家に帰ると、デートの準備をするが、二人共特に急いてもいなかったので、のんびりと支度をしていた。
その支度中には、夏の曲が田上によって流されていた。清涼感のあるラブソングだった。こういう恋人同士で聞くとなると、なんだか妙な気分だった。今まで何気なく聞いていた自分には関係ないと思っていたラブソング。その主人公になっているのが、今の自分たちなのである。
タキオンは、その夏の曲に唆されて、自分たちが今、甘酸っぱい青春を送っているような気がした。実際そのようであるし、そのようでないとも言える。青春を送るにはあまりにも大人びているが、完全に大人びていると言えるほど、恋人という関係から脱却したわけでもなかった。まだ二人は付き合って二か月しか経っていない、付き合いたてほやほやの新人カップルだった。甘い一時を楽しんでいないとは確実に言えない。
その夏の曲が、『君と明日を捕まえに行こう。限りない明日が僕と君を待っている』と歌い終わった後に、タキオンも今日の装いであるスカートを履き終えて、「圭一君、良いよ」と言った。
田上は、タキオンの着替え姿を見たくないらしかったから、隣の部屋でじっと待機していた。これでも純潔を守っているつもりらしい。キスなんて数えきれないくらいしたくせに。
田上が襖から顔を覗かせると、タキオンは腕を広げて「どう?」と洋服の感想を聞いた。紺色の長いスカートのように見えるズボンと、ひらひらとした短い袖が付いた白いシャツでタキオンの服は構成されていた。髪はいつものように後ろで括られていたが、今日は顔が少し露わになるように、紺色の細いヘアピンで、顔の横に垂れる髪を除けていた。
田上は、その装いを上から下まで一度じっと見た後、「可愛い」と感想を述べた。タキオンは嬉しそうに口角を上げると、「ありがとう」と言った。その後に、また田上の方が口を開いた。
「お前、その色合い好きなの?」
「色合い?」
「紺と白の服。…誕生日プレゼントを選びにデートに行ったときも、そんな色の服を着てなかったか?」
「おや、覚えていてくれたのかい? …好きだろう? こういうの。清楚でお淑やか。…こういうのが好きかと思って着てみたんだが」
「…嫌いじゃないよ」
「気に入ってもらえたようで良かった。やはり、持つべきものは素直に彼女のことを褒めてくれる彼氏だね」
田上は照れ隠しのために少し眉を寄せた後、またこう言った。
「香水は?」
「今からつけるところ。まぁ、手首か膝の裏かというところだね」
「へぇ…、膝の裏ぁ…」
「……どっちがいいと思う?」
「俺に聞いても、それに何の違いがあるのかは分からないよ?」
「……どっちがいいのかなぁ…」とタキオンは呟きながら、自分のキャリーバッグを漁って、香水が入っていた箱らしきものを凝視していた。それから、「ああ」と安心した声を出すと、「手首に一プッシュと書いてあったよ」と報告した。そして、実際に香水の瓶を持つと、手首に一つやってみた。
「これを三十秒ほど触らないてで放置しておけば、完成だそうだ」
そう言った後に、タキオンは自分の手首の匂いを嗅いで「うん、こんなもんだろう」と言った。そしてまた、独り言の多かったタキオンが田上のほうを向いて、口を開いた。
「初めから、説明書を読んでおけばよかったよ。やはり、持つべきものは、素直に褒めてくれる彼氏と香水の説明書だね」
「…そんなんで良かったの?」
「いいとも。それにもう諦めた。これで君が不快な思いをしてしまったら、悪いのは私じゃなくて、この説明書と香水を作ったメーカーさ。責任をメーカーになすりつけられるようになった分、大分動きやすくなったよ」
「別に、香水臭かったくらいで、お前のことは嫌いになったりはしないけどな」
「そりゃあ、嫌いにはならないだろうが、私はこのデートが楽しみなんだもの。そして、君には私と同じくらい楽しんでほしいから、香水くらいの不備でも重要なものだよ」
「そうか」と田上は、タキオンの勢いに負けつつ頷いた。
「まぁ、これが失敗したら、もうこれは全部、このメーカーのせいということにしてやろう。例え、ゲリラ豪雨に降られたとしてもこのメーカーのせいだ」
「…準備はもう済んだ?」と田上が仕切り直して聞いた。
「ああ、まだだ。ちょっと入れるものがまだあるから、君は歌でも聴いて待っててくれ」
「ああ」と頷くと、仕方がないから田上は隣の部屋に行って、流されっぱなしだった音楽プレーヤーを少々いじって、別の楽曲へと変えた。
出かける前になって、「君、ネックレスはつけた?」とタキオンに聞かれた。田上はとんと忘れていたが、田上のパソコンが置いてある机の片隅に、それが入った箱はしっかりと置かれていた。
田上は、それを取って自分でつけようとしたのだが、タキオンが「ちょっと待った」と言った。
「私がつけてあげよう」
それに、田上は「自分でつけれるよ」と返したのだが、タキオンは「大丈夫」と言って取り合わなかった。
