ケロイド   作:石花漱一

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三十六、引っ越し⑨

 翌朝になった。体が凝っているような気がして、背筋を伸ばした。だが、思ったよりは、凝っていなかった。隣にはタキオンが居た。田上は、少しの間、タキオンが静かに寝ている様を見ていたが、すぐに、自分が月曜なのにも関わらず、目覚ましなしで目覚めてしまった事に気が付いた。

 それで慌てて時計を見たのだが、時間はまだまだ朝の六時だったから、自分がいつもよりも早く目覚めてしまったのだと思った。そうすると、まだ少し瞼が重いような気がしたが、昨日のタキオンへの思いはまだ冷めきっていなかったので、またここで寝るわけにはいかなかった。だから、とりあえず、田上はタキオンと共に寝ていた毛布から抜け出すと、トイレに行った。

 

 トイレから出ると、横たわっているタキオンの下半身だけが見える。田上は、それを跨いで、食卓の方へ行った。タキオンをまだ目覚めさせたくはなかったが、流石にカーテンの隙間から差す光で食事はしたくなかった。なので、布団を片付けると食卓と寝室のあいだの襖を閉め、そこから、カーテンを全て引いた。

 途端に明るい朝の静かな陽光が、部屋の中に流れ込んできて、田上は少しいい気分になった。そして、外を行く銀色の車が通り過ぎるのを、満足気に見つめると、田上は、昨日買っておいたパンを取り出した。電子レンジで温めたかったのだが、電子レンジもない。まだまだ要る物はたくさんあるな、と思いながら、田上は、あんまり美味しくない乾燥したパンを食べた。

 タキオンが、隣の台所から聞こえる水音で目を覚ますと、隣に愛おしいはずの彼氏はいなかった。そして、事もあろうに、彼氏がいる部屋と自分がいる部屋は、襖で閉め切られていた。タキオンは、怒らせてしまったなぁ、と落ち込みながら寝返りを打った。隣の部屋から田上の足音が聞こえてきた。それは怒っている調子ではなかったが、隣の部屋に寝ている人が居るのを配慮した感じの静かな足音でもなかった。

 タキオンは、学校に行くのを気怠く感じたが、自分が行かないと言ったところで、今の状況では、田上は自分を置いて、学校に行かざるを得ない。少なくとも、学校には行かなければと思ったが、ここから立ち上がって、準備をしようと思うには、元気も勇気も足りなかった。

 田上は、朝食を食べ終わると、襖を少し開けて、隣の部屋のタキオンを確認しに行った。すると、気怠そうに寝転がっていたタキオンと目が合った。田上とタキオンは、二人の間にある壁を確認したが、それを無視して、とりあえず、田上が「おはよう」と声をかけた。今の二人は、恋人同士と言うよりかは、トレーナーと担当という関係の方が、呼び方は近しかった。

 タキオンは、気怠そうにしながら「おはよう」と返したが、口と目以外は一切動かさずにそう答えた。田上は、一瞬立ちどまって、タキオンに謝ろうか、とか、何か声をかけてやろうか、とか考えたのだが、何も思いつかなかったので、そのまま襖から顔を引っ込めた。せめてもの情けとして、開けておいた襖を閉めはしなかったが、それでも、――これからタキオンにどう接すればいいのだろうと思うと、気が重く迷いがあった。

 ここ最近はこんなこと尽くしである。タキオンと仲直りをしたと思ったら、また喧嘩をしている。自分たちの相性は最悪なんじゃないかと思ったが、少なくとも、平然とした気持ちでくっついて入れる時は、それが堪らなく心地良かった。

 田上は、隣の部屋にあった着替えを取りに、また襖の隙間を先程よりも広げて、そこに入って行った。そして、ついでに、そこのカーテンを開け広げて、端の方に括った。

 その後に、タキオンの方を見ると、タキオンは乱れていた毛布にくるまり直して、陽の光に背を向けていた。田上は、昨夜の事など何もなかったふりをして、「おい、学校行くぞ」と声をかけた。これも、どちらかと言えば、トレーナーよりの発言である。田上も、これを言ったところでタキオンが動き出しそうにないのは分かっていた。現に、タキオンは動こうと言う気配を見せない。

