二人共夜食を食べ終わると、後片付けをしなくてはならなかったのだが、その前に休憩というような雰囲気が出てきた。無論、その雰囲気を作っているのは、自分たちであり、もっと詳しく言えば、タキオンの方だった。
タキオンの方が先に食べ終わっていたのだが、田上が最後の一口を食べ終わるか終わらないかの内に、タキオンが田上の膝のうえに頭を乗せてきた。田上は、あまり良い顔はしなかったのだが、タキオンがニヤリと笑ったのを見ると、目を逸らして、残りのご飯を食べ切った。それから、自分の膝に横になっているタキオンを見下ろすと、喜憂入り混じった表情でその前髪を指先で撫でた。
「……食べてすぐ横になると、牛になるぞ」
「……これ以外に、君に甘える方法が思いつかなかったものでね。それに、一度くらいならば、牛の様に太るという事もあるまい」
「食べ物が逆流する」
田上が、そう真面目に返答すると、タキオンは少しだけ不満そうに口角を上げながら田上の方を見た。
それから、「なら、寝転がっていないのであれば問題あるまい」と言うと、田上に「ちょっとどいてくれ」とも言って、田上の前面を机から離して空けさせ、その田上の上にタキオンが座った。ただ、胡坐の上に座るにして、タキオンは少し大きすぎた。田上の顔をタキオンの髪がくすぐってきてしょうがない。
だから、田上は一先ず、タキオンを自分の足の上から降りさせると、これを適当に開脚させて、その中にタキオンを入れた。今度は、先程よりも収まり良くタキオンが田上の懐に収納された。
田上は、タキオンの背中を自分の前面に感じながら、後ろから彼女の体を抱いた。多少居心地は良かったし、幸せな気分もあった。こうやって、体を密着させていると、いい匂いもするような気がする。その匂いが、次第に田上の脳みそを幸せな気分にさせていった。
タキオンは、田上の手を触って遊んでいた。田上は、何にも抵抗しないで、むしろ体をよりタキオンと密着させながら、自分の手がタキオンによって遊ばれる様を見ていた。
タキオンも、田上が見てきている事は分かっていたので、その視線を意識しながら、できるだけ自分と田上両方が楽しくなれるように、触れ合いを多く取り入れた。時々、田上も突然自分の手を動かして、その手で遊んでいたタキオンの手に噛みつく真似をして見せた。そうすると、タキオンはその度に嬉しそうに体を震わせていたので、田上も楽しくなって何回もした。
そうやって、幸せな時間を噛み締めていたのだが、不図気が付くと、もうご飯を食べ終わってから三十分も経っていた。今は、タキオンの頭を、自分の胡坐に置いて話している最中だったので、二人共その時間の流れの早さに気が付いて、驚いた。二人共、まだ十五分程しか話していないつもりだった。だが、それももう終わりである。
田上が、「もうそろそろ動き出さないとな」とタキオンに呼び掛けると、タキオンは名残惜しそうに「えー?」と言った。しかし、田上がもう一言「早くやる事終わらせて、一緒に布団に入ろう?」と言うと、タキオンも動き出す方に意識が向いて、「しょうがないなぁ」と言った。
それから、二人は立ち上がって、食後の食器の片づけやら、風呂の準備やらをしていたのだが、田上がここである事に気が付いた。
「昨日の服、洗濯してない」
田上がとてつもない失敗に落ち込んだ声で、タキオンにそう言った。「夕方の方にコインランドリーでやるつもりだったのにすっかり忘れてた…」
「しょうがないとも。今日の分のパジャマはあるがね」
「明日の分の朝着る服は?」
そう言ったすぐ後に、田上はふと思い出して言った。
「お前、制服は持ってきた?」
「制服?持って来てないが?」
「……まぁ、…別に、朝制服着て一緒に行く必要はないか。…でも、あっちの方でまた着替えないといけない事になるぞ」
「ああ。…明日月曜か…」
タキオンは、少し眉をしかめた。
「うん。明日は何時に出ようか?」
「明日ねぇ…」とタキオンは唸って考えながら、チラリと田上の方を見た。田上もその顔を見返していたのだが、タキオンは、田上と目を合わせても何も言わず、また一瞬だけ目を逸らしてから、田上の目を見て言った。
「寂しいものだね」
「そうだね」と田上は、外見上少し淡白なのではないかと思う答え方をした。無論、田上も寂しくない事はないのだが、それはもうここに引っ越す前から覚悟していた事だったので、こうして週末に、二人だけの時間ができるだけでもありがたいと考えていた。
田上は、そう言った後に、「何時に起きようかな…」と呟きながら食器の後片付けを再開した。タキオンは、それを不満そうに見つめた後に、自分もその手伝いをし始めた。
それから、二人はとりあえず食器を洗い終えると、最寄りのコインランドリーに自分たちの服を洗いに行く事にした。田上はもうそこで洗濯が終わるまで待つつもりだったので、携帯ゲーム機も持ち合わせて、家を出た。タキオンには、家で寛いで待ってても良いと断ったのだが、タキオンも行きたい様子だったので、特に拒否する事もなく一緒に行った。
