ケロイド   作:石花漱一

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三十五、幽霊③

 遠くでリリックが一生懸命走っているのをぼんやりと見つめていた。太陽は雲の間から顔覗かせたり、陰ったりを繰り返しながら、徐々に徐々に西の方へと歩みを進めていった。

 エスは、なぜリリックは走るんだろう?と思った。一見すると少々自信のなさそうな子である。すると、ウマ娘のレースという大舞台を目指すことはせずに、そこら辺でオタクなり、小説なりをしていればいいのである。そうすれば誰も咎めはしないだろう。しかし、舞台に立つとなると人の目が寄る。レースに負ければ、負けたなりの喪失感を味わうだろうし、ウイニングライブの舞台に立つとなると、ダンスを失敗なんてできない。失敗したら、ネットの皆から笑い者になるだろう。永劫のネタとして、ダンスを失敗した滑稽をインターネットの無礼な連中から笑われるのかもしれない。

 まだ年端も行かないから、そんな所まで想像し切れていないのかもしれない、と思ったが、言ってももう中等部の一年生である。多少の想像はつくだろうし、自信が無いなら尚の事人の目が気になるだろう。しかし、彼女はそれでもトレーニングを続けている。すると、あんまり想像できていないのかもしれないという考えに、また戻っていった。

 自信が無いのは自分も同じである。くだらない事で思い悩んだりするくらいには自信が無い。果たして、この悩みから解放されるのだろうか?と思う。解放されないんじゃないかとも思うし、解放されなくてもいいのではないかと思う。『悩みとは、芸術である』とは、高松信夫の言葉である。その言葉の真意は、全くエスには理解できないが、悩みが芸術ならば、自分はもしかしたら悩んでいたほうが良いのじゃないかと思う。

 エスは、芸術を書いて皆から尊敬されたかったから、時々、良く分からない話を書いて読者を困惑させた。一度は、『??』というコメントが来たほどである。これが、エスにはあまりにもショックで、一週間ほど小説を書く気が失せてしまったのだが、――芸術は常人には分からないのだ、と自分に言い聞かせると、また小説を書くのを再開した。ただ、それからは少しエスの思い描くような、訳の分からない芸術らしい芸術を書くのはやめた。

 今は、エンタメと芸術を何とかくっつけて、上手い具合に面白い小説は作れないものかと、試行錯誤している所である。しかし、そもそもエスは芸術が何か分かっていない。それは、自分でも自覚している。芸術が何か分からないままに、芸術的な小説を書こうとしている。

 名言があればいいのではないかと思ったが、常人と芸術家の名言の違いは分からない。確かに、自分が感動する名言はあるが、世の中の名言は、何も自分が感動するものばかりではないだろう。エスはそう思っていながら、世の小説や漫画や映画の名言を読んだり観たりして見たし、ウマチューブで『心に残る名言集』というのも見た。

 中には――これは本当に名言か?と思うものもあった。当たり前の事をただ当たり前に言っているだけのようである。流石に、エスもそれは滑稽だと感じたので、そこら辺の滑稽名言は、芸術ではないだろうと見当をつけた。中には、ウマチューバーの名言を集めたものもあったが、大概常人だろうとエスは、見切りをつけた。

 分からないのは、『それっぽい事を言っている人』と『ちゃんと名言を言えている人』の違いである。確かに、恐らく、その二つの区分はあるだろうと思った。それっぽい事を言っていても、その言葉の中にどことなく空虚さがあるのを、エスは偶に感じていた。だから、物語に面白みを持たせるために『それっぽい事を言っている人』はいると思う。しかし、エスが空虚さを感じなかった名言の中にも、『それっぽい事』はあるのではないかと怪しんでいる。『ちゃんと名言を言えている人』の中にも、感動するものとそこまで感動しないものがある。

 実のある『それっぽい事』と、自分が感動しなかった『名言』の境目が曖昧だった。そして、その境目を敢えて明確にする必要があるのか? とも思った。芸術の中に境界はいらないんじゃないかと、それっぽく思ってみたりした。

 

 タキオンが休憩の時に、嬉しそうに田上の下に寄って行く。エスは、それをぼんやりと見つめる。不意に、タキオンとエスの目が合ったが、タキオンは、特に何も言わずに、田上の顔を見つめ直したので、もしかしたら、エスの勘違いだったかもしれない。

 ここからでは、流石にウマ娘の耳と言えども会話は聞こえない。別のチームの子が、やかましく騒ぎ立てるのが聞こえるばかりだ。エスは、つまらなくなってきたので、帰ろうかと思った。そして、土手に寝転がって空を見上げた。雲は西の方に流れて、今は太陽から遠く離れた所にいた。だから、今は快晴だった。少し太陽が眩しかったから、エスは、太陽から離れた空を見て、その空の青さに子供の頃の面影を見た。

 昔読んだ国語の教科書の物語に、雲の上に乗って遊ぶ話があった。幼心にワクワクしたものだった。空を見上げて、「あれはクリームパンだ!」と言ってみたり、「キリンだ!」と言ってみたり、友達が言ったのを否定して「天ぷらだよ!」と言ってみたりした。そして、その上で遊ぶ妄想なんかをした。こういう子供の想像力を広げる点では、国語という教科も意味があるのかもしれない。近頃、エスは――こんなつまらない物を読んでも何の身にもならないだろうに、と思いながら、国語の授業を受けていたが、もしかすると、文芸に触れて想像力を高めるという点に、国語の大切なところはあるかもしれない。普通に、文章を読み解く力をつけさせるためだけにやっているのかもしれないが。