タキオンは、田上のネックレスを持つと、正面から抱き合うようにして田上の首にネックレスをつけた。これでは、折角他人に着けてもらっているのに、肝心の手元を見えないようにしているので、他人に着けてもらっても自分で着けても一緒である。
田上は、少し不満そうにタキオンがつけてくれるのを待った。香水の匂いがふわふわと二人を包み込む。いい匂いのような気もしたが、少しこの状況も相まって不快でもあった。
タキオンは、田上のネックレスをつけること自体は簡単にできた。しかし、こうやって二人で触れ合うタイミングができたというのに、それをいとも簡単に終わらせるのは何だか嫌だった。
それで、暫く「んー」と適当に唸りながらつけられない振りをしていたのだが、やがて、田上が「まだつけられないの?」と言うと、正直に「もうついてる」と答えた。そして、もうネックレスなんていう理由もいらないので、強引に彼氏の首に抱き着くと、幸せそうに身を寄せた。
それから、一頻り彼の体温を感じた後に「愛してる」と呟いた。そんな事田上はもうとっくの昔に知っている。何回も何回も聴かされた。嫌というほど知らされた。それでも、この子はまた繰り返して「愛してる」と言うのだ。
田上はもう抵抗するのは諦めた。タキオンが離すつもりが無いのは知っている。これから、自分たちが結婚の道に進んでいくかもしれないのもぼんやりと知っている。それでも、田上の頭に色彩豊かに浮かんでくるのは懐かしい過去の事だった。
田上は、タキオンを受け入れてはいたが、決して抱き返しはしなかった。ただ、抱き締めてくるタキオンの体温とその香水の香りを感じているだけだった。
タキオンが田上の事を一頻り抱き締め終えると「今度は私の首につけてくれないか?」と言って、月の背中を持ったてんとう虫のネックレスを差し出した。断る理由もないので、田上は、タキオンと同じように正面からそれをつけてあげた。
田上のほうは少し不器用だったので時間がかかったが、ちゃんとつける事はできた。そして、田上が「できた」と言ってタキオンから離れようとすると、案の定タキオンがまた田上に抱き着いて放さなかった。田上は心に多少の嬉しさを覚えながらも、悲愴感も同時に持ち合わせていて、少々辛かった。
タキオンがまた一頻り抱き締め終えると、「出掛けようか」と田上に声をかけた。田上は、嬉しさや悲しさといった諸々の感情を胸の奥に押し込めると、平然とする振りをして「ああ」と頷いた。タキオンはその顔を少しの間じっと見つめたのだが、やがて、前を向くと荷物を取って、玄関の方へと向かった。
そこでまた、タキオンはくるりと田上のほうを振り返ると、その顔を見た。田上は、振り返ってきたタキオンを声もなく見つめる。タキオンも声を出さない。そして、タキオンは田上から目を逸らすと、そっと近寄ってまた田上を抱きしめた。
「何も言わないで…」とタキオンは言った。だから、言葉も封じられてしまった田上は、戸惑いながらタキオンに抱き締められていた。
今回も抱き締め返しはしなかった。必要性が感じられなかった。先程、抱き締め合ったばかりなのに、また抱き締めてきたと思った。タキオンは時々こういう所がある。こういう時に、何を考えているんだろうか? と田上は思った。しかし、あんまり良く分からなかった。
タキオンは、もっと強く田上のことを感じたかった。幸せという幸せが、全身の血管を駆け巡り、喜びで満たしてくれるのを感じたかった。その為には、田上に何も抵抗させないこと、疑問に思わせないことが必要であり、そして、自分が満足に思うことも必要だった。
結果は微妙だった。満足したような気もしたし、満足していないような気もする。その後に、――結局、理想に浸りすぎるからいけないのだ、と考えた。
タキオンは田上から離れると、その顔を見上げた。田上もまだ少々戸惑い気味な表情でタキオンの顔を見た。何か聞きたそうだったが、先程の言いつけをまだ守っているのか、口は開いていなかった。代わりに、タキオンが田上の顔を見つめて考えながら、出てくる言葉そのままに口を開いた。
「あー……、君は……、んん……。…私が今どうして抱き締めたか分かるかな?」
「………好きだから?」
「…んー、…それもあるが、正解は、もう少し幸せを噛み締めたかったからさ。つまり、理想に浸りたかったという事で、これも少々我儘が過ぎた。行くぞ」
タキオンは、良く分からない妙な調子のままにそう言うと、勇み足でドアを開けた。この妙なテンションのせいで、田上の先程の悲愴感も少しは晴れた。
道中でタキオンがまた言った。
「君はどんな飲み物が好きかな?」
「…飲み物?」
「そう。…君、酒飲みじゃないし、かと言って、私の様に紅茶を愛好しているわけでもないからねぇ」
「……フルーツジュース?」
「フルーツジュース? ……コーヒーは?」
「…飲みはするけど、…愛好家って訳でもないからな…」
「ふむ。…聞いた私が間違いだったな。…いや、…別に愛好して無くてもいいや。…例えば、そこの自販機の中であれば、君は何を買う?」