 田上は、部屋の時計を確認した。まだ、それ程差し迫った時間でもない。思わずカーテンを開けてしまったが、それ程急き立てる事もない。

 田上は、タキオンの扱いに困った後に「どうする?お前の学校に合わせるために、七時十五分にはここを出る予定だけど、それに合わせて行動する?」と問いかけた。

 その後に、田上は「まだ寝る?」とも声をかけた。タキオンは、一番初めの質問には何も反応を示さなかったが、二度目の質問には微かに頭を揺らして頷いたような気がした。ただ、田上には本当にタキオンが頷いたのか分からなかったため、聞き直そうかどうか迷った。しかし、これ以上の会話は疲れそうだったため、田上はその質問を避け、――またカーテンを閉め直して置けば問題ないだろう、という選択をした。そして、タキオンの枕元にあった自分の服を取りに行った。

 その際に、タキオンと目が合った。タキオンは何か言いたげな目をしていたが、田上は、それを見下ろしたのみで、何の声もかけなかった。声をかけるにしても、なにか考えに考え抜いてから声をかけなければいけなかったし、今の田上に、それを考える程の余裕はなかった。

 ただ、田上は、隣の部屋に自分の着替えを持っていきながら、自分は冷淡な奴だろう、と思った。傷付いている女の子を見知らぬふりをして、放って置いている人間だ。その事に罪悪感すら感じない。田上は、少なくとも、心の上ではそう思っていた。

 ただ、田上は自分の事を罪悪感の無い悪人だと思いつつも、タキオンの経過が心配だったので、度々、タキオンの様子を確認するために、襖から顔を覗かせた。二つの部屋を分かつ襖は、最早閉じてはいなかった。

 一つには、もうタキオンが少なくとも熟睡していなかったのもあるし、田上がタキオンに対してそれ程怒りを募らせていなくなったのもあった。

 田上は、何度かタキオンの寂しそうな後ろ姿を確認した後に、――こういう場合に自分が動かないと、何も進まないんだろう、と思うと、食卓の方から四つん這いで歩いて行って、タキオンの背のすぐ後ろの方まで行った。

 そこまで行ったところで、田上はタキオンにどう声をかけようか迷った。タキオンが、もし本当に寝てしまっているのであれば、起こすのは申し訳ない。だが、例え眠かったとしても、これは双方にとって重要な話だろうし、そもそも、そんな一瞬で寝るような状況でもないだろうと思うと、田上は、寝ているかもしれないタキオンを起こさない程度に、その肩をちょんちょんとつついてみた。

 反応はない。顔が見えないので、これでは寝ているのか起きているのかすら分からない。それでも、もう一度ちょんちょんとつついてみて、何も反応が無いのを見ると、タキオンの顔を後ろからそっと覗き込んだ。目は閉じられていた。少なくとも、寝ているか無視をしているかだ。田上は、無理に起こすのもしょうがないので、タキオンから人一人分空けたところに、ゴロリと横になると、天井を見つめた。

 タキオンの事は好きだ。タキオンの方もこちらの事を好きらしいが、どうにも偶に面倒な事をする女だ。そうやって、田上を挑発して、怒らせて、勝手に落ち込んでいる。巻き込まれるこっちの方になってみると、居た堪れないが、この関係性も二人の目を曇らせるので、どうにも面倒だ。

 答えが一つだと思って、その物事を探ってみると、そうすればするほど、二つや三つと答えがぽろぽろと零れ落ちてきて、いつの間にか、何が何だか分からない状態になっている。もしかすると、答えが複数あっても正しいのかもしれないが、そうされると、こちらも整理がつかない。少なくとも、整理がつくくらいには、単純な言葉で並べられたら嬉しいものだ。

 田上は、その後に、タキオンの事を考えた。昨日、脱衣所でタキオンは「自分は悪い人間だ」と言っていたし、また、「誑かしているのは私の方かもしれない」とも言っていた。タキオンの今の状況を考えると、――それも有り得るな、と思った。

 無論、そう思って怒るのではなく、ただ、タキオンを見つめる視点を冷静に考えただけだった。タキオンだって、根っからの善人でもなく、根っからの悪人でもないのは知っていた。

 ただ、偉大な人だとは思っていた。少し小狡い所はあっても、田上からは、自分の事を慕ってくれるタキオンが、まるで神様か何かの様に偉大で、輝ける人間のように思った。田上は、タキオンの事を根っから尊敬していた。小狡さは愛嬌。思想は偉大。走る姿は、まるっきり才能の塊。タキオンの事を何もかも兼ね備えているような、完全無欠のスーパー才女だとばかり思っていたが、昨日の出来事を改めて考えてみるとそうでもないように思う。昨日の出来事だけでなく、これまでの経験からしてそうだ。