タキオンは、寮から持参した本を持って読んでいた。家を出た時は、八時半頃だったので、――ここからさらに時間がかかるとなると面倒だなぁ、と思いながら家を出た。
二人の服が入った洗濯機の他にも、もう二つ洗濯機は動いていたが、コインランドリーの中に人影はなかった。きっと、どこかで暇でも潰しているのだろう。田上とタキオンは、二人で、コインランドリーの中にあったベンチに座ると、五十分程の時間を待つことにした。
田上は、韋駄天堂のゲーム機の中にダウンロードされているゲームの中のどれを遊ぼうかと、ぼんやりと一覧を眺めていた。その中には、去年リマスターされたゲームであるDIVERも含まれている。
田上は、自分たちの間で話題に上ったばかりのゲームだったので、そのゲームのアイコンを暫くの間見るともなく見つめていた。今は、丁度やりたいゲームが無い時期だった。もうそろそろすると、このDIVERを作ったゲーム監督である足立監督の最新作『カメリアの漂浪記2』が発売される頃である。確か、六月の二十八日金曜日に発売だったから、田上はその日が楽しみだった。その日は、仕事から帰ったらすぐに取り掛かるつもりだ。その他のゲームメーカーからも目ぼしいゲームが幾つか発売される予定だったが、田上が殊に楽しみにしていたのは、その足立監督の作品だった。
『カメリアの漂浪記1』の方も新しい事に挑戦した大傑作である。足立監督は、常に新しい表現をゲームに取り入れて、それをしかも面白くして、期待している人たちに届けてくれる。足立監督には、国内外を問わず、多くファンが世界中にいる。
田上自身もそのファンの中の一人だ。足立監督のゲームは、プレイする身としても勿論面白いし、楽しいのだが、ストーリーも中々に良い。そのクオリティの高さは、ゲームを作る人全員が、目指すべき場所だと、田上は素人ながらに考えている。偶に、その監督のゲームを面白くないと言っている人を見かけたりもするので、特にそう思う。
田上は、DIVERを今から始めようかどうか迷いながら、そのアイコンだけを見つめた。隣ではタキオンがペラペラとページを捲りながら、本を読んでいる。タキオンに今ここでDIVERをすることを勧めてみたい気持ちもあったのだが、ここで急にお勧めされてもタキオンはそんなに乗り気ではないだろう。元々、そこまで興味はなかったし、今は本を読んでいる所なのだから、突然お勧めされても戸惑うだけだろう。それは、田上だってその状況に立たされればそう思う。
だが、早く自分の大好きなゲームを、自分の大好きな人が、大好きだと言ってくれる姿を見てみたかった。自分の大好きな物を、自分が一番尊敬している人に、良い方向に評価してもらいたかった。自分の心に共感してほしかった。
しかし、ここで突然そんな事を言い出しても、迷惑だろうと考える理性はあったので、田上は、結局タキオンには無理に勧めない事にした。
この次には、自分自身がDIVERをするべきかどうか、また迷い始めた。DAIVERはオープニングから魅力的だ。ドットで描かれたゲームではあるのだが、その絵のセンスは、やはり世界で認められる程の物がある。暗い深海に潜っていく描写を、主観で、じっくりといやらしい程に時間をかけて描写している。こんなものは、そこらの人間が作られるものではないだろう。やはり、足立監督くらいクオリティを求められる人間でなければ作ることができない。
その絵は、実際に海の中に潜って、海の匂いを感じられるような、没入感がある。決して綺麗なだけではないが、露骨に汚さを表現していくわけでもない、まさに深海へDIVEするような感覚が味わえる。奥深い所へ、暗く見えない所へ、何かを探しに行く感覚は、他のゲームでは味わえないものだ。
暗く静かな深海に潜るはずなのに、心がうるさいくらいにざわつくのは何故なのだろうか、と田上はこのオープニングを見るたびに思ってしまう。その答えは、今も分からない。ただ、そのオープニングを想像しているわけで、暗い海の底の匂いが、鼻の奥の方に広がってくるだけだ。
その匂いを感じると、田上はDIVERを始めようと決心した。決して、コインランドリーを待つ間の、少しの時間で終わるものではないが、とりあえず、始めてみようと思って、そのアイコンを押した。
DAIVERは、少々昔風の電子音を奏でて始まった。タキオンもその音に気が付いて、隣の田上のゲーム機を覗いた。すると、『DIVER』とタイトルロゴが、水面に浮きあがってきたので、タキオンは「これが噂のDIVERかい?」と聞いた。
田上は、「うん」と頷いて、一瞬持ち上がってきたチャンスをどうするか迷った。タキオンが興味を持ってくれたのならば、少しはやらせてみたい気持ちがある。あんまり期待もしてないが、言うだけならタダだろうと思って、タキオンに「してみる?」とできるだけ軽く、期待してない様に聞いた。
タキオンは、少し考えるようにじっと田上のゲーム機を見つめた後、視線を田上の方に動かすと「どんなゲームだい?」と聞いてきた。田上は、今日の午前中にも言ったように、「深海に潜って、探索とか宝を探すゲーム」と答えた。タキオンの表情は、然程乗り気ではない。――圭一君がお勧めしてくれるゲームか…、と考えている表情だ。
