三十八、通り道
金曜日になった。五月も、もういよいよこの一日で終わる。そして、また、タキオンが四日ぶりに田上の家に泊まりに行く日でもある。この週をすぎると、いよいよ次の週末は宝塚記念となる。そして、田上の家にも泊まれない週だ。
タキオンは少し具合が悪くなった。今までは、レースに興奮して昂ぶるということがあっても、緊張するということは全く無かった。デビュー戦でさえ、ここまでの緊張はしていない。それに加えて、来週は彼氏の家に泊まれないというストレスもあった。折角、彼氏と二人の時間をとれる瞬間ができたというのに、出だしで詰まったような気がした。それを、当の彼氏に言うと、「再来週はまた泊まれるよ」と抜かされた。タキオンは少々不満だった。
タキオンは、水曜に彼氏と「これから定期的に話していこう」と言われたところだったので、今日まで何度か「いつ話すんだい」「何を話すんだい」と聞いたが、田上の方は「まだ」とか「分からない」とか言うばかりで、特にこれといった特徴のある話はしていなかった。
ただ、田上はタキオンと何気ない会話をするのを楽しんでいるということは、タキオンの方にも伝わってきたから、タキオンも大して不満には思わなかった。しかし、タキオンは、いつでも田上が自分と議論を始めるのを心待ちにしていた。タキオンは、彼氏と言葉を交わす瞬間瞬間が楽しいと感じていたし、田上が議論を始める瞬間こそ、今ここにいる自分をありありと見つめてくれて、認めてくれて、抱擁に近いような言葉のやり取りを開始する瞬間だと信じていた。
そうしていく内に、金曜日の昼休みとなった。二人は図書室に行ったり、トレーナー室に行ったりして、どこそこをぶらつきながら散歩を楽しんでいた。
その内に、タキオンと田上は、鬼ごっこの為に校庭を大爆走しているウマ娘たちを見つめながら立ち止まった。そして、田上は走るウマ娘たちを目を細めて見ながら、隣のタキオンに向かって言った。
「……お前の感情って、どんなもんだと思う?」
タキオンは、待ちに待った議論がついに自分の下までやってきたのを感じて、少し嬉しくなった。
「感情?」とタキオンは聞き返した。田上は、タキオンの顔を見つめながら、頷いた。そして、田上が校庭の端にあるベンチを指して、「あそこで話そう?」と言ったので、二人はそこを目指した。
二人揃ってそこに座ると、タキオンが先に口を開いた。
「感情と言ったって、あまりに漠然としているがね」
「……例えば、…月曜日に俺の家に泊まりたいと言った時とか、火曜日の時とか…」
タキオンは、すこし自分のつま先を見つめながら考えた。何てことはない学校指定の茶色のシューズだ。
「………感情がどんなもんと言われてもね。…曖昧な質問だよ」
「………あの感情は、…どうしても我慢できないものだった?」
タキオンは少し眉を寄せたが、田上と話すことを思って、できるだけ優しくなるように努めた。
「……まぁ、…我慢できなかったから、ここでこうして話しているんだろうね」
「……――あれをするべきだった、とか、――これをするべきだった、とか、思うことってある?」
「……そりゃあ、ないこともないさ。…君の事なんて、もう少し丁重に扱うべきだったしね」
「……あの感情は抑制できそうなものだった?」
タキオンは先程とおなじ質問をされたと思ったから、疑問に思って首を傾げた。すると、田上も質問しなおした。
「……結果のことじゃなくて、…タキオンがもし、またあんな状況に立たされた時、タキオンは怒らないでいれるのかな? って事」
「………うぅむ、………。…怒らないでいたいとは思うがね。…言ったかな? ……私は、…んー…、…んん…、…んんん…、……優しくされたいというかだね……、私のことを大切にしてほしいというか、……私のことを大切にしてくれない人間が許せないというか……。…分からないね…。…君にも仕事があるのは分かっている。…しかし、私は君にとって、仕事よりも大切な存在でありたい。……こんなものかな…」
田上は、タキオンが言いづらそうにしているうちに、当の質問から逸れていったのを感じたので、また「つまり、怒るって事?」と聞き直した。
