンは、その差に多少驚いた後に、「用意はいいかい?」と聞いた。電話からはまた少しガサガソと音が聞こえた。これは、マイクを直接触っているような、少し大きめの音だった。タキオンは、もう一度「大丈夫かい?」と聞いた。田上はもう一度「んー」と唸った後に、「タキオン聞こえる?」と聞いた。タキオンは、「聞こえるよ」と返事をした。それから、田上はまた「んー」と唸ったが、「まぁいいか」と言うと、タキオンに言った。
「なんか声が大きすぎるとかない?調整ってできたっけ?」
「丁度いいよ。気になったらまた私の方で何か言うとするさ」
「はい」
そう田上は返事をすると、目の前に積んでいた衣類と本を、何に手をつけるともなく見つめていた。田上の頭の中には、衣類と本が漠然と目の前にあって、どう段ボールに詰めようか、手順を考えていなかったから、したい事だけが頭の中で折り重なって、暫く固まっていた。
その間に、タキオンも電話の向こうでガサゴソと物音を立てていたが、やがてタキオンが「明日私も手伝いに行こうか?」と言うと、田上も我に返って、とりあえず、中途半端に段ボールに詰められていた本に、手を伸ばすことにした。田上にとっては、衣類よりも本の方が大事だった。
「手伝いはしなくてもいいよ」
「でも、荷物はあるだろ?」
「大丈夫。前回ここに越してきたときも、そんなに時間はかからなかった」
「ああ、…あの頃も君の言葉はきつかったな」
「…そこらへんだっけ?」
「…確かね…。バレンタインくらいの頃だよ。君がね…何だったかな?…何か…私の傷付くような事を言って、その後にマテリアル君とバレンタインのチョコを買いに行ったんだよ」
「…そうなんだ…」
「……何だったかな?………んー、そこら辺までふわふわ来ているんだがねぇ…」
田上はこれに少し困った顔をした。
「思い出さなくてもいいよ。むしろ、今は俺が傷つく」
「ふふ、難儀だねぇ…。……あー、…――私の事は要らない、みたいなことだったかな?」
その言葉で、田上の頭の上に、ふっとその時の台詞が思い起こされた。これをタキオンに伝えようか迷ったが、身から出た錆びであることに間違いは無いので、それこそ、やましい事をタキオンに隠すのも難儀だろうと思って、「お前の事は大切じゃない、みたいなことじゃなかったか?」と言った。途端に、タキオンはピンと来たようで、「ああ、それだ」と頷いた。
「まぁ、見てみたまえ。あの時じゃ、そう言ってはいたが、今じゃもう私から離れられない体になっている。…あの時は素直じゃなかったね」
田上は、その事をいい思い出として捉えていなかったので、端的に「ああ」と返した。タキオンもあんまりこの話題を引っ張ると、田上が可哀想だし、機嫌も悪くなるだろうと思ったから、すぐに別の話題に切り変えた。
「引っ越しの荷物はトラックが持っていくんだろ?」
「うん」
「ただ、まだ足りないものとかはあるだろ?昨日の買い物で全てじゃないだろ?足りないものはまた買いに行くのかい?」
「うん」
「引っ越しは土曜だっただろ?それはどうなってる?午前中に終わる予定なのかい?午後?」
「んー、…午前十時から引っ越しのトラックが来て、持っていくべき物を持っていってくれる。それで、俺たちは電車で移動。…まぁ、そんなに遠い家に引っ越すわけでもないし、荷物もそこまで多いものじゃないから、……少なく見て、昼までには終わるかな?…少なく見過ぎか?もうちょっとかかるかな?」
「流石に、人の引っ越し荷物を運んでいる時に昼休憩は取るのかな?」
「どうだろう?取るのかな?できるだけ手っ取り早く終わらせてほしい感じはあるけど…」
「まぁ、君の引っ越しの一部始終を見守るためには、私は十時よりも早く起きればいいんだね?」
「そうだね」
「トレーニングはどうするんだい?」
「ああ、そうだ。…土曜を休日にして、日曜にずらすか?」
「私は構わないよ」
田上は暫く黙って考え込んでいたが、やがてこう言った。
「まぁ、偶には二日分休みがある週もあっても良いか。いい気分転換になるだろうしね」
「六月九日にはもうあの子らはデビューだし、私は宝塚記念だよ?六月だからって油断してないかい?」
「大丈夫。気を詰めすぎても良い事無いし、特にリリーさんは緊張しやすいタイプだろうから、ほぐせることも大切だよ。……日曜に体育館のコートを借りて、レクリエーションやるって言うのも手だな…」
「折角の私たちの初めての二人きりの夜なのだが」
「ああ…、でも、一日中家に居るっていうのも退屈だろ?…皆でやるんだから、お前も楽しめればいいと思ってるんだけど…」
「ふむ」とタキオンは、少し不満そうに唸った。「……どうだろうね…。…種目は何をするんだい?前みたいにバドミントンをするのかい?」
「…俺もやった方が交流が生まれるかな?と思ったから、…なるべく力の差が生まれづらいフリスビードッジボール?ドッチボールと言っていいのかは知らないけど、それやってみようかなって。やっぱり、ウマ娘には敵わないかな?」
「まぁ、…容易に当てさせてくれないと思うし、素人がやって当たるのかねぇ?」
「…まぁ、二個ぐらいフリスビーを用意すれば、警戒しないといけない場所が増えるから、やりやすいんじゃないか」
「…ふむ」とタキオンは相変わらず不満そうであった。「…土曜には君の家に泊まるんだから…。…体育館はここのを借りてするのかい?」
「まぁ、借りれたら学園のを使うつもりだけど。まぁ、当然使いたい人も居るからな…。借りれなかったら、また地域の体育館を借りたいなと思ってる」
「そう言えば、登山の話はどうなった?」
「登山?」
「行くとか行かないとか言っていただろ?