田上は、――駄目かな…、と半ば諦めながら、タキオンの返答を待っていたが、またタキオンは田上に質問を飛ばしてきた。
「具体的にどんな事をする?韋駄天堂の2Dアクションゲームみたいなものかい?」
「んー」と田上は唸った。ゲームを普段からやったことのないタキオンに、このゲームをどんなもの、と伝えるのは少し難しい。2Dではあるのだが、単純に穴を飛び越えたり、敵を踏んでやっつけるゲームでないのは確かだ。だから、田上は、考えながら、できるだけタキオンに伝わりやすい言葉で説明した。
「……韋駄天堂のとはまた違うゲームだね。武器は、銛があるけど、銛を失くした時はパンチをしたりもする」
「パンチ?…鮫とかが襲ってきたりするのかい?」
「そうだね。…ただ、まぁ、パンチは気休めだけど」
「銛で鮫を倒して海底を探索するゲーム?」
タキオンが簡潔にまとめてそう言うと、田上は首を横に捻った。
「いやぁ?…単純に鮫を倒して進むゲームではないね。例えば、洞窟の中に潜っていったりもするんだけど、そこで崩れる事がたまにある」
「ふむ」
「それで、もう元には戻れないから、その洞窟の中を、進んでいくしかなくなるって事だね」
「ふむ…」
「鮫に関しても、どちらかと言うと、戦うと言うより逃げるって言ったほうが正しい。銛は持ってるけど、鮫相手だとそんなに役には立たない。上手く戦えば辛勝できるけど、まぁ、好んで戦う相手じゃない」
「ふむ…。海に潜る具体的な目的は?研究って言ってたけど、カリブの海賊の研究かい?それとも、海洋生物の研究?…密貿易?」
「んー…、まぁ、そんなのもあるけど、戦争の痕跡なんかもあったりする。第二次世界大戦で沈んだ船を探したりね」
「ふむ」
「あと、地上の方でも活動したりするからね。普通に、他の研究者とかと話しもしたりして、段々と真相に迫っていく感じ」
「…真相は?」
「…ネタバレはしないよ」と田上が返すと、タキオンは首を横に振った。
「そうじゃない。何の真相?具体的に何を追い求めている?」
「具体的に……。……具体的という程具体的でもない。主人公は、まぁ、海底に落ちてる金貨でも、海洋生物の死骸でも、戦争で沈んだ船でも、何でも興味がある感じの人間」
「ふむ……。それは、まさか、ここに居る間に終わるゲームでもないだろう?」
「そうだね」
「……してみても良いがね……。まぁ、やってみよう。とりあえず、やってみて、それから私に合うか合わないか判断してみるよ。 どれ、貸してみたまえ」
タキオンがそう言って手を伸ばしてきたので、田上は、タイトルロゴからずっと動かしていなかったDIVERをそのままタキオンに手渡した。ただ、その際に気になることがあるので、ちょっと付け足して話してみた。
「…ただ、このDIVERってオープニングが少し長めだから、ここで今からするんだったら、肝心の中身の方は、あんまりできないで終わるかもね」
そう話すと、タキオンは田上の顔を少し眉を寄せて見て、「なんでそれを早く言わないんだい」と言った。
「…なら、後からしてみる事にする。ゆっくりできる時に」
そう言われて、また田上の手元にゲーム機が戻ってきた。田上は、タキオンがこのゲームをしてくれると、それなりに信頼に足る言葉で約束してくれたので、少し嬉しくなりながら、また『DIVER』とあるタイトルロゴを見つめた。
ただ、もう何だかこのゲームを始めるのは田上も面倒になってきたところだったので、そのゲームは一旦閉じることにした。もしかしたら、自分がこのゲームを始めようとしたのは、それに対してのタキオンの興味を少しでも引いておきたかったからなのかもしれないと、田上は思った。
洗濯も終わり、乾燥も済ませるころには、そのコインランドリーにも少しばかりの人の出入りがあったが、大概の人は、安っぽい木のベンチに座っている田上とタキオンには見向きもせずに、自分の洗濯物を持参の籠の中に入れて、黙って立ち去って行った。中には、煙草を咥えながら入ってきた人も居たので、田上とタキオンは、二人で目を見合わせて、目だけで――臭いね、と言い合った。
幸い、煙草の男性は、コインランドリー内で待つことはせずに、外に出て、暗闇に紛れて何処かへ行ってしまったので、煙草の匂いに悩まされずに済んだ。
コインランドリー内には、田上とタキオンと、もう一人綺麗な長髪で、色は金色のウマ娘が居たが、その人は、田上たちがもう持参の籠に洗濯物を詰めて、帰ろうとしているのに何の反応も示さずに、ただ本を静かに読んでいた。お淑やかなでいかにも淑女そうな外見の人だったので、田上も気になって、一瞬だけ目を留めたが、またすぐに目を逸らすと、タキオンを横に連れて、コインランドリーから出て行った。これが、九時二十分頃だった。
田上が振り返ってもう一度コインランドリーを見てみると、透明なガラスの向こうにこちらに背を向けて、座っている淑女の尻尾と背中が見えた。
