ケロイド   作:石花漱一

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三十六、引っ越し②

 レジの女性の店員さんは、普通に会計をしてくれていたが、死んだ目をしたような自分を、変人や精神病者として見ているんじゃないかと疑った。大きなカートに三つしかタオルを入れないなんて、そんな者くらいだろう。

 田上は、袋に入れられた三つのタオルを持って、店から出た。夕日が照っていた。タキオンと居た時の時分であれば、眩しくて綺麗な夕日だと思っただろうが、今はその眩しさが何処か刺すようで嫌だった。だから、店から出たあたりをフラフラと放浪して、誰も居ない公園を見つけると、そのブランコに腰かけた。時折、ブランコを漕いで風を感じてみたが、一時の楽しさは味わえれど、またすぐに、心の中は空しさと悲しさに覆われた。田上は、タキオンがもう学園の寮に帰ったものだと思って、自分の家へは、早く帰る気も起きていなかったのだが、タキオンは、店から出て暫く歩いた後に――圭一君とまた離さなくては、と後悔が襲ってきて、進路を学園から田上の家へと変えた。そして、その鍵の開いていない部屋の前で、ずっと田上の帰りを待っていた。

 田上が再び歩き出したのは、日が完全に落ちて暫く経ってからだった。体は重いし、何度か泣きもしたが、泣いたおかげで随分とストレスが発散できたので、歩く気力は湧いた。タキオンに謝る気力はなかった。――明日のフリスビードッヂボールで、どういう顔をしていればいいんだろう、というのがずっと気掛かりであった。そしてまた、道中でも時折泣きながら、家の前へと戻ってきた。

 

 家の前に着くと、自分の部屋の前に一人の女性が座っているのが見えた。暗かったので輪郭はあまりはっきりとしなかったが、付近の街灯の明かりがここまで光を届かせて、その栗毛がタキオンであるという事は分かった。タキオンは、田上の足音が聞こえると、顔を上げた。その顔は少し疲れているようだった。田上は、タキオンに何て声をかければいいのか分からなかった。少し泣きそうな心地もするが、もう充分に泣いた後で、心は少々そわそわとしながらも、大分落ち着きを取り戻していた。

 タキオンと洗濯機の前で揉めてから、田上はタキオンに何と言えばいいのか分からなかった。もしかしたら、それ以前からずっと、分からない心地はあったが、どうしても何と言えばいいのか分からなかった。

 一体、自分たちの前に立ちはだかっている問題がどんな様相を帯びて、どんな声で、どんな考えをしているのか分からない。タキオンも、そう感じているんじゃなかろうかと思う。現に、タキオンも、田上の事を見つめたまま、何も話さなかった。もしかしたら、タキオンは、田上から先に話してほしいのかもしれないが、そう思われたところで、田上には、折角できた彼女をどう扱えばいいのか分からない。

 田上とタキオンは見つめ合ったまま、暫く動かないでいたが、不意に、どこの家からかカレーの匂いが漂ってくると、田上はタキオンに向かって「ご飯何も買ってきてない」と言った。タキオンは、数秒後に「そう…」と頷いたが、その後に「こっちに来て」と手を覚束なく広げた。田上もタキオンの意図を測るために数秒じっとしていたが、やがて、タキオンの方にとぼとぼと歩き始めた。

 田上が、タキオンの前まで来ると、タキオンは「しゃがんで」と言った。だから、田上はのろのろとタキオンの前の地面に膝をついてしゃがんだ。その後に、タキオンはまた田上の方に腕を伸ばすと、「私に身を預けて」と言った。田上は、これが仲直りする最善の方法のように思えたので、多少体を強張らせつつも、タキオンの手に導かれるように、そっとそっと体重を預けていった。

「ごめん」とタキオンが田上に囁いた。その声が、やけに大きく石の廊下に響いたような気がした。田上は、少し考えてから、「俺の方が悪かった」と言った。

タキオンは、それには反論せずに「少しでも寂しい思いをさせて、すまなかった」と言った。田上は、心の中で――俺の方がすまなかった、と謝りつつも、口では「うん…」とだけ頷いた。それから、二人は、暫く何も話さなかったが、田上が口を開いた。

「俺……、俺の事…本当に好きなの?」

「好きだよ…」

 その言葉を聞くと、田上は自分への嫌悪感が湧いてきたが、今度はタキオンの方が口を開いた。

「あんまり自分を責めないでやってくれ…」

 そう言われたところで、田上の気持ちがすっと変わるわけでもない。むしろ、変われない自分が非常に鬱陶しく、嫌な物だった。

 それから、少しの間、タキオンは、田上を包み込むように抱き締めていたが、やがて、「こんな廊下じゃ、君も居心地が悪いだろう」と言うと、田上に玄関のドアを開けさせて、二人で家の中に入り込んだ。

 

 二人は、暗い部屋の中に電気を点けて、カーテンを閉めると、目を見つめ合わせた。そして、タキオンが田上に一歩近づいて、その頬を撫でると「ごめんね」とまた言った。

 田上は、腹の底がむずむずとして、言葉を発しようとすると、嘔吐物以外の何かが出てきそうな心地があったから、「うん…」と唸る事しかできなかった。それでも、タキオンは、田上の事を抱き締めて、頭を撫でて、田上が満足するまでそうしてくれた。

