丁度、あと少しでご飯を食べ切れそうだったので、エスはパクパクとご飯を食べ切ると、急ぎ足で皿を食器返却口へ置きに行った。その途中で、一組のカップルが談笑しながらご飯を食べているのを見かけた。勿論、田上とタキオンである。エスは、一瞬声をかけようかと思ったが、二人の邪魔をしては悪いので、仲良く談笑させておくことにした。
エスの方は、借りたい本が急に頭の中に降りてきたので、図書室に行く為に、急ぎ足で、持っている皿をカチャカチャと言わせた。それで、人にぶつかりそうになって初めて、急ぎ足で歩くのをやめた。
図書館に着くと、エスは色紙で明るく彩られたガラス戸を押して、中に入った。そして、顔馴染みである図書室の先生に挨拶をした。八代恵理子(やしろえりこ)という名前の女の先生である。
「八代先生こんにちは」とエスは、カウンター越しに呼び掛けた。八代先生は、少し太り気味の背を丸まらせて、カウンターに背を向けて作業をしていたので、エスの存在には気が付いていなかった。そして、振り向いてエスの顔を認めると、にっこりと笑って「エスちゃんこんにちは」と言った。
「エスちゃん、ちょっと手伝って行かない?梅雨に向けて飾りを準備しているんだけど、図書委員の一人が来れなくなっちゃったみたいで」
「ああ、全然良いですよ」とエスは、八代先生の隣に居る見知った生徒を見ながら言った。
この人は、図書室で知り合いになった人である。今の様に、先生に手伝いを頼まれた時に、丁度居合わせていた人だった。気さくで優しい良い人で、エスの二年先輩だったので、タキオンと同じ学年の人だ。それで、何故最近来なかったの?という話題になったが、エスは、選抜レースでチームに所属していたから、どたばたしていたのだ、と答えた。二年先輩のその人、レストフルメモリーズはふーんと答えたが、その後に折角だからとエスが自慢してみた。
「私、あのアグネスタキオンさんと同じチームになったんですよ」
エスは、てっきりメモリーズが驚くのだろうと思っていたが、その反対に、メモリーズは少し引いた目をしていた。
「へぇ?…あのアグネスタキオンさんと?」
「え?…凄くないですか?GⅠを取る様な凄い人ですよ?」
「いや、…凄い事には凄いんだろうけどね…。…私同じクラスだから、多少は知ってるんだけど、…妙な人じゃない?一匹狼って感じがあるし…、トレーナーさんの事モルモット君って呼んでるんでしょう?」
その言葉でエスも合点がいった。メモリーズは、先入観からあまりタキオンに関わってきていなかったのだ。
「違いますよ!」と思わず大きめの声を出してしまって、八代先生から微笑まれながら口元に人差し指を立てられた。その仕草は、決して嫌味な物ではなかったので、エスは申し訳なく笑いながら、頷くように頭を下げた。それから、メモリーズの方を向くと言った。
「いや、モルモット君と呼んでた真偽は知りませんがね?少なくとも、今は呼んでいないですし、結構人間味のある人ですよ?あのトレーナーと付き合っているんですし」
そこで、八代先生の方も、二人の方に顔を向けて、話に加わってきたので、エスは二人に向けて言った。
「一応言っておきますけど、お二人共清い交際はしていると思いますよ?田上トレーナーは、本当に女子高生と付き合ってるの?って思うくらい、真面目な人間だから、私だって不思議なくらいです」
「裏ではそうでもないんじゃない?」と八代先生が言うと、エスは少し首を傾げた。
「いや、……あんまり裏表はなさそうですけどね…。少なくとも、私の目からはちゃんと適切な距離を保って交際しようとしていると思います」
「付き合っているのに適切な距離って何?」とメモリーズが聞いた。八代先生は、カウンターに本を借りに来た人が居たので、話から外れた。
「適切な距離……、…まぁ、…キスもしてますしね…」とエスがボソッと言うと、メモリーズがぎょっとしながら小さな声で「キスしてるの?」と聞いた。エスは、不味い事を言ってしまったという自覚を持ちながらも、無言で首を縦に振った。そこで、また戻ってきた八代先生も含めて言った。
「他の誰にも言わないでくださいよ?ここだけの話なんですから。少なくとも、二人はお互いが好きで付き合っていらっしゃると思うので、私の発言で二人の仲を引き裂くような真似はしたくないんです」
そうエスが懇願したので、二人共しっかりとした面持ちで「分かったよ」と言った。それから、メモリーズの方が口を開いた。
「それにしても、…噂は聞いてたけど、まさか本当だとは思ってなかったなぁ…」
「本当ですよ」とエスが頷いた。
「…だって、アグネスさんって、そんな雰囲気じゃなかったけどなぁ…。授業はまぁ、二三か月前から来るようになったけど、それまではほとんどサボって、出なきゃいけない分だけ出てたからね…。成績は良いらしいんだけどね…。怪しげな研究をしてるって聞いたし…。トレーナーさんと付き合い始めたのは、二三か月前?」
「それは、私には分かりませんね」
「……あの人って、人の事を好きになるんだね…。トレーナーはどんな人?一年位前は、顔丸ごと発光している人が、タキオンさんと歩いているのは見たけどね…」
「今は、発光のはの字もありませんよ。…うーん…、そうですねぇ…」
そう言いながら、エスは目の前の色紙をチョキチョキとハサミで切っていた。
