九、帰らねば…
翌朝、目を覚ましたのは、誰かが家から出て行く音を聞いたせいだった。田上は、始めのうち、誰が出て行ったのか全く見当がつかなかったが、起きていって冷えた炬燵の上に置いてある紙を見てから昨日の夜父が言っていたことを思い出した。
昨日の夜、寝る前に父は不意に思い出したように言っていた。
「あ、そう言えば、明日から俺は仕事だったけど、大丈夫だよね?毎年こんなもんだし。アグネスさんの昼もお前が作れるよね?」
田上は、「分かった」と頷いてその言葉に反応したが、それを覚えていたのは就寝前までだ。その後は、タキオンとのいざこざで忘れてしまったのだろう。田上は、軽くため息をついて、また自分の布団に戻った。だが、そこに潜りはしなかった。布団に寝ているタキオンの傍らに座ると、その顔を見つめながら物思いに耽った。トレセンに帰るまで、あと一晩しかない。そのことに少し驚きだったが、同時にほっと安心もした。あそこだったら、昨日の夜の様ないざこざも大分減る。ここに来てから、何回そういういざこざ的なやり取りをしたのか分からない。何回、気分が落ちこんだのか分からない。
――激動の一週間だった…。
田上はそう思った。そして、タキオンの方に不意に手を伸ばすと、その髪の毛を触り、頬をなぞった。安らかな寝顔だ。田上にとって最愛の、この世界で一番の愛しい人の寝顔だった。その顔を昨日は自分のせいで曇らせた。この一週間で何回も曇らせた。――果たして自分はトレーナーとしての役割を遂行できているのだろうか?田上は、そう考えると、頬をなぞっていた手を止めた。
タキオンの顔が、儚さに霞んだ。まるで、触れない幻影かのようにその存在が怪しくなった。座っている足元がおぼつかなくなり、落下している感覚さえあった。
その時、本当に少しだけ揺れた。地震だ。大きな地震ではなかったが、確かに電灯の紐を見てみると揺れていた。スマホも大きな音を立てて鳴った。すると、途端に目が覚めたタキオンが、田上の顔を見て寝ぼけた様に聞いてきた。
「…ん?なにがあった?地震?」
自分のスマホを取って、その画面を覗いた。
「なんだ、大して大きい地震じゃないじゃないか。こんなことで私を起こさないでくれ」
タキオンはぶつぶつ文句を言うと、また布団に寝転がった。そして、不図気が付いたように田上の方を見て言った。
「君は何をしているんだ?君もあのバカでかい音で目が覚めたのか?…いや、もうすでに起きていたよね?なにしてたんだ?」
そう聞かれると、田上は困ってしまって、ごまかすように苦笑いした。タキオンは、それを不思議そうに見つめ返した。
ただ、このまま黙っているだけではまずいと思った田上は、こう言った。
「寝て起きて、少しぼーっとしてただけだよ」
「ふぅん…」
タキオンは、田上が言葉を発する前にあった謎の間隔に納得していないようだったが、あまり踏み込むのもその心が良しとしなかったのだろう。田上には、運よく何も聞かないで、その場を過ごしてくれた。だが、その目はじっと田上の方に注がれていたから、少し困った。
「なに?」と聞いても、「なにも」と返すのがタキオンだったので、田上はなおも苦笑しながらタキオンが何か言うのを待った。
そして、暫く田上を眺めた後、タキオンは言った。
「君も布団に…入りなよ」
この躊躇いは、昨日のことを引きずっているようだった。田上は、それを憐れに思ったが、それと共に自分を憎らしく思ってしかめっ面をした。そのしかめっ面をタキオンが勘違いした。自分と布団に入ることを拒絶されたと思ったのだろう。少し不安そうな顔をして、田上が何か言うのを待っていた。
田上は、その顔を見て慌ててしかめっ面を崩して言った。
「ごめん。…布団に入るよ」
「嫌なら入らなくていいんだよ?」
その言葉に田上は答えようがなくて、布団の中に入った後暫くタキオンの顔を見ていたが、やっと言葉の整理がついて言った。
「何度、こういうことをすればいいんだろう」
タキオンは、自分のことを言われたのかと思って不安げな顔をしたが、田上が言っていたのは自分自身のことだった。
「俺は本当にお前のトレーナーでいいのか?人の上に立つ立場でいいのか?」
タキオンは何も答えなかった。
「お前をそんなに不安にさせて、怯えさせて、それで上の立場にいるって言うんだから、これはもうトレーナー失格と言ってもいいんじゃないか?」
やっぱりタキオンは何も答えなかった。
