ケロイド   作:石花漱一

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三十七、夢⑤

 とりあえず、田上はトレーナー室まで出勤してきた。トレーナー室には、エスとマテリアルが静かに座っていたが、田上が入ってくると、マテリアルが顔を上げて「おはようございます」と言った。その声に反応してエスも顔を上げ「おはようございます」と言った。田上もそれぞれ二人に挨拶したあとに、マテリアルは不思議そうな顔をしたまま言った。

「タキオンさんは?」

「熱出たそうです」と田上はマテリアルの顔を見ずに答えた。マテリアルはまた田上の様子に不思議そうな顔をしたあと、こう言った。

「てっきり昨日のことを引きずって、また喧嘩をしたのかと思いましたよ」

「………喧嘩はしましたよ…」と田上はむっつりとしながら答えた。途端に、マテリアルは深い納得の笑みと、その笑みを無礼だと思って消そうとしている妙な表情をした。「ホォ…。…じゃあ、熱は?」

「僕は知りません」

「…嘘ですかね?」

「…どちらにしろ、何か話さないといけないと思っています」

「……昨日のって、私は悪くなかったですよね?」

「……まぁ、……僕はタキオンを悪かったとは言いたくありませんよ」

「……話はどうするので?」

「……どうしましょうかね?」と田上はマテリアルの顔を見ながら聞き返した。

「……私じゃ寮に行ったって追い返されるだけですよ?」

「…そうだと思います…」

「…連絡は? 熱の報告はタキオンさんからで?」

「ああ、タキオンの寮の同室の人から、連絡をもらいました」

「とすると、タキオンさんは本当に熱ですか?」

「いや、そこのところは分かりません。同室の人がタキオンに気を遣ったって事も充分にあり得ます」

「ふむ。……じゃあ、どうしましょうね?…とりあえず、その同室の人と話してみるべきですかね?」

「ああ、…じゃあ、ちょっと連絡は取ってみます」

 田上はそう言って、スマホを取り出すと、それで連絡を取ろうと思ったが、デジタルの方は授業のためにもう教室に来ているだろうから、もしかすると、マナーモードなり電源を切るなりしているのではないかと思った。そうすると、今すぐ繋がる事にはならない。

 田上は少々迷ったが、結局直接会いに行くことにした。デジタルは、もう高等部の一年だったはずだから、そこら辺の教室を探せば見つかるのではないかという気がした。

 

 田上は、廊下に出たり、教室に入ったりして、ちょこまかしている女子高生の群を見ながら、デジタルのピンク色の頭はないかと探した。そして、時折生徒に声をかけて、デジタル君はどの教室か聞いた。三人目に聞いた時に、デジタルがこの教室の隣の教室だという事が分かった。だから、田上は、その教室を覗くと、丁度教室後方の席辺りに、デジタルが物思いに耽りながら座っているのが見えた。田上は、その子を呼ぶために大声を出す気にもなれなかったから、手近な生徒を見つけると、デジタル君を呼んでくれないかと頼んだ。その子は、何の気もなくデジタルの所に行って、教室の入り口に立っている田上を指差すと、自分の席に座りに行った。

 デジタルは、田上が訪ねてきたことに少々驚きながら「何の御用でしょうか?」と聞いた。

「…タキオンって、…」

「ああ、はい。タキオンさんの事ですか?」

「ああ、……本当に熱出てた?」

「あー、…あたしには真偽は分かりませんが、体温を計っている素振りはありませんでした」

「……昨日も落ち込んでた?」

「ああ、はい。……何かあったのでしょうか?」

「あー、…まぁ、……喧嘩した事にはしたんだけど、迷惑かけた?」

「いえいえ、全然。特に、…まぁ、少々落ち込み気味だったので、励ましはしましたが、やる事は自分でなさってゆきました」

「…ありがとうございます」

「いえいえ、困ったときはお互い様ですから」

「……朝はどんな様子だった?」

「えー、…布団から一歩も動かないようでしたね」

「……デジタル君は、タキオンが昨日のことを引きずってると思う? …つまり、タキオンが動きたくなくて、熱が出たって嘘を吐いたと」

 田上がそう聞くと、デジタルは目を逸らしつつ答えた。

「えー、……まぁ、その線もなくはないかと…」

「本当に熱が出てるとは思う?」

 田上がそう聞くと、デジタルは困った顔をした。

「……私には、真偽のほどは測りかねます…」

「ああ、……じゃあ、どうしよう。…落ち込んでいるとは思う? 熱が出てたとしても出ていなかったとしても」

「ああ、……多分、…落ち込んでいるとは思います…」

「…そうか…。…タキオンは、引っ張り出せなさそうかな?」

「…よろしければ、お手伝いしますが…」

 田上は、デジタルの顔を見つめて少しの間悩んだ。デジタルに手伝えるものなら手伝ってほしいが、どうやってタキオンを引っ張り出すかの策もまだ考えていない。それに、デジタルが引っ張り出さねばならない程嫌がっているというのを、無理に引っ張り出すこともしたくない。また、万が一熱があったとしたら、それで辛くなっているタキオンを引っ張り出すこともよしたい。

