砂山も大きくなってくると、タキオンも少々飽きたし疲れてきたが、こうやって単純作業をしていると頭を使わなかったので、二人で適当に陽の暑さに文句を言いながら、山に砂をかけていた。田上は、時々、タキオンに「まだやめないの?」と聞いたりもしたが、タキオンは「まだまだ」と言って俄然やる気ではあった。しかし、掘るペースは明らかに落ちていた。
二人が山を掘っている間に、小学生がまた三人追加でやってきて、芝生の方でサッカーを始めた。どうやらこれが、ベンチでゲームをしていた三人とも知り合いだったらしく、ベンチに携帯ゲーム機を放っておいて、皆でサッカーを始めていた。そのボールが時々田上の方にまで転がってきていたから、田上はそれを蹴り返してあげたりもした。その度に、小学生たちは行儀よく「ありがとうございます」と言っていた。
タキオンは中々やめる気配を見せなかった。もう二人で話す事も無くなり、田上も果たして何が楽しくてこんなに砂という砂をかき集めて砂山を作っているのかと疑問に思い始めていた。
その頃になって、タキオンの待ちわびていた客人がやって来た。古橋茜という既婚女性だ。こうきという子供を連れてやって来た。
その女性が入ってきたときには、二人共黙々と砂山に砂を運んでいたので気が付かなかった。息子の方は、午前中に見た二人が今度は砂場で黙々と山を作っているのを見て、遠巻きに滑り台のほうへ歩いて行った。女性は息子の後をのんびりと歩きながら、砂山を作っているのが午前中の二人だと気が付いて「こんにちは~」と声をかけた。途端に、田上は固まってしゃがんだまま女性の方を見上げてしまったし、タキオンは嬉しそうに声を弾ませて「こんにちは!」と言った。
タキオンがそう言った後に、田上も座ったままだと失礼だと気が付いて、立ち上がりながら僅かに頭を下げてみた。果たして、それが向こうに見えていたのかは分からなかった。もうタキオンと話していたからだ。
タキオンは、古橋の方に「またこうき君と遊びに来たんですか?」と声をかけていた。古橋は、おっとりとした声で「あの子がまた行きたいって言うもんですからねぇ…」と答えていた。田上はそこで聞くことを止めた。それは田上にはどうでもいい世間話であり、むしろ劣等感を煽られるものだったからだ。
――あんなにあからさまに俺の事を役立たずみたいな顔をしなくてもいいのに、と田上は思いながら、砂山の中にトンネルを開けようとしていた。砂山は、いつの間にか田上の膝下くらいの大きさになっていた。
田上は、タキオンが古橋の前でだけ、唐突にあんなに憧れを顔中に浮かべたような表情になっていたのが気に食わなかった。――それなら、俺はお前の憧れに適わない様な人間だったのか、という気持ちだった。――憧れていないのなら、別にそんな男と付き合う必要もない。なのに、なんで無理してまでこちらが付き合わされなければならないのか。 タキオンに少々怒ってもいた。
タキオンは、砂山の事なんてほっぽって、古橋茜について行きながら、手に付いた土を払っていた。田上は少々裏切られた気分だったが、今や砂場に居るのが自分一人となっても、黙々と砂場遊びを続けていた。このまま、タキオンを置いて帰ってしまおうかという子供らしい事も思いついたが、それは流石にタキオンが可哀想なだけだった。しかし、タキオンが田上の事を放っておけばおくほど、田上の機嫌も悪くなっていったから、そうなるのももしかしたら時間の問題かもしれなかった。
しかし、タキオンは、あと少し言葉を古橋茜と交わすと、一生懸命砂遊びしている彼氏を放っておくのも悪いと思って戻ってきた。だが、声をかけてみると、彼氏の機嫌はあからさまに悪くなっていた。タキオンの言葉は無視されたし、タキオンの方を見ようともしなかった。それで、タキオンが「悪かったよ」と謝ると、田上は砂山を凝視したまま固まり、次いで、タキオンの方を憎々しげに睨みながら言った。
