タキオンは余程腹が減っていたのか、ウマ娘盛りの弁当をパクパクと食べていた。その途中で、返し忘れていた田上の財布を手渡してきた。田上は、それを置く場所が見当たらなかったので、とりあえず、机の上の汚れなさそうな場所に置いておいた。
田上は、最初の食べる速度は遅かったが、その内目が覚めてきたのか、段々と食べる速度は早くなっていった。しかし、それでもタキオンよりかは幾分箸の進みが遅く、パクリ…パクリ…と一口一口を噛み締めるように食べていた。だから、タキオンが食べ終わった後でものんびりのんびりともぐもぐしていた。
そうしている田上に、タキオンは微笑みながら、少し忙しそうに「もう風呂を沸かしても良いかな?」と声をかけた。
田上は、タキオンの話をあまり理解できないままに、適当に相槌を打った。それで、タキオンも風呂場に向かったのだが、初めて来る知らない風呂場だったために、使い勝手が分からず少し苦戦した。
それでも、何とかお湯を丁度いい温度で出し切って、湯船の溜まり具合を見つつ、スマホで時間を計った。今後の湯を張る為のタイマーとなるべき時間を知るためだ。そして、良い頃合いで湯を止めると、また田上の所に戻って声をかけた。
「お風呂はどうする?…私が先に?君が?」
「俺、まだ食べてるから、先に入ってていいよ」と田上がのんびりと眠たそうに言った。だから、タキオンは「はーい」と返事をして、自分のキャリーバッグから着替えを取って、風呂へと向かって行った。
田上は、風呂から聞こえてくる水音で、ぼんやりとタキオンのしている事を想像していたが、やがて、はっと我に返ると、頭を振って、目の前の食事に集中し始めた。
タキオンは、その十数分後に体から水の匂いを漂わせて、上がってきた。
田上は、その少し前にご飯を食べ終わったばかりだったから、その後片付けをしている最中だった。と言っても、大概綺麗に食べてしまっているので、ゴミ箱に適当に捨てるだけだった。
タキオンは、その間に寝室の窓を開けて網戸にすると、そこから入る風を浴びながら「涼しー」と言っていた。畳の上に寝転がって、さも気持ちよさそうだったから、田上も早く後片付けを終わらせると、自分も風呂に入りに行った。
自分の思っているよりお湯の量は多めだったが、その分体を湯船に浮かべることができて、田上は良い心地だった。
風呂の後始末も済ませて、湯から上がると、田上は自分も多少体の疲れを取って、タキオンの所に戻った。寝室には、所狭しと段ボール箱が並べられていて、そこにまた所狭しと布団が敷かれていた。端の部分はもう食卓の部屋にはみ出していたが、それはもう仕方がないだろうという顔で、タキオンは一枚の布団の上に寝転がっていた。田上もそこに寝転がらなければならなかったが、いざ寝てみようと思うと、少し躊躇いが生まれた。
無論、これはゴールデンウィークや正月の時の帰省にも似たような事をしたが、今度は、監視する大人の目もなく、ただ二人きりで一枚の布団に入るのだ。
これまでは、二枚の布団を敷いて、タキオンが自分の布団の中に入り込んでくるというやり方だったが、今回は違う。受け身で布団の中には入れない。タキオンが勝手に入ってくるのではなく、田上が、タキオンと一緒の布団に入らなければならないのだ。その為に、一人用の布団よりも少しだけ大きめのサイズを買ったくらいなのだから。
買う際には、田上は「ダブルサイズが良いんじゃないか?」と提案したが、それはタキオンが断って、一人用と二人用の中間位のサイズを買った。どうしてもタキオンは二人でぴったりと寄り添って寝たかったらしいが、田上は、その衝動が落ち着いた時に、もう少し広めの布団で寝たくなるんじゃないだろうかと思っていた。しかし、結局、タキオンに負けて買ってやった。その時は、二人で寄り添って寝るのも悪くないような気がしたからだ。
だが、こうして布団に寝ているタキオンを目の前にしてみると、どうやら緊張が勝つようだった。だから、少々具合の悪い面持ちで、無言のままタキオンの横に座った。
タキオンは隣の田上を見上げると、風呂上がりの水の匂いを鼻で嗅ぎながら「もう寝るかい?」と聞いた。田上は、先程の表情のまま首を横に振ったので、タキオンは、一度返事を聞き受けてから数秒して、また田上に向かって話しかけた。
「私と寝るのに緊張してるのかい?」
田上は、躊躇うそぶりを見せつつも、こくりと僅かに頷いた。それを見ると、タキオンは可笑しいような困ったような顔つきで口角を上げた。
「正月の時も、ゴールデンウィークの時も一緒に寝ただろう?」
「……寝たけど、………今回は、……二人きりだから…」
「そうかい? 正月の時は幸助君が居たが、…ゴールデンウィークの時も二人きりだっただろう?」
「……ゴールデンウィークは、………同じ家にお義父さんやお義母さんがいた…。…今は二人きりだから…」
それを聞くと、タキオンは少し悩んだ後に、自分がかぶっていた厚めの毛布を片手であげて、田上が入りやすいようにすると、「まぁ、君もとりあえず、私の隣に寝転がりなよ」と言った。
「とりあえず、私の隣に寝ようじゃないか。それから、少し話でもしよう。寝るのは君のタイミングでいいさ。話すのだったら、君の寮の部屋でやってたことと変わらないだろう?」
そう誘われると、田上も、とりあえず、話すという事を目的にして、厚めの毛布の中、タキオンの隣に潜り込んだ。