「自分の心の中でタキオンのことを一生懸命育てるなんて言いながら、その育ちを阻害しているのは俺なんじゃないか?…今までこうして布団の中でお前の気持ちが落ち込まないようにたくさん話をしてきたけど、実際はただの戯言で、言えばお前が考えて解決していった方がよかったまであるかもしれない。それなのに、俺が今トレーナーでいる理由って一体何なんだ?…答えなくていい。タキオンだって、俺が情緒不安定の精神病者だってことは分かっているはずだ。その上で接してくれてるのだからお前の優しさは計り知れないよ。……俺もお前みたいになりたい」
田上の話をじっと聞いていたタキオンだったが、田上の話が終わるとこう言った。
「君だって優しいさ。なにせ、こんな私のトレーナーになったんだから」
「それが、俺の心の平穏を保つための技だったら?お前は、俺の心のために利用されてるんだ。…俺には、一体何が真実で何が嘘なのか分からない…。ぐちゃぐちゃだ」
「そんなことはないさ。君に言ったろ?君の心の根元の方は、優しいって。優しくて清らかだ。決して人を傷つけたがらない。だから、今こうして悩んでいる。心底からの悪人だったら、悩みなんてしないさ。もうすでに気が狂っている。悩めるということはまだ救えることなんだよ。心のどこかに解決策があるはずなのに、それが見つからないから悩んでいるんだ。悩んでいるから異常なんじゃない。情緒不安定だから異常なんじゃない。異常な奴って言うのはもうすでに異常なんだよ。…だから、君はそうじゃない。その心の片隅に答えはあるかもしれないだろ?」
タキオンは、そこで言葉を切ると再び続けた。
「それに、君が話してくれたのだって大いに私の心を勇気づけてくれた。感謝してもしきれないくらいさ」
そうすると、田上が反論した。
「俺がお前を深みに道連れにしようとしているのかもしれない。これがずっと不安なんだ。できることなら、人を巻き込みたくない。今だって実際、互いに依存してるような関係になっている。タキオンは、もしかしたら本当に俺のことを慕っているのかもしれないけど、俺に同情して慕ってくれているんだとしたら?いつかお前が俺の手を離せなくなった時に気付くかもしれない。もう沼の底から這い上がれないってことに」
「それなら、『その時』さ。君の好きな言葉だ。…これは、的を得ている。考えを捨てたっていいときがある。大抵そういう時は、悩みで頭がパンクしそうになっているときだ。すると、いらない情報ってのは、勝手に脳が排除してくれる。これは、私の持論さ。脳が削ぎ落してくれた情報ってのは、ほとんど役に立たないものかただの空想さ。大事なことだけを君は覚えていればいい。…君は何だい?どこから来たんだい?そして、どこに行くんだい?」
田上は、タキオンの顔を見た。タキオンもまた田上の顔を見ている。田上は、小さい声でゆっくりと答えた。
「俺は…、トレセン学園でトレーナーをやってる。…二十五歳。担当している子は、アグネスタキオン。危なっかしい奴で、一人で勝手に事を済ませるときもあるけど、いい奴で、最高のパートナー。俺の友達は、そんなにいないけど、霧島に国近に鳩谷(はとや)に田中(たなか)が、特に仲がいい奴ら。赤坂先生も話すときは話すな。それにタキオンの友達には、カフェさんだったり、スカーレット君だったり…、それにあの魔女の帽子を被った女の子だったり」
「スイープ君ね」
タキオンが口を挟んだ。
「あの子はそんな名前なんだな。……そして、俺は、鹿児島からここまで引っ越してきた。母さんの病気が難病だったから、ここの近くの病院に入院しろってことになった。だけど、治療が遅れたのか死んでしまった。それから、竜之終の町は、少し面白かった。この街の資料館にもいったりして調べた時があったけど、案外ここの竜伝説は面白かった。話そうか?」
田上がそう言ったが、タキオンは「話が逸れるよ」と言って、話の筋を元に戻させた。
「そして、高校の最初で躓いて、だけど、頑張って最後まで行って卒業して、一年か二年、どっちだったかな?浪人して、いいとこのトレーナーになれる大学に入った。大学は、話せるやつは数人いたけど、今の友達程仲が良かったやつはいないな。皆同じところを目指してたはずなんだけど、今はもうどうなっているのかは分からない。そして、俺はトレセンのトレーナーとしてあそこに所属した。で、タキオンに出会った」
