ケロイド   作:石花漱一

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三十八、通り道④

 田上は、後ろのウマ娘に自分があの田上トレーナーだと気が付かれたのも充分に嫌だったのだが、その横の大学生くらいの彼氏も田上の劣等感を誘った。髪型なんかは今時のくしゃくしゃと乱雑そうにしながらもおしゃれなもので、背も田上よりずっと高い。田上はこの時ほど、自分が日本人の平均身長である事を呪った事はなかった。向こうの方と言えば、もしかしたら、百九十もあるのではないかと思う程背が高い。まるで、巨人の様な人間なのに、その横にはそれなりに可愛い彼女を従えて、髪も綺麗にお洒落をしている。

 二人はもうゲームコーナーにいるのが嫌になって、一旦そのガチャガチャとした音の最中から抜け出すことにした。そして、ようやくそれなりに静かできれいな白い床の廊下に辿り着くと、付近にあった木のベンチにやれやれと腰かけた。

 二人は暫く何も話さなかった。二人共、お互いがデート中に声をかけられたことをショックに思っている事を察していた。そして、二人共、自分たちの心がお落ち着くまで少し待とうとしていた。

 暫く経ってから、タキオンがやれやれといった調子で話しかけてきた。

「いやぁ、まったく、…動揺してしまったね?」

「うん…」

「…バレるかもしれないとは思っていたが、バレても大したことはないだろうと思っていた。…やなもんだ。有名人ってのは…」

「…ああ…」

「……どうする? また、ゲームコーナーに戻ったとしても、あの二人は居るかもしれないがね」

「……何でもいいよ」と田上が返事をすると、タキオンはその顔をじっと見つめた。

「……君、どう思った? あれに驚いた?」

「…ああ…」

「………あれでまた、思い悩むことでもできたかい?」

「……まぁ…」

「なぁに?」

「……まぁ、…いつものことだよ。………果たして…、俺とお前は付き合っても良かったのかなって」

「……君は私の事をどう……。いや、……なんと言えばいいんだろうね……。……君は、……私の事を愛してくれているよ…」

「……本音を言えば、……愛したくはないんだけどね…」

「……どうしてかな…?」

「………お前のことは好きだよ…。感謝もしてる…。これで別れないといけないってなったら、それはもう耐え難い苦痛だ…。……でも、初めからお前の事を好きじゃなかったらとも思う…。そうすれば、…お前と出会うことすらしなければ、俺とお前の間には何も起こらなかった。…それはそれで、寂しかったりもするんだけどね……」

「……どうやったらそれを解決できると思う?」

「……知らない。……お前はどう思う?」

「私? ……私にも分からないが、…………」

 タキオンは、続けようとした言葉が次々に滅びて塵になって行くような気がした。自分の言葉は、田上の助けにならなかった。全ては反論し尽くされ、捨て去られたものだった。自分がいくら田上の横に居ようと決意しようと、田上は必ずそこに現れるかもしれない壁を意識していた。そして、彼氏が意識をするように、タキオン自身もその人の最も身近に居る者として意識しなければならなかった。二人の間には、それを解決するための何の答えも持ち合わせていなかった。その為に、何の言葉も続けられなかった。

 タキオンが黙り込んでしまうと、田上もここでうじうじしてもつまらなくなるだけだと気が付いて、気を取り直した。

「まぁ、何もかも見つけていくしかないよ。…一緒に探してくれるんだろ?」

 田上の言葉にタキオンは僅かに微笑んだ。その微笑みのなかに苦しみが紛れているのは分かっていたが、今は二人共それを腹の奥まで飲み込んで、いつか解決の日が来るまで耐え忍ぶことしかできなかった。

 それでも、まだ前向きな田上の言葉にタキオンも励まされて、少しは元気になりながら「うん」と頷いた。

 

 結局、二人はゲームコーナーには戻らないで、二階の本屋に立ち寄った。ゲームコーナーに戻るかどうかはまだ決めていなかったが、まだ少なくとも、礼の二人が立ち去るかもしれない充分な時間は確保しておきたかった。

 本屋に入ると二人は別行動になった。タキオンは雑誌の所にすこし立ち寄り、田上は面白そうな漫画や小説がないかとそこらをぶらついた。

 ステップコミックスの新刊が、漫画新刊のコーナーにずらりと並べられていたが、今、真面に追っている作品は一作品くらいなものだったので、それがない限りはその新刊コーナーにあまり用はなかった。

 漫画が並べられている棚に行くと、ステップコミックスの作品群が沢山並べられている。田上はそこを――儲かってるなー、という凡な感想をいだきながら、ぼんやりと眺めていた。特に欲しい物があってそこを見ているわけでもないので、ただの冷やかしだ。冒頭の試し読みができる冊子もあって、それもちらりと覗いてみたが、どうもサッカー漫画というものには興味がなかったので、ただ暇を潰しただけだった。田上は、そこで不図タキオンの事が気になったので、雑誌のコーナーに足を向けてみた。

 タキオンは、熱心に雑誌を開いて見ていたが、後ろから、田上が「何読んでるの?」と声をかけると、振り返って田上の顔を見た。そして、田上に向けて表紙を見せると、「例の結婚雑誌だよ」と答えた。

