ケロイド   作:石花漱一

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三十七、夢①

三十七、夢

 

 タキオンは、授業から帰ってくると、ある程度気分も良くなって、田上の横に置かれたままになっていたパイプ椅子に座ると、こう言った。

「私、思うんだがね…」

 そう言った後に、やけに元気のいいエスが、「やぁー皆さん元気ですかね」と言いながら入ってきた。タキオンは邪魔が入って少し不愉快そうな目でエスを見たが、エスはそんな視線には気付かずに窓際まで寄ると「いやぁ、ここの人たちは一体いつになったら窓を開けるつもりなんでしょうね。こんなにいい天気なのに。良い空気なのに勿体ないとは思いませんかね?」と言って、窓を開けた。外は曇りなので、特にいい天気というわけでもなかった。今日はすこし雨が降る予定らしかったから、田上はトレーニングには体育館の上階に設置されているジムを予約していた。タキオンだけはダンスレッスンなので別行動だ。

 窓を開けると、すこし雨の匂いがする空気が流れてきたが、それが妙に心地良く鼻に残った。田上は梅雨の匂いを感じて、少し微笑んだ。エスとマテリアルは、その後になにか会話をしていたが、その前にタキオンが先程の話の続きをしてきた。

「私、…思うんだがね…」

「うん」

「………やっぱり、理想に浸りすぎると心を消耗するね」

「…そうなんだ」

「そう。……別に、君との暮らしが嫌って訳じゃないんだがね…。……実際、この二日間は消耗したような気がする…。……君を是正したいわけじゃないんだよ。…むしろ、君はちゃんとやってる方だ。……理想ってあんまり良くないもんだね」

 タキオンは、疲れた様に投げやりに言った。田上は、あんまり返すことが見つからなかったので、「んー…」と曖昧に唸ったが、少し考えた後にこう言った。

「……理想だけに支配されると良くないってのは勿論わかってるけど、……理想があるから人は前に進んだりするんじゃないか?」

「……どうだろうね」とタキオンは疲れて頭が働かなかい人のように答えた。「…そうかもしれないね…」

 田上はそんなタキオンの様子をじっと見つめた後に、また話し出した。

「理想と現実の配分ってどんなもんだと思う?」

「んー……、まぁ、……理想が大きすぎてもいけないだろうね。……均衡というのも妙な話だからな…。……分からない。私には分からないよ。……君が言うように、私は弱くなったんだもの」

「………俺がお前の体を支えるのも理想かな?」

「……そうじゃないかと思う」

 タキオンは、頭を左右に投げやりに振った。

「ダメだ。…もうなーんにも分からない。 参ったね…」

 タキオンは田上の顔を見ながら自嘲気味に言った。田上はそんな彼女の顔を見ながら、――自分は何をしてやるべきなんだろう、と思った。

 

 タキオンは、今日も泊まりに行ってもいいものかどうか、田上に聞いてみようかと思って、教室から出てきたのだが、こうして話していると、どう切り出して良いかも分からなくなって、遂に何も聞かずにトレーナー室から出て行く事になった。ただ、田上に自分の心を打ち明けたことで、少しはさっぱりしたような気がした。田上は、自分が何にも分からないと言っても、責めなかったし、重く捉えもしなかった。ただ、少しの健康上に良さそうな位の問答を重ねただけで、後はそのまま解放された。

 分からないと打ち明けるのは楽しかった。多少投げやりな気分ではあったが、それでも傍に居て良いと言ってくれる彼氏が居てくれた。何にも分からなくても、自分はこの世界にいて良いんだと許されたような気がした。それは、もしかしたら、田上の心の変化かもしれなかったが、タキオンは、自分の事を今まで神様か何かかと尊敬していた田上の心を責める気にはなれなかった。それ以上に、自分が普通の女の子だと気が付いてくれたことが嬉しかった。残念ながら、今回は話を打ち明けられなかったが、それでも、心は軽くなったような気がした。

 二時間目の休みになって、タキオンはまた戻ってきた。エスも、テーブルの端の方でイヤホンを両耳につけながら、スマホに何かを熱心に打ち込んでいる。田上は、――誰かとやりとりでもしているのだろうか? と思ったが、特にその事に思いは巡らさずにタキオンと話した。ここ最近のエスは、紙ではなくスマホを持ってくるようになったので、もしかしたら、スマホの方に小説を書いているのではないかとも思われるが、実際の所は田上も詳しく聞いていないので分からない。