「ん〜…、…怒りたくはないんだがね…。…感情を優先して動くという節もある。無論、火曜日のときだって、私が怒ったら、仲直りするのが面倒になるってことは薄々分かっていたんだが、如何せん私が君の家に泊まることを断られるのが、理不尽だと思えてならなかった。だってそうだろ? 私は今だってそう思っているよ。私達、ただの幸せになるべき一組の恋人同士のはずなのに、君の倫理観か世間の目か知らないが、一緒におなじ家に泊まって、愛し合うことすら真面に許されていないんだ。それなら誰だって怒りたくなるだろう?」
タキオンの熱弁に、田上は特段のかける言葉もなく、ただタキオンの顔を真剣に見つめながら、むっつりと「そうか…」と頷くだけだった。タキオンは、それに対して、特に不満を抱かなかった。
それから、田上は少し考えた後に話し出そうとしたが、その直前にタキオンが話し出した。
「……君は? …君の事も聞いていいんだろう? 私はこれが例の議論だと思っているんだが」
「ああ…」
「……君は、…私の事どう思っている?」
「どう…?」
「……私の事…好き?」
「……好きだよ…」と田上はむっつりと答えた。
「…いや、違う。こういう話じゃなかったな。…議論だったはずだ…。とすると、…君が一昨日言った――私の事を愛してるとあんまり言いたくない、ということについてだが、…あれはどう思う…?」
田上は少し首を傾げた。
「……あれは、…二人共お互い大切なのは分かっているから、あんまり慰め合うようなことはしたくないって話じゃなかったかな?」
「ああ、…そうか…。そういう話だったか…。…いや…、しかし、……どうだろうね…。…そう考えると、私の事好き?という質問も立派な質問のような気がする。…つまり、…君は私のことを本当に愛しているのかな? という問題だよ」
田上は、神妙な顔つきをしながら、少しの間タキオンの顔を無言で見返した。
「………好きじゃない事はないよ」
タキオンもそう言われると、田上の顔をまた少しの間見つめ返したが、やがて、ちょっと目を逸らすと口を開いた。
「………君が私の事を大切だという事は分かっているんだがね…。…どうも……私が信用し切れていないのかな…?」
「………俺は、……それは暖簾に腕押し的な議論のような気がする…」
「……感情的になるという事かい?」
田上はタキオンから目を逸らしつつ頷いた。タキオンは、少しもどかしそうに、手をもぞもぞと動かすと、首を軽く掻きながら言った。
「……まぁ、……なんだ。…何を話すべきか分からなくなってきた」
「……話をお前の方に戻してもいい?」
「…いいとも」
「………タキオンのは、……理不尽を感じたから怒るという事でいいのかな?」
「…まぁ、そのように言っても良いだろう」
「………その理不尽に、…どう対処するべきだと思う?」
「………どうしようもないんじゃないかな?」とタキオンは、少々不満そうな顔で答えた。
「………なんか、さっきの質問で動揺しちゃったな…」
「私の事を本当に愛しているか?」
「そう…」
「……じゃあ、理性的な意見を踏まえつつ、やはり、私の方が質問者になってもいいかな?」
「…まぁ、…気の済むまでやってくれ。俺だけが質問し続けるっていうのも変だ」
「……ただ、…私も感情的な人間だからな…。慎重に言葉を選ばなくちゃならない。………んー、……君は私の事、未だに怖い?」
「……まぁ、……お前と……本当に付き合うべきかって事を考えたら、…怖くはなるよ」
「……それは、…私の家とかも関係なく、…人が怖いって事?」
「……それは分からない…」
「……世間の目? 週刊誌に報道される事? それとも、女子高生と大人は付き合ってはいけないって事?」
「……その事、諸々だと思う」
「…とすると、……女子高生と大人…。……まぁ、…複雑な問題でもあるし、…それに、君が元々臆病でもあるって事も関係しているのかな?」
「……お前の事を好きになるまでは、そんなに臆病でもなかったと思うけどね…」
「そうだね。…私から薬をひったくって三本飲んだ男だ。…となると、女子高生、もしくは、女性に恋心を抱いたという事が、君の臆病の引き金になったかのようにも思う。……まぁ、臆病は置いておこう。…これも、言わば、理不尽の類のような気もするね。…倫理観なんてのも、言わば理不尽だろう。勿論、人と人が秩序立って生きていくには必要な価値観かもしれないが、君と私に至っては、理不尽な壁のような気もする。…悪いとは言わないんだがね…。…君、ただ、私じゃなくても、女性と触れ合うのは怖いんだろう?」
