ケロイド   作:石花漱一

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三十六、引っ越し④

 田上のミッションはそこで終了した。部屋に戻って、靴を脱ぎながら、田上は「ふー、やれやれ」とため息を吐いた。タキオンは、窓の方を向いて寝転がっていたが、そこから振り返ると、田上に「お疲れ様」と声をかけた。

「どんな人だった? 隣人は」

 タキオンがそう聞いてきたので、田上は、タキオンの横に座りながら、一番印象的だった人の事を話した。

「ものすんごい美人がいた」

 これを聞いて嫉妬しないタキオンではなかった。タキオンが不快そうに少し眉を寄せると、田上は「全然タイプではないけどね」と言った。

「だって、俺より背が高かった」

「ふぅん?」

「多分、仕事はモデル辺りじゃないかと思うんだよね。…ただ、あれくらい背が高かったら、モテないんじゃないかな?」

「どのくらいだった?」

「……多分、百七十後半、下手すると、百八十。そのくらい行ってたと思う」

 それでも、タキオンが少し不快そうな顔のままでいると、田上が申し訳なさそうに口を噤んだ。ただ、タキオンは、こんなところで、また話しづらくなるのは嫌だったから、次の話を催促した。

「その人だけじゃないだろ? …その人は? 隣? 上?」

「えー、…俺が座っている方から、右。玄関から出て、左。」

「…右隣の人は?」

「……四十から五十くらいの太った人だったね」

「おじさん?」

「そう。独身かどうかは知らないけど、家の中に人の居そうな気配はなかった」

「ふぅん」

「その人が来てた服が、俺の好きなゲームだった」

 タキオンは、そのおじさんには興味が湧かなかったのだが、田上の好きな事には興味があったので、「何のゲーム?」と聞いた。

「DIVERっていうゲーム。お前は知らないかもしれないけど」

「DIVERって、海に潜るゲームかい?」

「そう。海底の研究の為に潜る。色んな生物とか、金銀財宝とか見つけて、地上に持ち帰って研究する。勿論、危険生物とかにも遭って、悪戦苦闘するんだけど、……良いゲームだね。今から二十年以上も前に発売されたゲームだけど、今も色褪せないくらいに良いゲームだよ」

「……今から二十年以上も前のゲームの記憶があるのかい?」

「いや、去年そのゲームがリマスターされたんだよ。だから、隣の松山さんって人も、その服を着てたんだと思う。去年リマスターされた時に、グッズも一緒に出たからね」

「ふぅん……。…面白いのかい?」

「やれるんだったら、是非やってほしいくらいには面白い。あの足立監督のデビュー作だからね」

「ふむ…。…気が向いたらやってみようかな…」

 タキオンは、あまり乗り気ではなかったが、田上は自分の好きなゲームの事だったので、多少興奮して話した。

「韋駄天堂の現行ゲーム機でも、Ponyのパドックステーションでも出てるから、タキオンの好きな方でやっても良いよ。…まずは、荷物から出さないといけないけど」

 田上の熱量に押されると、タキオンも少しはやる気が出てきて、微笑みながらこう言った。

「そんなにやってほしいのかい?」

「……まぁ、やりたくないなら仕方がないけどね。…名作な事には間違いないよ」

「じゃあ、いつかやってみよう。…難しいゲームじゃないだろ?」

「まぁ、…普通だと思う。死にはするけど、死んで何もかもなくなるようなゲームじゃないし、オートセーブもあったし、敵も…まぁ、悪くはない。俺もゲームは、あんまり上手じゃないけど、それでもできるくらいの難易度だった。操作性も全然悪くないから、そんなに苛々せずに楽しめると思う。…分からなくなったら、俺がヒント出せるし」

 田上は、どうしてもタキオンにそのゲームをしてほしかったのか、悪い所は出さなかった。もしかしたら、悪い所はそんなにないのかもしれないが、必死に、説明してくれる自分の彼氏が、タキオンには、可笑しくも愛おしくあった。

 

 その後は、二人で少し荷解きをしていたのだが、三十分程すると、もう昼の十二時になったので、二人はラーメンを茹でて食べた。その時に、田上が、タキオンのラーメンを啜る姿を見つめながら言った。

「あんまり食生活として良くないな…」

「ラーメン?」とタキオンが口元を隠しながら聞いた。田上は、それに頷いた。

「そう。昨日もだし、今日もだし、昨日の夜自体も遅かった。お前、もうすぐ宝塚記念があるのに」

 タキオンは、今まであった表情の明るさを濁らせて、田上から目を逸らすと、「そうだね」と頷いた。口調はごく自然な物ではあったが、もう田上も、タキオンが宝塚記念の話題を避けたがっているのを知っているので、その目を逸らした理由も、なんとなく察することができた。

 田上は、また少し彼女がラーメンを啜る様を見ていたのだが、自分も一口食べると、またタキオンに向かって「フリスビードッジボールが終わったら、また店に買いに行こうな」と言った。タキオンは、うんと頷いたが、今度は田上の方が少し気分が悪くなった。昨日の喧嘩を思い出したからだ。