「…田上トレーナーは、…さっきも言ったように真面目な人ですし、……まだ日も浅いんで、あんまり良く分かってはいないんですけどね?…真面目そうってことくらいですかね?…私とか、他のチームメイトの前では、結構…厳しめと言うか、…やる事は優しいんですけどね?……愛想がない?笑顔をあんまり作りたがらないんですけど、…タキオンさんの前だけは見事に笑うんです。面白いですよぉ?普段のイメージから全然違うんですもん。タキオンさんとは付き合っていますから、タキオンさんの前でだけ、あんなにデレデレと言うか、心を許した態度になるんです」
「へぇ」とメモリーズが、興味の湧いた目つきで隣のエスの方をチラリと見て、自分が切っている色紙の方に目を戻した。
「あんまり知らないけど、そんな人なんだ」
「まぁ、…多分概要くらいは掴めてると思います。 タキオンさんも面白い人ですよ?」
「へぇ?どんな?」
「午前中の休み時間の事なんですけど、タキオンさんが――面白いものが好き、って言うから、私が、――田上トレーナーも面白いから好きなんですか? って聞いたら、タキオンさん、照れながら――彼も面白い、って言うんですよ!」
その時に、またエスの声が興奮して大きくなったので、八代先生に優しく注意された。メモリーズも面白そうに笑いながら、声を潜めて言った。
「へぇ、アグネスさんってそんな感じなんだ。思ったよりも良い人かもね」
エスは、その言葉に少し苦笑してみせた。
「良い人かどうかは、多分、条件によるんじゃないかと思います。可愛い所があるって言っても、結構面倒臭い人物ですからね。…興味本位で話しかけられるのはあんまり好きじゃなさそうな気もします」
「へぇ…、私、アグネスさんがクラスでよく話しているハナミとアルトとは友達だけどね」
「へぇ、タキオンさんってそんな友達が居るんですか?」
「まぁ、…グループとして常に傍に居るって訳じゃないけど、…何て言ったらいいかな?…まぁ、結構あの三人の仲はいい。ハナミとアルトが特別仲が良いって言われると、…どっちもアグネスさんには気兼ねしてない感じがあるね。あの二人共、良い性格してるもん。アグネスさんも、だからあの二人には気兼ねなく接してるんだろうね」
「クラスでは浮いてるんですか?」
「浮いてるも何も、変人よ。ハナミもアルトも、そんな可愛い人柄って言うんだったら、私に教えてくれてもいいのにね」
「多分、タキオンさんがあんまり交友の輪を広げたがらないからじゃないですか?」
「ああ…、多分それもあるかもね」
「私もですね、チームに入る際に検問を受けましたよ?」
「へぇ?」とメモリーズは、殊に興味があるように頷いた。
「検問と言っても学年を聞かれたくらいですけどね。そこで、私、言われたんです。――圭一君とはあんまり馴れ馴れしくしないように、って」
「圭一君って田上トレーナーの事?」
「はい、下の名前です」
「下の名前で呼んでるんだぁ」とメモリーズは少し笑みを浮かべた。「タキオンさん、本当に思ったより人間味があるんだね」
「そうです。あれで、自分の彼氏には近づかないように、って牽制してくるんですよ?あれ、パワハラじゃないですか?」
「彼氏って、トレーナーさんの事でしょう?」
「そうです。私、チームに入るんですから、どうしてもコミュニケーションは必要になりますよね?」
「そうだね…。そのチーム大丈夫?」
「まぁ、…さっきも言いましたけど、今日は、なんか珍しく話しかけられましたよ。 あ、そうだ。…これ言ってもいいのかな…?」
「なになに?」
「…タキオンさんには言わないでくださいよ?私、パワハラで潰されちゃいますから」
「ほうほう」
そう言いながら、二人は顔を寄せて微かに囁いた。
「――私、子供っぽいのかなぁ?って私に相談してきたんです」
「エスに?」
「そうです。あのタキオンさんがですよ?」
「いよいよ人間味が出てきたね」とメモリーズは目をきらりと光らせた。
「なんででしょうね?」
「なんで?…エスが知らなきゃ私も知らないよ」
「メモ(メモリーズのあだ名)なら分からない?」
すると、メモリーズは少し考えた後に言った。
「うーん、……やっぱり、そこはトレーナーさんじゃない?」
「田上トレーナー?」
「そのトレーナーに子供っぽいとか何とか言われたんじゃない?」
「田上トレーナーが?…言いますかねぇ?」
「…私にはこれくらいしか予想はつかないよ?だって、さっきの話からすると、結構アグネスさんはトレーナーさんに惚れてるんでしょう?好きと言うか、惚れてるって言葉の方が似合うと思うんだけど」
「うーん」とエスは唸った。
「私はこれだと思うなぁ。だって、元々、そんなアグネスさんはイメージして無かったから、惚れてるんだったら、重めに惚れてそうな気もするんだよね。だって、チームに入ってきて早々の年下の子に圧力をかけるんだから、相当そのトレーナーには入れ込んでる。となれば、重い。そして、そのトレーナーから――子供っぽい、って言われれば、気にするんじゃないかな?」
そこで、何の因果か、図書室に、タキオンと田上が二人揃って入ってきた。エスは、これはもうびっくり仰天で、背を小さく縮こまらせると、メモリーズに向かって「私は居ない。私は居ない」と囁きながら、色紙に向かった。しかし、ハサミは気もそぞろに遣うばかりで、意識は自分の背中へと向けられ、その先の八代先生とタキオンの会話へと行った。
タキオンが、八代先生に「こんにちは」と言った。田上もその後に続いて、「こんにちは」と言って通り過ぎ去ろうとしたのだが、タキオンはカウンターの所に留まって八代先生に話しかけた。