「そうやって、何回謝ってきた?」
「君の事は愛してるよ。怒らせるつもりはなかった」
そう言ったほうがさらに田上の事を怒らせたが、どうも田上はタキオンと喧嘩をするのが怖かった。田上は勿論、引っ越した当日からタキオンと喧嘩したことを忘れていなかったし、その寂しさを十二分に覚えていた。けれども、怒りが体内に溜まって爆発しそうだったから、何とかその怒りを解消する方へ言葉を向けた。
「怒らせるつもりはなかった?」
田上の声は今にも爆発しそうな勢いを秘めていた。だから、タキオンも慎重に言葉を選びながら話した。
「うん。…すまない。…君がそんなに怒るとは思っていなかったんだよ…」
「……。……俺の気持ちなんて考えた事も無いんだろうな……!」
「考えてる。少し抜け落ちていただけだよ」
「……そうやって、あと何回俺を騙せば気が済む……!」
「騙そうとなんかしてない…」
タキオンの声も涙声になっていた。だが、田上の怒りは収まらずに、手に拾った砂をぎゅっと無意識のうちに力強く握りしめていた。
「…いつまでも俺が騙されてると思うなよ……!」
「違う…。違う…。…ごめん。違うんだよ…。許して…お願い…」
「……!」
田上は何も答えなかった。ただ、唐突に立ち上がると、今まで丹念に築き上げていた砂山を蹴り崩して、肩を怒らせながら公園から足早に出て行った。タキオンは、砂山にしゃがみこみながらしくしくと泣いていたし、古橋茜は唖然としながらその光景を見つめていた。
田上は鍵でドアを開けなければいけない段になって、自分の手が土まみれだったことを思い出した。しかし、しょうがないので、建物の片隅の雑草が生えている所で、ぱっぱと自分の手の土をある程度まで払うと、まだ汚い手で鍵を開けて中に入った。その頃には少し冷静にもなっていたが、最早タキオンにどう接すればいいのか分からなくなっていた。怒った感情は真実の物である。実際に、タキオンが自分を騙していると思えてならなかった。好きでもないのに好きと言ったり、可愛くもないのに、わざわざ自分の気を良くさせるために可愛いと言ってみたり。あの女の口は、最早嘘で覆いつくされているだろう。
そう思いもしたが、同時に、今までタキオンと過ごした日々の事も思い浮かんでくる。自分が心底から怒る程タキオンも悪い人間ではないと思うが、嘘を吐いている事だけは確かだ。田上は自分を騙そうとしてくる人間が嫌いだった。そういう人間は、激しい感情と共に迎えなければいけないと思う程に嫌いだった。そして、それと同様に、自分も嘘を吐くから嫌いだ。なぜタキオンが好きでいてくれるのか分からなかったし、それ故に、タキオンの嘘も敏感に感じ取っていた。
田上が嫌いなのは、むしろ、「愛してる」と囁く言葉の裏にある嘘かもしれない。特に愛してもいないのに、慰めの為に愛していると言う。タキオンがまるっきりそれであるとは言わない。しかし、「愛してる」と言えば田上が喜ぶと思ってその言葉を発しているのだけは確かだ。
それは嘘だ。愛が偽りか否かに関わらず、「愛してる」とささやく言葉の裏には愉悦が混じっている。浅はかにもその言葉によって目の前に居る人を支配しようという愚かさ、傲慢さだ。何も、愛が嘘とは言わない。これまでのタキオンの態度からも、タキオンが自分の事を大切に思ってくれている、愛してくれている事は知っている。愛というものは、身振り手振りに表れるものだ。決して、言葉という短く軽薄な空気の振動によってのみ表されるものではない。長い時間をかけて、その人の感覚として織り込まれてゆくものなのだ。
それで言えば、タキオンはもう田上に愛を伝える事に成功しているが、同時に、軽薄な傲慢さも伝えてきている。まるで今までの事は全て遊びだったと言わんばかりの軽薄さだ。それでいて、愛を伝えているつもりだから、人を支配できていると思っている。