 タキオンは、田上の前で何かを言うべきか言うまいかと頻りにうーんうーんと唸りながら悩んでいたが、やがて、困ったようにこう言った。

「………どうだろう。……君は断るかもしれない。……しれないしね……。さっきも理想の話をしたばかりだし……。……とりあえず、聞くだけでもしてくれるかい?」

 田上は、今からどんな厄介な事を言われるんだろう、と神妙な顔つきをしながらも、できるだけ表情は優しくさせて、「いいよ」と言った。タキオンはそれからも少し迷っていたが、こう話した。

「……とりあえず、…提案。……今日も……君の家に泊まりたい…とね?」

 田上は、できるだけ優しい顔を崩さないようにしながらも、飛び込んできた厄介事にどう対処しようか迷う表情をした。タキオンはその表情を認めると、甘えるようにあざとく「駄目かな?」と聞いた。元来、タキオンには甘い田上だったが、流石にこれは一考の余地がある。ここからエスカレートされて、来たい時は、平日にいつでも来て良いという話になると別だ。田上は、できるだけ優しく困ったように「んー」と唸ると、タキオンの方を向いて、こう話した。

「……俺の家にいると消耗するんじゃないの?」

「そうだろうね。…言われると思ったよ」とタキオンは、複雑そうに落ち込みながら言った。田上は、憐れだと思って、その人の事を見つめたが、話はやんわりと拒否する方向へと持っていこうとした。言わば、タキオンが納得するような理屈で。

「………タキオンは、消耗するよりかはしないほうが良いんじゃない?」

 だが、この質問は、あんまりタキオンへ言い印象は与えずに、田上は少し睨み返された。それでも、タキオンは困ったように俯くと、「どうしよう……」と呟いた。

「……こうやって、悶々と考えているような時ほど、消耗していくような気がする。……君はどうしてほしい?一応、規則では、三日続けて彼氏の家に泊まっても問題ないがね」

「俺は……、…まぁ、やめておいたほうが良いと思うよ」

「…理由は?」

「んー、……まぁ、俺も消耗したような気がする。…それに、お前もそうだって言うんだったら、休憩も必要じゃないか?」

「……んーー、……つまらない言い訳だね」

「…面白い言い訳を言った方が良かった?」

「できるだけ、私が納得できるものをね」

「どっちにしろ、お前は辛かったんだろ?この二日。俺だって辛かった。まだ、こうやって、椅子と椅子に座って会話をしている方が、…距離があると言うか、…理想に浸り過ぎてない。…こっちの方が空気も新鮮な気がする」

「……君と仲良くなりたかったんだもん…」

「…仲は良いだろ?」と田上はできるだけ優しい声色で、諭すように言った。タキオンは、尚も困ったような顔をしながら田上を面倒臭そうにチラリと見ると、口を開いた。

「仲は良いとも。…仲はね。そんなの二人とも知ってる。誰でも知ってるとも。……私は、そんなことじゃなくて、……君の心のもっと深層の所に入り込んでみたかった。……これこそ理想だろうがね」

 田上は、タキオンの言いたい事が分かって、胸に少しの罪悪感が湧いた。それと同時に、田上は、朝ここに来た時にマテリアルが言った事を思い出した。――口が上手いもんだから、こっちまで感情的にされます。 この言葉に嘘は無いような気がする。それでも、田上はタキオンの事が好きだったから、あんまり気にしない事にして、口を開いた。田上は、今日の朝家でタキオンと話している時に、あんまり自分の心の事を気にし過ぎるな、と思ったばかりだった。

「………俺の深層ってどんなところ?」

「……君の…昔の事」

「……まだ、…話してない事があったかな…?」

「そういうところだよ。私をやんわりと拒否しておく所。やんわりと分からないように靄で覆う所。そういう中にある君の正体を掴んでみたかった…」

 田上は、その言葉の意味がうすく脳内へと伝わってくるのが分かったが、はっきりと理解はできなかった。ただ、頭が悲しみで支配されるようにするのを堪えて、タキオンへの思いを代わりに抱くと、優しく言った。

