三十六、引っ越し
土曜の朝にタキオンと田上は、ベンチの前に集まったし、聞きつけた霧島と田中もそこに居た。国近と鳩谷は、二人いれば十分だろうという事で来なかった。鳩谷はともかく、国近が来なかったのは、田上の事を避けているんだろうと思う。
二人は、国近が田上に相談してきてからも何度か話しはしたが、どこか綱渡りをしているような感覚があって、二人はその綱の上で、どうにか落ちないようにしながら会話をしていた。二人の演技が功を奏してか、田上と国近の仲に微妙な空気が紛れ込んでいる事は誰も気が付いていないように思う。少なくとも、田上はそう感じている。その裏で、実は鳩谷も田中も霧島も気が付いていて、何か話しているんだとしても、それは田上も知らない。余計な口出しをすれば、余計な口出しをした分、余計な面倒事が起きるだろう。それだから、国近も田上もあまり表沙汰にはしたくなかった。
田上も国近も別に元々不仲という訳でもなかった。あの五人の内では田上が一番年上だが、年がどうという事もなく、皆等しく仲が良い。最近は、霧島の明るさに若干の苦手意識が出てきそうではあるが、それでも、それなりに仲良くさせてもらっている。
タキオンは、一度見たり話したりしたことがある相手という事で、田中と霧島と今結構仲良く話している。むしろ、田上の方が、これからの予定に思いを巡らせたり、タキオンと話している霧島と田中に嫉妬したりで、一人で黙している。タキオンは、まだ田上の嫉妬に気が付いていないようで、霧島の力自慢話になると、霧島が差し出した腕にぶら下がり、楽しそうに笑い声を出して、田上に話しかけた。
「圭一君! これは君じゃできないだろ?」
今まで俯いていた田上は、気怠そうに顔を上げると、できるだけ嫉妬心を押し隠しながら微かに笑って頷いた。タキオンは、その顔を見ても、暫くは霧島の腕で楽しそうにはしゃいでいたが、やがて、下りると田上の隣に座って、少し小声で「嫉妬してるんだろ?」と言った。田上は、迷惑そうな顔でタキオンの事を振り返ったが、反応したのは霧島の方が先だった。
「嫉妬?」と霧島が無神経に聞き返した。それを聞くと、田上はもっと迷惑そうな顔になったが、タキオンを見つめ続けたままだった。タキオンは、少し顔を曇らせて表情で「すまない」と伝えると、霧島の方を向いて言った。
「私たち付き合ってるのは知らなかったかな?」
田上は、俯いた後でその言葉を聞いて、――そこまで話すのか!? と目を見開いた。
霧島は、今飛び出てきた言葉に、どう配慮しようかと霧島なりに考えてから、こう答えた。
「ああ、あれだ。ササクレの方から聞いた事があったけど、あれは本当だったんだ?」
「そうだね」
「で、誰が何に嫉妬したの?」と田中がニヤニヤしながら口を挟んできた。そこは、流石にタキオンも田上に配慮した。
「それは秘密さ。君の頭でご自由に考えてみればいい。尤も、私はその人をあんまり刺激しない事をおすすめするがね」
田上は、自分の頭の上で行われている会話を、心持ちの悪い感じで聞いていたが、田中は「ふ~ん」と含みのあるように言ったばかりだった。――きっと目線はからかうように俺の事を見てるに違いない、と思いながら、田上は俯いていた。
ただ、話はそこで終わった。この場にマテリアルも到着したからだ。今では、田上もタキオンも見慣れてしまっているが、田中と霧島にとっては飛び切りの美人である。
マテリアルが来ることを聞いてなかった二人は、少し動揺しながら「おはようございます」とマテリアルに挨拶をした。マテリアルは、明るく礼儀正しく二人に「おはようございます」と頭を下げると、次に、田上とタキオンの方に向かって、スタイルの良いジーンズを軽く広げ、片手を上げて「おはよう」と言った。
タキオンは、普通に「おはよう」と返したが、田上を面倒臭そうに顔を上げると、マテリアルの顔を見ながら「今日は元気が良さそうですね」と言った。マテリアルはそう言った田上を見ると、陽気そうに微笑み「あなたこそ、今日は元気が無さそうですね」と言った。田上は、その言葉に、一瞬鼻に皺を寄せると、また俯いた。
そして、その直後に引っ越し業者が来た。
引っ越し業者は、ウマ娘が二人来ていた。田上は、面持ちのしっかりした方のウマ娘とやり取りをしていたのだが、少し落ち着きのなさそうな方のウマ娘は、田上の近くで待機していた、アグネスタキオンとナツノマテリアルを好奇の目でチラチラと見ていた。タキオンは、勿論GⅠウマ娘であるし、マテリアルは飛び切りの美人だったからだ。
それから、田上は、自分の自室まで引っ越し業者を案内して、今日までに準備していた段ボール箱を見せた。
トレセン学園の寮の前は、車の乗り入れが禁止だったが、そこら辺は業者の方も手馴れているらしく台車を持って来て、着々と運んでいった。田上の友達やタキオンやマテリアルも手伝ってくれたので、作業はすぐに終わった。
