ケロイド   作:石花漱一

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三十八、通り道⑤

 公園の芝生の上でしばらく寝て過ごしていると、やがて、小さな男の子がタキオンの顔を恐る恐る覗き込んできた。そして、タキオンと目が合うと、恐々といった様子でそっと離れていった。

 タキオンはクスクスと笑うと、上半身を起こして逃げていった男の子を見た。男の子が歩いて行った方には母が一人、ニコニコとしながら立っていた。タキオンとその母の目線が合うと、母が軽く頭を下げてきたので、タキオンも口の端に笑みを浮かべながら頭を下げ返した。男の子は、まだタキオンの事が気になるようで、こちらを警戒するようにじっと見てきていたが、母の陰に隠れようともしていた。

 タキオンは、その男の子のことを可愛いと思って見つめた。自分を警戒するように見てくる仕草が彼氏に似ているようにも思うが、それ以上にタキオンは、母親になるべき人間として、その男の子の事を可愛いと思った。自分にもあんな男の子を息子として可愛がりながら、公園に連れて行く日が来るのだろう。

 その日が来るのを待ち遠しいと思ったが、単純に待つにはまだ様々な問題が残っていた。しかし、今はそんな事は忘れて、タキオンはその目を男の子と母親にだけ注がれていた。母親の方も、もしかしたら、自分たちとそんなに歳は変わらないのかもしれない。男の子が三歳頃だろうから、二十で産んだとしたら、二十三だろう。しかし、二十で産むというのもそんなにないかもしれないから、となると、二十五とか、それ以上とか、それ以下とか、そこら辺とかだろう。もしかしたら、田上との方が歳は近いだろう。

 ただ、そんな年齢の差はあれど、見た限り若そうなお母さんであり、母としての経歴であれば、タキオンより三年ほど先輩と言うだけなので、まぁ、三年ほどの母なりの苦労は積んできているだろう。そして、これからの子供の予定もあるまだ若い人だろう。

 そう思っていると、タキオンは、そのお母さんと話してみたくなった。そして、都合よく、お母さん方からこちらの方に来てくれた。どうやら、男の子が警戒しながらもタキオンに興味を持っているのを見て、お母さんの方はその男の子の興味を確かめる手伝いをしているようだった。ただ、一定の所まで来ると、お母さんの方も歩を進めるのをやめてしまったので、今度はタキオンの方から近づいて行った。

 タキオンにしては人の当たりの良い女性の声を出しながら親子に話しかけた。田上は、もうその時から狸寝入りを決め込んで、目を瞑って寝ていた。

「何歳ですか?」

 そうタキオンは聞くと、母親の方は少し驚いたように目を見開いてから、下に居る子供の方を見、そしてまたタキオンを見て言った。

「三歳になったばっかりです」

 おっとりとした口調で話す人だったから、タキオンも話しやすかった。

「へー」と男の子を見て頷きながら、またこう聞いた。「お名前の方は?」

「こうきです」

「へぇ、…こうき君、こんにちは」

 男の子は、不安そうに母親の方を見るだけだったので、タキオンは思わずふふふと笑ってしまった。母親は、子供の方を見下ろしながら「こうき君、人見知りなんだよね」と言った。タキオンはそのやり取りを見て、またふふふと嬉しそうに笑った後、「可愛いですね」と言った。母親も嬉しそうに微笑みながら頷いた。