 タキオンも思想ばかりが偉大な人で、ここに居るわけではない。自分もそう思ってついつい頼る様な言動をしてしまったが、むしろ、このような二人きりの甘い空間を望んでいたのは、田上ではなくタキオンの方だったのだ。

 タキオンは以前に、「二人きりの理想郷が欲しい」と言っていた。それを念願叶えようと、今日ここまでやって来たのだ。田上は「求めているだけじゃ叶わない」と返した気がするが、田上が、タキオンの事を忖度してきてしまったばっかりに、遂にここまでやってきてしまった。

 田上だって、二人きりの時間ができた事を後悔しているわけではないが、タキオンの弱さを見て見ぬふりをしてここまで来てしまった自分を、少しだけ――バカだな、と思った。ただ、今は不思議と自分を重く責める気にはなれなかった。それよりも、タキオンの弱さを今改めてか初めてか、発見した興味深さが、田上の中にあった。

 これが数日経てば、自分はこの気持ちの事を忘れて、また不機嫌になるのだろうか? と思った。そう思うと、気が重たかったが、それと同時に、タキオンの弱さを発見したが、その弱さを解決する方法をまだ発見せずにいる事に気が付いた。

 ここで、田上のタキオンを見つめる心は少し弱まりを見せた。――どうせそうなるのだ、と思った。行き着く答えを知れずに諦めて、二人だけの世界に浸ろうとするのだ。 その考えに、田上は少し疑問を感じたが、具体的に何を疑問に感じたのかと問われると、分からなかった。

 田上は、一先ずタキオンの事をどうしたらいいのだろうと考えた。付き合ってから、タキオンの方が落ち込む事も何度もあった。そして、やっぱり、その度に自分はタキオンと一緒に居る事を選択した。タキオンの事が好きだったし、好きだと言うのに不本意な別れは嫌だったからだ。

 それにも関わらず、ここ最近ではタキオンに甘えてばかりだ。自分はタキオンには似合わないとか言って、機嫌が悪くなるふりをして、甘える事をしている。ただ、田上の立場も分かってほしいものだ。少々落ち込むくらいには、その立場が二人の足を絡めとっている。落ち込むのも無理はないが、そこからさらに発展して落ち込むのでは、今度は意味がない。それで、タキオンばかりに心労をかけていたら、それこそタキオンだって迷惑だ。

 田上は、その考えが今はっきりと手に取れたが、これが、どうやって自分に作用するのかまでは分からなかった。依然として状況は変わらない。自分にもそれ程自信はないが、落ち込んで下を見てばかりでは、タキオンだけが苦労をする事が分かった。

 となると、自分も苦労するべきなのだろうが、そこの所が曖昧だ。自分だって苦労をしてないつもりはない。いつだって、立場が二人の足を絡めとるし、そこにタキオンの我儘だって絡んでくる。苦労をしている事にはしている。チームとタキオンの擦り合わせだって、まあまあな苦労をした。大した実は結ばなかったが、あれを苦労と呼ばない事はない。

 ただ、タキオンの我儘を苦労としてカウントするのはどうなのだろう、と思った。タキオンの我儘だって、もしかしたら、田上が今まで不甲斐なかったからこそ来ているのかもしれない。それを除外するとすると、タキオンの苦労は、世間の目だけという事になる。

 田上はここで頭が混乱して、話を元に戻した。つまり、タキオンだけに苦労させてはいけないのだ。

 これが、自分も苦労しなければならないという話になるがおかしいのかもしれない。結局、どちらも苦労しなくなればそれでいいのだ。――という事になれば、自分はどうすればいいのだろうか?と思った。

 田上は、暫く考えたが、方法だけはどうしても思い浮かんでこなかった。その内に、タキオンが身動きをした。田上がその動きに気が付いて、じっと見つめていると、タキオンは辺りの様子を窺うように、少しずつ少しずつ田上の方を振り向いてきた。

 そして、田上を目が合うと、反省しているように目をふいと逸らした。田上は、今回は少し言うべき言葉が見つかったような気がして、起き上がると、タキオンの方に身を寄せに行った。