「………それは、…恋人としては良くないかもしれないけど、……それで、タキオンは嫌いになる……?」

 言葉選びが難しかった。やはり、悲しみや不安というものを完全に覆い隠す事はできなかった。田上は、若干具合が悪くなりそうになりながらも、顔はできつだけ平然とさせた。タキオンはもとより、悩んでいて自分以外に強い意識が向けられていなかったので、田上のそんな些細な変化には気が付かずにこう答えた。

「嫌いにはならない……。でも、寂しいだろ……?」

 田上は、タキオンの上手い口に言い包められたような気がした。それで、もう表情も悲しさを抑えきれなくなって、顔をやや俯かせた。

「……まぁ、……寂しい。……そういう事を言いたかったんじゃない。……嫌いにならないと言うよりかは、気持ちは変わらないだろ? って事を言いたかった…」

「……寂しいよ…」とタキオンが繰り返した。

 すると、その後に、突然マテリアルが口を開いた。

「私、思うんですよ…」と切り出してきた。二人が、マテリアルの方を見ると、先を続けた。

「私、……タキオンさん、移籍してもいいんじゃないかなーって」

 黙ったままの二人を交互に見つめて、マテリアルは先を続けた。

「まぁ、私の意見はチームを運営する上でですがね?…タキオンさんが居なければ、とりあえず、田上トレーナーは落ち着きます。それで、引退する訳じゃないので、まぁ、このトレセン学園にもそれなりに居れます。そして、タキオンさんだって、恋人から一旦離れて、落ち着かない事はないでしょう。一旦距離を取るってどう思います?恋人には必要な試練だとは思いませんか?」

 マテリアルの狂言に、タキオンは眉を寄せると、最大限優しく「却下」と不愉快そうに言った。マテリアルは、特に気にする事もなく、顔に笑みを浮かべた。

「まぁ、最初から無理だとは思ってましたけどね。…でもですね、…今一チームの中に一体感というものが損なわれている気はしませんかね?田上トレーナー」

「……まぁ…」と田上は曖昧に頷きつつも、タキオン傷つけないようにあんまりマテリアルの言葉が理解できてないふりをして、首を傾げた。タキオンは、マテリアルの言いたい事が分かったし、田上が自分の事を思って、そう首を傾げたのも分かったので、鬱陶しそうにマテリアルの事を睨みながら、「私に何か言いたい事でもあるのかい?」と言った。マテリアルは、あまり調子に乗らないようにしながら言った。

「言いたい事って言っても、大したことじゃありません。移籍してみるって提案したのも半分冗談みたいなもんですよ。まぁ、不愉快だって言うんだったら、謝ります。無闇に越えるべき壁を作られたって、鬱陶しいだけですからね」

 タキオンは、難癖付けるべき言葉が見つからなかったので、小さくフンと鼻を鳴らすだけにした。

「…まぁ、……言いたい事もない事はないですがね…。無論、あなた方が別れるのは私も大反対です。それに、私はあなたにそんなに邪険に扱われたくもないんですがね」

「……面倒な事をしてきただろ」とタキオンが邪険に答えた。マテリアルは、目を瞑って眉根を上げると、自分の気を整えてから言った。

「まぁ、しょうがないです。タキオンさんが、田上トレーナーを取られないように警戒する気持ちも分からない事はないです。嫉妬しちゃいますもんね」

 マテリアルがそう呼びかけても、タキオンは不愉快そうな目をするだけだった。

「…そんな顔してたら、可愛くないですよ?」

 マテリアルがそう挑発すると、タキオンはもっと不愉快そうな顔をした。

「まぁ、…そんなわけでですね…。まぁ、チームとしてですね、二人の恋人の関係も崩さないようにしつつ、もう少しひとまとまりと言うか、…二人で少し浮かんでいますもんね。…そうだと思いませんか?」

 マテリアルがそう聞くと、田上は曖昧に頷いた。タキオンは、隣の田上の様子を感じた後に、おもむろに口を開いた。

「それについては、私と圭一君との間では、――無理にチームを一つにしない、ということでまとまったはずだがね」

「……しかし、無理じゃなければ、チームを一つにしていいんでしょう?」

 タキオンは、不愉快そうにマテリアルの顔を見返すだけだった。

「私は、この状況に甘んじるべきか、そうじゃないか、考えたんですがね、……やっぱり、私はタキオンさんと仲良しでいたいな~と思いましてね。…タキオンさん、今でこそ私の事を邪魔に思っているようですが、付き合う前は私が相談相手になったくらいですからね。それで言うと、私は、あなた方が付き合わない前の方が、仲は良かったですからね。無論、恋人ができれば仲も変化するでしょうが、何の気もない私を邪険に扱う程変化はするもんでしょうかね? 私は、しないと思いますし、タキオンさんだって、根は良い人だって事は知ってますから、チームメイトを邪険に扱わない、優しい先輩だってできると思ってます」

