その内に、香水は明日使われる時の為に、バッグにしまわれ、田上とタキオンは元の様に、田上に抱かれ、タキオンを抱いた。
「それで、何の話をしてたかな?」とタキオンが言った。田上は、彼女の首筋に顔を埋めながら、ぼそぼそ小さな声で「何でもいいよ…」と投げ出すように囁いた。
「何でもというわけには行かないだろう?何でもとは。……私が興味があるのは、私の事よりも君の事だからね。…また、君の話をしてもいいかい?」
「……お好きに…」
何だか田上の口調は投げやりだった。最早、もう彼女に甘えきっているように思う。実際に、いつもの田上らしからぬように、タキオンの首筋に顔を擦りつけていた。タキオンだって、嬉しくないことはないのだが、こうなってみると、タキオンの方が幾分冷静だ。自分に堕落しきった彼氏が、真面に自分と話してくれるのかどうか怪しんで、少し困ってしまったが、唐突に、まだ、今日一日の用事は全く済ませていなかった事に気がついた。そして、「圭一君」と声をかけるとこう言った。
「圭一君、私たちもう動かなきゃ。まだ、風呂も皿洗いも済ませていないよ。寝る準備をしてから、また、こうした時間が取れる。ね?」
これに対し、田上は「や」と言って、自分たちが動き出すことを拒否した。そして、もっと強くタキオンのお腹を抱いた。タキオンは嬉しかった。普段、あんまり甘えてくれない彼氏が、今はこんなにも自分のことを欲してくれている。もう、このまま動かなくてもいいかもしれないと思ったが、残念ながら、彼氏の理性が弱まったときはなぜだか自分のほうが理性的である。
タキオンは、「圭一君」と困ったような甘えたような声を出しながら、優しくゆっくりと田上の腕を解いた。田上の腕はそれでも追い縋ってきた。タキオンの服の裾を掴んで離さなかった。これでタキオンの理性の糸も切れて、ちょっとくらいなら問題ないだろうと思うと、田上に抱きつくようにして押し倒した。田上はされるがままに押し倒されて、暫く彼女の体を抱き締めていたが、やがて、はっと我に返ると、「皿洗いをしなくちゃ」と言った。
タキオンは、「私が、それを先に言い出したはずだったんだがね」と言いながらも、田上との折り合いは充分につけたあとだったので、素直に田上と抱き締め合っていた体を離した。
皿洗いを二人でした。二人で、立ち並びながら作業をする様は、まるで夫婦の共同作業じゃないかと、タキオンは思った。そして、自分が妻らしくあるように、田上と静かに会話を交わした。田上は、それに何だか戸惑いを覚えたようだったが、タキオンはこのある種のおままごとを楽しんでいた。
風呂には、先にタキオンが入り、その後に田上が入った。田上が風呂から上がると、タキオンはもうすでに布団を敷き、その中に入っていた。そして、そこから「おいでよ」と手招いた。田上は何だか反抗的な気分だったので、タキオンにそう手招かれても、同じ布団の中には入らず、その横に座ってあぐらをかいた。
タキオンは、瞬きをしてその赤い瞳で彼氏の顔を見つめた。彼氏は、風呂から上がったばかりで気分がいいのか、口の端に笑みを浮かべながらタキオンの事を見つめ返してきていた。
二人共、目で自らの言いたいことを伝え合うかのように、少し見つめ合っていたが、やがて、痺れを切らしたタキオンが口を開いた。
「二人で布団に入ろうって話だっただろ?」
「……もう寝るの?」と田上が聞き返した。
「まだ寝ないのかい?」
「まだ、…寝るには早いだろ?」
「大して遅くもないよ」
「……少しゲームしててもいい?」
「…ああ」
そう言うと共に、田上は自分のパソコンの方に向かい、タキオンもそれに続いて、田上の横に座ってモニターを見た。
田上はどうやら、オンラインゲームをするらしかった。起動している間、頻りにチラチラと隣のタキオンを気にしているそぶりを見せたが、タキオンはそれには構わず、「これはどんなゲームなんだい?」と聞いた。
「ただ銃で撃ち合うだけのゲーム。ストーリー性もない。…暇潰しみたいなもんだよ」
「暇潰しするくらいなら、私と話してたって良くはないかい?」
「お前と話すときは考えないといけないけど、ゲームは考えなくてもいいから暇潰しになるの」と田上は言い返した。
「……そのゲームは上手いのかい?」とタキオンは構わず、別の事を聞いた。
「…上手いかって言われると、…中の上か、上の下かって所だね」
「じゃあ、君、あんまりゲームは上手くないのかい?」
「日本一を取れるくらい上手いと思ってもらわれると困る」
「ふぅん?」
「…多分、お前もちょっと練習したら、簡単に俺より上手くなれるよ」
「……そんなに簡単かい?」
「いや、お前が凄いから」
田上は、そう言いながら、上空から地上に向かって、パラシュートで下降していた。どうやら、これが噂のバトルロワイヤルゲームらしい。昨今流行っているらしいが、話題に聞くばかりで、タキオンが見るのは今回が初めてだった。田上の方は、タキオンが隣だと気になるらしかった。結局、そのバトルロワイヤルゲームは、一試合して、二位を取ってやめた。タキオンは凄いじゃないかと田上を褒めたが、どうも緊張して上手いことできなかったらしい。
その次に、田上は、何だか良く分からないゲームを始めた。これは、どうやら牛を育てて乳を取ったり、攻めてくる敵から拠点を守ったりするゲームらしい。
