フリスビーやらバスケットボールやらを片付け終わると、一行は解散となった。時刻は四時だった。カフェは結局、ほとんどの時間を壁際に座ったまま過ごしていた。田上やタキオンは、カフェがなぜここに来たのか疑問だったが、カフェと松浦は、ここにカフェが来た理由を知っている。
偏に、松浦が誘ったからではあるのだが、誘った意図はカフェも知っている。松浦は、カフェを一人ぼっちにはしたくなかったからだ。基本、一匹狼であまり他人と馴れ合わないカフェであることを松浦は知っているのだが、これからを生きていく人間として、カフェという一匹狼でも、人間がどのように動いて、どのように考えるのかを感じておく機会は重要だと、松浦は考えていた。そして、それを実際にカフェに伝えていたこともあった。その事に、カフェもぼんやりと納得したので、遊んで馴れ合うかどうかは別として、これを経験として得られるように、松浦に誘われた遊びは、途方もなく気乗りしない場合を除いて、なるべく参加してあげるようにしていた。こういう機会を得る事で、実際にカフェも、人と人との付き合いをぼんやりと感じていた。そして、そういう考えを持って接してくれた松浦に、感謝もしていた。
道具を片付けて、また元の壁際に田上たちは戻ってきたが、もうすでにカフェはいなかった。もう自由に解散していい時間だったので、当然と言えば当然なのだが、田上は、遊びに来たくせに、淡白に帰っていくカフェが不思議だった。その事をタキオンに言ってみると、「そんな奴だよ」と返された。確かに、そんな人ではある。しかし、田上はその一連の行動の不可解さを、まだ少しの間、疑問に思っていた。
体育館から出てきたとき、タキオンは、取りたいものがあるから、と自分の寮へ行って、田上を待たせた。タキオンが再び寮から出てくると、その手には一冊の本が握られていたから、田上も、暇潰しの為なんだろう、と察することができた。
それから、田上とタキオンは、また手を繋ぎながら、トレセンの正門から外のほうへ出て行った。門から出て行く時は、何だか奇妙に思った。帰り道は、この道であっているのだが、今自分は、今まで住んでいた部屋を背にして進んでいる。これも慣れれば違和感は消えるのだろうが、自分の生活の移り変わりを感じずにはいられなかった。
電車の中で、田上とタキオンは、二人並んで座っていた。タキオンは、電車に乗る際に放された手も、座っている今はしっかりと握っていた。田上は、大衆の面前であまり手を繋ぎたくなさそうな様子だったが、タキオンは、敢えて、そんな事は無視して田上の手を握っていた。ただし、前の様な恋人繋ぎではなく、田上の握られた拳に、タキオンがそっと自分の手を覆いかぶせているだけだった。それでも、田上は、居心地が悪いには悪かった。
最寄りの駅を出ると、二人は、自分たちの家へとのんびりと歩いた。車が行き交う大きな道を歩いて、信号を渡り、そこからまた少し歩いて、脇道に入り、同じようにこの道に入ってきた車を避けながら進む。そして、左に曲がると、自分たちの住むアパートが見えた。赤みの強いココア色の、突出した特徴のない固いアパートである。そこを自分たちの家だと思って見てみると、改めて、奇妙な事のように思う。まるで、自分の意思とは関係なく、すべて大波に流されて、ここまで時間を過ごしてきたのではないかと思う。
実際、タキオンに流されてきたのかもしれないが、自分が、ここまで来たかったというのもあった。そして、来たかった場所を目の前にして、自分たちがどこを目指していたのか見失った。ただ、――自分の選択は一体いつなされたのだろう、と思うだけだった。
玄関の戸を開けた。田上は先にタキオンを入れた。タキオンは、その気遣いに「ありがとう」と礼を言って、先に入って靴を脱いだ。田上もその後に続いて、靴を脱ぎ、家に上がった。
帰り着いた時には、四時半をとうに過ぎていた。田上はこれからしなければならない事を思うと、面倒で、思わずため息を吐いた。タキオンは、玄関で手を洗っていて、それが終わると田上に聞いた。
「晩御飯の食材は何もなしだろ?」
「うん」と田上は多少疲れ気味に頷いた。タキオンも、その声色から田上の状態を察することができた。ただ、タキオンも今日は、田上に晩御飯を作ってあげたいという気持ちがあったから、どうしようかと考えた後に、こう言った。
「君、疲れてるだろうから、私だけで買ってこようか?晩御飯は、ハンバーグで良いんだろ?」
「……んー……、うん。大丈夫。ちょっと顔洗ってみる。 俺も行くから、ちょっと待ってて」
タキオンは、分かったとだけ頷いて、洗面所の戸の近くで、その戸の模様をぼんやりと見つめていた。田上は、顔を洗うと少しはすっきりしたので、タキオンに「行こうかな」と告げると、帰って早々、また出掛ける事となった。
「こんなことなら、そのまま買いに行った方が良かったかもね」とタキオンが言ったが、田上は、「どっちでもいいよ」と答えて、タキオンと手を繋いだ。