 田上は、ある時、タキオンに抱かれて、頭を撫でられながら、こう口を開いた。

「店で……変な事って言ったの覚えてる?…」

「…覚えてるよ」

「………俺の悩みとして、聞いてほしいんだけど…」

「…うん」

「………俺は、……お前が女子高生とかそれ以前に、……夫婦になるかもしれない人として、…どう向き合えばいいのか分からない…」

「…うん」

「………お前と向かい合ってみると、…愛とか恋とか、そういうものについて考えてみるけど、……どうにも、俺にはそういうのは難しそうに思う…」

「…うん」

「…………俺は、………俺は、………お前を傷付けてばかりだ……」

「………君に貰ったものはなにも傷ばかりじゃないよ…。今こうして抱き締め会えている事が、私には嬉しいんだよ」

「………俺は、あんまり……嬉しくない…」

「…うん…」

「………別に、…お前の事が嫌いって言うわけじゃない。……お前の事は好き…。………でも、……前も言ったかもしれないけど、…俺じゃあ、人一人分以上の命を背負うには、荷が勝ちすぎる…」

「うん…」

「………別れれば、少しは楽になるかもしれないって思うんだけど、………お前は嫌だろ?」

「…うん…」とタキオンは、ため息を吐くような返事をした。

「………ごめんね」

 そう言ってから、田上は、少し身動きをしようとしたが、頭を撫でていたタキオンの手が、田上の頭を放さなかったため、身動きはできなかった。それで、田上が小さく「タキオン」と呼び掛けると、タキオンがそのまま言った。

「………私って子供っぽいと思うかい?」

「……いや?」

「………マテリアル君と喧嘩した時の私は嫌いかい?」

「…いや」と田上は、少々掠れた声で答えた。

「………すまないね……」

 そう言ってから、タキオンは田上の頭を放した。ここで、二人は顔を見つめ合わせた。午前中の頃よりかは、二人共多少はさっぱりとした顔つきになっていた。

 田上は、そんなタキオンの顔を見つめながら、目を細めると、「どうしようか?」と言った。タキオンは、辺りをチラリと見ると、「お腹が空いたな」とまた、田上の顔に目を戻しながら言った。田上は、暫く、迷うように目を泳がせていたが、やがて、タキオンに目を留めると、力無く「俺は疲れた…」と言った。それから、とぼとぼと食卓の方に歩いて行って、そこに座った。

 タキオンも田上に続いて、その隣に座ったが、田上が力無く手を伸ばしてきたので、「なんだい?」と聞いた。

 田上は、視線を下に落とした後に、タキオンを見て「俺の話を聞いて…」と言った。

 タキオンが「いいよ…」と頷くと、田上はまた迷うように、手をもぞもぞもぞもぞと動かした後に、「膝枕でもいい?」と聞いた。

 タキオンは、特に断る理由もないので、「いいよ」と言って、正座をした。ただ、田上は別に正座じゃなくても良かったので、そのようにタキオンに言った。そして、タキオンの胡坐の上に、荷物から引っ張ってきたクッションを一つ置くと、その上に頭をのせて落ち着いた。

 それから、田上は上を向いて、覗き込んでくる自分の彼女の顔を見つめた。上から光を落とす電灯によって、タキオンの顔は陰になっていたが、その顔が優しく微笑んでいる事は分かった。

 田上は、タキオンの頭から垂れる髪を触るために、腕を上げた。一二度空中を人差し指が掻いたが、タキオンが、頭の位置を下げて、届きやすいようにすると、田上は、タキオンの顔の横に流れる髪を、人差し指でさらさらと撫でた。暫くお互いの息遣いしか聞こえない様な時間を過ごしていたが、やがて、田上が一呼吸を入れて言った。

「……俺は、……傍から見れば、幸せに見えるんだろうなぁ…」

 タキオンは何も答えずに、彼氏の顔を愛しげに見つめながら、目の下辺りを人差し指で擦り撫でた。

「……タキオンは、……俺の事、幸せだと思う?」

「……んー……、幸せ時々曇りかな…?」

「……そうかもね…。……いや、……思ったよりも、曇りが勝っているかもしれない…」

「…そうかい?」

「……お前一人の命を背負うのは重荷だよ…」

「…そう…」

「………何も成長してない……。体や経済力は大人になったのに、お前一人を背負う覚悟すらできない…」

「……そうかもしれないね…」

「…………お前も……妙な奴を好きになったな…」

「……そうだね…」

「………俺の理想って、高すぎるのかな…?」

「…どうだろう…?」

「………いざ、お前や生まれてくる子供の命を背負おうと思ったら、俺じゃあ責任が取れないような気がするんだよ…」

「…うん…」

 田上は、それから暫く、話をやめて、タキオンの髪を、指先でくるくるといじったり、タキオンの手をニギニギしながら遊んでいたが、やがて、タキオンに向かって「お腹が空いたか?」と問いかけた。

 タキオンは「少し」と頷きこそしたが、田上に、食べ物を求めるような仕草や言葉は吐かなかった。

 田上は、そんなタキオンを見ながら、――ご飯を買いに行かないとなぁ、と思ったし、――タキオンとずっとここに居たいなぁ、とも思った。

 タキオンも田上の心を察するように、じっと黙って傍に居てくれたが、ある時、タキオンのお腹がぐぅと鳴ったのが、田上にもタキオンにも聞こえた。

 それで、田上がタキオンの顔をじっと見上げると、タキオンは恥ずかしそうに口角を上げながら、「聞こえたかい?」と聞いた。

 田上もそれにつられて少し微笑むと、「やっぱり夕食食べたい?」と聞いた。タキオンは首を横に振ると、「君が、私と居たいって言う分だけ、ずっと傍に居るよ」と返した。

 田上は、それを聞くと、安心したような困ったような表情をしながら「ありがとう」と言った。タキオンに、夕食を食べさせるために、自分の傍から離れさせたくはなかった。そう思うと、田上は、タキオンから少し目を逸らしながら言った。

