リリックが走り出すと、田上も流石にその姿に集中した。タキオンは、あまり自分以外の人間に集中してほしくなさそうに、田上の手を握っていたのだが、今は無視する他なかった。タキオンもこの時ばかりは、田上に譲ってあげた。
リリックは、長い黒髪をたなびかせながら三着でゴールした。以前の模擬レースは、六着だったので大躍進だ。田上は、タキオンを背に負って、慎重に観客席から下りて行きながら、「やったじゃん、リリーさん!」と言った。リリックの方も田上と同じような気持ちだったようで、三着に滑り込めたのを喜んでいた。そして、田上はやっとの事でリリックの手の届く範囲に行くと、手を上げて喜びのタッチを求めた。
リリックは、おずおずとタッチした。それから、田上は今回の走りの良かった点を褒め続けた。こういう場所で、悪かった点を一々上げても角が立つだけだし、今回はほとんど全てが上手く行ったように思った。終盤の前で出てほしいタイミングでちゃんと前に進んだので、あとは仕上げていくだけのようにも思う。ただ、リリックの場合は、メンタル面の好調不調も大きく絡んでくるのではないかと思っていたので、本番の雰囲気にもよるだろう。
次はエスだった。この子は、よくよく他人を観察する癖がある。また、緊張するとそわそわとして落ち着かないので、ゲートで多少遅れる。また、本人としては、レース中もあまり物を考えていないらしい。いや、考えている事には考えているのだが、レースとは全く別のことをぼーっと考えているのだそうだ。隣に居る人のことだったり、今日の晩御飯だったり。その事に結構のめり込んでしまうのだから、ゲートも遅れるし、仕掛けるタイミングも分からなくなる。
本人としてはそのような分析をしていたし、田上もエスの普段の様子を見ていると、そうじゃないかと思う。ただ、とりあえず、今日は普通に走ってみて、その具合を確かめてみようという事にした。
エスのレースは十六人立てで、枠位置は中央くらいだった。ゲートが開くと、またエスはすこし出遅れて走り出した。あのような気怠げな走り出しをよくよく観察してみると、エスはスロースターターなのではないかと思う。
いきなり本気を出して走るのは面倒臭いと言っているような走り方だ。勿論、中央のバ群に食らいついてはいるので、それなりに走るつもりはあると思う。エスは、選抜レースの時と同じように、自分の好きな先行の位置に行きたがっていた。
ただ、田上は「自分の思い通りにならなくてもいいから、とにかく最後まで走る姿を見せてくれればいい」とエスに言い聞かせていたので、エスは、バ群の前のほうに行きたそうにしながらも、その位置で甘んじていた。
田上は、そのエスの姿を見ながら、――エスさんが先行策をするのは少し難しいのかなぁ、と思った。現に、エスは、前に行こうとして少し挑戦した後に、できなくて無駄に体力を消耗しているような気がするので、そうすると、無理な先行策を取るよりも、後ろめで勝負するほうが良いかのように思う。
ただ、やはり、運も絡んでくるもので、今回は、エスの前が上手い具合に空いて、ぎりぎりの所で一着に滑り込むことができた。エスはその後も元気そうに田上たちがいる観客先の前まで来ると、皆に「どんなもんだい!」とピースサインを見せびらかした。リリックは、先輩が一着を取ってきたのに甚く感動して、「すごーい」と声を上げながら拍手していた。トレーニング中にはあまり見せない表情をしていたから、田上は、――この子も根は明るいんだろうな、と思った。
田上は今考えたことを言うか言うまいか迷った。まさか、今勝ったのを偶々だよと水を差すわけにもいかない。それで、少し考えた後に、遠回りではあるが角は立たないようにこう言ってみた。
「今の走りを見て思ったけどさ。…エスさんって、スロースターターかな?」
「スロースターター?」
「んー、……例えば、皆はスタートした後、すぐに本気を出していくでしょ?でも、エスさんは、スタートしてすぐはもう少しゆっくりなペースで走りたいのかなーって」
「ああ、そんな感じはあります」
「ああ、やっぱりそうだったんだね。となると、先行策についても考えてくることがあるけど、その前に、…エスさんは先行策について何かこだわりとかあったりする?」
「こだわり? …んー、………まぁ、…今走ってて分かったんですけど、…目の前に壁の列があるって嫌だなーって思います」
「じゃあ、バ群に埋もれたりするのって嫌?」
「そうですね」
「という事は、追い込みという策もあるね。最後尾から機を窺う感じ。…これについて何か考えはある?」
「んー……、……少しは…不安ですね」
「どんな所が?」
「………んー、……やっぱり、…一番最後辺りだから、…怖いですけどね。…大外から捲って上がってきたレースの動画とか見た事はありますけど、あんな感じになるんですかね」
「んー、…いや、ルート次第にはなるけどね。……エスさんもやろうと思えば、大外から捲れるかもしれないけど、基本的に、トレーナーはルートの選び方や、他の人の走り方、どういう風なレース展開になるか予想をつけて、あとは現場の君たちに任せるだけだから、…最終的な判断はエスさんになるけどね。…とりあえず、選択肢は広がったって事にして、また次話していこう。追い込み、差し、先行……逃げは選択する?」
「んー……、一番先頭は嫌です」
「じゃあ、…バ群の列があるのが嫌なんだもんね?」
「はい」