籠を入れたカートを押しながら、田上はハンバーグを作るのに必要な材料をタキオンに言った。そして、それを二人で生鮮食品の所だったり、調味料の所だったりを回りながら、手に取って籠に入れた。田上は、こうして二人で回っていると、昨日のことが嫌でも思い起こされてきたので、その思い出に終止符を打つためにこう話した。場面は、二人で、明日の朝に食べるパンをのんびりと選んでいる所だった。
「………俺って、……自信ないくせに自尊心だけ高い、嫌な奴だろ」
「……そんな事はないが?」とタキオンは平然と返事をした。
田上は、それに返す言葉を考えながら、細切れになったハムがちりばめられたパンを見つめて、一度籠に入れてみたが、その後にやっぱり気が変わって、棚に戻した。
「……そんな事はない?」と田上は結局オウム返しに聞いた。タキオンもパンを選んでいる最中だったが、すぐに田上の方を見ると、「そんな事はない」と返した。話が思うように進まなかったので、田上は少し不愉快だったが、また食パンを見つめ、――これで何か作るか…? と考えながら言った。
「………自尊心はあるよ…」
「……そうかな…?」
「……ある。……だって、…俺は誰かに軽蔑されたくないから…」
「……私の前では?」とタキオンが、選んでいたパンから目を離して聞いた。
「………お前の前でだって、ない事もない。……軽蔑されたくないから。……お前にだって軽蔑されたくはない…」
「………君の事はできる限り許せるように努めてきたし、…喧嘩しても好きだという事は伝えてきたつもりだったんだがね…」
田上は、少々喉の奥に涙の塊がある様な心持ちになりながら、パンを見つめた。昨日、タキオンが洗濯機の前から怒って去って行った時と、視界は似たような心地になった。
パンを見つめているのだが、その情報はまったく頭に入ってこない。脳裏で、考えが常に閃いては消えていく。その中で、田上はなんとか自分の思考の糸を手繰り寄せて、言うべき言葉を探し当てた。
「………俺は、………女の人を徒に傷付けるような人は嫌いだよ……」
「………つまり、…自分が嫌い。…そういうことかい?」
田上は、それを口に出して認めるのが嫌だったので、ただ頷くだけにした。
「………すると、…自分が嫌い、…つまり自分に自信が無いという事だろうから…、自信が無いくせに、自尊心があるというのは間違いじゃないのかな?」
田上は、タキオンが変な方向に話を持ってきたのに気が付いて、タキオンの方を見た。タキオンは、パンの方を見ていたが、田上に見つめられているのに気が付くと、「だろ?」と少し髪を揺らして聞いた。
「……うん…」
「……だから、自信が無いくせに自尊心はあるというのは間違いで、本当は、自信が無いから自尊心があるというべきじゃないかな?」
田上は、あんまり良く分からないままに、「うん…」と適当に頷いた。タキオンは、田上があんまり良く分かっていなかったことに気が付いたので、暫くその顔を見つめた後に、こう説明した。
「…………君は、女を徒に傷つける人を嫌っているんだろ?」
「……うん…」
「…それは軽蔑しているという事で良いんだよね?」
「…うん…」
「…じゃあ、…自信の無さと自尊心は同時に、君の周りに存在しているわけだ。…鶏が先か、卵が先かは知らないが、自尊心は、君の中に存在する『女を傷つけたこと』を軽蔑している。その軽蔑が、自分に向かっているからこそ、君は自信を失う。…そうすると、自尊心が先に……。…いや、…軽蔑されたくないわけだから、……どっちが先かな……。……自信が無いと…、自尊心は……生まれそうな気もするんだがな…。……自信が無いと、自分が軽蔑されるのを恐れる。…だから、軽蔑されないように、自分をできるだけ大きく見せる。そして、軽蔑という言葉が、自信の無さにも自尊心にも付き纏ってくるわけだから、……軽蔑されないように自尊心が他の人を軽蔑する?……飛躍のような気もするな……。君はどう思う?」
田上が、黙ってタキオンの独り言を聴いていると、唐突に自分の方に話題が振られたものだから、田上は「何が?」と聞き返した。
「……君の自尊心は、他の人を軽蔑しているのかな?」
「………してるかもね…」
「……私は?」
タキオンがそう聞くと、田上はタキオンから目を逸らした。
「……場合によってはしてると思う…」
「……そうか…」とタキオンが難しい顔をして見せると、田上もまだ言いたかったが胸の内に秘めていた言葉を、取り出せそうな気がしたから口を開いた。
「……ただ。……お前を軽蔑するってよりかは、感覚として、お前の向こうに居る俺を軽蔑しているって言い方のほうが誤解が無い」
「…ふむ。……君が度々口にする、――お前の向こうに居る俺、というのがあんまり私も理解できないんだよね。……無論、君が自己嫌悪しているのは分かっているが、……私…は背を向けているのかい? そのイメージの時には」
