ケロイド   作:石花漱一

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三十六、引っ越し⑧

 やがて、田上も「ちょっと疲れた」という時期に入った。タキオンは、この時が来るのを知っていたので、少なくとも、外見上は素直に、田上の腕の支えから降りてあげた。田上は、疲れた腕を少し振って解しながら、「まだ俺と居る?」と聞いた。

 無論、居るつもりであるから、タキオンは首を縦に振って、今度は狭い脱衣所のなかで、田上の膝を枕にして横になった。田上は、また苦笑しながら、自分に甘えてくるタキオンを見た。こうやって、甘えてくる彼女を支えている時は、まだ心にゆとりがあって楽な物である。これが、一人で悶々としていると、どうしようもない時もあるが、幾ら恋人同士といっても、一人で悶々と悩み続ける夜だってある。縋ろうにも縋れない時が在るから、寂しくなるのだ。

 田上はそう思いながらも、また一人で悶々と考え出そうとしたのだが、タキオンがそれを遮って話し出した。

「……お風呂はさ……」

「……何?」

「……まだ入るつもりはないんだが、…私が入っている間は、ここで待っていてくれないかい?」

「ここで?」と田上は、どことも言えない場所を指差しながら言った。

「そう。……寂しいから…」

「……まぁ、…それについては、…特に断る理由もないからいいよ…」

 多少思う所がありそうながらも田上は、ちゃんと頷いた。タキオンは、その言葉を受けて、自分の指先同士を弄りながら、嬉しそうに微笑んだ。それから、また田上の方を見ると、その表情のまま話し出した。

「……私ね……。君と行ってみたい場所がある……」

「どこ?」と田上が優しく聞いた。

「……家族湯」

 途端に、田上は眉を少し寄せた。タキオンは、この反応を予想していたので、特にそれに機嫌を悪くすることもなく、それでも、思い通りの反応に多少がっかりもした。

「家族湯?」と田上が聞き返した。タキオンは、少し後ろめたくて目を逸らしつつ答えた。

「そう。家族湯。……君と暖かい湯に入って、ゆっくりしたいなぁっていう妄想だね。まだ当分、できないのは分かっているよ…。ただの夢想…」

 そこまでタキオンに言わせると、田上も申し訳なくなってきたが、なにも学生の間に一線を超える事はできない。

 ただ、そう考えた後に、結婚という二文字がそこに鮮烈に思い浮かんできた。結婚をすると、タキオンの父母に伝えた予定は、タキオンが卒業したすぐ後である。ご両親は何の反対の色も見せなかったが、今考えた途端に、少し怖くなってきた。一年なんてあっという間である。タキオンと付き合ってからの二か月があっという間だったように、この一年も本当にあっという間に過ぎていくに違いない。

 田上は、これまで生きてきた人生の一年の感覚からしても、あっという間だと思った。一か月なんて、たったの三十日である。三十日なんて、一年として数えたら、約三十秒みたいなものだ。すると、一年は約三百六十五秒だ。端数がややこしいから、一の位を切ってみると、約三百六十秒。こちらの方が早いように感じる。

 そう考えた後に、田上は自分の考えの話しのずれ方に少し苦笑して、タキオンとの結婚の方に話題を戻した。

 一年が三百六十秒かはともかく、その日が来ない来ないと思って過ごしていると、本当にいつの間にかそこに立っているような感覚になる。そして、そういう風に考えた時に、一年後というのは、案外簡単に足元まで迫ってきているものだ。いつの間にか首元まで迫ってくるのである。

 ——一年後に、自分はタキオンと結婚する覚悟ができているのだろうか? と思った。今は、どうにも不安そうだと思った。土壇場の所になって踏ん切りがつかなくなるんじゃないだろうかと思った。いつも恐ろしい事から逃げ続けてきた自分だ。きっとそうに違いないと思った。

 そして、自分が泣きじゃくっている所をタキオンに説得されて、婚姻届けでも何でも役所に宜しくだ。そんな自分の姿を想像してみると、些か滑稽で見苦しかった。大の大人がなんと情けないんだろうと思った。そして、いつになったら、自分にその覚悟ができるのだろう? と考えた。

 泣きじゃくらないにしても、多少モヤモヤを抱えながら、タキオンに流されるようにして、役所に苗字を同じにしに行くのかもしれない。しかし、田上はそんな時くらいは、自分から前を向いて、タキオンと揃った気持ちで前に進んでゆきたかった。結婚に対して不安を抱きながらするなんて、あんまり良い事でもないように思う。それとも、世の中の人は大概そんな気持ちで、結婚するのだろうか? と思った。

 確かに、これからの将来に対して、多少の不安は生まれると思う。上手く結婚生活を営めるだろうかとか、単純に、自分の生活や人生が大変動する瞬間に立ち会うのだ。多少緊張はするだろうが、田上は、タキオンと付き合い続けることに疑問を持っているからしょうがない。この疑問というものは、すべて自分の感情から発生していると解釈してもいいのだろうか?