 その時に、切りよくチャイムが鳴って、デジタルの教室に先生が入ってきた。田上は、「まぁ、後ででいいや。まだ、ちょっと考えているから、タキオンを引っ張り出さないといけないってなった時は、連絡してみる。ありがとうございました」と言い残して立ち去って行った。教室からは、廊下を歩いて行く男性のトレーナーに対する興味の目が向けられていたが、田上はそれを無視して、トレーナー室に戻らざるを得なかった。

 

 田上はトレーナー室に戻ると、一旦タキオンにメッセージを送ってみることにした。これで反応が無かったら、次は電話をかけてみる。とにかく、自分ができる事は全て試してみるつもりだった。

『熱が出たって聞いたけど、大丈夫か? なるべく、返信してほしい』

 田上も少しの間そのアプリの画面を見つめていたが、今すぐ返信が来るものとも思っていなかったので、ため息を吐くと、仕事を始めた。

 やはり担当が増えた分、考える事も多くなったので仕事も複雑になった。エスやリリックの事についても考えないといけない上に、トレーナーとしてタキオンの事を考え、恋人としてタキオンの事を考えなければならなかった。

 同時にいくつものことを考えろと言われても、田上には無理だったから、一つ一つ考えて行かなければいけなかったのだが、そうやって、エスやリリックの事を考えていると、恋人としてのタキオンが邪魔してくるから大変だ。

 田上は、今まで恋人を作ったことが無かったから、その忙しさを味わった事もなかったのだが、いざ実際に味わって体感してみると、成程、忙しいから別れようと恋人たちが言う理由が理解できた。

 田上は、そういうマンガとかドラマとかを見るたんびに、――仕事よりも恋人の方が大切だろ、と思ってきたのだが、二つを同時に両立させたい人間にとっては、恋人と仕事の両方を常に考えないといけないわけになるのだから大変だ。脳内は常に心配事を抱えているようなものだ。かと言って、田上は今すぐタキオンと分かれたいという気持ちにはならないのだが、そういう事を理解して初めて、――この世の中には色々な考えを持った人が実際に息をして動いているもんだなぁ、と思う。

 

 その十数分後に、思いがけずタキオンから返信が来た。もうてっきり来ないものだと思っていたから、次の休み時間には電話をかけてみようと考えていた。

 タキオンからはこのようなメッセージが届いていた。

『熱はない。君と話したい。迎えに来てくれ』

 田上は『分かった。お前の寮の前のベンチまで行く。一人で来れるか?』と送った。タキオンはその十数秒後に『行く』と返した。すると、田上はマテリアルに「タキオンが元気出たみたいなので、迎えに行ってきます」と声をかけて、トレーナー室から出て行った。

 寮の前のベンチに急いで行ったが、まだ誰も居なかった。当然ではあるが、自分が遅れて行って、折角取り戻したタキオンの元気をまた消失させても意味が無いので、田上はここでじっくりと待つことにした。

 二十分近く待った頃に、田上も――俺は騙されたか? と疑い掛けてきたのだが、その疑いをよそに、タキオンがあまり元気のない顔で出てきた。そして、ベンチに座っていた田上の前まで来ると、タキオンは俯きながら「圭一君、ごめん…」と落ち込んだ声で言った。田上は、「気にしてないし、俺も悪かった」と軽く謝ると、「トレーナー室に行く?」と聞いた。タキオンは、少し悩んだ後に「あのベンチに…」と言った。だから、田上とタキオンは、互いの気持ちを確かめ合うように手を繋ぎながら、あのベンチへと向かった。

 

 二人は、並んでベンチに座ったのだが、会話は起こらなかった。田上は、タキオンを慰める方法を考えている所だったし、タキオンは、自分から話すのがとても億劫だった。本当は話したいことはたくさんあった。夢の事もあるし、謝りたい事もあるし、伝えたい事もある。しかし、そのどれもが鬱屈とした感情に抑えられて、頭の中からすら出てこようとしなかった。ただ、これが喉の所までで抑えられていたのならば、それはそれで辛かったのだろうと思う。

 二人は、いつもよりも少し間を空けて座っていた。一つには、タキオンが自分に甘えすぎるのを田上が嫌がっていたからだった。そして、タキオンがそれを無意識の内に察しているからでもあった。二人の間は空いていたが、田上は少し心地が良かった。無駄に甘い香りに誘われずに済む。甘い一時に、何も考えられないようにされずに済む。勿論、タキオンの事は好きなのだが、ああやって甘えられるとタキオンの事以外考えられなくなるから面倒だ。だから、そういう意味では、今の状態は居心地がよかった。

 だが、タキオンの方はもう少しくっつきたかった。田上に身を寄せたかったのだが、果たして、このような状況で自分が甘えてもいいものかどうか、葛藤が起きていた。田上が、あんまり自分に甘えてほしくないと思っているのは、これまでの議論からもタキオンは分かっている。しかし、自分だって人間なのだ。彼氏に甘えたい時だってある。人間の欲望を思いのままに開放して何が悪いのだろうか?