一つには、田上があまり物持ちでなかった事が幸いしたのだが、田上は予定よりも大分早く終わったことに大分驚いた。てっきり、十時から始まって、十二時くらいに終わるだろう、もしかしたら、それよりも遅れて終わるかもしれないと思っていたのだが、十二時よりも三十分~四十分早く終わった。これでも、まだ向こうに運ばないといけない段階である。だから、田上とタキオンは向こうの家へ行かなければならなかった。向こうには、引っ越し業者とは別に、電車で行く事になっている。引っ越し業者には鍵を渡してあるので、向こうが先についても作業は開始できるはずだ。
田上とタキオンは、引っ越し業者のトラックを見送りながら、自分たちも新しい家へと向かった。友達たちは、「これからやる事があるから」とはけていった。マテリアルは、やる事が無いのでついて来たがったのだが、ここでタキオンと少し揉めた。
タキオンは、どうやら本当に、マテリアルに自分たちの家の位置を知らせたくなかったようだ。マテリアルは、普通に善意で引っ越しの手伝いをしようとしていただけなので、タキオンに理不尽に拒否されたことに対して、結構腹を立てていた。
田上は、これに関しては、タキオンが悪そうだと感じていたのだが、中々真っ向からタキオンの意見を否定するのには勇気が要った。タキオンもマテリアルとの議論が白熱するにつれ、怒り始めていたからである。そして、横で傍観していた田上にも当然意見が求められた。
田上の心境としては、マテリアルは悪くないと思っているし、言ってもいいなら、マテリアルにも引っ越しの手伝いをしてもらって、できるだけ早く終わってくれた方が、田上には嬉しかった。田上は、タキオンとマテリアルどっちを取るか悩んだが、最終的にタキオンを諭すことに決め、こう言った。
「タキオン、…俺は、マテリアルさんも手伝ってくれて、引っ越しが早く終わってくれた方が助かるんだけどな…」
当然、タキオンは田上の顔を睨んだ。そして、言うべき言葉を迷うように、言葉と言葉の間が空いた。タキオンとしては、ここで田上を脅したとしても、マテリアルを自分たちの家に来させたくなかったのだが、脅す言葉が問題だった。「マテリアル君が来るんだったら、私は帰る」とはあんまり言いたくない。
そうすると、話はもっとややこしくなるし、タキオンは早く田上の家で二人っきりで夜を明かしたかった。二人きりの空間、二人きりの時間で、自分の思い描いたような甘い一時を過ごしたかった。
そこに、マテリアルが引っ越しの手伝いに来たところで、自分たちの間に大した時間が奪われるわけでもないが、タキオンはそこの所が我慢ならなかった。全部二人が良かった。二人の為の家だった。誰も何も介入しない、二人だけの天国の様な場所。そこを、俗物に知られてはならない。知られてしまえば、たちまち自分たちの天国の様に心地の良い住み処は、俗世間の空気を吸ってしまうような汚い場所になってしまうだろう。
しかし、今の田上は、マテリアルの味方だった。それも我慢ならない。我慢ならないが、ここで怒ってしまうと、これからの二人の時間が奪われてしまう。タキオンは、その間に立ってどうすればいいのか分からなくなり、怒りだけを体から沸々と煮えたぎらせていた。その為に、快活に笑う小さな顔に、激しい怒りの表現として、頬を赤く染めさせていた。
田上ならば、これで自分が怒ってくれると気付いてくれるはずだった。そして、田上は実際にそれに気が付いた。どちらにも進む事のできないタキオンが、今にも爆発しそうな顔で見つめてきている。今は、自分の為に怒りを爆発させないようにしてくれていると、田上は感じた。
田上は、そんなタキオンを、憐れな物を見るような目で見つめた。そして、同時に、その表情の中に悲しみと困惑も混じっていた。タキオンは、その表情を認めると、僅かに迷いを見せたが、この怒りを表現し続けないと、田上は自分の意見を聞いてくれそうになかった。
マテリアルは、田上とタキオンの表情を交互に見つめていたが、自分の不利を悟らざるを得なかった。タキオンがこうなれば頑固なのは、田上もマテリアルも知ってる。そして、田上が自分の彼女の事を捨てきれないのも知っている。だから、また自分はここでも負け犬となるのだ。マテリアルは、自分の運命かそれ以外の物か、何だか漠然とした運命に近しい何かを呪ったが、自分でも何を呪ったのかは分からなかった。ただ、苛々とタキオンを見つめながらも、心の中では負けを悟っている矛盾した状況だった。
タキオンと田上は、数秒見つめ合った後、田上がマテリアルの方を見た。マテリアルの思った通り、田上は自分に対して、申し訳なさそうな顔をした。やはり、この人は自分の彼女を捨てきれなかったのだ。
マテリアルは、その事が美徳なのかどうかは分からない。他の全てを捨ててまでも、恋人の為に尽くすことが、美徳と言えるのだろうか? 例え、親友を裏切ってまでも、恋人の事を大切に思うのが、本当に美徳だと言えるのだろうか? 愛する者に愛を誓って、その愛する人が暴君だったとしても、守り抜くのが美徳と言えるのだろうか?