 しかし、そうすると、田上には尚の事どうにもならないような気がする。無論、不安でもなんでも抑える薬を飲めば別だろう。そういう薬を処方してもらって、上手く付き合えればいいが、そうすると、その薬がないとタキオンとは向き合う事すらできなくなるという事になる。

 無論、今も真面には向き合えていない状態なのだが、しかし、薬で誤魔化して先へ進むよりかは、こうしてタキオンと二人でゆっくりと語らい合って、いつか見つかるかもしれない答えをぼんやりと夢想するように探す方がマシなようにも思えた。ただ、田上には、最早何が正しいのかは分からない。

 

 田上がそうやってぼんやりと考え込んでいると、タキオンは、自分の爪をしげしげと見つめながら、欠伸をした後、こう話しかけた。

「……私、……もう一つ君と行きたい場所がある」

 田上は、相槌を打とうと思ったのだが、上手い事声が出ずに、ただ無言でタキオンを見下ろした。

「………君の故郷に…」

 田上は、まだ無言でタキオンを見下ろしていた。タキオンは、少し間を空けてから、目を上げると、田上を見た。二人は見つめ合ったが、タキオンの方が先に目を下ろした。

 タキオンは、また自分の爪を見つめ始めた。

「……はぁ……。……以前は、君ももう少し快活だったような気もするんだがね…」

「……人は変わる……」

「…なんで変わった?」

「………知らない…」

 田上は、脳の中では、――お前を好きになったから、と言ったが、そこから始まってしまう面倒な議論を避けるために、そう誤魔化すことをした。

 タキオンは、薄々それに勘付いていたが、はっきりと脳内で感じ取る事はできないかったために、それを追求する言葉を吐くことはしなかった。例え、感じ取れていたとしても、追窮するのは慎重さも求められただろう。

 田上は、尚もタキオンを見下ろしていたし、タキオンは、尚も自分の爪を見つめていた。

「……家族湯じゃなくても、……君と温泉旅行に行ってみたいなぁ、という気持ちはあるよ…」

 田上は、頭の中で――こんなつまらん男とか? と返した。無論、タキオンにその声は聞こえない。

「……温泉旅行くらいは行ってもいいんじゃないかと思うんだよね……。君と風呂に入るわけでもないし…。……ただ、……君と一緒に風呂に入れるくらいのゆとりを持ちたい……」

 タキオンが寂しそうにそう言うと、田上の頭の中は、途端に申し訳なさで埋め尽くされた。ただ、それはどうする事もできないのだ。学生とトレーナーという間柄の時間は。

 これが、学生同士だったらいいのか? と不図思った。しかし、例え学生同士だったとしても、自分は、タキオンと風呂に入る勇気は持てないだろう。今は、タキオンとの間に壁がある事を、恐ろしく体の良い理由として使って、逃げているだけだ。学生の時ならば、タキオンに流されて、一緒に入る事はあるかもしれないが、今は、体の良い理由だけがそこに残っている。田上は、自分の不甲斐なさを呪った。

 

 また少し時間が経った。田上たちからは、時計は見えないが、もう九時五十五分になろうとしていた。風呂を沸かしてからだいぶ経っているから、少し湯がぬるくなっているかもしれない。それに、二人共度々欠伸をしている。明日は学校もあるのだから、田上はタキオンにあまり遅くまで起きていてほしくなかったのだが、タキオンは、田上の膝のうえで寛いでいる様子だった。