 マテリアルがそう演説を終えると、タキオンは迷惑そうにしながら「御託はそれくらいで良いのかな?」と答えた

「なに、御託で済ませるくらいなら、あなたにこんなことを言いませんとも。そして、私はトイレに行ってきます。なんなら、二人でじっくりと考えておいてください。私が何を伝えたかったのをしっかりと考えながら」

 マテリアルはそう言った後に、片手をビシッと上げて「バイ!」と決め台詞を残して立ち去って行った。田上はタキオンの顔を見た。その後にチャイムが鳴って、タキオンは出て行かざるを得なかった。

 結局、その時間中に、田上の家に泊まることについての結論は出なかった。

 

 三時間目の授業中に、空は暗い曇天へと変化した。外の雨の匂いはより一層強くなり、パラパラと小雨が降ってきた。タキオンは、先生が教科書を解説する抑揚のないこえを聞きながら、空を見つめた。雨が降ってきているのが見えるが、風向きの関係から教室に雨が降りこんでくることが無かったので、窓は開け放されている。

 ——圭一君もこの空を見ているのだろうか? と思った。そして、――見ていればいいな、とも思ったが、こういうことを考えること自体、夢見がちかな、とも考えた。ただ、田上がこの空を見ているにしろ、見ていないにしろ、気持ちが一つに重なっていて、同じことを同じように悩んでいてほしい節はあった。タキオンは、圭一君がこの空を見ながら今日泊まる事について悩んでいてほしいと思ったが、流石に、仕事をしているのかもしれない。

 そう考えた時に、先生の方から「アグネスさん、こっち見てー」と呼ばれたので、仕方なく見てやった。代り映えのしない退屈な授業だった。

 タキオンが、トレーナー室に戻ると、田上が仕事から目を上げて、自分の事を見てくれる。――私の唯一の癒しだ…。タキオンは、彼氏のことを愛おしく思いながら、その隣のパイプ椅子に座った。同じ部屋には、当然口うるさいマテリアルも存在しているので、居心地の悪いことこの上なかったが、彼氏の仕事場なのでしょうがなくここに来ている。

 当の彼氏は、仕事を一段落させたかったのか、「ちょっと待ってて」とタキオンに言うと、パソコンに向かっていた。タキオンもしょうがないので、少し外でも見て暇を潰すことにした。

 このトレーナー室も、教室と同じ向きに窓がついていたので、同じように開け放されていた。タキオンは、そこから街を見下ろした。特に大したこともない。――私たちの家は、あっちの方向だったかな? と街中に自分たちの家を探してみたが、当然見つかる事もない。ただ、雨の中をかいくぐって、この部屋に流れ込んでくるひんやりとした空気が心地よかったので、タキオンはしばらく窓際に立ってその匂いを嗅いでいた。

 暫く経つと、自分の穏やかで優しい彼氏が振り返って立ち上がると、自分の隣まで来た。そして、そこで一つ伸びをすると、「授業はどうだった?」と聞いてきた。タキオンは、彼氏の手を触って、少しの幸せを感じながら「退屈だったよ」と答えた。特に広がる様な話題でもなかったので、田上は「そう…」と頷いた。それから、外の景色を見るとこう言った。