田上は、「今しているのは、何々」とタキオンに説明しながらゲームをしてくれたが、タキオンには分かるようで分からなかった。ゲームの内容はある程度分かったのだが、何が楽しくてこれをやっているのかが分からなかった。その事を田上のほうに尋ねたら、これも「暇潰しにやるゲームだよ」と答えられた。そして、また、このゲームに不満を持ったらしく、別のゲームに切り替えた。
今度は、タキオンの方にコントローラーが渡された。田上の方もコントローラーを持って、どうやら二人でゲームをするらしかった。二人で作業を分担しながら、色んな物を作るゲームだった。ロボットだったり、戦車だったり、ゲーム機だったり。それだけでなく、偶には絵本を作ってみる事もあった。
その作る場所も様々で、初めは、工場などの簡単なところだったが、いつの間にか浜辺で作業をしていて、潮の満ち引きのよって、材料が流されてしまって、二人で慌てる羽目になった。
ゲームをそれ程したことが無かったタキオンでも、操作は単純だったし、やる事も明快だったので楽しめた。そして、何より田上と二人でする協力ゲームなので楽しかった。
田上は、それなりに楽しんではいたが、自分がこのゲームを始める前に想像していたほどは楽しんではいなかった。勿論、タキオンとしていたからそれなりの楽しさはあった。タキオンもこのゲームをした事が無かったから、反応も新鮮だったし、彼女と初めて一緒にするゲームだったし。
しかし、もっと楽しめるような気がしていたのである。決して楽しんでないとは言わないのだが、もっと楽しんめるような気がしていたのだ。田上は、どことないつまらなさを感じながらも、それなりの楽しさによって、タキオンとゲームを続けた。
それから、一時間近くそのゲームを二人でやった後、切りのいいタイミングで二人はゲームを終わらせた。タキオンは、少し頬を紅潮させて、興奮した様子だった。何と言っても、ゲーム中のタキオンは田上よりも騒いでいたくらいだった。ゲームの中で思いがけない事が起こった時などは、「あっ!」と結構大きめの声が出ていて、隣で見ていた田上はそんな彼女を面白がりながらプレイしていた。
タキオンもゲームが終わった後にその事に気が付いたようで、少し恥ずかしそうに微笑みながら「少し興奮し過ぎてしまったね」と言った。田上はそれに「可愛かったよ」と返すと、タキオンはまた事に恥ずかしそうに微笑みを作った。
二人は、食卓の電気を消して、トイレに行くなどして、寝る準備はしたが、パソコンの部屋の電気は消さなかった。常夜灯にもせずに、ただ、二人だけが居る空間の中で、少しひんやりとしている夜風に当たって、ゲームの熱を冷ましていた。
今度は、田上も毛布の中に、タキオンと一緒にくるまっていた。少し眠たそうだったが、タキオンの方は、まだ元気があった。だから、カーテンの隙間から風が吹いて、カーテンがふわりふわりと触れるさまを見つめながら、タキオンは田上とまた話をしたいと考えていたのだが、もう夜も深まってきたので、そろそろ寝そうな雰囲気が漂っていた。
そうやって、タキオンがぼんやりとしていると、田上が唐突にこう言った。
「タキオンは、…ふらつく俺は嫌い…?」
タキオンは、そう言った田上を少し見つめてから答えた。
「………そういう慰み合いはしないんじゃなかったかな?」
田上は、俯いていた顔を上げて、タキオンの方を仕方がさなそうに見つめた。
「……お前にはダメだなんて言っておきながら、俺はそういう事をしたがる…」
「じゃあ、君の代わりに私がダメだと言ってあげよう。…もう眠たいかい? …もう寝る? 寝坊助君」
「……いや、…まだ話そう? …お前の声聞くの好き…」
「…おや、それは声を褒められたという事でいいのかな?」
「そう…」
「…そいつはありがたい。あんまり声を褒められたことはなかった」
「……そうなの?」
「……いや、…声を褒められることは稀だよ。…美人だと言われたことは何回もあるがね。…声は、…少々覚えが無いね」
「……落ち着くいい声なのに…」
「ふふ…、…君にはそう聞こえているのか…」
「……そう。…その上、話す言葉も優しいから、余計に落ち着く…」
「そうかい? そうなってくるといよいよ疑問だよ。……特に、…優しい言葉をかけたつもりはないし、……酷い事もたくさん言ったけどね…」
「そんなの計算に入らないよ…」
そこで、不意にタキオンは、火曜に見た夢の事を思い出した。その内容は今ここで言うつもりはなかったが、そこから関連したことを一つ聞いてみた。
「……私の事を、傲慢とか、横暴とか思ったりしてない…?」
「……んー…、……喧嘩した時とかは、…まぁ、そう思う時もあるよ…」
「そうか…」
「…でも、…そういう所含めても俺は好きだよ」
そう言った後に、その言葉を発した自分が嫌になった。田上は、またいつの間にか自分たちが慰み合いの罠にはまってしまった事に気が付いた。
タキオンは、少し嬉しそうに微笑むと、「ありがとう。私も好き」と言った。そして、急に、腹でも痛くなったかのように少し緊張した表情を田上がしたから、タキオンは聞いた。
「…やっぱり嫌い?」
「…違う…。……これ、…慰み合いだと思わない…?」
「…ああ、……好きくらい言っても良いと思うんだけどね…」
「……俺はあんまり言いたくない」