「近頃、出てきた本で面白そうな物はあるかい?」
「んー、……タキオンちゃんが好きそうな物は……、恋愛物とか読んでみる?」
まさか、八代先生の口から『恋愛』という単語が飛び出してくるとは思ってもみなかったので、心の中で思わず――八代先生のおバカーー!! と叫んでしまった。今までの話を聞いていなかったタキオンが、まさかエスが要らない事を話しているとは分かるはずもなかったが、このまま行くともしかしたら、八代先生の口からポロッとエスの事が漏れ出てしまうかもしれないという恐れがあったので、その話題だけは何としても避けたかった。だが、エスが口を出せない以上、もう遅かった。
「恋愛物ねぇ…」とタキオンが言った。「…悪くないかもしれない。…ただ、ちゃちな恋愛物はやめてほしいし、不倫とかそういうのは尚の事嫌だ」
「ああ、……タキオンちゃん高松信夫の本をこの前借りてたわよね?」
「ああ」
「あー、…それじゃあ、『無花果の木』はどう?確か、…高松信夫はあのあたりだったわね」
そう言って、八代先生は、図書室の本棚を幾つか隔たった、右隅の方を指差した。
「ちょっと持ってくるわ」
そう言ったので、タキオンと田上は待つことになった。
その間に、エスはずっと頭の中で――気付かれませんように、気付かれませんように、と唱えていた。タキオンの視線が自分の背中に注がれているような気がする。今にも、自分が呼びかけられそうな気がする。そんな中で、無心に色紙をいじっていると、やがて八代先生が戻ってきて、タキオンに本を手渡した。
タキオンは、白い表紙に描かれている一本の無花果の木と、その傍に居る男の子を眺めていたのだが、やがて、「気が変わった。やっぱり、ちゃちな恋愛物を読もう」と言うと、「君はこれでも読みたまえ」と田上に本を手渡した。そして、立ち去って行こうとする足音が聞こえ始めたので、エスは安心したのだが、束の間足音が止まって「おや、そこに居るのはエス君じゃないか」と言われた。田上も「ああ、エスさんだ」と低く呟いていた。
エスは、――ああ、やっぱり来てしまったか…と思いながら、くるりと振り向いて、今初めて気が付いたようなふりをした。メモリーズは、隣で笑いを堪えている顔が見えたから、後でしこたま蹴ってやろうかと思った。勿論、冗談である。
「ああ、お二人共、…何か用ですか?」
「何しているんだい?」とタキオンが、近づいてカウンターに寄りかかって聞いてきた。
エスは、何とでもないと言うように、色紙を片手に振ってみせて、「飾りつけの手伝いですよ」と答えた。田上もタキオンの隣に立って、興味深そうにエスを見つめた。田上は中学生の時分、そういう細々としたものを、ボランティアで作るのに多少の興味はあったのだが、結局なんにもせずじまいだった。
エスは、そんな田上の気も知らずに、興味深そうに眺めてくるタキオンの視線を躱すように「そんなとこです」とまた口を開いた。すると、隣で笑いを堪えていたメモリーズが唐突に振り返って聞いた。
「アグネスさん、私、同じクラスのレストフルメモリーズですけど、覚えてますか?」
突然にそう聞かれても、タキオンは律儀に相手の顔を見た後に「覚えてないね」と言った。メモリーズは少し笑って、再び質問した。
「あの、…噂で聞いたんですけど、…トレーナーさんと付き合ってるって本当ですか?」
——この人は何を言っているんだ!?と内心でエスは仰天していた。事情を知っているチームメイトがすぐ隣に居て、その話題を出しているという事は、エスが色々と内部情報を喋ったのではないかと疑われてしまうだろう。それが、実際にその通りだから不味い。
タキオンは、そのような予想を立てたのかどうかは知らないが、「横に居る奴に聞いてみるといい。良く知ってる」と返した。
エスは、心臓がバクバクなるのを感じながら、こちらを見てきているメモリーズの顔を見返した。二人はお互いにしか伝わらない視線という言語で、色々と会話をしていたが、口では「どうなの?」とメモリーズが言った。
エスは、少し迷ったようにタキオンとメモリーズの顔を交互に見ながら、「言っても良いんですかね?」とタキオンに聞いた。タキオンは、あまり興味がなさそうな面持ちで「君の勝手にしたまえ」と言うと、さっさと田上を引きつれて、本棚の奥の方へと言った。
エスは、その後ろ姿がいつ振り向かないかと怯えながら、チラチラと見ていたが、タキオンと田上は、二人で本棚に立って、手に取った本について小声で囁き合っていた。
メモリーズは、エスと顔を見合わせると、少し顔を寄せて小声で言った。
「セーフだね」
エスは、目を見開きながらも、小さな声で早口に捲し立てた。
「なぁにが、セーフだね、ですか!ちょっとはこっちに気を遣ってくださいよ!私が喋ったってバレたらどうするんですか?」
「実際に噂で聞いた事があったから大丈夫だよ」
先輩は呑気そうだった。それで怒るに起これず「アンタねぇ…」とエスは言った。それから、もう少し自分の怒りを表現しておこうと、メモリーズのウマ耳に突然指を差し込んだ。メモリーズは、大きな声をできるだけ抑えた声が、うっと漏れ出た。それから、エスから体のどこそこをつつかれまくると、笑いながら謝った。
「分かったよ、分かった分かった。ごめん」
その後に、「図書室で遊んだらアカンで」と似合わぬベタな関西弁で八代先生が注意したので、一旦静かになった。