 そう思いながらも、タキオンは、田上の肩に寄り掛かれなかった。

 

 大分時間が経った頃、タキオンは葛藤を――圭一君はきっと許してくれる、という方向に落ち着かせて、田上の肩に寄りかかった。田上は、それに気が付くと、タキオンの方を見た。少し嬉しかったが、嬉しくなくもあった。自分は甘えられる程偉大な人間でもないのだから、もう少しましな人間に甘えればいいのに。そう思ったが、タキオンが甘えたいのが自分だという事はもう何回も何回も知らされてきたので、それを甘んじて受け入れるほかなかった。

 田上は早く話を進めたかったが、今はまだ当分無理そうだった。タキオンは、まだ平常時ではないし、そもそも、仲直りすらちゃんと済ませていない。それでも、田上は自分が考えついた画期的なことが成功する事を期待して、できるだけ早く早く、タキオンと実のある話を結ばせたかった。

 慰めると言ったって、一体どうやって慰めればいいのだろうかと思った。その考えの裏側には、喧嘩も何もない平和な関係に早くなりたいと逸る心があった。

 田上はできるだけ早く落ち着きたかった。外見上はのんびりしているだけかもしれないが、その心の内では、思ったよりもタキオンと早く話をしたくてしたくて堪らなくなっていた。なぜなら、漸く解決の糸口が見つかりそうな気がしたからなのだ。今まで、うじうじと理想の微睡みに溶けていた自分たちは本当に苦しかった。もう何もかも諦めるしかないものだと思うまで追い詰められていた。そこに出てきた理想的な解決の糸口だったから、田上はとにかく早く早く早くタキオンと話をして、やる事為す事全て上手く行かせたかった。

 ただ、今だけはじっと待つ他なかった。逸る心も、暴れ出したら抑えなければいけない。暴走して今ここで無理矢理に話を進めようとしても不味いのだ。――では、いつどこでその話をするのだ!

 そう考えると、うずうずしてたまらなかったが、とりあえず、田上はタキオンを隣に寄り掛からせたままじっと堪えるしかなかった。

 

 また少し時間が経った。二人は何も話さなかった。二人は雰囲気の織りなすままに、手を繋いだり身動きをしたりしたが、決して言葉は交わさなかった。

 田上はタキオンが落ち着くのを待っていた。

 タキオンは、田上が何かを待っている雰囲気を感じ取って、何も話さなかった。田上が待っているのが自分の言葉かもしれないと思ったし、自分が話し始めたら、このように甘えさせ続けてはもらえないだろうと、この雰囲気の中にある一種の厳しさからそう思った。

 実際、田上は問い詰めるつもりなどなかったが、タキオンが話せるくらいに元気になったら、また一緒に考えながら話したいという欲望を持っていた。タキオンとの会話は好きだったから、二人で実のある会話をしたかった。

 田上の予定では、その欲望は秘められていないといけないはずなのだが、実際、タキオンが話せるようになった時にそのような話をせずに何を話せばいいのかは分からなかった。田上と言えば、根が生真面目なので、話すことも大概生真面目だった。

 話すことがないので、仕方がないから一人で考えることしかできない。田上は適当なある事ない事をぼんやりと考えた。タキオンの事だったり、チームの事だったり、レースの事だったり、タキオンの事だったり…。特に当たり障りもなく、心に負担をかけるものにならないように、なるべく適当なことを考えた。

 少々、二人の気持ちが曖昧になり、繋がりの感じにくい、妙な時間だった。つらい時間と言えばつらいのだが、幸せな時間と表現してみてもいい。はたまた、陽の暑さに頭がかっかと心地のいいくらいに火照って、何も考えられない時間と形容しても良かった。

 ともかく、もどかしいのに、もどかしくない時間だった。二人とも先に進みたいのに進めない、また、進まない時間だった。この状況がいつまでも続くのではないかと思われた。二人共あまり事を進展させたくなかった。それでいて、仲直りをしたり、平和を作り出してみたかった。進展するには多くの労苦が伴う。二人はそのことを漠然に感じて、目の前でその労苦を眺めていた。そして、ため息を吐いた。

 

 物語を動かすのはいつだって外からの刺激によるものかもしれない。少なくとも、外がなければ内もないので、双方とも表裏一体となって、互いに関わり合う。例え、疎遠に見えていようとも、互いは互い無くして居ることはできないのだ。

 今回もまた痺れを切らしたマテリアルが、やいのやいのとやってきた。マテリアルの影が見えた途端に、隣のタキオンの体が固くなったのを田上は感じた。マテリアルは、善意のつもりでここへやってきたのかもしれないが、マテリアルの事を毛嫌いしているタキオンがいる状況では逆効果なのではないかと思った。

 だが、タキオンの隣でそう主張することもできずに、田上は黙ってマテリアルのことを見つめた。マテリアルは陰気臭い二人のことを交互に見つめてから、田上に向かって「進捗はどうですか?」とこの場に似合わぬ陽気かつ大きい声で言った。田上は少し鬱陶しそうに眉を寄せたあと、久々に口を開いて、覇気のない声を出した。