そして、その前には、少し古びて壊れかけている電柱に取り付けられた街灯が、チカチカと瞬いているのが見えた。田上は、少しその淑女の事が心配だった。先程、煙草を吸っていた人は、あんまり柄の良さそうな人じゃなかった。手の甲にタトゥーがはみ出ているのが見えたし、ピアスも耳に何個かつけられていた。それだけで根っからの悪人だと判断するの時期尚早だろうが、もし、あの大人しそうな淑女があの男に言い寄られでもしたらどうだろうかと考えた。無論、ウマ娘だから抵抗は簡単だが、それでも、不愉快な事は極まりないだろう。特に大人しいとなったら、なるべく事を穏便に済ませようとしてしまうかもしれない。そこに他人の目があれば、ああいう男も大人しくなるかもしれない、と思った。
そして、そう思った後に、田上は自分に対して、――妄想をしすぎてるかもな、と思った。別に、あの男が悪人であるわけでもないし、例え、ヤクザであってもどこそこで誰彼にちょっかいをかける程暇な人間でもないだろう。それに、あそこはまだ洗濯機が動いているのが、何台かあったから、人の目だってしっかりとあるはずだ。
そうした後に、田上はタキオンの方をチラリと見た。タキオンも自分の顔を見てきていた。そして、目が合った途端に、自分の胸に罪悪感が湧いて出た。
田上は、いつものように先にドアを開けて、タキオンを入らせてから、自分も中に入った。その際には、眠たそうにふぁ~と欠伸を一つしておいた。タキオンは、「やれやれ、やっと帰り着いたね」と言って、家の中へ上がっていった。流石に、あそこで小一時間待つのはタキオンも疲れたらしい。
田上は、家に上がると早速、やり損ねていた風呂の準備をしに風呂場に行った。それから、湯を浴槽に注ぎ込むと、昨日タキオンに言われた通りの時間をタイマーでセットし、畳の上に寝転がっているタキオンに「あと四分だよ」と言いに行った。
タキオンは「君が先に入る?」と聞いたが、田上は首を横に振って、「お前が先でいいよ」と答えた。タキオンは、少々田上の優しさに対してごねたい気持ちになったのだが、ここでごちゃごちゃ言ってもしょうがないのは、タキオンも分かっていたので、「うん」と答えたきり何も話さなかった。
田上は、またパソコンの準備をし始めた。タキオンはその後ろで、田上の背を見つめながら寝転がっていた。田上の背は、なんだかいじけたように丸くなって、一生懸命パソコンやら、その横に置くゲーム機やらの場所を整えていた。時折、「ここかな…?」という呟きもタキオンの耳に入ってくることがあった。ただ、それ以外は、二人の話し声もないので、部屋の中は、プラスチックとプラスチックが触れ合うカタカタという音が聞こえる外は、シンと静まり返っていた。
田上は、その沈黙が少し耳障りだったのだが、後ろにはタキオンがいるんだろう、と自分に言い聞かせて、振り返らずに作業を続けた。
タキオンは、その内に、田上に何かを話しかけようと思って、その背を見つめながら、頭の中で考え込んでいた。話は、夕食の時の続きをしようと考えていたが、あんまり状況が改善しそうなぱっとする話題は上手く思い浮かんでこなかった。
タキオンとしては、田上に感謝しているのは全くの嘘ではない。本気も本気だ。田上に感謝しているからこそ惚れたと言っても過言ではない。だから、ちょっとくらいの迷惑をかけられようと、タキオンには大した問題ではないのだ。
ただ、田上にとっては大した問題のようである。タキオンは、まだ少し田上の心理を測りかねていた。なぜなら、タキオンは田上ほど事を重大に捉えていないからである。勿論、彼が、自分たちの年齢の差に悩んでいる事も、その悩んでいる事自体に対しても気負っているのも分かっているのだが、そんな事は気を重くするほど悩む事ではないと思っていた。むしろ、タキオンにとっては、宝塚記念の方が心配だった。
田上を慰めるにしたってただで慰められないのがあの男だ。幸せそうな面をしていたって、次の瞬間には、また責任感のある顔に戻っている時がある。そして、自分の事が嫌いだと言う。
タキオンからしてみれば、誑かされているつもりはない。真正面から向き合っているつもりだ。決して言いなりになったりもしないし、ただ単に慰められることもない。まだ、十八だと言ったって、そこらの成人してる大人と大差ない。それは、田上自身と話した事だってある。そして、お前はそこら辺の大人より大人だよ、と言われた時もある。
――あれは、嘘だったのだろうか?とタキオンは考えたが、恐らく嘘ではないと思う。タキオンが田上の事を尊敬しているように、田上だって自分の事を尊敬してくれているのは、日頃の言動から分かる。そして、自分の事を対等な人間だと見つめたがっているのも分かる。
そうすると、やはり、自分たちの間を阻むものは年齢なのだろうか? 確かに、年齢の差にまつわる議論は、今も解決しないままに放置されているようにも思う。