「………怖い? ……どんなものか分かっていないだけって、気もするなぁ…」
「……つまり?」
「……結婚も…んー…、やっぱり怖いのかな…? ……何も考えずに、結婚をするだけって考えると、流れでできるような気もする…。ただ、…自分の身だけで精一杯って節もあるし、……その時になってみないと分からないかな…?」
「……私は? …私と結婚する時はどう思う?」
「……それは、………怖い?」
「……私の何が怖い?」
「………やっぱり、…人を背負うのは難しいのかな…?」
「……それが、もし、私が社会人でちゃんと定職に就いていて、一人ででも生活を成り立たせることのできる人だったら? …君は私との結婚を決意してくれるかい?」
「そしたら、こんな人間はやめておけ、って言うと思うよ」
「んん? …すると、君は自分に不満を持っているという事でいいのかな?」
「……場合によっては」
「……いかんね。…ちゃんと言葉選びを慎重にしないと、普通に感情的になりそうな気がしてきた。……君は、自分に不満を持っている。…という事は、倫理観や世間の目を抜きにしても、まず、君の不満をどうにかしないとどうしようもないというわけだ」
「……さもありなん」
田上が妙な言葉遣いをしたので、タキオンは、少し口角を上げながら、田上の顔をじっと見た。田上は、少し具合が悪そうな雰囲気ではあったが、そこまで感情的にもなっていなかった。すこし陽の光が暑そうだった。
「………君は、自分のどんなところが嫌だと思う?」
「……責任感」と田上はきっぱりと言った。
「…責任感がある所?」
「いや、…ない所」
「……あると思うんだがね。…充分に」
タキオンは、不思議そうな顔をしながらそう言った。田上は、頭を少し掻いた。
「………現に、…ないだろ? …付き合っている人がいる。だけど、結婚する気はない。…ほら」
「……それは、…君が責任を感じ過ぎているから、結婚できないという見方ができると思うがね」
「……でも、責任感が無いからこそ、結婚したくないと思うんじゃないかな? 例え、責任感があったとしても、最終的に、その責任を放棄している…」
「……それは、些か考えすぎだと思うし、どつぼに嵌まっている。…これが暖簾に腕押しだね。…卵が先か、鶏が先かの議論を、今ここでしてもしょうがない」
これによって、田上はすこし口を噤んだ。
「……んー、……まぁ、君は困っていると考えても良いんだろう。…私には、愛してると何度も囁いてくれたからね。好きじゃない事はない。そして、行き着くのであれば、結婚もしたいと思ってくれている。…しかし、私にふさわしい男は自分じゃないと、そう思うわけだ」
「俺でもいいんじゃない?」と田上が冗談めかして言った。タキオンは、その顔を愛情の籠った目でじっと見てから繰り返した。
「俺でもいいんじゃない?」
「……俺でも良いと思うよ」
「……それはどういうことだい?」
「………他の人には渡したくないって事…」
「…ああ。…君、真面目そうに見えて、そういう所があるからな。…まぁ、…そういう所があるからこそ困っているんだろうね。いざ愛してみようと思うと、私が怖くて仕方がない。…そういう感じかな?」
「……そういう感じだろうね」
「……んー…、ちょっと君もお茶目で愛い奴だな。ここ最近そんな顔を見てなかった気がするから忘れてたよ。……それで、話だ」
タキオンがそう言ったタイミングで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。タキオンは、その瞬間に少し不満そうな顔をしてみせたが、諦めたように鼻からため息を吐くと、「有意義な時間だった」と言った。
そして、そのまま田上に抱き着いた。田上は、困った顔をしながらも、嬉しそうに軽くタキオンの体を抱いた。タキオンは、田上の体の男らしさをたっぷりと堪能すると、やがて、嬉しそうにニコニコ笑いながら、顔を上げた。そして、「途中まで一緒に行こうか」と言った。
田上とタキオンは、二人で手を繋ぎながらそのベンチを離れた。
午後の授業を終えて、トレーニングの時間となった。タキオンは、もうすぐ彼氏の家に、二人きりの場所に赴けるのでウキウキだったが、トレーニングの内容自体は調子がいいでもなく、真面目にこなした。タイムの伸びはここ最近よくなかった。しかし、タキオンも――ここらで終わりだろう、と諦めている節があったから、そこまで気にしてはいなかった。ただ一つ気にしている事とすれば田上の様子と、宝塚記念の結果だけだった。