「……俺ってやな奴だよな…」

「…そうなのかい?…」

「……彼女が落ち込んでても、傍に居る事はしないで、買い物に行ったのに、彼女には、夕飯を抜いてでも傍に居てほしいと思ってる…」

「…そう」

「………夕飯食べたい?」と田上は、悲しげな表情で、タキオンを見つめながら言った。

 けれども、タキオンはやっぱり首を横に振って、微笑みながら、「大丈夫だよ」と繰り返した。

 田上は、それでも、彼女のお腹を空かせている事が気がかりで、具合が悪そうに目を逸らしていたから、タキオンは優しく慰めるように言った。

「私は空腹くらいだったら、一食抜くくらい耐えられるとも。…それとも、君が何か欲しかったりするかい? 昼のラーメンの残りがあるんじゃなかったかな?」

「ああ、……行かないで…」

「いいよ。…まだ話し足りないかい?」

 田上は、その言葉に微妙な表情をしながら、タキオンから目を逸らすと、近くにあったタキオンの手を触った。暫く、その手を軽く揉んだり、見つめたりしながら遊んでいたが、やがて、じっとタキオンの手を見つめながら、田上が言った。

「……こうやって、……自分の彼女と静かな部屋で、静かに、…楽しく穏やかに遊ぶのは俺の理想だった…」

「…うん…」

「実際にこうしてると、…楽しい…。……お前もそう思う?」

「そう思うよ…」

 タキオンの答えを聞くと、田上は口角を少し上げながらも、少し目を落として眉を寄せた。

「………聞かなきゃよかった。……嫌なこと聞いた…。…こういう……何と言えばいいかな? ……相手の気持ちを確かめるような質問はすればするほど、――本当かな? って疑ってしまう…」

「……そうだね…」

「………」

 田上はその後に何か言いたかったのだが、何を言えばいいのか分からず、ただタキオンの顔を見つめ続けた。タキオンも、田上の顔を見つめて微笑みながら、愛しげに、慰めるように、恋人の顔を指先で擦り撫でていた。

 

 田上は、またタキオンの手を触って遊んでいたが、先程よりも少し物憂げではあった。そして、暫く経った時にこう言った。

「…この……世の中の夫婦ってのは、どんな暮らしをしてるんだろう…?」

「…夫婦?…」

「…うん…。…お前のお義父さんお義母さんでも良いし、俺の親でもいい。どんな暮らしをしてたんだろう…?」

「…うん…」

「……新婚の時は当然知らない。少なくとも、俺の記憶がはっきりあるのが、小学一年生くらいの時からだから、それで言うと、…そこから母さんが死ぬまで、何にも変わってなかったと思う…。……初めは、恋からだろ?」

「…そうだね」

「……多分恋…。……お前は、…俺に恋してる…?」

「…してると思うよ」

「……俺も多分してる…。…いつか恋をしなくなる時が来るのかな?」

「…どうだろう?」

「………俺の前では、父さんと母さんは『家族』だった。でも、恋から始まったんだったら、『恋人』の瞬間もある…。………いつから恋人じゃなくなるんだろう…」

「…いつだろう?…」

「………俺、…今、お前の気持ちが少し分かる…。…自由でいたいって言ったお前の気持ち…。……俺もそんな感じ…。…恋人から進みたくないというか…、恋人が楽で良いというか…」

「…そうかもね…」

 田上は、そう返事をしたタキオンの顔を見上げた。

 タキオンは、先程よりか、少し表情を落としつつも、口角は上げて田上を見つめ返した。田上は、暫く何か言いたそうに、タキオンの顔を見つめていたが、やがて、目を背けてタキオンの手の方を見ると、それを慈しむように撫でた。

「………子供が生まれたら恋人じゃなくなるのかな?」

「…どうだろうね…」

「……何て言ったらいいのかな…? ………お前とこれからの人生を妄想したりもするけど、…それはどこまで行っても妄想のような気がする…」

「…そう…」

「………何言ったらいいか分からなくなってきた…」

「…なんでもいいよ」

「…………俺の事好き?」

「…好きだとも」

「……こういう質問が嫌なんだよな…」

「私は別に嫌じゃないよ…」

「………そうだね…」

 田上はまたタキオンの顔を見つめた。今回は、特に何か物言いたげな表情ではなかった。少しすっきりしたような表情ではあったが、悩みが完全に消え去った訳ではないので、まだ表情が明るいとは言えなかった。

 田上は再び、同じようにタキオンの手を触って、今の幸せな一時を、実際に、手の平や耳から、五感として感じ取っていたが、やがて、またこう言った。

「………こうして……、今は…幸せだけど…、触れ合わなくなった途端に、……幸せじゃなくなるような気がする…」

「…うん…」

「お前が、手を繋いだり、キスをしたがる気持ちも分かる……。…だけど、そうしているだけじゃ生きられないんじゃないかと思うから、俺もお前をはね除ける時がある…。……でも、……俺も、言っても、お前と似たようなもんなんだよな…。…恥ずかしいからしないだけ…。理性のある大人のふりをして、自分も大人として、立派な人間として認められようとしてるだけで、……それを隠してお前をはね除けている分、お前よりも酷い奴かもしれないな…」