「……向けてない」
「……君に近寄ってきている?」
「……そうかも…」
「近寄ってきてはいない?」
「……そうでもある…」
「…君の方を見てきていて、…君の言葉は、『君のイメージの中での私は、君に好意を持っている』という解釈で良いのかな? 近寄って来るイメージがあるのならば、私は少なくとも嫌いではないと思うのだが」
「……多分」
「……となると、…私は、好意を持って君を見ている。その後ろに君が居る。その君はどういうものだい?…どういう人間?」
「……どういう人間?」と田上は、質問の具体的な意図が分からずに聞き返した。
「んー、……どう言えばいいかな…。暗い? 明るい?」
「……暗いだろうね…」
「……その君は私にどういう影響を及ぼしている?」
「……影響…」と田上は考えながら呟いた。その時に、おばちゃんが「ちょっと失礼」と言うと、田上たちが目の前に立っていたパンの棚に手を伸ばしてきたので、田上は今まで自分たちが邪魔だったことに気が付いて、慌ててそこから離れた。
そうした後に、タキオンを見ると、彼女は答えを待つように自分の事を見てきていた。田上は再び考えた。タキオンの後ろに立っている自分は、自分の事を見つめてきている。田上もその自分を見つめ返している。タキオンの後ろにいる自分は、タキオンの背後霊の様なものだ。明るくはない。どちらかと言えば暗い。タキオンは、その影響を受けていないが、自分はタキオンを引っ張って、暗い所へ引きずって行きそうな気配がある。それと同時に、自分がタキオンの背中を捉えて、自分の方へ視線を向けさせているような気もする。
ただ、具体的に影響と言われると、言葉にするのは難しかった。現実のタキオンもイメージの中のタキオンも、田上が好きで見てきてくれているのかもしれないが、イメージの中のタキオンは、田上が操って視線を向けているような気がする。それでいて、そのタキオン自身は、自分からこちらを向いているような気もする。この感覚の差が曖昧だった。
暫く田上がそうやって考えていると、タキオンが口を開いた。
「私には影響を及ぼしていない?」
「んー……」
「……私に言い辛い事をしていたりするのかな?」
「んー…」と唸りながら田上は、タキオンの顔を見た。タキオンはズバリ当ててくる。流石に、自分の惚れた人である。察しはいい。
それでも、――何て言おうか、と考えていた。
タキオンは、今度は口を開かないで、待ってくれている。田上の扱い方は大分心得ている。そう思うと、田上は心の中で自嘲した。そして、現実でタキオンの方を見ると、口を開いた。
「……微妙なとこなんだけどね…」
「うん」
「………微妙…。……お前は、……俺に操られているような気がする。…それでいて、操られていないような気もする…」
「……ふむ」
「…それだけ」
「…ふむ。………私を信用してない?」
「そうかも」と田上が言いかけた直ぐ後に、タキオンが言った。
「いや、あんなに私に甘えてくるのに、信用していないわけないか」
それで、二人は目を見合わせた。タキオンは、田上が「そうかも」と言いかけたのをバッチリと聞いている。そして、ニヤリと笑った。
「他の人には見せない姿を見せてくるだろう?」
「……それで信用しているとも言えない」
田上が、外見上は淡白にそう言い返したが、タキオンは顔から笑みを消さなかった。
「…いや、実際、私のことを信用してくれているよ」
田上は、何も言わずにタキオンの事を見つめ返した。
「…だって、信用して無ければ、彼女に――信用してない、なんてこと言わないもの」
「……そうかな?」
「そうだよ。彼女を傷付ける人間だって、君は自分のことを悪く言うけど、彼女の事を傷付けても良いと思っているくらいには、信用してくれている」
田上は、タキオンから目を逸らした後に、こう言った。
「………あんまり良い事でもないよ」
「……そうかな?」
「……だって、お前は俺と喧嘩して嫌な気分になるだろ?」
「一過性さ。その後すぐに、君に怒ってしまった事を後悔する」
「……後悔はあんまり良い感覚じゃないだろ?」
「…でも、君と一緒に居たくなる」
「………何でお前は俺のことが好きなの?」
そう言った後に、田上は自分たちの周りにいる人たちの存在が気になった。誰か聞き耳を立てているんじゃないだろうかと思って心配だった。
「………君の全て。…君の事を愛してる」
田上は目を伏せて、自分たちの籠に入っている食材等を眺めた。
「………俺は、そんな言葉は信用しない」
「知ってる。だから、ずっと傍に居るよ。嘘じゃない。君を一人ぼっちになんてさせない。……喧嘩してもその度に仲直りをする。…それで満足だろ?」
田上は、少し困りながら、籠の中身を見つめた。満足であるのかもしれないが、満足でないのかもしれない。実際、今日の朝の時間を思い返しても、あの時は満足で満ち足りていた。あの瞬間は幸せだった。二人きりの時間だった。あの瞬間にこそ、愛はあるのかもしれない。