「雨の匂いっていいよね」

「そうだね」

「…こう……ひんやりとしてるし、…心が落ち着く…」

「私も…」

 エスが欠伸をしながら扉を開けて入ってくる音が聞こえたが、二人は気にせずに外を見つめた。

「今はもうさ、…雨の中で遊ぶなんて事も、…何年もしてないけど、子供の頃は大好きだった」

「そう…」

「……水たまりの中にジャンプするのとか、もう今じゃ考えられなくらい濡れるし、汚れるから嫌なんだけど、その時はもう、濡れたく濡れたくてたまらなかった。雨が降ると特別感もあるしね。…友達と遊んでるときも、雨が降ったら降ったでもう楽しくて堪らないんだよ。びしょびしょになって帰っても怒らない親だったしね。……あの頃は、何もかもが楽しくて、ワクワクして、触れる物全てに感情があって、新鮮で、世の中のことが分からない尽くしで、それが嫌な事もあったけど、何もかもが新しかった。…濡れた木の匂いも好きだった。…俺の住んでた場所の近くに神社が在って、そこに大きな木が何本かあったんだけどね。その入り口辺りの木の裏に、大きなうろがあって、そこで雨宿り遊びなんかもして、そこに、…何か貝みたいな? かたつむりの巻貝バージョンみたいな奴がいたんだけど、それもたくさんとったし、神社に狐の小判も落ちていてね。それを百個集めれば願いが叶うって聞いてたから、好きな人と結ばれますようになんて、何個も何個も拾って、……百個集めたかな? ……分からないけど、だいぶ集めた。それを折り紙で作った箱に入れて引き出しの中に保管してたんだけど、……まぁ、そんなことしているうちに…飽きちゃったし、そんな事を信じて、百個も集めるほど暇じゃなくなったからなのか、…まぁ、捨てちゃったね。……あの頃はよかった…。何もかもが、不思議と大自然で満ちていた…」

 田上は、夢中でタキオンにそう話しかけた後に、雨の匂いを鼻で感じて、景色を見つめた。タキオンは、たまに相槌なども打っていたが、田上の心が自分とは別の場所にあるような気がして、何だか嫌だった。それと共に、田上の話から自分の幼少のころもそんな感じであったような気がした。そして、田上が話してくれた世界を実際に感じてみたいとも思った。田上が魅力的だと感じるように、タキオンにも魅力的に感じられたから、その世界を実際に感じてみて、自分の彼氏がどんな幼少を過ごしてきたのか、そこにどんな思いを抱いたのか、抱いているのかを、実際の本人と同じように感じてみたかった。ただ、そんな事は後にも先にもできる事はないので、タキオンは覚束ない寂しさを感じて、曇天からパラパラと小粒の雨がふり注ぐさまを見つめるだけだった。

 

 田上が、――あの時はこんなこともしたなぁ、こんなこともあったなぁ、と曇天を見つめながら考えていると、隣からタキオンがこう言った。

「今日も君の部屋に泊まりたいって言ったこと考えてくれたかい?」

 その言葉で田上はゆめから覚めたようにタキオンの方を向いた。そして、多少戸惑った面持ちながらも、表情から温和さは消さずに「ん〜」と唸った。

「……もう、その話は終わったもんだとばかり思ってだけど」

「どう?」

「どう? ……理想にばかり浸っていると、消耗するからって…」

「……それは君の言い分だろ?」

「ん? …そうなの?」

「私は君と泊まりたい気持ちがあるんだもの」

 タキオンにそう言われると、田上も考えるために少し外のほうを見た。先程よりも雨は強まって来ているような気がする。田上はそこで、自分が今日傘を忘れてしまったことに気がついた。しかし、それは話とズレているので、一旦後回しにしておくことにした。田上は、状況がこのまま拒否する方向に動けば、険悪なことになりそうだと予感した。できれば、それは避けておきたい。それに、ここでそう強情にならなくてもいいし、もう少しくらい彼女の事を大切にして、優先してやってもいいだろうと思った。そうすると、田上はタキオンに向かって「いいよ」と言った。だが、これがエスカレートしないように念押ししておく必要はあった。

「だけど、本当に今日だけだからな。明日は絶対に駄目だぞ」

 ただ、この後のタキオンの反応を見ると、田上は言葉選びに失敗したと思った。彼女を喜ばせたくて許可したはずなのに、田上が余計な一言を付け加えてしまったせいで、喜びにくい後味の悪い空気になった。――もっと、タキオンを信じて、何も言わないほうがよかったか? と田上は一瞬自分を責めそうになったが、田上はその考えを慌てて振り払った。

 ――今の自分は彼女を喜ばせるためだけに存在している。何があっても、自分を顧みることはやめて、常に落ち込まずに、彼女を喜ばせることだけを目標にしろ。落ち込んでいる暇があるくらいなら、先に彼女を喜ばせろ。

 田上はこのことを目標にして動こうとしていた。

 

 遂に、彼氏の家に今日も泊まれることになったタキオンだったが、その心はモヤモヤとしていた。田上には、「その我儘だけは聞くが、もうこれ以上の我儘は言うな」と言われたようなものだった。