 タキオンは、先程から田上の話を聞くために、できるだけ相槌くらいしか打たないで、田上の話を遮らないようにしていたのだが、ここで一歩踏み込んだ返事をしてもいいものかどうか迷った。

 しかし、これは言っても良いだろうと思ったので、タキオンは、田上の顔を見つめながら「知ってるよ」と答えた。

 田上は、タキオンの返事が、これまでと少し雰囲気が違っていたので、どういう意図なのだろうと思ってその顔を見た。

 タキオンは、微笑を浮かべて自分を見てきていた。

「俺が酷い奴って事?」と田上が聞くと、タキオンは首を横に振った。

「君が恥ずかしがり屋で、理性のある大人のふりをしている事」

 田上は、それを聞くと、思わず顔の中に微笑を浮かべ、タキオンから目を逸らした。

「…そうだね…。…お前なら分かってると思う…。…嬉しいのか嬉しくないのか…」

 そう言いながら、またタキオンの顔に目を戻すと、田上から見て逆さまのタキオンが微笑みながら言った。

「好きだよ…」

 田上は、また目を逸らして照れ笑いを顔に滲ませながら「ありがとう」と呟くように言った。

 

 それから、また暫くしてから田上が、タキオンの胡坐の中の枕に頭を乗せて、落ち着いた低い声で話し出した。

「結婚してる人って大人に見えるよな…」

「…そうだね…」

「……特に子供を持ってる人かな…? ……タキオンはどう思う?」

「…んー、…私も似たようなものかな…。…そこらの若いカップルは、まだカップルとして、…こう…幼さみたいなものがあるけど、そこに赤ちゃんが挟まった途端に、一回り大人になっているように感じるね…」

「………子供を持つってだけで、それなりに苦労が居るからなぁ…。赤ちゃんなんて、夜泣きもあるだろうし、結婚してない人は、しなくてもいい、自分以外のおしめの世話をしなくちゃならないからな…」

「……看護婦なんかはする場合もあるんじゃないかな?」

「…そうだな…。……看護婦って結婚してるイメージあるな…」

 そんな田上の偏見に思わず、ふふふと息を漏らして笑いながらタキオンは答えた。

「そうかい?」

「んー。…まぁ、してない人も居るだろうけどな…。……俺たちの親は、確実に『大人』だろ?」

「…そうとも言えるかもしれない」

「……そう…。……俺たちの前では『大人』…。…『親』。…それでいて、『恋人』の時期も二人の間にあった。……確実に、記憶には残るだろうから、二人の間が『恋人』であったという事実は変わらないはず…。関係性も……子供ができたからってそう簡単には変わらない…。という事は、やっぱり、子供の前では『恋人』の部分は隠すか…」

「…君が『親』だと感じているだけで、その『親』の部分の中に『恋人』の片鱗が見え隠れしてたりするんじゃないかな?」

「…どうだろう…? ………そうかもね…」

 田上は、そう言った後に、ため息を吐きながら、自分の横に見えるタキオンの腕を、じっと見つめた。タキオンは、見られている方の腕はできるだけ動かさないようにしながら、反対の手を使って、田上の頬を撫でた。

「…私たちがこういう事をしていたというのも、生まれてくる子には話さないだろうね…」

「…うん…。………実際に、親たちは子供の居ない所で、こういう風に触れ合ってたのかな?」

「……子供も、一人だけじゃない家庭はあるだろうから、…そうすると、こういう風に触れ合っていた可能性はあるだろうね」

「…あんなに大人に見えるのに?」

「…親だって、完全無欠とはいかないんじゃないかな?」

「……俺の知らない所で、…俺とお前がするみたいに膝枕でもしてたのかな…?」

「…私は、父さんが母さんの膝に勝手に頭を置いて、寝てるところは見た事があるけどね」

「…ふーん…お義父さん…、そんな感じなんだな…。…こっちは、十年来見てないな…」

 田上がそう言うと、タキオンは少し目を細めて田上の事を見た。

「…そうだね…」

「………はぁ…。…せめて、母さんが生きていてくれたらな…」

「……寂しいのかい?」

 田上もまた、タキオンと同様に少し目を細めて、諦めた様に微笑みながら、タキオンの顔を見返した。

「…寂しい…」

「……ずっと傍に居るよ…」

「ありがとう…」

 田上は、そう言うと、タキオンの手を握って、自分の顔の傍に引き寄せ、その手に少し躊躇うような力加減で、そっと頬擦りをした。

 

 田上は、また暫くタキオンの胡坐の中に頭を置きながら、静かに過ごしていたが、やがて、風呂の事が念頭に浮かび始めた。田上の生活に対する観念として、一食抜くくらいは別にどうでも良かったが、流石に、風呂は毎日入っておいた方が良いとは思った。

 だから、もうそろそろタキオンと離れないといけないなぁ、と考えていたのだが、その事はぼんやりと念頭に浮かぶのみで、まだまだ田上はタキオンと離れたくはなかった。一応、タキオンに「風呂に入らない?」と聞いてみたが、「君と?」と一度からかわれたのみで、その後は「大丈夫だよ」と断られた。なので、田上は未だに、タキオンの胡坐の中に寝転がっている。