つまり、田上とタキオンがお互いの事をどう思うのかではなく、他の人からどう見られるかという問題だ。そして、それをタキオンよりかは、田上の方が気にしているのだ。そうして、他人から見られた時に、『自分の方が年上だから。大人だから』という言葉が付いて回る。そういう論調は、確かに使われないことはないだろう。こっちが未成年なら猶更だ。『年上が年下をリードすべきだ』という概念が世間にはあるように思う。実際、年上の方が人生経験もより豊富なのだから、そうなのかもしれないが、年上だからって心までが年上だと思われたら、世間も鈍い。無論、気が付いている人も居るだろうが、年上だからって、その分大人になるのであれば、この世から悪人はいなくなる。一人一人に違う個性が宿っているからこそ、悪人も生まれるのだ。
田上が、悪人だと言いたいわけじゃない。しかし、完璧で何事も苦もなく成し遂げられる究極の大人だと言われたら、そうではないことは確かだ。彼にだって、悩みはあるし、優秀なところもある。健気で優しい所もある。そういう部分に惚れたのだ。決して、悪人ではないからこそ、彼に惚れたのだ。
そうすると、次に、――自分は、責任能力のない人間なのだろうか? と思った。ただ、責任能力と言っても曖昧なところがある。責任能力は、金だと言うのならば、それなりにある。レースで勝つことができたから、まあまあ有る。ただ、責任能力は、地位だと言われたら、それは無いかもしれない。トゥインクルシリーズで一応、トップレベルの位につくことができたが、なにもただの一選手であって、何処かの会の会長などではない。常に、トレーナーの庇護下に置かれる存在だから、必然的に、選手の一つ上の地位にトレーナーがなる。
そうすると、今の状況で、選手とトレーナーとしての関係を築いている自分たちは、田上が上で、自分が下という事になる。これは、対等な力関係であるはずの『恋人』とは少し趣が異なっている。もし、田上がこれを意識しているとすれば、それは少々面倒な事である。選手とトレーナーという立場を解消しなければならない。
これは、タキオンにとって面倒だ。まだ、レースやトレーナーや選手については、まだ自分の心は決まり切っていない。それどこか、考えるのを避けている所まである。
こう考えてみると、田上に対して少し申し訳なくなった。田上の優しさにつけ込んで、ぐーたらと寛いだ自堕落な生活を送っていたのだが、それこそが、田上を苦しめているものである。無論、他にも要素はありそうなのだが、これは、田上も何回か話し合おうと言って、自分がそれを阻止したこともある。これこそ、優しさに付け込んでいる。
田上は、自分を責めるのではなく、タキオンを責めるべきだったが、彼の温和な優しさが、良くも悪くも、タキオンとこの状況を共にあるようにした。勿論、他人を責め続けるのも決して良い事ではないが、少なくとも、話し合う事を阻止して、勝手に弱っていっているのは、タキオンの方だった。
タキオンの方こそが、田上を巻き込んでいたから、少なくとも、タキオンが弱っていっているのは田上だけのせいではないのだ。ここで、持ち前の責任感を出してきて、「俺がタキオンを救えないからこうなった」と言われれば、本末転倒になるが、少なくとも、世の中は、田上の責任感だけで回っているのではない。あれやこれやの作用があって、波に押し流されるにしろ、自分たちで波を掻いて進むにしろ、何かがあってここに居る。
田上一人で居るわけでもなく、タキオン一人で居るわけでもなく、まして、田上とタキオン二人だけでいるのでもなく、様々な海流が複雑に絡み合って、二人を今海の上で漂流させているのだ。
そういう事は、タキオンにもぼんやりと理解できるのだが、なにしろ、向き合わなければいけない事を考えようとすると、向き合うのが途端に苦痛になって、今二人がいる安寧の日々に縋ってしまおうとするのだ。別に、田上だけが悪いのじゃない。ただ、二人は、大きな波に流されて、ここまでやって来ただけだった。
タキオンは、暫く田上の背中を悶々と見つめながら、考えた。ここで、自分が泣いて縋っても意味はないだろう。田上を困らせるだけだし、事態は全く進展しないばかりか、却って後退してしまうかもしれない。状況をここに留まらせることに対して、二人に全く利はないのだ。却って、今苦しんでいる田上をもっと苦しめるだけになる。
かと言って、先の事について考えようとするのは、タキオンだって面倒だ。ただ、進まなければ、自分の大事な彼氏を苦しめるだけになるのは見え透いていたので、タキオンは進みたいと思った。そして、進みたくない自分との間で葛藤した。
正直、今の様な日々がずっと続けばいいと思う。月曜日は永遠に来ず、毎日が恋人との触れ合いを楽しめる日曜日だ。その為に、今からその恋人の背に後ろから抱き着いて、耳元で「好き」と囁いてみてはどうだろうか? それだけで、脳内にオキシトシンが分泌されて堪らないだろう。自分たちは、堪らない幸福感の中に陥れるはずだ。悩みも何もない、ただ脳内物質だけが支配する世界の中に。
タキオンは、時々人間というものが不思議になる。もっと広く言えば、『生』という行為自体が不思議になる。この広い宇宙の中で、偶然生まれた物質の塊は、事もあろうに思想を持っている。
