ケロイド   作:石花漱一

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三十七、夢②

 田上が、曇天を見つめながら、不意に「傘忘れたな…」と呟いた。タキオンは、それにすぐに反応して、「私の傘で帰ろうか」と言った。田上に泊まっていい許可を出された時の悶々としていた気分も今はなくなっていたから、お互い普通に見つめ合っていた。

 田上は、「それしかないな」と答えた。そして、通りがかりに挨拶してきた先生に「こんにちは」と挨拶を返した。

 それから、また暫く田上は曇天を見つめていたが、また唐突にこう言った。

「付き合っている人たちが羨ましかったのもあったんだけど、その人たちが物凄く大人に見えたんだよなぁ…」

「…また、学生時代の話かい?」

「そう。……タキオンもそう思わない? 付き合ってる人が、例え、同学年でも年下でも、何か、自分の知らない世界を体験していて、そこで平然と笑っているのが大人に見えない?」

「……まぁ、…大人に見えると言ったら、大人に見えるかもね。……スカーレット君なんか、そんな反応を以前にしていた。――凄いです! みたいな反応をね。…君は、スカーレット君のトレーナー君と今回が初対面だったと思うが、どんな印象を持った?」

「…良い人そうだなって」

「そうだね。まぁ、良い人なんじゃないかと思う。 人は見なりによらないって言うが、実際の所どうなんだろうね? 身なりはその人の趣味趣向を表していると思うがね。…例えば、……要素の組み合わせによるがね? ……松浦君なんかは、金髪に染めているが、実直そうな印象を受ける。金髪と言っても、やりすぎたお洒落はしてないし、やはり、表情に嫌味が無いからね。君は、真面目で堅物な近寄り難い印象を受ける。…と私は予想している。…君は案外人懐っこい所があるがね。…ただ、初対面とかあまり親しくしていない人には、そのような傾向があるね。結構警戒心もあるからね。そこら辺が、人を近づかせないようにしているのかもしれない。……顔にコンプレックスがあるのも、また中身を表すよね。…君の友達の霧島君の担当の子は何と言ったかな?」

「……ササクレさん?」

「そう、その子だ。…その子なんかは特にそうだ。…まぁ、顔に大きな火傷痕があるのは同情するがね。…それが、人生に与えた影響は、その人柄を見てみれば分かる。…言ってしまえば、卑屈だ。自分のコンプレックスが、自分に多大な影響を与えたと思って過ごしていそうな感じ」

「…偏見じゃないか?」と田上が、流石にタキオンの行き過ぎていそうな言葉を嗜めた。「火傷があったって、明るそうな人は居たし、俺の小学のときの友達には、片手が生まれつきない子がいたけど、結構、楽しそうにしてたよ」

「卑屈だからと言って、明るくないとは言っていない。それに、……何と言えばいいんだろうなぁ…。特定の人がその格好をしたがると言うのがあるだろう? 例えば、オタクとか、…社会人とか、…音楽好きとか、そういう社会集団がいるじゃないか。オタクと言っても、色々あるだろうね。女児アニメ好きとか、君の様なゲームオタクとか、かっこいいアニメが好き、なんて人も居るし、可愛いキャラクターが好きな人も居るだろうね。ロボットアニメとか。そういうものを好きになる遺伝子が、オタクらしさを作るとしたら?」

 田上が、あんまり良く分からないように首を傾げた。

「んー……、特定の環境に置かれた人が、同じような人間に育つとか、そういう持論を私は抱えているわけだ。例えば、自分は不細工だとコンプレックスを持った人が、人を避けるあまりに引きこもりになる。そういう引きこもりが、娯楽を求めて、アニメやマンガの世界に入り浸るわけだ。すると、オタクの大半は、コンプレックスを持った人、という事になる」

「んー」と田上は唸った。こう言われてみると、一理あるような気もする。しかし、偏見である事も確かなような気がするが、上手く言葉に言い表せないままにしばらく唸った後、こう言った。

「ただ、……オタクの大半という程、大半が引き籠りも出ないと思うよ?…そういうジャンルには、少し触れてきたから分かるけど、普通に社会人として働いている人も居る」

「しかし、一歩間違えば、鬱病になって、引きこもりそうな人も多いんじゃないかな?」

 田上も少し思い当たる節もあったが、それを真っ向から認めるには、まだ良心があった。

「……でも、…そういう考えは人を傷つけない?――あなたは、オタクだから、犯罪者予備軍だ、と言ってるようなもんだよ。でも、大半は犯罪なんて犯してない。自分の好きな物を好きなだけ楽しんでいるだけなんだよ」

 そう田上が諭すように言うと、今まで調子に乗って話していたタキオンも少し落ち着いた。そして、少し考えた後に、また口を開いた。

「………まぁ、偏見だね、そう言われると。……しかしだね、…偏見というものがあるじゃないか」

「…うん」

「私はね、何でも自分で見たがる性質だからかもしれないんだけど、……例えば、そこら辺の良識人に、――これは偏見だからやめたほうが良いですよ、と何の説明もなしに、だよ?君は、今、良い例え話をしてくれた。確かに、犯罪を犯してもないのに、半分犯罪を犯しているような人間呼ばわりされるのは嫌だ。しかし、中には、何の説明もしないで、――これは偏見ですよ、という人間がいる。何故かと問えば、倫理観だと返すばかりだ。何の説明もないのに、私は納得なんてできないね。……話は変わるがね?」