「よく言われます。昨日なんか、一日に三回も知らない人から声をかけられちゃったもんね」

 最後の言葉は子供に向けてだった。子供の方は、よく分からなさそうに母親の顔を見返していた。

 タキオンは、しゃがんだ状態で少し子供の方に近づきながら、母親に話しかけた。

「今日は、公園に遊びに来たんですか?」

「そうです。人見知りだけど、年上のお兄さんお姉さんに遊んでもらうと、結構、それが知らない人だって事を忘れて楽しんじゃう子ですからね」

「寝ていた私たちの顔を覗き込んできたときなんかもびっくりしてしまいました」

 母親はふふふとうれしそうに笑ってから、今度はタキオンの方に質問をしてきた。寝ている田上の方に目を向けながら、こう言った。

「そちらの方は、お連れの方ですか?」

「ああ、はい。連れ合いです」

「もうご結婚されて…?」

 そう言われると、タキオンはニヤリと嬉しそうに笑った。

「いえ、実の所まだなんです。…私、まだ十八ですから」

 すると、母親は驚いて目を丸くし、口に手を当てた。

「まぁ、まだ十八ですか?随分と大人びた方で…」

「彼氏の方に影響されたのかもしれません。…向こうは二十五ですから…」

 すると、母親はまた開いた口に手を当てるのも忘れて、地べたに寝転がって寝ているふりをしている男性の方を見た。

「はぁ~、…二十五ですか…」

「そうです。だから、卒業したら結婚しようと言っていたんですけど、ここ最近は、やっぱりやめたほうが良いとか何とか、…悩んでいる感じですね…」

「はぁ~……」

「……実際、どう思いますか?…高校生と大人の恋愛はご法度だと思いますか?」

「ご法度…?……二十五歳と十八歳ですか?」

「正確には、彼の方は今年の八月で二十六です」

「はぁ……、という事は、八歳差ですか?」

「そうですね…」

「私の…連れ合いの方は、私より五歳年上ですよ?…それを考えると、…八歳差……良いんじゃないですかね?私の友達の方にも、七歳差で結婚した人がいたような気がします」

「……ただ、彼は少しばかり頑固なので、ちょっと説得したくらいじゃそんなに動かないんですよね」

「へぇ…」

「……奥さんの方は、今何歳ですか?」

「私は、今二十五です」

「へぇ……、いいですね…」

 タキオンは、子供の方を見つめながらそう言った。母親の方も、タキオンと田上の恋の複雑さに気づき、そのタキオンの眼差しに宿る子供への愛おしさを見てとった。そして、子供が欲しいと思うように、彼との結婚も夢見ているのだろう。母親は、同じ恋の旅路を歩んだ仲間として、俄然タキオンの行方を応援したくなってこう言った。

「きっと良い夫婦になれますよ。悪い事もそう長くは続かないもんです。きっと、五年後とかには、赤ちゃんを抱っこして笑ってますよ」

 母親のその励ましの言葉にタキオンは、少しだけ嬉しそうに微笑んで「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。それから、子供について、少しの間言葉を交わしていたのだが、やがて、子供の方も母親たちが話しているのに我慢できなくなったのか、「ブランコ!」と駄々をこね始めた。母親は、タキオンに「すみません」と謝りながら、立ち去って行った。タキオンもその人に「こちらこそ引き留めてしまって申し訳ありません」と謝って、その背を見送った。

 隣では、見計らったように田上が唐突に身を起こした。タキオンはまだ先程の幸福感を少し表情に表しながら、田上にこう言った。

「あの人は、私たちの事を応援してくれた」

 田上は、思ったよりも明るかった陽気に目を細めながら、タキオンを見た。しかし、なにも目を細めているのは陽気だけが理由ではなく、表情は――何を余計な事を言ってるんだ、という気持ちを物語っていた。

 タキオンは、その表情を見ていると、少し腹が立ったので、唐突に「えい、えい」と言いながら、田上の脇腹を突き始めた。田上は、面倒臭そうにしながらも、タキオンとの触れ合いに表情の明るさを取り戻した。そして、「ごめん」とこれもまた唐突に謝った。タキオンは、そんな言葉は受け付けないと言わんばかりに、田上の腹に抱き着くと、そのまままた芝生の上に押し倒した。

 それから、二人は、芝生の上で夏の近づくぽかぽかとした陽気を楽しんでいた。

 

 正午近くになった。砂場の方で遊んでいたあの親子も水道の所で手を洗っていたし、向かいの方のベンチにはおにぎりをもぐもぐと口に含んでいる男の人も見受けられた。タキオンと田上は、鉄棒に寄りかかって立ったり、鉄棒でくるくる回って遊んだりしていた。時刻は昼近かったのだが、まだ二人共あんまり帰る気にはなっていなかった。

 そんな時に、またあの母親と子供が歩き出して、タキオンたちの方にやって来た。今度は男の子自らやってくるようではあったが、少し母親が遅れている事に気が付くと、立ち止まって母親の事を待っていた。

 母親はニコニコしながら、男の子と歩いてきた。田上はその様子に気が付いていたが、目が合ったとしてどういう反応をすればいいのか分からなかったので、気が付いていないふりをした。タキオンは、鉄棒の技を田上に一生懸命に披露していたので、近づいてくる男の子たちには気が付いていなかった。

 やがて、くるくる回るタキオンの足が当たらないくらいの安全な位置までやってくると、母親の方が「こんにちは~」と声をかけてきた。気が付いていないふりをしていた田上もそう声をかけられると、挨拶を返さないわけにもいかなかったので、「こんにちは」と低く呟くように声を発してから、小さく頭を下げた。母親の方も下げ返した。タキオンは、くるくると回っていた体を止めると、鉄棒から降りながら嬉しそうに「ああ、こんにちは」とこちらも挨拶を返した。母親もまた頭を下げ返すと、足元に居る子供の方を見た。子供は両手に一本ずつ、小さな小さな黄色い花を持っていた。そして、とことことタキオンの方に歩み寄ってくると、「はい」と言って手渡してきた。タキオンは、本当に嬉しかったので、少々高い声が出てきた。

「わぁ、ありがと~。これ、こうき君が摘んできてくれたの?」

 子供はうんと頷いた。それから、――自分は関係ないだろうな、と思って、微笑ましそうにタキオンと子供のやり取りしている田上の方をチラリと見た。そして、母親が口を出した。

「お兄さんの方にもプレゼントがあるんだよね」

 その言葉を聞いて田上は、少し慌てながら男の子と目線を合わせるためにしゃがんだ。そして、タキオンに上げなかった方の黄色い花を受け取りながら「ありがとう~」と動揺気味に言った。