「二人で居る所です」

「あなたには仕事も十二分に残っているんですがね」

「………任せてください」と田上は変に強がった。他の事を答えると、タキオンを刺激してしまうような気がしたからだ。

 マテリアルは、田上の冗談を鼻で笑うと、またこう言った。

「私が邪魔だろうということは充分に存じていますがね。……うん。ここらで、タキオンさんの事を心配している優しい年上のお姉さん面してみようかと思いましてね。…あんまり言うと逆効果なので、…私ここらで寝っ転がっておきます。いや、これも駄目ですかね?……どうします?」

 マテリアルがそう聞くと、田上はどうしようもなさそうに諦めたように、お道化て首を傾げて見せた。マテリアルは、それに少し顔をしかめると、「今日はどういうご予定で?」ともう一度聞いた。

「…………タキオンと仲直りして、…あとはいつも通りやっていく予定です」

「じゃあ、私もいつも通りと?」

「そうです」

 マテリアルはすこし不満そうな顔で田上を見たが、やがて、人差し指をピッと振ると「バイ」と言って立ち去っていった。

 そうした後に、タキオンが体を動かして、田上の膝枕に頭を乗せた。

 

 田上は膝枕で甘えてきたタキオンに対してどう接すればいいのか分からなかった。髪を撫でてあげたいと思ったが、必要以上に接するのは躊躇われた。タキオンが自分に甘えてくるのはいいが、自分が心を許して、タキオンを誘惑し、甘えさせてはいけないと考えていた。しかし、田上の手は、知らず知らずのうちにタキオンの髪に伸びて、彼女を慰めるようにそっと撫でていた。田上は、そのような恋人的行為をする自分が嫌いだったが、もう仕方がなかったので、躊躇いがちにさらりさらりとその髪を撫でていた。

 その内に、田上の手によって慰められたタキオンが、田上に心を許して、こう吐露した。

「私の事嫌い?」

 田上は何も答えたくなかった。このような形で話をしたくなかった。もっと、二人共心が落ち着いてから言葉を交わしたかった。これでは、今まで何回も何回も繰り返してきたことと一緒だった。二人共、お互いの傷を舐め合って、慰め合って、傷がついた原因には目を向けずに見て見ぬ振りをして、無事仲直りができたことだけを喜んで、満足する。言葉はお互いを慰めるためにあるのであって、物事を解決するためにあるのではなかった。

 田上は、タキオンを慰めるための言葉を吐かない事に、大分苦心をしたが、なんとか何も言わずに済んだ。その代わりに、タキオンの髪を撫でるついでに、タキオンのその柔らかな肌に触れて、自分が全くタキオンの事を嫌ってはいないということを、言葉以外の方法でできるだけ伝えられるようにした。

 タキオンは、田上がその方法を選択したことが伝わったのか、暫くの間何も言わずに、田上に撫でられ続けていた。しかし、またその後にこう言った。

「愛してる…」

 田上には、タキオンが自分にあまい言葉を囁き返してほしくてその言葉を言ったということが痛い程に伝わった。田上は、タキオンを慰めてあげたい自分の心と戦うために大きく疲弊した。田上は、自分の耳を塞ぎたいと思った。自分を責める彼女の言葉を聞きたくなかった。許してほしかった。何もできない自分が、堪らなく憎かった。

 彼女は田上などに声をかけてはいない。田上の心の奥深いところに、君の心はどうあるべきなのかと語りかけていた。田上は死にたかった。生きる意味すら追い求めていない自分は、この世に生きていてもしょうがないと思った。それでいて、生きることは素晴らしいと嘘を吐いていた。嘘つきは死ぬべきだ。不誠実な人間はこの世から滅びればいい。自分もその中の一員だった。生きる意味を持っていなかった。許してほしかった。逃げる理由が欲しかった。

 タキオンはそれからまた暫く口を開かなかった。彼氏がなぜ何も答えてくれないのか分からなかった。いつも、自分に飛び切り優しい彼氏だ。自分が困っていたらすぐに駆けつけて抱き締めてくれる仏のように優しい彼氏だ。

 その彼氏が、今回は何も答えなかった。彼女が困っているのに答えない道理はないだろうと思った。タキオンも田上が答えてくれない理由は薄々感づいていたが、自分が慰められて、甘やかされたいばっかりに、その事を見て見ぬふりをしていた。タキオンは待った。優しい彼氏が自分頬を「愛してる」と囁きながら撫でてくれるのを。しかし、もう今は先程撫でてくれていた武骨な指先すらなくなっていた。タキオンは寂しかったが、田上が囁いてくれるまでは動けなかった。

 しかし、ある時頭上の方から啜り泣く声が聞こえてきた。途端に、頭の奥のほうで薄っすらと佇んでいた考えは、色彩と輪郭を強めてこちらへやってきた。タキオンは、その考えを見つめながら、――遂に、動かないといけないのか…、とぼんやり考えた。

 そして、ゆっくりと気怠げにタキオンは体を動かして、田上の方を見上げた。田上は、両手に顔を埋めながら、しくしくと泣いていた。タキオンには、その声がどことなく心地良かった。自分が必要とされている感覚がした。だから、ぼんやりと儚げな顔のなかに微笑を浮かべると、手を伸ばして、田上の大きな両手に軽く触れた。

 田上の泣き声はより一層大きくなったが、その両手を開きはしなかった。タキオンは、その両手を無理矢理開くこともできたのだが、そうはせずに、ただおもむろに起き上がると、田上の膝の上に窮屈そうに乗っかった。