これは思ったより居心地が良かった。ぽかぽかとするし、隣にはタキオンが居るし、ふかふかするし、幸せな心地もする。自分が思ったような緊張感はほとんどなかった。
ただ、まだ開けていた窓から冷ややかな風が入ってきたので、タキオンに「そこを閉めて」と頼んだ。
タキオンは、布団から多少体をはみ出させつつ、窓を閉めると、また毛布の中に潜って、田上と目を合わせ、嬉しそうにふふふと笑い声を漏らした。田上も一緒になって笑みを浮かべたが、次には、それが罪悪感に変わった。やっぱり、タキオンと一緒に二人きりで布団の中に寝るという事に、緊張感はあったようだった。それでも、田上は、タキオンが笑顔でいる事が嬉しかったので、自分とは別世界の幸せを眺めるような心地で、表情に微笑を浮かべていた。
それから、タキオンは田上の横で、田上と同じように、うつ伏せで寝ようとしたが、あんまり寝た時の具合が良くなかったらしく、田上の枕を奪い取っていた。ちなみに、タキオンの枕は布団を買う際に、買おうと思っていたのだが、買い忘れてしまっていた。
田上は、手の上に顎を乗せて、うつ伏せで寝ていたのだが、タキオンは暫く枕を良い位置にしようと、お腹の下に敷いたり、顎の下に敷いたりしていた。しかし、結局、いい塩梅の所が見つからなかったのか、仰向けに寝転がって、枕は田上に返してきた。
田上は、それを受け取ると、顎を枕の上に乗せた。そこで、ようやく話が始まった。
「それで?話したい事でもあるかい?」
「………ないかな…」と田上が言った。
その後に、タキオンが「うーん…」と唸ると、こう口を開いた。
「なら、もう一度私から謝らせてくれ。洗濯機の前で怒って帰ってすまなかった。…もっと君と話し合いをするべきだったよ…」
田上は、枕の皺をじっと見つめた。
「……お前のせいじゃない…」
「……こうして、普通に話そうとする私を、君は恨むかい…?」
「……ううん。…恨まない……」
その後に、――むしろ、ありがたい、という言葉が頭の中に浮かんだ。ただ、その前に置いた沈黙が田上の前に立ちはだかっていて、その壁を容易に突破できなかった。
そう思っているうちに、タキオンは「ありがとう」と言ってしまった。それでも、まだ文脈としては繋がるギリギリの所だと思って、自分に――言え、言え、と言い聞かせて、やっと「……むしろ、ありがたい…」と言い切ることができた。
タキオンは、ちゃんと文脈を察して、「普通に話す事かい?」と確かめるために聞いてきた。田上は、枕に顎を乗せながらも、僅かに頷くそぶりを見せた。
「…引きずるのはお互い良くないからね…。分かってくれて嬉しいよ…」
田上は、また僅かに頷いた。
また、暫く二人の間に、心地が良いのか悪いのか分からない沈黙が流れている時に、不意に、外から雨音がサーと鳴るのが聞こえた。
タキオンは、その音を聞くと、身を起こして、窓を開けて外を見た。冷たい風が入り込んでくるのと同時に、雨の音もより鮮明に聞こえるようになった。遠くの方では、時折、車が水をはねながら走って行く音が聞こえる。
タキオンは、暫くその音に耳を澄ませて、街灯の明かりを見つめていたが、田上が「寒い…」と呟くと、振り向いてから窓を閉めた。
田上は、タキオンが動くのと一緒に、顎を枕に乗せるのをやめて、横向きに寝転がった。タキオンは、窓を閉めると、また毛布に潜り込んで、田上の顔を見つめながら言った。
「もうそろそろ梅雨だね」
「うん…」と田上は低い声で返事をした。それから、少し間を空けて、タキオンが言った。
「もう明かりを消す? それとも、まだ話す?」
「……どうだろう…?」
「…じゃあ、食卓の部屋の方は、明かりを消しておこうか。そっちにはもう用はないだろ?」
「…水飲む…」と呟くように言うと、田上は立ち上がって、水道の所に行った。そこで、コップをまだ荷物から出していない事に気が付いた。夕食の飲み物は、タキオンがコンビニで買ってきた紅茶だった。だから、今から出すしかないのだろうと思ったが、今日は色々あって疲れたので、もう荷物から探し出して引っ張り出す気にもなれず、そのまま蛇口をひねると手に溜めて、ごくごくと飲み始めた。
タキオンはその様子を見て、苦笑しながら「行儀が悪いよぉ…」と言った。
田上は、そう言われたところで、コップを出す気にもなれないので、そのまま飲み続けた。
タキオンは、「多分、これかな?」と見当をつけると、段ボール箱を開けた。中は思った通り、食器が入っていたので、タキオンはそれを取り出すと、水を飲み終わった田上の後に、自分もコップに水を注いで、何杯か飲んだ。
それから、コップを水で濯いで、適当にそこらに置いておくと、田上に「電気を消すかい?」と問いかけた。田上は、眠そうな顔でコクリと頷いた。
タキオンは、それから、寝室の方の電灯の下にも立つと、そこから垂れる紐に手をかけながら「ここもしておくかい?」と聞いた。タキオンは、田上が眠そうな顔をしていたので、もう寝るのだろうと思っていたが、案外田上は首を横に振った。ただ、もう眠気が限界まで来ているような面持ちで、目も頻りに開いたり閉じたりしていた。
だから、タキオンは少し苦笑しながら「まだ話すのかい?」と問いかけた。田上は眠そうに唸っただけだった。それで、タキオンがもう一度「消そうか?」と問いかけてみた。