「もう行くのかい?」とタキオンが聞いた。それに、田上が首を振ると、またタキオンが話した。

「じゃあ、帰るってときになったら呼んでくれ。これを買って帰るとするよ」

「ああ」と田上が頷くと、また足の向くままにぶらぶらと本屋を歩いて行った。

 とある一角で、田上は『カメリアの漂浪記』の資料集を見つけた。これは、一作目の方の資料集だ。これが出ていたのは知っていたが、特に買う気が起こっていなかったために今まで買っていなかった。だが、別に欲しくないものでもなかったので、ここであったのも何かの縁だと思って、田上はそれを手に取ってまた少しぶらついた。

 小説の所をぶらついていると、何やら仰々しい帯をつけた本を見つけた。手に取って見てみると、その帯には、『カメリアの漂浪記』の脚本兼監督をしていた足立健次郎(あだちけんじろう)の推薦文が載せられていた。

『間違いようのない傑作!! ここにまた新たな伝説が生まれた!!』

 足立監督はかなりの読書家としても知られているので、そういう足立監督が傑作というのならば、傑作なのかもしれない。波止場響子(はとばきょうこ)という作家の『砂と花と陽炎と』という題名の小説だった。あらすじを読んでみると、どうやらファンタジーらしいが、表紙にはハイファンタジーと書いてあったから、まぁ、それなりの面白さはあるのかもしれない。そして、あらすじを読んでみた感じも、なんだか面白そうな気がした。根拠はないが。

 田上は、カメリアの漂浪記の資料集と『砂と花と陽炎と』という本を手に取ると、多少満足しながらも、まだ適当な場所に足を向けた。そして、トレーニングに役立ちそうな本を一二冊また手に取ると、タキオンの所に戻った。この本を選んでいる間に、大分時間を使うことができたので、もしかしたら、ゲームコーナーからあのカップルも居なくなっているかもしれない。

 タキオンがまだ熱心に結婚雑誌を読んでいた。隅から隅まで目を通そうと、端の端の方に目を向けているのが分かる。田上はその横に無言で立ってみた。そして、目の前にある雑誌から旅行系の物を手に取って、適当にページを捲ってみた。タキオンも初めは気が付かないで、熱心に手元の雑誌を読んでいたが、不意に目を上げた時に、隣に居るのが田上だと気が付いた。それから、声をかけた。

「ああ、君だったのかい。…もう終わった?」

「ああ、一緒に会計しよう?」

「うん」

 二人はそう言って、会計の所へ行った。会計ではどちらがお金を出すか少々揉めたが、そこまでの喧嘩には発展せずに、素直に田上の方が折れた。無論、二人共出したがったから揉めたのだ。

 

 会計を済ませた後、二人でどこへ行こうか話し出す前に、タキオンがこう言った。

「そう言えば、思ったんだけどさぁ…」

「なに?」

「……今は、二人で君の家に泊まっているわけだから、……門限はないだろう?」

「確かに」と田上は頷いた。思ってみれば、門限ありきで行動していたような気がする。

「つまり、夕食も外食していいわけだ…」

「いや、…流石に、…ちょっと夜までここに居るってのは俺も疲れるよ…。もう次ゲームコーナーいくのかどうかは知らないけど、もうそこ行ったら帰りたい」

「…まぁ、疲れるんならしょうがないな。私も、そう言えば、午前中はトレーニングがあったんだから」

「お前、疲れてないの?」

「……まぁ、…君とこのまま夜までここで歩き続けられる元気はあるよ?」

「俺はないや」

「まぁ、じゃあどうする? ゲームコーナー行く?」

「ゲームコーナー行くくらいの元気はあるから、全然いいよ」

「じゃあ、あのカップルと顔を合わせないことを祈って、またあそこに行くとするか」

「そうだな」と頷くと、二人はまたゲームコーナーへ戻っていった。

 

 また騒々しいゲームコーナーに戻った。入り口の所であらかじめぱっと見渡してみたのだが、あのカップルらしい人影は全く見当たらなかった。

 タキオンはメダルのゲームをしようと言って、田上をそのメダルを買いに連れて行った。

 五十枚程買うと二人は大型のゲーム機がある所に早速行って、メダルを投入してから金魚すくいなどのゲームをした。二人で分けて交互にやってみたのだが、タキオンはあんまり芳しくなく、メダルを減らす一方だった半面、田上がプレイしている目の前に丁度大物らしい金色の金魚が泳いできたので、運よくそれを捕まえて、二十枚ほどメダルを増やすことができた。タキオンはそれに大層喜んでいたので、田上も嬉しかった。

 その他、射的のゲームなどもやってみたが、これも運がよくて大当たり。ボーナスタイムで稼ぎに稼いで、もう最後の方にはコインが百枚近くあったが、こんなもの持っててもしょうがないので全て使い切らなければならなかった。それで、二人は適当に金魚すくいで遊んでいたのだが、遊ぼうと思って遊んでいると、メダルは中々減ってくれない。

 そして、暫く遊んだ後に、もう飽きるほどしたという気分になると、田上はタキオンに「店員の方に返しに行かない?」と提案した。このメダルをどうすればいいのかは知らなかったが、まさか、この店の物をこの店に返して悪い事もないだろうと思って、そう言った。タキオンは、「うん、いいよ」と答えると、近くの店員を呼んで、稼いでしまったメダルをそのまま返した。

 二人は、手持無沙汰にまたUFOキャッチャーのコーナーを一回りした後、また韋駄天堂のキャラクターで遊べるレースゲームを見つけて、それを二人でやってみることにした。結果は、タキオンが一位で田上が二位だった。タキオンはレースで一位を取れたことだけでなく、田上と一緒に盛り上がれたことが余程楽しかったらしく、それが終わってしばらくしてからもニコニコニコニコとしていた。