 それから、田上は少し風呂の事は忘れて、自分の過去や、これからタキオンと送るであろう生活の事を考えていたが、やがて、また風呂の事を思い出してこう言った。

「…風呂…、どうしよう…?」

「…一緒に入るかい?」

 タキオンが再び何か言ってきたので、田上は顔に小バカにしたような笑みを浮かべた。

「…一緒に?」

「…そう。…誰も知らないよ?」

「………どうしたもんかね…」

「……余地があるのかい?」

「……ない事はないけどな…。……どうしたもんかな…」

「…立場に挟まれてるのかい?」

 タキオンがそう言うと、田上もまた微かにニヤリと笑みを浮かべた。

「…そうだね…。……少なくとも、…この場では入っても良いんだろうけどね…」

「…怖いかい?」

「…怖い?……どうかな…? ……そうかもしれない…し、…そうじゃないかもしれない…。……ただ、………お前と仲良くなりたいのに、…一緒に風呂に入る事を拒むってのもな…」

「入ってみるかい?」

 タキオンがもう一度そう言いうと、田上は困ったように鼻を鳴らして微笑した。

「……どうしたもんかな…」

「…入ってみれば案外どうって事無いんじゃないかな?」

「……どうだろう………」

 田上は悩んでいるそぶりをしていたが、タキオンはそれ以上何かを言うと、田上を追い詰めるんじゃないかと思って、何も言わなかった。

 一度、田上が「お前はどう思う?」と聞いてきたが、「私はどちらでもいいよ」と断った。

 それから、田上は暫く悩んでいたが、やがて、にっちもさっちも行かなくなったのか、タキオンの手を握りながら「寂しい…」と呟くように言った。

 タキオンは、それでも田上の行く先を示すような言葉は吐かなかった。これは、圭一君の悩みなのだから、自分が代わりに選択してあげてもしょうがないだろう、と考えたからだ。

 田上は、それからも暫く物憂げな表情をして考えていたが、やがて、こう言った。

「………俺がもしお前と風呂に入ったとして……。……どうすればいいんだろう?」

「……なんでもいいよ」とタキオンが言った。田上は、そう言ったタキオンの顔を見つめた。

「………俺も…お前と風呂に入りたい気持ちが無いわけじゃない…。…男だし、…結婚したいと思ってもいるし…。……でも、……でも、…そういう気持ちを抱いたら、俺は、――碌な大人じゃない、とか、――責任感が無い、とか、非難されるんだろうなぁ…」

「……大丈夫だよ…」

「………例えば、……今の時代、…性欲ってのは世の中から忌避されてる…。でも、…子供を作る以上、それがないと子供ができない…。…人工授精とか言われたらしょうがないけど…。……そして、……子供がいる人は、大人に見える…。幼稚な大人が持て余してるような性欲で、子供を作った。そういう人たちが大人に見える。……誰も、人間の獣らしい所なんて見たくないからな…。秩序立った暮らしを重んじれば、理性を持たずに、感情で動いてしまうような性欲なんて欲しくはない。……そうすると、…俺は性欲でお前を見てるのかもな…」

「……性欲も君の一部だろう?」

「……そうすると、蔑まれるべき人間になるわけだ」

「…そうかな?」

「……そこがおかしいんだよ…。……子供を持っている人たちは、必ず性欲を行使したはずなのに、大人に見える。でも、実際に性欲を持ってお前を見てみようとすれば、俺がバカみたいに思う」

「…大変だね…」

「………どうしよう…」

「…なんでもいいよ」とタキオンは再び繰り返した。

 

 田上は、暫くこれから入るべき風呂について悩んでいたが、やがて、タキオンを見上げるとこう言った。

「……そう言えば、……校則だと、トレーナーと生徒が付き合うのは良くても、不純な物はダメってあったな…」

「……一緒に風呂に入るのが不純?」

「…不純だよ。…裸になるんだから…」

「……そうだね…」

「………この場合は規則を破るべきなのかな…? …お前の為に…」

「…冗談だよ…。…悩ませて悪かったね…。そんなに本気にしてくれなくてもいいよ…」

「…………でも、……それはお前に対して不誠実になったりしないかな…?」

「……どうだろうね?」

 タキオンがそう言うと、今までタキオンの手を見つめていた田上は、またタキオンの方を見上げた。

「…………不誠実じゃない?」

「…どうだろう?」

 タキオンの答えが捉えどころがなかったので、田上はまた、タキオンから目を逸らした。

「………バレなきゃいいのかな…?」

「……なんでもいいよ」

「………バレなきゃ大丈夫だと思う?」

 田上は、タキオンの目を見て聞いたのだが、また、タキオンは捉えどころも無く「なんでもいいよ」と返したので、田上も、少し眉を寄せて、もう一度聞いた。

「…お前の意見を聞かせて…。どうしたらいいと思う? どうしてほしい?」

「……私?」

「…うん」

「………私は、…一緒にお風呂に入っても良いとは思っているけどね…。…かと言って、君を悩ませるのも申し訳ないような気がする…」

「…俺は、お前と入ったほうが良いと思う…?」

「………私は、本当にどっちでもいい。そんなに強い期待はしてない。校則があるのは分かっているし、それを破って、君が気に病みたくないんなら、そっちのほうが良いと思う」