負けたら何と言われるだろうか? と時々考える。しかし、今の田上は多分怒らないだろうと思った。また、真面目な議論に持っていかれるのならば、それでいい。怒られたり、別れ話を切り出されるのならば、タキオンも嫌だったが、それによって田上がまたタキオンと真面目に向き合おうとするのならば、それは自分にとっては得でしかない。
タキオンはもうあんまり勝つ気はなかった。精々惨敗しないように、二位か三位かくらいに調整するつもりだった。掲示板から外れても、田上は怒りはしないだろう。一つ二つのため息は吐かれるかもしれないが、あの人はタキオンにとって良い彼氏であろうとするだろう。あの人はそういう人だ。だから好きになったのだ。
精々、あの人をがっかりさせないために、最低限の努力はするつもりだ。そして、二位か三位などの惜しい順位をとって、「あと少しだったね」と慰めてもらうのだ。いや、慰めてはくれないかもしれないが、少なくとも、落ち込んだふりをすれば受け入れてはもらえる。優勝できなかったのだから、普通の人は落ち込むだろう。自分はあまり落ち込むつもりはないが、甘えるタイミングは用意されている。その時になって、せめて沢山甘えればいいのだ。
なんて言ったって、何度喧嘩をしても別れることはしなかった自分たちなのだから、彼の方も私のことを慈しみを持って見つめてくれるのである。なんとまぁ、寛大で優しくて慈悲深く、彼女のことが大好きな彼氏を私は持ってしまったのだろう。私は世界で一番幸せな女じゃないか。
タキオンはそんな具合でトレーニングをしていた。近頃は暑くなってきたので、水分補給もこまめにしている。休憩時間が来るたびに、タキオンは同じチームメイトであるエスを差し置いて、田上に甘えた。
田上も今は仕事中なので、タキオンの相手だけをすることはできないと分かっていたが、タキオンはできる時間がある限り田上に甘え、ともすると、田上とエスが話す時間すらも強引に切り上げさせることがあった。
無論、できるだけ仕事に支障がでないようにはするが、あんまりエスと親しげにしたり、長い時間話そうとすると、タキオンは猫のように田上の体に擦り寄って、にゃあにゃあと困るか困らないかというギリギリの所で、自分の存在を忘れないようにさせた。
エスが偶に、小バカにしたような目で見てくることは分かっていたが、二人とも仲良くしてほしいと思っている田上の顔を立てて、口論はしないであげた。
エスは勿論、田上のことは善人だと思っていたが、タキオンの事は、彼氏に甘えてばかりのだらしがない人だと思って、少し軽蔑していた。無論、タキオンの走りはやはりGⅠで何度も戦ってきた強者だとの認識は変わっていなかったが、なんだかここ最近は幻滅して、凄いのは田上トレーナーの方だったのではないかと思ったりもする。そして、またタキオンの走りを見ると、ある程度感心はするのだった。
トレーニングが終わると、タキオンは一旦シャワーを浴びに寮に戻った。田上は一人でそれを待っていた。考えてみると、何だか妙なようにも思う。彼女と待ち合わせして、自分の家に一緒に泊まるのである。しかも、その彼女は幼気な女の子である。
そう思った時に、田上は自分の考えを頭から振り払った。――あんまり妙な事を考えてもしょうがない。そう思って、別の事を考えながら、タキオンを待つことにした。
タキオンが寮から出てくると、二人は先週の時のように二人の家へ向かった。タキオンが「私が居ない間は寂しかったかい?」と聞いた。田上はそれにコクリと頷いた。タキオンが愉快そうにニヤニヤとした。
家へと続く道がある。田上はそこを辿って、家へ向かう。両側にはコンクリートの塀があり、道は灰色のコンクリートがある。道は様々に変わる。コンクリートの塀もやがては消えて、お洒落な金属の柵になったり、生垣になったりする。なんだかノスタルジーのようにも感じる。自分の魂を一度上空に飛ばして、もう一度、その空間にある匂いや、光や、音や、空気を最大限に感じてみると、すべての物は懐かしさで埋め尽くされる。あと何回も通るかもしれない道。あと何回かしか通らないかもしれない道。これまで何度も通ってきたような道。これがもう最後に歩くかもしれない道。そのように感じる。