「まさか、俺まで貰えるとは…」

 その後に、もう一度子供に「ありがとう」と言うと、子供は少しニヤニヤしながら、走って母親の下まで行った。

 それから、母親の方が口を開いた。

「こちらの近くにお住まいなんですか?」

 これは、主にタキオンに向けられた質問のようだったので、田上はタキオンと母親の話を聞いているふりをしながらも、会話にはあまり参加しないという態度を取った。

 タキオンは、母親の質問に田上と母親の顔を交互に見つめながら言った。

「いえ、…週末に彼氏の家に泊まることにしてるんです」

 田上は、適当に相槌を打った。

「へぇー、…じゃあ、彼氏さんの方がここらの近くにお住まいで?」

「ええ、すぐそこのマンションに最近引っ越してきました」

「へぇー」

 そこで、話題が尽きそうだったので、今度はタキオンの方が口を開いた。

「奥さん…、お名前は?」

「ああ、古橋茜(ふるはしあかね)です。彼女さんのお名前は?」

「ああ、……アグネスタキオンです」

 実の所、この人には自分のことを有名人だと見てほしくはなかったのだが、嘘を吐くのも嫌だったため、しょうがなく本名を言った。すると、途端に母親の方は目を丸くして、タキオンを見た。

「…ああ、…あの…この前大阪杯を勝った…」

「そうです。…あの、…あんまり言いふらさないでくれると助かります」

「ああ、…ええ、勿論、はい、無闇に名前を聞いて申し訳ありませんでした。…とすると…」と言いながら、母親の方が田上の方を見てきた。タキオンも田上を見てから、母親に言った。

「こっちが、私のトレーナーの圭一君です」

 田上は緊張気味に少し頭を下げた。母親も思わず頭を下げ返すと、「はぁ~」と感嘆のため息を吐いてから言った。

「だから、歳の差があったのですか…」

「はい」

「……あの、…私は応援してますよ。良いと思います。別に、そんなに悪い事もしていらっしゃらないようですし、そのくらいであれば、全然付き合っても問題ないんじゃないかと思います」

「ありがとうございます」とタキオンは、頭を下げた。タキオンは、この人ともう少し仲良くなりたかったのだが、今となってみれば、もうそれは不可能なような気がした。そこで、丁度男の子も家に帰ろうと言い始めたので、二組は別れる事となった。田上とタキオンは、鉄棒に寄りかかりながら、道路の方を見て、ため息を吐いた。

「上手くは行かないもんだよ」とタキオンはぼやいた。田上は、そんな彼女の顔を少し見つめたが、やがて、また道路の方に目を戻した。

 道路と公園の間には側溝があり、その向こうに灰色のアスファルト道路があり、そのまた向こうにはお洒落な一軒家が立っていた。二階建ての薄茶の屋根に、白肌の家壁。そして、お洒落な窓枠。それから、庭には、プランターに色とりどりの花が植えてあり、家の周りを綺麗に彩っていた。

 この家に住んでいる人は、幸せな家庭を築いているのかもしれないと思えるような外装だった。きっと家の中もお洒落で整っているのだろう。しかし、田上とタキオンからはそんな事は確認できなかったから、ただ、家の外装を見てから、中に住んでいるお洒落で幸せそうな家族を想像するのだった。

 タキオンは、ぼんやりとその家を見つめながら「結婚したいなぁ」と呟いた。田上は、心の中でも、否定も肯定もしかねて、ただ、家の外装を見つめながら――お洒落な家だなぁ、と思うだけだった。

 

 二人共まだそんなにお腹が空いている気配はなかったのだが、なんだかここに居てもしょうがないという気持ちになったので、少し言葉を交わした後に、二人で家に帰ることにした。

 公園を出て、家に帰る短い道のりの中で、タキオンは田上にこう言った。

「あの古橋さんって人は、どんな人かなぁ…」

「あのお母さん?」

「そう。…どんな人だと思う?」

「……優しい人なんじゃない?」と田上が適当に答えた。「…少なくとも、ちょっと話してみた感じでは優しそうだった」

「そう。……あの人、優しそうだよねぇ…」

 田上は、タキオンが何を言いたいのかを掴みかねて、その顔をじっと見つめた。タキオンは、道に落ちている小石を蹴り転がしていた。

 そして、マンションへの入口へと続く曲がり角で、タキオンは小石を蹴るのをやめて、田上に話した。

「あの人ともう少し話してみたかったな…」

「そう?」

「…君は他人行儀だからね…、初対面の人とはあまり話したがらないだろうが…、…あの古橋さんは、……多少憧れもあるね。ああゆうお母さんになりたい」

 田上は、結婚の事となると途端に口が閉じるような性分だったから、今回もタキオンの顔をじっと見つめたのみで、何も話さなかった。タキオンも田上がそういう性分だって事は知っていたから、特に気にもしないで話を続けた。

「ああゆう感じの優しい、…幸せなお母さんになりたいなぁ…。それに、歳がそこまで遠くないというのも、一つ大きなポイントではあるね。恐らく、たった三年くらいの先輩だ。結婚した歳にあの子を産んだのかは知らないが、多分、あの上に兄弟は居なさそうな雰囲気だったよね?」