 エスは、今も雲の上に乗って、遊ぶ妄想なんかはできるが、子供の頃程純粋な気持ちでは楽しめなかった。子供の頃と言えば、本当に雲に乗って遊べると思っていたくらいだ。

 ――小学生の今は、雲の所に行けないから、その上に乗る事も叶わないが、実際に雲の所まで行けるようになれば、きっと乗れるのだろうと信じていた。

 今思えば、阿保らしくて仕方がないが、そういう点では、エスの思考は子供の頃に戻りたかった。子供の頃であれば、特に何の気負いもせずに、日々を充実して過ごしていただろう。将来に対しては、小五くらいには少し不安を抱いてはいたが、それ以前は全く自分が中学生、高校生になるなんて考えもしなかった。ただ目の前にある遊びの事だけを考えて、時に友達と喧嘩して、仲直りに不安になることはあっても、日々は明日も同じように過ぎ行く物だと思っていた。

 今のエスは違う。明日が今日の様に過ぎ去っていくものだなんて思っていない。いずれ自分は大人になるだろう。高校を卒業して、大学生になって、大学生を卒業して、良く分かりもしない社会人になって、もしかしたら、ブラック企業に勤めて、自分のやりたい事もできずに、やがて、自殺するのではないかと不安になっている。

 もしかすると、結婚もするのだろう。そして、結婚した相手と上手い事折り合いもつかずに、離婚していくのかもしれない。自分だけが幸せな結婚をできると夢想する事はできないだろう。身近な友達の中でも、親が離婚したことがあるのは結構いる。どこそこの子の親も、意外に離婚したりしているのだ。自分の親は、離婚していないから、離婚がどういうものかあんまり想像はつかないが、一緒に生きる事を断念するという意味では、決して幸せな事ではないだろう。結婚しても良いくらい自分に合った人だと思ったら、それが、全然合わなかったのだから、ある種の結婚詐欺に遭ったと言っても良いだろう。本当に結婚できるかできないかの差だ。

 離婚する瞬間は、もしかしたら、恋人が別れる瞬間よりも酷なものかもしれない。結婚という、人と人との絆以上の繋がりができてしまった以上、金だったり、子供だったりが絡むかもしれないからだ。双方が、自分を反省して離婚するのであれば、まだ事は穏便かもしれないが、どちらかでも執拗に子供や金を求めてしまったら、泥沼になることは間違いないだろう。金や子供を求めてしまう気持ちは分からなくはない。要は、結婚詐欺に対する被害請求、そして、自分の大切な物を守ろうとする意思だろう。子供を大切だと思うのなら、なぜ、旦那や妻を自分の子供の様に大切に思えなかったのだろうか? そこが離婚の肝だろうか? 結局、お互いがお互いの事を大切だと思わなかったから、離婚をするという選択肢を取るのだろうか?

 エスは、段々と考えがこんがらがってきたのを感じ、一度無心になって空を見た。遠くの高い所に一羽、トンビか鷲か鷹か知らないが、大型の猛禽類の様なものが飛んでいる。――鷲はここらに入るのだろうか?と思った。トンビや鷹ならイメージがあるが、鷲は、もっと山腹の崖に住んでいそうな気配がした。どちらにしろ、あの空高い所をくるくると輪を描きながら飛んでいる鳥の種類は分からない。

 ——あの鳥は、何をするためにあそこをずっとぐるぐるぐるぐると回っているのだろうか? あそこから、餌となる小型の哺乳類でも鳥類でも見つかっているのだろうか? それとも、雌が来るのでも待っているのだろうか? それとも何だろうか? 暇潰しだろうか? ただ風が気持ちいいから、空高くを飛んで、下界の方でのそのそと這い回っている愚かな人間たちを憐れんだり、バカにしたりしているのだろうか?

 ——自分もバカにする側に回りたい、と思った。バカにすれば多少は気が紛れるだろう。そして、他人をバカにできるくらいの傲慢なバカになれば、体が重いとか何とかで気を悩ませずに済むだろう。

 そう考えた後に、――いや、傲慢なバカでも、ストレスで胃が痛くなったりするのかもしれないな? と思った。そして、なんで胃が痛くなっているのかも気付かずに日々を過ごして行くのかもしれない。

 そう思うと、自分もそのバカの一人のように思う。実際に、自分の体が何で重くなっているのかに気が付いていない。悩みがあるのは分かるが、具体的に何で悩んでいるのかと問われれば分からない。空の中にまた陰りが生まれてき始めたのが、心配なのかもしれない。

 

 西に流れた雲の後を追ってきたかのように、先程のような灰色の雲がエスの視界に広がっている青空を覆い始めた。徐々に広がって来る灰色の雲を見ながら、――このまま雨が降れば良いな、と思ったが、どうやら雨が降りそうな気配はなかった。それに、雨が降ったら降ったで、また最悪の気分になって寮に帰るだろう。それでも、エスは小雨でもいいから降ってほしかった。あの雨のヒヤリとした感覚が、ぽつぽつと顔の上に落ちて来れば、自分の悩みもまぎれるのではないかと思った。