 田上の手は、タキオンをはね除けるようにその顔を塞いでいたが、タキオンは、その手に軽くキスをした。それでも単に開くものでもなかったし、タキオンもキス一つで開かせるつもりもなかった。ただ、自分の中にある愛が田上のほうへ向くのに従って、気の赴くままに、キスする場所や長さも変えつつ、タキオンは一つキスしては少し間を空けて、一つキスしては少し待ってを繰り返していた。

 

 その内に、田上の泣き声も次第に落ち着いていって、やがて、両手の中に顔を埋めたまま、大きなため息を吐いた。タキオンは疲れたような、安心したような顔をしながら、両手の中の田上に向かって言った。

「どうしてまた、君の方が先に泣き出すことになったんだい?」

 田上は何も答えなかった。無闇に言葉を並べて、慰め合うような結果になることだけは避けたかった。ただ、タキオンもその意図までは分からなかったので、田上が落ち込んでいると思い、その手に軽くキスをすると「愛してるよ」と甘い言葉を囁いた。ただ、今の田上にはもうその言葉は責め苦と同じだった。再び先程の苦しみが田上を襲い出したが、これ以上責め続けられても堪らないと思って、田上はやっとのことでこう言った。

「…………慰み合いはしたくない……」

「なんて?」

「………慰み合いはしたくない……」

 その言葉の意味を理解すると、タキオンは悲しそうに眉を寄せた。

「……なぜ?」

「…………意味がないから……」

「意味があると思ってやっていたのかい?」

 田上は苦しかったが、言うべきことは言わなければと思って、また何とか言葉を発した。

「…………今は議論の時じゃない…」

「……」

「………許してくれ…」

 田上は、自分が仲直りしたがっている旨を伝えたかったのだが、言葉はそこから出てこずにどこか別の方から湧いて出た。

 今度はタキオンの方に罪悪感が湧いて出てきた。タキオンは昨日の夢のことを思い出して、多少気分が悪くなった。慰めてくれると思った彼氏は慰めてくれず、それどころか、タキオンの慰みの言葉すら拒否し、挙げ句には二人が言葉を交わすことすら拒否した。そのような状態で、どうやって仲直りをしろというのだろうか? 言葉では伝えられないものを伝えたいのだろうか? 自分が何もできないこの状況で?

 タキオンは、田上のことを少しバカにし、軽蔑もしたが、自分のその心に気が付くと、心の中で慌ててその言葉を取り消した。田上は、大切な大切な彼氏であり、家族のうちの一人だった。バカにするなんて、有り得なかった。しかし、不図すると、田上への猜疑心がいつの間にか湧いてくる。タキオンは、自分のそんな心が嫌だと思った。酷く醜くて汚いものだと思った。

 田上は、いつの間にか顔から両手を離して、疲れたようにタキオンの胸辺りをぼんやりと見つめていた。焦点は定まっていなさそうだったから、自分の上にタキオンが座っていることすら理解しているのか怪しいように思う。

 タキオンは、そんな田上の顔をじっと見つめた。何か話をしてあげたかったが、下手をすると、慰み合いのようになってしまうかもしれないと思った。タキオンだって、田上の言い分に完全に納得はしていなかったが、できることなら、慰み合いにならないような話し合いをしてみたかった。彼氏がそう望むのなら、それがしたかった。

 しかし、生憎慰みじゃない言葉となると、今のタキオンにはあまり思いつかなかった。吐き出そうとするどの言葉も、いざ言ってみようというときになれば、慰みの言葉に変わるような気がした。タキオンは、大変に困った。この魂の抜け殻となったような彼氏と、また仲直りしたかったのだが、その方法が全く分からずに、手をこまねいていた。

 

 また時間が過ぎた。日は、二人が朝に出会った時に比べて、大分高く昇っていた。タキオンは、もう田上に話しかけるのを諦めて、田上の体に寄りかかってぼんやりとしていた。田上は、いつの間にかタキオンの体を抱きしめながら、その後ろ髪を撫でていた。二人は、一歩間違うと慰み合いの中に身を投じそうになりながら、それでも、そうならないように、もう考える事すら避けていた。考えてしまうと二人は慰め合うような気がした。

 いつしか、四時間目が終わったチャイムが鳴ったような気がした。二人共、正確な時間は分からなかったが、自分たちが大分長くここに居たことは、じっと一所に留まって強張った体が教えてくれた。

 田上は、体を伸ばしたいと思ったが、寄り掛かってきているタキオンの体重を感じると、それもやる気にはなれなかった。そして、代わりに、またタキオンへの罪の重さが感じられた。誑かすべきじゃなかったと思った。自分はこれまで、タキオンを心の底から愛していると、自分に言い聞かせてきたが、その実、タキオンへの愛情はなかった。誑かしているも同然だった。騙していた。徒に甘い未来を見せて、彼女を甘い罠へと堕落させているだけだった。きっぱりと別れたいと思ったが、それは嫌だった。そして、嫌がる自分がとても嫌いだった。