今回も、田上はしっかりと首を横に振ったので、どうやらまだ寝たくはないという事は、はっきりしているらしい。だから、タキオンは不満足げな表情で、口角を上げると、田上の隣の布団に潜りこんだ。
すると、田上が、また、夜食前の時の様に抱き着いてきたから、タキオンも少し困ってしまって「君ぃ…」と呼び掛けた。
「君、何がしたいんだい?」
「一緒に寝て」と田上が、タキオンのお腹に抱き着いて、そこに顔を埋めながら言った。
「一緒に寝るって言っても、私は今そうしている所だけどね」
「…ありがとう…」
眠いからなのか、話に脈絡はなかった。タキオンは、困った顔をしたまま、田上の頭を少し撫でたが、またこう言った。
「もう寝るかい?」
田上は、やっぱり首を横に振って断った。
「なら、何か話す事でもあるのかな?」とタキオンが聞いた。今度は、田上は声を出して「ううん」と言った。
「なら、何の為にこうしているんだい?」
「……一緒に居て…」
田上はくぐもった声でそう答えた。タキオンも仕方なかったので、田上を自分のお腹に抱き着かせたまま、その頭を撫でながら、暫く天井を見ていた。
田上の眠気が限界に近そうだったので、このまま放っておいたら寝てくれるんじゃないかと思っていたのだが、案外寝ない。
「圭一君、寝た?」と聞くと、必ず返事をする。これを数回繰り返した後に、タキオンも少し考え始めた。常人ならば、あれだけ眠気に浸食されていそうな顔をしていれば、次の瞬間には寝てもおかしくないものである。それを、耐えて今まで起きているという事は、何か理由があるに違いない。
理由は、これじゃないかというものがすぐに思い当たった。
――圭一君自身は、話す事はないと言っていたんだが、これは「話す事はない」というそのままの意味ではなく、「話したいのだが、何を話せばいいのか分からない」という状態ではないのだろうか? けれども、素直じゃない圭一君の事だから、「一緒に居て」と言う事しかできなかったのではないのだろうか?
ただ、こう思ったところで、本人も分からない事を、当てもなく引き出すのは難しい。最後に言った言葉は、「一緒に居て」である。
これは、寂しいんじゃないだろうかと思う。実際、今の田上は母親に甘える子供のように、無邪気に、タキオンに抱き着いてきていた。
そして、先程も「寂しい」と話す時があった。その時に、「母さんが生きてくれていたらな…」とも言った。
これを思い出すと、何だか掴み所はあるような気がしたが、これではタキオン自身が何を話せばいいのか分からなかった。「君のお義母さんはどんな人だった?」と聞く選択肢もある。「なんで、お義母さんが生きていてほしかったんだい?」と聞く選択肢もあるが、そういう切り口から話し出してしまうと、何だか自分の方に不満が残るような気がした。
それよりも、満足の行くタキオンのこれからの計画は、昔の自分の事を少し話してみる事だった。案外思いがけない所から、話が花開く事もある。直接的に攻めようとすると、話が別の方向に逸れて行ったり、その話題に対して、必要以上に重く考えてしまって、むしろ話がこんがらがったりすることもある。
そうなれば、タキオンは、日常のさりげない話から、お互いの過去が、徐々に優しく丁寧に露わになっていく方が好きだった。
「圭一君、寝てるかい?」と声をかけた。やっぱり田上は、「うん…」と唸るように頷いた。起きている。その後に、またこう言った。
「君が話さないんだったら、私が、少し昔話でもしてみて良いかい?」
田上は、少し間を空けた後に、「うん…」と眠そうながらもちゃんと伝わるように返事をしたのが聞こえた。これで、タキオンの確信は深まった。圭一君は、特に黙っていたかったわけではなく、少なくとも、自分と話をしていいくらいには、話したかったのだ。
タキオンはその後に「んー…」と唸ると、こう話し出した。
「……私が小学生の時の話をしてみようかな…? 君と出会う前の話だし、この時に、…大学生か高校生かな? …そのくらいの君と出会っていたら、君は、私の事を好きになってはくれなかっただろうという時だ…」
田上は、返事をしないままだったが、タキオンは構わずに話を続けようとした。だが、その前にちょっと田上に断ると、スマホの時計を見た。
時刻はもう十二時を回っていた。タキオンは、次の日にも予定があるのでどうしようか? と田上に聞いたのだが、田上は、首を横に振った。どうやら、タキオンの話は聞きたいようだったから、タキオンは、スマホを見るために出ていた布団に潜り直すと、また田上もしっかりと自分の腹に抱き着かせて、話し始めた。
「…確か、…小四か…小三か……、小五だったかな…? …いや、恐らく、小四。確かそうだったと思う。その頃は、お爺ちゃんの家に住んでいた。お婆ちゃんと、お爺ちゃんと、母さんと、父さんと、私と、あと、家政婦と呼べばいいのかな? よんちゃんと一緒に暮らしてたね」
田上は、家政婦という聞き慣れない単語を聞いてしまって、思わず、顔を上げてタキオンを見た。そして、眠そうな声でこう聞いた。
「お爺ちゃんちに家政婦居るの?」
「うん。よんちゃん。今でもいるよ? 勿論、仕事でもあるし、家族もいるから、四六時中いるって訳でもないけどね? あと、伯父さんの家族もいたが、…確か、私が小一小二頃まであの家にいて、出て行って、今またあそこに、私が、中等部で、この寮に入るタイミングで、住みだしたんだったかな?」