 それから、タキオンの腕にそっと触れると、「好きです」と言った。今度は、少し恋人の様な声色だった。

 

 田上がそう言っても、タキオンは振り向いてこなかったが、振り向きたいようなそわそわとした雰囲気は出している気がした。それに、昨日自ら身を寄せて来たタキオンが怒っているはずもないだろうから、田上はもう少し大胆に動いてもよさそうな気がした。

 だから、田上は動かないタキオンを見ると、その腕を触っている自分の手をそっと動かして、タキオンの手を優しく躊躇いがちに握った。

 タキオンもそうされると、暫くは動かなかったが、やがて、手だけを動かして、こちらも躊躇いがちに田上の手を握り返した。まだ、二人の間に喋りにくい壁はあったのだが、少なくとも、気怠くて息がつまりそうな壁は取り除かれた。

 田上は、握り返してくれたタキオンの手を感じると、少し安心して、こちらの方ももっと強く握り返した。そうやって、暫くはお互いの絆を確かめ合うように、田上とタキオンは手を握り合っていたのだが、漸く満足の行くまで絆を確かめられると、タキオンのは田上の方をくるりと振り返った。

 田上は、タキオンの顔を見つめたが、何も言えなかった。何と声をかければいいのか分からなかった。タキオンもそういう田上の心情を分かっていたから、安心したようなため息を吐くと、寝転がったまま畳の上を擦り寄っていって、手を繋いだまま田上の胡坐の中に頭を置いた。

 まだ、二人は無言だったが、その表情の中には微笑みが映った。田上は未だに何と言えばいいのか分からなかったし、タキオンは、まだ少し離れかけていた幸せを噛み締めていたかった。

 田上が、タキオンの前髪を指先で弄っている時に、その本人が唐突に「ごめん」と言った。タキオンは、閉じていた目を開けると、頭上にいる彼氏を見上げた。

「君が悪いんじゃないよ」と極めて静かな部屋でなければ聞こえない様な小さな声でそう言った。

 田上は、それに嬉しそうに口角を微かに上げながらも、同時に、眉も少し寄せた。そして、なんと答えようか迷った後にこう言った。

「お前の事が好きだよ」

 タキオンは、嬉しそうに微笑みながら、彼氏の頬に手を伸ばして、その頬を撫でた。

「……怒ってる?」と初めて、タキオンの方から口を開いた。少々不安そうな、後悔していそうな面持ちだった。だから、田上はできるだけ優しく微笑んで答えた。

「…怒ってないよ」

「……昨日は怒ってただろ?」

「……少し。…でも、…今日朝起きて見て、少し分かったよ」

 タキオンは、話が自分の予想していなかった方に行こうとしているのに気が付いて、少しだけ怪訝そうな顔をしながらも「何が?」と小さな声で聞き返した。

「………お前って、…俺が思ってたよりも、…何と言うか、……こう、……思ったよりも、普通の女の子だったんだなって…」

 タキオンは、あんまり話の流れがつかめずに、良く分からなさそうな表情で田上の事を見返してきていた。田上は、その頬を親指で優しく撫でた。

「だから、…俺は、お前の事を神様か何かみたいに思ってた。…まぁ、…自分に自信が無いのもあるだろうし、お前が結構何でも卒なくこなす天才だったのもあるからね。自分よりも遥かに上の存在だと思ってた。…本当に。……お前の弱い所も付き合ってからも付き合う前も、結構見てきたつもりで、認めてきたつもりだったんだけど、……思ったよりも、俺はお前の事を神様だと思ってた…。……なんでかはあんまり掴めないんだけど、…お前って本当に凄いからな…。思わず尊敬したくなるところがあるし、皆を引っ張って行けるような人間だし、考えもしっかりしてるし…。…でも、俺は、お前が、完璧な人間だと思ってた。だから、必ず何かしてくれるんじゃないかとか、救ってくれるんじゃないかとか、…本当に、信仰に近い気持ちで眺めてたけど、…今日不図思った。…――お前って、実はそんなになのかな?って。……言葉を重ねすぎると、あんまり言いたい事もこっちが分かりづらくなるんだけど、…まぁ、…お前って神様じゃなかったんだなって、今日、やっと気が付いたような気がする…」