「そう、私に出会った。それから、どこへ進む?」
「俺は、……」
タキオンの目をじっと見つめた。赤い瞳が柔らかに微笑んだ。もうここで言ってしまおうかと思った。タキオンへの想いを、洗いざらい。今だったら、タキオンも受け入れてくれるような気がした。だが、その時にピンポーンと玄関のチャイムが鳴ると雰囲気は全て吹き飛んだ。
田上は、半身を起こして、「宅配かな?」と言ったが、タキオンは田上の腰あたりに抱きついてこう言った。
「宅配でもなんでも、君が進む場所を言わないとこの手は放さないよ」
「じゃあ、俺は玄関に進む」
田上は、そう言って、タキオンを引きずったまま玄関の方へと歩いた。途中でタキオンも諦めて、それでも諦めきれなくて、田上の後ろに抱きついたまま玄関へと歩いて行った。
田上が玄関のドアを開けると、変な格好をしたおかしなおばさんが立っていて、手には何枚もの紙を持っていたから、田上は怪しんだ。後ろから見ていたタキオンも怪しんだ。なんだか臭いぞ、と思いつつもその人の相手をすると、その人は怪しげな自己紹介をした後にこう言った。
「あなたは幸せですか?」
田上は、そう言われて少し迷った。すると、そのおばさんは怪しげな本を取り出して、「これに幸せになる方法が書いてありますよ。お代は結構ですのでぜひ読んでみてください」と無理矢理手渡そうとしてきた。田上は、曖昧に頷きながらそれを受け取ろうとしたものだからタキオンは驚いた。こういう手合いは、正面から向き合わないのが基本だろう。そう思うと、タキオンは後ろからしゃしゃり出て言った。
「うちはそう言うのはお断りでね。そもそもこのうちの人じゃないんだ。明日には帰ってしまうんだから、放っておいてどこかに行きたまえ」
おばさんは、突如現れた憤怒するウマ娘に驚いたが、まだ田上の方に話を続けようとしたため、タキオンは無理矢理扉を閉めようとした。しかし、それまで曖昧に頷いていた田上が、「ちょっといい?」と言うとタキオンが閉めようとした扉を開け、もうすでに去っていこうとしているおばさんの背に呼び掛けた。
そして、おばさんが振り向くと言った。
「僕は幸せです。少なくとも今は。…ありがとうございます」
そう言うと、アパートの古びたドアはガシャンと音を立てて閉まった。おばさんは、何が起こったのか分からないようにきょとんとその扉を見つめていたが、やがてため息をつくと、別のドアに向かってにこやかに笑みを作った。
「君は今、幸せなのかい?ついさっきまではそうは見えなかったけど」
ドアを閉めるとタキオンがそう言った。心配しているようでもあったが、からかっているような調子もあった。田上は、それに少し困惑しながらこう答えた。
「幸せ?…確かに幸せだ。……お前と語らい合うことができたんだからな」
自分が凄く恥ずかしいことを言っているような気がしたが、田上は最後まで言い切った。すると、タキオンは物言いたげな顔をして田上を見つめたが、一度不意に目を逸らすとこう言った。
「そう言えば、聞いてなかった。君はどこに進むんだい?」
「…俺?」
田上とタキオンは、炬燵に行くことはなくまた布団の方に戻って、そこに寝転がった。
「俺は……」
田上は、天井を見つめながら、そう考えた。そして、暫く考えた後言った。
「俺は、勿論、トレセンのトレーナーとして先に進むよ。例え、いくつもの別れがあったとしても先に進まなくちゃならない」
「先に進まなくちゃならない?…それは義務なのかい?」
「義務?…義務。そんな感じでもあるし、そんなとは全然違う。要は、暗い負の感情があったとしても前に進もうってことを言いたかったんだよ」
「…それは、つまり負の感情がある前提だと?」
「う~ん、…面倒臭いなぁ」
田上が困ったようにそう言うと、タキオンはハハハと笑った。
「でも、これってとても大事なことじゃないのかい?負の感情を抱えながら生きていくってとてもつらいことじゃないか。それなら、最初から持たない方がとっても楽だろ?」
「最初から持たないって、タキオンは人のことを言えないだろ?俺も、人のことは言えないけどさ。…そりゃあ、最初から持つことをしないんだったら、俺もそうしたいけどさ。持つことになってしまったらしょうがないじゃん。それをどうにかしないと」
「それはその通りだ。私だって人に言えたもんじゃない。だけど、最初から負の感情を持つことのない人だっているんじゃないか?だったら、それを真似して生きていくってことを考えたほうがいい」