 相変わらず、体は軽かったり重かったりする。走ろうかな、と思うと、途端に走る気が失せる。かと言って、走らないかな、と思っても、体は重いままだ。だとすると、もう走る走らないに関しては、思い悩まないほうが良いとも思ったが、このトレセン学園に来てしまった以上、エスにとって、走るとは重要な事だったし、これまでの人生の中でも、走る事はエスにとって簡単には捨て難いものとなっていた。

 小学校の中にいたウマ娘たちの中では、自分はそれなりに速い方で通させてもらっていた。自分よりも速いのは二三人くらいだったし、小学六年生になれば、学校で一番速いのは自分だった。それでも、トレセン学園に行けば違う。速いのがごまんと居る中の一人が自分だ。こんなのでは、自分は到底、その中の一番にはなれないだろうと悟っていた。だからこそ、ごまんと居る中で、一番速いタキオンが、エスにとっては大層な憧れだったのだ。

 そんな人が今自分と同じチームの中にいると思うと、自分も凄い人になったのではないのかと勘違いしてしまうが、実際のタキオンを見てしまえば、案外思ったよりも神々しい人ではないのだなと思う。常に、田上にべったりである。実際の意味とは少し違うが、男にだらしないと形容しても良いだろう。実際は、田上という特定の人物にべったりである。

 エスとしては、田上にそれ程の魅力があるとは思えなかった。顔は見れない程ではないが、特段イケメンというわけではない。性格には優しさがあるが、どちらかというと厳しいという顔つきにより、それも半減している。これを、タキオンと田上に、直接言ってみるとしたら、恐らく、怒るのは本人よりも、タキオンのような気がする。そういう意味では、むしろ、タキオンの方が性格は厳しい。新しく入ってくるチームの子に「私の彼氏に手を出すな」と圧をかけるくらいだから、こちらは若干切れ気味かもしれない。

 エスから見てみると、田上は常人である。タキオンは変人である。だから、田上がタキオンと付き合っているという事の方が不思議である。これが、もう少し二人の心の内側を知れば、エスも――タキオンさんも頑張っているんだなぁ、という感想を抱くが、その感想を抱くには、まだ少しチームの中にいる時間が短かった。

 そういうエスからしてみると、田上トレーナーはなぜ、タキオンさんを選んだのだろうと思った。まだ、チームにいる時間は短いが、そんな中でも田上が至極真面目な人間であるという事は分かる。タキオンに対してだけは、少し甘えた表情を見せる事もあるが、基本、チームの人に対する受け答えは、真面目に返答している。それは、端々の言動から感じる。

 だからこそ、タキオンを受け入れているのが不思議である。トレーナーとウマ娘が付き合うというのは、あんまり世間体としては良くないだろう。その相手が成人ならばともかく、未成年である。田上が真面目というのならば、倫理的にあまりよくない『未成年と付き合う』という事はどうしても避けたさそうである。

 エスも二人を実際に見てみれば、微笑ましいカップルであるにはあるのだが、タキオンの事を未成年と見てしまうと、それでいいのだろうか? と思ってしまう。だが、敢えて否定しようという程、強く思ってはいない。二人が幸せなら、後は勝手に幸せになってくれという感じだ。仲の良い微笑ましいカップルに、それは良くないから別れるべきだ、と思う程、エスは残酷ではなかった。

 

 いつの間にか空は曇天になっていた。先程の曇り空は、まだ太陽が見え隠れしていたが、今回は灰色の雲に覆われて、太陽は陰すらない。今にも雨が降り出しそうなくらい、濃い灰色が空を覆っていた。

 エスの心もその雲に覆われるように、正体を隠していった。捉えどころが無く、不明瞭になって、考えるゆとりも持たずに、肌に嫌な湿気を感じさせる風だけを感じて、寮に帰ろうかどうか迷った。

 迷う時にいつも心にあったのは、走ろうかどうかだが、走る気はないのだと自分でも薄々感じていた。しかし、義務感にも似た「走りたい」という思いが、いつもエスを迷いに導いていた。そして、その走りたいという思いが不明瞭だったからこそ、エスは、不明瞭な物を、ただぼんやりと見つめているだけで終わった。

 今もそうして過ごしている。

 

 不意に、顔にぽたりと雨が当たったような気がした。気のせいかとも思えるくらいだったので、エスは土手に寝ころんだまま身動きをしなかったが、その内、徐々に小雨が降り出した。ぽつりぽつりと顔の上に降ってくる。その感覚を感じると、自分の思うようになったことに少し高揚し、表情を先程よりも、幾らか明るくしながら起きて、空を見上げた。

 曇天である。そこから雨が降ってくる。エスの心はいよいよ高揚し始めたが、自分が体が重くてサボっている身である事を思い出すと、そこから立ち上がって、高揚のままに走り出す事もせずに、ただ期待を込めて空を見つめていた。

 他の皆はどうしているだろうかと、トレーニング場を見回してみた。自分の担当の走りを見ているトレーナーたちの大部分が、今は空を見上げて、今後の天気の行き先を怪しんでいた。まだ、本降りになりそうな気配はない。服に当たっても、すぐに跡形もなく消えて、何事もなかったかのようになるくらいの小粒の雨だ。この小粒のまま通り過ぎて行くのであれば、トレーナーたちはトレーニングを続行するのだろう。しかし、このまま本降りになるのであれば、トレーニングを中止し始めるかもしれない。エスは、心の深い所でトレーニングが中止になるのを期待していた。そうすれば、自分が休んでいる理由が少しは正当化されるからだ。トレーニングができなかったのは、雨が降ったせいだったのだ。もしかしたら、低気圧だったせいかもしれない。