「ああ、…確か…宝塚記念が終わってから…夏合宿の間までに行きたいって話だったっけ?」
「そうだね」
「でもなぁ、六月の三連休には俺の父さん所に帰るし、その前の週が最後の選抜レースだし、…そこに登山の予定を入れるとなるとなぁ…」
「私は行きたいけどねぇ」
「…七月の頭か?」
「今の内に具体的な予定を立ててくれててもいいよ。それとも、私が立てようか?」
「お前が?……まぁ、それは宝塚記念が終わってから考えてもいい。まだ結構先だ」
「この分だとあっという間だよ?来週はもう引っ越しだし、再来週はまた私が君の家に泊りに来るし、その次は宝塚記念、選抜レース、大内県に行く。色々な事をこなしていくうちに、あっという間に一か月経ってしまう」
「…じゃあ、六月末の二週間くらい前に俺に思い出させてくれ。それで、具体的な予定は立てる。六月末にはならないかもしれないけど」
「ただ、思ったが、その頃って梅雨だな」
「そうだ、梅雨だ。天気も関係するから、そこは、もうてるてる坊主でも作って祈れ」
それに、タキオンは少し笑ってから、「そうするとしよう」と答えた。田上は、会話の切れ目で、少し停滞気味だった作業の手を進めた。タキオンが、田上に何かを話し、田上がそれに返事をするという時間が幾らか続いた。そして、ある時、タキオンがこう言った。
「そう言えば、できる事なら聞きたいが、今日の散歩のときに君泣いていただろ?何故泣いたんだい?」
それに田上は一つ「ああ」と返事をした後、もう一度噛み締めるように「ああ…」と言い、少しの間黙った。それから、渋々言った。
「……お前に酷い事したなぁと思ったからだよ。…ごめん」
「謝らないでくれよ。もう私は結構精算し切った気でいるんだよ。君だけ謝罪が積み重なって増えていってしまう。むしろ、こっちの負債になりそうだとも。…どうしても言いたいのなら、私に背負われてる時に言ってくれ。君も私に責任を感じ過ぎなんだ。…ごめんは、一週間に一回程度にとどめたまえ。…もっと気軽に私に接したまえ。私たちは責任を分かち合う家族なんだから」
「そうだね」と田上は、微かに口角を上げながら、返事をした。
その後また暫く話をした後に、田上が「お前も随分と俗っぽくなったよな」と唐突でもあり、話の流れでもあるように言った。タキオンは、それに「そうかな?」と答えた。
「そうだよ。突然ドラマを見てみようかな?って言ったり、俺の事が好きだのなんだのと言ってみたり」
「君の事が好きなのが俗っぽいのかい?」とタキオンは笑って言った。
「うん。お前、出会ってからクラシック期くらいまでは、もっと変人だった」
「おや?君の彼女を捉まえて、変人だったというのかい?」
「実際、時々変な事をやったりしてただろ?」
これを言われると、タキオンにも思い当たる節がない事もなかったから、「うぅん…」と唸った。
「…まぁ、あれだよ。…女によって男が変わる歌とか、自分の別れた彼女が、次の男に染められてしまって嘆いている歌とかあるだろ?それだよ」
「…俺に染められたって事?」
「そうだね。君に影響されたんだ」
「…俺ってそんなに俗だったかな?」
「俗だろう?自信が無いし、ゲームは好きだし、勤勉だし、…大概普通じゃないか。私みたいに、家が金を持っているわけでもない」
「そうだな…」
「ああいう歌もあったな…。彼女の影響を受けて、最近では紅茶よりもコーヒーを飲んでる歌。…ん?今考えると、君がカフェに染められてしまったようで嫌だな。私は紅茶好きだし、カフェはコーヒーが好きだし。…良くないな」
「とんだところでカフェさんにとばっちりが来たな」
「うむ…。…君が私に影響を受けている所はどこなんだろうね?確かに、前の私ならドラマを見たいとは言わなかったと思うから、君の言うように俗っぽくなったんだろうが、君は私の何に影響を受けたんだろう?」