 タキオンが、すぐに許してくれたから、事態はこうして丸く収まったが、これがタキオンでなければ、今も、一人でラーメンを啜っている羽目になっているかもしれない。タキオンへの感謝の念は、大きく大きく深く深くあったし、自責の念も、それ以上はなくとも、それより少し少ないくらいにはあった。田上の自責の念も、タキオンの寛大さによって、大分やわらげられている方なのである。感謝してもしきれないくらいだったし、なんで自分を選んでくれたのだろうとも思う。

 

 昼食が終わると、二人は少し早めの時間ではあるが、電車に乗ってトレセン学園へ向かった。特にやる事が無いので、暇ではあるが、始まる時間まで、田上とタキオンは手を繋いで、学園の石畳の道を歩いていた。

 途中で、ウマ娘寮の前のベンチに座って、二人で話をしていた時に、横の道を国近が通りかかった。国近は、特に明るくもなく暗くもなくと言った調子で、「よう」と田上の肩を叩いてから歩き去って行こうとした。しかし、五歩ほど進んだ後にピタリと立ち止まると、くるりと振り返って、田上の目の前に立つと、平然としているのではあるが、よくよく見ると、あまり感情の分からない奇妙な表情でこう一言発した。

「別れた」

 そして、国近は田上の反応を待った。タキオンは、横から国近の顔を見つめながら、田上と繋いでいる手に無意識に力を入れた。

 田上は、国近と見つめ合ったまま、少しの間考えた。国近が、ハテナキソラと別れたのはすぐに分かったが、どう返せばいいのか分からなかった。田上が、国近の表情をよく分からなかったのもある。

 国近は、落ち込んでいるのでもない、喜んでいるのでもない、怒っているのでもない、奇妙な表情だった。その目が普段よりも少し見開かれ気味だったから、表情としては、喜びに近いようにも思えたが、一歩間違えば、怒っているようにも見えるし、落ち込んでいるのを、表情の奥に押し隠しているようにも見える。

 田上は、自分が戸惑っているのだと国近にはっきり分かるように、目を左右に泳がせて、顔をキョトンとさせた後、「おめでとう……?」と言ってみた。途端に、国近はいつもの国近に戻った。普段のへらへらとした顔に戻ると、タキオンと田上を交互に見て、最後に田上を見ながら言った。

「おめでとうなわけはないだろ」

「…でも、…悩んでるみたいだったから…」

「まぁ、…あながち間違ってもいないような気もするけど。…別れた。綺麗さっぱり。お互い後腐れも無し。本気じゃなかったんだ、俺。向こうもそう」

「……そう」と田上は戸惑いながら頷いた。すると、国近はタキオンに向かって話した。

「アグネスさんは本気なの?」

「本気だとも。 ゆくゆくは、結婚するつもりだがね」

「へぇ、…いつ?」

「卒業したらするつもりだと言ったよね、圭一君」

 タキオンが、そう語り掛けてきたので、田上も少し動揺しつつ、それを押し隠して「そのつもり」と国近に言い返した。

 国近は、また先程の良く分からない奇妙な表情の片鱗を見せると、田上の事をじっと見つめてきた。田上は、その目を見つめ返したが、なんだか国近が自分の思っている事を全て分かっていそうな表情をしていたので、不安に思った。まだ、結婚に対して、タキオン程覚悟を決めきれていない自分を、国近は嘲笑っているような気がした。しかし、国近は、田上の深層には触れないで、またいつもの国近の表情に戻すと言った。

「まあ、恋愛は自由でいいもんだね。結婚していくカップルがいれば、結婚せずに別れるカップルもいる。別に無理に付き合う必要もない。合わないと思ったら別れればいいんだから、その点が、日本人は明治時代よりも進歩してる」

 田上は国近の言葉を聞いているうちに嫌な気持ちになった。田上とタキオンは、例え、合わないと思ったとしても、話し合って何とか一緒に居続けているカップルだ。国近は、今タキオンと田上の思想と関係を否定した。詳しく言えば、タキオンの思想かもしれない。田上は、タキオンが居なければ恐らく別れていた。そこら辺の女であれば、初めから合わないと決め込んで、付き合う事すらしていなかったかもしれない。

 そういう田上だからこそ、今の言葉は重いパンチだった。今、田上はタキオンに生かされている存在である。主体性が無いと言ったら、タキオンの事が好きという感情以外は、九割主体性が無いと言っても良いかもしれない。

 勿論、田上が、タキオンを引き留めた事もあった。タキオンと自分が付き合うべきだと思ったのは、タキオンが自分の意に反して離れていこうとしたからで、それは道理に合って無いと感じたからだ。

 タキオンが、好きならば、自分たちは付き合うべきだとその時は思った。だが、今は、自分の気難しさ故に、タキオンに迷惑をかけているのが申し訳なくてならなかった。幸せだろうと言うのならば、そうなのかもしれないし、幸せじゃないのだろうと言うのならば、自分たちは幸せじゃないのかもしれない。

 そのような、足場の不安定な所で揺れている中での、国近の言葉だった。田上に思想上の影響を与えたのではない。ただ、今、幸せだった自分の目の前に、『別れる』という選択肢が、間近にある思想を忘れさせないようにしただけだった。田上は、少し国近を恨みもしたが、とりあえず、国近が「じゃあ」と言うままに、その場を後にさせた。

 その後に、タキオンがこう言ってきた。

「色んな思想の人が居るね」

 田上は、心の中で――そうだ、と言った。それから、――俺もそうだよ、と言った。合わなくなったら別れればいい。嫌な気持ちを引き起こされるのならば、そんな人は相手にしないほうが良い。なのに、なんでお前は俺の事を好きでいてくれるんだ?