「基本的に、バ群に巻き込まれないようにする立ち回りも考えつつ、これから、本番まで最終調整をして行こうか」
「はい」とエスがしっかり頷いた。
そして、リリックの方を向くと、田上はまたこう言った。
「リリーさんの課題は、周りを気にし過ぎない事。今日みたいに周りを気にし過ぎない良い走りができれば、きっとリリーさんも走れる良い選手になる」
「はい」とリリックは、多少の緊張と喜びが入り混じった顔でうなずいた。
それから、チームはいつもより少し早めに解散した。空の灰色の雲からは、小雨が降り出していたので、一同は、そそくさと帰り路を急いでいたが、田上とタキオンだけは違った。
田上はタキオンを負ぶさりながら、トレーニング場前の石畳をかたつむりの様にのろのろのろのろと這い進むように腰をかがめて歩いていた。タキオンは、田上に背負われてから一言も口を利かなかった。田上は、何回かタキオンが答えてくれると思って話しかけたのだが、そのどれもをタキオンは無視した。だから、田上は仕方なく、タキオンの寮の前のベンチに向かった。
寮の前まで着くと、田上はそこのベンチにタキオンを下ろそうとしたが、ここで初めて、タキオンが「嫌」と言葉を発して、田上の上から降りようとしなかった。ただ、田上はタキオンとどうしても顔を見ながら話したいと思っていたの所だったので、小雨がぽつりと降っては乾いた地面に飲み込まれる中、何とかタキオンを説得して、ベンチに降りてもらった。田上もその横に座ると、落ち込んでいるタキオンの顔を見つめて言った。
「……今日も俺の家に泊まりたいのか?」
タキオンはその言葉に心躍った。思いがけない所から、宝船が自分の方に向かってやって来た。しかし、今急に元気になったところで、それ目的に落ち込んでいたと思われるのも困るので、タキオンは答えあぐねてじっとしていた。田上は、頭をポリポリと掻いた後に、ベンチに跨ると、本格的にタキオンを正面に見ながら言った。
「……落ち込んでたら可愛い顔が台無しだよ?」
そう言いながら、頬を人差し指で軽くつついてみた。タキオンは、多少煩わしそうに、その手から顔を背けたが、あんまり悪い気もしていなさそうな表情だった。ただ、ここで調子に乗っても変になるだけかもしれないので、田上は大人しくタキオンの頬をつつくのをやめると、その顔を暫く見つめてから話した。
「………俺はお前のこと好きだよ」
タキオンは俯くばかりで、言葉は返さない。ここは、タキオンが反応してくれる言葉が良いだろうと思って、田上は、――タキオンが今日も泊まりたいと思っているんじゃないだろうか、という事を思い出した。しかし、この話題は無闇に扱うと、ただ期待させるだけさせて、何もなしという事になる。
田上も、今日こそは絶対にタキオンを泊まらせないつもりだった。何か、途轍もない諍いが起きない限りは。そして、その諍いも今のところは起きなさそうではあるし、こういう話し合いも何とか穏便に済ませたい。そして、落ち込んでいる彼女を何とか元気づけてやりたいと思った。
タキオンは、田上が落ち込んでいる自分を思って、今日も泊めてくれるという話にならないかと、心の底から願っていた。このまま、もう少し自分が落ち込んでいる振りをすれば、むしろ、もっと落ち込めば、このまま彼氏は成す術もなく自分を家に泊めてくれるという事になる。ただ、それには自分の意思を伝える必要もある。落ち込んでいる振りをしたまま、どう自分の要望を伝えようかと、タキオンは悩んでいた。
田上は、暫くタキオンの横顔を見つめた後に、こう言った。
「何処か散歩に行く?」
しかし、タキオンはここで話を決着まで持って行きたかったので、首を横に振った。その後に田上は、「いつものベンチに行く?」と聞いた。当然それにも首を横に振る。「トレーナー室?」と言うのにも横に振った。そして、彼氏は困ったのを誤魔化すために、タキオンの頬をつついてきた。タキオンは少し嬉しかったのだが、その嬉しさを表に出すまいと必死に堪えて顔を背けた。
タキオンが頬をつつかれることを悪く思ってないと田上は考えているのだが、如何せんそれもあやふやな考えで、彼女が何を考えているのか、田上にはあんまり良く分からなかった。
ただ一つ確かな事は、元気が無いという事だ。このタキオンをなんとか寮の部屋に自分で戻れるようにしてあげたい。
――放っておいたら勝手に戻るだろうか? と思った。戻らないことはないかもしれないが、それはタキオンがこの小雨を一頻り体に浴び続けてからのような気がする。できれば、少なくとも田上に片手を上げて見送れるくらいの元気は出してもらいたい。
――どういう言葉をかければ、元気を出してくれるだろうか? と思った。一番手っ取り早いのは、今日も泊めてあげると言う事だろうが、如何せん、それだけは手を出してはいけない。そうすると、田上にだって歯止めが利かなくなってしまう。田上だって、この三日間は多少の諍いこそあれど、幸せな事には幸せだった。決して、タキオンと居るのが不幸せだったなんて事はない。欲望はある。手の届かない幸せが近づいてきた感覚は持った。田上はその感覚をもっと得たいと思ったが、生憎、自分を律さねばならなかった。二人が過ごす健全な人生の為に。
とにかく、今日もタキオンと泊まるのだけは避けないといけない、と思いながら、タキオンの横顔を見ていると、その横顔が僅かに揺れた。その後に、おずおずとその顔が田上の方に向けられ、視線を左右に動かしながら極々小さな声でこう言った。