 それで、二人共ゲームコーナーではやることが無くなった。だから、また手持無沙汰にぶらぶら歩き、近くのガチャガチャがずらりと置いてある所まで来た。

 そこを、何があるのだろう? と順々に見ていくと、途中でカフェやタキオンなどのアスリートウマ娘がデフォルメされて小さな人形になっているのを見かけた。田上は、このタキオンの試供品を一つトレーナー室に保管していたのだが、今ここには持って来ていなかった。

 タキオンは、カフェの顔を見ると嬉々として三百円をガチャガチャに入れ、レバーをくるりと回した。無論、カフェやタキオン以外にも、幾人かここ数年活躍しているウマ娘が居たから、カフェだけが当たるわけでもない。しかし、今日は何だか運が良かった。タキオンはカプセルから出てきたカフェを見つめながら、「まさか当たるとも思ってなかったんだがね…」と呟いた。

「今日は、運が良すぎたな」と田上が隣で、カフェの小さな人形を見ながら言った。

「ああ、…まぁ、これはあとでカフェに上げておいてやろう。特に喜ばないとも思うが」

 それから二人はその場を後にした。店を出るころには西から眩しく照らしていた夕日も、二人が家の前に着くころにはすっかり沈んでしまっていた。タキオンと田上は、「ただいまー」とそれぞれ言いながら、部屋の中へ上がって行った。

 

 夕食は田上も疲れていて考える気になれなかったので、ショッピングモールの方で、適当に好きな物を買ってから、家で食べることにした。

 夕食は適当に食べ終わり、空になったプラスチックのごみも処理すると、田上とタキオンは昨日のように座りながら、タキオンを田上が背後から抱き締めるような形で、夕食後の時間を楽しんでいた。と言っても、田上は疲れから少し口数も少なくなって、タキオンがぺらぺらと話す事に時折頷いているくらいだった。

 それから、タキオンが不図ショッピングモールでの出来事を思い出して言った。

「そう言えば、君お昼ご飯の時に、人に聞かれたくないと言っていた事が無かったかな?」

「ああ…」

「……なんだい?」

「………面倒な話だよ?」と田上は疲れ気味に言った。

「……なるべく理性的な話し合いにしようじゃないか」

「………お前は、いつ結婚するつもりなの…?」

「……卒業したらと言わなかったかな?」

「……十八で?」

「……お望みとあらば、四月十三日の十九の私の誕生日まで遅らせるくらいはしてあげてもいいがね?」

「……十九で結婚するの?」

「……何か問題でも?」

「……普通の人は十九じゃ結婚しないよ」

「…じゃあ、何歳で結婚すると思う?」

「……大学卒業した後とか、……少なくとも、成人したらじゃないか…?」

「……近頃は、十八歳を成人としようとする話も持ち上がっているそうだがね?」

「ああ。……それでも、十八は、まだ若いよ…」

「………なら、君はどうしたい?」

「……どうしたいんだろう…」

「……理性的になるのならば、君は私の事を大切に思っているという事を思い出したほうが良いかもしれないがね」

「…………むしろ……」

「むしろ?」

「……お前には、――大人になってからね、って言った方が良かったんじゃないかとも思う…」

「…大人の定義は?」

「……成人…」

「法律で自由に変えられる代物だし、時代によっても、国によっても、その定義は違うものだと思うがね?」

「……世間の常識は、未成年は結婚しないもんだよ」

「……」

「………俺が、…嫌だったり苦しかったりするのは、………誰かに責められたくない…?…そういう事だったりするんだよ…」

「……ネットを見ればね…。そういう悪口雑言をストレスの捌け口としてぶちまけている人は居るけど、…人間が物を見る尺度って言うのは、何も『常識』だけじゃないっていうのは、ここ最近気が付いたね…」

「……」

「……君がね、私が…月曜だったかな?雨降りの日に、差別とか優生思想の話をしたのを覚えているだろう?」

「ああ…」

「…その時に君が言ったんだよ。…何だったかな?…――そういう考えは人を傷つけるんじゃない?というような趣旨の言葉を。その言葉をね、ここ暫く考えてて分かったのが、何も世の中を見る尺度ってのは『科学』だけじゃないんだなって。…そう。私だって、オタクの事を少しバカにしてみたりしたが、実際、ここに居る私の彼氏がゲームオタクだ。そして、私は君の事をバカにしようとは思わない。それは、尊敬しているのもあるが、それ以前に、私の大切な人だからだ。…そう。火曜日にもそれを言っていた、君が。――お互いの事を大切にしながら話をしようって。それでもっと考えが深まった。…だから、…つまり、人を目の前にしてみた時、そこには『科学』以上に大切にしなければいけないものがある。『人間関係』と人は言うかもしれないし、…別に人間関係なんて気にしなくてもいいよ、とひねくれた人間は言うかもしれない。私も半分そっちの方だった。勿論、君の事は大切だったんだが、私自身の事だって、とても大切だったから、我を押し通すような話しぶりを君の前で何度もしたかもしれない。…すまないね…」