「うん」

「倫理観というものがあるじゃないか」

「ああ」

「……倫理観と合理性って対立しているんじゃないかと思うんだよね」

「…なんで?」

「倫理観は、非合理的だからだよ。例えばだよ。……良い社会を作りましょう、と言った時に、犯罪者予備軍は必要かな?」

「んん」と田上は肯定も否定もしかねて、唸るだけにした。

「偏見を持つ人は、…視野の狭い合理性を手にしているのかな?」

「…そうなのかな?」

「…………優生思想というのは、合理性の塊だろ?」

「ああ」

「……障害というものもね…。人の生き方に於いて、非常に複雑な物だと思わないかな?」

「まぁ…」

「脳機能の障害。君が、さっき言った、生まれつき片手の無い友達。足が動かない。はたまた、それを『個人差』と定義づけるのか。遺伝子が及ぼす影響によって、左右される人生の、その良し悪しを誰が決めるのか。また、社会的な良し悪しがどのように定義づけられるのか。……難しい問題だろ?」

「うん…」と田上は神妙な顔をしながら頷いた。

「しかし、私はこういうことを考えるのが好きなんだ。特に、君と話すのは楽しい。君、いつだって真剣に私の話を聞いてくれるからね」

「うん」と唐突に褒められて、少し照れながら田上はまた頷いた。タキオンもまた「んー」と唸ってからこう言った。

「……私の思想はね、…どちらかと言うと、優生思想よりかなぁとも思うんだよ。無論、君の前でだから言っているだけで、どちらかと言うと、相談に近いものだと思ってくれ。悪口というよりも、――私はどのようにあるべきなのかな? という思想の議論を君としてるんだ」

「…ああ」

 それから、タキオンは少し黙って考えた後に、口を開いた。

「優生思想って、………便利な思想だと思わないかい?」

「んん…」

「だって、強い人間と、弱い人間に分けて、弱い人たちを殺すとか、そうまでいかなくても、差別しようって思想だ。そして、大概、自分を強い人間だと思っている人たちが、弱い人間を作るために、その思想を持つような気もする。……違うかな? …これには、まだ一考の余地があるかもしれないが、とにかく、そんな思想は弱い人たちからすれば堪ったもんじゃない。下手すれば、自分たちが殺されるかもしれないし、強い人間が弱い人間を支配するという構造が生まれる。……これは非常に難しい問題だね。私、なんだか疲れてきちゃったよ」

「うん…」と田上が僅かに苦笑しながら頷いた。

「まぁね。……まぁ、……『下手に』合理的に考えると、弱い人間ってこの世にいらないじゃないか。強くて優秀な人間、例えば、人種至上主義とかね? 頭が良い人間だけがこの世にいればいい、スポーツができる人間だけがこの世にいればいい、性格の良い人間だけがこの世にいればいい。すると、犯罪者はこの世にいちゃ駄目なのかな?…そう考えてくると、私は大分疲れちゃった」

「…お話やめる?」と田上は提案した。タキオンはまたこれに「んー」とゆっくり考えた後、「ちょっと考えを整理してみるよ」と言った。そして、タキオンは、安心したように田上の肩に寄りかかった。自分の事を弱い人間だと思っている田上は、少し複雑だったが、タキオンは、自分にはそんな酷い事は思っていないだろう、と考えると、少しは安心した。

 

「多様性って、なんなのだろうね?」とタキオンが暫くしてから唐突に言った。体は、先程からと変わらず、田上に疲れた様に預けてあった。

「……多様性の意味が分からないよ…」

「んん…」と田上が唸った。

「………多様性多様性と実しやかに囁かれているが、果たして、多様性の何が良いのだろうね? ……遺伝子の多様性…。…それも、下手な合理性で考えれば、遺伝子もイケメン遺伝子だけ受け継げばいいものね。……これから、先天性の病気を起こす遺伝子が見つかって、その遺伝子を排除すれば、少なくとも、そういう病気を簡単に治療できる世界がやってくるかもしれない。……イケメンの遺伝子も見つければいいが、…顔の良し悪しなんて時代一つで変わるからね……。全く、嫌な時代だ…」

 その後に、タキオンは「これはただの愚痴だがね」と前の言葉に付け加えた。

「……自然淘汰という思想も私の中にあるのかもしれないね…。優生思想の中の一部さ。…弱い生き物は生き残れない。強いものだけが生き残る。それが自然の摂理。……言わば、私たちの生活は決して自然的な物じゃなくて、文化によって成り立っているだろうからね。…私らが、獣のようにして生きるのならば、強姦なんてやったところで全然問題ないわけだ。しかし、強姦をしないのは、……人としての尊厳と言うよりかは、社会の皆が安心して生きれるようなルールを作ったからだね。…コミュニティを作るうえで、お互いがお互いを傷つけあっても……。いや、しかし、…………文化と言えば文化か…」