こんなの宇宙の長い歴史の中では、一瞬でチリとなって消えるだろう。それでも、『生』は後世へと自分たちの思想や遺伝子を引き継いでいこうとする。
この広い宇宙の中を探してみれば、そのような生き方をしている物質は他にも見つかるかもしれない。しかし、そもそもなぜ一つの時間の流れに向かって、皆一斉に生きようとするのだろうか? 無論、時間という概念も科学が進むにつれて曖昧複雑になっていくだろう。人間とは、違う方向に向かって生きている生物もこの世に入るのかもしれない。もしかしたら、あの世かもしれないが。
タキオンは、案外神も居るんじゃないかと思ったりもする。何も、良い行いをした人間を天国に連れて行くとも限らないし、輪廻転生とも限らない。ただ、ここ最近は『ある』という概念と『ない』という概念も気になる。これは、人間がなぜ生きるのか? という問いにも繋がっているものだと思う。
そもそも、私という個人が母親の腹の中から生まれてくるまでは、この世は無かったのだと仮定できる。無論、今まで自分が生活を送ってきた中で、圭一君が自分よりも先に、この世に生まれているのも知っているし、自分が知らない所で、科学がある程度の進歩を見せている事も知っている。
しかし、それはそもそも、自分が生まれてこなければ知らなかった世界だ。つまり、この世は、自分の視点から形作られていると言ってもいい。もしかしたら、自分が妹になる可能性もあったのだし、フランスかどこかの国の少年として生まれてくる可能性もあったわけだ。
そして、偶々日本というこの国生まれてきて、日本人という視点を持って、行った事もない東南アジアの国々の視点は持たないで生きている。
こう考えてみると面白い。自分がこの世に生を受けたのは全くの偶然である。ただ、それと同時に、頭も痛くなる。少し自分の存在というものがあやふやになって、この世の大気と一体化しそうにもなる。そして、自分は一つの粒子となって、偶々フランスに生まれた少年や、偶々東南アジアに生まれた少女、偶々日本に生まれた老人、そして、偶々紛争地域に生まれ落ちた赤ん坊を見つめるのだ。
なんだか深いような気もするし、浅いような気もする。ただ、結論というものは探し当てないままに、少し不安になって、自分の好きな彼氏の背中を見つめるのだった。
タキオンは、自分の彼氏の背に覆い被さって、耳元で「好きだよ」と囁いてみたくなった。そうすれば甘い幻想に浸れる。今は寂しそうに背を丸くしている彼氏も、そう囁かれると、口元に微笑を浮かべて、自分の方を振り返ってくれるだろう。
そして、キスでも何でもしてみればいい。タキオンには、今それが堪らなく恋しく思った。
そう思うのなら、そうしてみればいいと、タキオンは自分に言い聞かせるのだが、今ここから起き上がって、彼の背中まで手を伸ばして、そして、ゆっくりと彼の背中に体重を預け、彼の匂いを嗅いで、「好きだよ」と囁いてみるのは、なんだか億劫だった。彼自身に振り向いてほしい気持ちもあったし、自分があの背中に寄りかかってみたいと思っているのに、なんだか体が重くて動けない気持ちもあった。
ただ、そうしているうちに、ピピピピピとタイマーが鳴り出した。田上はそれをすぐに止めると、タキオンの顔をチラリと見てから、風呂場の方へ歩いて行った。
その時は、タキオンは天井をぼんやりと見つめている時だった。田上がこちらを見てきたのは分かったが、一瞬だけだったので、タキオンが目を動かす間もなく、田上がすぐに歩き去って行ってしまった。
タキオンは、焦燥感に胸を燻られながらも、ついに自分から動き出せなかった事に落ち込んでしまったが、表情はピクリとも動かさずに、自分が成し遂げられなかった空想をただ見つめていた。
その内に、視界の中に田上の姿が現れて、「疲れた?」と聞いてきた。タキオンは、彼氏の気遣いを嬉しく思って、微笑しながら頷くと、「お風呂に連れて行って」と言った。
田上は、タキオンを――駄々っ子め…、という目付きで見つめてくると、「ほら」と言って、手を差し出してきた。
タキオンは、嬉しそうにしつつも、気怠そうに「手が上がらない」と答えた。田上もしょうがないので、タキオンの介護をするために、その手を取って、何とか立たせようとした。
ただ、タキオンは全く力を入れるつもりが無いので、田上が何とか体を起こさせても、すぐに後ろに倒れてしまう。だから、田上も面白がりつつも、「何がしたいんだお前は」とタキオンの体で悪戦苦闘していた。
その内に、タキオンもそんな様子の田上を見て、多少満足したから、「お姫様抱っこが良い」と甘えた。田上も、幾分そちらの方が運びやすそうだと思ったので、その提案を素直に受け入れて、タキオンの体を抱えた。
だが、また問題も起こる。廊下が、人一人を抱えて通るには狭すぎた。それで、田上がまた悪戦苦闘しながら、狭い廊下、狭い脱衣所のドアを何とか通過しようと悪戦苦闘しているのを、タキオンは嬉しそうに見つめていた。