逆に、あの瞬間以外には何があるのだろうか…。今も、タキオンと買い物をして、ある程度、以前の自分よりかは満足した自分が居る。今この瞬間だって、満足な事には満足だろう。幸せであることは確かだ。けれども、何か、タキオン以外を求めている自分もいる。二人きりの時間の中では、タキオン以外は求めなくても良かったかもしれない。布団の中に、二人で一緒に入って、お互いの温もりを感じられる近さにいれば、世界は二人だけの空間にまで狭められる。それ以外の世界はない。
しかし、そこから一度外に出て行ってしまえば、世界は二人だけではなくなる。このようなたくさんの人のざわめきの中で、パンの棚の前で邪魔をして話す事になる。そして、実際に邪魔だと言われる。
田上は、一頻り考えてみたが、果たして自分には何が足りないのか分からなかった。タキオンは、彼女らしく優しく根気強く待ってくれたが、結局答えを出せずに、田上は「買い物に戻ろうか」と言った。
ただ、タキオンは、会話の続きを待っていたので、田上にもう一度「満足だろ?」と聞いた。田上は、また少し考えた後に、「お前といる時間は嫌いじゃないよ」と言った。タキオンは、田上がはぐらかしたのを知っていたが、同時に、田上が今すぐ答えを出せないのも知っていたし、タキオン自身にとって、その答えが嬉しくないものでもなかったので、それ以上は何も言わずに、ただ仲の良い夫婦の様にまたパンを選び始めた。
買い物は何事もなく終わって、二人で荷物を抱えながら、帰り道を辿っていった。二人は、何気ない会話を繰り返しているだけだったが、あのパンの棚の前で話していたときの雰囲気は、ぼんやりと二人の間に漂っていた。だから、田上も多少寡黙だったのだが、二人の会話は何事もないかのように進められていた。
その内に、何も会話のない空白ができた。二人共、特に何かを話そうと思って話していなかったので、その沈黙があっても気にならなかった。タキオンが何を考えているのかは分からなかったが、田上は先程のパンの棚の前での話をずっと考えていた。
タキオンの事は好きだ。タキオンくらいに自分の事を考えてくれる人はいない。父だって、自分の事はある程度まで考えてくれるが、タキオン程深く心に割って入ったりはしない。無論、父もしようと思えば、自分と心から話そうとするだろうが、家族以外ではタキオンだけが唯一自分の事を考えてくれる。そして、父には話せない感情も今のタキオンなら話すことができる。タキオンは、自分を愛してくれている。
そういう感情は確かにあるが、不安が無い事もないし、未だに、タキオンを幸せにできる気はしない。タキオンを疑う事もなくはない。タキオンが自分を好きでいてくれるという事は確かに分かるのだが、どうも、その背後に自分がいる気がしてならない。そういう矛盾を持つ。それに、自分からのタキオンへの思いを深堀して行こうと思うと、どうしても、『女子高生』という単語が途中で待っている。
タキオンが、最近、田上好みの服装や髪型をしてくるようになったのも、その『女子高生』という単語の雰囲気を消そうと努めているからかもしれない。そうすると、田上は、タキオンに気を遣わせてしまっているのが、申し訳なくなる。
実際に、タキオンが気を遣ってくれないとどうにもならないという場合は、タキオンの気遣いに物凄く感謝をするのだが、こう平然としていると、彼女に気を遣わせるような男がどうも不幸せな人間のように思える。
田上の思考は、話すべき言葉を探しながらも、どうにも見つからずに、ふらふらと彷徨するばかりだった。田上は、何を話すべきか、全く心当たりや予想が無いままに、適当に自分たちの関係を思い返していた。
その内に、タキオンが唐突に足を止めた。だから、田上は遅れた彼女の方を見た。タキオンは、家の塀の上部を一生懸命見つめていたので、田上は「何を見てるの?」と聞いた。
タキオンは、田上をチラリと見ると、「かたつむり」と言って、またそこの所を見つめ始めた。田上は、別にかたつむりなどに興味はなかったが、彼女がしている事に興味があったので、隣まで歩み寄ると、塀の上を覗いた。大の大人二人が、肩を寄せて、一匹のかたつむりを見ている。
かたつむりは、うねうねと動きながら、塀の奥の方へと行こうとしている。そこに、タキオンがふっと息を吹きかけると、かたつむりは黒い目をびっくりしたように伸びたり縮めたりさせた。そして、また進み始めると、今度こそ塀の陰に隠れて見えなくなった。
二人は、まだ少しの間、そこを眺めていたが、田上が――タキオンはなぜ動かないのだろう? と思って、タキオンを見ると、タキオンもこちらを見てきて、「なんで出発しないんだい?」と聞いてきた。田上は、答えに迷って、少し黙ったが「さぁ?」ととりあえず答えておいた。