ただ、そのノスタルジーの様なものは空虚で、田上の手には捉え難かった。そのノスタルジーを手に入れるためには、一度死んでしまうしかないような気がした。
田上はどことない空虚と共に、霞みがかった充足感も感じながら、タキオンと手を繋いで、コンクリートの道を歩いた。何だかつまらないようにも感じたし、寂しくもあったし、喜んでもいた。
そして、隣の彼女の横顔をチラリと見た。可愛かった。自分には勿体ないくらいの美人な彼女だった。それから、また道を見つめた。その道に対して、自分がどう思っているのか、田上にはあまり良く分からなかった。
ドアを開いて彼女を先に中に入れた。彼女は、嬉しそうにチラリと田上の顔を見てから、中の方へ入っていった。
「ただいまー」と彼女が言った。田上はそれに「おかえり」と何とはなしに答えた。タキオンは嬉しそうに後ろの彼氏を振り返ると、二人で手を洗いに、洗面台へ向かいながらこう話した。
「まだ、三日しか来てなかったけど、私にとっては、寮よりもここの方が、自分の家だという感じがするよ」
彼氏は嬉しそうな彼女をよそに、気の利かない返事をした。
「そんなことを言ったら、デジタル君が悲しむよ」
タキオンは不満そうに軽く彼氏の顔を睨んだ。彼氏は、平然とした顔付きで、タキオンの目を見つめ返していた。どうやら、タキオンが理想の世界に浸るのをどうしても阻止するようだった。
タキオンは不満だったが、なぜ自分が不満なのかは分かっていた。だから、自分の心を落ち着けなければ、と思った。こんな所でまた機嫌を悪くして、折角の楽しい週末を台無しにしてはいけない。自分は、自分の領分の中で、できるだけ楽しむようにしなくてはならないのだ。
家に帰ってきたのは五時四十五分だった。けれども、田上が眠たかったらしく、今日の必要な買い物には出掛けることはせずに、「三十分寝かせてくれ」と言って、畳の上に寝転がった。
タキオンはそう言って横になった彼氏の周りをうろちょろとしていた。隣に寝転がって本も読んでみたし、田上の体を背もたれにしてスマホもいじってみた。そして、田上が何も抵抗をしないことをいいことに、その脇の下に潜り込んでみたり、手の平を触ってみたり、思いっきり力一杯抱き着いて愛情を表現してみたりした。田上の寝ている表情が少し明るかったので、意識があるのは分かったし、タキオンが周りをうろちょろしているのを嬉しく思っているということも分かった。
三十分後には、タキオンが「圭一君、三十分経ったよ」と田上の肩を叩いた。田上は、少し甘えた表情をして、「一緒に寝よう」と誘ったが、いざタキオンを抱き締めてみると、その十数秒後にすぐ起きて、「買い物行こう」と言った。だから、また二人は出掛けた。
買い物は二人とも順調に行なった。今日の夜から、月曜の朝までの食料を買い込んだ。それから、田上がその食料を購入するためにレジに並ぼうとしているところで、タキオンが「ちょっと待っててくれ」と言って、どこかへ掻き消えていった。田上は仕方がないので、傍にあったインスタントラーメンの山を見つめながら待った。
少し待ったというわけには行かなかった。大分待った。田上が、遂に痺れを切らして「どこに居るの?」と連絡を入れたときも、「ちょっと待ってて」と返ってきたばかりで、田上にはタキオンがどこで何をしているのか分からなかった。――大方、またどこかで何かを企んでいるんだろうな、というのが、田上のタキオンに対する予想だった。
二十分程待った。田上も暇だったので、どこそこを歩いていたら、スマホの方に「どこに居るの?」と連絡が来た。だから、田上が今自分のいる場所を返信すると、程なくしてタキオンがやって来た。少々不満げな様子で「君、彼女がサプライズをしに行ったんだから、ちゃんと同じ所で待っててくれないと困るねぇ」と言った。ただ、本気で不満にも思っていなさそうな表情だったので、田上は構わず「何か買ってきたの?」と言った。タキオンは白い小さなレジ袋を片手に下げていた。
「いや、…それは家に帰ってからのお楽しみさ」
「お菓子?」
「変な予想をして期待を膨らませてもらっては困る」
タキオンが真面な事を言ったので、田上は少し笑ってしまった。
「指輪とか?」