二人はタキオンが指差した自販機に行って、中の方をよく見た。それから、田上はこう答えた。
「俺なら、緑茶か、…フルーツジュースかな」
「ああ、緑茶か。そうだな。君、タイミングがあれば緑茶を飲んでいるイメージがある。…昭和のおじさんみたいじゃないか?」
「ええ? 緑茶飲むと、昭和のおじさんに思われるって初耳なんだけど」
「ほら、…――母さん、お茶、って昭和のおじさんなら頼むだろう?」
「頼むかぁ?」
「…頼まないかもね。…まぁ、君に緑茶を淹れる日を楽しみにしておいてやろう」
タキオンは、そう言うと「ほら行こう」と田上とまた歩き始めた。
田上も、最近はとなりに女性が歩いている事に少々慣れてきたようであった。以前の田上ならば、もう少しおどおどと辺りの様子を気遣いながら歩いていたかもしれないが、今の田上は、胸を張って歩きながら平気でタキオンと言葉を交わしていた。
タキオンは、電車に乗る前に駅のホームで見かけた、女児に背負われている大きめの熊の人形を見つめながら言った。
「……君、ぬいぐるみは好きかい?」
「…ぬいぐるみ?」
田上は、またタキオンが突拍子もない事を聞いてきたと思って、聞き返した。
「そうだよ。…試供品として貰った私のぬいぐるみは、トレーナー室に大切に置いてあるだろう?」
「そりゃあ、勿体ないもん」
「……勿体ないから?」とタキオンが聞き返した。そこで目的の電車が来たから、二人はそれに乗った。
電車に乗ると、タキオンが話の続きを問うように、田上に目配せをしてきたから、田上は小声で答えた。
「勿体ないだけじゃないけど」
「…例えば?」
「……そりゃあ、…付喪神だよ。…可哀想だろ?」
田上がそう言うと、タキオンが少し口角を上げた。
「…人形を私と重ねてる?」
「…重ねてない事はない。…お前の人形なんだから」
「…君も案外可愛い所があるじゃないか」とタキオンはからかいまじりに微笑んで言った。田上もそれにつられて少し微笑んだ。
「お前は?」
「…私は、小さい頃に気に入っていた熊のぬいぐるみがあるよ」
「へぇ、…意外」
「そうだろう? …今は、…どこだろう? ……多分、おばあちゃんの家に保管されているんじゃないかな?」
「へぇ」
そこで、二人の会話は終わった。
電車から降りて、駅から抜け出し、二人は眩しい陽光の下へと歩み出た。
「はぁ、いい感じの暑さだ。…私の香水はどうかな? きつかったりしてない?」
「いや? 大丈夫だと思う。……でも、…俺、香水はないほうが良いかなぁ、とも思う」
「ほう。やはり、臭かった?」
「いや、そんなに臭いと言うほど臭くはないんだけど、…まぁ、…何て言えばいいかな…? …二人で居るのに、香水の匂いが邪魔かな?って。別に、悪臭じゃなくて、そこに情報量が加わる感じ。分かる?」
「んー」とタキオンが、今一つ分からなさそうに唸った。
「…だから、…嗅覚に入ってくる情報って、ヒトだとそんなにないんだけど、それが、…慣れない匂いって可能性もあるけど、……まぁ、一つ情報として嗅覚に入ってくるから、少し邪魔かなと思ったりもするんだよ」
「ああ。…まぁ、分かった。今は臭くない?」
「そんなに不快には思わないよ。ただ、俺は香水がない時のほうが好きかなってだけ」
田上がそう言うと、タキオンは少しだけ申し訳なさそうに眉を寄せた。
「じゃあ、臭いんじゃないかな?」
「いやいや、別に、デート中断して帰るほど臭くはない。…まぁ、俺の言葉もそんなに真に受けなくていいよ」
「でも、あんまり好きでもないんだろう?」
「タキオンの自由でいいよ」
タキオンは田上の言葉に不満そうな顔を見せた。
「……うん…。まぁ、いいや。今ここで君と張り合ったところでしょうがない。……いや、しかし、君に迷惑をかけてるのもなぁ…」
遂に、田上はタキオンの事が可哀想になってきたので「良い匂いだよ」と言った。タキオンはそう言った彼氏の顔を見た。そして、その表情から田上が自分を許してくれている事を知った。そうすると、もう香水の匂いに悩むのも諦めた。
また駅からショッピングモールまでの道中で、タキオンがスーツ姿の男を見ながら、「休日まで仕事かぁ」と呟いた。
「俺も、午前中まで仕事だったけど」と田上がタキオンの独り言に反応すると、タキオンも「おや、そうだった」と気が付いた。
「君、しかし、私と朝から一緒だったから、なんだか忘れてたよ。…そう言えばそうだった」
「トレーニングもデートのつもり?」
田上がそう聞くと、タキオンはニヤリと笑った。
「おや、その考えはありかもしれない。トレーニングに対するモチベーションが湧いてきそうだ」
「モチベーションはないの?」と田上が意地悪なことを聞いた。田上も思わずそう聞いてしまってから、その質問をタキオンが嫌がるだろうという事に気が付いた。
タキオンは、案の定嫌そうな顔をすると、「その質問にはお答えしかねるな」と答えた。しかし、田上は折角乗り掛かった舟なので、もう一つこう聞いてみた。