「……慰み合いになるから?」
「……いや、………俺がそれを言うのが嫌だから…」
「…嫌?」
「…嫌」
そこで一つ、タキオンも田上の心を考えてみて、ある程度の所までは、その心を察した。
「ああ、…またさっきの話の続きだ。……生きる事…、私を好きだという事、…生きる気が無いという事…。これだろうね。存在性と非存在性の両方の属性を持ち合わせた責任感によって、生きる気が無い自分に私を巻き込みたくないから、好きだという事を言いたくないという事でいいのかな…?」
「…そんな感じだと思う…」
田上は、多少落ち込みながらそう答えた。タキオンは、カーテンを見つめていた体を、本格的に毛布の中に入れ直すと、田上の頬を撫で、それから、つい出来心で、その耳にも手を伸ばした。田上は、少し居心地悪そうにしたが、耳に触れた手を振り払う事はしなかった。だから、タキオンはヒトの耳の感触を味わいながら、田上に話し続けた。
「うーん……、巻き込みたくない……。……巻き込まれるつもりはないがね」
「……俺がもし、お前と結婚するまでにでも、結婚した後にでも自殺したら、その分お前を俺の不幸に巻き込んだことになる…」
「………自殺の予定があるのかな?」
「………知らない…」
「……そもそも、自殺なんて余程追い詰められていなきゃできないものだと私は思うがね。…その点、君には私がいる限り余程追い詰められるという事はない。いつでも、自分を好きでいてくれる異性が居るという事は、君にとって良く働くはずだよ。…こうやって、同じ布団の中に寝れば、それなりに心も安らぐ。…自殺はしないはずさ」
「……でも、結婚は?」
「結婚?」
「結婚しないまんま、今の状況を引きずって、お前を三十代とか、四十代とかもう戻れない年齢にしてしまったら?」
「……これは、感情的な議論になっていないかな?…暖簾に腕押しだ。……私達が今すべき議題は……、生きるとはなんぞや? …しかし、これではあまりに漠然としすぎているような気もするな…。……生きる事……に対しての、世間一般の人々が思う望みって、君は何だと思う?…事実ではなく、予想でいいよ」
「……分からない…」と田上は耳を触ってくるタキオンの手を、首を振って払おうとした。だから、タキオンは素直にそれに従って、手を退かせた。すでに、もう充分に堪能した後でもあった。
「……長寿、…結婚、………もうすでに何もないな。…こんなものかな? 生きる事に対しての望み……。……そんなにないものね…。…楽しい事をして生きるって言ったって、…それが生きる理由と直接結びつくかというと……、…自己の表現という論も聞いたことがある。……生きてきて、これから何がしたいかだろ?……私は君と結婚したい。…そして、家族で幸せに暮らしたいと思っている…。他の人はどうだろうか…? 結婚をしたくないと思っている人がいるのならば、その人は、今後の人生で何をしたいと思っているのか…。…そもそも、結婚したくないってどういうことなんだろうね? 無論、君のように、もう生きる事を諦めているから、結婚なんてしても意味がないと思っている人もいる。…自分が不細工だからと、結婚しない人もいるだろうね。……あとは、もうすでに離婚した後で、男女問題はもう懲り懲りだと思っている人もいるだろうが、これは少しテイストが違うかもしれない。…元々は結婚したがっていて、その夢を叶えた後で失敗した人だろうからね。…あとは、また君のように単純に人と向き合うのが怖いという人もいるだろうね。 まぁ、そこにはコンプレックスが潜んでいるのかもしれないが、今は、表面上の理由を挙げられる分だけ、とりあえずさらってみよう。……子供が嫌いだという人も私は見たことがあるが、私はどうも信じられないね。…無論、無礼なのなら私もあんまり好かないが、…子供ができたら、それが自分の子供だったら、自分の命よりも大切にしたいと思うんじゃないのかな?」
「……どうだろう…」
「……少なくとも、自分が愛した人との間に生まれる子供なのだから、それは、自分たちの愛の塊だと言ってもいいだろう。その人を愛した結果生まれる子供なのだから、……子供は愛ゆえに命を授かるんじゃないのかな…? …いや、……子供を産まないという選択肢? …愛し合っているのに? …愛の結晶なのに?」
そこで唐突に、田上は体を動かすと、開けていた窓を閉めた。そして、また無言のうちに布団に潜った。
「……子供が嫌いだから、子供を産まないのだろうか…? …どうも、その感情が私には分からないな…。…その人はうるさいから嫌いと言っていたが、…夜泣きだろうか…? …夜泣きの事を気にしているのだろうか…? ……いや、そもそもね?…圭一君聞いてる?」
タキオンは、布団に潜って俯いたまま動かない田上に向かってそう言った。
「…聞いてるよ…」と田上は答えた。
「…そもそも、結婚というのは人生の目標だと思わないかい? 金を稼ぐとか、長く生きるとか、そんな事よりかも実のある目標だと思うんだよ。…子供なんて、産んで何年も何年も手塩にかけて育てていくものだろう?」
「…そうだね…」
「…そうだろう? …生きる事を目標にしたって、私達はもうすでにそれができている。――自分は自分のことだけで精一杯で、ギリギリのところを生きてるんだよ、という君のような人間だって、生きているというその事自体はもうすでに余裕で達成している。…それとも、君は明日急に死ぬのかい?」