 田上はもう何も考えたくなかった。考えれば考える程、自分の罪悪が自分を責め続ける。幼気な女の子を騙し続けた自分の罪は重い。それでもまだ騙したいと思っている。自分に結婚する気などなかった。人と一緒になる気などなかった。孤独で構わなかった。孤独の方が好きだった。それなのに、愛情の片鱗がいざ目の前に現れてみると、それが溜まらなく欲しくなった。彼女の体の重みが愛おしかった。

 田上は、生まれてきたくなかった。

 

 心の中の罪悪に責め続けられながら、また時間だけが過ぎていった。幼気な女の子を騙したくはなかったが、自分は愛情に騙されたかった。できることなら、誰も自分を好きにならないでほしかったが、愚かにもタキオンは自分のことを好きになってしまった。その時に不図、田上は国近の事を思い出した。今思うと、国近が偉大な男のように思えた。幼気な女子高生を騙さずに、距離を置くことを選んだ。あれこそ男の鑑だ。貫くべきでない愛を、貫くべきと勘違いして、自分をえらい男だと勘違いしていたのは自分の方だった。今すぐにでも別れるべきだと思ったが、いざ別れ話を切り出そうと思うと、涙で喉が塞がった。

 タキオンの方に意識を向けると、自分の首筋に吐息がかかっているのを感じる。タキオンは、賢い女性だった。しかし、また、年上の男に憧れるという間違った感情を抱いた。ただ一つ、タキオンの愚かな行為だ。それとも、賢いタキオンならば、これらすべての悩みを解決する方法を持っているのだろうか? 自分の悩みすら解決できていない彼女に、二人の悩みなど解決できるだろうか?

 いや、そもそも田上はタキオンを人間だと認めてはいけなかった。愚かで軽蔑すべき若者だ。いくら賢いと言っても、愚かにも、バカで意地汚い人間を好きになってしまっては元も子もない。賢い人間ならば、同世代の子と出会うのを待てばよかった。何も焦って年上を好きにならずとも、タキオンくらいの器量良しならば、好きになってくれる男性は沢山いる。優しい人間がきっと必ず好きになってくれる。わざわざ八歳も年上のトレーナーになんて固執しなくてもよかった。しかも、そのトレーナーは、女子高生を誑かす愚かな人間と来た。

 これが、賢くて、優しくて、騙すことを知らない人間ならば良かった。しかし、自分は己の欲望のために人を騙す人間だ。まだ、幼気な女子高生と付き合うことすら許されない存在だった。

 これ以上、タキオンを信じてその身を委ねてはいけないと思った。愚かなトレーナーを好きになるのは、いくらその人が賢くとも愚かな行いだ。人を騙す人を好きになってはいけないのは、生まれたときから知っている。いつかもっと深くタキオンを傷つけるときがあると田上は信じていた。なぜなら、自分は愚かな人間で、決して人を信用せず、人に心を許さず、甘い言葉で惑わそうとするからだ。

 しかし、今タキオンにその身を預けられている状態から、抜け出す勇気を田上は持ち合わせていなかった。

 

 また、徒に時間を過ごした。先程よりかは田上の心も落ち着いて、タキオンに対しても前向きになったが、先程の心は忘れたくなかった。あれを忘れてしまうと、自分はもっと深い罪人になるのではないかという気がした。

 それとともに、あの感情をタキオンに話して、二人で解決に持っていきたいと思った。タキオンは、田上の良き恋人であると共に、良き相談相手でもある。そう思うと、好きになったのも必然ではないかという気がしたが、それに真っ向から向き合えるほど素直な心でもなかった。

 タキオンは落ち込んでいるのか、田上に体を持たれかけさせたまま、身動き一つしなかった。田上は、また先程までタキオンの事を哀れで幼気で愚かな少女だという認識を持って、自分に寄りかからせていたが、今はだいぶ対等な関係が意識のなかに戻ってきたような気がする。ただ、こういうのも含めて、諸々をタキオンとまた話し合っていかなければならない。自分たちが住んでいるのは現実の中であって、決して、つらい事の起こらない理想の空間に住んではいないのだから。

 そこからまた少し経つと、田上はタキオンの後ろ髪をまた撫で始めた。できるだけ慰めることにならないように、タキオンの元気が湧いて出てくるように撫でた。と言っても、タキオンにその事が伝わっているのかは分からない。けれども田上が今できることは、そんなことくらいしかなかった。

 

 暫く田上がタキオンの髪を撫で続けていると、やがて、タキオンが身動きをして、「…すまなかった…」と掠れた声で言った。その時になって、田上は――ただ謝ればよかったのか、と気が付いた。慰め合うのでもなく、真面目な話をするのでもなく会話をするには、ただ互いの謝意を伝え合えばよかった。

 田上は、「いいよ」とこちらも掠れた声で答えると、「すまなかった」とタキオンに伝えた。

 タキオンは、果たして田上が何に対して謝ったのか分からなかったが、こちらも「いいよ」と答えた。田上はそれに「ありがとう」と感謝した。

 タキオンも田上への感謝の気持ちが溢れてきたので、田上の体を軽く抱きながら「ありがとう」と次いで言った。二人はそこで、ようやく息の詰まるような空間から抜け出した気分になって、それぞれふぅと安心したため息を吐いた。