「そんな物今買ってどうするんだい。…それとも、買ってほしいんだったら、飛び切り高い奴を買ってあげるがね」
タキオンなら本当にやりかねないと思ったので、「いやいや、いいよ」と田上は慌てて首を横に振った。
「嫌とは何だい。彼女が送る決意の指輪だぞ」
「今じゃない今じゃない。落ち着け」
タキオンは田上の様子を見て、鼻で少し笑ったが、指輪を送ろうという考えは端から持ち合わせていなかった。
家には二人でレジ袋を抱えながら戻った。タキオンは、田上の部屋の変わりようを、ここでしっかりと見た。まず、冷蔵庫の上に電子レンジが設置されていた。そして、机もしっかりと設置されて、その上にパソコンのモニターがあった。座椅子もその前に置かれていた。タキオンは、「この机や棚を一人で組み立てたのかい?」と聞いた。この家には一人しかいないので当たり前だ。
引っ越しの時に積んであった段ボール箱も、今は大分片付けられて、二箱ほどが部屋の片隅にある程度だった。
「布団はどこにあるんだい?」とタキオンが聞いた。これは、押し入れの中にしまわれていて、田上がその押し入れの襖を開けて、そこにあるのを見せた。タキオンは、田上が一人で生活をしてきたんだと思った。
それから、田上が少しの用事の準備をしている時に、「そう言えば、お前の買ったものって何だったの?」と聞いた。タキオンは、「ああ、忘れてた」と言って、買ってきた大きなレジ袋の横に置いてあった小さなレジ袋を取ってきた。そして、田上の前でそのレジ袋から小さな箱を取り出した。その箱には、白いマグカップが二つ描かれていて、どうやら、一つの対となっているマグカップのようだった。黒猫がそれぞれ二匹、左右対称に描かれていた。
田上は、箱からも取り出されたそのマグカップをしげしげと見つめながら「お前こういうの好きだな…」と感想を言った。
「いやなに。…もうすぐ…というかもう付き合って二か月だからね。…まぁ、この理由は後付けに過ぎないが、もうすぐ二か月だと言うのと、私が君に贈りものをしてみたかったという事だね。日頃お世話になっているからね。…改めて、感謝を伝えたくて…。…ありがとう」
タキオンが少々照れて俯きながら言ったので、空気が妙なものになってしまった。
田上も、戸惑いながらタキオンの横顔を見ると、その口の端は照れによって歪められていた。
「なんでお前が照れてるんだよ」と田上は、妙な空気を打ち壊すために、少しつっけんどんに言った。すると、タキオンも顔を上げて、「仕方がないだろう?」と答えた。
「仕方がないだろう? …こっちも、何だか照れてしまったんだ。……と言っても、私は君に本当に感謝してる。本当に本当に、…何と言うか、…まぁ、優しい彼氏だ。…こんな私を好きでいてくれるんだからね」
「……俺も、何か買ってくるべきだったかな…?」
「…なに、気にしなくてもいい。元々、私は君に贈り物をしたかっただけだったんだ。他意はない。精々、もっと君に贈り物をしてやろうかな、と思うだけだよ。…そうすれば、思い出の品ももっと増えるしね」
そう言ったタキオンを少しの間見つめていたが、やがて、視線の行き場に困って、自分の手元にあったマグカップを見つめた。
猫は一つのカップに二匹居て、それが赤い紐で結ばれて、その中央の方で、紐がハート形にくるんと丸まっていた。これを二つ合わせれば、二つのコップで一つのハートの形が作れるというものだ。
こういうのは、まだ付き合い立ててなければ許されない芸当だろう。田上はタキオンの方のマグカップもちらりと見てみた。すると、黒猫の形が違っていた。タキオンの方は歩いていた。田上の方には歩いている黒猫などいない。それで、タキオンと二人でマグカップを見比べてみると、それぞれ四匹とも黒猫は違う動きをしていた。
これで、どちらが自分の物かという事は分かるわけだ。
タキオンは、黒猫が歩いている方で、田上は、黒猫が手招いている方だ。こうすると、タキオンが自分の方に歩いてきていて、自分がそれを待っているようにも思う。
丁度、タキオンも同じことを思ったようで、その事を田上に説明した。田上は、またマグカップをしげしげと見た後に、――自分の持つ物じゃないだろ、と心の中で言った。こういうのは、年若いOLとか、女子高生女子大生とかが使うものであって、ゲーマーの成人男性が使うべきものじゃない。
その時に、タキオンが近くに寄ってきたので、その心境を話したら、タキオンの方はハハハと笑っただけだった。