田上は、その感情に屈するつもりはない。激情を持って迎えるつもりだ。その事に気が付いてしまった以上は、田上もタキオンをタダで優しくするつもりはなかった。二人共、ここで何かが変わらなければならない。変わらなければ別れるつもりだった。自分を遊び相手だと思って付き合うような人間と、一生を共にしたいだなんて微塵たりとも思わない。こっちは遊びじゃないのだ。それなのに、こちらの純情をバカにしてくるような人間は、こっちの方から願い下げだ。
田上は、タキオンがいつ帰ってくるんだろうか? それとも、このまま帰ってこないのだろうか? 自分は見捨てられたのだろうか? と思いながら、部屋の中で途方に暮れていた。
タキオンは、汚られた手をとりあえず洗わされながらしくしくと泣いていた。その時の介護をしていたのは古橋茜だ。そのまま古橋は砂場近くのベンチに移動すると、タキオンを座らせ、自分も座った。そして、息子も自分の方に呼び寄せた。息子は大きな人が泣いているのを、神妙な顔をして見つめていた。タキオンは、自分が昨日に買った結婚雑誌と田上が置いて行った『砂と花と陽炎と』の本を膝の上に抱えながら、まだしくしくと泣いていた。
古橋は、困ったようにしながらタキオンの背を躊躇いがちに撫でていたが、やがて、我慢できなくなったように「彼氏さんと喧嘩いたしましたか?」と聞いた。
タキオンは、より一層泣き声を上げながら、コクリと頷いた。そんな質問をしたからと言って急にタキオンが泣き止むわけでもなく、古橋は困ったように辺りを見渡したが、ほとんど赤の他人の自分ができる事は、会話をして、できるだけ早くタキオンが行きたいところへ送り届ける事だと思うと、また話しかけた。
「彼氏さんとどんな事で喧嘩したんですか?」
「……だ…騙してるって…」
タキオンが嗚咽を漏らしながらそう言うと、また古橋は困ったようにあたりを見渡した。しかし、助けという助けも期待できるものではない。旦那も日曜だから家にはいるが、…あんまりあからさまに連絡をつけるのも角が立つかもしれないと思った。それに、問題の根は思ったよりも深そうだから、尚の事困った。だが、子供もいるし、夕食の支度もなるべく早く帰って済ませたかったので、できるだけ会話をするようにはした。
「騙してるって…、…アグネスさんは本当に騙してたの…?」
「分からない…!」
「………彼氏さんは戻ってきそうかな…? 週末に泊まりに来てたんでしょう…? …あのマンションに住んでたんでしょう? …呼んできてあげようか?何号室か教えてくれる?」
タキオンは、首を横に振りながら「怖い…」と言った。これで、少々古橋は誤解をした。彼氏の田上が、彼女に怖いと言わせるほど常習的に怒っていると思ったのだ。むしろ、そういう目で見てみればそういう事のようにも思うが、タキオンが意図した言葉は、「彼の反応を見るのが怖い」だった。怒っているにしろ、悲しんでいるにしろ、少なからず、今自分に対して負の感情を持っている彼氏と向き合いたくなかった。優しい彼氏と向き合いたかった。
古橋は、今度は多少否定的になってこう言った。
「怖いっていうのは、あの人はそんなに怒ってくる人なの?」
タキオンは、確かに首を横に振った。すると、また古橋は訳が分からなくなった。これは思ってたよりも大分根が深い。旦那を呼ぼうかどうか迷った。なんだか、このまま話していると、面倒なところへ引きずり込まれてしまいそうだった。古橋は、色々な事が気がかりで少々不安でもあったから、仕方なくスマホを取り出すと、LANEで旦那に連絡をした。旦那は、少々面倒臭そうな様子だったが、ここに来てくれるようだった。
旦那が公園に入ってきて、古橋の方に声をかけると、タキオンは怯えた。そして、旦那の方が「もう今日の所は一旦帰ってみましょう」と言うと、タキオンはそれに素直に頷いて「すみませんでした」と言ってから、とぼとぼと立ち去って行った。古橋は、その背中があまりにも可哀想にしょぼくれていたので、「あれでよかったの?」と旦那に聞いた。旦那は首を傾げるばかりだったので、当てにならなかった。