 頭の中でそんな事を考えていたが、言葉には出せなかった。ただ、少々具合の悪そうな顔つきをしながら、「別れたくないな」とタキオンに言った。

 

 その後、またそこで少し話をしていたら、今度はエスが寮のドアから出てきた。つまらなさそうに鼻をぽりぽり掻きながら出てきたのだが、田上とタキオンが二人で揃って座っているのを見つけると、「おはようございます」と頭を下げた。タキオンと田上は、二人揃って「おはよう」と軽く頭を下げた。エスは、それから、二人をじっと見つめて立ち止まっていたのだが、唐突にこう言った。

「服って…」

 田上は、エスが何を聞きたいのかすぐに分かったので、「ああ、全然私服でも大丈夫だよ」と言った。

「動きやすければ、全然大丈夫」

 その答えを聞くと、エスは、つまらなさそうな顔を一転させて、にっこり笑うと「良かったぁ。正解だった」と言った。それで、田上は、――リリーさんも分からないかもしれないな、と思うと、チームのグループLANEに『今日のフリスビードッジボールは私服でも体操服でも、動きやすい服であれば全然構わないです。』とメッセージを打っておいた。その時には、もうエスはタキオンの隣に座って、タキオンに話しかけていた。

「タキオンさんって、田上トレーナーのどんなところが好きなんですか?」

「どんなところ?」

「そうです。どんなところが好きになって、付き合ったんですか?」

 タキオンは、あからさまに嫌そうな顔をした。

「そんなの、何回も聞かれて辟易してるよ」

「ええー、…ダメですか?」

「…強いて言うなら全部だ。ありふれた答えで良ければ、君に贈呈してあげよう」

「ありふれてますね」とエスが言うと、今度はタキオン越しに田上を見た。それでまた、田上もすぐに察したので、「俺も嫌だよ」と言った。

 エスは、そう言った後に、タキオンの顔をチラリと見た。タキオンは、怒っていなかったが、不愉快そうで冷淡な面持ちはしていた。エスは、その表情を察すると、あんまりタキオンの機嫌を損ねるのも良くないだろうと思って、「まぁ、いいや」と言って、話を切り上げた。それから、立ち上がると、田上に「第二体育館ですよね?」と聞いてから、立ち去って行った。

 田上は、その後ろ姿を見ながら、多少の不安を覚えた。この不安は、――果たして、本当にフリスビードッジボールは楽しめるのだろうか? という今更な物だった。

 今更、不安になってきたのだ。特に、そこら辺についての心配は今までしていなかった。どちらかと言うと、引っ越しに対する心配の方が、ここ最近の田上の生活の中で勝っていた。しかし、今しがた想像して見た所、フリスビーを投げ合うだけの競技がどのくらい面白いんだ? と思う。ドッジボールは子供の頃にした事があるから、面白さは分かる。ただ、興奮したウマ娘が本気で投げてくるボールなど、ヒトの自分が受け止められるはずもない。だから、それはできない。ならば、フリスビードッジボールなら、フリスビーを投げるだけだから、それなりに自分でもできるだろうと思った。これは、子供の頃に聞きかじって、やったことのなかったフリスビードッジ―ボールに、多少の憧れがあったのも原因である。――どうしたものか…、と田上が不安に思っていると、タキオンが話しかけてきた。

「今日の晩御飯は何にする?」

 唐突な世俗的で、家族的な会話に田上も少し動揺して、「晩御飯?」と聞き返しながら、タキオンの顔を見た。

 タキオンは、「晩御飯」と頷きながら、田上の顔を見つめ返してきていた。田上は、まだ少し動揺しながら、「晩御飯は…」と言った。

「晩御飯…。…なんでもいいけどね」

「あ、そういうのが妻を困らせるって、あの結婚雑誌に書いてあったぞ」

「ええ? ……タキオンが食べたいのは?」

「………君が食べたいもの?」

「俺の?」と田上は困った声を出した。「俺のって言ってもな……。お前の食生活にも気を遣わないといけないから、パッと答えを出せるようなもんでもないけど」

「嫁の食生活に気を遣う夫が、どこに居るんだい?」とタキオンは、少し唇を尖らせた。

「ここにもいるし、そりゃ、嫁が医者から痩せてくださいと言われたら、旦那も食生活には気を遣うだろ」

「私は太ってない」

「…でも、宝塚記念があるから、体はちゃんと整えて行かなきゃ」

 田上がそう言うと、タキオンは田上から目を逸らして、不愉快そうな顔をした。しかし、喧嘩に発展するのだけは嫌だったので、ぐっと堪えると、「分かったよ」とだけ言った。

 田上は、そんなタキオンの顔を見ながら、――俺はどこで選択肢を間違えたのだろう、と思った。

 