夕食を食べ終わった。二人は、食後の時間を楽しんでいた。田上は、座りながらタキオンを前にし、恋人のように密着しながら甘えるように抱いていた。タキオンも幸せそうに抱かれながら、田上の手で軽く遊んでいた。
そんな時に、タキオンがこう言った。
「……明日のデート楽しみだね」
「ああ」と田上は答えた。明日は、午前中のトレーニングの後に、二人でショッピングモールでデートをするつもりだった。
タキオンは、「君とゲームセンターに行きたい」と言った。普段ゲームをしないタキオンだから、どういうつもりなのかと疑問に思ったが、深くは聞かなかった。ただ、「あんまり面白くないかもしれないぞ?」と田上は言った。
しかし、タキオンはニコニコと笑いながら「きっと大いに楽しめるさ」と答えた。どうやら、ゲームセンターでタキオンは楽しむつもりらしかった。田上は、タキオンが――ゲーム好きならどんなゲームでも好きなんだ、と思っているのかもしれないと思った。
そんなことはない。田上なんて、わざわざガヤガヤうるさいゲームセンターなどに行って、ゲームを楽しむほどゲームに飢えてはいなかった。だから、どんなゲームがあるのかすらも知らない。太鼓のゲームはやったことはあるが、そんなに得意でもなし。レースゲームは、家でゲームコントローラーを持ってやるのと、ゲームセンターでハンドルを持ちながらやるのでは、感覚が全然違う。
タキオンは、田上が楽しんでくれるように、ゲームセンターに行きたいと言い出したのではないかと思ったが、ゲーム好きがどんなゲームでも好きだと思ってもらわれても困る。
ただ、タキオンに深くは言わなかったのは、まぁ、自分でも案外楽しめるのではないかと思ったからだ。ゲームセンターには自分が普段しないゲームがあるだろうし、UFOキャッチャーもあるだろうし、ゲームが飽きても種類が沢山あるから、適当に遊んでおけば案外楽しめる。少なくとも、田上が子供のころに父親とよく行った思い出の中では、恐ろしくつまらないということはなかった。
それから、明日の予定について、少し語り合った後、田上はタキオンを抱きしめながら、「今日の昼の話の続きをする?」と聞いた。
タキオンは、幸せそうに「んー」と唸った後、少し考えてから「してみようか」と答えた。
「どんな話だったかな?」とタキオンが聞いた。そして、田上が思い出そうとしている間に、タキオンが自分で思い出して言った。
「ああ、私が理不尽について我慢がならないという話と、君が、自分のことを低く評価している話だ。私が、一人で立派に生活ができる社会人になったとしても、君は――自分の事はやめておけ、と言うんだろう?」
「……まぁ、…実際、支えて行ける自信はないからな…」
「…支えられる自信は?」
「……ないね…」
「……支えられ続けていると申し訳なくなったりするのかい?」
「……どうだろう? ……申し訳なくなるかもね…」
「………なぜ申し訳なくなるんだと思う?」
「………知らない…」
「……まぁ、君はそういう真面目な人間だから、役に立ってなんぼという考えを持っているのかな?」
「……役に立つ気がないのもあるのかな…」
「んん? ……役に立つ気がない?」
「……頑張る気がない?」
「……ふむ。……そうすると、すぐに別れようという思想になるわけだ。…つまり、生きる事を頑張る気がないということになるのかな?」
「……そんな感じかな…」
「だから、…まぁ、君は今はまともに働いているが、下手をすれば、働かなくて、そこら辺で野垂れ死んでもいいという思想になるね。別に、生きること自体に頓着はないのだから」
「…うん…」
「……私なんて、まぁ、…まぁ似たような思想の持ち主かな? …私にとっては、君さえいれば良いもの。君が居るから、この世に生きているようなもんだ。…それで言うと、私もオタクだな。君のオタクだ。私の推しって奴が君だな」
「……そんなお前だから、俺よりももっとしっかりした人を好きになってほしかったんだよ…」
「………んん…、……まぁ、今の言葉でだいぶ掴めたね。君、私のことは好きなんだけれども、生きる事自体に対してそんなに望みを持っていないから、必然的に『生きる』という単語の向こう側にいる私が怖いんだ。私とこれからも一緒に居るためには、これからも生きていくということを決断しなければならない。しかし、生きる事に対しての望みのなさは、君の脳裏にこびりついているものだから、どうしても振り払えない。でも、私の事が好きだから、苦しいんだ。…哀れで愛いやつだね…」