田上は、再びタキオンの腹に顔を埋めながらも頷いた。タキオンは、その黒髪の頭を撫でながら、話を続けた。
「話を戻すと、……何だったかな? ……そう、小四。桜花が生まれて、…少しくらい。……夏休み明け頃だったかな…? 席替えで一人の男児と隣になってね」
ここで、田上が顔を上げると、眠たそうな顔で「初恋?」と言ってきた。タキオンは、笑いながら「初恋は君だよ」と言った。
「その子が中々特徴的な子でね。ある時から、熱心に机をごしごしと消しゴムで擦り始めるようになったんだよ。…君には、その子が何をしているか分かるかい?」
田上は、もうタキオンの方は見ないで、腹の中に顔を埋めながら「んー」と唸った。
「……練り消し?」
「そう。ご名答。わざわざ鉛筆で机を汚して、そこを消して、消しかすを集めて、練っていたんだね」
「…俺も小さい頃そういうのやってた」
「そうだろう? 君に似てると思って話したんだ。君も、そういう奇妙な事を一人で黙々とやっているイメージがある」
「…そうかな?」
「そうだろう?」
「……例えば?」
「……景色を見つめるとかだね…」
「…そんなの誰でもしそう…」
「そんなことはないさ。君と言ったら、事ある毎に外を見つめてる」
「…そうかな…?」
「そうだとも」
「そう…」と田上が最終的に眠そうに頷いた。
タキオンは、その声を聞くと、苦笑しながら「もう眠りたいかい?」と聞いた。けれども、田上は首を横に振って、「嫌だ」と言いながら、タキオンの腰を、殊にぎゅっと強く抱きしめた。
タキオンは、その頭を優しく撫でて、髪をくるくると弄りながら「じゃあ、また何か話をしてあげようかねぇ…」と言った。
「……君の家は家政婦はいないのかい?」
「…いるわけない」と田上は、少し笑いながら答えた。「昔はそもそも団地に住んでたんだよ?」
「でも、君、高学歴だからね。…団地でも良い生活送ってたんじゃないかと」
「たまたま勉強ができただけだよ。それ以外は、全然、こんなことしなけりゃ、社長のご令嬢と付き合うなんて事もなかった」
「私は、社長の令嬢じゃないさ。社長の令嬢は私の母さんで、私は、ただの孫娘だよ」
「どっちにしろ、俺とは生活の格が違う」
「…まあいい。よんちゃんも良い人だったね。ある種、君と役割は近かったかな? …モルモット君時代の君と。結構言う事を聞いてくれる人だったし、可愛がってもくれたからね。私が寮に入ってからも、暫くは何かと心配してくれていたよ。…写真があったから、それを見せようか」
タキオンがそう言うと、「んー」と体を伸ばして、枕よりも遠くにあるスマホをぎりぎり手に取った。それから、少しいじると、田上に「これだよ」と行って見せてきた。
これは、今から左程遠くないくらいの過去に、タキオンと、よんちゃんと呼ばれた人物が、二人で映っている写真だった。よんちゃんが可愛がってくれたように、タキオンもよく懐いているようで、肩を組んで二人でピースをしていた。
「よんちゃんは、当然私の足の事は知っていたんだが、いつか、君には話していないって言ったら、――絶対に話しておいたほうが良い、って何度か言われてね。…結局話さなかったんだが、……こうなってみると、人生ってのは、どうなっているのか分からないものだね」
タキオンは、そう言って、田上の頭を撫でてから、そのつむじをつんつんとつついた。田上は何も答えずに、少しの間、二人の間に何とも言い難い沈黙の空気が流れた。
それから、タキオンは気を取り直すと話を続けた。
「君と今こうして付き合っている事は言っていないがね、…言ってみたらどうなるかな…? …近々言っておこうとも思うが、…明日言ってみるか。……特に反対はしないと思うがね…。……家柄としても複雑なもんだから、……やっぱりやめておくか。私が直接言って話をした方が、話は拗れない気がする。…それとも、もう母さんたちのほうから話は伝わっているかもしれないけどね……。…うん、よしておこう。元々、向こうは君の人柄をあんまり知らないから、変な偏見を持たれても困る。いつか、向こうに帰った時に報告しておくとするよ」
タキオンがこう言っても、田上が反応を示さなかったので、タキオンは田上の頭部を見つめながら「圭一君起きてる?」と聞いた。すると、やっぱり田上は起きていて、顔を上げると、眠そうな顔で「うん」と頷いた。タキオンは、それにまた苦笑した。
「そんなに眠いんだったら、もう寝ればいいのに」
田上は、首を横に振って、またタキオンの腹に抱き着き直した。それから、唐突に田上の方が話し始めた。
「……俺、……母さんが死んだ時に思った事がある……」
「ふん?」とタキオンは欠伸交じりに頷いた。
「……この世に絶対はないんだな、って。……母さんが死ぬまでは、……なんとか母さんも奇跡的に回復して、またいつもの生活に戻れると思ってた……」
「ふむ…」とタキオンは頷きながら、眠気の為か、普段よりも少し感傷的になって、目の奥が少し熱くなった。
「……だから、……だから、……母さんが生きていればいいな、って言った。……母さんが生きてさえいてくれたら、俺はまだ辛い事を何も知らない人間だった。お前とももう少しはマシに付き合えていたかもしれない。あるかもしれない恐怖に怯えずに…」