古橋は、少々タキオンに申し訳ない心地がした。
タキオンは、とぼとぼと帰り道を歩いていった。田上の居る所にはもう帰る気にはなれなかった。あんな感情を向けられて、これから仲直りする気には到底なれなかった。少なくとも、二人の気持ちが落ち着くまでは無理だった。いや、落ち着いてからも無理かもしれないと、タキオンは不安を心に抱いてそう思った。
圭一君が自分にあんなことを思っているだなんてこれっぽっちも知らなかった。いや、知っていたのかもしれないが、見てみぬふりをしていた可能性もある。どちらにしろ嫌な気分だった。八方塞がりだった。お互いは、お互いの気持ちを隅から隅まで知りたがっていたが、どうにもそれができない状況だった。二人の心にはそれぞれコルク栓で蓋がしてあって、それがどうにも引っこ抜けない状況だった。二人とも引き抜いて、早く楽になりたくはあったのだが、どうもどうやって引き抜けば良いのかよく分かっていないまま、ここまでこうして付き合ってきていた。
——仲直りはできるだろうか? 果たして、自分は本当に圭一君のことを騙していたのだろうか? と思った。騙しているつもりはないが、騙しているという事について、少し心当たりがあるのは、火曜日に見たあの影が出てきた夢だった。あの影は、タキオンを傲慢で不遜だと文句をつけてきたのだが、あれは本当の事だったのだろうか? 確かに、圭一君だって、喧嘩をした時はそう思うと言っていた。…つまり、今はまさに自分は傲慢だと思われているという事なのだろう。
――一体、何が圭一君の琴線に触れたのだろう? と思った。他の男性に嫉妬する事はあっても、年上の既婚女性に嫉妬するのは彼らしくもない。相談を自分にされなかったことによって、劣等感を刺激されたのだったら悪いのは向こうだ。
——じゃあ、悪いのは圭一君じゃないか、とタキオンは一瞬思ったが、そうすると、圭一君が言っている事と辻褄が合わないような気がした。今回のは、今まで溜まっていた鬱憤が吐き出されたような怒り方だった。「何回俺を騙せば気が済む?」とは、向こうに騙されたと思う自覚があったからなのだろう。
そうすると、タキオンは、――自分が甘い言葉を吐いて騙したのかもしれない、と思った。しかし、甘い誘惑と言ったって、どんなのかあんまりよく分からなかった。圭一君は、愛しているという言葉が嫌いだと言っていたが、タキオンは騙している自覚はなかった。愛しているから愛していると言うのだ。実際に、自分は嘘を吐いていない。心の底から圭一君の事を愛している。
結局、タキオンは、自分の傲慢さとか、田上が怒った理由とか、自分が田上の何を騙したとか、あんまりよく分からないままに帰路をとぼとぼ辿って、寮まで着いた。出迎えたデジタルは、てっきりタキオンが仲良くそのトレーナーの家に泊まって帰ってくるものだと思っていたから、大層驚いた。
田上のほうは、もう夕食を食べる気も失せて、自分の気を静めるためにゲームを始めた所で、デジタルから連絡を貰った。
『タキオンさん、寮の方へ戻ってきました。返信不要です』
田上は、とりあえず、タキオンが真っ直ぐ寮へ戻ってくれたことに安心はしたが、同時に、今日が何もかも上手くいかなかったことにまた怒りを覚えて、ゲームを始めることにした。
田上が怒りを鎮めるために選択したゲームは、『DIVER』だった。静かな海の中に沈んでゆくゲームなので、見ていて落ち着いてくる。そしてまた、名作に対する気構えも湧いてくるので、田上の心は、オープニングムービーを見ている内に、次第に落ち着いていった。
田上は、その日は、夜三時までゲームを続けて、何も食べずに寝た。お腹はぐうぐうとなっていたが、何も作る気も食べる気も起きなかったし、自分への戒めの為に食事を抜かなければならなかった。次の日の朝もそのようにして、学園へ出勤した。