そういうお話は何度も読んだことがある。マテリアルは、その度に――愛って美しいなぁ、と思う。けれども、その愛がいざ目の前にやってきて、自分の行く道に立ち塞がってみると、――愛って本当にこんな形で存在しててもいいものなのか? と思う。
幾ら意地汚い手段だとしても、その後ろに愛が伴えば、全ては美化されるのだろうか? 戦争の裏に、家族を守る愛があれば、その戦争は美化されるのだろうか? そうではないだろう。例え愛があったとしても、その愛の為に人を殺すことはあってはならないはずだ。それにも関わらず、お話の中での愛は美化される。戦争の裏に家族愛があれば、家族を守ることは大切だと説かれる。
その一方で、人を殺す事はいけないと言う時もある。主人公は、葛藤するが、結局家族を守るために人を殺す。そして、結論は『愛は美しい』だ。当事者になれば、美しい愛に無残に撃ち抜かれるのだから堪ったものではない。けれども、マテリアルは今目の前に居る二人の間の愛を認めると、――自分もこんな愛がほしい、と願った。
田上は、結局タキオンの事を想いながら、優しい言葉をかけて、マテリアルの方には、「すみません」と少し頭を下げた。マテリアルは、苦々しげな顔をすると、「いいですよ」と言った。
田上は、もう一度マテリアルに頭を下げると、タキオンに「行こう?」と言って、その手を引いた。これによって、タキオンの怒りは急激に萎んでいったが、代わりに胸の内に現れたのは、自分の要望が叶った喜びではなく、何にと言い難い後悔だった。
マテリアルに対してと言っても良いし、田上に対してと言っても良いし、自分と言っても良いし、他の何かと言っても良かった。ただ、田上に手を繋がれた時は、本当に田上に申し訳なくなった。けれども、それを口にすることは難しかった。田上は、いつものように優しく、自分の手を握ってくれた。例え、口に出さずとも、自分の後悔は、愛しいその人に伝わっているように思ったが、もっと正直に口に出して謝りたかった。タキオンは意気消沈して、今にも泣きそうになりながら、田上に手を引かれていった。
電車の席に、二人隣同士で座った。田上はタキオンに何も話さなかったが、怒っているのではないという事は、座る直前にチラリと見た表情から分かる。恐らく、タキオンに対して何か考えているのかもしれない。もしかしたら、それ以外の事について考えているのかもしれないが、何か考え事をしているという事だけは、確かに分かった。タキオンとしては、自分の事を考えていてくれれば嬉しいかった。
目的の駅へ数分の内に着くと、田上は、またタキオンに「行こう」と優しく言葉をかけて、手を繋いでくれた。タキオンは、あの家に着くまでに、もう少し機嫌を戻しておこうかと思ったが、どうにも無理そうな気がした。
引っ越し業者は、もうすでに作業を開始していて、田上とタキオンがあとから到着しても、特に頓着もなく挨拶をし、行っては返るを繰り返していた。
田上とタキオンは、二人で家の中に入った。もうすでに段ボール箱は何個か積み上げられている。家の中は、知らない匂いで満たされている。カーテンの無い窓からは、道路の向こうにある公園が見えた。明るい陽光に照らされながら、子供たちが元気に遊んでいた。田上は少しその光景に見惚れていたが、タキオンが隣で戸惑うように身じろぎしたのを感じると、田上はそこから目を離して、「俺たちも手伝おうか」と言った。
田上とタキオンは段ボール箱を玄関先で受け取って、適当な場所に置く作業をした。引っ越し業者の人は、気の良い人で、毎回田上に段ボール箱を渡すときに、嬉しそうに笑いながら「ありがとうございます」と言っていた。タキオンは、こんな些細な触れ合いですら嫉妬心が湧いてしまったので、――自分はもうしょうがないな…、と少し落ち込んでしまった。田上も流石に、その微妙な変化までは気が付くことができずに、――マテリアルさんと喧嘩した時から落ち込んでいるな…、としか考えていなかった。
荷物は無事に、昼の一時三十分を過ぎた頃に運び終えることができた。その頃まで、引っ越し業者さんは、昼食も食べずにせっせと働いてくれた。そして、終わった時にも全く嫌そうな顔は見せずに、笑顔で「手伝ってくれてありがとうございました」と言った。これには、むしろ田上の方が委縮してしまって、「こちらこそ、昼も食べずに運んでくださって本当にありがとうございました」と何度もぺこぺこと頭を下げていた。
それから、田上とタキオンは部屋に入ると、段ボール箱だけが積み上げられた殺風景な畳の部屋を見て、――これをまた整理しないといけないのか…、と思った。ただ、今は、やるべき引っ越しが重大なトラブルにも見舞われず、ほっとして、畳に気の抜けた様に腰を落ち着けてしまった。タキオンは、まだ落ち込んだまま何も話すことができずに、田上の横に体育座りをした。
タキオンの格好は、髪をいつものように後ろで一つ結びにして、コーヒー牛乳色と白の一松模様で彩られたノースリーブワンピースの下に、白い半袖シャツを着た物だった。髪に関しては、結構味を占めた様だった。田上が「可愛い」と言ってくれたのが大きいのだろう。服も、田上が気に入ってくれたと共に、自分も嫌いではなかったため、好んでスカート類の物を着た。あまり丈が短い物は、田上も自分も好まなかったため、大概長めのスカートだった。