 これは、自分の心をもう少し探ってみれば、なにも自分の悩みの種は、低気圧から雲と共に生まれ出てくるものではないと分かったのだが、エスは、その存在には気が付かなかった。それは、自分の心のどこかに、悩みの種があるのを知っているのに、実際には自分は知らないという複雑な物だった。複雑なもの故に、エスは、どんよりとした雲を見ると、何故だか元気が湧いた。

 田上は、ぱらぱらと降ってくる小雨を肌で感じながら、早く切り上げるべきかどうか悩んでいた。タキオンは、相変わらず一生懸命トレーニングに励んでいる。もう宝塚記念もすぐそこまで近づいてきたのもあって、トレーニングに身が入り出してきたようだ。リリックは、またもう一度くらい模擬レースをしても良さそうだと思った。近頃にもう一つ、そして、本番前の週にもう一つである。田上がリリックの本番に対して持っていた考えは、「慣れる事」だったため、回数は重ねたほうが良いと思った。前回の模擬レースに関しても、勝ちこそしなかったが、それ程引きずっている様子もなかったため、余程の惨敗をしない限り、経験だけを積み重ねていけるだろうと考えた。それでも、様子を見るのは必要なため、リリックについては慎重な考えを持っていた。

 エスは、今日は体が重いと言っていたそうだから、休んでいる。今の所、それ程気にしてはいないが、これが頻繁に起こるようならば、トレーニングメニューや本人の心理状態も改めなければいけない。勿論、風邪の可能性もあるので、田上は、できるだけエスには安静にしておいてほしかったのだが、見学だけは続けているようだった。

 ――熱が出てなければいいが…、と思ったすぐ後に、この小雨がエスの体調を悪化させるのではないかと気が付いた。田上は、少し振り返ってエスの方を見てみたが、エスは空を見上げて、変わらずそこに座っていた。

 ——どうしたもんか…、とまたタキオンの方を見つめながらそう思った。遠くで走っている田上が愛している人は、今日も美しかった。頭から尻尾にかけて、一つの流線を生み出しながら、懸命に走っている。

 その――綺麗だ、と、タキオンの事を好きだ、と思って、走る姿を見つめている自分に気が付くと、田上は、心の中でくだらないと言って、一蹴した。ただ、くだらないとも思わない自分もいた。――好きな人の事を好きだと思って何が悪い! という自分が。

 田上は、その間で少し迷った後に、やっぱり、判断は――くだらない、と思う方に傾いた。何が――綺麗だ、だ。恋に目が眩み過ぎだろう。そんなのだから、女子高生なんかを好きになってしまったんだ。

 田上は、その考えすらもくだらないと思って、自分の思考から追い出した。どちらにしろ、今目の前を走って行く恋人の事を、恋人と認めざるを得なかった。認めなかったら途端に二人の関係は崩壊していくだろう。ぬるま湯の中でじゃれあっているだけの様な感覚だったが、それでも、田上はそれが心地良かったし、彼女を放したくないとも思った。最早、田上にとって、タキオンはこの世で最も大切な一人の人間だ。実の父や弟や友達なんかよりも、断然タキオンの方が大切である。田上は、その人を失いたくなかったから、今もこうして、遠くを走って行くタキオンの後ろ姿を、優しい目で見つめている。

 小雨が少し強さを増したように思った。時間の切りも丁度良かったから、リリックとタキオンのそれぞれのトレーニングのメニューが終わると共に、このトレーニングも解散しようと考えた。それで、タキオンより少し早めに終わったリリックを待たせると、タキオンを待ち、それから、タキオンが来ると、今回のトレーニングの要点と連絡事項を伝えて解散することにした。連絡事項は一点あった。日曜にフリスビードッジボールをするというものだったが、強制でもないので、できるだけリリックに期待していると悟られないように、平然を装いながら聞いた。

 田上としては、人数は多い方が楽しそうだと思ったから、少しばかりの期待を寄せていた。フリスビードッチボールに関しては、予定に少し手が加えられて、カフェのトレーナーのチームと一緒にしようではないかとの協議が起こった。勿論、チームの子皆に許諾を取っていなかったので、二チームともまだ誰が参戦するのかは決まっていなかったが、双方のトレーナーはこれに乗り気だった。カフェが来るのかどうかは知らない。

 リリックは、少し悩んだ後に、田上に「楽しそうですか?」と聞いた。田上は、誤魔化すようにタキオンの顔を見ながら、「…楽しいのかな?」と聞いた。タキオンは、リリックが参加する事などどうでもよかったので、「私にも分からないよ」と適当に答えた。それで、田上が少し迷うようにリリックの顔を見ながら言った。