「そんな人がいるのか?」
田上は、この話が早く終わればいいと願っていたのだが、突然話をちぎるのも可哀想だったのでこう聞いた。すると、タキオンの返事が返ってきたのだが、それはあんまり大したものではなかった。
「そんな人?……私は会ったことがないねぇ。いるのなら会ってみたいものだよ」
その言葉に田上は呆れた。
「お前は見たこともない人の話をしてたのか?それじゃあ、この話には何の意味もないよ。もっと実のある話をしよう。それとも、これよりずっと身にならない話」
「えーー、でも、これが私たちの理想の姿なんじゃないのかい?何の苦しみも抱かずに生きることが」
「それをできる人間をタキオンが知っているというのなら話は別だけど、知っていない以上は夢物語でしかないよ」
そう言うと、田上は、体をもぞもぞと動かして、再び体を起こした。
「ああっ、君、どこに行くんだい?」
「もう起きるんだよ。朝ごはんも食べたいだろ?タキオンも起きたら?」
タキオンは、もう少し布団で寝ていたいというような不満げな顔をしたが、お腹の中に空腹もあったのだろう。田上に引きずられるようにして、くっつきながら起き上がった。
それから、二人は朝食のパンをのんびりと食べながら、話をしたりテレビを見たりして過ごしていった。それは、午前中の間ずっとそうだった。タキオンは、本を読む気にはなれなかったので終始田上にちょっかいを出して、気を引いていた。田上は、それに相手をしているときもあったが、同じくらいスマホを見て相手にしていない時間もあって、中々タキオンの思い通りとはいかなかったようだ。タキオンは、それに不満を持っていたようでもあったが、やっぱり時々は相手をしてくれているのでその不満は不発に終わった。
そして、昼が来ると、田上は昼食のラーメンを作りに台所へと行ったのだが、そこにもタキオンはついてきた。まるで、トレーナーとの一時を一瞬たりとも逃したくない幼い子供のようだった。そのタキオンの様子を見ながら、田上はこれまで以上に心配になった。
タキオンは、終始くっついてはいたのだが、その顔にはこれまでより色濃く不安が張り付いていたように思えたからだ。何が不安なのかは田上には見当がつかなかった。これから、あと一日で家に帰ると言っても、それはタキオンが気にしている事のようには思えなかった。なぜなら、本人はあそこに戻りたいと言っていたし、朝の布団の時も田上より落ち込んでいるようには見えなかったからだ。だからと言っても、タキオンが弱音を吐いていないことはなかったので、田上は慎重に言葉を選びながら聞いてみた。
まだ、ラーメンの麺を茹でている最中だった。
「…タキオン」
「ん?なんだい?」
後ろの方にくっついていたタキオンがにこやかにそう答えた。本人は後ろにいるので顔は見えなかったが、声を聞くと不安な様は確認することができなかった。だけども、一度見たあの顔は確かに何かに不安をしているようだったから田上は話を続けた。
「…あんまり無理をしてほしくないから言うけど、帰りたくないんだったらはっきりそう言っていいんだからな?無理をするのが一番よくない」
「無理?私が?…そんなつもりは…、ないとは思うんだけどな。どうしてそう思ったんだい?」
「いや、お前が少し不安がっているように見えたからさ。…勘違いだったんならそれでいいんだけど、勘違いじゃなかった場合が、タキオンを無理させることだけになると思って」
「私が不安ねぇ……。あんまりそんな感覚はないけれど、どこら辺がそんなふうに見えたんだい?」
「うーん……。別にお前が不安じゃないならそれが本当に一番なんだけど、今日の寄り添い方がいつもと違うように思えて」
「いつもと違う?」
タキオンはオウム返しにそう聞いた。
「そう。だって、今日のタキオンは、…少し大人しいというか落ち着いているというか。本当にただ俺の傍に居たいだけという気がするんだよ。そして、表情もあんまり変わらないから、何かに怯えているのかな?耐えているのかな?って思うんだよ。…俺がやっぱりダメなのかな」
後ろに張り付いていたタキオンは、何か考えているのか、暫く押し黙った後言った。
「……あんまりよく分からないけど、私は帰るつもりではいるよ。少なくとも明日には。…ん、そういえば、君のお父さんの方とはまだ聞き込み調査を終えていなかった。…君のお父さんに私が聞き込みしたいってこと言っていたかな?」