 多少二人の雰囲気は悪くなりつつも、タキオンが手を繋いできたので、田上もその手をとりながら第二体育館へと向かった。トレセンには第三まで体育館があるのだが、利用者も結構いるので、大概いつも遊び声で賑わったり、雨の日などはトレーニングをしている所もある。

 その中の第二へ、タキオンと田上は向かった。体育館の前にはエスとマテリアルが二人で居た。そこに二人が合流すると、マテリアルは、田上に挨拶をした後、その隣の、少々落ち込んで俯いているタキオンをじっと見つめた。引っ越しの時に喧嘩してから何も話していない。マテリアルの怒りは収まっていたが、タキオンの方はどうなのか分からないので、落ち込んだ様子のタキオンには触れないで、田上に向かって話しかけた。

「引っ越しは万事順調でしたか?」

「ああ、はい。何事もなく。 手伝ってくれてありがとうございました」

「いや、別に、私も楽しかったからいいんですがね。…そこのお嬢さんは? …私との喧嘩を引きずってるんですか?」

「…いや、………俺にもあんまり分かりません」

「……フリスビードッジボールするつもりあるんですかね?」

 マテリアルはタキオンを見ながら言った。田上も、タキオンを見た。

「……分かりません。…うん…」

 二人の間で何かが起こったのは明白だったが、田上も、タキオンも、その全貌を知らせようとは思わなかった。

 マテリアルは、それを二人だけの問題にさせずに、聞き出すべきかもしれないと思ったが、今、この時間に、二人から、それを聞き出すのは面倒臭そうだった。たった二言三言で聞き出せるわけではないだろうし、今から他の人たちと一緒にフリスビードッジボールを遊ぶというタイムリミットもある。そう簡単に、二人に時間をさけるわけでもないので、これはまた、追い追い話していくべきだろうと思った。

 

 次いで、あまり間隔を空けずに、リリックがそこに集まってくると、五人は体育館の中に入った。田上は、その時に、不図、以前の自分たちは、タキオンと自分の二人だけでトレーニングをしてきた事を思い出した。

 そう考えると、もうチームに三人も人が居る。エスとリリックをタキオンにプラスして、面倒を見ていると思うと、タキオンが嫉妬するのも無理はないかもしれないと思った。

 元々、チームは二人だけのものだった。それが三人になって、四人になって、五人になった。人が増えればより多くの摩擦が生まれる。二人だけの時は、田上はタキオンだけしか見ていないからよかった。しかし、こう増えてしまった以上、田上も注意を分割して行わざるを得なかった。勿論、タキオンにはより多くの注意を向けているつもりだが、元々は、タキオン一人だけにしか向けられていなかった注意だから、その頃に比べると、不満を覚えるのも当然だろう。

 ——あの部屋に引っ越したのは良かったかもしれない、と田上は思った。約一日過ごしてみて思ったのは、このトレセン学園よりも、遥かに、仕事から離れた生活になる事だった。あそこでは、タキオン以外は気にしなくていい。出歩く場所も学園の中ではない。誰か知り合いに会う場所ではない。

 そういう意味では、タキオンがマテリアルに、この場所を教えたくなかったのも分かる。今、あそこでは、田上の注意は全てタキオンに向けられる。そう仕向けることができるし、田上も、トレセン学園より遥かに二人きりの空間だと安心できるので、そう仕向けられることに安心して乗っかることができた。

 ただ、今、また、話が少し通じなくなってきたところだった。きっと、あの場ではあんまり真面目に受け答えしない方が良かったのだ。

 タキオンは、トレーナーとしての田上に晩御飯を聞いてきたのではなく、夫としての田上に晩御飯を聞いてきたのだ。そういうシミュレーションかもしれない。しかし、二人の間にあるレースという三文字は決して無視できないものであった。

 それは、これまでの二人の間に、コミュニケーションを生んできた三文字だった。しかし、今では、それは鎖になりつつあるかもしれない。抜け出したいのに、抜け出せない重い鎖だ。ただ、言ってしまえば、その道を選んだのはタキオンの方である。自分は何度もタキオンにやめても良いと言ったが、タキオンは頑なにそれに応じなかった。どんなに苦しくとも『走る』そうだった。

 田上は、まだタキオンの深奥を知らない。手の届かない所を知らない。自分は知るべきなのかもしれないとも思ったし、知る事はできないのかもしれないと思った。何て言ったって、こんな自分である。彼女に迷惑かけてばかりの自分が、彼女の心の靄の中から大事な部分を探り当てられるだろうか?