 そうタキオンは、嘆息まじりに言った。そして、ここで初めて、田上に寄り掛からせていた体を離すと、田上に向かってこう言った。

「それぞれの国や地域に、それぞれの暮らしや文化があると言うのならば、正しい思想というのも、またそれぞれの国や地域によって分かれるんじゃないかな?」

「んー、……国? ……んー、…でも、…紛争地域の暮らしが幸福かと言われると、……どんなもんなんだろうな?」

「しかし、物ばかり溢れて、自分たちの幸せが分からなくなった先進国の連中を見てごらんよ。…どっちが幸せだと思う?」

「んー」とまた田上は唸った。そんな相槌ばかりだったが、タキオンは、自分の言っている事に田上が真剣に考えているからこそ、相槌しか打てない事を知っていたから、満足ではあった。

「……真面に生きるってどんな事だと思う? それぞれ価値観の違う中での、絶対的な幸せって? …例えば、ケーキを食べている時が幸せ。君と触れ合っている時が、私と触れ合っている時が幸せ。音楽を聴いている時が幸せ。テレビを見ている時が幸せ。笑っている時が幸せ。推しを見ている時が幸せ。好きなアイドル、好きなキャラクターを見ている時が幸せ。好きなアニメを見ている時が幸せ。………理想に浸り過ぎて、消耗してしまった時は、……幸せじゃないと思う?」

 田上は、何かを試されているような気がしたが、すぐには答えきれなかった。これは、――私の気持ちを察しろ、という事なのだろうか? と思って田上はタキオンの目を見た。タキオンは、田上がすぐに答えれないでいるのを見ると、「あんまり深く考えなくてもいいよ。君の思うままで」と言った。

 だから、田上は、「幸せではない……?」と戸惑いながらも答えた。タキオンは、「んー…」と唸った後に、こう言った。

「…まぁ、私もそのように思う。……だからと言って、今日の約束を取り消されると困るんだがね」

 タキオンが少々不安そうな顔をしてそう言ってきたので、田上は安心させるように口角を上げながら「大丈夫だよ」と言った。タキオンは、それでも少し具合が悪そうな顔をしていたが、やがて、隣の田上の膝を叩いて、パンと高い音を鳴らすと立ち上がった。

「ああ、やめだやめ。もう考えすぎた。外泊届を出しに行こう。もう疲れた。考えられない。今日は、君のとなりで優しく抱かれながら寝ないと気が済まないね」

 タキオンのその冗談にすこし微笑んであげながら、田上も同じように立ち上がって、二人で事務室の方に歩きだした。

 

 田上は少々後ろめたかったので、タキオンが事務室のそばの箱から紙を手にとって書いている間は、できるだけ他人のふりができるように距離を空けて、壁に寄りかかって待っていた。タキオンもその田上の後ろめたさを察していたので、書き終わった後にニヤニヤとしながら田上の下にやってきて「終わったよ」と声をかけた。二人は、またそこで手を繋いで、どこそこへ歩いて行った。

 もうそろそろ五月も終わり、六月に入ろうとしている頃である。田上は、リリックとエスの模擬レースをあと二回ほどしようかと思っている。明日と来週の水曜に一回ずつだ。そして、本番のレースがやってくる。エスも少々田上の都合で、毎週本番レースは面倒だからとまとめさせてもらったが、やる気はあるようである。少なくとも、リリックよりかはある。ただ、田上としても、エスの人柄をまだ完全につかめていないような気もした。特に、レース中に関しては、まだどういう走り方をしたがるのかは分かっていない。エスは、先行策が良いと言っていた。リリックはどちらかと言うと、差しのほうが良いと言っていた。その辺りは、タキオンとも色んなことを試してきたので、指導方法は大分慣れていて助かる。

 明日の雲行きも少し怪しそうではあるが、今日ほどは降らないと言うから、例え雨天時でも走る予定ではある。本番だって、雨でも走るので、むしろ慣れていたほうが良いだろう。二人が走る時には、もしかしたら梅雨入りしているだろうから。

 エスは、先週に一度「体が重い」と言って一度休んだ後は、もう休まなかった。一応、元気そうではあるので、放っておいてはいるが、なんにせよ多感な時期ではあるし、本格化している時期でもあるだろうから、その様子は注意深く観察しておかなくてはならない。一人で悩んでいるのならば、それとなく聞いておかなければいけないだろうが、その時に、タキオンがどう絡んでくるのかが田上には少し問題だった。

 なにしろ、自分が誰かほかの人と話そうとすると、かならず間に割って入ってくる。そうしないと、仲間外れされているようで気が済まないのだろうが、こっちは仕事でそれをしているのだからしょうがない。田上だって、タキオンの事が好きだから、拒絶なんかは勿論したくないが、彼女の嫉妬がなやみの種の一つであることに間違いは無かった。