「…………今日も……泊まりたい………」
大体そんな雰囲気なのは察していたが、改めて言われると田上も困った。今日だけは絶対に泊める訳にはいかない。今後の二人の人生が穏やかであるために、何とか断るべきだとは思うのだが、こうなったタキオンが面倒なのも知っている。
田上は困って数秒固まった挙句に、「今日は、………無理かな……」と答えた。こんな言い方では、タキオンが気分を悪くするのはわかっていた。田上だって、もう少し気の利いた返事をしてやりたかったのだが、自分の不器用さには抗えなかった。タキオンは口から出る言葉か何かを堪えて歯を食いしばるのが分かった。そして、田上が何かもう一つ言葉をかけてやろうとした時に、タキオンが唐突にすっくと立ち上がった。
それから、そのまま何も言わずに自分の寮へと戻っていった。田上は一人取り残されたまま、バタンと閉じた寮のドアを見つめた。そして、これみよがしに、大きな大きなため息を吐いた。そこに、生徒二人組が通りかかって、田上をおかしなトレーナーとして遠巻きに見ながら、また寮の方に入っていった。
田上の今の心境としては、一言では言い表せないくらい色々な感情が入り混じっていたが、一つ大きな所で言うと、やっと肩の荷が下りてほっとした心地があった。ただ、やっぱりそれは、田上の別な心が咎めたので、ただ単にそう思ったというわけには行かなかった。
しかし、肩の荷が下りた事には下りたのである。そして、何の話し合いにも応じずに立ち去っていったタキオンに怒ってもいたし、もっと何か自分にもできることがあったのではないかと思った。それら全てを加味した挙句、田上の目の前からはとりあえず一番邪魔だったタキオンという問題が自分から排除されに行ったので、家には今すぐ帰れるということになった。
ただ、やはり自分の大切な彼女である。何かLANEででもメッセージを送ってあげたかった。それで、田上は小雨がまだパラパラと降る中を、傘も差さずにスマホを見つめながら、どういう言葉を送ってあげようか考えた。そして、最終的に、凡庸で、陳腐で、ありふれて、恥ずかしくて、穢らわしい『愛してる』という言葉を送った。こういう言葉でタキオンが喜んでくれるのならば本望だったが、どうも自分は好きになれなかった。ただ、『愛してる』という言葉が悪いのではない。そういう甘い言葉を使って、彼女を慰める自分が、酷く穢れているように思うのだ。
しかし、今の所自分とタキオンとの間を取り持ってくれる言葉がそれしか見つからなかったので、愛という不確かで曖昧な物に頼るしかなかった。
元々、今日は一人で寝ると思っていたから、寂しさというものは覚悟していたのだが、コインランドリーで洗濯が終わるのを一人で待つのも、一人で鼻歌を歌いながら夕食を作ったり食べたりするのも、一人で風呂から上がって、誰もいない布団に入るのも思ったよりも寂しかった。
田上だってタキオンの気持ちが分からないことはない。実際にこうして寂しさは感じ取っているが、そもそも「理想に浸りすぎると消耗する」と言ったのはタキオンの方だったではないか。
このように布団の中に入りながら、タキオンに一瞬怒りかけたのだが、すぐに――向こうの方がもっと落ち込んでいる、と思うと怒りも冷めやった。そして、不意に――LANEの既読はついただろうか?と思って、自分の枕元にあるスマホを触った。夕食中や風呂に入る前にも確認したのだが、その時は既読されていなかった。だが、今アプリを開いて見てみると、田上のメッセージの横に既読という文字があった。返信は来ていなかったが、タキオンが自分からのメッセージに目を通してくれたという事実だけで、田上は大分ホッとした。
そして、明日、万が一タキオンがモーニングコールをかけてくれなかったときのために、自分の目覚ましをセットして眠りに就いた。
タキオンは、デジタルに励まされながら、少なくとも、彼氏の田上に心配されない程度の最低限の生活をこなして、布団の中に潜った。デジタルはまだすることがあるようだったので、その机の明かりは点いていたが、今少々不安な気持ちに駆られているタキオンにはその明かりとデジタルの身動きの音がありがたかった。その内に、暇だったので、タキオンはスマホと睨めっこをすることにした。田上から、連絡が来ていることにはとうの昔に気がついていたのだが、それを確認する気にはなれなかった。通知で一応確認できることにはできていたのだが、『愛してる』という文字を見た途端に、びっくりしてしまってその通知を思わず消したのだ。
タキオンは、自分が――せめて君のメッセージを見るくらいの心の余裕はできたよ、ということを暗に伝えたくて、しっかりとアプリ内で既読したかったし、それに、通知内の文も一瞬しか見なかったので、本当にそれであっていたのかというのも、もう一度目で見て確かめたかった。
それでも、タキオンは田上と別れたときの気分が残っていたので、暫くは悶々と考え込んでいたのだが、――圭一君が『愛してる』と送ってくれたのに、既読したくらいで怒るはずもないだろう、と自分を説得すると、その中身をついにしかと眺めた。やはり、『愛してる』と送ってくれている。タキオンは、嬉しくて少し顔に笑みを浮かべながら、そのたった四文字を暫くの間見つめ続けた。
その後に、――もう自分も眠ろう、と思うと、スマホの画面を暗くして眠りに就いた。