 それからもう少し経つと、田上の頭の中に、不意に話し出せることが思い浮かんできたから、田上は、静かな空間のなかでこう口を開いた。

「………俺は、………お前を好きになるべきじゃなかったんだと思う…」

 タキオンが、目だけを上げて田上の方を見た。田上はその目をじっと見つめ返した。

「………俺が、お前の事を好きにならなければ、……俺たちも付き合う事はなかった……」

「……それで?」とタキオンは、少しだけ怒っていそうな口ぶりでそう聞き返した。

「………世の中には、俺よりも良い男がもっと居るよ……」

「……その議論については、もう飽きる程やったつもりだったんだが、……君はそうじゃないのかな?」

「……そうかもね…」と田上は陰気な口調で、少し口角を上げた。

「………私が、世間知らずって言いたいのかな?」

「……そうかも…」

 タキオンは、眠いからなのか少々語気が強くなっていた。

「………幾ら、女子校通いでも、知見はあるのだから、男というものがどういう生き物かくらい、私でも知っているつもりだがね」

「……そうだろうね…」

 田上の曖昧な物言いに、タキオンは少し眉を寄せたが、あまり喧嘩はしたくなかったので、できるだけ優しい口調になるように努めた。

「………私は、……君が、責任を負いすぎていると思うんだよね……。もう少し私に頼ってみたらどうだい…?」

「……頼れるほどか?」といつもの田上らしかぬ物言いをした。普段の田上ならば、このような嫌味な言葉は吐かないはずだ。怒っているのでもなければ。

 タキオンは、少々その言葉に傷付いたが、自分でも実際はそんな感じだと思った。自分が、この関係の主導権を握れば、すぐに、関係をあらぬ方向へ持っていこうとするだろう。欲望のままに風呂に入ったりキスをしたりして、田上と自分を自堕落な方へと持っていくだろう。

 そうすると、まだ、冷静な理性を持った大人である田上が、この関係の主導権を握って、二人の行く末を慎重に慎重に選んでくれる方が良かった。ただ、この男だって、人間なのだから、限界もある。限界が来た時には、自分を頼ってみてほしいものだったが、どうにもその分野ではタキオンは彼の体を支えるどころか、手を取ってあげる事すらできないように思えた。

 つまり、話す事はできた。話し合って、田上と共に行く道をどうにか探してみようと、初めの一歩を踏み出させることはできたが、それ以降となると、どうも自分は、田上に頼ってばかりで、自分で歩んでいく気のない人間だった。安寧の日々が愛おしいのは、田上もそうかもしれない。しかし、彼は、今までタキオンよりも八年も長く生きてきた分、その甘えを心の奥に押し込んで隠すのは上手だったが、タキオンは、その甘えに縋り切っていた。

 田上だって、ちょっとつつけばすぐに倒れそうになる不安定な人間だったが、今は、タキオンを支えるためだけにその心血を注いでいる。だから、倒れそうになることを忘れて、タキオンもろとも倒れないために、一生懸命頑張っている。タキオンは、そんな彼氏をどうも癒してあげたかったのだが、自分としても見えない壁に阻まれて八方ふさがりの様な状況だった。

 タキオンは、田上の言葉に少し目を泳がせた後に、また田上の目を見つめ返しながら「頼りにならない女ですまないね」と言った。これは、田上の挑発に乗って、自分の方も嫌味と取れる言葉を吐いてしまったから、タキオンも後悔した。本心ではあるのだが、もう少し柔らかな言葉にはできた。

 ただ、田上の方も自分の言葉に後悔している最中だったから、タキオンの嫌味な言葉を聞いても、自分が蒔いた種だと完全に理解できていた。その上で、タキオンに何と言えばいいのか分からなくなって、寂しそうに、悲しそうにタキオンの顔を見つめ返した。タキオンもまた暫く黙って見つめ返した後に、こう言った。

「……頼りにならないのは分かっているが、…君が頼りになれるような人間にはなりたいと思ってる…。君を一人にさせたくないし、私も一人になりたくない…。…………君を愛してるし、…私も愛されたい…」

 田上は、タキオンが暗に、――私を認めてくれ、と言っているのを感じた。もしかすると、それは自分が考えていたことかもしれないが、それでも、田上がまだタキオン自身として存在するタキオンの事を直視できないのは明らかなようだった。

 田上だって愛してやれるのならば、真っ向から愛してやりたいのだが、そうすると、自分は今からここで服を脱いで、一緒に風呂に入る事を選択してしまうだろう。それだけは避けなければならないが、しかし、不図、頭の中で自分が――それは体の良い言い訳じゃないのか? と言った。田上は困った。正しい事が何一つ分からなかった。

 