 そんな事を考えていると、具合が悪くなってきたので、一先ず、タキオンは最低限手を繋ぐだけして、自分の目線の先の方にいた松浦たちの応対をしなければならなかった。

 

 松浦は、もうフリスビーを二三個持って待っていた。髪を良い感じに金髪に染めているし、服も何処かのブランド物か知らないが、黒主体に黄色のラインが入っている。そして、半ズボンの下には、スポーツタイツを着用していて、それがいかにも、松浦の足の細さを際立たせているようで、田上はこれに多少の劣等感を覚えた。田上と言えば、お洒落な松浦とは違い、適当な半ズボンに、適当な白い半袖である。これで、美人のウマ娘と恋人になっているというのだから、世の中が、どうも狂ってきているに違いない。

 頭の中でそんな事を考えつつも、田上は平然と、さも松浦と対等な立場であるかのように振舞った。松浦は、元より対等な立場のつもりで接してきていたので、田上もそれに合わせるほかなかったと言えば、そうだった。マテリアルは、田上と松浦と少し離れた所で、エスとリリックと会話をしていたのだが、やがて、二人の傍を敢えて離れると、四人のウマ娘が密集している所へ歩いて行って声をかけた。

「やあ、松浦さんのとこのチームの子たちですよね?」

 途端に、その四人がひゃあと声を上げた。カフェは、体育館の隅で座っていたので、その輪の中には居ないが、その声を聞いて、顔だけをそちらに向けた。

「田上トレーナーのとこの、マテリアルさんですか?」とチームの子の内の一人が言った。マテリアルは頷くと、またこう話した。

「今日のフリスビー楽しみですか?」

「えー、どうかなー?」とそれぞれが口々に言った。

「まだ、あんまり良く分からないよね。まっつんは面白いって言ってたけど」

「あの人何でも面白いって言うから」

「面白いのかね?」

「やっぱ、面白いんじゃないの?」

 それから、またその内の一人が、マテリアルの方を向くと言った。

「そう言えば、マテリアルさん、噂ですよ」

「ん、なにが?」とマテリアルは聞いたが、その一瞬後に、――不味いと思った。

「まっつんとデートしたんじゃないですか?」

「私らのまっつんとデートしたんでしょ?」ともう一人が言う。マテリアルは、まあまあ慌てて言った。

「全然、そんなんじゃないですよ。ただ、ちょっと…」

 そう言ったところで、松浦が近づいてくるのが見えた。ここで話している内容が聞こえた様だったから、速足だった。そして、一人の子の肩を掴むと、親指でぐりぐりと押し、面白がりつつも注意する口調で話した。

「だから、あれほどあの話はするなって言ったでしょ~。マテリアルさんの方も困るんだから。 ねぇ?」

 同意を求められたので、マテリアルは少し松浦の顔に見惚れながら、コクコクと頷いた。怒る時でも松浦は優しく怒る。

「あれはデートでもなんで何でもなくて、ただ、ちょっと趣味が合ったから、一緒に買いに行っただけって何回も話したでしょ?」

「でも、男と女が二人きりで買い物に行って何にもないわけないじゃん。まっつん、マテリアルさんの事好きなんでしょ!」

 すると、松浦は愛嬌があるように、その色白の耳を赤く火照らせさせながら「お前、本人の前でなんてことを言うんだ」とそう言った子の頭に軽くチョップを食らわせた。その子は、床に転がるほど大爆笑をしていた。

 松浦は仕方なさそうにその子を見た後、マテリアルの方を向いて、「本当にすみません」と耳を赤くさせたまま頭を下げた。マテリアルも、普段よりも幾分大人しい仕草で、両手を小さく振りながら「いえいえ、全然大丈夫です」と答えた。

 それに、松浦が「ありがとうございます」と返した後、少し沈黙があったので、マテリアルがこの沈黙は耐えられないと思うと、「フリスビーはいつ始めるんですか?」と話題を変えた。松浦は、すぐに申し訳なさそうだった顔を切り替えると、少し離れた所でタキオンと手を繋ぎながら突っ立っている田上に向かって、手を振りながら呼び掛けた。

「おーい、田上さん、もう始めますかー?」

「僕は全然大丈夫です」と田上は答えた。それから、松浦が、準備の為に、田上たちから目を離してくれたので、田上は少し抑えた声でタキオンに言った。

「どうする? フリスビードッジボールする? ……具合が悪いんだったら、俺が傍に居ても良いけど…」

 タキオンは、俯いたまま何も答えなかったが、その言葉に反応するように手がピクリと動いたのは感じた。

 田上は、タキオンの処遇をどうしようか迷った。体育館の壁の際にはカフェもいる。そこに預けておけば、とりあえず、一人ぼっちにはさせないだろう。少なくとも、友達が横に一人居るというのは感じれるはずだ。

 しかし、タキオンはそれではあんまり満足しないかもしれない。友達よりかは、一番信頼している自分が、傍にいた方が満足はするかもしれない。ただ、田上もここには遊びに来たのだし、今更ここに、ごたごたを持ち込みたくはなかった。それで、田上がタキオンの事を心配そうに見つめていると、不意に松浦の声が近くから聞こえて、顔を上げた。松浦は、タキオンと田上を見ながら、こう話しかけてきていた。

「アグネスさん、具合悪いんですか?」

「あー…、そんな感じですかね」と田上が曖昧に答えた。

「具合悪いんだったら、全然休んでもらっても構わないですよ。なんてったって、宝塚記念もありますからね。具合悪いのに、無理に遊んで怪我してもしょうがないですから」

 タキオンの前で、あまり宝塚記念の事を話題にしないでほしいとは思ったが、あんまり事情の分からない松浦の事なので、無理に注意するわけにもいかなかった。

 その代わりに、田上は、タキオンの事を仕方なさそうに見つめると、「見学しておくか」とタキオンの代わりに意思決定してあげた。これ以上、皆に注目されて、心配されるのも居心地が悪いだろうと思ったからだ。