タキオンは、この憐れな頭頂部を見つめながら、この人の人生に、母親が落とした暗い影を見つめた。それは、決してこの世で最も辛い人よりも、辛い人間だとは言えないかもしれない。母親や父親が死んだ人なんて、この世に探せばたくさん居るだろうし、もっと酷い、精神的に深い傷の残る虐待を受けた人も、いないことはないだろう。
しかし、この人は、その暗い影をこれまで一人で背負って歩いてきた。誰にも頼る事もせずに、ただ、明日も来るかもしれない日常に怯えながら過ごしていた。
――この人を失ってはならない、とタキオンは思った。この憐れで、自分の体にしがみ付く事しか知らない人間を、何もしてやらないで見捨ててはならないと、タキオンは、眠気に侵された頭で憐れを心に抱きながら、そう思った。
タキオンももうそろそろ眠たい心地だった。欠伸も何度も出てきて止まらないが、田上はまだ寝たくないと言う。それで、タキオンが先に寝ても良いかい? と聞くと、田上は嫌だと答えた。特に気を悪くするタキオンでもなかったが、生憎頭の回転が鈍っていて、もう何も話すことができないので、ずっと田上の背を叩きながら「ね~むれ~、ね~むれ~、よーいこーは、ね~むれ~」と自作の子守歌らしきものを歌っていた。
これで、田上も相当に微睡みが来ていたのだが、外の方でバイクが唸りを上げて去って行ったのかと思うと、はっと目を覚ました。
タキオンは、もう子守歌を歌うのをやめて、寝息を立てて眠り込んでいた。田上はタキオンに抱き着くのをやめて、半身を起こし、その顔を眺めた。苦労はかけたが、それでも、随分と安らかな寝顔だったから、田上も少し安心した。
それから、田上は立ち上がると、部屋の電気を消して、真っ暗にした。明かりは一つもない。田上には、その暗闇が怖くて、慌ててタキオンの被っている毛布の中に潜り込んだ。そして、タキオンが、自分の事を守ってくれると信じるように、できるだけ身を寄せながら、縋るように強く手を握った。
タキオンは、何も言う事もなかったし、田上を見る事もなかったが、その柔らかい肌から、自分の事を受け入れてくれているんだろうと、田上は思った。すると、段々と暗闇の恐怖から田上も解されてきて、安らかな眠りに就いた。
次の朝、はっと目を覚ました。何か忘れているような気がすると思って、半身を起こしながら今日の予定を頭の中で思い出したが、今日の予定はフリスビードッジボールだけだった。これも、昼の二時からであるから、今気にする事ではないと思って、田上は安心しながらまた布団に潜りこんだが、その後に――今日は引っ越しの挨拶をしないといけないんだった、と思って、びっくりした。
ただ、これもあんまり朝早い時間からやっても、向こうの方に迷惑が掛かるだけである。十時頃からで良いと思っていたから、田上は、また安心しながら毛布の中の温みを感じた。
そして、隣を向くと、タキオンがまだ穏やかな顔つきで、スースーと寝息を立てながら寝ている。このまま起こすのも、なんだか勿体ないような気がしたので、田上はタキオンが自然に起きるのを待とうと思って、その手を繋ぎながら、自分もまだ少し眠い目を瞑った。
時刻は、まだ九時だった。それ程急ぐ時間でもないが、朝ご飯を食べて、準備をしていればあっという間に過ぎる時間である。ただ、引っ越しの挨拶も行ってしまえば、ただタオルを渡して「田上です」と名乗るだけである。ほとんどの場合であれば、三十分もかからないだろうし、絶対に十時に始めなければならないという規約もない。まだ、もう少し幸せな一時を味わっておこうと思って、田上はタキオンと手を繋いで寝ていた。
その内に、少しうとうとしていたのだが、隣の方で、タキオンが、もぞもぞと動き出す音が聞こえた。それでも、少し目を開ける気になれなくて、目を瞑ったままでいると、隣の方から寝惚けた声で「圭一君?」と聞こえてきた。
田上はそれも無視して眠り続けた。それから、頬もツンツンとつつかれた。これは少しにやりと笑いそうになったが、これも堪えて、目を瞑った。目を瞑るのに、特段の理由はなかった。ただ、一度目を瞑って無視してしまったら、その次に自然に起きるというのがやりにくくなっただけだった。
すると、少しもぞもぞと衣擦れの音がしてから、タキオンの体重が、自分の左腕に乗る感覚がして、その後に、十秒ほどキスをされた。これには、田上も驚いたが、笑い出すのは何とか堪えて、寝ている様子は取り繕えたと思う。それでも、段々とニヤニヤ笑いが止まらなくなってきたので、田上は、ゆっくりと目を開けた。目を開けると、カーテンの隙間から漏れる光を背後に浴びて、タキオンが穏やかな顔で自分を見つめてきていた。
「起きたのかい…」と静かに幸せそうに微笑みながら話した。田上もその笑みに釣られて、微笑みながら「起きてた」と答えた。タキオンは、穏やかながらも僅かに眉を上げて「起きてた?」とオウム返しに聞いてきた。田上は、それに「うん」と言った。
「お前が起きるより先に目を覚ましてた」
「じゃあ、私がほっぺをつついてた時も寝たふりをしてたのかい?」
「うん」と田上は、鷹揚に頷いた。タキオンは、それに笑い声を漏らした。
「じゃあ、君は、私に、キスを黙ってされていたわけだ」
「うん」
タキオンは、頷いた田上を、少しの間微笑みながら見ていたが、やがて、また田上に覆いかぶさるとその唇にキスをした。田上は、今度も抵抗しないで受け入れた。元より、人目なんて全くない場所だったから、抵抗する理由がなかった。