「気にしてないよ」

「うん。…ありがとう。…ただ、私は、今日まで、私自身こそが、科学こそが、私の考えこそが大切な物だと信じてきたから、いつまで経っても穴から抜け出せていなかった。君が私に教えてくれたんだよ。…言わば、世の中を見るのは一つの視点だけじゃないとね。…だから、常識で言えば、私と君が未成年で結婚したら、白い目で見てくる人もいるかもしれないが、そういう人たちが私たちという個人を目の前にして、実際に話してみれば、『常識』をかなぐり捨てて、『人付き合い』という視点から私に話すだろう。実際に、心の内で何を思っているのかは知らないよ?しかし、いざこざを起こさないためには『常識』という視点は不必要だ。なるべくいざこざを起こさないために『人付き合い』という視点を持って、無闇に私たちに暴言を吐かない人の方が圧倒的多数だろう」

「………偶には、…お前みたいな常識のない人が変な事を言う事もあるよ…」

「私みたいなぁ?」と言って、タキオンは後ろを振り返ろうとしたが、上手く振り返ることができずに、そのまま話を続けた。「私、常識が無いのかな…?」

「……トレーナーと付き合おうとするくらいには、常識が無い…。…それを言ったら、俺もだけど…」

「君の様な常識人を捉まえて、常識が無いなんて言うのはどうかしてるよ。…むしろ、常識が無い人たちに、嘘の常識を教えられているんじゃないのかな?」

「………どうだろうね…」

 それから、二人は暫く黙った後に、タキオンがまた口を開いた。

「君が人に聞かれたくなかったのは、結婚をいつするのかって話かい?」

「んん?」

「結婚の話かい?人に聞かれたくない話ってのは」

「………どうだろう……」

「…君、もう疲れてる?」

「んー……、まぁ、詳しく言えば、……子供の話だよ…」

「子供?」

「……うん…。……いつ作るのかって話…」

「……結婚したら?」とタキオンも多少迷いながら答えた。

「……十八でぇ?……それで、十九の時に産むの?」

「……」

「……お前はただ俺と一緒に居たいだけだろ?」

「……」

「………だから、俺はお前が幼気な少女じゃないかと思うし、お前が年上に憧れてるから、俺の事を好きなんじゃないかと思うんだよ」

 すでに感情的になっている田上の言葉を浴びせかけられて、自分までも感情的になりそうな気がしたが、タキオンは苛立つ感情を必死に堪えてこう言った。

「じゃあ、君は、私のことは大切じゃないと?」

「……大切だよ…。一人の友人として…」

「……なら、…それでいいじゃないか…」

 田上は苦しそうなタキオンの声を聞くと、自分が投げつけた感情に気が付いたが、何かこの話の答えになりそうな言葉を言うことはできなかった。

 

 それから、二人はお互いの体温をじっと黙って感じた後、田上の「風呂に入ろうか」という言葉でそれぞれ動き出した。

 タキオンも田上も風呂に入ってみると、多少気分がさっぱりできた。そこで、また多少考えを巡らせたり、それを湯で洗い流して忘れたりしながら風呂から上がった。

 田上が風呂から上がると、またタキオンが昨日と同じように、布団を敷き、その中に丸くなって田上を待っていた。そして、上がってきた田上が部屋に入ってくると、被っている毛布の端を上げて、「おいで」と言った。今日は、田上もタキオンの誘いに乗る気が起こったので、少し微笑みながらタキオンに持ち上げられた毛布のなかに入っていった。

 タキオンは、田上を毛布でしっかり包めるように少し整えてから、自分も毛布のなかに入って彼氏と向かい合った。少し話したいことがあったのだが、まずは先程の傷を癒やすために、二人でしばらく触れ合いを楽しんだ。タキオンは「愛してる」と言いながら、田上の頬を撫でた。田上は、返事こそしなかったが、嬉しそうに顔を綻ばせてくれた。

 暫くそんなことをしてから、タキオンはこう言った。

「君はさ…」

「うん」

「人間の善悪の判断基準? …いや、…物事の判断基準は、善悪だと思うかい?」

「……善悪だけじゃないんじゃない?」

「………私もそう思う…。…しかし、善悪は人間の判断に大きな影響は与えているよね?」

「…まぁ…、そうかもしれないね…」

「……君もそんな感じなのだろうが…、しかし、善悪という判断基準は果たして正しい? …いや、正しいという表現よりかは、……メジャーなのだろうかね?」

「善悪の判断基準がメジャーか?」

「そう。どう思う?」

「………あんまり言ってる事が分からないな…」

「んー……、メジャーという質問よりかはね……、正しい?というよりも、……んー、……善悪という判断基準に私達は固執するべきか。それとも、この世の中には善悪よりも偉大な価値観が果たして存在するのか?ということだね」

「はぁ」と田上はよく分からなさそうに頷いた。「……善悪よりも偉大な価値観がこの世にあるか?」

「そうだね。……君はどう思う?」

「………分からん…」

「…私は、感情なんかがそうじゃないかと思ったりもするがね」

「…感情?」

「そう。君と私の場合でもそうだが、理性を感情が凌駕するときがある。いや、…そうでもないかな?」

「……そうでもあるんじゃない?」

「…………いや、私が言いたかったのはだね、…私達は今こうして正体が分からないものに対して、悶々と悩んでいるじゃないか。君が、私に罪悪感を持っているのでもいいし、私の宝塚記念でもいい。そして、こうやって悶々と悩むのって本当に辛いじゃないか。君もそうだろう?」

「そうだね…」

「そう。…だから、…まぁ、言ってしまえば、世界がぱっと変わるような価値観が欲しい。君と私が、仲良く結婚して幸せになれるような価値観が欲しい。しかし、このような悩みを善悪という判断基準が解決できるのかな?という話だよ」