「んん…」と田上は、小さく息を吐く様に唸った。

 タキオンの返事だけでなく、話題すらも捉えどころが無いような気がする。最終的に、自分はタキオンと風呂には入らないだろうと、ぼんやりと予想している。しかし、幸せな結婚生活や同棲生活が目前にある状態で、わざわざそれを避けても良いのかと思う。誰も見てないんだからいいだろう、と魅惑的な声が囁く。

 確かに、誰にも言わなければ、この家の中で起こったことは、外部に伝わらないはずだ。タキオンは他の人に言いそうな気配はあるが、言っても、それは口が堅い友人に少し話すくらいだろう。自分たちの生活が脅かされるようなことは、幾らタキオンでもしたくないはずだ。誰にもバレないのである。そして、自分はタキオンと一緒に風呂に入るという権利を持ち合わせているはずである。校則があるという点を除けば。

 感情のままに歩めば、自分はタキオンと一緒に風呂に入っていいはずだろう。世の中の夫婦も、実際にそうやって、一緒に風呂に入ったのじゃないだろうか? 自分もまさか今この場所で、タキオンに手を出そうと思っているわけじゃない。ただ、世の中にあるべき夫婦の一つの風景として、自分とタキオンも一緒に入ってもいいんじゃないだろうか、と思うだけだ。世間が、愛を清らかな物として定義するのならば、自分とタキオンは、欲に溺れて一緒に風呂に入るわけじゃないから、良いのだろうと思う。行動は不純でも、動機が清純であれば、世間は許してくれるのじゃないだろうかと、淡い期待を抱きもするし、そんな事では許してくれないだろうとも思う。

 懸念はある。これが段々エスカレートしていくんじゃないかという事と、やっぱり責任感が無いという事だ。責任感が無いという事に関しては、タキオンがまだ十八だからである。考えは大人びているとは言え、まだ高校も卒業していない人である。

 正直に言って、自分より大人らしいところはあるが、同時に、高校生らしい情緒もある。そんな傍から見れば高校生の女の子を捉まえて、風呂に入ったという話になれば、責任の所在を問われるのはきっと自分だろう。

 実際、これは清純なお付き合いをしているのかもしれないが、田上には、未だに、自分が『これまで恋愛の経験のない高校生』であるタキオンと、誑かさないにしても、大人としての責任を忘れて、一緒に高校生になって恋愛をするような光景が、朧げに思い浮かぶ。そして、それに対して、責任感が無いのじゃないかと思う。

 エスカレートは、そのままの事である。動機が清純であれば、という事を言い訳にすると、それさえあれば何をしても良いという事になる。動機が清純だからとタキオンに手を出して、後で悔やむ羽目になりかねない。

 ならば、せめて『裸は見せない』という一線はあるべきだろう。タキオンも自分の考えは理解してくれる。理解してくれるが、田上は、自分たちを繋いでいる『夫婦』という二文字が崩れ去って行かないか心配だった。

 無論、まだ二人は籍を入れてはいないから夫婦ではない。ただ、こうしてタキオンの懐に抱かれて、静かにぼんやりと話していると、実際の夫婦の様な心地はした。そして、自分たちの間に夫婦という二文字があるのが、少し気掛かりでもあった。

 田上の心の中では、――やっぱり、今後の二人の関係を守るためにも一線は必要だろう、という事で片付いた。しかし、それをいざタキオンに向かって言い出すとなれば別だった。

 タキオンも、自分の言う事を分かってくれるかもしれないが、タキオンにだって不満は溜まる。となれば、その不満を解消してあげるのが、彼氏の務めではないのだろうかという気がした。

 そして、その解消に一番手っ取り早いのが、一緒に風呂に入ってあげるという事だ。実際に交際する者として、他の異性には絶対に見せない裸を見せるのが、一番のお互いに対しての「好き」という気持ちの表現になるのじゃないだろうか?

 その表現を避ければ、タキオンは、田上が自分の事を好きではないのだろうかと、不信感すら抱くのではないだろうか?

 考えすぎのような気もしたが、田上は、今までタキオンと一緒に居るという事を否定してきた分、好きという感情の表現は、積極的にしてあげたかった。嫌いじゃないという事を伝えたかった。特に、また喧嘩をした後である。できる事なら、タキオンに好意を伝えたかったし、裸を見せるというのならば、それくらいしてやっても、別に誰も自分を責めやしないのじゃないだろうかと思った。それでも、その気持ちのままに直進しようと思うと、躊躇いがないではなかった。

 田上はそうやって、心の中で堂々巡りを繰り返して、答えが出ているはずの事柄に躊躇いばかりを覚えていたが、タキオンは、そんな田上を見つめたまま何も言わなかった。ただ、人差し指に田上の髪の毛を添えて、それを動かしては、流れる髪に幸福を感じて、優しく微笑みかけていただけだった。

 

 そのまま、田上は答えを出さないままに時間だけが流れた。田上もこんな事に悩まなければ、タキオンとの幸福な時間を享受できたのだが、息が詰まる様に思い悩むばかりで、一向に先へと進む事はできなかった。

 タキオンは、田上がどちらを選んだとしても、受け入れる準備はできていたのだが、田上が何も話そうとしなかったので、そのおでこにかかる前髪を、親愛を込めて、人差し指で弄って遊んでいた。

 タキオンとしては、本当にどちらでも良かった。ただ、こうして自分の膝の中で悩んでいる可愛い彼氏の顔を見つめていると、――この人にとって、自分は無くてはならない存在なんだな、と実感する。