トレーナー室に一人でやってきた田上にマテリアルは、一度普通に挨拶をしたが、そう言えば、田上トレーナーが一人で来るのはおかしいと思って、また田上の方を見た。どうやら、いつにも増してあまり芳しいと言えるような表情ではなかったから、タキオンさんの方とまたまた何かあったのだろう。だから、マテリアルはこう口を開いた。
「タキオンさんは? また熱ですか?」
「……知りません…」
どうやら含みのありそうな話しぶりだったので、マテリアルは確信を深めた。
「………タキオンさんとまた喧嘩しました?」
田上は、俯くのみで何も話そうとしなかったから、またマテリアルが話した。
「また喧嘩したんですか? 昨日の今日でしょう? 今度は何で喧嘩したんですか?」
「……」
同じ部屋に居るエスが、自分のことを見てきている自覚はあったのだが、どうしても答えきることができなかった。マテリアルは、エスと困ったように目を見合わせたが、また次にこう聞いた。
「タキオンさんは? 週末だから、泊まっていらしたんでしょう?」
「………帰りました…」
「帰りました!? どこに?」
「……寮に…」
「いつ?」
「…昨日…」
それで、マテリアルは「はぁ~」とため息を吐いた。
「……カップルってそんなに喧嘩するもんなんですかね…?」
「……」
「どう思います?エスさん」
「え、私ですか?」
「そうです。付き合ったことはありますか?」
「いえ…全然」
「そうですよね…。……私なんかは、……泣く暇もなく別れたような気がします…」
「……どうなんでしょうね?」とエスは、言葉を選ぶために口を閉じる事を忘れながら言った。
「……エスさんは、息苦しくありませんか? こういう二人が居て」
「いえ、……別に、…そんなに気にはしてませんね…」
「それならいいんです。…むしろ、息苦しいのはあっちの二人のような気がしますね…」
「ええ…」
「……どうやったら、あの二人が喧嘩しないようになると思いますか? 喧嘩して、こっちがその尻拭いをするよりかは、喧嘩しないで付き合ってもらっていた方が断然こっちの気持ちも良いですよね?」
「まぁ、…そうなんですかね?」
「…そうですよ! …いや、…まぁ、視界の端でいちゃいちゃされても鬱陶しいだけなんですがね? こうやって、厄介事で暗くなっているトレーナー室よりかは、まだ小声でこしょこしょ話をしてくれた方がまだ雰囲気は良いですよ。勿論、鬱陶しいには鬱陶しいんですがね? …私は、タキオンさんのウエディングドレス姿を見るのを予約しているのであって、決して、尻拭いを買って出ているわけじゃないんですよ。そこの所を分かってもらわないと、この人たち絶対私の尻拭いを当てにして喧嘩してますよ」
そう言ったマテリアルの言葉が切れたタイミングで、トレーナー室の扉が小さくコンコンと鳴った。マテリアルは田上の方を見たが、落ち込んでいて入ってくる人を招き入れる気配はない。だから、仕方なくマテリアルはドアの方に行くと、ドアをノックしてきた客人を出迎えた。
扉をノックしたのは、アグネスデジタルだった。手に一冊の本を抱えて立っていた。デジタルの方は、少し緊張気味に「タキオンさんから、トレーナーさんの方へ本を返してくれと頼まれました」と言ってきた。マテリアルは、デジタルがタキオンの同室だったことを覚えていたから、「同室の子?」と聞くと、こう言った。
「タキオンさん、今日も来ないつもりですか?」
「ええ…」
デジタルがそう返事をした後に、マテリアルは、デスクに座っている田上を気にすると、「ちょっと様子を聞きたいので外で話しましょうか」と言って、ドアを閉めて外に出た。
マテリアルは、デジタルから本を受け取りながらこう聞いた。
「タキオンさんから、田上トレーナーと喧嘩したってのは聞きました?」
「ええ…」
「…タキオンさんの具合はどんな感じでしたか?」
「えー…、この前と同じ感じです。ベッドから出たがらないようでした」