タキオンは、そのスカートをたくしあげて、足に沿わせ、きゅっと体を縮めながら体育座りをしていた。田上は、そんなタキオンを、今からどう声をかけてやろうかと思っていたが、不意に、自分の腹が減っている事に気が付くと、「腹が減ったなぁ…」と独り言を言った。
そして、一人でそこらをうろつくと、段ボールの中身を漁ったが、あったとしてもお菓子ばかりというのは、自分でも知っていた。そこで、外食か、コンビニなどで何か買ってくるかと思ったが、それをするには、タキオンに何か声を掛けなければいけないだろう。
田上としては、タキオンに怒っているという事は全くなかったのだが、こうタキオンが黙していると、自分にまで怒りが向けられているのじゃないかと思って、少し面倒だった。
田上は、怒っているかもしれないタキオンを刺激して、またいざこざを起こすことを少し恐れていた。それでも、自分一人で、黙って外に出るのも、また面倒事に発展するかもしれなかったから、後ろからタキオンの肩をそっと叩くと言った。
「外食か、近くの店で何か買って、この家で食べるか迷っているんだけど、…タキオンはどうしたい?」
当然、タキオンは何も答えられなかった。唐突に話しかけられても、そもそも口が開く事に慣れていなかったので、話したいと思っても、口が言う事を聞かなかった。
田上も、それは察することができたから、タキオンが答えやすいように「外食?」と聞いた。タキオンは、微かに首を横に振るだけした。分かりづらかったが、田上はタキオンが首を横に振ったと解釈した。そして、もう一度「家で食べる?」と聞いてみれば、タキオンは明確に首を縦に振ったので、田上はしっかりと理解できた。
それから、またタキオンに「一緒に買いに行くか?」と聞こうと思ったが、これはあんまり望みが薄そうだったので、初めから聞かない事にした。その後に、田上はタキオンに「じゃあ、俺がお前の分も含めて買ってくるわ」と告げて出掛けて行った。部屋から出る間際に、「ラーメンでいいだろ?」と田上が聞いた。タキオンは、コクリと田上の顔を見ないまま頷いた。そして、田上は出掛けた。
タキオンは、実の所、田上に行ってほしくなかった。昼食なんて買いに行かないで、自分の傍に居続けてほしかったが、どうにも間が悪かった。口を開く事のできるタイミングだったのならば、その様に告げていた。押し倒しても、田上には行かないでくれと頼んだだろうが、今は体が動きそうになかった。
タキオンは、田上が扉をガシャンと閉めて、出て行く音を聞くと、そっと後ろを振り返った。もしかしたら、自分の優しい彼氏がドアの前に立って「お前を置いて行くわけないだろ」と言ってくれるかもしれないと期待していたのだが、現実は、妄想の様に都合よくは行かない。田上は、しっかりとタキオンの昼食を買いに行ってしまっていた。
それから、タキオンは顔を戻して、ベランダの外の生垣を見た。生垣と言っても、あまり葉は生い茂っておらず、雑草ばかりが根元に生えていて、そこから透けて公園が見えた。ここからでも、子供が楽しそうに笑う声が聞こえてくる。近頃、こういう子供の声で、公園と近隣が揉めているニュースがあったが、こうして陽光に照らされた芝生が見え、子供たちの明るい笑い声が、遠くから聞こえてくるくらいなら、悪くはないだろうと思った。
田上が、「ただいまー」と言って帰ってきた。その声で、タキオンは今までの気分の落ち込みも忘れて、思わず玄関の方を振り返ってしまった。
田上は、そんなタキオンと目を合わせると、少し微笑んで「少しは元気が出たか?」と言った。
タキオンは、少しだけ嬉しそうに微笑みながら、微かに頷き、また外の方に目を戻した。先程から、子供たちが公園のフェンスをよじ登ったり、ベンチの上で飛んだり跳ねたりしているのが見えるのだが、それを観察していると、なんだか心が落ち着いた。自分の子供の頃と重ね合わせたりもしたし、自分が子供を産んだら、あんな子ができるんだろうかとも思った。ただ、タキオンは、それは田上には言わずに、じっと見つめ続けた。
田上は、タキオンの後ろを通り過ぎて行くと、「机を出してくれない?」と声をかけた。田上自身は、ラーメンを作ってくれるようだった。タキオンは、小さく「うん」と頷くと、壁に立てかけてあった折り畳み式の机を持って、「そこでいいのかい?」と再度聞いた。そこというのは、キッチンと隣接した部屋の事で、ここを二人の食卓にする予定だった。そして、玄関から入ってすぐの部屋が寝室兼田上の部屋となり、そこを通って右に曲がらなければ、食卓とキッチンには行けないという仕様だ。風呂やトイレ諸々は、玄関をすぐ左に曲がれば行き着く。
タキオンは、折りたたんであった四つ足を広げて、部屋の真ん中にドンと置いた。田上は手の空いた隙に振り返って、タキオンの方を見た。タキオンは、机の傍に腰を据えて、田上を見ていたので、目と目が合ったが、タキオンはそのすぐ後に目を逸らしてしまった。だから、田上は、優しく言った。
「別に、怒ってなんかないよ」
「……うん…」
これ以降会話を広げる余地もないように思ったから、田上は一旦茹でているラーメンを見に戻った。一瞬振り返るくらいで、麺がパッとできあがるわけでもない。沸騰した水の中で、泡に揺られているだけである。それで、田上もタキオンと少し話がしたかったから、その話題を探すように部屋を見回すと、丁度いいものを見つけた。