「ふむ…」

「私達の仲で言えば、君は悪だと思っているだろう?悪しき事だと」

「なか?」

「…私達の間柄だね。恋人という間柄。それを善悪という判断基準で判断してみると、君と私の仲は悪だということになるだろう?」

「まぁ、…そうだね」

「……仮に、その価値基準が絶対だとすると、君は私と結婚してくれないの?」

「……」

 田上は、上手く答えきれずにタキオンを見たり、目を逸らしたりするだけだった。

「……まぁ、それは今回の話で重要な…、別に重要でないわけじゃないが、…一先ず、今話し合うべきことじゃなかった。……私は、……君と結婚したら幸せになれると思うんだよ…。君ほどに根気よく私の話を聞いてくれる男性は、この世に数少ないもの……。……でも、まぁ、…考えてみれば、私が君を救いたいだなんて言っているだけで、君にも彼女を選ぶ選択肢くらいはあるわけだからなぁ…」

 タキオンの声は段々と萎んで小さくなっていった。田上はこれを聞いて、僅かと言わず動揺を覚えた。それでも、考えがまとまらずに何も言えないでいると、タキオンが続けて言葉を並べた。

「……まぁ、君は私の事を好きだと言ってくれたんだがね…。……私の事捨てたい?」

「捨てたくなんかない」と田上は、自分が思ったよりも掠れた小さい声を出して答えた。そんな田上の言葉を聞いて、タキオンは少し安心したように微笑を浮かべた。

「……私って、君に嫌なこと沢山言ってきたし、未成年だし、君の悩みの種だからなぁ……」

「お前のことは好き」と田上はやっとの思いでそう言った。

「……君が無理をして、私の事を好きだと言うんだったら、私の事は全然フッてくれても構わないよ…? …チームもまた、以前のように続ける。今フッてくれたら、また前の関係に戻れるような気はするよ?」

「……」

 田上は不安げな顔付きで、頻りに視線を左右にきょろきょろと動かすだけだった。

「……ねぇ、少し答えてみてくれよ……。君は今泥沼を進もうとしているんだよ? 私と繋いでいる手を離せば、また前の関係に戻ることができる。しかし、これからも君が私と手を繋ぎ続けるというのならば、君は、その繋いだ手から生み出される倫理や罪悪に苛まれ続けなければいけない。……終わりの見えない長い道だよ? 何年も何年もかかって漸く私と真面に向き合える日が来るかもしれない。そして、その間君はずっと延々と心を苛まれ続けるんだ。君の体内と行動から生み出される矛盾によって。それでも、君は私とこれからも生き続けたいと思うのかい? 苦しみの根源と手を繋ぎたいのかい?」

 田上は、具合の悪そうな顔で頻りに目だけをきょろきょろと動かすばかりだったが、やがて、「お前と生きたい…」と掠れた声で言った。タキオンは、その人の頬を優しく悲しげに撫でた。

 それから、タキオンはもう話を切り上げることにした。もう少し話したい事もあったような気がしたのだが、田上は疲れただろうし、自分自身ももうあまり考えがまとまらなくなってきたので、眠ることにした。

 だから、タキオンは「私はもう寝ようかな」と独り言のように言うと、「君はどうする?」と田上に聞いた。まだ、夜もそこまで更けていなかったので、田上はパソコンやらゲームやらをするのじゃないかと思ったからだ。

 しかし、田上は、ぼんやりと憔悴したような声で「寝る…」と答えた。その声に、タキオンはもう一度田上の頬を優しく撫でてから立ち上がると、部屋の照明をカチカチと紐を二回引っ張って消した。

 二人の間に真っ暗な闇が訪れたが、タキオンは、田上の隣の毛布に潜り込んで、多少安心して肩を寄り添わせながら、いつの間にか寝息を立てるようになっていた。田上も寝付きはあまり良くなかったが、タキオンの寝息を聞くうちに、また自分も静かな寝息を立て始めた。

 

 日曜の朝は目覚ましをかけていなかったので、自然な目覚めで、タキオンの方が先に目を覚ました。スマホの時計を見てみると、まだ八時四十分頃だった。隣の田上はまだ目を覚ましていない。タキオンは、そんな田上にもう少し身を寄せて、頬擦りをすると「愛してる」と呟いた。言うまでもなく、田上には聞こえていないのだが、タキオンはそれを言うと少し満たされた気分になった。そして、もっと田上にくっつきたくて、何の文句も言わない彼氏というのを享受したくて、タキオンは半身を田上の上乗せるようにして首に手を回して抱き着いた。

 本当ならば、もっと抱き着きたいとも思ったのだが、田上の眠りを妨げるのも申し訳なかったので、タキオンはそれをしなかった。そしてまた、田上の首に自分だけの物だという印をつけたいという欲望が、鎌首をもたげてやってきたが、タキオンは丁寧に息を吸って吐きながらそれを押し止めた。

 ただ、タキオンは田上をもっと身近に感じたかったから、そこでじっとしているというわけにも行かなかった。タキオンは、身を起こすと、田上の上に四つん這いで覆いかぶさった。そして、その彼氏の顔をまじまじと見つめた。こうやって見てみると、なんの取り柄もないように見えるが、その実、中身は優秀なトレーナーであり、タキオンの最高の友人であり、最愛の人なのだ。ただ、見れば見るほど取り柄も何もないように見えてくるので、タキオンは少し自分が嫌になった。こんな男だって、目を覚ませば自分の最高の恋人なのだ。