「……死ぬかもね…」
田上がそう答えると、タキオンは、叱るに叱れない自分の子供を見るような目付きで、田上を見た。
「そんなことはないだろう? …いいかい? 君がくり返し私に言ったように、理性で考えてみてくれ。君が明日する予定は思い描けるだろう?」
「……起きる」
「……その時に私にキスをしてみてもいいが、その後は?」
「……朝食を食べる」
「そして? …昼まで一気に言ってみてくれ」
「……出掛ける。…トレセンに着く。…トレーニングする。…タキオンと家に帰る。…デートの支度をする。…出掛ける。ショッピングモールに行く。昼食食べる。二人で中を歩く。……」
「まぁ、そんなもんだろう。楽しい事が盛り沢山さ。…楽しみ過ぎるね。…それで? 今の君の予定に自殺するなんて項目が一欠片でもあったかな?」
「…ない」
「…だろう? 明日なんて、二人でデートの日なんだから、自殺なんてしてる場合じゃないよ。…で、何が言いたいんだったかな? ……ああ、君は、明日も万全で生きているということだね。君は、生きることに不安を持ってるが、そんな事デートの約束がある明日には全然関係がなく、むしろ、君が楽しみなくらいだ。…私は楽しみだが、君はどうかな?」
「……んー」と田上は眠たそうに唸った。「…楽しみ…」
「だろう? だから、生きる事自体は目標にはならないんだよ。死んでいないんだから…」
すると、田上が唐突に「半分死んでるようなもんだよ」と反論してきた。タキオンは、少し驚いて、その毛布のなかに埋められている黒い髪の毛を見た。その髪の毛はじっとして動かず、今にも寝てしまいそうな雰囲気だった。
それを見てとると、タキオンは――ここでこれ以上話しても無駄だろう、と思った。それに加えて、自分の頭も眠気に侵されて、思考がまとまりにくくなっていた。だから、もうタキオンは明日のデートのことを考えた。そして、そのデートを楽しいものとするために、今日はもう寝不足にならないうちに寝ることにした。
タキオンは、「もう寝ようか」と田上に声を掛けた。田上は唸るようにうんと頷いた。だから、タキオンは立ち上がって部屋の電気を消した。暗くなったせいなのか、部屋はより一層静かになったような気がした。
そこに、田上たちのベランダの前の通りを、自動車が大きな音と眩しい光を放ちながら通り過ぎて行った。そして、また一層の静寂が訪れた。
タキオンは、田上の横の毛布にふたたび潜り込みなおした。部屋の暗さが何だか恐ろしくもあり、二人を現実から分離して、包み込んでくれているようでもあって、多少の居心地の良さも同時に感じた。
タキオンは、田上の匂いとその体温を感じながら、ふふふと笑った。そして、二人の間に将来起こるかもしれない壁を想像すると、少し不安になって、田上の手を甘えるように強く握った。田上は、目を瞑りながらも、握ってきたタキオンの手を優しく握り返してくれた。
朝は二人共セットしていた目覚ましで目を覚ました。今日は土曜なので、そこまで早く起きなくてもよかった。だが、万が一寝過ごしても困るので、七時に目覚ましをセットしていた。
二人共、目覚ましが鳴ると、う~んと唸った。そして、タキオンが鳴っているスマホに手を伸ばしたので、田上はじっと毛布の中に体を横たえていた。その後に、タキオンは目を瞑っている田上の顔を見てから、「トイレ…」と呟き布団から抜け出そうとした。
すると、田上が動いて、抜け出そうとしているタキオンの服を掴んで放さなかった。タキオンはう~んと困ったように眠たそうに唸ってから、「こら」と言って田上の頭をやさしく叩いた。田上は眠たそうにしながら「愛してる…」と呟いた。
タキオンはそれに頬を緩めたが、こちらはトイレに行かなくてはならなかったので、「また戻るから放してくれ。こっちはトイレに行きたいんだよ」と言った。田上は「んー…」と唸ってから、数秒後に手を放した。
タキオンはトイレに行って戻ってくると、また田上の布団に潜り込んだ。田上はまだ目を瞑って眠っている様子だったが、タキオンが布団に入ってくると、その腕を動かして、タキオンの事を抱き締めた。そして、甘えるような声で好きだと言った。タキオンは、嬉しそうに微笑みながら、田上の腕に抱かれて小さく丸くなっていた。
暫く二人はそうやって、布団でじっとしていたが、やがて、田上が寝惚けから目を覚まし始めると、タキオンを抱きしめる腕の力も弱くなって、最後には、解かれた。タキオンは半身を起こした田上を、名残惜しそうにしつつも平然とした表情で見つめた。
田上は、布団の上で胡坐をかいてまだ少しぼーっとした表情だったが、不意にタキオンに目を留めると、少しの間見つめてから、「愛してる」と事も無げに言った。タキオンは、咄嗟の事だったので、上手い事反応できずに彼氏の目を見つめ返した。田上は、ふいと目を逸らすと、一つ欠伸をしてから立ち上がった。その頃になって、――自分はなんであんなことを言ったんだろう、と少し嫌になっていた。
田上は髭を剃ったり、顔を洗ったり、服を着替えたりして、朝の支度をした後に、食卓の方に向かった。台所では、田上より一足早く着替えを終えたタキオンが、自分の分の目玉焼きと田上の分の目玉焼きを焼いていた。その目玉焼きの下に食パンを置けば、今日の朝食だった。