「…多分」と田上は答えた。

「……良い相談相手になりそうだもの。……また、話せるものかなぁ…」

「……近くに住んでるんだったら、また公園に来るんじゃない?」

「それを聞こうと思っていたんだったんだが、いつの間にか妙な空気になってしまったよ」

 田上は、何も答えずに、道のどこそこに目を泳がせた。

 田上が少し不安に思っていたことは、やはり自分はタキオンの重荷になっていたのではないかという事だ。タキオンは相談相手が欲しそうだった。という事は、相談すべき悩みもあるという事だ。そして、さらには、それを田上自身ではなく、他の誰かに相談したいというのも気掛かりだった。――自分じゃ、そんなに頼りないのだろうか? と田上は思った。確かに、頼りない自覚はあるが、…そう思うくらいであれば、頼りない彼氏をさっさと捨てればいいのに…。

 そうやって、田上がむっつりと黙り込んでいると、タキオンが田上に言ってきた。

「君、私は将来どういうお母さんになると思う?」

 田上は、タキオンをジロリと見つめた。それから、喉に込み上げてくる熱い物を押し止めながら、「知らん」とぶっきらぼうに言った。タキオンは、田上の顔をじっと見つめたが、家のドアの前に着くまでは何も言わなかった。

 それから、田上が家のドアを開けて、いつものようにタキオンが入るのを待っていると、タキオンがその顔を見つめながら言った。

「私、何か君を怒らせるようなこと言った?」

 また、田上の喉に忘れかけていた熱いものが込み上げてきた。そして、それを我慢しながら田上は「別に」と言った。タキオンはその言葉を信用していなかったが、玄関先で在る無いの問答をしてもしょうがないので、とりあえず、家の中に入って行った。

 

 手を洗って部屋に入ってから、タキオンは、「それで?」と田上に聞いた。

「それで?じゃあ、君はなんで落ち込んでいるのかな?教えてごらんよ」

「……落ち込んでない」と田上は、タキオンをジロリと見下ろしながら答えた。今更、そんな脅しのような目付きに怯むタキオンではなかったから、口元にいつものような笑みを浮かべるとこう言葉を続けた。

「なら、少し抱き合おうか。君は何もしなくていいとも。むしろ、私が強引に抱き締めたものだと思ってくれ」

 そう言うと、タキオンは、田上の体に優しく腕を回して、身を寄せた。田上は、身を引きたかったが、遂にそれも叶えられずにタキオンに抱き締められた。少々落ち込んでいた分、抱き締められるのもいつもと違うような感覚がした。例えるのならば、母に抱き締められているような感覚といってもいいのかもしれないし、ただ、単純に彼女に慰められていると言っても良いかもしれない。それとも、自分は身を引きたがっているのだが、彼女が優しく抱きしめてくれるから、少々嬉しく思っているのかもしれない。

 ともかく、田上は何が何だか分からないような心地になって、タキオンに抱き締められていた。タキオンも対等な恋人と触れ合うような、抱き締め合うような心地になって、静かに身を寄せていた。耳を澄ませば、彼の強張っている体の中から、苦悶にあえいでいる声が聞こえてくるような気がする。タキオンは、その声を落ち着かせるように、そっと、そっとその背を優しく撫でながら、身を寄せていた。

 ある時、不意に田上の体の強張りが解けたような気がしたから、タキオンは、そっと丁寧に体を離して、彼の顔を見た。まだ物憂い表情だったが、これ以上は変化しなさそうだったので、タキオンは彼の両方の指先を優しく握りながら、「私が何か言ってしまったかな?」と聞いた。田上は、タキオンの顔に焦点を合わせたり、合わせなかったりしながら、その顔を見つめた。そして、「なんにも」と言ったから、タキオンは質問を変えることにした。

「……私が、あの人の事を褒めたのが不満だったのかな?」

 田上は、誤解はさせたくないので、首を仕方なく横に振った。

「じゃあ、……古橋さんに相談したいと言ったのが嫌だったかな?…そうかな?相談だったら自分にしてほしいとか思ったりしたのかな?」

 田上は、目を伏せただけだったが、何の反応も寄越さなかったことによって、タキオンは、それを肯定と受け取ったようだった。

「ちょっと一緒に座ろうか」とタキオンが声をかけると、二人は開けた窓辺に腰かけて、吹いてくる涼しい風を感じながら話を始めた。

「相談と言ってもね?君も実際に困っているし、私だって困ってる。そんな状況で、埒が明かない事に堂々巡りを繰り返してもしょうがないし、二人だけというのもね。価値観が狭まってしまうだろう。それに、私は、少しあの人に憧れていると言ったろう?ああゆう人になりたいから、相談してみたいし、話してみたいし、…あの人に夢を持ってるんだよ。…分かるかな?あの人を見てると、自分の夢を見ているようでなんだか嬉しくなるんだよ」