エスは色紙に文字を入れるのに集中していたのだが、不意に横を見ると、メモリーズは、
自分の仕事をそっちのけで、カウンターから、ある一点をじっと見つめていた。エスも、メモリーズの横で見てみると、メモリーズが口を開いた。
「あのカップル、いちゃいちゃし過ぎなので注意してこようかな?」
「どの…」と言い終わる前に見当はついた。勿論、田上とタキオンである。二人で一つの本を広げ、肩を寄せて仲良く読んでいた。
「二人で一つの本を読むのは図書室ではルール違反ではないですかね?」
「やめとけ。絡みに行きたいだけでしょ、お前」とエスは、自分も、仲の良い恋人たちをじっと見ながら言った。
田上とタキオンは、どうやら間違い探しの本を読んでいるようだった。多少笑い合ってはいるが、他の人の迷惑になる程騒いでもいない。と言っても、静かな環境で本を読みたい人にとっては、小声で笑われる事すら耳障りではあるだろう。二人を注意しに行くべきかどうか…。その境でエスは悩んだが、結局、あの程度での小声は図書室にはざらにいるし、それで注意されるんだったら、まず、自分たちが注意されないといけない。
エスは、もういいやと思って、自分の飾り作りに取り組んだが、まだメモリーズは熱心に二人の事を観察していた。それで、またエスが横につくと、口を開いた。
「見て。…ここからだと、アグネスさんの顔が見れるんだけど、…案外可愛いわ。変人だから、もっとガラの悪い顔をしてるもんだと思ってた」
エスは、タキオンの顔を見ながら、無言で頷いた。確かに、美しく整った顔立ちであるし、笑えば顔中に可愛さが宿る。正直、羨ましい位だ。少ししてから、またメモリーズが言った。
「…確かに、可愛いな…。あれは国宝級だわ…。…あれなら、皆からモテモテになるのに、なんで普段はあんな一匹狼なんだろう?」
「メモも可愛いのに一匹狼じゃん」
メモリーズは唐突に褒められた嬉しさで、目を見開きながらエスを見た。それから、間をおいて「そうだわ」と嬉しそうに言った。メモリーズも、充分に人から好かれる顔をしているが、一人が好きな性質なので、人間よりは本の方が友達の数が多かった。
エスは、自分の顔にコンプレックスがあるというわけではないが、自分に自信が無いので、顔にも余り自信が無かった。勿論、女友達からは「可愛い」と言われたりすることもある。その時は、少し嬉しくなるのだが、ウマ娘なのだから、この学園に居る人は大概可愛い。顔に火傷痕がある人は見た事があるが、それでも、にっこりと笑えば、全然自分より可愛いのじゃないかと思う。
最近は、腹の肉が気になっている所である。少々食べ過ぎなのじゃないかと思ってる。そこまで、腹が出ているかと言えばそうではないが、摘まめば引っ張れる。正直、どのラインから太っていると言うのかは分からないが、できれば太りたくはない。近頃、田上トレーナーかマテリアルさんに相談してみようかと思っている。それで、自分の心配が減れば御の字だ。
メモリーズの顔はお世辞抜きに可愛いと思う。ウマ娘なのだから、当たり前だろう。そもそも、なぜウマ娘は顔立ちの整ったものが多いのだろうか?肌も綺麗な者が多い。一般的に、ウマ娘の因子は、遺伝子とはまた別の所にあるのではないかと言われている。
ただ、現在の科学者たちがこぞってそれを探したところで、今の所、そのウマ娘の遺伝情報を見つけたものは誰一人いない。不思議な生き物だ。ある科学者は、ウマ娘はこの世の物ではないのではないかと予想を立てている。どこか別の世界からやって来たものじゃないかと。まるでカルトだが、ではなぜこの世にウマ娘が生きて、活動をしているのか説明がつかない。
歴史の中にパッと現れたウマ娘は、遡れば、古代文明の頃まで行き着く。今の所、それ以前のウマ娘の化石や生きた痕跡は見つかっていない。ウマ娘の歴史の始まりは同時多発的で、人以上の美貌と力を併せ持つウマ娘は、信仰の対象とされるのと同時に、偏見や差別の対象ともされてきた。これは、国や地域によっても差があるので、一概にウマ娘が酷く扱われていたという事はできない。ただ、王族の歴史の中には必ずウマ娘がいたので、美しさと力と共に、権力を握る地域も同時にあったようだ。
起源ははっきりしていない。いかにして、人とウマ娘が邂逅したのか、だ。山奥から突如として、集団で現れた訳でもあるまい。それこそ、別の世界からやって来たようだ。今の所、ヒトより前のウマ娘の痕跡は見つかっていないから、ヒトの後にウマ娘が生まれたという説が有力だ。そして、初めは都市部の方にはウマ娘は居なかったのではないかという説がある。ウマ娘は生まれる場所を選ぶのか、それとも住む場所を選ぶのか、それは定かではなかったが、現在は、物が流通する都市部に多くウマ娘が集まっている。
元来、ウマ娘は力持ちであったと共に、普通のヒトと比べると温厚な傾向にあったようだ。現代ではどうかは知らない。色々なムーブメントが起きているし、色々な文化があるし、色々な生活がある。それでも、あんまり怒ろうとはしない生物らしい。勿論、怒る人は居るだろうから、『傾向にある』という事だ。
ウマ娘の歴史は戦争と共にあると言ってもいい。第二次世界大戦でもたくさんのウマ娘が死んだし、一次大戦でも多く死んだ。ウマ娘は、その常人離れした身体能力故に兵士としても有能だった。勿論、ウマ娘だけでは人が足りないので、多くの男性も兵士になった。ただ、ウマ娘は前線に出した方が結果を残しやすいので、多くが前線に送られた。そんな中で、戦場での恋が生まれたりする。そんな映画が、アメリカではたくさん作られて、多くの感動を呼んでいたりする。