タキオンは、眠っているときに夢を見た。何もない草原の中に自分が一人立っていて、足元には子供の頃に好きだったクマのぬいぐるみがぽつんと落ちていた。タキオンは、それをじっと見つめていたのだが、やがて、それを蹴り転がすと、前の方に走り出した。自分の最愛の人である田上を探すためだった。その為に、タキオンは、当てもなく草原を走り続けたが、田上はどこにもいなかった。時折方向を変えたり、周囲を見渡したりして、探していたのだが、居ると思っていたはずの彼氏はいなかった。
その内に、草原を走っていくと、タキオンは田上と大阪杯の後に行った神奈川の砂浜に行き着いた。そこには誰もいなかったが、朝日が海の奥に空を覆い尽くさんばかりに眩く輝いているのが目に映った。ただ、そこにはやっぱり誰もいなかったので、タキオンは田上を探しに行かなければならないと思った。
そして、その人を見つけるためには、海を渡らなければならないと考え、その為には船が必要だった。しかし、その砂浜を見た限りでは船らしい船は見当たらなかった。ただ、波が静かに音を奏でながら揺れているだけである。
タキオンは、少しがっかりして、落ち込んでしまい、砂浜に座り込んだ。それから少し経つと気を取り直して、海のこちら側に恋人が居やしまいかと、砂浜をとぼとぼと歩き出した。無論、居るはずもなく、タキオンの興味は常に海の向こう側へと注がれていたのだが、泳いでいこうとしたところで、自分は溺れて死にそうな気がした。
その内、砂浜をただ無為に歩いていたタキオンの所に、妹の桜花が来た。桜花は落ち込んでいるお姉ちゃんを励ますかのように、走って近寄ってきた。どうやら、一人で来たようだったので、タキオンは桜花に「一人で来たの?」と話しかけた。
桜花は、ううんと首を横に振ると、砂浜の向こう側にある松林を指差して、「お兄ちゃんと来た」と言った。桜花の指すお兄ちゃんと言えば、田上しかない。タキオンは、その事に心を弾ませながら、桜花と手を繋いで、松林の方へ歩いて行った。
タキオンは、今すぐにでも桜花の手を振り解いて、田上の下に駆け出したい気分だったのだが、生憎、妹も大切な家族の内の一人だから、無闇にそうする事もできなかった。
その内に、タキオンは薄暗くなっている松林の端に辿り着いた。松林の中を見てみたところで、田上の気配はない。タキオンは、桜花にまた「圭一君は?」と聞いた。桜花は、今度は「お父さんと来た」と言い出した。タキオンは、何故だろうと思いながらも、桜花の手に引かれるままに、松林の中を歩いて行った。
しかし、田上の気配もなければ、父の気配もない。どうした事だろうと思って、タキオンは桜花に「父さんは?」と聞いた。
すると、今度は、「お母さんと来た」と言った。タキオンは、また桜花のことを訝しがりながらも、さらに松林のなかを歩いていった。そして、また人っ子一人の気配はない。
タキオンはまた桜花に聞いた。すると、桜花は「一人で来た」と言った。
タキオンは、「どうして一人で来たの?」と言った。桜花は、「なんとなく」と言った。そして、「お姉ちゃん、お絵かきしよう」と言った。タキオンは、それをするわけにはいかなかった。桜花の暇潰しに付き合うくらいならば、自分は好きな人を探しに行かなければならない。そう言うと、桜花は、泣いて「一緒に遊ぼう!」と駄々をこねた。タキオンは、困ったが、どうしても好きな人を探しに行かなければならないので、逃げるようにして桜花から離れていった。
そして、また一人になって、コンクリートの堤防をぽつねんと歩いた。白い軽トラが、エンジン音を立てながら走ってきたので、タキオンは脇に避けた。しかし、軽トラは、タキオンが邪魔だったとでも言うように、クラクションを大きく鳴らして走り去っていった。タキオンは、少々腹が立ったが、軽トラを相手に喧嘩する気にはなれなかった。もう、タキオンは田上を見つけられないものと思って諦めていた。田上は海の向こうにいる。しかし、自分にはそこに行く手段がない。
そう思っていると、急に夢の場面は転換して、自分は、田上といっしょに堤防へと昇る階段に腰かけていた。田上は傍に居た。そう思って、寄り添おうとしたところで、また夢は転換した。
真っ白な世界に立っていた。辺りには何もない。異様な風景だった。タキオンは、まだ少し夢見心地だったのだが、段々と視界が定まってくると、前方に一つの影があるのを認めた。
タキオンは、この世界を夢だと思って見ていたのだが、夢にしては異様に意識がはっきりしている事に気が付いた。そして、その後に、田上が言った夢のなかでの異様な体験を思い出した。『悪意』やら『存在』やらという幽霊である。
タキオンは、その幽霊が恐らく前方にいる影なのではないかと思った。しかし、こういう場所に立って、異質なものに出くわしてみると、それに近づいて行くのは案外怖かった。どこかに出口のようなものはないかと思って辺りを見渡してみたのだが、世界はただ真っ白なばかりで、影という影も、前方にしかなかった。
タキオンは気味が悪かったので、あまり近づきたくはなかったのだが、不意に隣に誰かが立っていた。友達のマンハッタンカフェだった。カフェは、「向こうです……」と言って影の方に指を指した。そして、また出てきたときと同じように、ふっと影も形もなくなった。