「……宝塚記念は、どのくらいやる気が在る?」
「……君は、彼女を苛めて楽しいのかな?」
「…すまなかった」と田上はとりあえず謝った。しかし、宝塚記念にまつわる事はずっと話したいと思ってきたことだったので、ここで一つ、真面目で理性的な議論をしてみようと思って、口を開いた。
「タキオンは、……走る事ってどう思う?」
「……その質問もやめようじゃないか。今、こんなところで、走りの事に頭を悩ませたくなんかない。私、今からデートを、いや、今も君と既に楽しくデートをしているつもりなんだからね」
それから、「これだから、彼氏がトレーナーというのは嫌なんだ」と小言も一つ呟いた。田上は、タキオンが本当は自分の事など嫌っていないという事は分かっていたから、タキオンの顔を少し覗き込みながら話した。
「じゃあ、帰ってから少し話をしてみよう? 大切な事だよ」
タキオンは、不愉快そうにしながらも「分かったよ」と田上から目を逸らしながら頷いた。
田上は少し悪くなってしまった空気を気にして、タキオンの事をチラチラと見ていた。タキオンもその事に気が付いていて、反省もしていた。あんなにつっけんどんな言い方をせずとも、もう少し物腰柔らかな言い方で、彼氏との話を終わらせればよかった。――自分の悪い所だな…、と思いながら、タキオンは少し走ることについて考えていた。
歩道を前から父親と五歳くらいの男児が来た。その男児は、タキオンたちの数メートル先で「こじまーー!!!」と謎の言葉を叫んで、けたけたと笑っていた。父親の方は、子供が急に叫び出したのに驚きながら「急に叫ぶなバカ」と叱っていた。
タキオンと田上はその二人組を横目で見送った後、タキオンの方が口を開いた。
「君は………、……いや、……さっきはすまなかった。……怒りたかったわけじゃないんだがね…」
「…いいよ…。ちょっとびっくりしてた」
田上がそう言うと、タキオンはその顔を見て、ふっと微笑んでから目を前方に向けた。
「……あんまり……、言ってしまえば、暖簾に腕押し?的な話はしたくないんだがね…。宝塚記念なんてあと一週間もすれば、跡形もなくなってしまう物だし」
「……その後の予定はある?」と田上は慎重な口調で聞いた。タキオンは、そんな田上を一瞬睨みはしたが、すぐに表情を和らげつつ言った。
「……夏合宿だね」
「……そうだな……」
田上はそう頷いてから、暫くの間、タキオンの横を歩いていた。もうショッピングモールも近くなって、目と鼻の先くらいまで来ていた。もう少しで駐車場にたどり着くという頃だ。田上が考えているうちに二人は駐車場のなかに入って、動き回る車にすこし注意を向けながら、自分たちの歩を進めた。そして、建物の入り口に入る頃になって田上が言った。
「……天皇賞秋か……、オールカマー…?」
「…前哨戦?」とタキオンが聞き返した。
「そう。夏以降しばらく走らない事になるし、一レース挟んでも良さそうだなって」
「………それを…しなきゃいけないのかい?」
「…いや、しろとは言わない。でも、……いや、でもじゃない。……いや、…お前と話し合っていきたいからね。…先延ばしにしたってどうやっても来るんだから。…タキオンとしては、引退のタイミングはいつにするつもりなの?」
「………君が言ってくれたタイミングでいいかな…」
タキオンはやる気がなさそうにぼんやりと答えた。
「俺? ………それでいいの?」
「……いいんじゃないかな?」
タキオンはどこか他人事のようだった。田上は少し深呼吸をすると、また考え直した。
「………タキオンは、……宝塚記念の後に引退してもいいの?」
田上がそう言うと、タキオンは、田上の顔を観たがっているように首を中途半端に振ったが、結局田上の顔は見ずに俯いたまま考えていた。
二人はとりあえずお腹がとても減っていたので、ショッピングモールの中にある飲食店に行く事にした。昼食はもう何でもよかったので、とりあえず、何か種類も多そうな定食屋に行く事にした。
その道中で、タキオンが口を開いた。
「私は、……引退にはまだ心が決まってない…。…まだ、走ってみたい心もある。………でも、………もう、どう走れば良いのか分からない…」
田上はタキオンを少し見つめた後に口を開いた。
「………それも、一緒に見つけて行こうか」
タキオンは俯いたまま頷いていたが、心持ち表情を明るくしたかのように見えた。そして、また田上は自分を責めた。――こういう甘い言葉をかけるから、好きでいさせてしまうんだ、と。
田上は店員にカツ丼を頼み、タキオンはハンバーグ定食を頼んだ。その時に、二人は一口ずつ分け合う約束をした。
二人は、初め向かい合うように四人掛けの席に座っていたのだが、注文した料理が届くのを待っているうちに、タキオンが「分け合うんだったら隣同士の方がいいかもしれないね」と言って、田上の隣に移動してきた。