 田上は、「愛してる」とタキオンに答えてあげたかったが、それが、今をやり過ごすための嘘であることは重々承知であったし、タキオンもその事を知っているのは承知だった。

 それでも、タキオンは「愛してる」と嘘でもいいから囁かれたいのだろう。タキオンはそういう人だ。嘘でもいいから囁かれたいのだろうから、もしかすると、自分の事を愛しているというのも嘘かもしれない。そういう疑惑が田上の中で鎌首をもたげたが、今のタキオンの「愛してる」という言葉の雰囲気を感じ取ると、流石に嘘でもないような気がした。

 田上にとっては、嘘であってほしいかもしれなかった。嘘を吐いていると分かった瞬間に、自分はタキオンの傍から怒って離れていく。そこで、タキオンも興醒めするくらいの関係だったならば、今ここの狭い脱衣所なんかで、二人して顔を悩ませて寛いではいない。嘘と真実が入り混じった最中に、二人の愛が水面にぷかぷかと浮かんでいるのだ。

 やがて、それが波に流されたとしても、決して離れない事を理想にして、見れるかもしれない真実を海底に見ようとする。

 田上は、息を止めるような苦しさを感じた。そして、タキオンに「愛してるよ」と言った。何にもならない事は知っていたが、二人の絆を確かめ合う為の、精一杯の儀式だった。

 

 タキオンは、田上の囁きを聞くと、多少嬉しそうに口元に笑みを浮かべたが、これで何も事態が進展しなくなったことは、タキオンにも分かった。それでも、自分が今精一杯伝えられる事、伝えるべきことは伝えられたので、良くはあったのだが、もう少し何かあればと思わずにはいられなかった。その何かとは、堪らなく愛おしい安寧の日々だったり、朗らかに明るい日差しの射す未来だったりした。

 タキオンはその安寧の日々の誘惑に惑わされながらも、ゆっくりと頑張って上半身を起こすと、田上の前に向き直った。田上の表情は、少し苦しそうだったので、タキオンは田上の膝に置かれていたその手を取って、ごつごつとした指を優しく軽く撫で、揉んだ。

 それでも、田上はあまり表情を変えなかったが、その表情の奥に多少のゆとりは戻ってきただろう、とタキオンは思った。田上は、そういうのが好きな人だったし、現に、少し経つと、田上も視線を落として、自分たちの手を見ると、タキオンの手の方も優しく撫で返した。

 二人は、手遊びをして、強張った空気を緩めていたが、やがて、タキオンが田上の手を絡めて恋人繋ぎにすると、そっと二人でキスを交わした。今度のキスは、不機嫌さからくるものではなかったが、具体的にどの感情と言われると、難しいものもあった。ただ、胸が少々満たされたから、その証としてキスをしたといっても良かったし、胸が満たされた喜びをさらに大きな喜びに変えるためにキスをしたといっても良かった。

 そして、その後に、タキオンは愛おしそうに彼氏の顔を見つめ、立ち上がった。まだ、背をかがめて、彼氏と恋人繋ぎをしたまま立ち上がり、その時にも少し見つめ合ったが、やがて、名残惜しそうにその手を解いてしまうとこう言った。

「…私もそろそろ風呂に入らねばなるまいよ。……君はどうする?私の裸が見たいのなら止めはしないが」

 田上は、タキオンの言葉が冗談だと分かっていたので、こちらも冗談っぽく迷惑そうな目を向けると、「外に出とくよ」と言った。そして、背にタキオンの「私が浴室に入ったら、ここにきて話し相手をしておいてくれよ」という言葉を浴びて、ドアの外に出た。

 

 田上は、風呂場のドアがばたんと閉まり、タキオンの「いいよー」という声が聞こえてから、その中に入って行った。無論、タキオンの声が風呂場から反響して響いてきているのは分かっていたが、タキオンなら、何かだまし討ちでもしてくるんじゃないかと身構えながら、ゆっくりとドアを開けた。

 これも、当然と言えば当然の事ではあるが、タキオンはしっかりと風呂に入って、田上をだまし討ちしようなどという気配はなかった。ただ、風呂場から浴槽のふたを開ける音が聞こえた後に、水音が響いてきただけだった。

 田上は、また脱衣所の壁に寄りかかりながら座り込むと、隣で水音が響く中で「はぁー…」とため息を吐いた。このため息は、水音にかき消されて、タキオンには聞こえないはずだったから、できるだけ、自分の疲れを体のそとに出し切れるようにと、大きく息を吸ってから、大きくため息を吐いていた。