 田上がそう言い終わると、タキオンが田上の顔を見上げながらこう返した。

「……私が神様じゃない?」

「…そう」と田上は頭を少し揺らして頷いた。タキオンは、それに思わず呆れたように笑いながらこう言った。

「今頃気が付いたのかい。…君も気付くのが遅すぎるねぇ」

 田上もそれにつられて、少し笑いながら「遅すぎた」と答えた。

「私なんて随分前からそれを言い続けてきたつもりだったんだが」

「そう。……お前を普通の女の子だと思ってしまうと、自分の立場が崩れしまうと思っていたのもあるかもしれないな…」

「……まぁ、折角、私が君に甘えてるだけのか弱い女の子だと気が付いてくれるのだから、それを責めるのも忍びないね.。……ご苦労。これからの私の人生を支えてくれたまえ」

 タキオンがそう言うと、田上は少し眉を寄せて、具合の悪そうな表情をしながらこう吐露した。

「……それを深く考えすぎると、また分からなくなるしさ、…気が付いたって言っても、お前が思ったよりも普通の女の子だったって事に気が付いただけで、それから、具体的に何をしようって当てもないんだよ……。……お前を支えるって言ったって、……どう接すればいいのか分からない。……俺だって、お前と二人で居る時間は好きだし、それに甘えてみたい。………俺が一人でお前を支えて行こうって言っても、………分からん……」

 タキオンは、悩み深い顔をしている自分の彼氏を、悲しい物を見る目付きで見つめた。その答えの正体はタキオンにだって分からなかった。

 二人は今、二人して同時にどつぼに嵌まっていた。周りにつかまる物の無い底なし沼に腰まで埋めて、二人でどうしようどうしようと言っている状況だった。二人に安息の時はなかった。二人共お互いの顔を見つめて、ただ一時お互いの中にある愛を確認してから、段々と沈みゆく自分たちに恐怖するのだった。

 田上は、今そこに垂れ掛かってきている蔓を見つけて、なんとかそれにつかまって脱出しようと藻掻いている所だったが、蔦はぎりぎりの所で田上の手に届かなかった。目の前に脱出の糸口があるのに、それに手が届かない、なんとももどかしい状況だった。それでいて、背後には自分たちの死の恐怖があるから、堪らなく恐ろしかった。

 

 田上は、呼吸を落ち着かせると、――一先ずは、と自分の心に言い聞かせた。

 ――一先ずは、タキオンの体を支える。そして、その状態を崩さないように努める。タキオンに甘えすぎない。頑張るのは自分だ。と言い聞かせた。

 自分の力が入り過ぎているのは分かっていた。だが、それ以外に方法が分からなかった。力が入りすぎると、タキオンを顧みなくなるかもしれない。しかし、そうする他なかった。二人の感情がにっちもさっちも行かなくなっている今、田上は強引にでも無理矢理突っ切って、突破するしかないと思っていた。田上は、ゲームの中でも、行き詰まったらそういう事を偶にした。

 タキオンは、話が芳しくない方向へ言ったのを感じた。しかし、自分はそれをどうする事もできなかった。元より、タキオンは田上に体を預けている身だった。これと言って、自分の力で動き出す術を持っていなかった。自分の大切な人に災いが降りかかると分かっていても、その火の粉すら払ってあげる事はできなかった。

 タキオンは、自分の無力を感じた。そして、昨日、考えていたことをどうしようかと思った。昨日考えていたのは、今日、この月曜日も外泊届を出して、ここに泊まろうという事だった。田上に黙って。田上は怒るかもしれない。でも、泊めてくれはするだろう。その時の雰囲気がどうなるかは、タキオンにも分かっていた。しかし、それでも、今日もここで田上と一緒に居たかった。田上が怒るか落ち込むかはどちらでも良いとして、タキオンは、田上と二人で居たくてたまらなかった。もし、今ここで田上に相談してみたら、田上も優しい人だから「今日だけは」と渋々許してくれるかもしれない。それとも、許してくれないかもしれない。

 ただ、タキオンは、今の悩みに落ち込んで、苛立っている彼氏の顔を見ると、どうしてもそれが言い出せなかった。

 

 二人は、結局朝の支度を済ませて、七時十五分に家を出た。田上は、何か腹の底に秘めているような顔をしながら、タキオンの朝の世話をした。流石に着替えは自分でさせた。

 タキオンは、少し駄々をこねてみようかとも思ったが、昨日の夜の出来事を思い出すと、それもする気が無くなったので、自分で服を着た。自分の荷物をキャリーバッグに詰めながら、タキオンは、田上に今日も泊まりたいという事をどう切り出そうか迷ったが、踏ん切りがつかないままに、荷物は詰め終えれてしまった。