 タキオンがそう言うと、田上が首を振って口を開いた。

「……そうじゃない…」

「おや、違う事だった?」

「…いや、……それもあるかもしれないけど、……お前は苦しまないでも生きる道がある…」

「それで、君は自分一人で苦しめば良いと?じゃあ、君は誰に助けて貰うつもりなんだい?誰も苦しませずに、自分だけ苦しんで助けて貰おうと?」

「……違う。……お前には未来がある…」

「じゃあ、老人にでも助けて貰うのかな?今すぐ死にそうな老人を探して、――生きる意味って何ですか?と聞いてみるかい?…もしかすると、そっちの方が実のある答えを出してくれるかもしれないね」

 そう言ってから、タキオンは、感情的になって、ただ言葉を徒に捲し立てた自分を嫌になり、反省もした。田上は叱られた子供の様に黙って俯いていた。タキオンは自分の眉間を押さえて、呼吸を整えてからまたこう話した。

「すまない。…ただ、今の言葉でも分かってくれるかもしれないが、私は本当に君の事を愛している。大切に思っている。朝にも言ったように、私は君が例え不誠実だったとしても、君の事を愛しているんだよ。何にも代えがたい物。自分の身を痛めて産んだ子供と同じくらい、君の事を大切に思っているんだよ。君が無能とか、不甲斐ないとかそんなのは関係が無い。君が例え、私に背を向けようと、私はその背中を愛しているんだ」

 田上は、俯いてじっとしたままだった。だから、タキオンはその顔をじっと見つめた後、気を取り直すと、自分は立ち上がってこう言った。

「昼食は親子丼だと言っていたね。ちょっくら作ってみるとするよ」

 田上は何も反応を返さなかったが、タキオンはエプロンを着けて、昼食の支度にとりかかった。

 

 田上は、親子丼の準備に手間取っているタキオンの後ろにいつの間にか立っていて、「あれはこうすればいいよ」と声をかけてくれた。相変わらず、落ち込んではいたのだが、自分の為に動いてくれた彼氏に嬉しく思って、タキオンは微笑みながら「ありがとう」と感謝を告げて、調理の準備を続けた。

 タキオンは、料理の片手間に、何気ない会話でもするようにこう言った。

「君はなんで、私が愛してるって事を知ってくれないのかなぁ」

 田上は、黙ってタキオンの手元を見つめたままでいた。すると、またタキオンが一手間終えてから口を開いた。

「君は愛を知らないのかな?」

「………愛を知っている奴なんて、そんなに存在しないだろ」と田上は低い声でぼそぼそと言った。タキオンは、答えてくれた田上の顔を嬉しそうに見て、「それもそうだ」と言った。

「しかし、……どちらかと言うと、君は私の事を…、私の愛を拒否していると言っても良いんじゃないかな?無論責めたりはしないが、……私を好きでいてほしくない。…私に苦労をかけさせたくない。…私に迷惑をかけたくない」

「……実際、お前が苦労をするのは、俺も見ていてい辛い…」

「しかし、苦労を知らない人間がこの世にどれくらいいるのかな?……大概の人は、何十年と生きていくうちに、大体の苦労を覚えてしまうのじゃないかな?……男にしろ、女にしろ、苦労を知らない人間は、……どこか世間知らずだろうね…」

「……お前は?」

 田上がそう聞くと、待ってましたと言わんばかりにタキオンが田上の方を振り向いた。

「私は、足の事があったじゃないか。しかも、私はそれを出会ってから一年もの間君に隠し通してきた。そして、足に関して言えば、悩み続けてきたのは、何もその時始まったのじゃない。小さい頃から、自分の足が悪いと知っていて、それでも尚走りたいと思ったのさ」

「そうか…」

「………だから、…まぁ、苦労には強い方じゃないかな?…特に、君に対してはいろんなことをしたし、それで後悔もした。苦労という苦労は味わっているよ」

「……」

「……ただ、君の悩みの本質はそこじゃないかな?…むしろ、私に迷惑をかけたくない、という方だろう?」

「……そうかもね…」

「………だから、私が君の迷惑に対してどう思おうと、君は、自分が私に迷惑をかけていることが途轍もなく気に入らないという事だ」

「…」

「………んー……、君自身の認識の問題だからなぁ…。……なにか…、別の角度から見る必要があるように思うのだよ…」

 タキオンの調理は、そこから軌道に乗ったので、田上はもう畳の適当な場所に寝転がって、吹いてくる涼しい風を感じていた。タキオンもそれから考え込んでいたのか、田上に調理の事を聞いてくることはあっても、考え方や生き方の事を聞いてくる事はなかった。

 

 タキオンは、昼飯を食べている間に田上にこう言った。

「まだ、テレビを買っていないんだね」

 ――そう言えば、と思って、田上はテレビを置くはずの場所を見た。言うまでもなく、そこにはテレビは置いていない。そもそも買っていないのだから。田上がタキオンにそう言うと、タキオンは「何故だい?」と聞いた。そう聞かれると答えられるのは、ただ、ここ連日買い物続きで、何か高い物を買う事が億劫になっていたという事だ。だから、洗濯機も未だに買わずにいる。今日も、コインランドリーに洗濯をしに行かなければならない。タキオンは、そんな田上に、買えよと勧めなければ、買わなくてもいいよと勧める事もしなかった。ただ、ふぅんと頷いて、美味しい親子丼を口に運ぶだけだった。