田上は、タキオンが調理しているフライパンを覗いた。上手い事目玉焼きが焼けている。田上がその事に感心したのを察したように、タキオンは「目玉焼きを焼くことくらいお手の物だよ」と言った。田上は、隣に立っている女性を見やってから、特に何とも言えなさそうな表情で、また食卓に座った。
程なくすれば、タキオンが目玉焼きを乗せたフライパンを持ってきた。そして、事前に田上が準備していた皿の上の食パンに、目玉焼きを乗せた。これも上手いこといった。タキオンは得意気に田上の顔を見やりながら、「私が主婦になる日も近いね」と言った。
そうした後に、田上は、少しタキオンが怖くなった。主婦なんて言葉はタキオンのためにあるのであって、自分の為にあるのではない。田上は、タキオンの覚束ない未来を予想して、何とも言い難い表情を見せた。
朝食を食べ終わると、一先ず二人は皿を洗って落ち着いた。二人で、ベランダの外に見える公園を、スカスカの生垣越しに見つめた。子供らがもう幾人か走って歩いてボールを蹴って、楽しそうに遊んでいた。子供の笑い声がここからでも聞こえる。ただ、それ程うるさくはない。
タキオンは、マグカップに注いだ紅茶を飲みながら、「美味しい…」と呟いた。それから、隣の田上を見ると、「君も飲む?」と聞いた。田上はあまり紅茶の気分ではなかったし、タキオンの紅茶は田上には甘すぎるから、首を横に振って断った。タキオンは、断られたことについて特に文句も言わずに、また外を見つめた。
すぐ前の通りを、白髪のお婆ちゃんがよぼよぼと歩いて行った。その時は、二人ともなぜか息を潜めた。お婆ちゃんがこちらに気が付いて無さそうだったし、今は、二人だけの一時だったからかもしれない。
田上はお婆ちゃんが歩き去って行くのを見送ると、息を吐いて、タキオンの脇腹をそっとつついた。タキオンは「なんだい?」と声を出した。田上は、「なんにも」と答えて、公園の方を「ほら」と指差した。公園の方にも何にもなく、ただ田上がタキオンの気を引きたくてつついてしまったのを誤魔化すためだった。タキオンは、田上を何とも言えなさそうな顔で見やると、また一口紅茶を飲んだ。
そんなに悠長にしている暇もなかった。タキオンも紅茶の最後の何口かは、一気に飲み干さなければならなかった。少し経つと、田上がもう行こうと言ったからだ。そして、二人は準備を整えると、トレーニングに向かうことにした。
トレーニング場まで着くと、もうマテリアルとリリックはそこで待っていた。エスはまだ来ていなかったが、まだトレーニングの時間の十分前なのだから問題はない。田上は、タキオンと二人で土手に腰を下ろしながら待っていた。
やがて、約束の時間の三分前にエスはやって来た。土手に腰を下ろしてる田上に近づくと、「まだトレーニングは始まってないですよね?」と声をかけてきた。田上は、それにうんと頷くと、自分も立ち上がった。タキオンも、田上よりかは幾分気怠そうに立ち上がった。そして、田上の一歩後ろを歩きながらマテリアルとリリックが立って話している所へ向かった。
今日も予定通りにトレーニングは運ばれた。ただ、今日は少しタキオンのやる気が感じられなかった。終始表情は気怠げだった。いつもならば、もう少し真面目に取り組もうという意志を持って、真面目に前を見据えながら走っていたが、今日は時折空を見るなどという集中力の無さが見られた。田上は、それを――デートのせいかもしれない、とも思ったが、――宝塚記念が近づいてきているからかな? とも思った。
田上の予想は外れてはいなかった。タキオンが自分自身に対して感じられる事と言えば、――やる気が起こらない、くらいなものだったが、田上が考えた二つの予想は関与していそうな雰囲気はあった。ただ、やる気がないなりにタキオンはしっかりとトレーニングはこなした。効率はあまり良くなかったが、それでも、トレーニングを終えればやってくるデートの為と耐え忍んで、田上に言われたこと全てをやった。田上は、そんなタキオンに無理をさせないために、少しの調整は施した。
トレーニングが終わると、二人はチームのメンバーに別れを告げて二人でのんびりしながら帰路についた。大して時間が押しているわけでもないので、急ぐ必要は特になかったし、それどころか、できるだけのんびりのんびり歩こうとした。別に、申し合わせたわけではなく、二人共そのような気分だった。
何かにつけ、興味を引かれてみたり、暑さを帯びてきた陽の光を感じてみたりした。そこでした会話の中で、二人はもう時間が六月まで経ってしまったということに気が付いた。二人でそれぞれ早いもんだと時間の流れを感じた。
二人が初めて出会ったのは、もう本格的な夏も近いこの頃である。あの頃は二人共付き合うなんて思いもしていなかった。ただ、始まりそうな新しい日々に期待感を募らせていただけだった。
それなのに、行き着いたところは要りもしないことに悩まなければならない沼だ。田上は、自分の理想を考えてみた。一番は、タキオンのことなんて好きにならずに、タキオンから告白されてもきっぱりと断って仲良く良好なトレーナーとウマ娘という関係を続けていることだ。
その後に、――いや? と心の中で反論した。
――自分の一番身近な人からの告白を断って、そのまま良好な関係を続けられるだろうか?