 一年前の自分に今の状況を話してみれば、びっくり仰天するに違いない。そして、教え子に手を出すのをやめろと諭すかもしれないが、そういう人間がタキオンの事を好きになったのである。一年前の自分にはそういう事は思いつかなかったかもしれない。一年前と言えば、皐月賞を勝って、この時期に日本ダービーをやったはずだ。そして、月桂杯を右往左往して、菊花賞へと向かっていく。菊花賞が終わった頃に、自分はタキオンに惹かれた。

 そう考えた後に、――惹かれるべきだったのだろうか? と思った。あそこでなんとか踏み止まれば、自分はその先へ進まずに済んだのだろうか? しかし、思いはほとんど断ち切ったはずだった。自分は恋をしなかったのだと言い聞かせて、その思いを胸の内にしまい込んでおいた。

 そうすれば、田上の気持ちにタキオンが気付く事もなく、三年を終えて卒業し、選手生活もそれから二三年ほどすれば、引退していたかもしれない。自分はその間に、他の女性からアプローチを受けるかもしれない。

 そうして、そのアプローチに乗って、自分は新たな恋をして、タキオンの事を忘れて別の女性と付き合うのだ。ただ、生半可なアプローチでは受け付けない可能性もあったが、流されやすい性質の自分の事なので、案外見た目の良い女性に鼻の下を伸ばして、ほいほいと付いて行っていた可能性もある。

 田上は、その後に、なぜタキオンの事を好きになったのだろうか? と思った。出会った頃は、今よりももう少し中学生っぽさがあったような気がした。若干の子供のような言動もあったし、十六という年齢だから、中坊とほとんど同じだと考えていた節もあった。二人で居る時間が長くなるにつれて、田上はタキオンの事を見直すようになった。案外、自分の努力に対して人一倍真摯であるし、ミステリアスな部分もある。それでいて、尊敬すべき言動も出てくることがある。田上は、この頃からタキオンに惹かれて行っていたのかもしれない。

 タキオンの事は本当に尊敬している。それは、あの頃も今も変わらない。ただ、なぜ恋愛対象にしてしまったのだろうと思うばかりだった。尊敬している事は確かだが、なにも恋までしなくても良かったのじゃないかと思う。

 確かに、二人で触れ合う時間は多かった。二人共、家族の様に話す瞬間もあった。それでも、それ以上一緒に居たいなどという強欲な願いを持つような真似を、わざわざ自分から起こさなくてもいいのではないかと、田上は後悔しようもない後悔を重ねた。そして、その後悔の後には決まって、タキオンへの恋心が堪らなく自分を震わせた。好きなのだ。あの凛々しく立っている女性の姿が好きなのだ。今後の人生を共に生きてみたいと思ってしまうくらいに好きなのだ。

 田上はそう思った後に、体育座りの中に顔を埋めて、「はぁ…」と疲れたため息を吐いた。水音は、いつの間にかしなくなっていた。

 

 田上は、いつの間にか途切れていた水音でタキオンの状態を探ろうとした。シャンプーやリンスでもしているのだろうか?

 少し耳を澄ませていると、床を踏む音や身動きの音が聞こえてきたので、田上は聞き耳を立てるのをやめた。そもそも、あんまり良い行為でもないように思えて、田上は、また「はぁ…」とため息を吐きながら、がっくりと項垂れた。すると、風呂場の方からタキオンの声が反響して聞こえた。

「何か困っている事でもあるのかい?」

 田上はどう返答しようか迷ったが、できるだけ冗談っぽく皮肉を言って誤魔化すことにした。

「今この状況に一番困ってる」

 タキオンは、冗談なのかそうじゃないのか判別しにくい言葉を聞いて、どちらだろうと考えたが、恐らく冗談だろうと結論付けた。

 この冗談の裏にまた何か隠している事があるのだろうが、それを今問い正したところで、顔も見えなければ身動きも取れないので意味はない。だから、タキオンの方も冗談っぽく「そんな事言わないでくれ。君がいてくれるだけでも私は嬉しいんだ」と答えた。

 この言葉を聞くと、田上はいつものように嬉しく思いもしたし、また、怖さの様な感情も持って、複雑だった。田上が黙ったままだったので、タキオンは、田上が楽しんでくれるように、鼻歌を歌いながら自分の体を洗った。そして、やる事をやり終えると、泡を洗いながらして、風呂の中に入った。