「…言って……、いたかな?タキオンが知らないんだったら俺も多分知らないよ」
「ふむ…。…確か、明日は私たちを見送るために、午前中は家にいると言っていたよね?」
「ああ」
「それで、君は何時にここを出るつもりなんだい?」
「…えっと、昼飯後の一時の電車。だから、十二時半には、この家を出る」
「ということは、それまでに私は君のお父上とお話ししないといけない。…君は、当然聞こえない場所にいてほしいから、外に散歩でもどっか近くで買い物でもなんでもしておいてくれ。そして、その間に私は話を済ませておく」
「ふーん…。それは、今日の父さんが帰ってきてからじゃダメなのか?」
田上が、そう言うと、タキオンが少し体を離して考え込んでいるのを感じた。
「帰ってきてから……。君を家から追い出すわけだから、暗いし寒いし危険だろ?君の父さんが帰ってきてからでは、もうそんな時間になっていると思うけどね」
タキオンが言い終わったところで田上は、麺を茹で終わり、タキオンに「どいて」と呟いた。それから食器棚から大きめの器を取り出すと言った。
「…まぁ、俺に少しでも配慮してくれるのならありがたい。…けど、別に俺は構わないけどね」
田上は、炬燵の方に移動しながら話し、タキオンもまた移動しながら話した。そして、タキオンは座ると、言った。
「君が構わなかったとしても、私は構おう。これから、トレセンの方に帰ろうという体だ。健康を損なってもらって、せっかくできた薬を飲み損ねてもらっては困る」
そして、こうも言った。
「飯だ。早く持ってきたまえ」
田上は、それに対して一目見ることだけしか反応せず、それ以外は何もしなかった。それは、言われるまでもなく飯を早く持ってくるつもりだったからだ。田上は、タキオンの分の鍋を持ってくると、机に置いた器に麺と汁を一緒くたに注ぎ、そして、タキオンの前に無言で差し出した。
タキオンは、「ありがとう」と満面の笑みで受け取ると、田上にも笑いかけた。だが、田上は、まだ台所へと向かわねばならなかった。そして、麺を茹でなくてはならなかった。
田上は、麺を注ぎ終わると、面倒臭そうにまた台所へと向かった。すると、タキオンもついてきて言った。
「なんなら、私が作ってやってもいいんだぞ」
田上は、その言葉を嬉しく思ったが、そんな様子はおくびにも出さないでこう言い返した。
「飯を食いな。伸びるよ」
タキオンは、不満そうな顔をしたが、田上の言うとおりだったので炬燵の所に戻ると自分のラーメンをずるずると啜り始めた。実のところ、タキオンは、まだ田上離れたくなかったのかもしれないが、ラーメンという時間制限付きの食べ物に対して抵抗ができなかった。
タキオンは、一人で静かに麺を啜りながら、お昼のニュースをじっと見ていた。
昼ご飯は、妙に落ち着かないまま過ぎていった。これは、タキオンにとってもそうだったが、田上にとってもそうだった。
特に田上は、あれからずっとタキオンの様子が気がかりだったが、あまり変わった様子はないようだった。相変わらず、いつもよりも大人しく、構ってくる様も猫のようなものだったが、聞いてみればいつもと変わらないという。
タキオンの中に隠れ潜んでいるものが何なのかは、田上には分からなかったが、午後は少しだけ多くタキオンの相手をしてあげた。
それから、夕方になれば父が帰ってきたが、その時には田上もタキオンも暇すぎて炬燵の中で眠ってしまっていたので、出迎えるものは誰一人としておらず、帰ってきた十分後に田上が起き上って「おかえり」と寝ぼけた声で言った。
父親は苦笑しながら「ただいま」と言って、早速夕食の支度をしていた。
そして、夕食の時間にもなったが、これも相変わらずだった。田上とタキオンは、見ようによっては夫婦と見間違うほどに、慣れた手つきで食卓を囲んでいた。それを、賢助は、幸せそうに眺めていた。
夕食の時間も終わって、後はただ時が流れてゆくだけの時間になった。タキオンも少しは本来のトレセンにいたころの自分に戻ってきているようだった。タキオンの心が帰る支度を始めているのだろう。隣で本を読んでいるタキオンの横顔を時折見つめながら、田上はそう思った。心の中にはやっぱり寂しさが流れてきた。
――夢のような一時を過ごしていたのは、自分だった。
田上は、そう思うと、浅く息を吐いて時が流れていくのに身を任せた。