 だから、そこから脱するように、田上はタキオンの手を引きながら、カフェの近くの壁際まで歩いて行った。

 そこで、カフェに「こんにちは」と声をかけた。カフェは、軽く頭を下げた後、「こんにちは」と小さな声でぼそぼそと言った。

 田上は、その後に、タキオンに「ここに座ろうか」と声をかけた。だが、タキオンは俯いたまま動き出そうとしなかった。田上は、これを、自分が先に座らないと、タキオンも座りたがらないんじゃないか、と解釈したので、一先ず自分が先に壁際に腰かけると、「タキオンも座らないか?」と問いかけてみた。

 田上の思ったように、タキオンは自分が座ると、それに追随するように隣に座ってくれた。そして、足を伸ばして座ったまま、田上の肩に自分の頭を持たれ掛けさせた。これによって、田上は、タキオンがそれ程怒っていないのだと分かった。少なくとも、二人の間に話しかけにくい壁はあるのだが、タキオンは、それを壊しても良いという雰囲気は出していた。

 その内に、フリスビードッジボールが始まる事になって、松浦が田上の方に「田上さんはどうしますー?」と聞いてきた。田上は、愛想笑いをすると、「僕はいいです」と少し声を張って言った。

 松浦は、頷くと「オッケーです」と言って、親指をぐっと立てた。それが、松浦の顔の良さによって、様になっている格好だったので、田上は少しだけ嫉妬した。それから、松浦はまた同じような調子で「カフェはどうするー?」と聞いた。カフェが、首を振って答えると、松浦はまた親指を立てた。

 カフェがいなくならなかったのは、田上にとって少し都合が悪かった。今からタキオンと話せば、プライベートな話になる。それを普通に話そうと思えば、カフェの方に聞こえてしまうかもしれない。それでも、田上は、この時間を話さないまま、無為に過ごす事は、耐えられない事だったので、暫く黙った後に、低い声でこう言った。

「タキオン……。…今から、少し話をしても良い……?」

 タキオンは、微かに「うん」と頷いた。だから、田上はタキオンの伸ばされた足を見つめながら、少し考える間を取って、話し出した。

「俺……、……前のお前の方が好きだったかもしれない……。別に、今のお前も嫌いじゃない。……嫌いじゃない。……でも、俺と付き合ってからお前は確実に変わった。……良いのか悪いのかは知らないけど、……俺が、お前を弱くさせているような気がする……」

 タキオンがその時に、小声で「そんな事はない」と呟いた。

「……そんな事無いのかどうかは知らない……。……ただ、……お前を深みに引きずり込みたくはなかった……。深みに嵌まっている俺が居るから、……お前も俺を見捨てきれずに、一緒に深みに嵌まろうとしている……」

「……そうじゃない……」

「………そうじゃないのかな…?………お前が、傍に居てくれるって言うのは、…深みに嵌まっている俺からすれば、それ以上に嬉しい事はない。……でも、……でも、………お前を……弱くさせたくはなかった…」

 田上の心は、もぞもぞと頼りなげだった。行き先が覚束ないままに話を続けていた。

「………お前には、…俺のことは好きにならないでほしかった…。……好きでいてくれるのは本当に嬉しい……。…嬉しいんだけどね…」

 田上もここで話すことが分からなくなってしまって、口を閉ざした。タキオンは相変わらず、田上の肩に寄りかかったままだった。

 

 二人で暫く息だけをしていた。前の方では、リリックもエスも上手く松浦のところのチームと打ち解けることができたらしく、キャハハと笑い声を上げながら、楽しそうにフリスビー投げていた。三つ程投入されたフリスビーが注意をあちらこちらへ振り回しているらしく、ウマ娘でも、ヒトの松浦でも苦戦しつつ、楽しそうに体を動かしていた。マテリアルも負けず劣らず楽しそうだった。その視線やフリスビーが、よく松浦の方に投げられていると感じたのは、もしかしたら、田上の勘違いかもしれない。

 田上は、またタキオンと元の様に触れ合いたかったが、どうすればいいのか分からない。話しかけるにしても、何を話せばいいのか分からない。むしろ、先程の話は逆効果かもしれなかった。

 田上としては、自分の気持ちを打ち明けたかったし、状況を整理したかったのだが、話していくうちに、話の方向性が定まらなくなってきたので、自分でも段々と何を話しているのか分からなくなった。

 田上は、宝塚記念についてもっと奥の深い所まで話したかったのだが、いざそこへ行こうとしたら、タキオンは必ず逃げる。分からないとも言う。実際、分からないのかもしれない。そして、タキオン自身が分からないのならば、田上だって分かる術はない。それで、田上は、分からない自分が悪いのだから、タキオンに申し訳ないと、自分を責めるのだった。

 息をしているのは感じ取れる。自分の肺が、体内に空気を取り込んで、体が僅かに膨らむたびに、タキオンの体も僅かに膨らんで、二人の呼吸を共にする。この状況の中で、唯一心地良かったのは、それだが、その事がむしろ、二人の事態を進展させようとしなかった。