それから、二人は暫く暇潰しに手遊びをしていた。田上が右手で頬杖を突いて、左手で、少し脳内で流れている音楽のリズムをトントンと静かに取っていたら、タキオンが、その手にちょっかいをかけてきた。
田上が人差し指でトントンと机をたたく合間を縫って、タキオンがその下をくぐるように人差し指を左右に振っていた。その内に、田上がリズムを急に早めて、タキオンの指に挑戦を仕掛けた。
タキオンは、一種懸命人差し指を振っていたが、ついに自在に変動する田上の指先に追いつけずに、タキオンの細い人差し指が田上の固い指に押さえつけられた。そこで、タキオンの人差し指がばたばたと藻掻くさまを見て、二人はふふふと笑った。無論、ウマ娘の力であれば簡単にヒトの指なんて払えるので、そうするお遊びである。
お遊びを終えると、田上は、タキオンの細い指を手に取って見つめながら「お前の指は細いな…」と言った。
「指輪のサイズを今から測っておくかい?」
タキオンが冗談めかして話した。田上はタキオンの手から目を上げて、その顔を見た。
「…指輪…」
「……結婚式なんて、いつするものなんだろうね? ……いつだろうか…?」
「………いつだろう……」
そう言って、言葉を曖昧に終わらせた後に、田上はタキオンの顔を見て、「俺さ」と話しかけた。
「……思ったんだけどさ……。……こんな所で、言うもんでもないな…」
「…恥ずかしい話かい?」
「まぁ…、……あんまり人には聞かれたくないかな…」
「…じゃあ、覚えておかなくちゃ。帰ったときに聞かせてくれ。……あれの話じゃないだろう?」
「あれ?」
「……なんとか記念」
「ああ、違う。……ただ、今の話と少し関係があるんだけどさ」
「記念と?」
「いや、その話したくない恥ずかしい話」
「ああ」
「………結婚って、……いつするつもり?」
「…最初の話に戻っただけだが」
「…いや、……本当に卒業したらするつもり?」
「…そうだろう?」
「……俺が人に聞かれたくない話もそうなんだけどさ…。……お義父さんたちにも言ってしまったから、あんまり予定を変更するのも嫌なんだけどさ…。……なんと言うか…、こう…、……時期尚早?じゃない?」
「……じゃあ、いつするつもりなんだい?」
「……二十?」
「私が二十歳の時? あと二年も待たないといけないじゃないか」
「……一年待つのも二年待つのも、そんなに変わらないんじゃないか?」
田上がそう言うと、タキオンはきゅっと眉を寄せた。
「君が先延ばしにしたいだけなんじゃないのかい?」
「………いいや。この話は今するべきじゃなかった」
田上が目を伏せてそう言った途端に、タキオンの胸の中に罪悪感がぶわっと吹き上げた。――また無闇に怒ってしまった、と自分が嫌になった。
丁度その時に、田上のかつ丼が運ばれてきたので、その雰囲気はあまり引きずらずに済んだ
タキオンのハンバーグ定食はまだだった。だから、タキオンは、かつ丼を食べている田上の横で物欲しそうな顔をして、その食べる姿を見ていた。その視線に田上は気が付いていたので、仕方なくという程仕方なくもないが、タキオンに一口分けてあげることにした。
二人は何の気もなく、自然と田上の箸によって、タキオンの口にご飯を運んであげる仕草をしていた。ただ、箸でやろうとしてみると、思ってたよりも持ちにくいし、ぽろぽろと零れてきそうだった。それに加えて、タキオンの方だと、急に恋人のまえに口を開けて座して待つという行為が恥ずかしくなった。
それで、田上が一口カツのたれと肉汁がかかった香ばしくて温かいご飯をタキオンの口に入れる頃には、半笑いになって、やっとの事で口を開けていた。その拍子に、ご飯粒が二三粒、下に添えられていた田上の手に落ちた。
タキオンは、笑いながらご飯を飲み込んだ後に、田上にこう話した。
「これ、…別に、君があーんってしなくても、私に皿ごとくれれば良かったんじゃないか」
田上は、タキオンにつられて、少し表情を明るくしながら「ああ、そうだったね」と頷いた。そのすぐ後に、タキオンのハンバーグが二人のテーブルにやって来た。
タキオンは、普通の女の子らしく口を押えてふふふと笑うと、「どうする?」と田上に聞いた。タキオンが田上の口に運ぶか、田上が自分でハンバーグを一口分けてもらうかという選択肢を聞いたのだった。今のは、恥ずかしさこそあったが、タキオンには楽しいものだったらしい。田上も楽しくない事はなかったが、自分が口を開けて待つとなると話は別だった。
そんな恋人らしい事は、以前タキオンとやったような気がするが、恋人としてこうして口を開けて対面するのは初めてである。田上だって、恥ずかしさから笑ってしまいそうな気がしたが、今は何だかしても良さそうだと思った。だから、「んー」とちょっと悩んだ後に、少し口の端をにやけさせながら「あーん?」と答えた。
タキオンは、顔中に笑みを浮かべながら、早速ハンバーグを一口サイズに切り分けると、フォークの上にご飯を少し添えて、田上の口に運んだ。田上もやっぱりタキオンと同じ反応になって、二人で、昼食時の賑やかな飲食店の端の席で、クスクスと楽しそうに笑いを堪えて笑っていた。