 夏も近いので、そんなに気持ちの良い暖かい湯ではなかった。こういうのは冬に入ってこそ気持ちいいのだろう、とタキオンは、田上と家族湯に入る瞬間を夢想しながら思った。ただ互いの裸が見たいのではない。裸を見ても談笑したままでいられるくらいのゆとりが欲しいだけだった。このように、互いに一線を厳しく守り合う関係などではいたくなかった。

 ただ、まぁ、いつの時も風呂は気持ちいい。今日は、一線を守ってこそいるが、彼氏も傍に居る。こんなところで疑似的な家族湯でも楽しもうかと思って、タキオンは田上に「いい湯だよ…」と穏やかに呼びかけた。

 田上は返事をするほど大した言葉でもないと思ったので、返事をしなかったのだが、壁の裏でそうだんまりだと、タキオンも居るのかいないのか分からなくなる。だから、少し不安になって「圭一君居る?」と聞いた。

 田上は、生真面目に「居るよ」と言い返した。そんなのでは少し疑似的な家族湯気分も壊れてしまうので、タキオンは「私の言葉にちゃんと返事をしてくれよぉ」と言った。田上は、「了解」と言った切り、壁の裏で何の物音も立てなかった。

 タキオンも分かってはいたのだが、壁の裏如きでは家族湯どころか、家族湯の真似でさえも成り立ちはしない。入った当初は、もう少しは真似できるのかと思っていたのだが、所詮壁の裏は壁の裏だ。一所に気兼ねしないで風呂に入っているわけではない。むしろ、気兼ねしているからこそ、壁の裏で会話をしているのだ。状況としては、全くの逆である。

 タキオンは、自分の理想が思ったように進まず、少しがっかりしたが、気を取り直すとこう言った。

「君が遊んだゲームで他に私にお勧めしたいものってないのかい?」

 こうすれば、田上は自分の好きな物の話をするだけだから、面倒臭がらずに答えてくれる。タキオンは、こういう時の田上の扱い方を心得ていた。

 田上は、「んー…」と唸った後にこう言った。

「韋駄天堂のゲームは結構名作ぞろいだし、子供向けとかゲーム初心者向けも多いから、タキオンでも手に取りやすいと思うけどね」

「韋駄天堂が元々作ってた花札なら、私もおばあちゃんと遊んだことがあるよ」

「ああ、花札ね。俺は遊んだ事ない。ルールも知らないね」

「じゃあ、次、おじいちゃんちに行く時に、一緒にやろうか」

 田上は、その後に少しばかりの沈黙を空けた。これは、花札をしたくないという事ではなく、おじいちゃんちに行くのが怖いという事なのだろうとタキオンは察すると、一人でお湯に浸かりながらニヤリと笑った。

 田上は、その後に「ゲームの話に戻しても?」と言ってきた。明確な返事がなかったのは、それを避けているためだろうと思ったから、タキオンは「怖いのかい?」とからかうように聞いた。すると、田上は、もう一度「ゲームの話に戻してもらっても良いですかね?」と言ってきたから、「良いとも」と面白がりながら答えた。

 田上は、気を取り直すために少し間を空けてから、こう話し出した。

「タキオンは、アクションゲームはどうなの?」

「アクションゲーム?…マツオ(韋駄天堂の代表的なアクションゲーム)ならやったことはあるがね。…最後までは、確かやったことはなかったはずだが」

「ああ、マツオは義務教育って言ってもいいからね」

 タキオンが、それに少しだけ鼻を鳴らすと、一瞬の静寂の後に田上が言った。

「それだけ?」

「ん? うん。確か、それくらいだったかな? 父さんが少しばかりゲームを嗜んでいる時もあったが、私はそんなに触らなかったしね」

「ふーん…。…したいゲームがあるの?」

「君がお勧めしてくれるやつだったら、一考の余地はあるし、パーティーゲームだったら、余興として偶にくらいなら君としてみてもいい。…君の好きな物を私も感じてみたいしね」

「……それは、………俺も、お前の趣味に興味を持った方がいいのかな?」

「私の趣味? どうして急に?」

「………お前が、俺の好きな物に興味があるって言うから…」

「ああ、それならもう君は、充分に興味を持っているじゃないか」

「持ってる?」

「私の研究にも充分尽くしてくれたし、…今の私に趣味という程趣味な物もないからな…。…でも、…私も満足してない事はないよ。強いて言えば、私の趣味は君のそばに居るという事みたいなもんだから、そういう時に、君は私の相手をしてくれる。今みたいね」