 

 昼食が終わると、二人は食器を片付けた後に、いつものように体を寄せ合って、いちゃいちゃとしていた。ただ、今回は座っているタキオンを田上が後ろから抱き締めるのではなく、田上の足を跨いで座っているタキオンを田上が横から見つめる形となった。これは、いつものように後ろから抱き締めようとしたのだが、タキオンが田上の顔を見て話したいからと言って、その場で横向きに回転したからだった。だからと言って、正面で向き合う事はしたくなかったらしいから、このような奇妙な形で話をする事となった。

 タキオンは、暫く田上の体に寄りかかってみたり、体育座りしてみたりして、最適な姿勢を探していたが、やがて、また元の田上の足を跨いで座る姿勢となって、話を始めた。

「それで、私にはさっぱり分からないんだが、君のその迷惑をかけるのは罪だという気持ちをどう解決すべきだと思うかな?」

「…知らない…」と田上は、低い声でタキオンを見つめながら答えた。

「…んー……、…論理と言うよりかは、感情の問題の様な気もするんだがね……。……その気持ちの発生源が実は別の所だったという可能性もあると思うかい?」

「……さぁ…?」

「………罪悪感……。……私に対しての罪悪感は抱えていそうだものね」

「……」

「………何だかあんまり分からないな…。……最近何か夢でも見なかったかい?」

「………蕎麦つゆを一気飲みする夢を見た」

「蕎麦つゆを?」とタキオンが、面白そうに口の端を歪めながら聞いた。

「そう」

「そのときどんな感じだった?」

「滅茶苦茶……からいというか苦いというか……」

「嫌な感じがした?」

「うん。…何か、腹に…こう…嫌なものが溜まるというか…。飲みたくないもの飲んだ感じだね」

「ふぅん…」とタキオンは微笑みながら田上の顔を見つめた。それから、田上から目を逸らして、部屋の方をぼんやりと見ると、「蕎麦を食べたいな…」と呟いた。

「…宝塚記念が終わったら、チームの皆で食べに行く?」

「……前はラーメンとか言ってなかったかい?」

「ああ、…有耶無耶になったけど。…行く?」

「……まぁ、…蕎麦くらいなら皆で行っても良いかもしれないね…」

 タキオンは、ぼんやりとした声色でそう言った。田上はそんなタキオンを少しの間見つめていたが、やがて、その頬に手を伸ばすと、その栗毛の髪ごと頬をくすぐってみた。すると、タキオンは、嬉しそうに微笑みながら田上に「なぁに?」と聞いてきた。田上は、それからも無言でタキオンの頬を可笑しそうにくすぐり続けた。

 

 それから、二人は適当に触れ合っているうちに、いつの間にか窓辺へと座って、外の景色をぼんやりと見つめながら話し込んでいた。

「………君はさぁ……、既婚の女性に私が憧れを持つだけでも嫉妬するのかい?…」

「……」

「……そこまで束縛されちゃうと、流石の私も困ってしまうんだけどなぁ……」

「……別に、……話すなとか見るなとか何も言ってないよ」

「…嫉妬はするのかい?」とタキオンが田上の顔を見て聞いてきた。田上は、少し目を泳がせつつ口を開いた。

「嫉妬は………、別に、……する理由が無い」

「…私はその理由を、他の人と仲良くする私を見たくないからだと推察していたんだが、間違いだったかな?」

「……お前が、カフェさんとかアルトさんとかハナミさんとか、同年代の子と仲良くしているのを見るのは好きだよ」

「へぇ、それは初耳だ。……私がカフェとかアルト君やハナミ君と話していると、君は嬉しいのかい?」

「……まぁ」

「…それはなぜ?…やはり、私の人付き合いが軽薄だと思っているからかな?」

「……まぁ、…それもあるけど、……やっぱり、お前は同年代の子と仲良くするべきだと思うからだよ」

 田上がそう言うと、タキオンは望んだ答えではなかったために少し眉を寄せて、嫌そうな顔をした。

「それは、またあれかい?お前は、十八歳らしくしろ。十八歳らしく生きろ。十八歳は、二十五歳の事なんて好きにならないから、身を慎んで生きろって事かい?」

「……そこまで悪くは言ってない」と田上が目を伏せながら言ったので、また悪い事を言ってしまったと思って、タキオンは「すまない」と謝った。優しい彼氏は、また今回も「いいよ」と答えてくれた。