「さぁ?」とタキオンが聞き返してきていた。田上も特に意味はないので「さぁ」と適当に頷きながら答えておいた。タキオンは、面白い物を見るような目つきで、しばらく田上の事を見てきていたが、やがて、フンと面白そうに鼻を鳴らすと「いいや。行こう」と田上に呼び掛けた。田上は、その後ろから少し遅れて付いていった。
その事にタキオンが気が付くと、田上が自分の横に来るまで待った。
時刻は五時半を優に過ぎて、もうすぐ四十五分になろうとしていた。田上とタキオンは、まだ帰り道を辿っていた。
タキオンは、先程からチラリチラリと田上の事を見てきていたから、田上はなにか話したい事があるのかと思って、タキオンと目を合わせたが、タキオンは何も言わずにおもむろに目を逸らすだけだった。
こういう場合は必ず何かある。良い事にしろ、悪い事にしろ、何かあるのかもしれないが、田上は、わざわざ問い詰めて、今の幸せな時間の中に波風を立てるような真似はしたくなかった。それに、タキオンの表情の取り方から、それ程重要な事をタキオンが隠しているわけでもないだろうと思った。軽く微笑みを浮かべて、今からする悪戯の事を考えていそうな表情だ。悪戯かどうかは知らないが、そんな感じの表情であれば、わざわざ聞かなくてもその内タキオンの方から言ってきそうだった。
そんな感じで、タキオンを放置していると、前の方から自転車が走ってきたので、田上がタキオンの後ろに避けて、道を譲った。自転車に乗っている人は、田上たちに軽く頭を下げて、そのまま走り去っていった。
そして、また田上たちは歩き始めた。相変わらず、タキオンはチラリチラリとこちらを見てくる。――話したいなら話しかけてくれればいいのに、と心の中で思いつつも、タキオンの話を聞いて、よく分からない事をするのは面倒だったので、タキオンを放置している。ただ、いつものタキオンらしくないのは分かる。冗談程度の物なら、タキオンは簡単に言ってくるはずだ。気兼ねなんて、喧嘩した時くらいしかしない。
果たして、何を考えているんだろうか? とタキオンの顔を見てみると、時間が経ったからなのか、先程よりかは真剣そうな顔で悩んでいる。これは、物思いに耽っていると形容しても良さそうだったので、田上は、また放置をする事にした。どちらにしろ、タキオンは考える事が好きな性質だと、田上も知っていたから、その内言いたい事を見つけて、自分に話しかけてくるだろう、と思っていた。
それから、田上の予想通り、もう家も近くなった頃に、タキオンが口を開いた。
「君、幸せかい?」
「ん?」
「…幸せかい?」
「うん」と田上は、半ば適当に、半ば本心にそう答えた。
「……私の提案は良かったと思ってる?」
「提案?」
「…私が、二人の家が欲しいって言っただろ?」
「ああ。…うん。良いと思う。あそこは、寮よりか大分寛げる」
「…そうだね」とタキオンは、嬉しそうに穏やかに地面を見つめて頷いた後、また田上を見て言った。
「……私も二人の時間が好き」
こう言われると、田上は、目を逸らして、他人の家のお洒落な塀の彫りを見つめた。メルヘンチックな西洋風で、色は、カステラの様な色をしていた。それでいて、塀の上部は、瓦の様な施しだった。特に、興味はなかったのだが、こうお洒落な塀、そして、その塀の向こうにあるお洒落な家を見ると、――自分たちもこういう暮らしをするのだろうか? と思った。庭に白いブランコを置いて、そこで娘がはしゃぎながら遊ぶのだろうか?
そう思っているうちに、田上はタキオンへの返答のタイミングを逃した。別に、今言っても良さそうな気はしたが、言ったとしても、何を言えばいいのかは、また考えなければならなかった。
田上は、――タキオンが傷付いてたりはしないだろうか?と思って、隣のタキオンをチラリと見てみたのだが、特に傷付いたような表情ではなかった。そして、「二人の時間が好き」という発言について考えてみた。
これの意味は、タキオンが田上に惚れているという意思表示なのだろうが、少し胸がざわついた。――なんでざわついているのだろう、と少し考えると、タキオンには自分を好きでいてほしくない、という言葉が生まれた。
タキオンが『女子高生』というのもあるだろう。自分がタキオンにふさわしくないと思っているのもあるだろう。しかし、それらを解決する術を田上は持っていなかったから、結局、タキオンの言葉に返答しないまま、一階の左から二番目の部屋へと帰宅した。
田上は、自分の新しい家を玄関から見つめた。まだ、荷物が乱雑に散らばっている痕跡がある。あと一週間ほどは、こうして荷物が散らばったままになるかもしれない。そして、また一週間したら、タキオンはここへ戻ってくる。
田上は、その事を考えるともなく考えた。心のどこかでは、ずっと一緒に住んでいてい欲しいとも思っていたし、反対に、このまま付き合い続けるのもどうかと思っていた。――どこかで、振るべきなのだろうか?