「テレビってどうする?」
この質問にタキオンは、田上の方を見て、静かに首を傾げてくれた。開いた窓から入り込む風が、その髪を微かに揺らした。
「壁にかけるタイプとかあるし、置くタイプもあるし、…そもそも、一緒に買いに行く? それとも、ウマゾンで買う? ……プロジェクター?」
田上がそう言い切ると、タキオンは無言のまま困ったように眉を寄せた。これは、タキオン一人で答えられる事でもないから当たり前である。さらに、今は落ち込んでいるから、あまり口を開きにくい状況でもあった。田上は、それを察すると、質問を答えやすいように一つに絞った。
「ウマゾンで買う?」
タキオンは、少しの間机を見つめて考えていたが、やがて、田上の方を向くとコクリと頷いた。相変わらず、声は出そうとしなかった。
それから、田上は二人分のラーメンをこしらえると、何もない部屋の中で、ただラーメンをずるずると食べた。時折、田上が話しかけると、タキオンは嬉しそうに淑やかに微笑んでから、コクリと頷いた。
昼食を食べ終わると、とりあえず、二人は皿をシンクに置いて、荷解き取り掛かった。田上が、一番初めに気にしたのは、やっぱり視線だった。だから、とりあえず、白いレースのカーテンを引いたのだが、タキオンが「外が見えるほうが良い」と言ったので、レースのカーテンは端に除けた。そして、タキオンは、網戸を開けて、足をベランダに伸ばしながら、外を見つめてアイスを食べていた。アイスは、田上がラーメンを買いに行った時に、ついでに買ったものだった。
タキオンは、いそいそとカーテンの取り付け作業をしている田上を時折見つめながら、ぺろぺろとアイスを舐めた。田上は、箱に入っている十本入りのアイスを買ってきたので、自分が食べていないところを見ると、タキオンの為に買ってきたようだった。
タキオンは、田上が、一緒にアイスを舐めていない事が寂しくもあったし、それによってできる事もあると思ったので、ある時不意に、田上の方にソーダアイスを差し出すと、「食べるかい?」と静かに聞いた。顔は、いつもの様な、からかう目付きが僅かに戻っていた。田上は、タキオンの顔とアイスを交互に見比べながら、暫く――何か裏があるのか? と警戒していたが、やがて、こう言った。
「お前、それ舐めただろ?」
「……ダメ?」とタキオンはあざとく首を傾げた。それに、少しの嬉しさを堪えるようにもう少し眉をひそめた後、田上は言った。
「舐めたんだったら食えよ」
タキオンは、表情に悲しみの色を見せた。それを見ると、田上もタキオンに弱かったから、「少しだけならいいよ」と言った。分けてもらう側が「少しだけ」というのも変な話であるが、田上は、差し出されたアイスを、小さく口を開けて食べると、口で軽く溶かした後はごくりと飲み込んでしまった。
タキオンは、それが少し不満だったので、今すぐ田上の傍に寄って、触れ合いを得たい気分だったが、生憎、それは、今、田上の周りに広がっているカーテンが邪魔をした。それで、タキオンは、外に景色を見ながら、ペロペロとアイスを舐めた。
カーテンの準備が終わると、田上は「やることがあった」と言って、荷物の中からいくつか書類を取り出した。タキオンは、その様子を――いちゃいちゃしたい、と思いながら、遠巻きに眺めた。田上は、少し忙しそうだったので、その邪魔をするのはあまりしたくなかった。
田上は、三十分後くらいに「よし」と言い、ペンを置くとタキオンに向かって言った。
「俺、これからこの書類を出しに役所に行くけど、…どうする? そんな時間はかからないと思うけど、一緒に来たい?」
タキオンは田上の方を振り返って少し悩んだが、「いいよ…」と寂しそうに微笑みながら言った。タキオンとしては、田上に心配されないようにと微笑んだのだが、田上の目にはそうは映らなかった。まだ、平気な声を出したほうが、そう見えたかもしれないが、どっちみち、田上は、タキオンが行かないと言っていたら、多少なりとも心配していたかもしれない。
田上は、心配で少し眉を寄せると言った。
「…来たいなら来てもいいよ」
タキオンはまた少し考えたが、答えはやっぱり、首を横に振るだけだった。田上は、この返答を聞いても中々動くに動けなかった。タキオンが、落ち込んでいるのは分かっているし、普段のタキオンであれば、結構どこそこに引っ付いてくるのも分かる。特に、落ち込んでいるときであれば、田上に甘えたくなっているのも、これまでの経験で分かるのである。
そんなタキオンをただ一人置いていくのは忍びない。ただ、書類も必ず出さなければならないものである。田上は、そこのところで迷いを持ったが、せめて、もう少し状況を確認しておこうと思って、タキオンにこう質問した。
「え、一応聞いておきたいんだけど、……俺に怒ってたりする?」
タキオンは少し間を開けた後、首を横に振った。
「じゃあ、俺と一緒に行きたくはないの?」
タキオンは再び少し間を開けた後、首を横に振った。田上は、そこでまた少し迷ったが、今度は、困ったような顔をしながらもこう言った。
「じゃあ、一緒に来てくれない? お前、やることないかもしれないけど、二人で歩くの好きだから」