 タキオンは、田上の顔をどんなものだろうと思って一頻り眺めた後、身を起こしてトイレに行ったり顔を洗ったりした。しかし、何だか田上の傍から離れる気も起きなかったので、また結局布団に戻ると、田上のよこに寝転がった。ただ、その時には昨日買った結婚雑誌を持ってきて、それをぼんやりと見つめながら、時折、隣の彼氏の顔を見つめた。今見てみると、中々可愛い顔立ちをしているような気がした。

 

 やがて、タキオンが雑誌を見つめていると、唐突に彼氏が動き出して、自分の体を抱き締めてきた。雑誌に夢中になっていたタキオンもそうされると、嬉しそうに微笑みながら、まだ寝ぼけている彼氏を見つめた。

 彼氏の方は何も言わずに、タキオンの体に顔を埋めてきていたから、タキオンはとりあえず「おはよう」と声をかけてあげた。すると、向こうの方も「おはよう」と眠気の残る声で挨拶を返し、暫くしてから「愛してる…」と呟いてきた。

 タキオンは、その頭に手を伸ばして優しく撫でると「私もだよ」と答えてあげた。それからまた暫く、田上は黙りこくっていたのだが、やがて、唐突に「ごめん…」と謝ってきた。タキオンは、田上から悪いことをされた覚えがないので、当然「何がだい?」と聞き返した。田上はまた少ししてから口を開いた。

「………昨日の夜の事…」

「…昨日の夜? ……君が謝るような事を何かしたかい?」

「……」

 田上は何も答えなかったが、タキオンも田上が何を言いたいのかまったく分からなかったので、黙って見つめることしかできなかった。すると、また暫くしてから田上が重い口を開いた。

「…………お前にまで……、重荷を背負わせることになった」

 その言葉で、タキオンの方も合点がいった。

「ああ。それは、今に始まったことじゃないじゃないか。付き合い始めたときから、君とは色々なことを考えなければいけなかったもの」

「……お前だって、俺の手を放したほうが楽になれるんだぞ…。……お前だって、苦しまない方を選んだほうがいい…」

「そんなの初めから答えは決まっているとも。私は常に君との結婚の道を模索するために考えているんだから」

「………それで、お前と結婚しない道を選んだら?」

「その時は、また話し合うしかないさ。君が、私と共に生きたいと言ってくれた以上、私は限界まで君といっしょに生きる方法を探すとも。それでももう限界だってなったときに、私も諦めなければいけない。ただ、今は全く限界でもなんでもないから、そんな時に諦めるのは愚かだよ」

「……限界は?」

「限界? …その時が来たら分かるだろうね。でも、今は限界でもなんでもない」

「……苦しいのは嫌だろ…?」

「なに、私はこうやって話せるだけでもいいんだよ。…いや、私だって我儘を言うことはあるかもしれないが、私の一番の目標は、君という生涯のパートナーを得ることだよ。そこには善悪もないし、感情もない。ただ、君という生真面目なことで悩む誠実な人間とのこれからを想像しているだけなんだ。例え君が不誠実になったっていい。ただの平凡な人間でもいいから、傍に居たいと思うんだ。君という人間と傍に居たいんだ。…例え断られたって、私が君のことを好きだったという事実はこれからも変わらないんだよ」

 田上はしばらく返事を寄越さなかったが、やがて、タキオンを抱き締めたまま「ありがとう…」とポツリと呟いた。そして、より一層強くタキオンのことを抱き締めた。タキオンも彼氏が甘えてくることが嬉しかったので、しばらくそれを放置して、自分はまた広げてあった雑誌の続きを読んだ。

 

 田上はまあまあ長いこと、タキオンの体にしがみつくようにして抱きしめていた。それを、読んでいる雑誌から目を離して時折見つめるのが、タキオンの至福の時だった。

 やがて、田上も唐突に立ち上がると、トイレに出掛けていった。それで、タキオンももう至福の時は終わりかとも思ったのだが、顔まで洗って戻ってきた田上は、やっぱりまたタキオンと同じ布団に入って、先程同じように強く抱き締めてきた。だから、タキオンも思わず微笑みながらこう声をかけてしまった。

「朝ご飯はまだ食べないのかい?」

 田上は子供のように無言のまま、小刻みに首を左右に振った。俯いていたので顔は見えなかったが、その様子がタキオンには少し可愛く思えて、その頭の髪をくしゃくしゃと乱すように撫でて、少しの間可愛がった。

 暫くすると、漸く田上の気も収まったのか、顔を上げると「朝ごはん食べる?」とタキオンに聞いてきた。もう時刻は九時をとうの昔に超していて、十時の方が針が近くなっていた。

 タキオンは「食べる」と頷くと、田上と一緒にのんびりと起き上がった。それから、またトイレに行くと、田上と一緒に朝食を作ることにした。

 

 田上と一緒に朝食を作ると言っても、大概田上は見守るだけなので、特にこれと言った手出しはしない。それでも、タキオンは田上が傍に居ると楽しかったので、少なくとも、自分が何も考えないで調理器具を扱ったり、食材を持ち出せるようになるまでは、田上に傍に居てもらうつもりだった。

 今日の田上は、いつにも増して寡黙と言うか、ぼんやりしていると言うか、穏やかと言うべきか、そのような表現で表されるべき様子のような気がした。まだ、起きたばかりかもしれないが、それでも、少なくとも田上が目を覚ましてから三十分以上は立っている。もう目くらいは冷めても良さそうだったが、今日はぼんやりとした面持ちで、タキオンが聞いた事に、これもまたぼんやりとした声で答えていた。