 田上は、それでも若干緊張していた。ここから、また慰め合うようになってしまっては、話自体が進まない事になってしまう。それでも、田上はどうしてもタキオンと話したくて、少しだけ口を開いてみた。

「……気分はどう?」

「……いい気分だよ。……傷付けてすまなかった…」

「……いいよ…」

 この後に、タキオンを肯定する言葉を吐いてしまうと、また慰め合っていくような気がしたから、田上はただタキオンの言葉を認めるだけにした。タキオンは、いつものように慰めてくれなかった彼氏に少しの不満を抱いたが、そこまでの影響を及ぼし得る不満ではなかった。それも、彼氏に抱かれているうちに萎んでかき消えた。

 田上は、まだもう少しタキオンと話したくて、口を開こうと思ったのだが、次の言葉が分からなかった。無闇に心の内を吐露しようと思ったら、それは慰め合うことになってしまう。後悔は確かにあった。しかし、それは慎重に取り扱わなければならないと思った。

 それからまた暫くしてから、田上はまた同じことを口にした。

「気分はどう?」

「……大分良くなったよ…。…愛してる…」

 タキオンがそうやって甘く囁いた。田上は、それにどう反応しようかと迷ったが、今なら少しだけ自分の心を吐露してもいいんじゃないかと思った。

「………俺は、……あんまりそういう言葉を使いたくない……」

「………」

「……お前が、俺を愛してくれているのも、もうすでに充分分かっているし、…俺がお前を愛していることだって、…充分分かっていると思うからだ…」

「………私が分かっていないとしたら…?」

「……それも踏まえて、これから二人で話し合っていきたい…。…未来の事とか、二人の事とか…」

 田上は、自分の話の終わらせ方に、多少の不満を持った。それに、タキオンもあまり自分の話に納得していないのじゃないかと思ったから、またこう付け加えた。

「………俺は、またお前と話していきたいんだけど、…少し冷静になったお前と話したいと思ってる…。感情をぶつけあったところで、また、二人共喧嘩してしまうってのは、タキオンも分かってると思うし、嫌だろ? だから、二人共お互いの心を察して優しくできるくらい冷静な状況で、自分たちの儘ならないことや悩みとか、感情とか、そういうのを話していけたらいいと思っている…」

 田上がそう言って、少し待ってから、タキオンも彼女らしいしっかりとした声で、「分かった」と言った。それから、田上の耳元でふふふと小さく笑い声を漏らすとこう話した。

「やっぱり、君は賢くて優しくて良心的な人だ。…君を好きになって本当に良かった」

 田上は、そんなタキオンの言葉を無下にすることもできないので、「ありがとう」と一言答えた。

 

 それから、二人はもう少し明るくなって、もうすぐ六月になる温い日差しの下で、軽く会話を交わしてしていた。と言っても、本当に意味のない触れ合いだけをしていた。タキオンが猫のように田上の体をつついて、二人で触れ合いの喜びに浸るというものだった。田上の主義としては、こういうのもあまり良くないものかもしれないと思ったが、二人共これから暫くやることもなかったので、こんな時くらいは少しばかりの喜びも享受して問題ないだろうと考えた。

 もう昼の時間は過ぎていた。その内に、明るい日差しの中をマテリアルが眩しそうに歩いてきた。その姿を見ると、タキオンは田上の上で体をちぢめて固くした。

 マテリアルはそんなタキオンの事は気にせずに、田上に向かうと、幾らか晴れやかな表情になった田上に言った。

「仲直りはなさいましたか?」

「ああ、できました」

「…では、トレーナー室に戻ってほしいと言いたいところなんですがね…。…お昼ごはんは食べました?」

「いや、全くです」

「…ここにおにぎり二つ、購買で買っておいたんですがね」

 マテリアルはそう言って、隠していたおにぎりを取り出した。

「ああ、…くれるんですか?」

「…まぁ、上げて差し上げますよ。元々、あなた方が食べてないだろうと思って買ってきたんですからね」

「ありがとうございます」と言って、田上はおにぎりを二つ受け取り、一つはタキオンに渡した。タキオンは一瞬マテリアルを睨むように見上げると、少し頭を下げて「ありがとう」と言った。その言葉を聞くと満足そうにマテリアルは口角を上げた。

 田上は、おにぎりを頬張りながら、ベンチ横の草地に寝転がっているマテリアルに聞いた。

「今何時ですか?」

「一時半頃です」とマテリアルは口に草を咥えながら答えた。木陰に寝て、呑気そうだった。田上は少々驚いた。タキオンと出会ってからずっとここに座っていたので、五時間以上はここにいたことになる。ぼんやりとしていたせいもあってか、田上には自分が五時間以上もここに座っていたとは思えなかった。