 そして、それが嬉しかった。彼氏が悩めば悩むほど、自分はその人に取って必要な存在だと認識させられる。彼氏が悩まなくなった時は、どうなるかは分からないが、タキオンは――この人がずっと悩んでいてほしい、と心のどこかで思うくらいには、それが幸福で、嬉しかった。

 ただ、それもずっとしているわけにはいかなかった。その内に、タキオンはトイレに行きたくなってきた。初めの内は、まだ我慢できたから、そのまま動かなかったが、やがて、もう我慢が利かなくなって、田上に「トイレに行ってもいいかい?」と聞いた。

 田上も、トイレばかりは仕方がないので、「いいよ」と低い声で頷いた。表情はあんまり行ってほしくなさそうに不満げだったので、タキオンは小走りでトイレに向かうと、できるだけ早く用を済ませて、田上の下に戻った。すると、田上もトイレに行きたくなったようで、タキオンと入れ替わりにトイレへと向かった。

 タキオンが、自分の胡坐の中に、枕を整えて待っていると、程なくして田上が帰ってきた。田上は、一度タキオンの真正面に座って、そこから動きあぐねていたが、タキオンが自分の枕を軽く叩きながら「いいよ」と声をかけると、田上はおずおずとそこに頭を置いた。

 そして、仰向けになってタキオンの顔を見上げるとこう言った。

「もう……、お風呂に入りたいか?」

「私は別になんでもいいよ?」とタキオンは軽く答えた。田上は、また少し考えていたが、やがてこう言った。

「いいよ。お風呂に入っても」

「……それはどういう?……君と?」

「…ううん。……一人ずつ…。…ごめんな…」

「謝らなくてもいいよ。こうして、二人だけの時間を作れるように、君が家を借りてくれたってだけで、私は、言葉では言い尽くせないくらいに満足してる。…私の方こそ、君を無闇に悩ませてしまった。…ごめん…」

「…大丈夫。お前のせいじゃない。…どうせ悩む事だったかもしれない。……で、どうする? …まず湯を沸かさないとといけないけど、お前が先に入る?」

「…君に動く気ができたんなら、私はまずご飯を食べたいんだけどね」

 その時に、タキオンのお腹がまたぐぅと鳴ったので、二人は顔を見合わせて苦笑した。それから、田上が体を起こし、てタキオンの前に胡坐になると、こう言った。

「何か食べたいものでもある? …ラーメンしかないけど」

「ラーメンしかないだろう? 私としては、近くのコンビニでお弁当なんかを買っていきたい気分ではあるが、…君はどうだい?」

「……俺は…」と田上は露骨に嫌そうな顔をした。「…あんまり外に出たくはない…。…ラーメンなら作ってやっても良いけど…」

「なら、……選択肢は、君がラーメンを作るか、君が私と一緒にコンビニに行くか、それとも、私だけがコンビニに行くか。…私と離れるのが嫌なら、今日の所はとりあえず、ラーメンで済ませておくしかないかな? …それとも、私に買ってきてほしい食べ物とかあるかい? コンビニに行くくらいなら、私一人でもできるが」

「……タキオンはどうしたい…?」と田上は、まだ、気落ちが抜けていない声で聞いた。

 タキオンは、少し目を細めて考えると、こう言った。

「君がラーメンで良いって言うんなら、別に今日の所はそれでも良いけどね。…流石に、明日の朝もとなると、私も別の物を食べたくなるが…」

「……買いに行きたいの?」

 田上が、タキオンを引き留めるような調子で言うと、タキオンは優しく宥めるように微笑んだ。

「君がラーメンを食べたいって言うんなら、私は全然それでも構わない。 とりあえず、明日の事は明日に考えたまえ。今はどうしたい? 私に傍に居てほしいかい? 家にいてほしい? それとも、ラーメン以外の物を食べたいかい?」

 田上はそれに暫く悩んだ後に、「ラーメン以外の物を食べたい」と呟くように答えた。タキオンは「よし来た」と言うと、立ち上がったが、自分のキャリーバッグをじっと見つめた後に、田上の方を向いてから言った。

「私、財布持って来てなかった。君の財布を貸してくれないかい?」

 タキオンがそう言うと、田上は床に放ってあった手提げの中から、財布を取ってタキオンに渡してやった。それを受け取ると、タキオンはにこりと笑って、田上の頭をわしゃわしゃと撫で回してから、玄関の方に歩いて行った。

 田上は、それで多少満足したような笑みを取って、出て行くタキオンの姿を見送った。タキオンは「できるだけ遅くならないようにするよ」と田上に呼び掛けて出て行こうとしたが、その後にまた振り返ってニヤリと笑うとこう言った。

「お酒は要るかい?」

 田上は覇気のない声で「未成年が買うな」と切り返すと、タキオンはハハハと笑ってから、今度こそ扉を開けて出て行った。

 田上は、その扉を暫く見つめていたが、やがて、今日あった出来事の数々を思い出すと、小さな声で「疲れたな…」と呟いて、先程までタキオンの懐にあった枕に、頭を乗せて寝転がった。枕は、まだ、先程の温もりを抱いているような気がした。それを感じると、田上も少しは幸福だった。

 

 暫くしてから、タキオンは田上の部屋に戻ってきた。片手にレジ袋をぶら下げて、玄関から足だけ見える状態で寝転がっている田上に、「ただいまー」と声をかけた。

 田上は、家があまりに静かだったのと、疲れがたくさん溜まっていたのとで、目がトロリとして、今にも寝そうな心地になっていたのだが、タキオンが帰ってきた音でびっくりして目を覚ました。