田上には肯定しがたかった。もし、日本ダービーや菊花賞の頃に告白されたとすれば、そのときにはもう既に両者にとってお互いが一番身近な異性であり、人間だったように思う。タキオンがどうかは知らない。タキオンにとって一番身近な人間は、もしかしたら、デジタルとカフェがそうだったかもしれない。それでも、田上はタキオンの生活圏の中で十本の指に入るくらい身近な人ではあった。それに加えて、タキオンだって一人の人間だ。田上に告白するというのならば、それなりの覚悟を用いてするはずだ。――それともしないだろうか? と疑問に思って、田上は隣のタキオンの顔をちらりと見た。タキオンもちらりと見返した。両者は目を見合わせたが、何も話さずに、やがて、田上が目を逸した。
――タキオンは冗談で付き合ってくれと言うだろうか? …言わないような気がする。それとも言うかもしれないとも思う。まだ、菊花賞以前の頃はそう言ったかもしれない。…実験と称して、付き合ってくれと頼んでくるだろうか? その時、自分はそれを了承してしまうのだろうか?
田上はじっくりじっくりと考えた結果、自分はタキオンと付き合うということを決断してしまうかもしれないと考えた。あのとき既に自分はもうタキオンの事を好きになっているかもしれなかった。あの時とは、タキオンと気心が知れるくらいに仲が良くなった頃である。だから、皐月賞前後と言えるかもしれない。
その頃にはもうすでに仲が良かったし、タキオンが傍にいることも慣れている。それに、タキオンの言う事にそこまで抗うような自分じゃなかった。また、タキオンの事も実際に尊敬していた。ただ、皐月賞頃はまだ中坊のような気がしてたし、してなかったような気もする。
と言ったような具合で、田上の心は中々定まらなかったが、――ありもしないことを考えているのだから定まらないはずだ、と気が付いたのは、電車に乗る前に、少しタキオンに話しかけられてからだった。それでも少し、田上は今の状況が嫌だったから、もぞもぞと居心地の悪いような気分になっていた。
電車に乗りながら、目の前に田上に背を向けて立っているおじさんの見事なバーコード頭をちらちらと盗み見ながら田上はまだ考えていた。タキオンと何にも悩まない世界に居られたらという妄想に浸っていた。
そもそも、タキオンが自分のことを好きになるわけでもない。無論、今は好きになってくれているが、それはなにか…気の迷いであり、年上の男に憧れたからとか、弱くなった田上を助けたかったからじゃないかと思っていた。
今は好きでいてくれているのは、その間に間違った愛情が育まれたのじゃないかと思う。言わば、タキオンは愛してはいけない人を愛してしまったのだ。田上は、タキオンの事を、――悪い男に騙された哀れな女だ、と思っていた。
その次にまた、タキオンが田上の事を好きにならなかった世界線の事を思い浮かべた。勿論、ありもしない妄想だと分かっているから、先程と同じことは考えなかった。ただ、先程よりかもっと複雑で曖昧なものとなった。
それは、今のように仲良しでありつつ、将来も約束していて、幸せなまま過ごすことだった。つまり、田上の脳内が幸せになればいいのであって、それ以外が変わらなくてもいいというものだった。
だから、もっと説明してみれば、田上の脳内が能天気になればいいのである。特になんにも気にすることはなく、彼女ができても無頓着、好きだと言われても、「ああそうなの」の一言で済ませればいいのである。
ただ、そんなもので自分は幸せなのだろうか? と思った。自分は、タキオンを真っ向から愛さないといけないのである。その行為や感情によって紡ぎ出される幸せを享受したいのである。だから、今、田上がタキオンを愛しているような、大切に思っているような感情は必要だ。その状態のまま、なんにも気にしなくなるのである。
――そんなことが可能だろうか? と田上は考えた。タキオンを大切にしたいという感情を抱いている以上、ほとんど自分と同じような存在である。自分からがらりと変えた人格を妄想するなら容易いが、自分を少しだけ変えたとなると、途端に妄想の力が薄れるように思う。それがほとんど自分なのだから。
田上はこの次にまた、タキオンが自分を好きにならなかったら、という妄想に戻った。しかし、妄想は判然としない内に、電車から降りることになり、途切れた。田上は、少しがっかりした。
電車から降りて、駅から家までの道を歩き始めながらタキオンが田上に話しかけてきた。
「さっきから、妙にむっつりとしているが、なにか考え事でもあるのかな?」
田上はタキオンの顔をじっと見つめながら、どう答えようか悩んだ。そのまま言うと、また彼女を傷つけてしまう可能性があったし、傷付かなくてもまた変な話になる可能性もあった。
田上は、今は真面目な話をしたい気分ではなかった。けれども、嘘もつきかねて正直にも言いかねて、田上は「お前の事…」とぼそりと答えた。タキオンは、「私の事?」と聞き返した。
「私について何を考えていたのかな?」
「………特に…」
田上が答えたがっていない様子をタキオンはじっと見ていたが、次にはこう言った。
「………特に、何かな?……私が可愛いとか?」
「……そんなんじゃないよ…」
田上は、タキオンの冗談に少しだけ微笑みながら、そう言い返した。
「……今日のデートが楽しみ?」
「…」
「……まぁ、大方、君がそんな顔をしている時は悩んでいるときだろうからね。…なんだい? 私に話してみたまえよ」