タキオンはまた少し間を空けたが、今度は、田上の優しさに、少し嬉しそうに微笑んでからコクリと頷いた。
役所に向かう道すがら、田上はタキオンと手を繋ぎながら、「また、何か色々と買わないといけないな」と言った。タキオンは頷きこそしたが、何も言葉を返さなかったので、それはそのまま、田上の独り言となった。
それから、また田上は、別の事をタキオンに言った。
「あ、そうだ。俺、またトレセン学園の方に行かないといけないんだった。寮長の方に渡さないといけないものがあるから。…お前も来る?」
「んー…」とタキオンは小さな声で唸った。タキオンは、田上と一緒に行きたくもあったし、さっさと二人だけの家で触れ合いたくもあった。ただ、我儘を言った所で、田上もしなくてはいけないことはあるだろう。それでも、少しは田上に我儘を言いたい気分であった。
しかし、タキオンは不意に、自分が田上の家に泊まる用意を何もしてなかった事を思い出した。着替えなど何一つ持ってきていなかったし、暇を潰すための本などもだ。
「私も行かないといけない」と、タキオンは少し悩んだ後に言った。田上がそれに「なんで?」と返した。
「私の着替えとか、止まりに必要な道具を何も持ってきてなかった」
「ああ…。外泊届は?」
「…それだけは出した。…買い物は明日行くのかい?」
「ん?…どうしようかな?……なんか買いたい物でもあるの?」
「いや、…今日買いに行くんだったら、歯ブラシなんかは君の家に置いていてもいいかもしれないと思って…」
田上は、タキオンのその発言に少し怪訝な顔をした。
「…歯ブラシ?」
「…うん。……迷惑かい?」
「…迷惑じゃないけどね…」
その後は田上もなんと言えばいいのか分からなくなった。実際の所は、迷惑の心地がないでもなかった。タキオンが、「迷惑かい?」と聞かなければ露骨に嫌な顔をする予定であった。しかし、そう言われたことによって、田上も、タキオンを迷惑と言いづらくなった。いや、実際には迷惑ではないのだが、『洗面台にある二本の歯ブラシ』というのは、田上に同棲を連想させてしょうがなかった。タキオンの方もそれを知った上で、同棲という気分に浸りたいのだろう。
二人の間には、お互いの気持ちが分かっているにも関わらず、それに触れづらい変な空気が流れた。
タキオンは、役所の外のベンチで、田上の用件が終わるのを待っていた。駐車場には車が出ては入ってくる。おじさんが入れば、おばさんが入ってきて、時折タキオンに挨拶してくる人もいる。皆、ベンチにぽつんと座っている自分が何者という関係もなく、そこら辺の女性に対するのと同じように挨拶をして去っていく。
きっと、この人たちは自分が八歳年上の担当トレーナーと付き合っているなんて思いもしないだろう。もし、それと知っていたらどんな反応をするだろうか? 応援してくれるだろうか? 憐れむだろうか? そんな人間はやめなさいと言うだろうか?
しかし、タキオンとしては、そんな反応はしないでほしかった。ただの赤の他人のように、にこやかに適当に挨拶をしてほしかった。所詮、赤の他人なのだから、人の生活には口を挟まないでほしかった。
そんな妄想をちょっとした後に、タキオンはそれについてくだらないと思った。
田上は、丁度タキオンがくだらない妄想を終わらせた後に、役所のドアを開けて戻ってきた。タキオンに目を留めると、「待った?」と聞いた。タキオンは、微かに笑ってから頷くと、田上と手を繋ぐために傍に寄っていった。
それから、二人はトレセン学園に一旦戻り、田上は寮長と少し話をして、これまで世話になった礼を一応言っておいた。ただ、今まで世話になったことは忘れてはいなかったのだが、間接的にでも「女は面倒ですよ」と自分の彼女を侮辱されたことも忘れていなかった。だから、田上は寮長に対して、もうモヤモヤしなくてもよくなったと、少しせいせいしたくらいである。
タキオンは、同室のデジタルにこれからする事を嬉しそうに、けれども、先程の気分が抜けずに、静かな口調で話した。デジタルは嬉々としてその話を聞いて、二人の間に起こるあれやこれやを勝手に妄想していた。そのデジタルの調子に釣られて、タキオンも少しだけ気分が回復したくらいだった。
その後に、タキオンはデジタルに礼を言って、部屋から立ち去ると、外で待っていた田上と合流した。タキオンは、着替えを入れる物として、キャリーバッグを選択したのだが、これは、すぐそこの彼氏の家に、週一で泊まりに行くには少し大袈裟なのではないか? と思った。それを、それとなく田上に言ってみると、「別にいいんじゃないか?」と気にしていない様子であった。ただ、タキオンの考えは、彼氏の意見を聞いても変わらなかったので、――今度、こういうお出かけに合う小さなバッグでも、選んで買ってみよう、と思った。それを、田上とのデートで買うのかは、また考えておくことにした。
田上は、今回電車に乗るついでに、駅で定期券を買っておくことにした。その時に、田上とやり取りをしていた駅員さんが「そちらの彼女さんは?」と聞いてきたのが、タキオンには嬉しかった。田上は、その言葉に少し動揺した様子だったが、特にその言葉は否定せずに「そっちの方はいらないです」と断った。
段々と、新居に住む実感が湧き始めてきた。