 実際は、もう少し物柔らかな口調だったが、言っていることは、タキオンが解釈したことで間違いないと思う。――自分は信用されていないのだろうか?と思った。実際、信用されていないのかもしれない。信用されていないからこそ、あんなことを言われたのだろう。そして、自分でだって、信用を壊すような言動をしたと自覚している。ただ、タキオンがモヤモヤしたのはそれだけが理由じゃないとも思っていた。

 田上が案外簡単に折れてしまったのだ。もう少し粘るかと思っていたし、タキオンだって、自分が納得できる答えを提示されれば、素直に引き下がるつもりだった。ただ、一番納得するであろう理由にタキオン自身が満足しなかったのも、田上が簡単に折れた理由だったのではないかと思う。しかし、タキオンは、できればこの提案は断ってほしかった。このまま自分の欲望が叶えられたところで、消耗するのは目に見えていたからだ。その上で、田上とは望ましい決着をつけてみたかった。

 しかし、こう悶々と考えていたところで、消耗するだけならば、一先ずは彼氏の家に今日も泊まれるということを喜んだほうがいいのかもしれないな、とも考えた。だが、悶々とする悩みがそう簡単に消えるはずもなく、暫くはその息のしづらさに苛まれていた。

 

 タキオンは、四時間目を終えると、田上と共にカフェテリアへと向かった。カフェテリアには、渡り廊下を使って行くのだが、その廊下の両端は、雨によって少し濡れていた。田上とタキオンは、混雑しているカフェテリアの入り口で、入れる順番が来るように立ち止まってすこし待っていた。雨がしとしとと地面を打っては弾けて消えていく音が聞こえる。二人は、少し冷めた空気の中で、その音を黙って聞いていた。周りは喧騒に包まれてもいたが、その喧騒が、しとしとと降る雨の音をより際立ててもいた。

 冷めた空気の中では、繋がっているお互いの手がより暖かいようにも感じた。その内に、二人はカフェテリアの中に入って、冷めた空気ともしとしとと降る雨の音とも暫しの間遠のくことになった。けれども、タキオンはその音と空気に少し満足して、何か言いたげに田上の田上の肘を自分の肘で小突いた。田上は、それに反応して、隣の彼女を見つめた。二人共、無言で見つめ合ったのみで、何も言わなかった。

 

 窓際の席に座って、外の石畳に打ち付ける雨を言葉数少なに眺めていると、マテリアルとエスと、もう一人知らない生徒がやって来た。名前はアルファで、エスと同室の子だと紹介された。タキオンは邪魔が入ったと思って、少しがっかりしたのだが、幸いなことに、その三人は自分たちで話すのみで、静かに外を眺めているタキオンと田上を会話の仲間に入れようとはしてこなかった。ただ、空いていた席に知り合いがいたので、やって来ただけのようだった。

 頻りに、三人の話す声が聞こえてくるが、それも黙している二人にとっては、穏やかで心地良い雨による風景の添え物に過ぎなかった。二人は、時折、たがいに目を見合わせて、その度に、嬉しそうに微笑み合った。

 食事を食べ終えると、田上とタキオンは、まだ話しているエスとアルファとマテリアルを残して、皿を皿置き場まで運んでいった。そして、田上が「どこに行く?」と聞きながら、二人は出口に向かって歩き出した。今日は雨が降っているので、いつものベンチには行けなかった。だから、タキオンがどこに行こうかと考えていると、出口付近の席にダイワスカーレットが、トレーナーと共に座っているのを見つけた。というよりも、田上とタキオンが歩いているのをスカーレットに見つけられたと言ったほうが正しいだろう。

 スカーレットは、友達ももう一人同じ席につけて、食事をとっていたが、タキオンを見つけると、椅子から身を捩ってタキオンに手を振ってきた。タキオンと田上は、丁度その時、偶々手を繋いでいなかったので、そのまま椅子や机を掻き分けながら、スカーレットの下に行った。田上は、スカーレットのトレーナーと初対面だったので、少し興味があった。だから、チラリとそちらの方に目をやると、あちらの方もこちらを見てきていたので、二人共軽く頭を下げた。そして、二人の親しい先輩後輩が話しているのを見つめた。