 今現在、問題が顕著に表に出ているのは、むしろタキオンだと思う。ここの所、タイムはあまり芳しくない。本人は頑張っているのだろうし、田上だってタキオンが頑張っているのは分かっているが、それはタキオンが走りたいから頑張っているというよりも、田上に情けない姿を見せないために頑張っているように思えてならなかった。実際、付き合いもそれなりに深く長くある人だからそのように思う。

 明日の模擬レースにタキオンも出そうかと提案してみたが、どうやら、本番前の一回でいいという事らしかった。田上は、正直、宝塚記念を勝てるのかどうか不安だったが、ここで自分が不安になっていてもどうしようもないと思ったのは、今日の朝の出来事だった。自分はできるだけどっしりと構えて、彼女がたとえ勝とうと負けようと、絶対に責めるような言動はしてはいけないし、むしろ、負けた場合は本人の方がずっと落ち込んでいるのだから、その体を支えてやらねばならないと思った。

 リリックに関しては、経過は良好であるから、それ程の心配はしていないのだが、やはり、如何せん本番に緊張しがちなところがあるから、それを本番でやらかして根に持たせてもいけない。世間の人は、負けたってそんなに気にしていないんだよ、という事を教えてあげなければいけなかった。そして、ネチネチ言う人は、そもそもあまり碌な人じゃないんだよ、という事も。ただ、こんな理論が、田上とタキオンの関係に響いてこないのも事実だった。

 

 こういうのが、田上の仕事中に考えている事である。そろそろ、本番も近づいてきているので、自分も緊張している所ではあったが、まだ六月にもなっていないので、なんだか遠い先のようにも思われたし、六月が来たらすぐに宝塚記念だぞ、と自分に言い聞かせてもいるので、すぐなようにも思われた。

 ただ、まぁ、万事上手くいけばいいだけの事だ。その次の週は選抜レースなので、田上もいよいよ最後の一人をチームに勧誘することになる。できれば、あんまり癖の少ない人が良いなぁ、とタキオンとの相性を考慮しながらそう思った。

 

 昼休みの終わりのチャイムは、外泊届を出して手を繋ぎながらどこに行こうかとぶらぶらしているうちに、キンコンカンコンと鳴った。田上は、名残惜しそうな表情をしているタキオンと手を放しながら、「バイバイ」と言った。タキオンは、恋人と別れて授業に出る寂しさと、また授業が終われば恋人に会える喜びを想像しながら、困ったような顔をして「バイバイ」と手を振った。近頃はだいぶ大人しくなったタキオンだったが、その大人しさがレースにも影響しそうな気がした。

 雨は尚もしとしとと降り続いている。今日の夜十二時頃にこれは止むそうである。ただ、明日もまた湿気った日だそうから、バ場の状態もあんまり芳しくないかもしれない。しかし、そんな状態でも走れるような指導しているから、恐らく大丈夫だとは思う。エスの方なんかは、外目から見ても分かるくらい走る事を楽しんでいるようなので、雨なんかで芝が湿っていたら、むしろ、いつもと違うバ場にはしゃいでしまうかもしれない。

 エスは、中距離から長距離のコースが好きなようであるが、反対に、リリックは、マイルから中距離のコースを走りたいと言っている。まぁ、これからの走りにもよるが、そこらの本人の希望を叶えてあげつつ、今後の展望を決めたいと思う。ちなみに、二人共、GⅠを勝てるくらいになるんだったら、クラシック三冠路線に進みたいと言っている。

 田上は、その後に、残りの一人のデビューはいつになるかなーと思った。サマーシーズンは、もう合宿に明け暮れる予定ではあるが、確かに、考えてみると、新しく入ってきた子がすぐに馴染めるとは限らない。その子の性格にもよるが、あんまり人見知りな性格だった場合は、無理に連れて行くこともできない。しかし、タキオンは、自分と一緒に行きたがるだろうから、やはり、結局は連れて行くことになるのかもしれない。よっぽどダメだった場合は、また何か他の策を考えなければいけないだろう。

 その後に、田上はタキオンの厄介さについて、また考えを巡らせた。タキオンと言えば、田上に対してぞっこんである上に、嫉妬深いからあまり他の女と触れさせたがらない。ぞっこん部分については、夢から覚めて少しはマシになったようだったが、嫉妬深さについては相変わらずのような気がする。マテリアルが今日言ったように、昔は、マテリアルとも仲良く話していたのだが、田上と付き合ってから、マテリアルには警戒してばかりである。

 そう思うと、少し申し訳なくなった。二人の友情を破壊したのは、タキオンと恋人になった自分だ。折角、仲が良かった者同士をたかが男一人で引き離してしまうのもなんだか忍びなかった。

 本番の阪神レース場に行く為の引率は、エスとリリックには田上が、タキオンにはマテリアルがついて行く事になった。それぞれ、土曜と日曜に分けられたものである。本来ならば、もしかしたら、田上とマテリアルが先に到着する組に付いて行った方が良かったのかもしれないが、リリックがどちらでも良いと言ったのと、その他の諸々を加味して、田上がついて行く事にした。