「…まぁ、話を戻そう。……古橋茜さんね……。…第一…、まだ友達になったわけでもないし、……有名人だと思って接してもらわれても困るけどね…」

「……」

「流石に、ほとんど初対面でお茶に誘うのも無理があるだろうね?」

「……どうだろう…」

「……君は、ほとんど初対面だったが、薬を三本ほど飲んでくれた男だからな…。君だったら、お茶も喜んでついてきてくれたな…」

「……お前だから行くだけだよ…」

 田上がそう呟くように言うと、タキオンがニヤリと笑って田上の顔を見た。

「じゃあ、君は初めから私にぞっこんじゃないか。……運命の出会いってやつだな…」

「メロドラマ…」と田上は小バカにしたように呟いた。タキオンは、その顔の中にある物を調査するようにじっと見つめた後、こう言った。

「感情的な女に……否定的な男…。年齢の壁…。…私たち、メロドラマの主人公にピッタリじゃないか?」

「……やだな…」

「………メロドラマねぇ……。…なぜメロドラマの主人公が嫌なんだい?」

「……知らない…」

「……大衆的だとか?」

「……」

「んー……、バカにされるもの…。そういう風潮はどこかにあるよね。――メロドラマは女が見て涙するもんだ、みたいな。……いや?そもそもメロドラマってどんなドラマかな?恋愛ドラマかと思っていたんだが…」

 タキオンは、そう言うと、荷物の所に置いてあったスマホを持って来て、その画面をぽちぽちと触り始めた。そして、んー…と唸りながら、暫く画面を見つめた後に、田上に言った。

「悲劇的な話?…誇張されたともあるし、昨今では、大衆的な恋愛ドラマを指すとも書いてある。………作品も………私が思ってたのと違うなぁ…。君は、大衆的な恋愛ドラマを指すと思っていただろう?」

「…そうだね…」

「………まぁ、……どちらかと言うと、……調べてみた限りでは、……悲劇的な恋愛ドラマ…?と言った感じなのかな?そちらの方に疎いから、あまり良く分からなかったね。…まぁ、いいや。じゃあ、君はなぜ、大衆恋愛ドラマの主人公が嫌なんだい?」

「……知らないよ…」

「……バカにされるから?」

 田上はタキオンをじっと睨みつけるように見つめたが、タキオンは構わずにまた口を開いた。

「自分をただのドラマの一員にされるのが嫌だとか?自分は自分であって、決して大衆的に描かれるような、押すところがなければ引くところもない、人当たりの良さのためだけに生まれてきたような人間ではないという意思があるのかな?」

 田上はこれに少し首を傾げてみせた。タキオンはその反応に、満足したように口角を少し上げた。

「いや、まぁ、私もそんなところがあるかもしれない。私だってただの善人として描かれれば、それは自分じゃないとなってしまう。自分の皮を被った他人が、適当にあることないこと話すだけだからね。それを自分だと解釈された日には堪ったもんじゃない。…それとも、…君は…、君はだね……。もう少し違うことを考えていたんだが、…君が……君以外の人間になるのが怖い?…そう。自分の皮を被って話されることに、嫌悪感を感じるのではなく、恐怖を感じるのではないかな?とも思ったんだが、これはどうかな?」

 田上は、また首を傾げてみせたのだが、前回首を傾げたのとは少し違う心地だった。前回は、理解するのにもう少し時間がかかりそうな首の傾げ方だったが、今回は、あんまりよく理解できなかった心地で首を傾げた。タキオンは、その時の田上の表情の微妙な変化から、それを何となく察していた。

「……まぁ、…そのような気がする。……君はどこか少し私に怯えているところがあるものね。……結婚に対しても、……怒っているとも違うし、無知とか戸惑いがあるわけでもない。…いや、ある種の無知かもしれないがね?……不安というのは、恐怖の初期症状だと思うから、不安という言葉の先に、恐怖という言葉があっていいだろう。…だから…、…いいことを聞けたような気がする。……迷惑をかける事が罪だと認識してしまうのも、ある種の恐怖からかもしれないしね…、…違うかもしれないが…、やはり君は私に罪悪感を抱いていると共に怯えてもいるのかもしれない…」

 そう言うと、タキオンは顔だけ動かして田上の顔を少し見つめた。田上は、窓枠の横にある質素な木の縁に寄りかかって、俯いたままじっと動かないでいた。

 

 それからまた時間が経って、二人は洗濯物を持ち、コインランドリーに出かけた。特に何が起きるという事もなく、二人は、昨日買った読み物を持って、コインランドリーの建物内に座って、じっと待っていった。

 田上は、『砂と花と陽炎と』という本を読んでいた。一番手軽な読み物としては、カメリアの漂浪記の資料集が好ましいかと思われたが、田上には、なんだか堂々とゲームの資料集を外出先で読むのが少し恥ずかしく思われたため、波止場響子のその本を持って来ていた。

 コインランドリー内に居る時だけでは、序盤しか読めなかったのだが、中々足立監督の言うように傑作かと思われた。まず一つには、作り込みの細かい世界観が挙げられる。情景描写の中から人々の生活の姿が垣間見えるので、それだけでも他のファンタジーとは一線を画している。そしてもう一つには、登場人物たちの言葉の重みだ。傑作には大体こういう言葉の重みがあるし、心の作り込みも細かいがためにそういう言葉が出てくる。言葉の一つ一つに重みがあると言っても良いだろう。