「…それじゃあ、この前と同じように、田上トレーナーの方に連絡が来るって事はありそうですかね?」
「えー…、それは、…私には存じかねます…」
「ああ、分かりました…。…どんな具合でした? 田上トレーナーに怒ってる感じでしたか? それとも、落ち込んでいましたか?」
「…落ち込んでいる感じでしたね…」
「……落ち込んでいるなら、…それ程田上トレーナーの事を悪く思ってはいなさそうでしたか?」
「ああ、はい。…あの…その本に…」とデジタルがマテリアルが持っている本を指差した。マテリアルが、何だと思ってその本を開いてみると、間に紙が挟まっているのを見つけて、それには『ごめんなさい』と書いてあった。あまりに健気で涙が出てきそうになった。マテリアルは、その紙を見つけてコクコクと頷くと、またデジタルの方を向いて言った。
「ええ、分かりました。ありがとうございます。何とか、仲直りできるようにやってみます」
デジタルは、「そうなされていただければありがたいです」と頭を下げながら立ち去って行った。
マテリアルは、部屋に戻ると、田上の机に貰った本を置きながら、こう言った。
「タキオンさんからですって。借りてた本を同室の子が返しに来ましたよ」
田上は頭を軽く下げてそれを受け取った。感謝の言葉は返さなかったが、マテリアルはそれを特に不満に思うこともなく、自分が座っていたパイプ椅子を田上の机の近くに置くと、自分もそこに座り、田上に話しかけた。
「私はですね、…あなたの気持ちが分からないこともないですよ? そりゃあ、まぁ、年下の十八歳と付き合うとなったら、それなりの勇気と覚悟が必要です。しかしですね、……あなたがそんなに罪を負っていられたら、タキオンさんの方が可哀想じゃないですか? あっちは、純粋にあなたと恋人になりたがっているんですよ。……少なくとも、世間から責められても、私だけはあなたたちを責めませんよ? 私は、そんな世間を理不尽だと言います。無い罪を無実の男に被せて、自分たちの鬱憤を責め立てることにだけ使う世間は理不尽です。だから、…もうそろそろタキオンさんの事を許してやってくれませんかね? …好きなんでしょう? この世で一番大切な人なんでしょう? 可哀想ですよ」
マテリアルがそう言うと、田上が低い声で言った。
「嘘は消えません…」
「…嘘? ……ちょっとよく分かりませんが、もう少し自分に優しくなっていいんですよ。田上トレーナーは、自分に厳し過ぎます。もうちょっとゆとりを持っていいんですよ。世の中の皆が皆、敵じゃありません。そりゃあ、ちょっとばかり言う事が変な人はいるかもしれませんが、私にしろチームのエスさんやリリーちゃんにしろ、あなたを慕って集まってくる人もいます。タキオンさんだってそうです。皆、あなたを慕っているから、集まってきているんです。……だから、なにが言いたかったのかというと、……タキオンさんに優しくしてやってください。好きになる努力をしてあげてください。嫌いになる努力なんて、しないほうがいいです。優しさは、言ってしまえば、田上トレーナーの唯一の取り柄です。それを失ってしまえば、ただの意地悪で嫌なトレーナーになるだけですよ」
田上は、マテリアルが言った事を尤もなことだと思ったが、同時に、今、タキオンと自分との間に蟠っている問題に触れているようで、触れていないとも思った。今、二人の間にあるのは、タキオンの嘘だった。傲慢さと言えばそうだ。自分はそれを許してやるべきかもしれないと思ったが、そういう傲慢さに振り回される身となってみれば、その問題は真剣に話し合うべきもののように思う。
タキオンは触れられたくないところに触ると、話すことすら拒否してくるが、そんなことはさせてはいけない。タキオンが田上の心に触れたいと思うのなら、タキオンも田上に心を触れさせなければいけない。これは対価という話ではなく、自然と起こり得るべきことの話なのだ。自分の心に触れさせない人間が、どうやって、相手の信頼を勝ち得るというのだろうか? 確かに、これまで、お互いはその心があるべき場所までやって来たが、どうやってもその中の中にまでは入り込めずにいた。それは、タキオンが、自分の心に踏み込ませまいとしたからなのではないか。