それから、二人は、もう一口二口ずつお互いのを交換して食べると、後は、ゆっくりと時折会話も挟みながら、昼食をとった。
二人は、多少満足した顔をしながら、飲食店から出てきた。そして、田上が「もうゲームコーナーに行く?」と聞いた。タキオンは、「そうしよう」と頷くと、二人は、このショッピングモールの中を歩き出した。
そこで、今度は田上が話し出した。
「俺、…あんまり、…恋人らしい事と言うか…、十代らしいこと?…をしたくないんだよなぁ」
「…十代らしいこと?」
「…あーんとか…」
「……君が二十代だから?」
「……それもある。…いや、そうなんだろうけど、……二十五ってそんな事をしてもいい歳なのかなぁ…」
「……二十七でも充分にしそうなことではあるがね」
「……お前が二十になる頃には、俺は二十八か…」
「……」
「……三十になんてなりたくないなぁ…」
「…三十までに結婚しておいたら、とりあえずは、一安心だろう?」
「……どうだろうね…」と田上は言いながら、道中の棚にあったお洒落な食器をチラリと見た。
「……一安心だと思うよ? このまま――三十になっても結婚できなかった。四十になっても結婚できなかった、ってくどくど悩むよりかは、十八の私でも貰っておいた方が得だと思うんだがね」
「………どうだろうね」と田上は、喉元まで出てきた言葉を抑えてそう誤魔化した。
「………ゲームコーナーについたらまず何をする?」
タキオンはこの話が感情的な方面に発展しそうな気配を察したので、唐突に話題を変えた。
「んー……、やっぱり、太鼓?」
「………UFOキャッチャーするために、両替機で札を崩さないとね」
「そんなにするつもりなの?」と田上が、面白がるような目つきでタキオンを見た。
「ああ、無論、そこまで欲しいものもないが、君との思い出の品を得るために私は全力を注ぐつもりだよ」
いつになくやる気のあるタキオンを見て、田上は微笑ましく思い、ふふっと笑った。
それから、二人はゲームコーナーの場所を途中にある地図で確認しつつ、そこに向かった。
ゲームコーナーのがやがやガチャガチャとした音が聞こえ始めた頃、タキオンと田上はその近くにあった雑貨屋と洋服屋が併設しているようなところに立ち寄った。こじんまりとしてはいたが、その中には様々な物がこれでもかとばかりに詰め込まれていた。
タキオンは、女物の服や子供服なんかをじっと見つめていたが、見つめるばかりで、結局それには手をつけないで、雑貨の方にそのまま足を向けた。
タキオンは、食器コーナーの所で足を止めて、赤いティーポットをじっと見つめていたが、不意に田上に「これはどう思う?」と聞いてきた。田上は、あんまり興味はなかったが、彼女の質問にはしっかりと答えた。
「……お前が今回持って来てたのって、結局お前が寮でも使ってる奴だし、ここに置いてもいいんじゃないか?」
「……そうだろう…」
タキオンはそう言うと、今までじっと見つめていた赤いのではなく、淡い青の物をひょいと手に取って、手持ちの籠の中に入れてしまった。田上も別に文句をつけるつもりはさらさらなかったので、何も言わなかったが、心の中では、赤ではなかったことにツッコんでいた。
タキオンは、それから蔦のような茶色く細いもので編まれた籠の前で立ち止まっていた。田上はここに立ち寄った時の最初から最後まで、ここに在る品々に興味はなかったのだが、タキオンが見ているものには興味があったので、タキオンの後をついてタキオンが見ているものをすべてを後ろから見ていっていた。
茶色い籠は、隙間が大きく空いていたので、どうやら、小さい物を入れるには適していないようだった。そして、外出に持ち運ぶものとしても、どうやらそれは小さすぎるので、家の中の置物として使うものだと思われた。蔦は本物を使われているのかどうかは知らないが、少なくとも外見は本物に見えた。実際は、中に針金が通された偽物かもしれない。
タキオンは、その籠をじっと見つめた後に、こう口を開いた。
「………君の家には、台所前と、寝る部屋の二つしかゴミ箱が無かったよね?」
「ああ」
「……もう一つあっても良さそうな気がするんだがね…」
「そう?」
「……食卓周辺にもう一つ。こういう小さいのでもいいから、あれば、わざわざ台所前までゴミを投げずに済む…」
「…そうかもね…」
田上がそう言うと、タキオンは、「うん」と頷いてから、その蔦の籠を買い物かごに入れた。
また少し歩いて、タキオンは文房具の前で立ち止まった。そして、赤ペンがいくつか並べられている前で立ち止まると、その中の二つを手に取って、田上に聞いた。
「君はどっちが良いと思う?」
どちらも柄という柄もないシンプルなペンだった。最早、こんなものはどちらでも良いだろう。――女ってのはこんなものにまで悩むのか? と思いながら、田上は「どっちでもいいんじゃない?」と言った。しかし、タキオンは軽く首を横に振ると、「どちらか」と繰り返した。