「まぁ、…実際にリリーさんが楽しめるのかどうかは分からないけど、…まぁ、よっぽどグダグダしない限りは楽しめるのかな?」

 若干不安そうにそう言う田上の顔を一瞬見つめると、リリックは目を逸らしてから答えた。

「…その…マンハッタンカフェさんのチームの子ってのは…?」

「えー、…二三人だったかな?…四五人?…覚えてないけど、確か、大体そこまで性格のきつそうな子はいなかったかな?」

「んー…」とため息混じりに悩んだ声を出すと、リリックは言った。「私の友達とか、誘ってみて良いですかね?」

「リリーさんの友達?…んー、…それは、また向こうの方にも連絡しないといけないし、……何人?」

「二人です、二人」

「んー、…まぁ、あっちの松浦さんの方にも掛け合ってみるけど、…多分、大丈夫だと思うよ」

 田上の本心では、――人数がこれ以上増えるのは少し厄介だな、と思っていたのだが、良い具合に断る言葉を持ち合わせていなかった。だから、リリックは、少し顔を明るくさせると「じゃあ、私の友達にもかけあってみて、良いってなったら、参加してみたいと思います」と言った。

 田上は、――まぁ、良いかな、という微妙な気持ちのまま、去って行くリリックを見送った。マテリアルは、先にどうするか掛け合ってみたし、こういうイベント事は大好きなようだったので、喜んで参加することを決めてくれた。

 あとは、エスの方に掛け合うだけだったので、田上は、タキオンとマテリアルを引きつれて、土手に座っているエスの方に向かった。

 

 エスは、小雨が降る中、じっと顔だけ上に向けて、空を見つめていたが、田上たちが来る足音を聞くと、その方に目をやった。田上は、タキオンに後ろから抱き着かれながら、少し歩きづらそうにして、こちらに歩いてくる。そして、土手を上ったところで、エスの足元まで来ると、言った。

「日曜に、フリスビードッチボールを皆でやろうと思っているんだけどどうかな?」

 田上は、鬱陶しそうにタキオンの手を払おうとしながら、土手に四つん這いになっていた。タキオンは、中々手を放そうとしなかったが、段々と姿勢が変になってきたので、少しニヤニヤと彼氏に甘える表情を取りながら、横の方に転がった。

 そして、尚も田上に構ってほしそうに、脇腹の方をちょんちょんと触っていた。エスにもそれが鬱陶しく思えたが、特に表情を変える事もせずに、「う~ん、…そうですねぇ…」と悩んだ。

 今は、体が重くて到底体を動かす気にはなれなかったが、日曜のフリスビードッチボールくらいであれば、喜んでできそうな気がした。ただ、エスも、リリックと同様に『楽しいか?』を気にした。エスは、マンハッタンカフェが所属しているチームの人の事なんて全く知らないし、フリスビードッジボールなんかもあんまりやったことがないから、そもそも競技として楽しいのかも知らない。しかし、言葉を聞いてみた感じでは楽しそうである。

 エスは、それでも体の重みを思考の端の方に感じながら、――どうしようか?と悩んだ。どちらに転んでも心がモヤモヤしそうな気がする。

 フリスビードッジボールはしてみたい気がする。しかし、そこでつまらない目や嫌な目に遭うのであれば嫌だ。ただ、嫌な目に遭うのは確定している事ではない。エスからすると、楽しいのじゃないかという希望の方が強く見える。その縁に立って、エスはまた、どちらの方がより、自分がモヤモヤしないで済みそうか考えてみたが、やっぱり、どちらに転んでもモヤモヤしそうな気がする。だから、エスは、――楽しそうかもしれない、という方に希望をかけると、モヤモヤを強引に突き抜けて、「行ってみたいと思います」と答えた。

 田上は、自分の脇をくすぐってくるタキオンの手を、身を捩って避けながら、エスの顔を見て、「ああ、分かった」と答えた。

 

 田上は、それからエスに「体が重いんだったら、早く帰って、暖かい風呂に入って、ゆっくりと眠った方が体にいいよ」とタキオンに抱き着かれながら、エスに言い残して去って行った。タキオンは、今回はエスに対して何も言わず、ただ田上を引っ張るようにして、抱き着いたままだった。その為に、田上は若干タキオンに引きずられながら、エスに話していた。

 エスは、田上とタキオンが、散々イチャイチャを見せつけていった後ろ姿を見送ると、また空を見つめた。空は、先程と変わらず、小雨を降りつけてくる。ここまで長く小雨が続くと、流石に肌にも若干の寒さを感じるようになった。けれども、すぐに動こうとはせずに、また先程のフリスビードッジボールの事を考えていた。しかし、考えても考えても、答えは出てくる事はないし、時間が経てば経つほど、小雨は肌に染み込んでくるようになった。だから、本当に風邪になってもいけないと思って、エスは、重い腰をよっこらしょと上げると、気怠い足取りで寮の方へと向かって行った。

 

 エスは、田上に言われたように、とりあえず風呂に入って体を温めた後に、食堂でご飯を取って、それから、自室で少しぼんやりした。

 そして、数時間ほどぼんやりすると、いつもよりも大分早い時間に寝ることにした。同室のアルファは気のいい子だったので、自分の机で勉強すると言っても、エスが寝るために部屋の電気は消して、机の所だけに照明を当てた。それでも、眩しい事には眩しいので、エスはアルファの机に背を向けて、ベッドに寝た。静かな部屋に響く鉛筆の音が心地良いかもしれないと思ったが、次には、うるさいと思いもした。