 あらすじとしては、ファンタジー冒険譚だった。一人の女の子が、ひょんな事から不思議な出来事の数々に巻き込まれ、奔走していく話だ。田上も序盤までしか読んでいないので、そんな感じの雰囲気だろうという事までが分かる。

 コインランドリーから出て、家に帰ると、少しの間は二人共本を読みながらゆっくりとしていたのだが、やがて、タキオンがまたあの公園に行こうと言い出した。田上は、少しばかりこの本に夢中になっていたので、あんまり乗り気ではなかったのだが、「ベンチに座って読むだけでもいい」とタキオンが言ったので、仕方なく行ってやることにした。

 タキオンも公園にはあの雑誌を持っていっていた。中々分厚い雑誌だったので、読むには時間がかかっていそうだった。今丁度半分を過ぎたくらいだろうと田上は確認した。公園のベンチには、午前中座ったところではなく、砂場に近い方のベンチに座った。そこには木陰があって、午前中に座った方のベンチには木陰が無かったからだ。緩やかな暑さを持つ六月の午後の陽の光は、木陰に入るとそんなに気にならなくなった。

 田上は、隣のタキオンの事など忘れて、小説の世界に没頭していたのだが、やがて、タキオンが雑誌をベンチに置いたと思うと、立ち上がって歩き始めた。田上もそんな動きが起きれば流石に隣のタキオンのことを思い出して、何処かへ立ち去って行こうとする後ろ姿を見つめた。

 その後ろ姿は、やがて右に曲がると、金属の滑り台の階段をトンタンタントンタンタンと上り、それから、頂上から見える景色をすこし見渡した後、田上の方を見返りもしないでスーッと滑り台から滑って行った。そして、漸く田上の事を振り返ると、嬉しそうにこにこ笑って「君もこっちへおいでよ」と言った。

 田上は、木陰の中から、陽の光の中にいるタキオンをじっと見つめていたが、やがて、そこから出なければなるまいと思って、立ち上がり、タキオンの方へ歩いていった。そして、タキオンが見ている前で、滑り台の階段を上ると、狭い滑り台のなかに身を縮こまらせて、短い滑降を楽しんだ。

 子供の頃に比べると、大変不満足なくらい短くはあったが、そんなのはもう高校生や中学生の頃くらいから分かり切っていた事だったから、そんなに不満足を気にしなかった。むしろ、短い滑り台を真顔で滑り降りて見せる滑稽を演じたことによって、彼女が可笑しそうにクスクス笑ってくれたことに満足を覚えた。

 タキオンは、また滑り台に上ると、クスクスと笑いながら、その赤い滑り台を下りて行った。下りる途中では、田上が手を上げて、タキオンとのタッチを交わした。タキオンは、子供の様に満面の笑みで可笑しそうに笑っていた。田上もその様子を見ていると、嬉しくなった。

 それから、大の大人二人で滑り台を何度か楽しげに上り下りした後、今度はタキオンが砂場の方に駆け出していったので、田上もその後に続いた。公園には、小学生が二三人ベンチに腰かけていたが、どれもこれも携帯ゲーム機で遊んでばかりで、田上たちの方には目をくれる気配もなかった。

 タキオンは砂場に行くと、早速その砂を手で掘り始めた。綺麗な小さな手もすぐに土で汚れて、爪の間には砂が入った。しかし、タキオンは砂場に山を作ろうという算段だったから、砂を掘っては積んで掘っては積んでを繰り返して、着々と山を作っていた。

 田上は、もう大人になったせいなのか、子供の時の様に汚れることに無頓着ではいられなくなっていた。だから、暫くはタキオンが楽しそうに砂で遊んでいるのを見ているだけだったが、「君もやりなよ」とタキオンに言われると、田上もやらざるを得なくなった。

 タキオンにべったりと砂をつけられたからだ。タキオンは、田上を誘うと共に、その手にこれでもかとばかりに砂を擦り付けていたので、田上の手も最早汚れていない手と言えなくなってしまった。だから、タキオン程乗り気でないにしても、子供の頃の出来事を思い出すように、一つ土を掬っては、山に積んで、また一つ掬っては山に積んでいた。

 やがて、砂山は田上の脛くらいの高さにまでなった。時刻はもう四時を過ぎていたが、まだまだ明るかった。だから二人もまだ掘っていたのだが、砂山は大きくなるにつれ、その大きくなる速度は鈍くなっていくように感じた。それもそのはず、砂山は大きくなるにつれ、その土台となるべき砂の表面積も大きくなって、一センチあたりの砂の量も当然増えてくるのだという事を、田上は今初めて気が付いた。子供の頃は、それを感覚としてぼんやりと感じていたくらいだったが、こうやって、大人になってある時不意に気が付くこともある。

 田上には、その気付きを喜ぶべきなのか悲しむべきなのかは分からなかった。ただ何とも言えない郷愁が、胸を包むばかりだった。

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