タキオンは、――こういうのはカフェにやらせればいいのに…、と思っていたので、その気持ちが表れ出てきたようだった。幽霊の専門家であるカフェが、――あなたはあちらに行きなさい、と示してくれた。すると、タキオンはそちらに行ったほうがいいのではないかと思った。だから、できるだけ慎重に、辺りを窺いながら、何が起こってもすぐに対処できるように歩いていった。
近づいていくと、影は何かを眺めているように思えた。もっと近づくと、その眺めているものが、カフェの部屋にある金色の天秤だということが分かった。そして、影から二、三メートルほどのところまで行って立ち止まると、輪郭しかない影は、タキオンの方に顔を上げてきたような気がした。そして、また金色の天秤を気にする素振りを見せたように思ったが、少しため息を吐くと、どこからともなく赤いソファーを出現させて、そこに偉そうにどかりと座った。
そして、タキオンの方に人差し指を気怠げに上げると、「座れよ」と声を掛けた。タキオンの後ろにはいつの間にか、影が座っているのと同じような赤いソファーがあった。タキオンがそれに座ると、影はいつの間にかティーカップを取り出していて、いい香りのする紅茶を音を立てながら飲んでいた。
そして、これもまたどこからともなく出てきた、小さくておしゃれな丸テーブルにカップを置くと、「紅茶はいかが?」とタキオンに言った。タキオンの前にも同じように丸テーブルの上に紅茶のカップが置いてあった。タキオンは、それに目を留めたが、怪しげな影から貰ったものを飲む気にはなれなかった。影はその事を察すると、少々がっかりした声で「毒じゃないのに…」と言いながら、また少し紅茶を飲んだ。
それから、タキオンの方を向くと、膝を組んでこう言った。
「あー、……今日は、……何だったかな…」
タキオンは、圭一君の所に帰りたいと思いながら、影の話す一言一言に集中していた。襲われでもしたら堪ったものではない。
「ああ、そう。その圭一君が」と影は言った。「まぁ、…そうだね。…圭一君。……良い響きだ…。やっと、あいつにも愛する人ができたか…」
影は、そう言ってこちらを見た。タキオンは何も言わなかった。
「………圭一君はどう思ってるのかねぇ。…お前の事を。…お前はどう思っているのかな?あの甲斐性なしを」
タキオンが何も答えないので、影は話を続けた。
「うーん……、……まぁ、あんな風に黙って帰ってしまう情緒不安定な彼女の事を、少なくとも良くは思っていないだろうね……」
影はそう言ってから、タキオンの心臓の鼓動が僅かに早くなったのを面白がった。そしてまた一口紅茶を飲むと、こう言った。
「俺は、言っちゃなんだが、傲慢で不遜、尊大で横暴なお前なんかよりも、圭一君にふさわしい人間はいると思うんだよな。…少なくとも、お前のような人間よりも、優しい人間はこの世にたくさんいる。……捨てられるのも案外一瞬かもね。――お前と居るのは疲れたよ。だって、お前我儘ばっかりで、ちっとも俺のことを考えてくれない。でも、マテリアルさんはいい人だった。真面目で美人で、お前なんかでは到底及ばないくらい優しい」
影は、自分の声を田上の声に変えながら意地悪くそう言った。その為に、タキオンは実際に田上にそう言われているような感覚になって、心底怯えた。自分は取り返しの付かないことをしてしまったと思った。今すぐにでもここから抜け出して、あの人に謝りに行かねばならないと思った。しかし、体は動揺に固まったまま動かなかった。動けないのは、実は、影がかけていた魔法だったのだが、タキオンは自分が怖がっているばかりに動けないものだと思いこんでいた。影は、増々可笑しそうにニヤニヤと笑った。
「だって、タキオン、お前のような人間をどこの誰が愛してくれる? お前は実際に人間の事を愛していないじゃないか。お前が愛していると思っている圭一君でさえ、お前は愛していない。お前はもう忘れてしまったか?」
そう言って影が立ち上がると、景色は一変した。タキオンは、あの日の春の陽気の中にいた。場所はいつものベンチだったが、黒い影と今のタキオンはそのベンチを遠巻きに見ていた。ベンチには、あの日の自分と圭一君がいた。タキオンは、これがどの瞬間なのか分かった。そして、それを察した途端に、タキオンは見たくないと思った。しかし、体は恐怖に固まってしまったのか、全く動こうとしなかった。その内に、圭一君の膝に乗っていた自分が叫んだ。
「君を殺して私も死ぬ!!!」
タキオンはやめてほしいと思った。自分の過去の傷を穿り返さないでほしかった。そして、がっくりと地面に膝をつくとしくしくと泣き出した。
また、場面は転換した。フジキセキをスマホで殴ろうとしている自分の唸り声が聞こえる。そして、あのときには聞こえなかった群衆からポツリと漏れた「頭がおかしいんじゃね?」という声。
タキオンは、またしくしくと泣いた。影の笑みは消えていた。
また、場面が変わる。田上が愛してると自分に囁いていた。タキオンは、愛さないでほしいと思った。こんなに醜くて穢れて、欲望のままに生きてきた自分を。
いつの間にか赤いソファーの上に戻っていたが、タキオンはしくしくと泣き続けていた。タキオンが見て見ぬふりをしていた傷跡を無表情で見ていた影も、ここに来ると、すこし顔に笑みを取り戻していた。そして、紅茶を一口飲みながら、金属音をキンと一つ鳴らして、また机に置くと、静かに叱るような口調でこう言った。
「幸せとは、案外簡単に崩れ去っていくものだとは、誰もが知っていることだ……。そして、誰もが見て見ぬふりをしている。……哀れなもんだ。大抵の人がその事に気づかずに死んでいく。……死んでからじゃ遅いだろうに……」