その後に、とりあえず二人は、家に荷物を置きに戻ってから、買い物をするために外に出た。この時には、もう四時を過ぎていた。
二人でぼちぼちと歩いた。特に取り上げるべき話題もなく、繋がれている二人の手だけに意識が向かった。田上は、少し居心地が悪かったので、放したいと思った。
タキオンは、このままずっとずっと手を繋いでいたかった。二人は、その力の微妙な均衡の所で手を繋いでいた。田上も根っから手を放したいと思っている訳ではなく、タキオンの事が大切なのは大切なのだが、なにもこんなに開けっ広げに手を繋がなくてもいいのではないか、と思っていた。二人が、恋人同士に見えるということが、田上にはどうしても気掛かりだった。
店に入ると、いい切りだと思って、田上が手を放そうともぞもぞと手を動かしたが、タキオンが田上を制御するようにじっと見つめると、田上もしょうがなさそうに手を繋いだままでいた。田上は、人の目がどうしても気になった。道行く人々が皆自分の事を見ているような気がするし、それも、頭の中では、自分たちの事を悪く思っているのではないかと疑ってしまう。実際には、そんな事も無いような気がするが、タキオンと手を繋いでいるとどうしても居心地が悪かった。
田上は、カートに籠を入れて、暫く入口付近に佇んでいた。これから自分がするべきことが分からなくなったからだ。その間にも、タキオンは田上に構ってほしそうに、カートを握っている田上の手に、自分の手を重ねてきた。
田上は、それにも気が付かずに、ぼーっと考え事をして、考えを纏まらせて、いざ進もうとするときになってから、タキオンが自分の手を握っている事に気が付いた。これでは、カートが扱いにくい。それで、今度は田上が――放してくれ、と圧を掛けんばかりに見つめると、タキオンは、田上を少し小バカにするような目で見つめ返してきた。
これには、田上もしかめっ面をして、タキオンの対処に考える時間を要した。今までの複雑な話し合いから、田上がこれと言った決め手となる言葉を探し出すことは難しかった。それで、ぽりぽりとおでこを書きながらタキオンを見つめると、困ったようにしながら「手を放してくれない?」と言った。
タキオンが、素直に放してくれたので、田上はいくらかやりやすかった。それでも、今一瞬考えたことから、二人の間の会話の必要性を見出したから、田上はカートを目的地へと押し動かしながら、こう言った。
「俺はさ、…いつも分からないんだけど、……何て言ったらいいかな?……んー……、男と女って一体何なんだろうね?」
「……生物学上の定義かい?」
「いや、……どうだろうね?………何て言ったらいいかな……。…うーん……」
「私と君との間の事かい?」
「いや、……うーん……、そう言っても良いっちゃ良いけど、………何か嫌になってきた」
「言うのが?」
「うん」
「……また、…変な事?」
「……変な事っちゃ変な事かもしれない」
「…どんな?」
「………どうだろうね…」と田上は誤魔化した。タキオンは、田上の顔を見ていたが、その時はそれ以上追窮しなかった。
二人は、タオル売り場に行った。それは、引っ越し後の挨拶をしておこうかと思って、そこに行ったのだが、そこである事に気が付いた。田上は、引っ越しの挨拶はタオルが適当だろうと思って、そこに行ったのだが、念の為スマホでも引っ越しの挨拶はどういう物が贈られるのか調べてみることにした。
すると、なんと引っ越しの挨拶は前日のほうが良いと、二つのサイトでは書いてあった。その他のサイトは明確な記載はなかったが、引っ越しでトラックが道を狭めたり、大きな音が鳴ったりするので、当日、はたまた前日には挨拶に行ったほうが良い、というのは道理があるような気がした。それをタキオンに相談してみると、「君がしたいんならすればいいんじゃないか?」と返してきた。
田上は、それを聞いて少し考えてみると、確かに田上の目的としては、自分が引っ越しましたよ、という周知であって、引っ越しでの諸々の迷惑に対する謝罪というのは、頭からすっぽりと抜け落ちていた。田上はそれからも、少し悩んでいたが、結局隣の二部屋の分と上の一部屋の分のタオルを買った。
「タオルなんて貰って嬉しいもんでもないけど、あったら嬉しいもんだからな」という田上の理論だったが、タキオンはそれにこう返した。
「皆がそれで動いてしまったら、この世にはタオルが飽和していくんじゃないかい?」
田上は、その言葉に――余計な事を…という目で、タキオンを見つめ返したが、「いいんだよ」と自分に言い聞かせるように、適当にあしらうと、次へと進んだ。
次は、家電売り場へと来た。そして、洗濯機の前で立ち止まりながら、「洗濯機は必要かなぁ…」と田上は唸った。
「今日の洗濯はどうするんだい?」とタキオンが聞いた。
「んー…、…コインランドリーで、とりあえずするしかないけどね…」
「…洗濯機は必要だろう?」
「んー…」と田上が唸ったところで、店員が通りがかったので、その店員を呼び止めてから言った。
「この洗濯機って、家まで配送してもらえるんですかね?」
「えー、…確かそうだったと思います。…担当の人を呼んできましょうか?」
「あー…、今ちょっと二人で考えるので大丈夫です。まだ悩んでますので」