田上は、その後に――自分はどうか? と考えた。自分だって心を開いてくれないと、彼女を泣かせたではないか。
しかし、今のマテリアルの言葉は、確かに田上の心に訴えかけてきたような気がした。好きでいる努力をせずに、嫌いになる努力をしていたということだ。確かに、そのような気持ちでタキオンに接していた事を今頃自覚した。できれば嫌いになってほしかったし、嫌いになりたくもあった。初めから出会わなかったら、こんな苦労をせずに済んだとは何度思ったことだろうか。
その反面で、タキオンと一緒に生きたいとも言った。これは何と言う嘘つきだろうか。まるで駄目な男そのものじゃないか。田上は、自分の事を憎々しく思ったが、さぁ、果たしてこんな男が女子高生のことを好きだと言っていいのかも迷った。
言わば、不誠実で自分のことを棚に上げて人を責める最低な人間である。そんな人間は、付き合わないほうがいいと思うが、一方では、付き合えとも言う。そして、もっとタキオンさんに優しくして上げろと。
優しくしてあげられるのであれば、田上だって優しくしたい気持ちはあったのだが、…今の田上の気持ちはこんがらがっていて、どちらへ転んだらいいのか分からなかった。タキオンに怒ってもいたし、優しくしたい気持ちもあったし、突き放さなければならないという気持ちもあったし、これからも付き合い続けたいという気持ちもあった。そして、その力が均衡して田上に働きかけていたので、田上はそのどれの側にも付きかねた。
マテリアルは、田上が思考している間も何やかやと言い続けていたが、田上の頭にはほとんど入ってきていなかった。田上が顔を上げた時には、「〜だから、田上トレーナーはタキオンさんに優しくするべきだと思いますがね」と言っていた。チャイムは、つい先程鳴って、エスはもうこの部屋には居なかった。田上は、ぼんやりとマテリアルと目を合わせると、こう言った。
「……いくらクズでも、人と付き合うべきですかね…?」
「クズであることを受け入れずに、人を好きになる努力をすべきだと思います」
「………タキオンは、なんで俺の事を好きなんだと思いますか?」
「……人の愛に敢えて理由をつけるべきだと思いますか?」
「ええ…」
「私は具体的な理由は思い浮かびません。つけたきゃ自分で好きなように理由を探せばいいと思いますが、そんなことは人間はなぜ生きているのかという問いと同じように見つからないと思いますよ」
「……人間はなんで生きているんですか?」
「……私が思うには、理由という理由ではありませんが、生きているから生きているんだと思います。自分が生まれてくることなんて、誰にも拒否できることではありません。もし、生まれてくる赤ちゃんに人格があって、産道からぽんと出てきた途端に――生まれてきたくなかったって泣くなら別ですが、むしろ、生まれてきた赤ちゃんは生きるために泣くんです。そうでしょう?」
田上はコクリと頷いた。
「だから、私達は赤ちゃんが生きるために生まれてくるように、生きるために生きてるんじゃないでしょうかね?」
「……頭いいですね…」
「なに、伊達に女を二十三年やってきていませんよ。ここ最近は、あなた方の尻拭いばかりですがね」
「…………タキオンは怒っていると思いますか?…」
「同室の子は、落ち込んでいると言っていましたがね。というか、あなたまだその本開いていないでしょう? 良い栞が入っていますよ」
田上がその言葉に促されて、何だろうと思って開いてみると、そこには、紙の切れ端に『ごめんなさい』と書いてあった。田上は、多少の嬉しさとか後悔とかの感情を滲ませて、少し目を細めて、その紙を見た。しかし、見れば見る程、感情がよりごちゃ混ぜになってくるような気がしたので、またマテリアルの方に目を向けると言った。