影が言い終わると、タキオンがしくしくと泣く声だけが、この真っ白な世界の中に響いていた。
「………人のことを愛してもいないくせに、よく愛のことを語れたもんだよ。……お前は決して圭一君のことを愛してはいない。巻き込まれる向こうの身にもなってみろ。偽りの愛を騙る人間と愛を育もうってんだ。全く迷惑なもんだよ…。お前の中にはなにもないだろ? これまで十八年間生きてきた中で、お前は心の中に何も育まなかった。才女と言えば、聞こえはいい。しかし、傲慢で横暴で、人の気持ちを考えたこともない才女は、優しい助手を実験動物のように扱った。………罪は重い……。いずれ天罰が下る。お前のように愛のない女が愛してもらう道なんて、後にも先にも一本もなかったんだよ。お前は、圭一君の事なんて決して愛していなかった。お前はその愛から垂れる密をただ貪り食らうだけ食らって、飽きたらあの人間を捨てるつもりだった。……哀れだなぁ……。…実に哀れだ…」
影は紅茶を一口啜ると、いつの間にかタキオンのソファーの所に、田上がいるのを見つけた。タキオンはそれに縋って泣いていた。影は、それに手をかざして握ると、一瞬にして田上は掻き消えていた。タキオンは、誰も居なくなったソファーでもっと激しく泣いた。影は立ち上がってそれに近寄ると、甘く優しい田上に近い低い声で言った。
「俺が楽にさせてあげよう。誰も愛することのできないお前は、夢の中で愛を知ることになる。…大丈夫。眠りのような感覚になるだけだ。この世界は思いのままになる。お前の好きな人の膝枕で寝てれば、すぐにそのようになる。俺がそうさせてあげようか?」
影がそう言い終わる頃には、影は実体となってタキオンの前に姿を現し、その姿を田上と瓜二つにさせていた。ただ一つ田上と違うところといえば、田上はそのような甘く誘惑するような声色は使わないということだった。
しかし、タキオンは心が疲弊しきっていたので、偽物の田上の気持ち悪い部分見破ることができなかった。タキオンは、田上に甘えて、「うん」と頷こうとした。その時に、肌がびっくりするような熱風がどこからともなく吹いてきて、影の変装を取り去った。
タキオンは、目の前の人物が影だったことを知って怯えた。影は、やろうと思っていたことを阻止されていたのだが、表情は――面白そうなことが始まった、と言わんばかりに、らんらんと目を輝かせて、風が吹いてきた方を見た。もう一度、タキオン達に熱風が吹いた。その風には怒りが孕まれているように感じたが、その怒りはタキオンではなく、影の方に向けられていた。影は、ニヤニヤと笑うと、もうすっかりタキオンに興味をなくして、「やぁ、お供がお怒りだ」と言い、途端に影も形も消え失せた。
タキオンは、怯えながら、自分がどういう状況になったのかと辺りを見渡していると、向こうの方にまた影が見えた。ただ、先程の影ほど卑屈そうではなかった。堂々と立っていたが、所詮、タキオンには何が何だか分からない物の影である。幾ら堂々として居ようが、卑屈に背を屈めていようが、そんなものはただの影でしかなく、怪しいか信ずるべきかの判断も着かなかった。
影は大股でこちらへ歩いてきた。まだ少し怒っているようだった。しかし、タキオンはそんな事は知らない。もう何も知りたくなかった。だから、ソファーの中に体を丸めると、自分の耳を手で押さえて、目を瞑って外界からの情報を得ないようにした。そうすることによって、自分の体を守っているつもりでいた。
影は、タキオンの前まで来ると、彼女をどう扱おうかと、悩むように突っ立っていたが、やがて、優しくその背を叩くとこう言った。
「辛い思い出ばかりじゃないよ…。辛い思い出と同じくらいに、彼との楽しい日々もあっただろう?」
この声は、耳を塞いでいたとしても、タキオンの耳の中にありありと響いてきた。そして、タキオンの頭のなかに田上との楽しげな日々を思い出させたが、それも今は虚空に霞む『嘘』のように思えた。タキオンは、ぱっと起き上がると、怯えるような怒っているような顔つきで、激しく影を責めた。
「明るい思い出がなんだ!! 楽しい思い出がなんだ!! 私達はその思い出に寄り添おうとしてこれまで生きてきた!! なのに!! ……なのに、何もなかった!! 君は一体何なんだ!! もう私に構わないでくれ!! ……バカだ……」
「………彼は良い人だよ……」
影は悲しそうにそう言った。タキオンはその影を睨んだ。
「彼の何を知っている!!そんなことくらい、彼女の私が一番良く知っている……」
タキオンは、そう言うと今度はしくしくと泣き始めた。
「私が悪かったんだよ……。彼を傷つけてばかりだった……」
「……思ったよりも芯のしっかりした人だよ、彼は」
「そんなこと私が一番良く知っている!! 私の前で知った口を聞かないでくれ……。圭一君を一番愛しているのは私なんだよ……」
「………目を背けてちゃ愛する人すら見失うよ…」
そう言ってもタキオンはしくしくと泣き続けるばかりだった。だから、影は一つため息を吐くと、指をふっと横に振ってみた。すると、そこに田上が現れた。田上はただマネキンのように一点を見つめて突っ立っていた。影は、その田上をしげしげと観察したが、やがて、タキオンの方を向くと言った。