 田上は、何も返事をしなかったが、タキオンはまた話を戻すために言った。

「それで? マツオならやったことはあるがね」

「……マツオ一緒にする? …持ってるよ?」

「君がしたいんなら、私もしたい」

「……じゃあ、考えとく…。……『DIVER』を作った監督、今もゲームを作ってるんだけどね」

「ああ」

「…『カメリアの漂浪記』って言って、次、2が出るんだけど、あれも良いゲームだよ。グラフィックもドットじゃなくて、美麗な…リアルなやつだから、タキオンでも映画感覚で楽しめると思う」

「…カメリアの漂浪記1が、私が楽しめると?」

「そう。五年くらい前だけど、それでも滅茶苦茶良いゲーム。もう五年くらい前だと、ある程度綺麗な映像にはなってるしね。今のゲームと言っても遜色無い位に」

「カメリアは椿って事でいいのかな」

「それでいい。…良いゲームだよ…。各地を旅して、そこに居る人たちを救っていくゲームなんだけどね。…俺なんか、主人公のジンも好きなんだけど、中盤に出てくるスチュアート少年も結構好きなんだよね」

「そいつはどんなキャラクターなんだい?」とタキオンが、自分の身動きで揺れる水面を見つめながら聞いた。

「スチュアート少年?」

「そう」

「スチュアート少年はね、……親が方々を歩いて回る職業の人だから、友達もほとんど居なくて、その度その度に別れがある人なんだけど、故郷ってのに憧れを持ってる。自分も帰るべき故郷という場所を持って、皆が話すように緑の野を駆け回り、山を歩いて、小川を越えてみたいと思っている男の子。親の方は結構忙しい人で淡白だったりするんだけど、ジンがそこに滞在している間に、結構相手をしてあげたから、よく懐いたけどね」

「……ジンってのは男の名前で良いんだよね?」

「あ、いや、違うよ。女の人。通り名っぽい感じではあるけど、本名はまだ明かされてない」

「……ストーリーも君が褒めるくらいだから何かあるんだろう?」

「あー、…何かって?」

「…どういうストーリーの流れなんだい?ただ、各地にいる人を救うだけ?」

「ああ。 いや、まぁ、…ファンタジーだからね。…王家の陰謀に巻き込まれたりもするけど、不思議な体験をしたりもする」

「ふむ。……それで、グラフィックが良いと」

「俺のパソコン。伊達に高いパソコン買ってないから、性能は良いよ」

「ふむ。……じゃあ、…まぁ、上がるとしよう。出て行きたいんなら出て行きたまえ」

 タキオンは、そう言って、ザァと水音を立てながら立ち上がった。田上は、「んー」と唸りながら立ち上がり、脱衣所のドアを開けて立ち去っていった。

 タキオンは、その音を聞くと、風呂場のドアを開けて、脱衣所のタオルを取った。

 

 次に田上が入る番となった。タキオンが、「私も壁の裏で待っててあげようか?」とからかうように言ったのだが、田上は別に風呂に入っているに、壁を隔ててまで彼女と話をしたいと思っていなかったから断った。だが、タキオンの方はと言えば、結局そちらの方が田上と話したかったらしく、田上が風呂に入ったとみるや否や、すぐに脱衣所のドアを開けて入ってきた。

 そこで「圭一君、面白い話をしてよー」と言うから、田上は困った。田上としては、タキオンと話をするほど長く風呂に入ろうとは思っていなかった。だから、「俺はすぐ上がるぞ」とタキオンに返したのだが、タキオンは意に介さずに「ちょっとだけでもいいよ」と言っていた。

 田上は話しかけなかったが、タキオンが話してくることには「ああ」とか「うん」とか頷いた。そして、少しばかりタキオンの話を聞くと、「上がる」と言って、湯から立ち上がった。

 そして、湯の後始末を済ませると、タキオンを脱衣所から退かせて、そこに行こうとしたのだが、ここでのタキオンが中々の曲者だった。なにしろ、「君が来たいんならくればいいじゃないか」と言うばかりだったから、遂に田上も少々語気を強くして、「湯冷めするんだけど」と言った。