ウマ娘と言っても見た目は女性である。ウマ耳や尻尾が付いているからと言って、か弱い女性像を拭う事はできない。だから、国連では第二次世界大戦の後に、せめてウマ娘を積極的に兵士として徴兵する事はやめる、ウマ娘生存権保護条約が採択された。一つには、二次大戦であまりにもウマ娘の人口が減少したこともある。しかし、未だ紛争の続く地域では、積極的にウマ娘の兵士が使われている。未だに、世界で戦争が起こっている事は悲しいが、
私は平和な日本に生まれて良かったと思うエスだった。そして、そんな自分は利己的な人間じゃないだろうかと心配した。
考えに耽って、無心に色紙を切っていた。隣では八代先生も黙々と飾りつけの準備をしていたが、不意にまた反対の隣を見てみると、またメモリーズはタキオンと田上を見ていた。エスは、呆れて先輩の肩を叩き「あんた飾りつけの準備をしてるんでしょ?」と言った。その時に、生徒が二人同時に借りに来て、八代先生に「もう一人の方も頼む」と言われたので、エスは仕方なく立ち上がって、中等部の子の本を貸し出してあげた。
また、椅子に座り直すと、メモリーズの横に並んで、田上とタキオンを見た。タキオンも田上も相変わらず、仲が良さそうに、それでも図書館のマナーは守って、静かに間違い探しをしている。まるで大人のカップルである。あれで、子供っぽいと悩んでいるんだったら、本当に子供っぽいカップルとは何なのか見せてやりたい。きっと、エス自身が男の人と付き合ったら、常に黄色い声を出して、彼氏の腕に引っ付いているのじゃないかと思う。
それであれば、タキオンと田上のカップルは、よりずっと理想である。あんなに大人びた雰囲気で、二人で静かに間違い探しをできるのであれば、それ以上にいいカップルはいない。エスは、このカップルが大好きである。それと同時に、羨ましい。早く自分もこんなカップルになってみたい。
近頃は、ネット上で恋人を探すのもある。勿論、マッチングアプリは十八歳の高校生以下は使えないので、どうしようもないし、使うつもりもない。結婚詐欺が横行しているらしいから、できることなら真面な人と当たりたい。
エスとしては、結婚詐欺を詐欺だと見抜ける自信はなかった。だが、ウマッターならどうだろうか? もしかしたら、良い人が見つかるかもしれない。ただ、女性向けアイドル育成ゲームをしている人の中に、男性は少ないだろう。それに、学校ではSNSで知り合った人とは会うなと何回も指導されている。それでも、まさかオタクが悪い人物ではないだろうと、根拠もなく思っていた。
エスだって、ニュースは見るから、未成年に手を出したとかで、いかにもオタクそうな眼鏡が手錠を繋がられている場面を見た事がある。ただ、そこらへんに住んでいるオタクは悪い人じゃないだろうと、根拠もなく思っている。素性は勿論知れない。知れないが、人柄というのは、文面でも話してみた感じで分かるのじゃないかと思っている。
それに、エスだって文面だけでは心を許す気はない。ある程度、通話をして口調を聞くのは必要だろう。口調には人柄が現れたりする。それで、自分を騙してきそうな口調だったら、この人危ないと思う間もなく、普通に嫌いになるだろう。
そうすると、結婚詐欺も自分を騙してきそうな気配がしたら、避けられる気もするが、やはり、本物の詐欺師というものはそんな自分でも騙してくるのだろうか? 勿論、詐欺師にくれてやる金はない。そもそも捻り出そうとも思っても今はできない。明らかな大金を求めてきたら、分かりそうな気もする。しかし、これが、結婚に焦っている時期や、恋人の存在を執拗に求めている時だったらどうだろうか。隣に人が居て欲しくて堪らないのだから、もしかすると騙されてしまうのではないかと思ってしまう。
そうすると、恋人の存在を隣に求めている自分は、もしかしたら、騙される対象かもしれない。ただ、世の中、なにも悪い人ばかりではない。そこがミソだ。悪い人ばかりでないんだけども、悪い人もしっかりと居るのでそこらを警戒しなくちゃいけない。油断していると面倒な事に巻き込まれてしまう可能性がある。それでも、悪い人ばかりではない。自分を見てくれる良い恋人が見つかるかもしれない。だが、それも一朝一夕では行かないだろう。今すぐにでも、頼れる彼氏が欲しかったエスは、少々落ち込んだ。
結局、図書委員としてここに呼ばれたメモリーズよりも、エスの方が多く色紙を刻んでいた。メモリーズは、ほとんどタキオンと田上を観察することに費やしていたし、八代先生も別に急いでいなかったようなので、そんなメモリーズを注意する事もなかった。エスは、真面目に色紙を刻んでいる自分が、なんだか損をしたような気がした。
昼休みが終わる頃になって、エスはここに来た目的を思い出した。ここには、本を借りに来たのだ。それで、暇を告げると、自分は本棚の方へ歩いて行った。久々にファンタジーを読みたい気分だった。ここ最近借りなくなる前も、純文学ばかりを読み漁っていたので、今はやっぱりファンタジーだった。
それで、ファンタジーがありそうな場所を右往左往しながら、それっぽい表紙を見つけては手に取って、表紙だけ見てまた棚に戻し、再び右往左往し始めた。その内に、隣に人の気配がしたから見上げてみると、隣に田上が立っていた。田上も本を選んでいたようだったが、今はタキオンが隣ではなかった。ぱっと周りを見ても、タキオンの姿は見えなかったので、恐らく近くには居ない。本棚の陰に隠れているかもしれないが。