 タキオンはこれに不服であったが、彼氏の仕事を妨害するわけにもいかないので、流石にこれは渋々認めた。そして、タキオンを一人にしても、まぁ、妙だろうという事で、マテリアルがその横につけられた。

 田上は正直不安でもあった。タキオン以外の担当の扱いには慣れていないので、そういった意味では、マテリアルが来たほうが良いんじゃないかと思った。だが、一方でマテリアルもそんなに本番の経験が無いし、田上も、マテリアルに任せっきりじゃなくて、もう少し担当達と一緒に頑張りたかったので、同じ現場にいて、仲間外れにはされないようにしたかった。

 全てが上手く行くとは限らないのは、この二十五年の人生の中で、痛いほど知っている。母亡くなれば、別の不幸が自らを襲う。それでも、どこかで万事上手くいってほしいと願う人間が、自分だった。自分の頭のなかに理想があって、その理想がぼんやりと甘い汁を自分に滴らせてくる。甘い匂いに釣られてその蜜を舐めるが、喉の渇きは癒されない。

 その内に、蜜に負けた自分は、その蜜を垂らす植物の根元で、ただ屍となって土に還るのではないかと思う。そして、それを人生だろうと思う。万事が人生だろうと思う。それから、万事が上手くいってほしいと願う。また、万事が上手くいかなくても良いだろうと思う。それを人生だろうと思う。達観したつもりでいる。

 田上は、あの頃に帰りたいと頭のなかで夢想していた。

 

 雨は午前のころから次第に勢いを増していったが、風向きは変わらず、窓を開け放していてもそれ程降り込んでは来なかった。北側の廊下の窓は閉めなければいけなかったが、南側のトレーナー室の窓は安泰である。田上は、時折、タキオンの事を想いながら窓の外を眺めた。マテリアルは、ぶつぶつ言いながらスマホと睨めっこしている。

 田上は、タキオンがしっかりと授業を受けているのだろうか、と思った。いつも、この部屋に帰ってくるときには、「授業は退屈だった」と言う人だから、面白い授業なんて何一つないのじゃないかと思う。よくよく頭の働く人だからしょうがないし、田上だって、授業の大半を面白いと思った事はなかったから、その気持ちも分かる。しかし、学校生活には授業だけじゃなくて、人間関係、すなわち、友達もつきものだ。

 田上は、――タキオンはもう少し同年代の子と遊んでもいいんじゃないか、と思う。気が付いてみれば、自分の隣にはタキオンが居る。嬉しい事には嬉しいが、タキオンにはもっと青春を謳歌してほしい。タキオンの友達も、それなりに付き合いが良い人が寄り付いていてくれる。カフェさんなんかも、つっけんどんにしながらも相手はしてくれる優しい人だ。  ――もっと、自分の事ばかり気にかけないで、友達と明るい青春時代を過ごしてほしい、と田上は思った。もしかすると、タキオンは、田上と遊んでいる時が一番楽しいのかもしれないが、友達と遊ぶのだって、彼氏と遊ぶのよりも全然楽しくない事はないだろう、と田上はじぶんの学生時代の経験から推測していた。ただ、タキオンの一番楽しい時が、田上と遊んでいる時なのであれば、ともするとその考えはただの田上の理想かもしれなかった。

 とは言え、田上もこの雨の中でタキオンが自分のことだけを考えてくれているのだと思うと嬉しかった。恐らく、タキオンは自分のことを片時も忘れないで考えてくれているのだという確信が田上にはあった。なにせ、これまでもずっとそうだったから、今日だけ違うなんて事もないだろう。

 もしかすると、こうタキオンの方に考えが向かうのは、雨のせいかもしれないと思った。雨にはどことなく閉鎖的な感覚を持つ。また、雨風を凌げる場所に居ろ、との命令を受けているようにも思う。

 そうした中で、考える事と言えば、恋人のことが真っ先に来るだろう。特に自分たちの場合は。

 もしかしたら、雨風が自分たちを別の世界に閉じ込めているとの錯覚を持つからかもしれない。そして、一緒の世界に居たいと思う。そう考えると、織姫と彦星はこんな気持ちだったのかな? と思う。そして、その後に、田上は、じぶんたちを織姫と彦星に一瞬でも照らし合わせてしまった自分を笑って、――そんな柄じゃねーや、と心の中で否定した。

 ただ、段々と織姫と彦星のお話を思い出してみると、自分たちの状況によく似ているようにも思う。二人共お互いが好きすぎて、働かなくなったというのならば、自分たちも大分似たような所まで転がり落ちた。今でこそ、タキオンはちゃんと授業に出るようになったが、四月の頃は付き合い立てなせいもあってか、タキオンがこちらの事を好きすぎて困った。

 ただ、そんなんだからと言って、一年に一回しか会わせてくれないとなると話は別だ。そんなの寂しすぎて困る。しかも、雨が降るとなると、その一年に一回の日すら潰れてしまうようになる。――いや、延期だったかな? と田上は自分の記憶を探ったが、自分の記憶の限りでは、延期ではなかったような気がする。そうすると、延期くらいさせてやってもいいんじゃないだろうか? 折角の一年に一回の日を、おじゃんにされてしまうのだ。それとも、延期するゆとりもないくらい天界というものは忙しいのだろうか?