それから、タキオンがキスを終えて、田上の横に寝転がると、今度は田上が覆いかぶさって、タキオンにキスをした。タキオンも嬉しそうに口角を上げながら、それを受け入れた。幸せない一時だった。
それが終わった後に、二人は布団の上に、何も話しをしないまま、横になって、天井を見ていた。手はしっかりと握られていた。そして、暫くそうした後に、田上がぽつりと言った。
「……幸せ過ぎる…」
タキオンは、横を向いて、そう言葉を発した彼氏の顔を見た。その横顔は何とも言い難かった。嬉しいとも言って良さそうだったし、悲しいとも言って良さそうだった。
その顔を見ると、タキオンはすぐに昨日の話を思い出した。だから、もっともっと田上の体に寄り添うと、田上の腕をぎゅっと抱き締めながら「おはよう」と言った。
田上も「おはよう」と返してくれたが、先程の様な幸せな声色はなかった。
タキオンは、もう少し腕を抱き締めていたが、圭一君はこれで満足してくれないだろうと思うと、一回転して田上の体の上に寝転がった。
目が合うと、田上は悲しい表情の中に少しの嬉しさを滲ませて、口角を上げた。
タキオンは、もっと圭一君を幸せにしてやろうと思うと、毛布を取って二人の体ごと覆った。足の方は少し出ていたが、頭がすっぽりと、毛布の中の暖かな暗闇に包まれると、そこが二人の秘密の楽園のような心地がした。陽の光でさえ、二人の事は邪魔できない二人だけの世界だ。タキオンは、そこで田上に長いキスをした。田上の頭も段々と多幸感に包まれて、タキオンの体を知らぬ間に抱きしめていた。
キスが終わっても二人は毛布の中でもぞもぞと蠢いていた。主に動いていたのはタキオンだったが、田上も幸福感に酔って調子に乗ると、タキオンの顔に自分の手を添えて、キスをするなどの事をした。
それから、三十分ほどの間、二人はそうやって、偶に新鮮な空気も入れつつ、毛布の中で、二人だけの世界の中で、一つに溶けあうような心地になって、お互いの体温の熱さの中に、脳を支配されていた。
漸く毛布から這い出したころには、もう九時半を過ぎている。田上は、布団の上に座ったまま、トイレに行って帰ってきたタキオンに向かって呼び掛けた。
「これからどうする?」
「これから?」
「そう。朝ご飯。また、コンビニに買いに行く?」
「ああ、…どうしようかね。私の歯ブラシもなかったから、昨日は口を濯ぐしかできなかったし、今日買いに行かなくちゃ」
「朝飯はどうする? 俺が買いに行こうか?」
田上がそう言うと、タキオンは田上の顔を見つめた。
「おや、もう外に出ても良いのかな?」
「……気は多少晴れたよ」
田上は静かに答えた。タキオンは、この答えに少し目を細めたが、チラリと布団の傍らに積まれている荷物を見やると、話した。
「…まぁ、二人で買い物をしよう。私も君と行く。…君も行くんだろ?」
「…まぁ、行こうかな」と田上は多少嫌そうではあったが、頷いた。
二人は、それから朝の準備を整えて、二人で手を繋ぎながらコンビニに向かった。
二人は、何を食べるかを話し合った後、とりあえず、朝の所はみそ汁と御飯で良いだろうという事で、パックのご飯とみそ汁の元を買って、家に戻った。
家では、田上がご飯の準備をしながら、食卓に座っているタキオンと、適当な事を適当に話していた。専ら、外の景色の事についてだったり、タキオンが「お腹減ったー」と呟くことに、田上が反応していた事だったりした。タキオンは、食卓で、自分が買った歯ブラシを適当にくるくる回しながら、朝食を待っていた。
朝は、二人揃って席についてから食べた。タキオンが「いただきます」と言った後に、田上もそれに倣って「いただきます」と手を合わせた。一人ならば、そのような事はしなかったと思う。
それから、静かな朝食を迎えた。田上は、こういう朝食には音が無くて寂しいから、テレビが欲しいと思った。そして、テレビが設置できそうな空間を見つめながら、「なんにもないな…」と呟いた。
タキオンに話しかけたわけではなかったのだが、外から入ってくる陽の光を見つめていたタキオンは、その言葉に反応して田上を見た。
田上は、部屋の片隅に視線を送っていたので、自分もそちらの方向を見た。ここにテレビが置かれるかもしれない事は、田上とも話し合っていたので、田上の言葉の意図はわかった。
そして、ここにテレビが置かれる様を考えたのだが、今しがた、丁度、この静けさを好ましく思っていた所だったから、田上の方をまた向くと、タキオンはこう言った。
「私は、こういう静かな一時も好きだけどね」
「そう?」と田上は、みそ汁を啜った後に返事をした。
「そう。…こう…、要らない雑音が入ってこないじゃないか。人の声も忙しなく入ってくるわけじゃない。君の動く音と、私の動く音と、この部屋の外から聞こえてくる音。それだけに支配されている世界が、居心地が良いとは思わないかい?」
「…まぁ、いいかもね…」
そう話した後に、田上はみそ汁を啜って、「美味い」と呟いた。タキオンも自分の味噌汁を一口飲むと、幸せそうに微笑んで、みそ汁を見つめながら「美味しい…」と呟いた。
みそ汁も全部飲み干して、茶碗に持ってあったご飯も食べ終わった頃、田上は、皿洗いを始めた。
タキオンも手伝うと言ったので、皿の水気を布で拭わせるだけをさせた。二人分の茶碗とコップと箸しかなかったので、皿洗いはすぐに終わった。