 田上は、タキオンがここから出て行く事に対して、落ち込んでいるのが分かっていたが、どう声をかければいいのか分からなかった。けれども、気休めとして、「また金曜も来れるよ」とだけ声をかけた。タキオンは、今日自分がしようとしている事に、罪悪感を持って、さらに落ち込んだ。出て行く時は一言も口を利かなかった。

 電車に乗る時も田上にされるがままになっていた。田上もタキオンの元気が無いので、自分がリードする他なかった。田上は、落ち込んでいるタキオンの手を引いたまま、電車に乗り込んだ。

 田上はタキオンと手を繋いだまま、つり革を握った。タキオンは、つり革を握らずに、田上の体に寄りかかるようにして、腕を握ってきたので、少々体が重くて面倒だった。だが、田上はタキオンが頼ってくれるのが嬉しくもあったし、また、タキオンを支えなければと努めていたので、そんな些細な事は文句一つも言わずに、彼女の事を支えてあげた。

 やがて、当の駅に着くと、田上は、タキオンの手を引いて改札を出た。タキオンは、田上が支えてくれたことに少しの幸福を感じていたが、今日も泊まりたいという事を思い出すと、どうにも気分は複雑なままだった。道行く中で、タキオンは何度かこの話を切り出そうと思ったのだが、田上が、何かを我慢していそうな気配を感じ取ると、それもどうにも難しかった。ただ、田上の手の平から伝わる暖かさだけが幸せのように感じた。

 田上も、自分がタキオンの事を大切に思っている事が伝わるように、度々気にかけるような言動をしたが、それでも、タキオンの事を気にせずに前を見ている瞬間のその目は、きつく何かを睨むようだった。タキオンは、その目を見ると、口を噤まざるを得なかった。

 

 トレセン学園には七時四十五分頃に着いた。タキオンは、一先ず寮に行って制服に着替えなければいけなかったので、田上を寮前のベンチに待たせて、自分は自分が元住んでいる部屋へと向かった。

 タキオンは、昨日にも本を取りに寮に戻ったのだが、その時はたまたまデジタルが部屋にいなかったため、どうということはなかった。しかし、今丁度部屋からニヤニヤしながら出てきたデジタルと鉢合わせると、自分が住んでいたのはこの部屋だったという事を思い出さされた。デジタルは、いつものようにタキオンにへりくだって、タキオンの邪魔をした事を詫びると、そのまま立ち去って行った。タキオンは、この人が同室だったという事を、少し興味深そうに思い出しながら、その後ろ姿を見送った。

 部屋に入ってみると、成程、確かにデジタルがこの部屋で生活している痕跡がある。そして、自分の生活の痕跡もそれと同等にある。この二日間、甘い幻想に浸っていたが、自分が住んでいたのはこの部屋だったのだ。決してあの彼氏の家ではない。タキオンにはその事が新鮮であったし、また、急に現実の方へと引き戻されたようでもあった。

 今は少し、――今日も彼氏の部屋に泊まりに行こうという思いも薄れた。自分の生活はここにあって、あそこには無いのだ。しかし、田上の事を想うと、それも少し薄れた。あの人の傍に居たかった。

 どうにも妙な心地になりながら、彼氏の部屋と同じくらいには居心地のいい自分の部屋で、タキオンは着替えをして、自分の荷物を取ってきた。その頃には、すっかり学生の気分のタキオンだった。

 

 タキオンは現実に引き戻されて多少元気になりながら、田上の元へ向かった。田上は、寮前のベンチに座って、地面をじっと見つめて思い詰めているような様子だったが、タキオンが少し元気になって戻ってきたのを見ると、表情を優しくさせて、タキオンと歩き始めた。

 トレーナー室に着くと、そこにはもうマテリアルが居た。田上とタキオンは、それぞれマテリアルに「おはようございます」「おはよう」と挨拶をした。ただ、時計はタキオンがあまりゆっくりはできなさそうなところに針を置いていた。八時にチャイムが鳴るので、そこまであと四、五分程だ。ただ、四、五分であってもタキオンは田上の傍に居たかったらしく、長机の方から椅子を持ってくると、田上の隣に置いた。田上は仕事の準備の為に少し机を整えていたのだが、タキオンが隣に椅子を持ってくると、目を見合わせた。二人の間にもうすぐ会話が生まれようとしていたのだが、その前にマテリアルがこう言ってきた。