「どちらかぁ?」
田上は、そう言われると、二つの赤いペンをいよいよじっくりと見比べた。恐ろしくどうでもいい。こんなのはもう、目で見える違いの中で一番大きな物と言えば、ペンの横についているクリップが長いか短いか、というものだった。だから、田上はもうどっちでも良いと思って、比較的クリップの長い赤ペンを指差して「これ?」と言った。タキオンは、口の端に満足そうな笑みを浮かべると、選ばれなかったペンを元の場所に戻して、そこの会計に歩いていった。
田上が、――女ってのは変な生き物だなぁ、と思っていると、会計が終わったタキオンが、歩き出しながら田上にこう言った。
「有意義な時間だったよ」
そう言われたら、田上も折角なので疑問に思った事を聞いてみることにした。
「あの赤ペンは何だったの? 精々、違いと言ったら、クリップが長いか短いかくらいしかなかったよ?」
「ン? …私は楽しかったよ? 君が悩む顔を見るの」
これで、田上もタキオンがあの赤ペンで何をしていたのかが分かった。つまり、欲しい赤ペンが決まらなかったのではなくて、赤ペンでも何でもいいから、タキオンは自分と話したかったのだろう。
田上は、そう考えると、少し嬉しいような心地もした。
それなりの遠回りを重ねて、タキオンと田上はやっとの事でゲームコーナーに着いた。ゲームコーナーの真ん前に太鼓のゲームはやはりあった。人気のゲームだから、見える所にもうすでにあるのかもしれない。しかし、子供が二、三人列を作って待っていたので、タキオンも田上もそんな中で待つのは少々気が引けた。だから、とりあえずUFOキャッチャーをするために、タキオンと田上は両替機の所へ行った。
両替機の所で、田上が「俺が出そうか?」と声をかけてきたので、タキオンはそれに甘えることにした。一度、「私がやりたいからやるんだがね」と断ったのだが、「俺は全然大丈夫だよ」と言われると、タキオンも強く言いはしなかった。
二人は、もう一度太鼓のゲームの前に並んでいる子供たちを確認すると、UFOキャッチャーが並べられている所に行った。ガラスの箱の向こうには、お菓子やアニメのグッズとかフィギュアもあって、それを二人で適当に見つめながら歩いて行ったが、途中で二人が見覚えのあるグッズを見つけて立ち止まった。
「これは、カフェのパカプチじゃないかぁ」とタキオンが、嬉しそうに言った。田上もその横に並ぶと「これを取る?」と聞いた。
「んー、……折角二人でデートに来たのに、知り合いのグッズを金をかけてとると言うのもなぁ」
「じゃあ、やめる?」と田上が問うと、「やめておこう」とタキオンも頷いて、その場を後にした。
そのUFOキャッチャーのコーナーを一周ぐるりとしてみたのだが、二人とも欲しいものはなかった。正確には、田上が少し欲しいと思うものはあったが、UFOキャッチャーで何円かけてとれるか分からないものを欲しいとは思わなかった。しかし、折角やりに来たんだから、取りたいものを取ってみようという提案で、田上は『カメリアの漂浪記』の主人公であるジンのフィギュアに挑戦してみることにした。
初めの五百円如きではUFOキャッチャーも取る素振りを見せなかった。田上も取れないものだと思って挑戦しているから、特に動揺はしてなかったが、そう言えば上限を決めていなかったと思い出して「二千円でやめようか」とタキオンに提案した。特に、反論はないようだったから、田上はまた五百円を入れて挑戦してみた。
まぁ、動く事には動くが、如何せんアームの持つ気が無かった。ちょっと右に動いてみれば、また左戻ってみたり、ちょっと持ち上げてみれば、また同じ所に置かれてみたり。タキオンも中々難しそうな顔をして、「これは取れそうにないねぇ」と言った。
また五百円を入れた。先程から少し変わった動きを見せて、進展があったように思ったが、結局取れない場所から取れない場所に移動しただけだった。そもそも、アームに持つ気が無いのだ。また、五百円を入れてみた。初めの二回は音沙汰がなかった。また同じことの繰り返しだったが、三回目にアームで持ち上げてみた時、唐突に今まで持つ気が無かったアームが本気を出した。本当に驚くくらい軽々とフィギュアを持ち上げて、外へと通じる穴へ落としてくれたので、思わず二人共歓声を上げてしまった。最早、取れるものではないと諦めていたからだ。
田上は、取り出し口からそのフィギュアを取り出すと、そのフィギュアを目の高さまで掲げて「ええー?」と嬉しそうな顔でタキオンを見た。タキオンも嬉しそうに「やったね」と田上の肩を叩いた。田上は本当に嬉しかったから、そのフィギュアをタキオンの雑貨屋の紙袋に入れても暫くニヤニヤとしていた。
これに調子に乗って、二人はもう一つタキオンが欲しい物を取ってみようかという話になった。それで、タキオンが選んだのは、赤ちゃんより一回り大きいくらいの、大きなぬいぐるみだった。これを目の前にしてみると、田上も「流石に取れるかぁ?」と怪しんだ。しかし、二人は、今の思いがけない成功に有頂天になっていたので、もしかしたら取れるんじゃないかと思っていた。