「……別に話すほどのことでもないよ…」
「……んん…。…ちょっとくらい私に話しても良さそうな気はするがね。…なんて言ったって、これまでどんな君の汚いところを見せられても、受け入れてきた彼女だからね。いくら年下だと言ったって、君が私以上に信頼を置いている人は私以外にいないもの」
自信満々にそう言ったタキオンの顔を投げやりな表情で見やると、田上は「どうだか…」と答えた。タキオンはそれに少々興奮気味な様子になった。
「おやぁ? 感情的にならないで話をしようって言ったのは君じゃないか。私と話をする気はないってのかい?」
「……そんなに価値のない話だからだよ」
「じゃあ、少し雑談がてらに私に話してみたまえ」
「………お前と付き合わない未来があったらなぁって…」
「……私と付き合いたくないと?」
そう言われると、田上はタキオンの顔をじっと見つめた。
「……そんなんじゃないよ…。…ただ、……苦労したくないなぁって話」
「……ふむ…。……分からなくもないし、…私がそれに解決を授けられるというわけでもないがね…。…私の事を好きって言うのはイヤなんだろう?」
「…まぁ…」
「…でも、嫌いではないんだろう?」
「…まぁ…」
「うーん…。……うん…。…なんと言うか…こう…、…言ったところでどうしようもないがね…。…素直に事が運んでいたらと思うよ。…別に、この出来事において、全ての責任を君だけが負っていると言ったわけじゃないがね? …優しく触れ合える時間が、どんなに愛おしいか…」
田上はそう言ったタキオンの顔を見た。タキオンはチラリと田上の顔を見返してから、前からくる通行人を避けるために、また前方に目を向けた。
その人を避けた後に、田上は少し話す気が起きたので、タキオンにこう言った。
「………お前って……」
「なんだい?」
「……年上が好きだったりする?」
「…好みの幅を決めたことはないがね」
「………俺の事って…、どう思う?」
「…好きだが?」
タキオンが、――何を言っているんだろう?この人は、という目付きで田上を見てきていた。
「………頼れる人間が好き?」
「…頼れる人間…? ……んー…、別に、…嫌いではないがね…」
「……頼れない人間は?」
「……そりゃあ、頼れないんだから、信用できない人間ということだろう? 私は、信用できない人間を好きになったりはしないよ」
「……守ってあげたくなる…。いや、……弱々しい人間? …例えば、男の場合なんかは、バリバリのキャリアウーマンなんかよりかは、自分を頼ってくれる、とか、自分に甘えてくれる人間を好きになったりする人がいるけど、」
「君の事じゃないか」とタキオンが口を挟んで来たので、田上は多少不快そうな表情をしたあと、また話を続けた。
「俺はどうでもいいけどさ。…タキオンは、自分に甘えてくれる人間を好きになったりはしないの?」
「現に今、好きになっているだろう?」
――確かに、と田上は納得してしまった。田上は、タキオンが、年上のじぶんに憧れて間違った感情を抱いてしまったのだと思ったが、考えてみれば、自分とタキオンが付き合い出すきっかけになったキスも、自分が弱ってタキオンに甘えた時にされたものだった。
だが、またそこで別の事を考え出した。
タキオンが、弱い自分を守ることが好きで、付き合っているのではないのだろうか?ということだ。
「………じゃあ、……甘えてくれる人間に依存してたりしない? ……なんて言えばいいかな…? ……甘えてくる人間を断れなくはなってない?」
「…んー…、君の事は愛しているがね?」
「……だから、無理に付き合おうしたりしてない? 本心じゃないのに付き合ったりしてない?」
「…君と過ごすのは楽しく思っているがね。君も私に優しくしてくれるし…」
「……じゃあ、……俺の事頼りにしてない?…俺しか頼れる人は居ないって思ってるだろ?」
これは図星だったし、これまでも言ってきたことだった。
「ん〜」とタキオンは唸った。「……君は勿論頼れる人だが、…一番好きな人を一番頼って何が悪い?」
「……この世に男は俺一人だけじゃない。………それに、頼りになるから付き合うっていうのもな…」
「じゃあ、何が理由で人は付き合うんだい?」
二人は、感情的になりそうなギリギリのところで話を続けていた。今、その線を越えていないのは、辛うじて、タキオンが理性的な話し方をしていたからである。
「…愛があるから付き合う」
「……ちょっと、不安に流されそうになりすぎてないかな? …少しお互い冷静になろう。なにせ、この後、大切な大切なデートが待っているんだ。…この話は一旦やめよう」
そう言われて初めて、田上も自分がすこし興奮していたことに気が付いた。そして、ちょっと反省もしたから、事態は無事に収まった。
道中でタキオンが田上に自分の不安を話した。
「あの香水どう思う?」
「…香水?」
「そう…。…何だか不安になってきたよ…」
「…つければいいんじゃない?」
「そりゃあ、言うのは簡単だろうがね。…君に万一臭いだなんて思われでもしたら…」
「臭くても全然問題ないよ」
「そりゃあ、そう言えるが、私はずっと臭いのに悩ませられ続けていたら、楽しめるものも楽しめなくなると思うね」
「…じゃあ、ほんのちょびっとの、気休め程度につけてみたら? …香水がどんなものかは良く知らないけど」
「……うーん…」とタキオンは言いながら、少し困ったように首をポリポリ掻いた。「……君に匂ってくれなきゃつけた意味はないんだがね…」