田上が、タキオンを風呂場前の脱衣所に下ろしたのだが、案の定タキオンはそこでも力を入れずに、遂には「服を脱がしておくれよぉ」とまで言った。流石に、田上もここまでの手伝いはできないので、「一線だよ」と諭すように言った。
タキオンは、少し眉を寄せ、不満そうな顔をして、田上から目を逸らした。それから、また不満そうな顔のまま田上の方を見たのだが、暫くは何も言わなかった。自分たちの間に相変わらずそれがあるのは分かっていたし、どうやっても、今の所は、それを取り除くことができない事も分かっていた。
それでも、田上が何か気の迷いでも起こしてくれないものかと、彼の顔を見つめていたのだが、生憎、この男は生真面目な人間だったから、そういうタキオンの提案はもう受け付けそうにはなかった。例え受け付けたところで、後で悔やむのが落ちだろう。
だから、タキオンは、ふぅとため息を疲れたように吐くと、田上から目を逸らしながら「分かったよ…」と言った。ただ、すぐに起き上がる気にはなれなかった。自分の望みがかないそうもなくなった今、風呂に入る気も失せた。
田上も、タキオンの傍にいて長いので、タキオンがそのような状態に入ったことをすぐに察した。それで、どうしてやろうかと思いながら、彼女の肩を優しく触ると、「お風呂入って、一緒に布団で寝よう?」と呼びかけた。タキオンもそれは魅力的だと思った。だが、今は期待に胸を膨らませたのが、失望で萎んでしまった反動で、そういう魅力的な物を目の前に出されても何のやる気も起きなかった。
無論、田上もそう呼び掛けて無駄だったというのは、すぐに察した。だから、タキオンの機嫌が直るまで傍に居てあげようと、自分も脱衣所の床の腰を下ろした。それから、話すべき話題を考えあぐねて、タキオンと共に、音のない空間に何の気もなく座っていたのだが、不意に思いつくと、田上はタキオンに向かって腕を広げて「来る?」と言ってみせた。
タキオンの反応は鈍かったが、数秒後に頷くと、ゆっくりと上半身を起こして、ノロノロと田上の方に四つん這いで近づいてきた。
田上は、本当は、タキオンを抱き締めるつもりで「来る?」と呼び掛けたのだが、タキオンはそうとは受け取らなかった。田上の広げている腕を無視すると、その胡坐の中の空間に手をついて、ゆっくりと顔を近づけて、キスをした。田上も拒否する理由はないので、そのままにキスをされたが、その間に、――タキオンが変な状態に入っているな、と思った。
変な状態とは、つまり、妙な状態の事であって、妙な状態というのは、あまり芳しくない状態という事だ。駄々をこねた後にキスをするときは、これまでの経験から、あまりいい状態でないと分かる。
ここ最近ではめっきりしなくなったが、ゴールデンウィーク頃には、毎秒と言えるほどキスをしていた事があった。あの時は、若干拗ねていて、その為に、田上にキスをしてきたのではないかと思う。
ここ最近の安定してきた理由はあんまり知らないが、まぁ、少しは節度を守るように意識してきたのではないかと思う。それが良い方向に転んでいるのかは知らない。
タキオンは、少しの間、壁と自分の唇とで田上を挟んだ後、唇を離して田上を見つめた。それから、田上の平然とした表情があまり気に入らなかったので、もう一度唇を重ねた。田上は、少し耐えるような心持ちで、それを受け入れていた。そして、タキオンはまた唇を離すのだが、また、キスをし直す。あと二回ほどされると、田上も流石に口を開いた。
「今日は、やけにキスをしたがるな」
タキオンは、静かにと言わんばかりに、首を横に振ると、またキスをし直した。これが何度も繰り返される。タキオンも何かキスの裏で伝えたいものがあるのかもしれないと思って、田上は少しされるがままに考えていたのだが、鈍い自分は、あまりこれと言った答えを出すことができなかった。
恐らく、甘えたがっているのだろうとは思うのだが、何故甘えたがっているのかと問われると、あまり分からない。自分がそっけない態度を取っていたのかもしれないと思っていたのだが、こんなにキスをされるほど、そっけない態度はとっていないと思う。
確かに、風呂を沸かしている時は、あまり会話はしなかったが、それでもたかが四分である。四分も会話できないとタキオンは寂しくなるのだろうか? しかし、コインランドリーの時は、それ以上に会話していなかった。――あれが原因なのだろうか? と思ったが、田上には、どうも会話の有無が原因ではないような気がする。会話をしていない時でも、タキオンが満足をしている雰囲気の時はあった。
そう考えると同時に、今日のフリスビーの時に、あまり話せていなかったことも思い出した。――あれが原因だったのだろうか? と田上は考えた。ただ、あれはしっかりと仲直りしたし、何回もフリスビーを投げ合った。あまり遺恨は残らない形になったのではないかと、田上は思う。
だとすると、ただ単にタキオンが寂しくだっただけなのか? しかし、直前のタキオンは、なんだか怠そうだったし、甘えん坊だった。何か理由はあるのじゃないかと思う。ただ、こう迷惑なまでにキスをされると、田上の考えはまとまりづらかったし、普通に、その原因を探し当てるのも困難のように思えた。