 田上は、スカーレットのトレーナーを新人だとは聞いていたが、それ以上は何も聞いていなかった。そして、今実際にその容姿を見てみると、その外見の限りでは、人の好さそうな明るい目をした人だと思った。少なくとも、田上程物静かな人間ではなく、ここに、タキオンや自分が混ざらなければ、もっと明るく楽しく話していたんだろうな、という顔つきの人だった。そう思いながら、スカーレットとタキオンを見つめていると、横の方から「あの~」と声をかけたられた。見ると、スカーレットのトレーナーである。田上は、その時腕組みをして、タキオンとスカーレットを見ていたので、威圧させては悪いと、その腕組みを解いた。

 スカーレットのトレーナーはこう言った。

「田上圭トレーナーですよね?」

「ああ、そうです。スカーレットさんのトレーナーで?」

「ああ、はい。麻生博(あそうひろし)です。 田上トレーナーさん、僕、あの、…大ファンで、アグネスさんと田上トレーナーさんみたいになるのを目標として、トレーナーになったんです!」

「ああ、…ありがとうございます」と田上は、慣れなさそうに感謝して頭を下げた。すると、横でそれを見ていたスカーレットがこう麻生に向かって言った。

「トレーナー、タキオンさんたちって、交際していらっしゃるのよ!」

「ええ!!?」と麻生は大層驚いた声を出したから、田上は、慌てて「僕らが付き合っているのは内密にしていただければ…」とスカーレットと麻生に向かって言った。それで、麻生の方も少し声を低めながらも、驚きを隠し切れない顔をして「へー、……本当ですか……」と言っていた。タキオンは、仕方がなさそうにしながらも、スカーレットには「あんまり快く思わない人たちもいるのだから、内密にしてくれた方が助かるね」といった。それで、少しスカーレットは落ち込んでしまったが、タキオンは、持ち前の甘さを出して「次からだよ」と言った。

「言わないでくれと、明言していなかったからね。次からは、あんまり言いふらさないでおいてくれたまえ。こういうのは噂程度で良いんだとも」

「はい」とスカーレットが返事をすると、この場はお開きとなった。元々、スカーレットの方は、タキオンたちと食事を支度て誘ったそうなのだが、生憎、タキオンと田上は食べ終わった後だった。去り際には、麻生に「すみませんでした」と謝れたが、謝られる筋合いは全くないので田上も安心させるために頷きながら「全然大丈夫ですよ」と言った。

 

 二人は、また雨のそぼ降る渡り廊下を歩いて、校舎の中へ入って行った。そして、タキオンが、「とりあえず、渡り廊下に行かないかい?」と声をかけてきたので、田上とタキオンは、カフェテリアの渡り廊下ではなく、校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下の方へ行った。と言っても、一番上の渡り廊下は屋根が無いので、そこに行っても雨に打たれるだけだ。

 二人は、自分たちのトレーナー室がある校舎と中校舎を繋ぐ二階の渡り廊下に向かった。そこならば、屋根になる渡り廊下がある。ただ、生憎、元気な学生たちが、今は校舎に詰められていたので、校舎のいたるところに人また人がいるという状態だった。だから、渡り廊下に行っても、二人で静かに景色を見つめることができるわけでもなく、時折、耳障りな笑い声も聴く羽目になった。ただ、今のタキオンは、それも雨の風物詩の一つだろうと、許すことができたから、むしろ、その笑い声を景色の一つとして楽しむものに変換したりもしていた。

 田上は、タキオンと共に渡り廊下の湿っていない階段に座ると、こう話しかけた。

「……俺も、中学高校の頃は、共学だったから、付き合ってる人たち見てると羨ましかったなぁ…」

「…今度は私たちが羨ましがられる番だよ」

 田上は、そう言ったタキオンの顔を見ると、物言いたげに口の端を歪めた。

「……でも、……ついぞ、勇気は出ないまま終わったな……」

 田上の言葉に哀愁が漂っていたので、タキオンは少し唇を尖らせて言った。

「私たちは付き合っているんだが?」

「ああ、いや、付き合ってるのは付き合ってるでいいんだけど、……まぁ、そんなに引きずる事でもないけど、…何一つ挑戦しないままで終わったなって。…お前と付き合えてるからそれでいいんだけどね」

「……」

 タキオンは多少不愉快ながらも、反論する言葉を持ち合わせなかったので、自分が不満に思っている事を表現するために、田上の腕をデコピンした。田上は、面倒そうに「いたぁい」と低い声で反応した。タキオンはフンと満足気に鼻を鳴らした。

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