田上は、先に靴を脱ぎ、部屋にあがって振り返ったタキオンの顔を、少し潤んできそうになった目で見た。田上は、この人の事が好きだった。この人と別れたくはなかった。
そう思いながら、自分も靴を脱ぎ始めた。
タキオンは、先程の買い物の時に一緒に買っていたエプロンを身に纏って、台所に立った。レシピなどは、スマホで調べれば簡単に出てくるのだが、タキオンが「見ててほしい」と半ば甘えるように言ってきたので、田上は少しの喪失感を胸に燻らせながら、タキオンの横で、作る姿を見守った。時折、「これは?」と聞いてくることがあったので、そういう時には丁寧に教えてあげた。元々、タキオンの飲み込みは早い方だったので、田上が少し教えれば、大体の感覚はすぐに掴めるようになっていた。
田上は、タキオンの横に立って、その包丁を握る手つきを見ながら、自殺の事を考えた。最早、自分とタキオンの関係を切り離すには、自殺で無理矢理住む世界を分かつしかないだろうと思う。そうなって初めて、タキオンはこんな駄目な男に執着しない方が良かったと思うかもしれない。
――本当にそう思うだろうか?
心底から、彼氏の事を信じ切っているタキオンの事だ。まず、自分が死んだとなれば、大いに悔やむだろう。そして、なぜ助けてやれなかったんだと自分を責めるだろう。
そう考えると、田上は改めて、タキオンの事を、心根の優しい良い子だと思った。そして、そこら辺に転がっている石の様な自分は、気にしないでほしいと思った。人助けなんかに精を出さないで、自分の幸せを掴むために動いてほしいと思った。こんなことを伝えても、タキオンは全く取り合わないだろうから、自分には自殺しか選択肢はないのかと思ってしまう。
今の田上には、自分がタキオンを幸せにできるとは思えなかった。何故と言えば、自分が彼女を傷付けるような人間だし、そこから全く変わることができていないからだ。このまま一生独り身で死んでいくのも、最早運命だったのではないかと思う。その前に、何とかタキオンだけは幸せになってほしい。もうすでに、自分は幸せになることを諦めている人間だから、タキオンだけは幸せになりたい人間と付き合ってほしかった。幸せを空想できる人間といた方が、タキオンも幾らか救われるだろう。いつまでも根が暗い自分の傍に居たって、何の得にもならないはずだ。
これをタキオンに言ったって、どうせ、「好きだから」と言われるのだからしょうがない。この際、思いっきり頬を叩いて、別れを切り出してみるのはどうだろうか? これなら、タキオンは多少のショックを受けるかもしれないが、そもそもそんなことはしたくない。タキオンの顔を叩くくらいなら、自分の顔を叩いた方がマシだ。そんな事をして、正真正銘の屑にはなりたくない。
それに、例え、自分が思いっきり叩いたとしても、タキオンなら、叩きたくて叩いたんじゃないって事をすぐに見破るだろう。それで、多少ショックを受けながらも、田上から話を聞き出そうとするだろう。これでは意味がない。自分が、正真正銘タキオンの事を嫌いになった時に、その行為をしなければ、タキオンは絶対に突き放せない。そして、タキオンは、田上の事を想ってくれるこの世で唯一の女性だったから、田上は容易に嫌いになれそうになかった。
その後に、タキオンに自分を嫌いにさせるのはどうか? と思った。突き放すのではなく、タキオンが自ら田上の事を嫌いにし、幻滅させて、離れさせる。今までの行為でも嫌いにならなかったタキオンの事だから、それは容易ではないだろうが、せこせこした嫌な事をタキオンの前でし続ければいいのではないのだろうか、と思った。
例えば、事ある毎に舌打ちをするとか、店員に横柄な態度を取るとか、鼻くそを指でほじって、机に擦り付けるとか、そんな事をすればタキオンは幻滅しそうな気はした。ただ、これを考えついてみて、やっぱり思ったのは、タキオンに嫌いになってほしくないという事だった。嫌いになってほしいという罪悪感と、嫌いにならないでほしいという矛盾した感情の中で、田上はどちらを頼るべきかずっと決めあぐねていた。
タキオンなら、こんな自分でも許してくれる。しかし、自分はこんな自分の事を許したくはない。そんな葛藤の中で、タキオンがトン、トン、トンと野菜を切って、包丁とまな板が鳴らす音のリズムを感じていた。
もうすぐ七時になろうとしていた。タキオンは、肉をジュウジュウと音を立てながら焼いていた。田上は、その音を、隣の部屋で荷解きをしながら聞いていた。パソコンを置く予定の所に、まず適当に段ボールを置いて、それを机代わりにしていた。この後、机を買う予定ではあるのだが、背の高い机ではなく、床の上で胡坐になって触れるような机を買う予定だ。
今は、黒いコード二つを見つめながら、これがどこに差すコードだったのか考えている所だった。田上がタキオンの傍から離れたのは、タキオンの傍でずっと調理を見ているだけなのも退屈だったし、タキオンも調理に慣れてきたので、離れても良いというお許しが出たからだった。