田上は、近寄ってきたエスに気が付くと、本棚の前を譲ろうとしたが、その後にこう聞いてきた。
「何か探している本でもあるの?」
エスは、「いえ…」と言いながら、本棚を見つめた。今はあまり邪魔をしてほしくない気分だった。本を探すなら一人で探したい。誰かにあれこれ言われながら本を見つけようとすると、興が削がれる。すると、また一人本棚の陰から現れた。これはタキオンだった。
「おや、私の事は放っておいて、一人でナンパかい?」と少々不機嫌そうに言った。この手の冗談は田上もあまり好きではないようで、タキオンの事をじっと睨んだが、少しして表情を緩めると、エスに「邪魔してごめん」と言った。それから、タキオンと手を繋いで、別の本棚の方へ歩いて行った。
そうして、また、エスの頭の中に、田上とタキオンの事が浮かび上がった。
一体全体、どうしてあの二人は付き合っているのだろうか?そこの所が分からなかった。
今のも一見すれば、若干の険悪の気が漂っていた。恋愛対象でも何でもない女の子をそこに置いて、「ナンパかい?」は、田上にとってもエスにとっても失礼だろう。発言自体は冗談ではあるだろうが、表情を見てみると冗談と言えるほど冗談ではないようだ。
明らかに、その口調からも嫉妬が混じっていることが確認できた。エスと田上は少し話していたくらいだ。しかも、会話としては、大人が、子供のしている事に興味を持って、「なにをしているの?」と優しく聞くような感じだ。それをわざわざ出しゃばってきて、遮る程タキオンは嫉妬したのだ。田上からしてみれば、エスは恋愛の対象として欠片も見ていないのにもかかわらず、タキオンは、田上がエスになびいてしまうのではないかと恐れて、嫉妬したのだろう。あれでは、その内田上トレーナーが小学生の女の子と話すだけでも嫉妬するだろう、とエスは、タキオンの事を少々バカにしながらそう思った。
些細な事で嫉妬する女である。もしかすると、タキオンが子供っぽいと悩んでいる所はそんな所かもしれない。それを田上に鬱陶しがられているという線も充分にあり得る。あれなら充分に面倒な女だと言えるだろう。実際、先程声をかけられた時も、田上は咎めるようにじっと見つめていた。少なくとも、あの言葉を肯定的には捉えていない顔だった。すると、田上にだって、タキオンは面倒な女だと認められているはずだ。
面倒な女ならばなぜ別れないのだろうか?
エスは、本棚の間を通り過ぎて行く間際に、田上とタキオンが、また元の様に話しているのを見ながらそう思った。――仲は良さそうだ。面倒な女と付き合っているのは田上トレーナーの優しさの賜物かもしれない。しかし、田上トレーナーがタキオンさんの事を面倒だと感じた以上、それが長引けば長引くほど二人の間も険悪になりそうだった。
――もしかすると、あのカップルの寿命も短いかもしれないな…。
いつ頃から付き合って、今に至っているのかは知らなかったが、エスはそう思った。そう思うと同時に、――あの二人には別れてほしくない、と思い、――そんな簡単に別れそうかな?とも思い、――別れる瞬間ってのはどんなものなんだろうと思った。
別れる瞬間は案外呆気ないものかもしれないが、あの二人の間が冷めるという事が想像し難かった。二人が二人のままである以上、あのまま仲良くいきそうな気がした。そもそも、恋人が別れるとはどんなものなのだろうか?
そう思う間もなく、チャイムが鳴った。八代先生が、図書室にまだ残っている人たちに、呼び掛けている声が聞こえてきた。エスは、本棚の前で立ち尽くした。まだ本を探したいという思いと、恋人の別れる瞬間への考察と、タキオンと田上と、八代先生の呼びかけと、そんな物がいっぺんにエスの頭の中に入ってきて、どうしようもなくなった。
図書室の窓の外からは、隣の校舎の窓が見える。生徒が行き交って、慌ただしく席に着いてゆく。暖かな陽の光を浴びて、若いウマ娘たちがのんびりとしていた。その内に、机の間を歩いてきた生徒に声をかけられて、自分の席の方へと去って行く。まだ、幾人かの生徒が教室を行き来する。
エスは、それを遠い遠い窓の景色として見つめた。図書室は異様に暗く感じた。暖かいの日の光を遮る涼しい木陰のようでもあり、自分と他の世界を隔てる境界線のようでもあった。
その内に、忙しくしている八代先生がエスの隣に来て「読みたい本は見つかった?」と聞いた。エスは、無言のまま首を横に振り、「失礼しました」と言って八代先生の隣を歩き去って行った。そして、図書室のドアを抜けた時、エスの心には、遠くに判然とせず、鈍く光を放っている喪失感があった。
エスは授業の間、――恋人が別れるとはどんなものだろうか?と考察を続けていた。エスの顔があまりに真顔だったので、席につくまでの間に友達に「エスちゃん何かあったの?」と聞かれた。エスは、心許ない微かな笑みを表情の中に浮かべて、「なんにもない」と答えた。そう言うと、エスは遠ざかって行ったので、友達もそれ以上追及できなかった。
エスは黒板の文字をノートに写しながらも、その心は恋人の別れる瞬間に向けられていた。冷淡な別れもあるかもしれない。二人の心は別々の方へと向かって行って、心も重ならなくなり、お互いがお互いの事を必要としなくなる別れだ。