 エスは中々寝つきが悪い性質だった。寝付くまでに何度も目を開いたり閉じたりするので、明かりがあるだけで少し鬱陶しかった。近頃は、アイマスクでも買ってみようかな、と思っている所ではあるが、大体アルファが寝ている時に自分も一緒に寝るようにしているので、問題が目の前に迫ってくる時になって、アイマスクを買わなかったことを後悔した。

 そこに輪をかけて、今日の寝付きは悪い。いつもよりも大分早い時間に寝たからだ。体調が悪いと思って寝てみたはいいものの、眠気自体はそこまでなかった。ただ、眠りによって、何かが回復するのかもと思って、布団の中に入ってみたのだが、目を瞑っている時間より開けている時間の方が多かった。

 エスの中では、このままベッドでごろごろしててもいいのかもしれない、という思いがあったが、同時に、早く眠りに就いて、体を楽にしたいという思いもあった。体は、相変わらず、何処か重苦しく、気付かないくらい小さな力で、じんわりと締め付けられているような感覚だった。

 締め付けられていると思って初めて、締め付けられている事を実感する感覚だった。エスは、アルファがいつも勉強中につけているクラシックを、つけてくれるように頼んでみようかと思った。今は、寝ているエスに気を遣ってか、イヤホンをして勉強していた。しかし、イヤホンをしていると思うと声をかけづらいし、勉強に集中していると思っても声をかけづらい。

 エスは、暫くベッドの上でごろごろしていた。体が凝って、仰向けになろうとしては、アルファの机の照明を鬱陶しく思い、また横を向く。そして、また仰向けになって、横を向く。そんな事を何度か繰り返しているうちに、嫌気が差して、体を起こした。しかし、また体を起こした途端に、何もやる気がなくなってしまって、暫く恨めしそうにアルファの背中を見た後に、ベッドの方に倒れ込んだ。

 そわそわと落ち着かない嫌な時間を過ごした。こうなってくると、無理に寝ようとするより起きていた方が健康のように思う。しかし、眠って体を楽してやりたい気持ちもある。その考えの狭間で、エスは、いつまでもいつまでも迷い、結局、その四十分後くらいにトイレに立ち、机から自分のスマホを取ると、音楽をつけようと思った。だが、音楽をつけようとスマホをいじっているうちに、自然と指はウマッターのアプリをタップしていた。

 

 十一時付近という夜中ではあったが、エスの暇が潰せるくらいには、皆、熱心にウマッターに文章を書き込んでいた。丁度、人気のアニメが放送されているらしく、エスがフォローしている人たちの幾人かが、アニメで起こった何かに、熱心に『うおおぉぉぉ』と打ち込んでいた。

 エスは、そのオタクらしさに少し惹かれたが、別にそのアニメを見ようとも思わなかった。元々、アニメはそこまで見る性質ではない。アニメ映画なら見るが、毎週放送されているようなアニメは、毎回その時間帯に動けなくなるという、縛りを設けなければいけないため、あまり好かなかった。録画でいいじゃないかという反論も出てくるが、そもそも、アニメ自体が尺が長いので嫌だった。

 そこで、小説はどうなんだという反論が出てくるかもしれないが、小説だって、好きな時に読んで、好きな時に借りて、つまらなかった小説は読まないで返却するときもある。

 そう思うと、アニメ自体がエスの性に合って無いという考えも出てくる。アニメだって、つまらない時は観るのをやめればいいが、エスにはどうしてもアニメを熱心に観てみる気にはなれなかった。エスには、それがどうして観る気になれないのか分からなかったが、一つには、アニメを世俗的な物と捉えている可能性があるようにも思う。

 アニメを熱心に実況している裏で、唐突な長文がエスの目に飛び込んできた。これは、エスが近頃気になっている女性向けアイドル育成ゲームのキャラクターの内の一人、遠崎生真(とおざきいくま)を熱心に語っていたものだった。オタクという生物は、こういう事を突発的にする。なぜかは分からないが、唐突に語りたくなる瞬間があるのだろう。これはエスにもあった。好きな小説を語りたくなる瞬間だ。そういう事を時折やっているので、エスも充分にオタクの仲間と言える。

 この遠崎生真の熱烈な語りが、少し気になっているだけに、魅力的に思えた。その文章の中では、ゲーム自体の事も紹介していたので、どちらかというとゲームの方に惹かれた。勿論、遠崎生真も魅力的なキャラではあったが、熱烈な語りですらも,もう一押し足りないような気がしたし、エスとしては、赤い髪のキャラクターはあまり好みではなかった。

 スマホの明かりが少し眩しく感じて、目を瞬かせたが、またスマホの画面を熱心に見つめながら、長文を読んだ。読んでみればみるほど、そのゲームが面白そうに思えてくる。夜中で頭が働かなくなってきたのもあって、より強くそう感じた。これならゲームをダウンロードしても良いかもしれないと思った。夜中で自分の頭の動きが鈍っている事も分かっていたが、それなら、それを利用してこの際思い切って、ゲームをダウンロードしてやろうと思った。

 ゲームをそのまま始めるには、思ったよりもダウンロード時間を食ってしまったので、エスはダウンロードを待つ間に寝ることにした。そして、明日の朝に目覚めるころにはダウンロードが終わっているという寸法だ。この時には、案外早く眠りに就けた。他に何も考える事もなく、ただゲームがダウンロードし終わるのを待っていればよかっただけだからだ。

 エスは、すやすやと落ち着いた眠りに就いた。

 