「…匂いで困らないほうがいいんじゃない? …っていうか、タキオンは香水これまでにつけたことはないの?」
「いや、あるにはあるんだが、…その時は君は居なかったからなぁ…」
「…俺が居るから、失敗はできないと」
「そう。…暑くなってきたな…」とタキオンが唐突に空を見上げながらそう言った。田上も空を見上げた。快晴だった。白い雲が所々に浮んでいたが、情景を構成する良い材料となっていた。
「嫌な季節だ…」とタキオンはまた呟いた。そんなタキオンを見ながら、田上は口を開いた。
「俺は好きだよ?」
「そりゃあ、ヒトの君なら体温も高くないからいいだろうけどね。私は、暑さに弱いんだ。…そう言えば、あの家にはクーラーがないね? 早くつけておかねば、私が暑さで焼け死ぬぞ」
「…集合住宅って、クーラーつけてもいいのかな?」
「いいに決まっているだろう?」とタキオンがぎょっとした顔で言った。「健康で文化的な最低限度の生活に必需品たるクーラーだぞ? 何が楽しくて、そんな人生ハードモードを楽しまなくちゃいけないんだ」
「俺が昔団地に住んでた頃は、クーラーなんて使わなかったけど」
「ええ!? 鹿児島と言えば、熱帯雨林だろう?」
「そんなに赤道に近くはない」
「それでもここよりかはずっと赤道に近いさ。そんなところでクーラー無しなんてどうかしてるんじゃないか?」
「俺が子供のころは平気だった」
「ええ~? …ちょっと待ってくれ。日本の夏はジメジメして蒸し暑いんだ。江戸時代の暮らしをしたって無理があるよ」
「別に、つけないとは言ってないよ。ただ、つけれるかどうかは保証しないし、扇風機もそれなりに涼しいぞ」
「いや待った。扇風機はすぐに買おう。…いや? ……今日のデートの帰りに買って帰るか?」
「それで、扇風機を背負ったまま家に帰るの?」
「それもありだろう。…いや、…クーラーがあれば、全て事足りるからな…」
「俺は自然の風も好きだったりするんだけどな」
田上がすこし自分の意見を述べてみると、タキオンが、眉を寄せて、口角を挙げた変な表情をしながら田上の方を見てきた。
「君は、江戸や明治の暮らしをするつもりかい?」
「いや、……俺の子供時代がそうだったから。…クーラーなんて全く無しで、扇風機の風をずっと浴びてた。…お前は、冷凍庫育ちなの?」
「おやぁ? 君もパンチが効いた言葉を使うようになったね? …温室育ちじゃなく、私を冷凍庫育ち呼ばわりするのは君が初めてだよ。 ああそうとも、私は冷凍庫で育ったペンギンだとも。クーラーなくては生きてはいけないぞ」
「別に、つけないとは言ってないよ」と田上は再び繰り返した。
「いや、…しかし、君だって暑いもんは暑いだろう? いくら、少年時代にクーラーを浴びていなかったからと言って、クーラーへの憧れはあったはずだ」
「まぁ、ない事はないけど」
「それに、寮にはクーラーがあっただろう?」
「クーラーはあったよ。……だけど、…んー…、こう……、暑さって良いだろ?」
「私は良かないね」
「俺はいいんだよ。…勿論ね? クーラーも好きだよ? 暑い夏の日に、わざわざチャリンコ乗って、図書館行って、納涼しに行った時もあったもん。その時の快感と言ったらないけどさ……。いいじゃん暑さって」
最後の言葉は、田上でも頓珍漢の自覚があったので、半笑いになりながら言った。理屈が通っていなかったのだ。タキオンも田上を頓珍漢を見るような目つきで見てきていた。田上は、それに言い訳するために言葉を続けた。
「いや、違うんだよ。……夏っていいだろ?」
「……私は嫌いだがね?」とタキオンは、田上につられて少し口の端に笑みを浮かべながらも、頓珍漢を見る目付きは変わらなかった。
「いや、…日本人の価値観としてさ? ノスタルジーってあるじゃん」
「ノスタルジーは外国語だが」
「じゃあ、懐かしい。哀愁。懐古。郷愁。そう、郷愁だよ。俺のふるさとって『過去』なんだよ」
「ふむ…」
「…分からない? …ノスタルジーゲームとかあるじゃん。ノスタルジーの音楽とか、ノスタルジー映画。それって、…大体夏が舞台だったりしない?」
「まぁ、…そうだろうね」
「でさ、…ノスタルジーイラストとか。…タキオンだって、扇風機に口当てて、あーって言っただろ?」
「言ったね」
「言うんだよ。それがノスタルジーなんだよ。それになりたいだろ?」
「私は、君と一緒の今の方が好き」
タキオンがそう言うと、田上は途端に憐れむ様な、がっかりしたような目でタキオンを見た。
「ああ…、お前そういう奴だもんな…」
「過去に囚われていたって何にもなるまい」
「…お前だって、俺との生活で理想を抱くだろ? 例えば、一緒に同棲したいとか」
「そうだね」
「俺は、むしろ、…別にお前のことが嫌いなわけじゃない。…ただ、過去がね、お前が想像する以上に、俺は過去を魅力的に思っているんだよ」
「何にもなるまい」とタキオンはもう一度繰り返した。
「そうだよ。その通りなんだけど、……まぁ、言っても詮無いことよ。…ただ、……懐かしいっていいよなぁ…」
そう言った田上を不満そうに見上げた。田上は、タキオンを見ておらず、かと言って道を見ているわけでもなく、ただ、田上の背後に渦巻く感慨深く魅力的な過去を夢想していた。タキオンは、田上が彼女のことを嫌いではいない事を知っていた。ただ、過去を語る時だけ輝いている彼氏の目が不満だった。