 朝食もまた穏やかかつ、ぼんやりだった。いつもはもう少し真剣な顔をして食べているような気がしているのだが、今日は少し目の端がトロリと垂れているような感じだった。眠たげと表現しても良いような気がするが、少なくとも、聞いた事には答えてくれる。それに、起きてからも時間が経っているし、欠伸などの眠気を表現する様子も見受けられない。ただ、少しぼんやりしているという表現が正しいような気がした。

 朝食を田上が先に食べ終わると、まだ食べているタキオンの様子をじっと見つめてきた。目は、まだ先程の様にぼんやりとした様子だったが、こう見つめられてみると、その視線には自分に対する愛おしさも込められているような気がした。タキオンは、そんな田上と時折無言で目を見かわしながら、美味しい朝食を一口ずつ頂いた。

 

 タキオンも朝食を食べ終わると、二人で食器を片付けた。手早くパッと済ませることができたのだが、時刻はもう十一時に近くなっていたから、二人で「昼食は腹が空いてなさそうだな」と話した。

 食器も片づけ終わると、田上がタキオンに「散歩に行こう」と誘った。特に大した用事があるわけでもなかったので、タキオンは快く了承すると、それなりの服に着替えて外に出ることにした。

 靴を履いて外に出た。まだ涼しく心地の良い陽気だった。そして、夏の近づく空気のいい匂いがした。この季節独特の匂いと言っても良いだろう。木の葉が醸し出すような、空気中の湿気が発するような、それと、空気の温度がその匂いを左右しているかのような匂いだ。今の空気の匂いを嗅ぐ限りでは、涼しい空気の匂いと共に、春の残り香のある夏の近い季節の匂いだと形容できるような気がした。

 ただ、匂いを言葉にするのは難しかったので、ただタキオンは、その匂いを感じると共に、ドアを開けて待ってくれている彼氏を見るだけだった。

 

 田上とタキオンは、アパートの駐車場をぶらぶらと歩いて、敷地の外に出ると、歩道のない道路をぐるりと回り、自分たちの部屋のベランダから見える公園へと足を運んだ。

 田上は先程からタキオンに甘えたかったり、強く強く抱き締めたい衝動に駆られていたのだが、それは何とか手を繋ぐだけに押し止めていた。何だか、この、夏に近づいている空気が、自分をそうさせているようにも感じたが、特に根拠はなく、その衝動を堪えているだけだった。

 公園に着いても、田上の心はむずむずとしていた。今すぐ、タキオンに子供の様に甘えたかったし、猫の様に包まれてみたかった。いや、本当はそのどれでもないかもしれないのだが、そうするとこの胸のムズムズを形容するのは難しかった。やはり、この感情は匂いを感じるような表現で表されるべきなのかもしれない。

 田上とタキオンは、公園に入って何をするのか少し迷った後に、二人で仕方なくベンチに座った。田上は、胸のムズムズによって自分が何をするべきなのかも分からなかったから、タキオンに何をするのか問われても何だか要領を得ないまま迷っていた。しかし、ベンチに座った時になって、やっと田上はこう言うことができた。

「猫になりたい…」

「猫? なぜだい?」とタキオンが、春の陽気の中にある芳醇な香りを身に纏わせながら聞いた。

「……満足したいから…」

「……顎でも撫でてみればいい?」

「…いやだよ…」と田上は断ったが、その時にはもうタキオンが田上の顎に手を伸ばして、指先でくすぐるように撫でてきていたから、嫌がりながら首を横に振った。タキオンはハハハと楽しそうに笑ったが、田上はまたぼんやりとしながら話を続けた。

「………お前に甘えたい…」

「……今日の朝は、私に甘え通しだったがね」

「……今日の朝はね…。…あの布団で寝ぼけてる時が一番甘えられるんだけど、…まぁ、起きてしまったらしょうがない…」

「私はいつでも大丈夫だがね」

「……まぁ、………満足したいのが目的であって、…お前に甘えるのが目的じゃないんだよ…」

「そうかい?」とタキオンが多少がっかりしたような声を出した。それを聞くと、田上はハァとため息を吐いてから、公園の向かい側にある空のベンチを見つめた。

「いや、……甘えたくないわけじゃないんだけどな…。別に、甘えたいわけでもない。それに、…甘えたからには満足をしたいし、甘えたからって満足できるわけじゃないのは知ってる…」

「…まぁ、…一旦どうだい? 私の膝枕をしてみては。のんびり話すのに膝枕も座るのも変わらないだろう?」

 タキオンがそう言うと、田上はタキオンの顔を少し見てから「まぁ、そうだな…」と抑揚のない声で頷いた。それからゆっくりと億劫そうに体を動かすと、タキオンの膝に頭を乗せて、一瞬タキオンの顔を見、その後に公園の景色に目を移した。近くの木からは小鳥がピピピと頻りに鳴いているのが聞こえた。