 次の朝起きると、ちゃんとゲームのダウンロードは終わっている。エスは、ワクワクしながらゲームを起動して、初めのチュートリアルを進めながら、朝の支度をした。その時に、スマホを見つめながら歩いていると、アルファにぶつかったので、流石に怒られてしまった。エスも、これから学校だと思って、少し気を引き締めつつも、朝食を取って、トレーナー室でゲームの続きをしようと思った。

 トレーナー室には、もう田上とタキオンが居たが、エスが来る一瞬前くらいに来たようで、まだあのいちゃいちゃとした甘え声で、椅子に座ってはいなかった。

 タキオンは、自分のバッグを適当にそこらへんに放っていた。エスが入ってくると、タキオンは意味有りげにエスの顔を見てきた。

 ――大方、邪魔者が来た、とでも思っているんだろうな、と思いながら、エスは、自分がいつも座っている椅子に腰かけて、スマホの画面を開いた。

 ここで、そのゲームの音を聞くと、妙に音が大きいように思ったので、エスは少し音を下げた。それでも、その音量を気にして、結局消音でゲームを進めようかと思ったが、それではかっこいい声を聞くという、この女性向けゲームの醍醐味が無くなってしまうので、イヤホンをいそいそと取り出して、耳に取り付けた。

 ゲームの内容は、デビューする前のアイドル達をスカウトして、この世で一番のアイドルに育成する事だった。これが、意外に運も絡んだり、多才な演出があったりしたので、エスはのめり込んでしまって、危うくチャイムの音を聞き逃してしまう所だった。

 エスは、自分が俗なオタクになりつつあることに対しての嫌悪感と、それを敢えて受け入れるドキドキとを感じながら廊下を急いだ。しかし、次の瞬間には、嫌悪感は薄れて消え、――自分は今、新しい世界に一歩を踏み出そうとしているのだ、という幸福感にとって代わった。

 それでも、胸の奥には、少しの体の重みが残っているような気がした。

 

 授業は、ゲームの事ばかり考えていて、少し上の空だったが、唐突に当てられた問題もあまり難しくない問題だったので、エスは安心した。ノートの書き取りも、落書きばかりしていて、授業の最後に慌てる羽目になったが、なんとか終える事はできたので、上手くはいった。

 そして、エスは、またトレーナー室に戻って、ゲームをした。ゲームをするなら、教室でも良さそうだったが、エスは、自分がオタクだと思われるのが嫌だった。オタクはオタクでも、小説の方のオタクとして認識されるならいいが、乙女ゲームのオタクなんて、エスにはまだ嫌な物であった。タキオンと田上に、そのように思われるのも嫌ではあったが、この人たちはエスの生活圏に対して、そこまで近い人たちではない。今まで付き合ってきた友達に比べたら、この人たちの自分に対する印象など、どうでもいいのである。

 エスは、真面目な顔でストーリーを見る。中々に良いストーリーである。高松信夫や明日野小川なんかとも引けを取らないように、エスには思える。中々良い事を言っているようにも思うし、言っていないようにも思う。しかし、そんな事はどうでも良いと思えるくらい、プロデューサーという自分の一人称視点から、そのキャラクターがいちゃいちゃしているように思う。理想的な甘さである。まるで、傍目から見る田上とタキオンだ。

 と言っても、そのキャラクターは、凡人の田上には、似ても似つかないくらいのイケメンである。そして、一人称視点で見ている自分というプロデューサーも、ストーリー上では、そこまで特色の無いようなオタクの女性に好まれそうな言動をしている。エスも実際好みのような気がした。

 キャラクターは、ガチャで引くという仕様だったため、エスは、初めの時に自分の好みのキャラクターを探したが、都合の良い事に、ガチャで出てくる確率が高いキャラクターだったので、とりあえず、初めは、確率の低いキャラクターの為に、何度も何度もゲームをダウンロードしては、アンインストールするという事をしなくても済んだ。

 エスが今育成しているキャラクターは、遠崎生真ではなく、結城光(ゆいしろひかり)という名前のキャラクターだった。なんでも幼い頃に両親を亡くして、今は叔父の家で暮らしているらしい。これが高校生くらいの明るいキャラなのだが、――こんなキャラになんて重い設定を持たせたんだろうか? と思いながらも、見た目もエスの嫌いな見た目ではなかったため、この子をとりあえず『推し』と定めてみることにした。

 この言葉にも、若干俗っぽいと抵抗はあったのだが、一般的に、こういうのは『推し』と言うのだから仕方が無いと割り切ると、結城をとりあえずの推しにした。実は、この『推し』という響きに、エスが少しだけ憧れていたのもあった。

 これを自分も称すれば、オタクの仲間入りになれるのではないかと思った。これは、無意識上の物でもあったが、オタクの仲間にはなりたくないと思いつつも、一人の人間として、オタクという属性で集まっている仲間の一人になって、自分も立派な人間になれると思うと少し嬉しかった。エスは、ウマッターなどのネットに住んでいるオタクたち、その中でも社会生活を営んで、立派に経済的自立を果たしているお姉さま方を『立派な人間』だと思っていた。

 結城光は、見れば見るほど魅力的な人物に思える。第一に、こちらをとても好いてくれている事があからさまに分かる。偶に、ほんわかと恋愛的な好意を匂わせてくることもあるし、そもそも自分にとても依存してくれているようだ。「プロデューサーさんが居てくれないと、生きていけないよー」とニコニコしながら言う事もあった。エスとしては、こういうのは大好物である。

 結城光は、叔父と二人暮らしらしい。叔父がそもそも結婚していなかったので、小学二年生で両親が他界してしまった時から、その人の所で二人暮らしだそうだ。その事を、淡々と語られた時には、エスの目からは涙が零れそうになった。小学二年生で両親を亡くすなんてこの世はなんと残酷なのだろうか?