「君の気持ちを知らないわけじゃない。彼の気持ちを知らないわけでもない。…君の心に潜む後悔だって、勿論よくよく知っている。……しかし、その後悔に蓋をして塞いでいては、いつだって前を向き続けることはできない。…その後悔が、増々君の心に重くのしかかるだけだ。…君の後悔だって、彼は愛してくれるよ…」
しかし、タキオンは「ダメだよ…」と言って、落ち込むばかりだった。それで、影は困って頭をポリポリと掻きながら、動かない田上のほうを見た。元々、今からする事の為に呼び出した田上もどきだったが、いざやろうと思うと少々面倒である。しかし、いつまでもうだうだしているこの子を見るのも忍びないので、影は、田上の隣にもう一人マテリアルを呼び出した。それから、田上とマテリアルの衣装を結婚式の衣装に変えると、こう聞いた。
「二人の馴れ初めは?」
田上はマテリアルの方を見ると、こう言った。
「タキオンと俺の友情を観察したいとか何とか言って、選抜レース場で話しかけてきたのが、一番初めだよね」
「そうです」とマテリアルの声が聞こえると、タキオンが目を上げて、目の前の光景を見た。途端に険しい顔になったから、影が振り返ってこう言った。
「想像力は必要だろ? それはお前も知っている事だ。…田上にも言ったんだろ?――君が別れることを選択したら、私は他の人と付き合うことになるんだぞ、って。 勿論、お前が別れることを選択しても、田上は付き合う人がいるだろうな。それがマテリアルになるかもしれないし、全然別の人になるかもしれない」
影がそう言うと、ウエディング姿のマテリアルはパッと切り替わって、黒くて長い髪の女の人になった。タキオンは、ぼんやりと俯きながら「なんでもいいよ…」と呟いた。こうなってくると、影は自分の策が失敗したことに気が付いた。それで、――こいつの心にある物は一体何だろう、と思いながら、その赤いソファーの隣に座ると言った。
「本当に何でもいいのか?…じゃあ、もう別れる事に決めたのか?」
「……ううん…。……圭一君は、許してくれる……。私がどんなに酷い事を言っても、…どんなに悪い事をしても、…彼だけはいつも味方でいてくれる…」
そう話すタキオンの表情は、楽観的と言うよりも、悲観的で、何もかも諦めているような表情、そして、口調だった。影は、再びタキオンが自分の後悔に蓋をしたことを察した。何でも許してくれる彼氏というのも、こういう時に厄介になる。
影は困ったし、先程いた影を追い払うのに大きな力を使っていたので、多少疲れてもいた。だから、これ以上何をしようかと思った。何だかとても面倒になった。こうなってみると、タキオンと田上は勝手にくっつきそうな気もする。
——もう勝手にやってくれ、と思うと、影は音もなく消え去った。タキオンは間もなくその事に気が付いた。自分と幾つかの物の他には何もない世界に、一人取り残されて寂しかった。
タキオンは、働かない頭を静かに鈍く動かして、物を考えているような考えていない様な心地に陥って、ぼんやりと地面を見つめていた。その内に眠りに就いていた。
タキオンは、朝自分のセットした目覚ましで目を覚ました。圭一君にモーニングコールをしなければならないと思ったのだが、怠くて体が動かなかった。昨日の夜に、LANEを眺めていたときには、――明日は仲直りしよう、と思っていたのだが、その気力も消え失せた。それに、結局、圭一君が何もかも解決してくれるだろうと思った。
デジタルはいつまで経っても動かないタキオンを心配そうに見つめていて、遂には「今日の授業はどうなさいますのでしょうか?」と聞いてきた。タキオンは布団のなかに潜り込みながら首を振ると、「熱がある…」と嘘を吐いた。デジタルは、タキオンが嘘を吐いているかもしれないと思ったが、少なくとも、もう今は動きたくないと思っているほど落ち込んでいそうなことだけは確かだ。
「保健室とかに行かれては…?」と声をかけたが、タキオンは嫌だと言った。だから、デジタルは仕方なく部屋から出て行ったのだが、田上のほうに連絡は飛ばした。
『タキオンさん、熱が出たようです』と田上の方に送った。田上は、今電車に乗っている最中だったのだが、その連絡を見ると、デジタルと同じように真偽を疑った。
そして、タキオンが落ち込んでいるのは確かだろうと思ったが、さあ、果たして昨日の問題をどう解決すればいいのだろうかと思った。メッセージか電話かという選択肢もある。その方法も良いだろうが、落ち込んでいる状態ならば、タキオンはあまりそういうものに反応したがらないだろう。しつこく連絡すれば、鬱陶しく思って反応するかもしれないが、田上は、できればタキオンの顔を見て話をしたかった。
ただ、タキオンがあまり出てきたがらない以上、田上が寮に入るわけにはいかない。とすると、指導者として信頼に足るマテリアルをタキオンの所に寄越すべきなのではないかと思った。
その方が、少なくとも、田上の代わりにマテリアルが対面でタキオンと話してくれる。その後に、――いや? と考えた。
――マテリアルさんだったらもっと話さなくなる可能性があるか?
そう考えると、寮長に許可を取るのが多少面倒でもあるが、どうにか頑張って自分がタキオンの所に行った方が良いか? しかし、行ったところで自分に何ができる? 結局、自分にできる事と言ったら、彼女に甘い言葉を囁いて、慰めてあげる事しかできないじゃないか。彼女の身になる事なんて何一つ言えていない。タキオンを堕落させているのは、自分の方ではないのか?