その後に、時計を見てみると、もう十時半になろうとしていた。と言っても、引っ越しの挨拶はすぐに終わる予定なので、田上もそれほど焦らずに、「じゃあ、そろそろ引っ越しに挨拶に行こうかね」と言うと、タキオンも食卓でのんびりしていたのを立ち上がらせて、「うん」と言った。
田上には、この反応が予想外だったので、少し立ち止まると「お前も行くの?」とタキオンの事を見つめながら言った。タキオンにしてみれば、そちらの発言の方が予想外だったから、「私は行かないのかい?」と聞き返した。
「いや、…だって、引っ越してきたのは俺じゃない?」
「……私の彼氏だが?」とタキオンは当然の様に言い放った。田上はそれに少し口角を上げながらも、眉は困ったように寄せられた。
「…お前は、この家に、実際に引っ越しに来たわけじゃないんだから、別に、そんな、…行く事もないんじゃないか?」
「……でも、週一で遊びに来るために、出入りするわけだけれどね?」
「…それは…、遊びに来るのであって、……。…来たいの?」
「別に、私が行っても構わないんじゃないかと思ってたんだが、…まさか、君にそこまで拒否されるとは思っていなかった」
「…いや、…別に、拒否しているわけじゃないんだけど、………来るべきなのかな?」
「…まぁ、いいよ。…どうせ、私はただの彼女だからね。同棲しているわけでもなし。ただ、君の家に遊びに来ているだけなんだから」
そう断りながらも、タキオンの口調は不満があるのが見え透いていた。田上は、これには少々困ってしまったし、多少のプレッシャーもかけられた。慣れない引っ越しの挨拶には、自分なりの予定があった。
そして、タキオンが居ない方が、事は簡単に進みそうだ、というものもあった。例え、隣人がお喋りな人でも、自分一人に話しかけてくれるのであれば、なあなあに話して、それをある程度の所で切り上げる事もできるのだが、タキオンが話しかけられた場合は分からない。
今考えてみると、タキオンに頼めば、話を上手い事、自分よりも早く切り上げられそうな気もするが、そうした場合に、話のコントロールは自分から離れていくことになる。
田上にはそれが嫌だった。自分の中の予定としては、自分一人で万事上手くやるというものがあった。その中にタキオンはいない。自分一人だけなら、万事上手くやれる想像がつくのだが、タキオンがどうしても不安要素で、想像を不確実的なものにさせた。
――タキオンがいるとどうなるのか分からない、という考えがあったからこそ、田上はあんまりタキオンを連れて行きたくなかった。
そこに、タキオンが自分のせいで不満を持ってしまった、というものがでてきた。前述のように、田上は不確実的なタキオンをあまり連れて行きたくなかったのだが、同時に、タキオンを不満にさせて、仲が拗れるようなことはしたくない。喧嘩は昨日ので懲り懲りである。少なくとも、ここ数日はもうしなくても良いくらいだ。その狭間で、どうしても決めきれなくて迷っている。
タキオンもまた同様に、田上の感情が、その表情から手に取るように分かる。自分がした発言と、田上自身のやりたい事の間で、挟まって動けなくなっている。憐れな人だと思って、その顔を暫くじっと見つめていたが、田上が中々答えを出せないでいると、助け舟を出さざるを得なかった。
「………どうしてほしい? 私も行こうか?それとも残ろうか?」
田上は、先程よりも眉を寄せて、畳を見つめながら考えた後、「一緒に来てほしい…」と苦しそうに言った。タキオンも田上に同情して、少し苦しそうな顔をしながら、「いいよ」と答えた。
玄関まで来て、靴を履いたところで、田上が振り返って、後ろで待っているタキオンを見ると、「やっぱり…」と言った。
「やっぱり、……お前は無理かもな…」
「ん? …どうしてだい?」
「……お前がまだ学生な上に、知名度もある事を忘れてた。…普通の人はあんまり好ましく思わないよ…」
「……私は、どっちでも構わないよ…」
タキオンがそう答えると、田上は踏ん切りがつかないように、困ったように「ん~…」と唸って、俯いた。中々具合が悪そうだし、これは自分が動かないと、圭一君も動き出さないだろうな、と思うと、タキオンはこう言った。
「……私を抱きしめておくかい?」
タキオンは、これが正解だろうと思った。そして、それを証明するように、田上は中等半端に腕を上げたり下げたりした後、困ったように「うん」と頷いた。それで、タキオンは一歩進み出て、一段低い玄関に靴を履いて立っている田上を抱き締めてあげた。田上も、縋るような手つきで、タキオンの小さな細い体を抱きしめた。
「昨日のような喧嘩はしたくない…」とタキオンが、田上の耳元で囁いた。
田上は、目一杯タキオンの事を抱きしめながら「うん…」と頷いた。それから、少し間を空けて、「ありがとう」と言った。タキオンは、それに何も答えなかったが、田上が力を入れてくれるのと呼応するように、その体の重みを田上に預けていった。
その内に、田上が一つ大きく息を吸って吐くと、タキオンを抱くのをやめて、下に置いていた荷物を取った。そして、もう一度「ありがとう」とタキオンに向かって行った。その顔は、もう困ったように眉を寄せてはいなかったが、朝の時の様な、自分の状況を嬉しがりつつも、憂いているような表情に戻っていた。
それでも、タキオンはこの場では何をする事もできなかったので、タオルを持って出て行く田上を、静かに微笑みながら手を振って見送った。