 実際、田上は、こういう沈黙の中にある心地良さも好きだったので、もうこのままでも良いんじゃないかと言う気がした。だが、この場に一声でもかけてくる者があれば、この心地良さは一瞬にして砕け散ってしまうだろう。

 田上は、その事をしっかりと自覚しておきながらも、この心地良さには抗えずに、ただ黙って息を吸って、吐いていた。

 

 二人で寄り添う心地良さに浸っているのにも、やはり終わりは来た。フリスビーが最後の一人を捉えて、試合が終わった。マテリアルたちが、フーやれやれと言いながら、カフェと田上とタキオンが座っている所へ、汗を拭き拭きやって来た。

 タキオンは、少し身動きをしたが、俯いたのみで田上から離れようとはしなかった。

 田上は、タキオンとの一時が無残にも打ち砕かれてしまったので、少しだけ気分を悪くしながらも、楽しんで帰ってきた教え子と補佐を見上げて出迎えた。

 エスは、松浦のチームの子に「エスちゃん強かったー」と言われ、肩を叩かれていた。エスは嬉しそうに頷いていた。松浦も「いやー、マテリアルさん強いねー」と汗を拭きながら言っていたが、不意に、田上とタキオンに目を留めると、目が合った田上に向かって話しかけた。

「アグネスさんの具合はあんまり良くない感じですか?」

「…いや、……ちょっと落ち込んでるだけですからね……」

「ああ」と松浦も納得した表情を見せた。それからは、田上たちに気を遣ってか、その休憩中は話しかけずにいてくれた。田上のチームメンバーは元より、田上に楽しかったことを報告する気など持ち合わせていないので、友好的で楽しい松浦のチームメンバーと会話をしていた。マテリアルが唯一、話しかけたそうに田上とタキオンに一瞥をくれたが、こちらも気を遣って話しかけてくれはしなかった。

 田上は、こう気を使われると、少し寂しいような気もしたが、二人だけでいさせてくれるのは有難かった。

 次には、カフェも立ち上がって参加した。先程と全く同じじゃつまらないので、今度はランダムになるようにグーとパーで分かれる事にした。その結果、マテリアルと松浦とエスと松浦のチームの子が一人と、その敵チームとして、その他の三人に、リリックがプラスされた。

 先程は、マテリアルやエスなどの見知った人がチームだったからよかったが、こう知らない人の中に、一人だけぽいと放り込まれると、リリックは少し具合が悪くなって、――こんなことなら、参加しなければよかった、と思った。

 そして、松浦の所の子たちが、これもまた体育会系なので、少し距離を取って話している分には良かったが、一緒にチームになってやろうとすると、肌質が合わないような気がした。

 そんなリリックの気も知らずに、田上とタキオンは、今度は正真正銘の二人っきりで、体育館の壁に背をもたれて座っていた。と言っても、話すべき話題も見つからない。先程の話が失敗してしまった以上は、無闇に話す事に、少しの躊躇いが生まれて、何を話そうにも考えるより先に口から話し始めたのでは、失敗するような気がする。それで、田上がまた、タキオンとの一時に幸せを感じ始めた時に、初めてタキオンの方から動いた。

 タキオンは、唐突に手を動かすと、田上の手を取って、握った。田上は、されるがままにその手を見つめた。タキオンの手は、少しの躊躇いを見せるように、田上に拒否されはしまいかと問うように、少しずつ少しずつ動いていた。そして、最後には、二人の手は指と指が組まれて、恋人繋ぎになった。

 田上は、これを見ながら考えた。

――ごめんと言うべきだろうか?

 しかし、今の状況でごめんと言うのもおかしいような気がした。田上は、これと言って謝るべき悪い事をしたつもりはない。むしろ、話せていない理由も曖昧なくらいだ。

 田上がタキオンを怒らせたのかもしれないが、怒らせたにしては、タキオンはそれ程怒っていない様な仕草である。だから、田上は、タキオンが落ち込んでいると解釈している。けれども、事の発端は、田上が、晩御飯について、タキオンの気持ちを察せず、すぐに折れなかった事のように思う。

 そうすると、悪いのは田上なのだが、常人ならば特に怒る程の事もない、晩御飯についての話し合いだったと思う。そこに宝塚記念という、目の前に差し迫った厄介事が顔を覗かせたから、事はこのように複雑になった。

 田上は、宝塚記念は絶対に避けられない話題だと思っているし、タキオンは、避けたい話題だと思っている。この齟齬が、二人の前に、厄介事として横たわっている。と言っても、田上だって、避けられない話題を解決に導けるとは思っていないので、どうにも宝塚記念というものは、二人にとって触れづらいものだった。

 ごめんと言うからには、言うべき理由が必要なするが、タキオン自体も田上に対して、そこまで怒っていないように思うので、ごめんは言わなくても良いような気がした。けれども、いざ話し出し見ようと思うと、ごめん以外の言葉は見つからなかった。これで、そのまま話し出してしまえば、また口から先に話しだして、微妙な雰囲気になる。