だから、田上は、とりあえず、キスをしてくるタキオンの体を抱き寄せると、安心させるようにうなじを優しく撫でた。
タキオンは、田上に首を撫でられると、途端に落ち着いた。そのキスを、少し長めにした後は、ぼんやりと申し訳なさそうに田上を見つめるだけになった。
田上も、その目を見つめ返して、どうするべきなのか迷ったのだが、どうにも話しづらいので、タキオンの顔を引き寄せ、もう一度自分の方から軽くキスをした後にこう言った。
「どうする? お風呂は入る? …入りたくないなら、もう少し俺もここに居て良いよ」
タキオンは、少し目を空中に泳がせた後に、「ここに居て…」と気落ちした声で言った。田上は、「うん」と頷くと、少し強張った空気を壊すために、タキオンの頬を撫でた。
タキオンは、田上の優しさに次第に顔をうっとりとさせてゆき、田上の固い手に少し頬擦りをした。そして、田上は自分の太ももを軽く叩きながら「座る?」と聞いた。タキオンは、ゆっくりと頷いたから、田上は胡坐を解いて、足を伸ばして、夕食後の時の様にしようと思ったのだが、タキオンから直々に「胡坐のままでいい」と言われると、田上はそうする他なかった。
それで、タキオンがどういう風に座るのかと様子を見ていたら、タキオンは、田上の手を自分の背に回させて、座ったままのお姫様抱っこの様な体勢にさせた。そして、体重を田上に惜しげもなく預けるものだから、田上は、苦笑しながら「これ、きついなぁ」と言った。
タキオンは、自分の為に苦労してくれる田上に多少の満足を覚えながら、ニヤリと笑みを作ると、「好き」と一言言った。田上は、「俺もだよ」と優しく大人らしく答えたが、やっぱり、一瞬程罪悪感は湧いて出た。それでも、今の幸せの空気の前にはそれも微かに空気に溶けて行っただけだったので、田上とタキオンは暫く見つめ合い、それから、田上がこう話した。
「俺、…何かタキオンにやな事したりした?」
「…やな事?」
「……キスが多かったから、傷付けたんじゃないかなぁ、って思ったんだけど、…寮の前での話ってまだ怒ってる?」
「…あれは、君が悪いんじゃない。………」
その後、迷うようにタキオンは目を逸らしながら、自分の唇を触ったので、田上は、また代わりに言葉を続けた。
「……寂しかったりした?お風呂前の時とか?」
「………寂しい……。…そういう事もなくはないがね……。…寂しいと言ったら、寂しい……」
「……気付いてあげられなくてごめんね……」
田上がそう言うと、タキオンは途端に不満そうな顔をして田上の方を見た。
「その…君の方が、立場が上というような物言いはやめてほしいものだね…」
「…ごめん」
田上が素直にそう謝ると、タキオンはもっと眉を寄せた。
「………別に、君を謝らせたかったんじゃない。…………ただ、……説明しづらいね……。君と気軽にお風呂に入れるような関係になれば楽なんだがね」
田上は、少し悲しそうに眉を寄せながら、タキオンの顔を見た。タキオンは、その視線に少し居た堪れなくなって、目を右往左往させたのちに、こう話した。
「………君には、本当に感謝しているんだよ。……本当に…。…ただ、…君はどうもそれを分かっていないようだしね…。…分かっていたとしても、私に対して責任を持とうとしてくれている…。……私だって、君が責任を持たなくとも悪い人間なんだがね…」
タキオンは、そう言ってから、田上に返答を求めるように、その目を見つめ返した。田上は、何と答えれば良いのか分からなかったので、見つめられると、戸惑うように目を泳がせた。その後に、タキオンは、田上に抱かれている自分の体を見ながら言った。
「……私だって、…君に礼の一つや二つと言わず、何度でも言ってやりたい。……こうして、私の我儘にも健気に付き合てくれる優しい人だからね……。……もしかすると、誑かしているの私なんじゃないだろうか?」
田上は、これには言うべき言葉が見つかったので、すぐに口を開いた。
「…そうじゃないよ」
「……そう言ってくれると助かる…」
そう話しながら、タキオンは、また、田上の腕に包まれている自分の体を見つめた。きついと言っていたが、あとどれくらい持ちこたえてくれるのだろうか? と思った。その時間によっては、また少し体勢が変わって、自分も一人寂しく風呂に入らざるを得ない時が来るのかもしれない。…圭一君の思い通りに。
そう思うと、一瞬だけ腹が立ってきたが、それはすぐに、感謝の心に洗い流された。こうして、我儘を言っている自分を抱き締めて、許してくれるだけでも、本当にありがたい存在なのだ。そんな、この世で最も尊ぶべき大切な人を相手に怒ろうなどというのは、自分の方がむしろ損だ。そんな人を怒らせて、もし嫌われでもしたら、自分自身がどんなに傷つくか知れない。感謝すべき時は、していいのだ。
そう思いながら、一瞬の怒りによって強張らせた体を、タキオンは田上により深く預けていった。田上の腕は少々重そうだったが、自分の我儘を許してくれるには、まだもう少し持ちそうだった。