 そう考えた後に、田上は、真剣に織姫と彦星を考察していた自分を笑った。また、自分たちの事のように考えていた自分も笑った。そして、――本気で恋した所で…、とも思っていた。ただ、その考えは覚束ない陽炎の様にふわふわと揺れて、空気に飲み込まれていった。

 

 その日の授業が終わり、タキオンは田上の下に戻ってきた。無論、五時間目の休みにも戻ってきてはいたのだが、特に特色すべきこともなかった。タキオンは、当然の如く、ダンスレッスンによって田上と別れるのを嫌がっていたが、田上が「暇ができたら見に行くよ」と声をかけると、少しばかり嬉しそうにして出ていった。

 田上は、いつものように着替えて約束のジムに向かった。そこには、当然、ランニングマシーンやら、バイクマシーンやら、ベンチプレスやら、ストレッチをする空間などがあった。ただ、タキオンはあまりこのような場所を好まなかったので、そこら辺はあまり使わない方針でこれまでトレーニングメニューを組んできた。

 タキオンとしては、閉鎖的な場所に人が密閉されているのが嫌だったようだ。それで言えば、今日のジムはタキオンとも最も相性が悪いと言えるだろう。雨の日なので、ここを使いたがる人が多かったのだ。田上とマテリアルは、それぞれエスとリリックにトレーニングメニューを渡して、状態を見つつ、ストレスになり過ぎないように気を配った。空調は完璧だったので、人がうじゃうじゃいても、それ程熱気も湿気も溜まってはいなかった。ここに、トレセン学園の財力が見てとれる。

 エスは、「あー!」と女子高生らしくもあり、女子高生らしからぬ汚い声を上げて、ベンチプレスの最後の一回を終えた。田上は「お疲れ様」と声をかけて、タオルを手渡してやった。エスは自ら出てくる汗を拭きながら、気持ちよさそうに「はぁーー」と大きなため息を吐いた。まだ、トレーニングメニューは少しあるが、これでもう後半である。リリックもマテリアルを隣に同じベンチプレスをしていた。メニューは多少ずれている所もあるが、大体同じ物だった。

 エスは、先程友達の一人を見かけた時から、ずっと気になってチラチラチラチラ見ていたのだが、やはり、田上に「あれ、エスさんが見てた人、友達だったりするの?」と聞かれた。エスは、それが見破られていたことが少し恥ずかしくなって、少し目を見開きながらもコクコクと頷いてみせた。すると、田上がまた「どんな人?」と聞いてきたから、今度は口を開いた。

「えー、……まぁ、…どんな人? ……優しいですね。あと、可愛い。確か、大学生の彼氏がいるって言ってました」

「へぇ、大学生の彼氏。……トレセン学園ってそんな人が多いのかな?」

 田上が、なんだかおじさんのような口調でそう聞くと、エスは苦笑した。

「いやぁ、一握りだと思いますよ。トレーナーと付き合うような人なんて、もう田上トレーナーとタキオンさんくらいしかいないんじゃないですかね?」

 エスがそう言ってみると、田上が困ったように微笑んだ。そして、あからさまに話題を逸らそうとした。

「実際、共学でも年上と付き合うのって、どれくらいいると思う? …俺が学生時代の頃なんかは、学年に一人二人、噂で聞く程度だったけどね」

「…私は、小学校しか共学じゃなかったので分かりませんね」

 エスはそう言いながら、一瞬、――自分も共学に進学して、彼氏作って、好きな人と遊びたかったなぁ、と妄想した。ただ、そのすぐ後に田上が返事をした。

「ああ、そうだったね。……やっぱり、女子高生って年上に憧れを抱くものかな?」

 エスは、田上の少し困ったような奇妙な表情を見つめながら、ちょっと考えて「さぁ?」と首を傾げた。田上はぼんやりと向こうのエスの友達を見てたが、その友達がこちらを振り向きそうになると慌てて目を逸らしてから、またエスに向かって言った。

「タキオンってどんな人だと思う?」

「………茶目っ気?」

「茶目っ気?」と田上があんまりよく分からずに聞き返した。その沈黙の間を縫って、屋根を打つ雨の音が聞こえる。

「んー…、……面白い人だなって。……それを言ったら田上トレーナーも面白いんですけど、…タキオンさんの方は特に、……私が――田上トレーナーのどこが好きですか? って聞いたら、顔を赤くさせたんですよ」

「へぇ、タキオンが?」

「そう。それ見て、思ったよりも親しみやすい人なんだな、って思いました」

「……普段はそんな事ないような気がするんだけどな…」

「それは田上トレーナーの前では、強がってるんじゃないですか?」

「俺の前でだけ?」

「…大人ぶってるとか」

 こういう会話を聞かれたら、タキオンさんに嫉妬されそうだな、と不意にエスは思ったが、まぁ、現場にいないので良しとする事にした。田上は、エスの言葉にあぁと納得の声を発した。それから、また雨がざあざあと屋根に打たれて、やけに響きながら雨音を鳴らしているのが聞こえた。