そう悶々と考えているうちに、電車が最寄りの駅に着いたので、田上の思考は一旦ストップとなった。
改札を出て田上はまた考えた。自分がタキオンにしてやれることは何だろうか? 伝えられることは何なのだろうか? と。
田上は、できればタキオンが明るく幸せに生きてほしい。これは常に思い続けている事だ。そして、それを一番塞いでいるのが、タキオンの我儘だったり、感情だったりするような気がする。
と言っても、田上は別にタキオンの我儘や感情を嫌ってはないのである。むしろ、タキオンの我儘によって、自分の我儘も解消されているような節がある。例えば、月曜にタキオンがもう一度泊まりたいと言ってくれたことだ。無論、田上も楽しくない事はなかったから、そういう感情で言えば、田上はタキオンと共犯だ。自分も楽しんでいたくせに、罪だけはタキオンの方にあるという態度を取るのは、不誠実だろう。
田上は、タキオンにあとで謝ろうと思った。しかし、その後に、やっぱり上辺だけ謝ってもしょうがないだろうと思った。実際の所、タキオンがまた自分に我儘を言って、それを叶えたとき、自分も楽しむことになるだろうが、自分にも罪があるとは思わないような気がした。むしろ、そういう時は、タキオンに罪があるから自分は関係ないと思って楽しんでいるのかもしれない。そう思うと、自分は重罪人だ。タキオンにだけ罪を被せて笑っている裏切り者だ。タキオンが怒るのも無理はないかもしれない。
すると、まず自分がすべきなのは、タキオンがその罪を犯すことを未然に防ぐことだ。ただ、単純に諭したところで、タキオンは機嫌が悪くなってすぐにどこかへ行ってしまうから始末がつかない。
だからと言って、慰める為に無闇に愛の言葉を囁くのも田上は嫌いだ。何とか、タキオンの機嫌を保たせつつ、罪を犯さない方向に持っていくしかないだろう。
そうすると、自分がやるべきなのは、普段からそういう話し合いを定期的にしていくべきなのではないかと思った。いつも、是か非かをすぐに決めなければならないぎりぎりの所で話し合うから、タキオンも機嫌が悪くなってしまうのだ。普段の話し合いで入念に話し合っているのならば、タキオンもそこまで機嫌を悪くはしないだろう。
元々、切羽詰まってないので機嫌を悪くする道理が無い。タキオンが機嫌を悪くするのは、いつだって、――これをしたい! と思った瞬間に田上が拒否するからじゃないかと思う。
つまり、平常時の――それをしたい! と思っていない状態であれば、田上が拒否しても怒らず、少なくとも話し合いには応じてくれるのじゃないかと思う。ただ、そこで一方的な意見の押しつけになる事だけは避けなければならない。無理にタキオンに飲み込ませたって、あとからやっぱり考えがひっくり返って、我儘になる可能性があるだろう。できるだけ丁寧に丁寧に議論を重ねていくのは、田上だってタキオンだって嫌いな事ではない。お互い、恋人と言葉を交わすのは好きな方だ。
やる事は見つかったが、内容は比較的曖昧である。話す事と言っても何を話せばいいのだろうか? 一番はタキオンがしたい事や欲望についてじゃないかと思う。今で言えば、なぜタキオンは田上の家に泊まりたがるのか? だ。しかし、タキオンが落ち込んでいる非常時にそれを話したとしても、上手く話は進まず意味はなくなるだろう。まず、タキオンは自分との仲を直したがっているから、そこから話を進めなければならない。
そこで、通りすがりのおばちゃんから「おはようございますー」と声をかけられたので、田上は無言で頭を下げた。考え事をしていて、咄嗟に声が出なかったからだ。田上は、多少びっくりしながら、また続きを考えた。
まず、タキオンと仲直りをしなくてはならない。そして、話を定期的にできるようにしなくてはならない。ここ最近の自分たちは、理想にばかり傾いていたが、ここらで一度現実を見つめなくてはならない。
とは言っても、宝塚記念の問題のように、手を出す術のない、暗闇に手を突き出すような、それとも、暖簾に腕押しのような議論をやったところで意味がない。もっと直接的で、自分たちの目の前に現れた問題を深掘りしていくのがいいだろうと思った。問題は一つの心の中から発生しているのだから、地中深くの根っこの所ではその問題の数々は地下茎によって繋がっているのではないかと思った。
ただ、定期的にと言うと、どれくらいの期間、どれくらいだけ話をすればいいのか分からなかった。それに、話題選びを一歩間違えれば、途端にその話も暖簾に腕を押すだけになってしまう。偶には時間を無為に過ごしてみるのもいいかもしれないが、今まで自分たちはその『無為』を大いに楽しんできたところだった。もうそろそろ実のあるところに体を落ち着けたいものだった。
話題選びは現場の自分に任せるしかないように思えたが、少し不安だった。田上はあまりぶっつけ本番は得意ではなかったから、失敗することも多々あった。しかし、どうも今話題をどうこうという状況でもなかったから、また、タキオンと話すべき瞬間が来たら、もう一度そのことについて考えようと思った。
その他、まだまだ漠然としていることはあったが、今の田上の考えは、一先ずタキオンと仲直りするという直前の問題に向けられた。まだ、平常でもないタキオンを前にして、平常であるときのタキオンと話す話題を考えてもしょうがないと思った。
そして、あわよくば、自分とタキオンがこれからどうやって話していくべきかも、自分一人で悶々と考えないで、二人で話し合ってみてもいいかもしれないと考えた。