 結城は、もう気にしてないと言っていたが、それでも、エスが結城の気持ちを想像してみれば、感涙せずにはいられなかった。小学二年生と言ったら、両親の顔なんてはっきりと覚えているだろう。

 結城の家に招かれる機会があった。そこで叔父の顔も出てきた。結構渋めのイケメンおじさんだったが、エスは――かっこいいなぁと思うばかりで、恋心は抱かなかった。重要なのは、そのシーンの背景だった。幼い頃の結城と生きていた頃の両親が、写真の中に一緒になって映っていた。飛び切りの楽しそうな笑顔だった。今でもこういう笑顔はするが、この過去を知った後では、強がりで笑っているのではないかと思ってしまう。

 エスは、その写真を見た時に、また涙腺が崩壊しそうになったが、今回も堪える事はできた。――つらかったろう、と思った。そして、――私が癒してやるからな、と思った。心はすっかりオタクだった。

 

 その日は、授業の合間の休み時間に、もう二キャラ育成することができた。二キャラとも、ストーリーは悪くはなかった。選んで育成したので、見た目も嫌いではない。これも十二分に『推し』にしても良さそうではあるが、結城光ほどの感動は生まれなかったし、結城光ほど好きなキャラにならなかったため、この三人を同じ『推し』としてくくるのは如何なものだろうか?と思った。だから、エスは、『最推し』という格付けをしようかと思った。

 『最推し』の下に『推し』である。エスは、この概念があまり好きではなかった。『自分が好きな物はどれも“一番”好きなんだ!』という思想の持ち主だったからである。好きな物は、どれも最高レベルで好きであって、『二番目に好き』という物はどうせ碌でもない承認欲求みたいなもんだろうと思っていた。しかし、その思想に反して、エスは『最推し』というものに結城光を設定して、その他の二人を『推し』と格付けした。少し微妙な心持ちではあったのだが、今はそういうことなどどうでも良かった。自分の気持ちに素直に生きようと思って、手始めに、この三人を好きになってみて、悦に入っていた。

 トレーニングも、結城光の為だと思って、普通にこなした。田上からは少し観察の目を食らったような気がしたが、きっと自分を心配しての事だったのだろう。心配には及ばず、エスは今元気である。結城光のお陰で明日も生きられそうである。辛い事や嫌な事があっても、結城光に癒されて、明日を生きれそうである。何にも代えがたい事である。結城光は、きっと自分がこの世で最も大好きなのだろうと思った。

 

 その夜、エスは、自分の安いノートパソコンを見ながら、怒りに少しうめき声を漏らした。結城光の二次創作はどんなものかと思ってみたら、BLが結構ある。勿論、夢女系の創作も同じくらいあるのだが、BLが圧倒的マイノリティとは言っていなかった。何故なのか、想像はつく。結城光には、仲の良い親友が一人いる。桐谷大吾(きりたにだいご)という名前のキャラなのだが、これがBL好きの目に留まってしまったらしい。

 エスからしてみれば、考えもつかない事である。育成をしている時は、――仲の良い男友達だなぁ、と思って、微笑ましく二人のやり取りを見ていたのだが、二次創作の蓋を開いてみたらこれである。

 これだから、オタクは嫌いなのだ。一体二人にどんな恋愛描写があったというのだろうか? 欠片の匂わせもなかった、ただの仲の良い男友達の二人である。二人はむしろ、恋愛的な目線で見るよりも、友達という目線で見たほうが、遥かに尊いという事が何故分からないのだろうか? そもそも、どこからBLの目線が生まれてきたのだろうか? それが全く分からない。欠片も恋愛描写はなかったのである。何度でも言うが、『欠片も』無かったのである。それにも関わらず、こういう意味の分からないものが生み出されたという事は、オタクが勝手に妄想して編み出したという事である。一から二に妄想して生み出したのではない。零から一に妄想したのである。つまり、完全なる捏造である。これだから、オタクは嫌いなのだ。

 エスは、暫く恨めしげにBLというタグがつけられた作品のタイトルを見ていたが、やがて、マウスを動かすと、その作品の作者を一人ずつブロックしていって、目に入ってこないようにした。

 

 それから、エスは、――こうなったら自分で書いてやる! と意気込んで、原稿用紙を手に取った。別に、パソコンで書く事もできるし、面倒な時はそちらで書いている時もあるのだが、基本、小説は原稿に描きたいという謎のこだわりがあった。そうして、できあがったのをまたパソコンに打ち直して、ネットに上げるのは、少し面倒も感じていた。

 原稿用紙を手に取った時、不意に『幽霊』という作りかけの作品が頭の中に浮かんだ。エスは、暫く呆然として、その事にどう方をつけてやろうかと悩んだが、やっぱりどうでもいいや、と思うと、『幽霊』を書くことは、当分後回しにしておくことにした。

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