怒りを伴った別れもあるだろう。相手のする事に溜まっていた鬱憤を晴らす事もできずに、遂に怒りは爆発して、喧嘩になって別れるだろう。これは片方だけが怒りを募らせている場合もあるかもしれない。すると、怒られるもう片方は、別れたくないと言うだろう。もしくは、相手の怒りに中てられて、自分の中に溜まっていた鬱憤をもう片方に晴らそうとしてしまうかもしれない。そして、後で悔やむのかもしれない。
別れたくないと言った場合はどうだろうか? 相手の怒りの程度にもよるが、本気で別れたいほど怒られている場合は、もう取り返しがつかないものじゃないかと思う。それか、そもそも、怒っている方が付き合うことに対して不納得のまま、それでも付き合う事を選んでしまったのか。そうなったらもう仕方がないだろう。そもそも気持ちが一方通行なのだからしょうがない。諦めるべきなのかもしれない。
エスは、まだ他にも恋人が別れるという瞬間があるような気がした。怒りでも冷淡でもなく、また別の理由が。それは確信に近い程度に、エスの胸の中にあったのだが、肝心の内容が思いつかなかった。まだ、何かありそうな気がする。まだ何かありそうな気がする。そう思いながら、自分の心の中を探ってみたが、見つかるものは何もなかった。ただ、何かを見つけたい焦燥感だけが、エスの胸をざわつかせた。
授業は特に面白さもなく、退屈さもなく進められた。話の上手い中年の優しげな男の先生で、クラスには、その先生の話で時折笑っているものは何名かいたが、エスは全く笑う気にはなれなかった。普段のエスであれば、この先生の話には、顔に笑みを作るくらいの面白さを感じたのだが、今はむしろ、くだらないとさえ思った。こちらはそれどころではないのだ。何かあるはずなのに、それを見つけられない胸のむず痒さがあるのだ。
エスは少々不機嫌だった。そして、不機嫌な自分を嫌った。それから、不機嫌である事を鬱陶しく思った。
トレーナー室のドアを開けると、まず初めに、大と小二つの背中が目に入った。その背は、窓の枠に寄りかかって、二人して窓から見える景色を見ていた。田上とタキオンだった。エスが入ってくると、田上が振り向き、次いで、タキオンも振り向いた。
そして、田上がエスを目を合わせると「お疲れ」と言って頷いた。エスも頷き返した。タキオンは、エスが来るまでにしていた話の続きを再開した。エスは、少々恋人たちが憎かった。こんなあからさまに自分たちが幸せである所を見せつけられたら、誰だってそうなる。特に、少々悩んでいる者ならそうなる。かと言って、その恋人たちの仲を引き裂きたいわけではない。むしろ、一番初めに二人の背中を見て、その背景の遠くにある景色を見た時は、良い絵だと思ったくらいだ。しかし、俳句を詠む気にはなれない。多少の怒りが胸と頭を占めている。俳句を考えられるくらいに落ち着ければ、またあの景色について詠んでも良かったが、今の所はそれもできそうにない。
少々苛々とした面持ちで、ずっとトレーナー室の机の上に放置されて動かない原稿用紙を見つめた。この上に横になったりしたので、少々皺が寄っている。未来のベストセラーになり得る価値のある原稿用紙なので、新品の新しいものに変えようかと思った。しかし、その後で、特にそんな事をするでもなく、自分にはベストセラーは書けないのだと気が付いて、胸にモヤモヤを抱えながら原稿用紙を見つめた。
この胸のもやもやは、――やっぱり、ベストセラーは書けないけれども、それを真正面から認めるとそれは悔しい、という思いだった。エスは、今すぐにでもこの原稿用紙を手に取って、びりびり破き去ってやりたいくらいだったが、そんなことをするほど暴力的でもない。ただ、単純にこの感情の行き先として、そういう未来を考えたのだが、そこまで狂人になるつもりはなかったし、自分にそんなことができるとも思わなかった。原稿用紙をびりびり破く瞬間があったとしたら、それは人気のない山奥に自分が書き尽くした原稿を捨てに行く時だけだろう。それ以外は、あまり物を粗末にはしたくなかった。
エスは、十数秒経つと、とりあえず何かを書いてみようとペンを手に取った。それから、また固まった。とりとめのない事が頭の中に次から次へと出てくるが、それをエスは頭の中で掴むことができずに、ただ時間だけが過ぎていった。その内、胸がむかむかとし始めてきたので、エスは少し乱暴にペンを転がして、机の上に頬杖を突いた。それから、顔が歪むと思って、頬杖を突くのをやめた。
エスの顔は、一見すると具合が悪そうだった。だから、不図した拍子にエスの顔を見たマテリアルが声をかけてきた。
「エスさん、具合とか悪くないですか?」
エスはその言葉を悪く解釈して、さらに苛立ちを募らせたが、顔の方は平然とさせて、なんてことないと言うように首を傾げて見せた。これが、マテリアルの目にはさらにエスの具合が悪そうに見えさせた。具合の悪い人は、あまり話したがらないものだ。それでも、本人が否定しているのだから、マテリアルもあまり強く言う事もできずに「悪かったらいつでも言ってくださいね。トレーニングくらい、一日休んでもどうにかなりますから」と声をかけた。その言葉には、エスも多少のありがたさを感じたが、トレーニングを休もうとは思わなかった。