田上は、まず、出て右隣のお部屋の前に立って、そのチャイムを鳴らした。チャイムはインターホンのボタンだったので、そこから声が聞こえてくるのかな? と思っていたのだが、案外すぐにドアを開けて出てきた。右隣の隣人は、太り気味で四十から五十代くらいの、黒縁メガネのおじさんだった。服は部屋着だったのだが、その白いTシャツにプリントされていた柄は、田上も良く知るゲームの柄だった。
田上はそれに一瞬目を留めた後、その人の顔を見て、「昨日、隣に引っ越してきた田上です。これからよろしくお願いします」と言ってタオルを差し出した。少々ドギマギしていたのだが、そのおじさんは一瞬状況を理解できないように、田上から差し出されたタオルを見ていたが、その後に「あ、ああ」と言葉を発した。
「ああ、越してきた方ですか。こちらこそ、よろしくお願いします。松山と申します。よろしくお願いします」
田上も、この後に「よろしくお願いします」と言った。中々、優しい声色のおじさんだったので、田上はほっとした。これで、苛々されでもしたらどうしようかと思っていた所だった。
そのおじさんは、田上からタオルを受け取った後、田上の顔を見ると、何かに気が付いたようにじっとその顔を見つめた。それから、こう話した。
「……どこか……、テレビに出てませんでした?」
「……あー、…はい。そのような職業柄ではあります。あんまり頻繁ではありませんが」
松山さんは、田上が敢えて濁したのを察して、それ以上は追窮しなかった。最後に二人共、「これからもよろしくお願いします」と挨拶をした後、ドアを閉めて分かれた。
その後に、一旦部屋に戻ると、畳に寝転がっているタキオンを玄関から見つけた。
田上が少し気の抜けた顔になっているのを見ると、タキオンも微笑みながら「一人目はクリアかい?」と聞いた。
田上は、その事を確かめるように頷くと、玄関前の廊下に置いてあった二人目用のタオルを手に取って、「じゃあ、行ってくる」とタキオンに声をかけた。タキオンは、また微笑みながら手を振った。
次は、左隣の隣人だった。田上は、チャイムを押して少し待った。すると、インターホンから若い女の人の声が聞こえた。
「はーい、どなたでしょうかー」と気軽に聞いてきたから、田上は「昨日隣に引っ越してきた田上ですー」と若干、語尾を伸ばし気味に答えた。
女性は、「はーい、ちょっと待っててくださいねー」と言うと、それ以降インターホンから声は聞こえなくなった。その少し後に、またこれもラフな格好の女性が出てきたが、それ以上に、田上が驚いたのは、その女性の背の高さと、モデルの様な美人らしさだった。田上よりも目線は少し上であるから、百七十後半はあるのじゃないだろうか? 田上が百七十二センチであるから、それよりも大きい。そして、体形も見事に整えられている。腕も棒のように細いのではなく、ちゃんと筋肉によって引き締まっている。足もまた然りだ。腹は、服に覆われているので見えないが、少なくとも、出てはいない。胸元は少しはだけていたので、田上は思わずそこに目が吸い寄せられそうになったが、必死に目を逸らして、自分より背の高い女を――遺伝子だな…と思って見つめながら言った。
「昨日隣に引っ越してきた田上です。粗品ですが、これからよろしくおねがいします」
田上がそう言ってタオルを差し出すと、女性の方は「あ、どうも」と言って、そのタオルを受け取った。それから、何をしたらいいか分からないという顔で田上を一瞬見つめた後、「坂上です。こちらの方もよろしくお願いします」と返した。田上ももう一度、「よろしくお願いします」と頭を下げると、その場を後にした。今回は、勘付かれはしなかったようだ。
また家に戻ると、タキオンが同じように寝転がっていて、玄関に立った田上に「おかえり」と言った。
田上は、ただいまとは返さないで、タキオンを少し疲れたように見つめると、「じゃあ、また行ってくる」と言って、三つ目のタオルを手に取った。
今回は、上の階の人だったから、アパートの階段を上ると、廊下に並んでいるドアの数々を見たが、その後に、自分の部屋の上が、左から二番目であっているのか不安になった。
田上は、一階の角部屋の一個隣だったのだが、順当に行けば、二階もそうなるはずだ。田上は、頭ではそう分かっていても、少し不安になって、一階に戻って、自分の部屋の場所を確認した。
やっぱり、自分の部屋も一階の左から二番目である。そうなれば、間違っていても仕方が無いという気持ちで、二階の左から二番目のチャイムを押した。
今度は、インターホンから声は聞こえず、主婦のような二十代三十代くらいの人が顔を覗かせた。部屋の奥の方からは、テレビの音と、誰かの話し声が聞こえるが、低くてあまり聞き取れなかった。それでも、田上はそんなこと気にしている余裕はないので、また同じように「昨日引っ越してきた田上です。これからよろしくお願いします」と繰り返して、タオルを差し出した。女性は、「ああ、…吉本です。よろしくお願いします」と言った。それから、こうも付け加えた。
「赤ちゃんが居ますので、夜泣きとか聞こえた時はご容赦ください」
田上は、果たして階下まで夜泣きの声が聞こえてくるのかは知らなかったが、「分かりました」とだけ答えた。そして、お互い、もう一度「よろしくお願いします」と頭を下げると、その場を後にした。