「一時半ですか!?」と田上は驚いた声を出した。その拍子に米粒が一つ飛んで、地面に落ちた。

「ええ、一時半です」とマテリアルは呑気に答えた。「あなた、午前中の仕事をすっぽかしましたよ」

「……まぁ、取り戻せないこともないですね」

「トレーナーは呑気でいいですね…」とマテリアルが皮肉を言ったが、田上はそれを聞かなかった。

「マテリアルさんはリリーさんのトレーニングについては?」

「やることはやってますよ」

「リリーさんも結構いい線行ってますもんね」

「でしょう?」とマテリアルは寝転がりながらも少し得意になった。

 田上は少しマテリアルのことが邪魔だった。タキオンにまだ少し言いたいことがあったのだが、マテリアルがこうも堂々とこの場にいる状況では、タキオンはあまり話したがらないだろう。

 それに、田上も二人の生活や心に関することを話したかったので、関係のないマテリアルが聞いている場面では、あまり話したくなかった。

 ただ、呑気そうにスーツで昼寝をしているマテリアルにあまりつっけんどんな物言いはしたくなかったので、ただ田上は隣のタキオンと共におにぎりを一口一口噛み締めて食べていた。

 その内に、田上は「水が欲しいな…」と呟いた。マテリアルはその言葉のすぐ後に起き上がると、「トレーナー室に戻りますか?」と声を掛けた。これは絶好のタイミングだった。田上は、その好機が本当に好機であるかを確かめるために、ほんの少しマテリアルの顔を見つめると、腹が膨れて多少満足した顔で話した。

「マテリアルさんだけ、先に行っててくれませんか? …俺とタキオンだけで話したいことがあるので」

 すると、マテリアルは少し眉を上げて、「あら、私はお邪魔でしたか」と言った。そして、「まぁ、良いや」と言うと、タキオンと田上をじっくりと見つめてから、ピッと指先を振って、何も言わずに立ち去っていった。

 田上は、マテリアルが建物の影に隠れていったのを確認すると、早速タキオンに向かってこう言った。もう二人共食べ終わっていた時だった。

「タキオン、……俺は、…もう少しお前と定期的に会話をしたいと思ってる。……理由は、さっき言ったみたいに、…感情的になったときに、無闇に自分達の意見をぶつけ合うだけじゃ駄目だと思ったからだ。…そして、その…定期的にする議論の中でも、無闇な感情のぶつけ合いは駄目だと思う。…揚げ足を取るというか…、…思いやらない言葉というか…、そんなものを取り出して、無闇に意見をぶつけ合うんだったら意味が無いし、その議論の行き着くところは、暖簾に腕押しなんじゃないかと思う。…だから、お互い、なるべく感情的にならないように、議論…とか会話をしたい。…それを普段からしておけば、もし、感情的になったときに、その時の会話を思い出して、お互い…まだマシな会話ができると思う…。……これには、どう思う?」

 田上が優しくそう聞くと、タキオンはまた落ち込んだように俯きながら言った。

「………私が、黙って帰ったことに…怒ってる…?」

「ううん。……俺はそういう言葉を全部取り払って、理性的な会話をしたい」

 タキオンは、田上の顔を見つめながら、少し困ったように首を傾げた。

 田上は、またそれに優しく説明をした。

「……だから、……後悔ってのもある種の感情だ。……その事が悪いって言うんじゃないけど、……俺はその後悔している当事者としてタキオンと会話をしたいんじゃなくて、後悔という感情を一歩引いた所から見つめながら、それについて、お前と言葉を交わしたい。…だから、…冷静じゃないときはあんまり話をしたくない。……分かった?」

 田上がそう聞くと、タキオンは無言のままコクコクと頷いた。そして、田上の顔を見ると嬉しそうに微笑みながら、こう言った。

「難しい事をしようとしているね」

「まぁ、慣れたら簡単かもしれない」と田上も少し得意になって、微笑みながら答えた。

「……やはり、私の目に狂いはなかった。……この世の男性の中で、最も良い人と恋人になれることができたよ。…こんな私を好きになってくれるなんてね…。途轍もない幸運だよ…」

 田上は少しタキオンの言葉に苦しくなったが、表情はあまり変化させないで、「また、色んなことを話し合っていかないとな」と言った。

「………もし、……議論もままならない内に、私が機嫌を悪くしてしまったらどうするんだい?」

「……その時には、…俺のことを考えてみて。…タキオンだって優しい人だから、冷静になったら、俺の事を嫌いにならなくてもいいと思うと思うんだよ」

「……私はそんなに良い人間ではないんだがね…」

「………そのことも話し合っていこう? …陰鬱な当事者にならずに、普段の二人のままで面白いものでも話してみよう」

「……しかし、…感情的にならない自信はないんだがね…」

「…だから、暖簾に腕押し的な議論はしない。お前だと宝塚記念の事とか、俺だと……なんだろうね?」

「君の心…」とタキオンは田上の目の奥を覗くように、見つめてきていた。田上は、それに少し表情を苦くさせながら「それだね」と答えた。

 それから、話は一旦の終わりを迎えた。二人はベンチから立って、二人揃って大きく伸びをした。その動きが見事に揃っていたので、二人共思わず互いの顔を見ながら笑ってしまった。

 そして、二人は歩き出した。初めは手を繋いでいなかったのだが、田上に遅れて歩き始めたタキオンが横に並ぶと、その手の指を交互に絡めて恋人繋ぎをした。その後に、タキオンは甘えた声で「ありがとう」と言った。田上は、その言葉にまた一つ罪悪感が募った。

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