 田上は今の話をすこしの間考えていたが、そのまま休憩時間も終わって、エスの指導に当たらねばならなかった。

 

 エスは、トレーニングが終わり、田上に「明日模擬レースだからね」と伝えられた後にこう言った。

「タキオンさんのどこが好きなんですか?」

 マテリアルも帰ろうとしていたのだが、その話を聞くと、おもむろに――私の出番でしょうか? と興味ありげな目つきで、田上たちの横に立った。田上は、あまり答えたくはなさそうだったのだが、根のほうが真面目だったので手のうちを開け広げないまでも、正直に答えた。

「人となりだよ」

「ほぉ、…やっぱり、告白したのはタキオンさんの方ですか?」

「そうだね」と田上は淡白に返事をした。

「へぇー。……どのくらい好きですか? 一から十の内どのくらい?」

「……答えなきゃいけないの?」と田上が荷物をまとめながら、嫌そうな顔をした。

「どのくらいですか?」とエスは質問を続けたから、田上も渋々答えた。

「十だよ。…そりゃあ、付き合ってたら大体そんなもんだよ」

「じゃあ、田上トレーナーはタキオンさんにベタ惚れって事でいいんですか?」

 田上は、面倒臭そうに適当に頷きながら、自分の荷物をまとめ終えた。そして、面倒なこの話を切り上げたいがために、もうその荷物を肩にかけると「じゃあ」ときっぱり片手を上げて、立ち去って行った。マテリアルとエスは、その後ろ姿を見ながらくすくすと笑っていた。

 

 田上は、まだ終わっていなかったタキオンのダンスレッスンの終わり際を見た。大分練習も本腰に入ってきているようで、そこに居る人たち皆、真剣な目をしながらダンスレッスンのトレーナーを見ていた。タキオンもその一人で、ダンスレッスンのトレーナーが言う言葉を皆で聞いていた後で、揃って「はい!」と返事をしたのが面白かった。普段は協調性の欠片もなさそうなタキオンだが、余計な波風を立てて変に諍いを起こさないように、丁寧に返事をしているのが面白かった。

 田上は壁際に座ってその光景を見ていたが、ダンスレッスンの様子を観察しているトレーナーは他にもいた。皆、黙して自分の担当たちの姿をじっと見つめている。それぞれ、もしかしたら、自分の担当がセンターで踊っている姿を妄想しているのかもしれない。

 タキオンの今の練習のポジションは、どうやら三番手らしかった。タキオンが三番手。…今の田上には、どうやらそれもあり得るかもしれないと思っていた。ここの所、走ることについては元気のないタキオンだから、ともすると有り得る。無論、タキオンがこの世で一番速いことは知っているが、なにしろ、本人にすら自信がないような気がする。マテリアルにだって指摘されていた。――迷いがある、と。

 外はもう暗くなっていた。暗い体育館の屋根に、ざあざあと雨が打ちつけるが、二階にジムがあるので、その音は幾分くぐもって聞こえる。その合間を縫って、ダンスで踊る曲も聞こえる。今回は田上の知らない歌だった。その曲調のせいなのか、ここで聞いていると、何だか運動会でBGMとして聞こえてくるような歌にも聞こえる。子供たちを鼓舞するような歌だ。実際の所、歌詞はあまり聞き取れなかったのだが、聞き取れなかった分そのように聞こえてしまったのかもしれない。

 暫く見ていると、タキオンと目が合った。まだその時はレッスン中だったので、また、練習に集中していたが、その間にも、何度かこちらをチラチラと見てくるようなことがあった。それから休憩に入ると、タキオンは小走りにこちらの方へやって来た。少し怒っているような表情だった。

「君、暇を見つけたら来るって言ったのに、なんだい、この時間は」

「暇が見つからなかったんだよ」と田上は答えた。実際、エスの休憩時間の四、五分ほどは時間があったのだが、四、五分見たってどうしようもないだろうという考えがあった。それに、その休憩時間中にトレーナーが私用で抜け出すというのも、トレーニングの雰囲気が乱れるだろうと考えたのだ。タキオンは、不満そうではあったのだが、初めにすこし腹を立てていただけで、特に根っから怒っているというわけでもなさそうだった。

「もう、ダンスレッスン終わったの?」と田上が聞くと、タキオンはその隣に座りながら「ううん」と平然と首を振った。

「でも、もう少しで終わる。あと十五分やって、一度皆で通してから、お終い。待たせて悪いね」

「いや、いいよ。見てるの好きだから」

 田上がそう言うと、そこから暫くは少しの談笑を重ねて、またタキオンがレッスンをしに行った。

 

 レッスンが終わると、タキオンは田上の元に戻ってきて言った。

「考えてみると、私は何の準備もしてなかったから、君を待たせなくちゃいけない。ちょっと、雨ざらしのベンチで待たせるのも悪いから、この体育館の前で待っておいてくれ。十分くらいすれば来る」