「お二人共、二人きりの家はどうでした?仲良くできました?」

 田上は、タキオンとチラリと目を見合わせた後、特に明るくもなく暗くもない表情を作りながら、自嘲気味に「まぁ、…それなりにですよ」と言った。マテリアルだって二人の事を知らないわけがないので、こういう口調で少なくとも、ごたごたはあったのだろうな、と思った。

「また喧嘩したんですか?」

「……喧嘩?」と田上が答えあぐねて、タキオンの方を見た。

 タキオンもそのマテリアルの質問に鬱陶しそうな表情をしていたが、答える事には答えた。

「…喧嘩…という程でもないけどね。…少なくとも私は…、そう思ってる」

 タキオンは、田上の目を問うように見つめ返した。二人共お互いの気持ちを察しあぐねているが、今回は、邪魔でもあり、頼りにもなるマテリアルが同じ部屋にいた。

 マテリアルは、二人の雰囲気に似つかわしくないしゃしゃり声で言った。

「あなた方、土曜の喧嘩は解決したんでしょう?また喧嘩なすったんで?」

「大概、普通の恋人がするような喧嘩という程の喧嘩でもないさ」

「普通の恋人はそんな喧嘩をしますよ」

「君にも経験があると?」とタキオンがマテリアルを挑発するように言うと、マテリアルは少し眉を寄せた後にこう話した。

「やめやめ。タキオンさんと話すと、口が上手いもんだから、こっちまで感情的にされます。 田上さん、こんな人相手にしてて良く折れませんね」

 田上は、ほとんど折れているのを無理矢理タキオンに継ぎ直されているようなものだったから、それに上手く返答できずに、首をちょっと傾げるだけにした。

 タキオンは、マテリアルに言われたことに対して自覚があったし、田上が今首を傾げた理由を察する事もできた。

 すると、田上を苦しめているのは、決して世間の目だけでなく、自分自身もそれに加担しているのではないかと思った。実際、昨日の夜の風呂場での行為は、自分自身でも反省して然るべきものだ。反省すると言っても、あんまり悪いとも思ってない。何故なら、恋人二人の関係は、裸を見せあえるほど仲良くて然るべきものだと思っているからだ。

 むしろ、自分の思想に反しているのは田上の方だ。田上の融通が利かないのだ。別に誰に見られるものでもないのだから、ちょっとくらい甘い蜜を啜っても問題ないだろう。

 そう思ったところで、タキオンは、自分の部屋に戻った時の現実感を思い出した。自分は、決して圭一君と自分だけの夢の世界に生きているわけではない。圭一君は、現実の世界の大切さを知っているからこそ、自分を現実の世界に引き留めようとしてくれているのだ。

 ただ、もう一人の自分が逸れに反論した。――しかし、圭一君だって、何も現実の世界だけに目を留めているわけじゃないじゃないか。むしろ、あの人だって私と同様に弱い人間だ。あの人の理想はここに在るんじゃない。お母さんが死ぬ前の世界にあるんだ。

 こんなこと考えても空しいだけだと思ったから、タキオンは自然と俯いていた顔を上げて、隣の彼氏の顔を見た。

 彼氏は、机の一点を見つめて、身一つ動かしていなかったが、やがて、タキオンに見られている事に気が付くと、「なに?」と聞いた。タキオンは、少し微笑むと「かっこいいよ」と言った。その直後にチャイムがキンコンカンコンと鳴った。だから、タキオンは、出て行く前に田上からエネルギーを得るようにぎゅっとハグすると、「行ってきます」と言って出て行った。

 マテリアルはその一部始終を見つめていたが、二人の微妙な雰囲気にやきもきしていた。あんなにお互いの事が好きなのに、どうにも素直になり切れていない二人がもどかしかった。そして、――この二人を絶対にくっつけてやる! と思った。

 ――この二人を絶対にくっ付けて、ウエディングドレスに身を包んで幸せそうな笑顔をこの目で見てやるんだ! あんな二人が別れるとなったら、私は絶対に許さない!

 どうも、この執念は、自分の境遇からも来ているかもしれなかった。

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