最初の五百円で、右に転がったり左に転がったりして、二人は多少冷静になったが、二千円分は挑戦してみることにした。すると、なんとまた五百円を入れた最後の一回で、アームが途轍もない力を開放して、大きなぬいぐるみを軽々持ち上げると、取り出し口へ落としてしまった。二人はもう呆れて笑ってしまった。こんなに大きいぬいぐるみまで取れると思っていなかったからだ。
それで、田上がぬいぐるみをタキオンに手渡すと、タキオンはニコニコしながら手触りの良いぬいぐるみを抱いて、「ありがとう」と礼を言った。
その後に、田上は「運がよかったな」とタキオンと話しながら、二人は太鼓のゲームの所に戻った。太鼓の所には中学生の様な男子が一人、ドンドンと太鼓を打ち鳴らしているだけだったので、田上とタキオンは、その後ろに並ぶことにした。前の中学生は、自前の太鼓のバチを用意していたようだった。そして、それをするだけあって、難しそうな譜面も結構余裕で叩きまくっていた。田上は、それを――今時の中学生は凄いんだな……、と感心しながら見つめていた。
中学生は叩いていた曲が終わって、チラリと後ろのカップルが待っている事を確認すると、自分のバチをリュックに入れながら、脇へ避けて行った。田上は、中学生が去って行ったのを確認すると、タキオンの方に「さっきの子、上手かったな」と言った。タキオンもそれに同調すると、さっさと二人分のお金を投入口に入れて、備え付けの太鼓のバチを持った。
「君、趣味の曲はあるかい?」とタキオンが聞いた。
田上は、曲の一覧を順々に見つめたながら、こう言った。
「ああ、俺が出掛ける前に聴いてたロマンスピースの曲があるよ?」
「ああ、あれ? ――君と明日を捕まえに行こう?」
「そう。……それに、ゲーム音楽もあるし、……ああ、これ懐かしいなぁ」
「アニメ曲?」
「そう。……どうしようかな?…んー…、じゃあ、これでいいか」
そう言うと、田上はロマンスピースの曲で決定を押した。難易度の設定を求められたが、二人共そこまで慣れた人間ではないので、普通を押して先に進めた。
慣れていないと言っても、普通の難易度であれば、二人共それなりに上手くできた。ゲームをそれ程やったことのないタキオンでもただ叩けばいいだけのゲームなので、それなりに田上と同じくらいにはやることができた。
その曲が終わると、もう一曲できるようだったから、今度はタキオンが曲を選んでみることにした。タキオンは、クラシック音楽の方をじっと見つめて「んー」と唸っていたのだが、結局、何でもよかったらしく、「君が決めて良いよ」と田上に言った。それを言った時が、曲選択に定められた制限時間のぎりぎりだったため、田上は慌てて適当に選んで、とりあえず、メジャーなゲーム音楽を選択してみた。
タキオンは曲が始まるまでは、よく分からなさそうに、目の前の画面を見つめていたが、やがて、コマーシャルでもよく使われる壮大な音楽が流れてくると、「私、これ聞いたことあるぞ!」と喜んでいた。田上も自分が知っているものを彼女が知っていてくれて、少し嬉しかった。
二曲目が終わって、二人は満足して終わろうとした。後ろにはまた一組のカップルが並んでいたので、その人らにその場所を明け渡そうとしたのだが、後ろのカップルの片割れであるタキオンと同じような栗毛のウマ娘が、声をかけてきた。
「あの…すみません…。アグネスタキオンさんですよね?」
タキオンは、今彼氏との二人きりのデート中という事ですっかり忘れていたが、自分はGⅠを三勝もしたトップアスリートだった。今は、すっかり普通の女としてデートを楽しんでいたタキオンの下に思いがけない重荷が降りかかってきて、タキオンは少し戸惑いながら「ああ、はい…」と頷いた。相手のウマ娘の方は、手を合わせて喜んだ。
「ああ、私、タキオンさんの大ファンなんです。私も少しレースの方やっていたんですが、やればやる程、タキオンさん凄いって思い知らされて」
タキオンはこの女性の勢いに多少怯えを抱いた。今は一介の女に過ぎないはずだったのに、立場が自分を苦しめてくる。
ウマ娘は、今度は田上の方をチラリと見て「デート中ですか?」と聞いた。タキオンはこれを好機だと感じた。ここで上手い事話を切り上げることができれば、自分はまた一介の女の子として彼氏のそばに居続けられる。
タキオンは少し手を上げるとこう断った。
「すまないが、今はオフなんだ。あんまり二人きりのデートを邪魔されないで貰えると助かる」
「ああ、すみませんでした。田上トレーナーとのデートをお邪魔して申し訳ありませんでした」
田上はじぶんの名前が出てきた途端に背筋がブワッと逆立って、冷や汗や鳥肌が体中を覆ったような気がしたが、何とか軽く頭を下げるとタキオンとその場を後にし、逃げるようにゲームコーナーから出て行った。