 田上は、事をなんとか穏便に進ませたかった。この話をしたら、最終的に二人の問題は解決して、二人は元のように触れ合える関係になるという話をしたかったのだが、何を話せばいいかも分からない。こうなると、口から先に話しだして、何とか上手い所に着地できればいいと思うのだけれど、田上は先程の失敗で、もう、とりあえず話してみる事には消極的になっていた。

 そうやって、ぼんやりと考えていたが、タキオンは相変わらず手を繋いでくれている。すると、田上の考えは、――タキオンはどう思っているのだろうか?という考察に移った。

 タキオンが怒っていないと言うのは、田上の予想である。怒っていないのならば、こう話しづらいのは、落ち込んでいるせいだと思う。ならば、具体的に何に対して落ち込んでいるのだろうか。

 田上が、晩御飯を作るうえで、宝塚記念に出走しなければならないタキオンの体が重要だと、バカ真面目に話したせいでこうなった。落ち込んでいるというのならば、これに対して落ち込んでいるのだろうと予想する。これが、果たして、田上がバカ真面目だったからなのか、宝塚記念の話題を出されたからなのか分からない。もしかすると、両方のようにも思う。

 または、タキオンが無闇に怒ってしまったから、その自責の念によって落ち込んでいるのかもしれない。この線も強いように思う。とすると、自分は何を話すべきなのだろうか?

 バカ真面目な自分は、二人の間にレースの話題が無ければいけないと思う。これは、自分の固い意志だ。元はと言えば、タキオンが選んだ道なのだから、その事に目を背けていては、勝てるものも勝てない。

 タキオンは、もしかしたら、勝つ気はないのかもしれないが、それでも、自分はタキオンのトレーナーだ。タキオンが引退を決意しない限りは、彼氏としてだけでなく、トレーナーとしても彼女を支えなくてはならない。

 これに対して、柔軟性が無いと批判されようと、トレーナーのあるべき姿として、担当をできるだけレースの方面で支えなくてはならないという信念がある。そして、レースをしたくないのならば、しなくても良い方向があるという事を、タキオンにもしっかりと示した。何度も示したが、それでも、彼女は走りたいと言う。そして、宝塚記念の話題は避けたいと言う。こんな複雑な人間を相手にして、田上も単純でいれるはずがなかった。タキオンの為に何かをしてあげたいと思うが、何もできない。

 そしてまた、初めの疑問に戻った。――タキオンはどう思っているのだろうか?

 こう考えてみると、タキオンは自責の念から落ち込んでいるように思う。元はと言えば、自分で蒔いた種に自分で苦しめられているのだ。田上は、トレーナーとしてだけでなく、彼氏としてもそこから彼女を助けてやりたいと思う。

 こういうのは、相手の気持ちに共感するのではなく、ちゃんと見るべき方向が見えるように、鷹揚な態度で接すればいいと聞いた事がある。相手の気持ちに共感して、こちらまで自信が無くなってしまったら、元も子もない。また、相手の気持ちに寄り添うだけでは前に進めない事もある。進むべき道を照らす態度も時には必要だろう。道はこっちにありますよ、と言うことができたら、タキオンも幾らか救われえるのじゃないだろうか。

 田上が、お前は宝塚記念に絶対勝てると言ったとしよう。田上だって、実際に、タキオンが負けるとは思ってない。万全なタキオンならば、勝てると思っている。しかし、万全ではないタキオンを目の前にして、絶対に勝てるとも思わない。そして、元々、このレースの世界に『絶対』はないのだ。タキオンだって、日本ダービーで二着に敗れた。その時だって、自分の足に対して、複雑な思いを抱いている頃だったろうが、今ほど落ち込んではいない。無論、その時は田上に対して嘘を吐いていた。この表現は露骨かもしれないが、少なくとも、田上は、タキオンから、研究以外は何もないという演技を観させられていた。今もそういう演技を見せられているかもしれない。タキオンの事だから――。

 そう思った後に、――彼女を疑うな、と田上は自分に言い聞かせた。少なくとも、タキオンは今困っている。走りたくもない宝塚記念に走り出そうとしているのかもしれない。はたまた、走りたいのだが、他の何かによって葛藤が起こっているのかもしれない。

 その真相を突き止めなくては、と田上は思った。

 その後に、――だが?と思った。

 自分は真相を気にするべきなのだろうか? タキオンに対して、鷹揚な態度で接して、行く道を照らしてあげるのならば、自分が真相を気にする必要はないのではないだろうか? 自分がすべき態度は、真相を探求することではなく、タキオンが話せるタイミングになった時に、彼女自身の口から話される言葉を、ただそのまま受けるとめるだけなのではないのだろうか。そうした方が、タキオン自身へのプレッシャーも少ないと思う。少ないとは思うのだが、……田上は、トレーナーの心として、その真相を追わなくては、と思った。そうしなければ、勝利にはつながらない。勝利を目指すのならば、真相を追わなければいけないように思う。

 そう思ってみると、勝ちに執着しているのは自分のように感じた。そして、その後に、改めてタキオンに何を話そうかと思うと、何も話す事は見つからなかった。ただ、田上は、タキオンと一緒に触れ合う事から得られる幸せを感じ取って、二人で夢の世界に浸りたいだけだった。

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