 タキオンは、そう言ってから、一旦手を振って別れると、小走りでそのまま走っていった。田上は、その後ろ姿をじっと後方から見つめたあと、自分もそれに続いて体育館の外へ出て行った。

 外は雨降りだった。田上はその光景を、石の渡り廊下からじっと見つめていた。ぽたりぽたりと金属の屋根から雨水が滴り落ちてくる。その雨のカーテンの向こうには、ピンク色やら水色の傘を持った人が行き来して、自分たちの目的の場所へ歩いてゆく。

 その中には、まだ明るい目をしている生徒も幾人か混じっている。友達と傘を差しながら楽しそうに話している。その光景を見てると、田上も昔の自分のことを思い出した。中学の頃、雨の下校中に好きな人の姿を見つけた時に、このような視点で遠くにその人のことを見つめた。

 その学生は、田上に気付くそぶりも見せないままに、歩いて行って、建物の陰に隠れた。田上は、時を刻むように滴り落ちてくる雨水をまた少し見つめていたが、やがて、視界の端からこちらに向かって歩いてくる女の子の姿があった。傘は少しお洒落で、黒地に白い模様が輪を描くように施されている。タキオンは嬉しそうな表情をしながら田上のもとまで来ると、「待たせて悪かったね」と言った。田上は無言で頷くと、タキオンの傘のなかに身を寄せさせてもらった。

 

 タキオンは、いつものキャリーバッグは持って来ておらず、少々武骨な背に負う黒いバッグでこちらへ来た。恐らく、キャリーバッグを雨に濡らすのを嫌がったのだろうが、特に大したことでもないので聞かなかった。

 田上は、タキオンの傘に肩を縮めて、すこし頭も下げながら入っていたのだが、タキオンがそれに気が付くと、自分が持つよりもいいだろう、という事で田上に傘を持たせた。

 田上が傘を持つと、自分が濡れるのも厭わず、タキオンができるだけ濡れないように傘の位置を調整した。タキオンはそれに気が付いていたが、今は敢えて、その優しさに甘えておくことにした。ここで下手に文句を言っても、状況が変になるだけだろうと考えたからだ。

 ただ、田上が荷物を濡れるのは嫌がっていたようだったので、タキオンは「荷物を持とうか?」と声をかけた。田上もタキオンの配慮に気が付いたので、特に、彼女に荷物を持たせることを嫌がらずに、そのまま「ありがとう」と言って渡しておいた。

 駅に着くとしばらくは安泰だったが、また家の最寄りの駅に着いて、駅の外に出なければならないという時は雨に降られることになった。タキオンはここで初めて、田上の濡れている肩を見ながら、「寒くないかい?」と声をかけた。田上は、全然大丈夫」と言っていたので、タキオンはその言葉のままに優しくさせてあげることにした。

 街には色んな人がいるのだから、歩道を歩いていても、向かいから自転車がやってくる。向こうから来たのは、タキオンと同年代くらいの高校生で、どうやら、合羽を忘れてきてしまったようだ。その上、鞄も包むものが無いのだから、傍目からでも分かるくらいびしょびしょになっていた。その学生は、田上と一緒の傘に入っているタキオンと一瞬目を合わせると、目を逸らして前を見ながら、「クソッ!」と声を上げながら走り去っていった。

 タキオンと田上は、その自転車を避けるために、道脇で立ち止まっていた所だったので、その子が通り過ぎると、また歩き出した。

 タキオンは、先程通り過ぎて行った学生をすこし面白いと思って、思い返していた。どことなく田上にも似ているような気がする。具体的にどこと言われると、自分と目を合わせた時に、少しかっこつけようとするところだ。

 あの学生も、自分と目を合わせたから、あんなにこれ見よがしに「クソッ」と叫んだのじゃないかと思う。雨に打たれながら自転車を漕いでいる自分は何て悲劇的なんだろう、と主張するための「クソッ」だ。

 その考えが、さらに、タキオンの様な同年代の女子に見られて高まったから、「クソッ」が出てきたのじゃないかと思う。田上も普段は物静かだが、そういう事をする人間だ。そう考えてみると、自分の彼氏にも可愛げや愛嬌がある。それがどことなく愛おしいと思った。そうした後に、田上がクシュンとくしゃみを一回放ったので、タキオンが「君、やっぱり寒いんじゃないか」と言った。

 

 部屋に帰っても食料が無いのでは仕方がないので、二人は買い物に行かねばならなかったのだが、雨に打たれて少し冷えたので、着替えを先にしようという事になった。タキオンもダンスレッスンの後から一度もシャワーを浴びておらず、汗を流したいと思っていた所だったので、それに賛成した。

 それで、二人共一旦温水のシャワーを浴びて、着替えてから外へ出た。今度は、傘が二つあるので、肩も濡れるのを心配する必要はない。ただ、タキオンは、先程の田上の気遣いが、嬉しくもあったので「相合傘も良かったなぁ」と言った。

 田上は、タキオンの顔を見て、それがそこまで重くない言葉だと分かると、無言のまま外へと出ていった。タキオンもそんなに主張するほど大きな欲望でもなかったため、その後に続いて出ていった。

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