タキオンはそう言いながら、田上の手を慰めるようにさすり、そして、またその手にキスもした。田上は、その柔らかな感触を感じると共に、タキオンへの申し訳なさも感じた。
また、タキオンが話し始めた。
「君のその感情は、多分、生きづらいとはまた違った感情なんだろうね?」
「……多分。生きづらいってのが、具体的にどの感情の事を指している分からないけど、俺のは、そもそも生きる事に意味なんてないと思ってる…」
「………私だってほとんど似たようなものだからな…。…本当に、君が居るから、生きているのが楽しいのであって、君が居なかったら、本当につまらなかっただろうと思うよ」
「…」
「…………私の事好き?」
「…」
「…一回だけでいいから好きだって言ってくれないか?」
「…こんなに抱きしめてて、好きじゃないことがある?」
「……いいじゃないか。君に言われると、嬉しいんだもの」
「……そんな気障なセリフあんまり言いたくない」
「今日はやけに渋るね」
「……別に言葉で言わなくてもいいだろ? もっと強く抱き締めればいい?」
「ただ好きって言うだけだろう? なぜそんなに渋る?」
「……アホっぽいだろ? …それに、…慰み合いはしたくない…」
タキオンは機嫌が悪くなりそうな自分の心を落ち着かせてから、仕方なく「じゃあ私を抱き締めて。もっと私に甘えて」と言った。
田上はタキオンの腹を力強く抱きしめてから、顔をタキオンの髪の毛に埋めさせた。その時になって、タキオンがこう言った。
「ああ、そう言えば、香水を持ってきたんだよ」
「…香水? …何のために?」
「明日のデートのためさ、鈍感君」
「……匂いきつかったりしないの?」
「そうならないようには調整するつもりさ。それとも、香水の匂い嫌いかい?」
「いや、……どんな匂いかにもよるな。…香水って、なんかおばさんっぽいイメージがある」
「おや、おやおや、そうすると、私もその使用を躊躇われるんだが…」
「なんの臭い?」
「柑橘系の匂い。甘ったるいというよりかは、清涼感のある匂いだったな」
「へぇ」
「…確か、キャリーバッグの中にあるはずだから、取り出してみようか?」
タキオンがそう言って動き出したのだが、田上は殊に力を入れてタキオンを逃さないようにした。無論、ウマ娘と成人男性なのだから、その力の差は赤子の手をひねるように歴然としているが、タキオンは唐突に、自分の言いなりにもならずに甘えてきた田上が嬉しくて、自分も甘えた声を出しながら「もう」と言った。
それから、少し恋人同士らしく二人でイチャイチャとしていたのだが、やがて、二人共満足したタイミングでタキオンは田上の懐から抜け出し、香水を取りに行った。
タキオンは、キャリーバッグの所に行った。田上も後に続いて、タキオンが探しているのを覗き込んだ。そして、タキオンが「あったあった」と言って、バッグからオレンジ色の小さな瓶を取り出した。
それから、その瓶の蓋を開けて、二人共匂いが嗅げるようにした。成程、確かにミカンの様な匂いが香ってきた。田上は暫くそれを嗅いでいたが、特にいい匂いとも悪い匂いとも言わずに、真顔のままだった。タキオンは、その表情の変化の無さを見ながら、少し不安になって「どう?」と思わず聞いた。田上は少し首を傾げると「いいんじゃない?」と頼りなげに答えた。
「……君に好かれなきゃ意味のない香水なんだがね」
「……まぁ、…香水って、つけて暫くしてからがいい匂いなんだろ?」
「そうだね。……本当に嫌いじゃない? 明日のデート中につけていくつもりなんだから、デートの間君が匂いに困ったりしたら嫌なんだけど」
「……まぁ、いい匂いなんじゃない? ……正直、匂いなんてなんでも同じだと思ってるからなぁ」
「流石に、ヒトの嗅覚と言えど、全く同じなんて事はないだろう? バラの芳香剤とか嗅いだことはあるだろう?」
「ああ、…バラよりかは、まだこの香水の方が好きかな?」
「……不安だなぁ」とタキオンは彼氏の顔を見つめながら言った。彼氏も香水とはそこまで縁のない生活を送ってきた人間だったので、少し困った顔ような戸惑ったような顔をしていた。