そう言うと、どこかに向かうようだった店員は、そのまま足早に立ち去ってしまった。
その後ろ姿を見送った後に、タキオンは顔に少量のニヤニヤ笑いを浮かべながら言った。
「君も中々言えるようになってきたね」
「…なにを?」
「――二人で、って。私と一緒に居るのが当たり前になってきたようじゃないか」
田上は、少し嫌そうな顔をした後に、洗濯機の方を見て、言い返した。
「それじゃあ悪いか?」
「…君は褒めたらすぐに怒る」
「…褒められ慣れてないんでね」
「…あんまり怒ると彼女も傷つくよ」
タキオンはそう言った後に悔やんだ。会話をそちらの方に持って行きたかったわけではなかったのに、なぜだか、そちらの方に転がって行ってしまった。タキオンとしては、圧をかけたいわけじゃなかったし、田上とは楽しく話したかった。折角、デジタルと話して気分が回復して、田上とも少しは明るく話せる所まで戻ってきたというのに、今ので明らかに雰囲気が悪くなってしまった。
そして、田上もタキオンと同様に、つっけんどんな会話をしてしまった事を悔やんでいた。なんであんなに捻くれた問答しかできないのだろうか? タキオンの言うように、もっと物当たりの柔らかな口調で話せればいいのに…。
そう思ったところで、タキオンが田上の服の裾を引っ張ってきた。少し悲しげな表情をして、田上を見てきたから、田上はなんだか自分が嫌になった。
「ごめん」とタキオンが言った。
田上は、心の中で――お前のせいじゃない、と言ってから、口でも「お前のせいじゃない」と繰り返した。それでも、タキオンは悲しげな表情をしながら、「君とは普通に話せた方がいい」と言った。
田上は、心の中で――俺は良くない、と言った。それから、――話せた方がいい、とも思った。
そして、タキオンから顔を背けてから、洗濯機を見つめて黙り込んだ。タキオンは、相変わらず裾を握って放さないが、田上はそれを無視して洗濯機を見つめた。かと言って、洗濯機がどのような機能を持ち合わせて、どのような値段で、自分が買うのに丁度いいのかという情報は、全く頭に入ってこなかった。
タキオンが裾を引っ張ってくるのは、表面上では無視していたが、心の中では全く無視できていなかった。それで、また少ししてからタキオンの方を振り向くと、迷惑そうに「何?」ときつく言った。タキオンの顔は悲しげだったから、そう言うだけで、田上には罪悪感が湧いたが、田上はこう言う以外の言い方が分からなかった。
タキオンは、少し泣きそうな面持ちで、目を細めると言った。
「…私の事忘れてないかい?」
田上は、眉を寄せて、一度洗濯機の方を見て、それから、タキオンの方を見て、「何?」ともう一度繰り返した。タキオンもまた「私の事忘れてないかい?」ともう一度言った。
「……何?」と田上は機械のようにもう一度繰り返した。これは、本当にタキオンが何を言いたいのか分からなかったからだ。かと言って、タキオンの伝えたい事は、「私の事を忘れないで」という事だから、また「私の事忘れてるだろ?」と繰り返すしかなかった。
これによって、二人の間にすれ違いが起こった。田上は、本気で何を言っているのか分からない。要点を伝えてほしいのに、タキオンの方は「私の事を忘れてるだろ?」という訳の分からない事を繰り返すばかりだ。察しろと言っているのだろうが、そこから何を察すればいいのか田上には本気で分からない。タキオンとしては、これ以上ないくらいに簡潔に伝えているのだから、他の言葉で表す必要もないと思っていた。
田上とタキオンは、あと二三度ほどその問答をしていたが、どちらも一体お互いに何が起こっているのか分からなかった。だから、遂にタキオンは「何が分からないんだい?」と田上に聞き返した。田上は、もう一度隣にある洗濯機を見た後に、眉を寄せてから、「もういいよ」と首を横に振り、話から逃げた。
しかし、タキオンもただで田上を議論から逃がすような女ではないから、田上に「何が分からないんだい?」ともう一度聞いた。田上は首を振って、何も答えなかった。
すると、タキオンは、田上を思い切り睨みつけてから「もういい!」と言って、田上とは全然違う方向へ怒って歩いて行った。
田上は、タキオンが視界の端で去って行くのを感じながらも、洗濯機から目を離さなかった。今、タキオンが去って行く後ろ姿を見るのが怖かった。タキオンの怒りを直視するのが怖かった。呼び止めなければ、いよいよ幸せが去って行くというのは分かっていたが、それでも田上は何もかも怯えて、洗濯機の停止ボタンをじっと見つめる事しかできなかった。極度の集中のあまり、自分の周りから全ての音だけが消え去って、タキオンの足音だけが遠くから霞がかかって聞こえてくるような気がした。この世界に自分とタキオンの二人しかおらず、そのタキオンが今怒って去って行っていた。
田上は、状況があまり飲み込めていなかったが、周囲の喧騒が頭の中に戻ってくるにつれ、自分がタキオンを怒らせてしまったのだと気が付いた。そして、大きくため息を吐いてから、洗濯機の前にしゃがみこんだ。もうこのまま動かないで朽ち果ててもいいかもしれないと思いながらじっとしていたが、やがて、自分への戒めの為に今日のご飯は抜いておこうと思うと、田上は、タオルが三つしか入っていないカートを押して、レジに並んだ。