マテリアルは、エスの表情の固さを少し心配していたが、六時間目は普通に出席していった。むしろ、タキオンの方が「行きたくない」と田上にごねていたが、結局、ただ彼氏に甘えたかっただけのようで、自分の足でしっかりと歩いて行った。トレーナー室から出る時は、恨めしそうに田上の事を見つめていたが、あれは、次の時間になれば、結局、田上に甘え尽くすだろう。
エスは、廊下を沈んだ気持ちのまま歩いて行った。マテリアルに優しい言葉を言われた後だと、授業に出たくないという気持ちが湧いてきたが、自分はそこまでの不良じゃないので、授業には出ないといけなかった。教室の前で一度立ち止まったが、教室の中にいる友達と目が合うと、入らざるを得なかった。
六時間目は粛々と進んでいった。エスは、本当に具合が悪いような気がした。何だか頭痛がするような気もする。吐き気もあるような気がする。肩も重い。体が重い。授業は、黒板を写していれば何とかすんだが、これからトレーニングがあると思うと、気が重たかった。だから、今日は見学しようと思って、トレーナー室に行った。
トレーナー室に行くと、丁度マテリアルが出てくるところだったから、具合が悪い旨を告げた。マテリアルは、頷くと、出て行く時に閉めたドアを開けて、エスが見学する事を田上に告げた。田上は、特に咎める様子もなく、マテリアル越しのエスを見ると、見学を了解した。
エスは、こうなってくるとまたもやもやとした。体のどこかに走りたいという気分がある。むしろ、体調は走れない程気分が悪いのではない。ただ、体が重くて走りたくないから休んだのだった。真面目なエスは、これをずる休みしているようだと思った。走れはする。走ろうと思えば走れる。走りたくないと思えば走れないし、走りたいと思えば、少しは体が軽いような気がする。
そんな気持ちを抱えながら、エスはとぼとぼと制服のままトレーニング場へ歩いて行った。
トレーニング場にはリリックが居たから、エスは後ろから声をかけた。すると、リリックは振り向いてこう言った。
「あれ?今日は、トレーニングしないんですか?」
「うん…。ちょっと具合が悪くてね」
リリックは、その言葉の真偽を探るように一瞬エスの表情に目を留めた後、俯いて自分の体を見た。自分の体も、エスの様に具合が悪くなっているのではないかと思ったが、まぁ、いつも通りだった。特色すべきこともなく、自分の白い肌が太陽に反射して見える。そこから、顔を上げると、リリックは言った。
「陽の光を浴びてると多少は元気になれますからね。 見学ですか?」
「うん」
「じゃあ、土手に座って日光浴でもしてたらどうですか? 寒気とかは?」
「特にないかな。…体が重くて」
リリックは、自分の体も重くないかと確かめながら、二回ほどコクコクと頷いた。
そこで二人の話は終わって、エスはリリックの言うように土手の方に歩いて行った。確かに、太陽の光はエスを少し元気にした。若干の気分の高揚によって、走れるのでは?との考えが脳裏に閃いたが、そう思う間もなく体が重くなったような気がした。
エスは、土手に座ってぼんやりと目の前に広がっているトレーニング場の風景を見つめた。この頭の裏には、物事にあっちこっちへと引っ張られる迷いがあったのだが、エスはそれには気付かずに、その迷いを、ただ体の重みとして感じ取っていた。
その内に、田上が隣の方に来て、「調子はどう?」と聞いてきた。エスは、少し頑張って笑みを作りながら「ぼちぼちです」と元気なく答えた。その自分の元気のなさによって、さらに、自分の元気が減っていくような気がした。
だが、田上はそんなことには気付かずに、エスを優しい目で見つめると「無理して見学しなくてもいいからな。帰る時は、マテリアルさんか俺か、…タキオンでも良いし、リリーさんでも良いから、声をかけて帰ってほしい。じゃないと、エスさんが道端で倒れてるんじゃないかと思って心配になるから」と声をかけてきた。エスは、少し嬉しそうにしながら頷いた。すると、また背後の方から不機嫌そうな声が聞こえた。
「圭一君。私を差し置いて、その子の方が大切かい?」
折角、自分の身を案じてくれる人が居て、元気が出たエスだったが、この時ばかりは少々タキオンにムカついた。それでも、その様子はおくびにも出さずに、エスはタキオンの方を見た。タキオンは、エスには一瞥もくれずに、田上の方だけを見て話していた。田上は、振り返ると、タキオンの顔を見て言った。
「大切な教え子の一人だよ。調子が悪いそうだから声をかけてたんだ」
そこで初めて、タキオンは、エスの顔を見た。直前までは嫉妬の色が表情に浮かんでいたのだが、顔を見合わせると、タキオンは少し表情を優しくさせて「あまり無理はしないように」と声をかけてきた。エスは、その変化に少し戸惑いながらも、無言で頷いて感謝の思いを伝えるように、少し頭を下げた。
エスは、今のタキオンの変化を不思議に思って、田上と歩いて行くその背を見つめた。今はもうエスの事など忘れて、田上にベタベタである。あれがマンガであれば、二人の頭上にはハートマークが何個もついていただろう。田上は、タキオンに対して積極的ではなかったが、敢えて離れようともせず、歩きにくそうにリリックが居る所まで歩いて行った。
太陽が陰って、雲に隠れた。折角の日光浴が台無しになってしまった。少々大きめの灰色の雲が、上空を覆っている。まるで、私の心じゃなかろうか? と思って、エスは上を見上げた。太陽を覆い隠す雲が憎たらしかったが、自分じゃ雲に手は届かないし、届いたとしても天候を左右する事はできない。精々、びしょ濡れになって終わりである。
また少し体が重くなった。