 それでも、田上が多少眠たそうな目で襖から顔を覗かせると、タキオンも、自分の彼氏が眠たそうなのが分かって、「眠たいかい?」と聞いた。田上は、無言でコクリと頷くと、再び襖の陰に隠れた。あの様相からして、恐らくまた寝転がったのだろう。タキオンは靴を脱ぐと、家に上がった。

 それから、寝転がって目を瞑っている田上の肩を揺すると、「おーい、夕飯を買ってきたんだけどー」と声をかけた。

 田上は、瞬きをしながら眠たそうに唸り声を上げた。そして、自分の肩に置いてあったタキオンの手を掴むと、その手を自分の方に引き寄せ始めた。タキオンはウマ娘だったから普通に耐える事はできたが、それでも、田上がしてほしい事は分かった。自分と一緒に寝たいという事なのだろう。

 タキオンはそれを察すると、可笑しそうに微笑んでから、「ちょっと待ってくれ」と言って、買ってきたお弁当たちを机の上に置いた。それから、田上の手に導かれるように、その胸の中に抱かれていった。

 田上に抱きしめられていると多少苦しくもあったが、自分と田上の二人から幸せの匂いが発せられているような気がした。二人共、幸福の極致に立って、お互いの肌の温もりや息遣い以外は何も感じないような気がした。

 その内に、田上が目を瞑りながらも満足そうに微笑んで、「ありがとう」と呟くように言った。それで、タキオンを放すという事はしなかったし、タキオンの方も好きという気持ちが溢れてきてしまっていたので、田上の体に手を回して、自分もぎゅっとその体を抱きしめていた。これぞ幸福だった。二人の心臓の高鳴りから、幸福が溢れ出してきて止まらなかった。

 暫くすると、溢れ出す幸福も勢いを落としてきて、田上もタキオンを抱き締める腕を少し緩めたが、それでも、二人はこの幸せの匂いが好きだったので、二人抱き合ったまま、それから暫くも、二人だけの世界で、幸せに満ちた呼吸音を聞き続けた。

 その内に、田上の方からスースーという寝息の様なものが聞こえ始めてきたから、タキオンは、田上の胸に埋めていた顔を上げて、彼氏の顔を見た。まるっきり安心して、眠りに就いている顔である。これでは、折角自分が外に出て、食べ物を買ってきた意味がない。それに、寝かせたまま放っておく選択肢があるにしても、タキオンの衛生観念としては、眠くても一日に一回風呂は入っておいた方がいいという物があった。

 だから、田上の頬をぺしぺしと軽く叩くと、「おーい、寝ちゃだめだよー」と甘い雰囲気が抜けきっていない声で呼び掛けた。しかし、もう結構深い所まで寝ていたようで、ただ田上の頬を痛くないように叩いたところで、起き上がる気配はなかった。

 それで、タキオンは暫く彼氏の懐に入って、その腕に包まれながらどうしようか考えていたが、やがて、腕を慎重に解いて、起き上がると、田上の顔を見つめた後に、優しく揺すりながら「おーい、ご飯はどうするんだい?」と呼び掛けた。

 これで、田上はうーんと唸り、目を細めてタキオンを見たが、また、タキオンの手を取ると、自分の方へ引き寄せ始めた。これは、タキオンも嬉しかったのだが、一緒に引きずられて眠るわけにもいかなかったので、ちゃんと耐えると、「ご飯はどうするんだい?」と聞いた。

 田上も――タキオンと一緒に寝たい、と眠気に侵された頭で思っていたので、そう言われたところで簡単に引き下がりはしなかった。「来て…」と唸るように言いながら、タキオンの腕を引っ張り続けた。だから、タキオンも仕方なく折れると、田上の腕の中に抱かれて、再び幸せな心地を味わいながらもこう言った

「夕食はどうする?お風呂には入らないかい?…布団をとりあえず敷いておこうか?」

 田上は首を唸りながら横に振ると、「一緒に寝て」と断ったが、タキオンが「そんなわけにはいかないよぉ」と困った声を出し、何度か田上に質問を繰り返した。

 それで、ようやく田上も眠気が取れたらしく、タキオンを抱き締めていた腕を解くと、寝転がったまま、うーんと伸びを二三度繰り返した。

 それから、眠そうながらも、何とか開かれた目でタキオンを見ると、「何?」と聞いた。タキオンは、「夕飯はどうする?」と優しく聞き返した。田上は、まだ眠たくて動きが鈍い頭で、机の上にあるレジ袋を暫く見つめていたが、やがて、タキオンの方を見ると、「食べる」と言った。ただ、そこからすぐに動き出しはしなかった。二人共、見つめ合ったまま、まだほのかに香る幸せの残り香を嗅いで、心臓から血液を送り出していた。

 それから、暫くしてから、タキオンが微笑んだまま田上の顔に手を伸ばして、その頬を優しく撫でると、「立ち上がろうか」と言った。

 田上は、少々不満そうだったが、タキオンが体を起こすと、自分も一緒になって起き上がった。

 タキオンは食卓の準備を始めたが、田上はそれをただ黙って、眠そうな目でじっと見つめているだけだった。

 そして、タキオンが、食事を全て食卓に並べて、「さぁ、食べようか」と言うと、田上も割り箸を割って、目の前の食事を食べ始めた。丁度、時計の針が、夜の十時を指そうとしていた頃だった。

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