「んー……、なんだろうね…?……お前ほど色濃くも無いような気がするけど、…強いて言えば、…お前の事を好きになったってことくらいかな?」
「私の事は好きだろう?」と――君は何を当たり前の事を言っているんだ、という口調でタキオンは聞いた。
「いや、…お前が俺の事を好きでい続けてくれなかったら、多分、俺もお前の事を好きで居続ける事はできなかったもん。だから、お前と向き合う点では、お前に影響を受けた部分も大きいかな?」
「…うん…。それもあるだろうが、もっと分かりやすいものはないのかね?…君、紅茶もよく飲むかと言われたら違うしなぁ…」
「お前のお陰でお茶菓子は結構知ることができたし、美味しいと思ったものもあるよ。それは、影響だろ?」
「影響だ。……そんな所か。……私はそんなに変人だったかな?」とタキオンは話を始めの方に戻した。
「変人だよ。…だって、あの時、帰省から帰った時にお前、俺が抱き締めてくれないからって、松浦さんの方に抱き締めてもらおうとしてたじゃん」
「ああ、…そんなこともあったね。…君は、彼女の黒歴史を掘り返して嬉しいのかい?」
「あれは黒歴史なんだ」
「黒歴史だとも!」とタキオンは少し憤慨した。「あの時は付き合っていなかったとしても、目の前に未来の彼氏がいると言うのに、他の男に抱きしめてくれと言ったんだぞ?黒歴史以外の何物でもないだろう?」
その後に、タキオンは少し落ち着きを取り戻すと、こうも言った。
「……おや?…あの時も、君が私の事を好きだったと考えると、あそこで君が嫉妬をしないはずがないな。そして、私は君がやってくれると言ったから、結局君と抱き締め合ったんだったな。…どうだった?私が松浦君と抱き合うと言った時は、相当焦ったんじゃないかな?」
「…とても気分が悪いな…」と田上は嫌そうに言った。
「ハハハハ。うん、あの時も君が私の事を好きだったと考えると、結構な事だぞ。どうだった?念願叶って、好きな女と抱き締め合えた時の気持ちは」
「あの時は、抱きたくはなかった」
「ああ、そうだったね。君はそういう人間だった。…でも、多少は嬉しかっただろう?」
「…どうだったかな?…覚えてない」と田上ははぐらかした。田上の記憶の上では、多少は嬉しかったような気もした。
その言葉に、タキオンは少し笑ってから言った。
「まぁ、そう思うと、正月なんて私との距離が近くて仕方がなかっただろうけどね」
「付き合ってもないのに、お前の距離感はおかしすぎた」
「そんな事はないさ。君だけだもの。私が心を許していたのは。お義父さんの方にも幸助君の方にもそんな態度はとらなかった。…そう考えれば、…あの頃から私は君の事が好きだったと言っても過言じゃない。…言ったかな?私が、幸助君に、君の事が好きなのかそうじゃないのか、どっちかにしろ、って言われたの」
「…多分言ってないかな?…そんな事言ったの?あいつ」
「私が怒って出て行った時だね。君が、寒さで死にそうになってる前だよ」
「ああ、そこら辺か」
「そう。そこで、私もまぁ、すぐに答えられなかったのは、君の事が嫌いじゃなかったからだね。…うん。君、結構魅力的な人間だったから、私に良くしてくれるし、優しいし、かっこいいしで、あの時も別に結婚もして良さそうなくらいまではあった。…本当だよ?少なくとも、頼りにならない人間じゃなかったとも。私にとって、最も安心できる人間だったとも」
「そうだったんだな…」
「…いい旅だったな…。…街の雰囲気も嫌いじゃない。程良く寂れてる。……またあそこに行くのが楽しみだ…」
「父さんも喜ぶよ」と言いながら、田上は作業の為に手を動かしていた。