 これで、タキオンも脱衣所を立ち去らざるを得なくなったのだが、少し主張するように「はぁ…」と大きめのため息を吐いて出て行った。田上は、少々怒りながら自分の体を拭いた。タキオンが自分に不満を持っているのは知っているが、その不満だってどうやっても解決できないものだ。自分が大人である以上、タキオンに手を出す事はできないし、向こうもそれを知っている。それを知っている上で不満ならば、自分に手を出してくれる優しくてバカな人間でも探しに行けばいいのだ。

 それなのに、不満だけを垂れ流して、別れる事も拒否するのは大いに矛盾している。今の状況が不満だと言うのならば、別れを切り出してくれればいいのだ。それなら、こっちだって苦しい想いから解放されて、暫くは自由になれる。

 田上は、少し力を入れ過ぎてしまって、大きな音を立てて閉まったドアの音に、自分で驚きながら、脱衣所を出た。タキオンは、もう昨日の場所に布団を敷いて、そこに頭からつま先まで毛布を被って、寝ていた。意識はあるのかは知らないが、それを確認する気にはなれなかった。田上の今の心には、多少の怒りと共に、罪悪感も入り混じっていたから、タキオンを見たくなかった。

 だから、田上は、タキオンに背を向けて、パソコンの最後の仕上げに取り掛かった。と言っても、パソコンの方は粗方終わって、後はゲーム機のコードをモニターに取り付けるだけだった。しかし、コードを取り出した途端に、――これは今つけるべきか? と考えた。

 これから、机を買う予定である。しかも、明日か明後日には買う予定なので、今、ゲーム機を取り付けて、また外す手間を考えるならば、これは後から取り付けたほうが良いように思う。少し考えても、その考えは変わらなかったので、田上はそのようにした。

 そして、ついでに今机を選んでおこうと思って、田上はウマゾンという通販サイトをパソコンで開いて、ぼんやりとそれを眺めた。――ここに二人並んで、タキオンとゲームをする事があるのかなぁ、と机を選びながら、ぼんやりと妄想したが、今、こうして離れて過ごしていると、それもただの妄想として儚く散っていきそうな気配がした。

 

 田上は、とりあえず、適当な候補二つを選んで、今日の所は買うのをやめた。明日の朝、冷静になった時に、また考える事をしようと思ったからだ。といっても、その候補二つの机に大した違いはなく、むしろ、ほとんど形状は同じで、たった二百円かそこら値段が違うだけなので、冷静になった時でも怒っている時でも、安い方を選びそうな気はした。

 田上は、それから食卓の方の電気を消した。そして、またパソコンの部屋の電気も消すと、部屋は暗くなったが、まだ玄関の明かりが点いていたので、そこから光が差し込んでいた。田上は廊下を歩いて、玄関の明かりも消しに行った。

 パチリとスイッチを押して消すと、途端に何も見えなくなった。目を凝らしてみるが、暗闇に目が慣れていないので、何も分からない。けれども、慣れるのを待つほど、のんびりな男でもなかった。一つには、自分の背後にある暗闇が怖かったからというのもあった。

 田上は壁伝いに部屋まで歩いて行った。

 初めから、タキオンと同じ布団に入る気はなかった。激怒という程怒っても居ないのだが、多少の怒りを抱えたままでも、タキオンの隣に寝るのは忍びなかった。だから、田上は、パソコンの前の畳に何のかけるものもなく身を横たえた。その畳の固さを感じると、少し涙が出そうになったのだが、田上はそれを堪えてじっと身を横たえていた。あまり寝付きは良くなかったし、目を瞑る気すら起きなかった。

 そうやって、暫くゴロゴロと畳の上で居心地悪そうに寝返りを打っていると、やがて、シンと静まり返った家の中に、もぞもぞと動く衣擦れの音が聞こえた。無論、自分の物じゃないので、タキオンが動いた音だ。

 田上は、その音を、タキオンがいる方に背を向けながら聞いていた。その音は布団から這い出すと、畳を膝で擦りながらこちらへ近づいてくる。田上は、その音を聞いて、嬉しさを覚えると共に、自分がバカみたいだと思った。結局、こうなのだ。好かれている女の子一人振り払えないで、その身を寄せる暖かさに甘えている。

 タキオンは、田上の隣まで来ると、引きずってきたであろう毛布をその体にかけてきた。そして、自分もその中に潜り込んで、田上と共に横になった。田上は、今すぐ何かを叫んで、自分の心を発散させたい気持ちを堪えながら、腕を枕にして、暫く寝付けずにいた。

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