 景色を見つめて一頻り黙った後、田上はタキオンの顔を下から見上げながらこう言った。

「お前の体を万力込めて抱き締めたい」

「…やってみればいいんじゃないかい?」とタキオンは、平然としながら答えた。

「……やったところで…。……万力込めて抱き締めるのが目的じゃないんだよ」

「満足するのが目的と」

「そう。………満足したい…」

「……何をしたら満足できると思う?」

「………知らない…」

「……私なんかは、運動したらいいんじゃないかと思うけどね。一度、心底息が切れるまで走り切ってみたら、満足するんじゃないのかな?」

「……その満足は一時的なものじゃない…?」

「まぁ、そうかもしれないね。…しかし、一事が万事とも言うんじゃないのかな?」

「……使い方あってる?」

「さぁ」とタキオンはとぼけて見せた。「しかし、……君の家には外に出て遊ぶ道具が何一つないね…」

「靴…」と田上が呟くと、タキオンが面白そうにニヤリと笑いながら、田上を見下ろした。

「靴で遊べるんだったら、子供はゲームなんてしないね」

「………なにもないな…」

「だろう? 今から買いに行くかい? 百均なんかそこら辺に無いのかな?」

「んー」と田上は適当に唸った後、「知らん」と答えた。

 その後にタキオンは一つ深呼吸をしてから口を開いた。

「………何にもやる事が無いね…」

「………満足ってどうすればいいと思う?」

「…満足?」

「うん…」

「………どうだろうね…。…薬物…?」

「薬物?」と田上は、少し口角を上げながら言った。「普通に捕まるだけだろ?」

「まぁ、…そもそも薬物じゃなくても、酒でいいんだからな。…酒じゃなくて煙草でも…」

「……煙草ねぇ…」と田上は呟いた。それから、急に出来心が湧くと、タキオンの膝からごろんと転がって、地べたの芝生に寝転んだ。そうすると、かぐわしい草と土の匂いが田上の鼻に入り込んできて、少しいい気分になった。そうやって、地べたから見上げてくる田上を見下ろすと、タキオンはこう言ってみた。

「そこ、…犬が糞をした場所かもしれないぞ」

 その言葉を聞くと、田上は嫌そうに顔をしかめて、とりあえず起き上がって、自分の背中を確認し匂いも少し嗅いでみた。今の所、そのような刺激臭はしてこない。そして、田上はタキオンの顔を見上げながら「お前、嫌なこと言うなぁ」と言い返した。タキオンは、微笑むと、自分も地べたに座って寝転がった。

 その後に、田上の顔を見ると、「君も寝っ転がってみてごらんよ」と言った。田上は、先程のタキオンの言葉によって、少し寝転がる気が失せていたので、座ったままタキオンの顔を見た。タキオンは田上に向かってにやりと笑うと、空を見つめながら言った。

「どうせ、土になってしまったら猫の糞も犬の糞も一緒だよ。それに、大概は雨が洗い流してくれるんじゃないか?」

 田上はそう言ったタキオンの顔をジロリと睨むように見つめていたが、やがて、唐突にタキオンに近づくと、半身を覆い被らせるようにタキオンの顔を覗き込んだ。そして、暫く二人は見つめ合った。

 田上は、実の所、これからどうすればいいのか分かっていなかった。好きだと言ってみたかったし、その後にタキオンと自分が満足できるほどに抱き締めてもみたかったのだが、生憎の所、ここは公園で、近くはないが遠くもない所にしっかりと人目があった。

 しかし、今ここでタキオンを抱きしめて見た所で、大抵の人は年若い恋人同士の若気の至りだと思って見逃してくれるだろう。

 タキオンは、何かに迷うような表情をしながら自分の上に覆い被さってくる田上の表情を暫く見つめた後、その頬に手を当てると「可愛いね」と言って撫で擦ってやった。田上は照れたのか嫌だったのか、反応に困った表情をした。

 それから、自分の方もタキオンの頬を撫でると、「お前も可愛い」と言った。そして、キスをしてみようかどうか迷った。今なら、キスをしても問題ないような気もする。タキオンだってきっと受け入れてくれるだろう。しかし、人目がある。だが、誰が自分たちの事を気にする?

 田上はそう思うと、囁くような小さな声で「キスしてもいい?」とタキオンに聞いた。タキオンはしっかりと頷いて、田上がキスしやすいように目を瞑ってあげた。それでも、少しの間、田上は踏ん切りがつかずにそっと指先でタキオンの頬を撫でていたのだが、やがて、恐る恐る躊躇うようにタキオンの唇にキスをした。なんだか、これが満足かもしれないとも思うような気がしたし、そうじゃないと思うような気もした。

 しかし、まぁ、彼女とキスをした喜びはあった。田上が唇を離すと、多少の嬉しさによって脳は支配されていた。次いで、この彼女を力強く抱きしめたいとも思ったが、そこまでの余力はなかったので、ふぅ…ととりあえずため息を吐きながら、タキオンの横に同じように寝転がった。

 すると、今度はタキオンが半身を起こして、田上の方を見てきた。と言っても、先程の田上の様に覆い被さるのではなく、田上と顔を見ながら会話したいがために半身を起こしただけだった。

 タキオンは優しく微笑みながら、隣の可愛い彼氏の顔を見た。隣の彼氏は、自分がやったことを自覚しながらも、自分は悪くありませんよというような表情をしながらタキオンの顔を見返した。

 タキオンはその少し上がっている口の端を指でちょんちょんとつついた。すると、もっと上がって、田上の顔の笑みももっと大きいものとなった。そして、変わらずな低い声で、しかし今の状況を面白がる声で「なに?」と聞いてきた。

 タキオンは、またちょんちょんと田上の頬をつつくと、「可愛い奴だね」と言った。田上は口の端を嬉しそうに歪めながら、少しばかり満たされたような心地になった。

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