こうして、隣の部屋で恋人が調理をする音を聞いていると、否が応でも、結婚した時の事が思い起こされる。結婚したら、二人で毎日こういう生活を送るのだろう。タキオンの未来がどうなるのか、まだ想像はつかないが、田上の理想としては、タキオンが、自分の母がそうだったように、帰ったら家にいて、ご飯を作ってくれたら嬉しいと思った。そして、また、結婚の事をあまり考えたくもなかった。
今の時間が心地良くない事はないが、これをすぐに結婚と結び付けてしまうと、途端に居心地が悪くなる。未だに、自分が女子高生に手を出している悪い大人という考えは消えない。こんな考えはどうやったら消えるのだろうか? 一度夫婦になってしまえば消えるのだろうか? 自殺をすれば、それこそ正真正銘、自分の感情は自分の存在ごとこの世から消えてなくなるだろう。しかし、同時に、これからの未来をタキオンと生きたくもある。
タキオンに一生を共にしてほしいと思いつつも、こんな悪い男にひっかからないで、早く次の男を見つけてほしいと思った。
恋はコントロールできる物じゃないと、田上はよくよく分かる。実際に、タキオンという仲の良い人物を前にして、恋してしまったのだからそうだ。だから、タキオンもきっとそうだろう。もし、田上が失踪や自殺をしたとすると、もしかしたら、数年は引きずるのかもしれないが、その内に、タキオンを慰めてくれる優しい男性が現れれば、タキオンもその人の事を好きになるだろう。なにも、一生のうちに人を愛するのは一人だけじゃないと、離婚した人たちが表している。かと言って、自分以外の人を好きになってほしくはないが、タキオンは、恐らく自分が生きているうちは、自分だけを見つめてくれるだろう。
それが、タキオンの目を曇らせているのじゃないかと、田上は思った。別に、こんな人間振ってもらっても全く構わないのだ。端から自分の幸せを諦めている人間だから、これ以上不幸せになったところで、それが運命だと納得するだけだ。未来に希望なんて持っていないのだからしょうがない。
そんな事よりかは、タキオンは自分と近い歳の優しい男性の事を好きになってほしい。そうすれば、田上だって安心だ。一番愛する人が幸せになってくれるのだから、これ以上の幸せはない。無駄に自分に骨を折らせて、歳を取ってから後悔させたのでは遅い。まだ、あと数年の内は取り返しが利く。その内に、どうにかして別れさせてあげなければ、タキオンが不幸せなままに二十代という華やかな青春期を過ごしてしまうだろう。自分の不幸にタキオンを付き合わせてはいけなかった。
ただ、やっぱり、タキオンを振ろうと思うと、田上には覚悟が足りなかった。
そう考えているうちに、タキオンが隣の部屋から顔をひょいと覗かせて、「もうすぐできるよ」と言った。そして、背中を丸めてじっと手に持ったコードを見つめている田上を見ると、「まだ、コードをどこに差すのか分からないのかい?」と聞いた。
田上は、エプロンをつけて襖の脇に立っているタキオンを、振り返って見た。それを見ると、どうしようもなく心がざわつく。その内に涙が出てきそうになるのを堪えながら、田上は「うん…」と涙を押し殺した声で頷いた。
タキオンには当然、田上が落ち込んでいるのが分かったが、生憎今は火を使っているのでそれを適当に放置しているわけにもいかない。けれども、田上も同様に放置して、寂しい思いをさせたままでいたくはなかったので、タキオンはとりあえず、役割を与えておくことにした。これをしていれば、とりあえず、田上が決して一人ではないという事は感じられるだろう。
だから、「皿とか、食器の準備をしておいてくれ」と頼んだ。田上は、一拍空けた後に「うん…」と頷いて、タキオンに顔を見せないまま立ち上がった。
タキオンは、何か言葉をかけてやろうかと思ったが、簡単に言葉を思いつけないし、ハンバーグの世話もしないといけないので、とりあえず、ご飯を作り切って、それからご飯の時にゆっくり話をしようと考えた。
ハンバーグを皿に乗せ、炊いたご飯を茶碗に入れて、副菜に作った小松菜を小鉢に入れると、電灯の下の食卓は完成した。
田上は、湯気の立っている白いご飯と、ハンバーグの肉の匂いを嗅ぐと、腹が空いて、少し元気が出てきた。タキオンは、得意気な顔で田上に「どうだい?」と食卓に完璧に並んでくれた料理の感想を聞いた。まだ食べていないので、味は分からないが、とにかく美味しそうではある。
だから、田上は、少し微笑むと「美味しそう」と答えた。現に、お腹はもう今すぐ目の前の食べ物を胃袋に入れてほしいと叫んでいた。田上の答えを聞いて、タキオンも嬉しそうに微笑むと、「いただきます」と手を合わせてから、食事に手をつけ始めた。田上もそれに倣って、「いただきます」と手を合わせると、白いご飯を口に入れた。
思ったよりも熱かったが、むしろ、その熱さが美味しいくらいだった。田上は、その後に、ハンバーグにソースをつけて、一口口に含んだ。肉汁も少し熱かったが、肉の匂いが口の中に広がるにつれ、美味しさも同様に増していった。
田上が、思わず口角を上げながらハンバーグをもぐもぐしているのを、タキオンは嬉しそうな表情で静かに見つめていた。そして、田上が口の中のハンバーグを飲み込んだと思うと、「どうだった?」とまた問いかけた。
田上は、先程よりも大分満足気な顔をしながら「美味しかった」とはっきり言った。タキオンは、「良かった」と言うと、これも自分の作った小松菜の胡麻和えに手をつけた。これも同様に、口の中に甘味が広がって、上手い出来に作れたと思った。
丁度、田上もこれに手をつけていたから、その感想も聞いた。田上は、「美味しい」と答えてくれたから、これでタキオンの料理は全て上手く行った。白米は、言わずもがな、美味しい。タキオンも「美味しい…」と呟きながら、暫く自分の腹を満たしていた。
暫く経って、自分の腹が大分満たされてくると、タキオンは田上の方を見て話しかけた。
「君……、私に何か言いたい事があったりしないかい?」
田上は、美味い美味いと思いながら食べていた所だったので、唐突に話しかけられて「言いたい事?」とあんまりピンときていない様子だった。
「美味しい?」ととりあえず、田上が答えてみると、タキオンは嬉しそうに笑いながらも、「違うよ」と言った。
「君、少し落ち込んでいただろ?」
「ああ」と田上は納得した声を出した。そして、タキオンから目を逸らして、自分の目の前のご飯を見つめた。タキオンにどう言おうか迷っていたのだが、今は、美味しい物を食べて、多少気分も良くなっていたので、またこう言った。
「落ち込んでただけだよ」
「教えてくれないか? 良い話のタネになるだろ?」
「……話のタネ?」と田上は少し嫌そうに答えた。
「そう。私だって、君の彼女だから、君が落ち込んでいたら少しは気になるんだけどね」
田上は、またご飯を一口食べて、もぐもぐし、飲み込んでから言った。
「いつもの事だよ…」
「…いつも?」
「……」
田上が、上手い事答えられないでいると、タキオンが言った。
「…私に申し訳ない? …自分の事が嫌い?」
「……そんな所」
すると、タキオンは少し考えてから口を開いた。
「………私、…前も言った事がある気がするんだけどね? 君、忘れているかもしれないと思って。…私、本当に君に感謝しているんだよ? 私が自分の足の治療を頑張っていた時もそうだ。その事は、君にとってはあんまり良い思い出でもないかもしれないが、とにかく、あの頃支えてくれたことだけは知っている。それに、それだけじゃない。付き合ってからも、私は多大な迷惑を君にかけた。それでも、君は私の事を好きでいてくれたんだ」
田上は、反論せずに睨むようにタキオンの事を見つめていたが、やがて、目を逸らして、ご飯を見つめた。ご飯はもう、湯気を立てなくなっている。
タキオンは、田上がどんな反応をするか、暫く見つめていたが、どうも返答はなさそうだと分かると、話を続けた。
「私、本当に君の事が好きです。君のこれからの人生を支えていきたいと思っています。君が、どんなに自分の事を憎んでいようと、どんなに私を突き放そうとしようと、私は君の隣で、君の体を支えて生き続ける覚悟です」
唐突な敬語に、田上は重い頭を少し動かして、タキオンの方を見たが、顔を見る勇気は持てずに、ただその視界の端に映るタキオンの洋服の袖を見つめていた。
タキオンは、長い事田上の返事を待ってくれていたので、田上も考える時間を持てた。そして、一瞬眉をしかめてから、田上はタキオンの顔を見て言った。
「俺は、自分が嫌いだよ」
「…知ってる。だから、私が君の分まで好きになってあげる」
タキオンは、優しくそう言ってくれたが、田上はそう言われても胸がざわつくばかりだった。
「……俺は、……お前の事だって嫌いだよ。……お前の事が嫌いなんじゃない。…むしろ、俺が自分の事を嫌いだから、お前も嫌いだって言う方が正しい」
「私の後ろに君が居るのかい?」
「…いや。……俺がお前の前に居る。俺が俺自身の事を嫌いだから、俺が見る世間を嫌いなんだ…」
「……大丈夫。…何があっても、私は君の味方だから。例え、君が悪の大魔王になろうと、私はその横で君を支えてあげるつもりだよ」
田上は、昔見た特撮の、愛の為に悪に堕ちたヒーローをタキオンの姿と重ねたが、そんな事はさせたくなかった。悪に堕ちるんだったら、自分だけで充分だ。タキオンまで一緒に堕ち来る必要なんてどこにもない。――それでも、タキオンの手は振り解けないだろう。
田上はそう思うと、少々思考する事に疲れた。今日はずっと堂々巡りを繰り返している。二人きりの幸せな空間のはずなのに、要らない事ばっかり考えて、自分の頭を悩ませてばかりだった。
そう考えると、田上はタキオンに力無く言った。
「もういいよ。…ちょっと疲れた。……今はご飯に集中させてくれ」
田上はそう言った後に、ご飯を一口また口に含んだ。そして、それを飲み込んだ後に、今まで黙っていたタキオンが「美味しいかい?」と聞いた。
田上は、その言葉に少し落ち着きを取り戻して、「美味しい」と力無く微笑んだ。