「僕が善人だと思いますか?」
「この世界に生きている人から見れば、充分に善人の類に入っていると思いますよ」
「しかし、無闇に人を傷つける嘘つきでしょう?」
「いえ。充分に、あなたは後悔する優しさを持ち合わせていますし、反省して前に進もうという力もあります。人を傷つけないで人付き合いできる人なんていませんよ。今どんなに幸せそうに見える夫婦だって、絶対に一度や二度どころじゃなく、喧嘩やら口論やらを重ねてきたはずです。嘘だって何度も吐いてきたでしょうし、吐いてきたからこそ喧嘩にもなったんでしょう。むしろ、口論をしてそれを解決したからこそ、今の友情や親愛が育まれたのではないですかね?」
「でも……、…どうすれば……」
「今こそ私も交えて話すべきだと思いますがね。…タキオンさんと私と田上トレーナーとでゆっくり議論を交わして、二人が今後どのように接していくべきかを考えた方がよろしいのじゃないかと思います」
「……」
田上が心配だったのは、一つにはマテリアルが言ったこともあったが、同時に、直近の問題も含まれていた。タキオンをどうやってここまで呼び出すか、という話だ。
タキオンが怒って寮に引っ込んでしまったのなら、自分は反感を抱いていないという事を伝えればよかったのだが、自分が怒って出て行ったというのなら話は別だった。誰がどの面下げて――もう仲直りしないか? と言うのだろうか。自分が都合のいい時に怒って、自分が都合のいい時に仲直りするのだったら、向こうも堪ったものではないだろう。それこそ傲慢な行いだ。
田上がそのことを自己嫌悪と共に伝えると、マテリアルも「ん〜」と困ったように唸った。
「私が連絡つけても無駄かもしれないですからねぇ…。…あなたの連絡だったら反応してくれるかもしれませんがね?」
「…それで、タキオンには自分の都合の良い時に怒らせてくれる、都合の良い女になってくださいと?」
「そんなに悪くはないでしょう? ……しかしですね…、じゃあ、仲直りってのはどちらから言い出すんですか? このままだと明日もタキオンさんは気不味くて来ない可能性はありますよ」
「……僕は知りませんよ」
「いえ、あなたは知るべきです。タキオンさんはあなたのことを愛しているんですよ? そして、あなたはタキオンさんのことを友人以上の大切な存在だと認識しているんでしょう?」
「……じゃあ、……どうすれば?」
「それは、…少し考えておきます。とりあえず、お互い仕事しましょう。やるこたぁ沢山ありますよ」
それだから、田上も仕方なく自分の仕事に取り掛かることにした。
当然の事ながら、仕事をしている時でも、田上の頭からタキオンの事は片時も離れなかった。しかし、これで生きるための金を貰っている身なので、軽々しくサボるわけにも行かず、田上は終始タキオンの事を心配し続けていた。
マテリアルはいつまでも解決策を出そうとはせずに、タキオンのほうも待てども待てどもやってくる気配はなかった。当然の事ではあるが、田上は、タキオンがある時ドアを開けて自分を訪ねてこないかという期待を持って、ドアを見つめる時間があった。
四時間目が終わりそうな頃になって、やっとマテリアルがこう言った。
「まぁ、解決策はあの同室の子しかなさそうですね」
「……そうなんですか…?」と田上はぼんやりと聞いた。
「…あなたが連絡してくれれば別ですけどね」
そう言うと、田上は途端に眉を寄せて、目を泳がせた。そんな田上を見て、マテリアルは眉を少し上げてみた。
「まぁ、尻拭いはしてあげますがね? タキオンさんが、私の顔見て嫌だって言うんなら、もうあなたが説得するしかありませんし、そもそも今日中に出てくるのかは知りませんがね? ……一緒にあの同室の子の所行きます? というか、あの子のクラス知りませんね。田上トレーナーは知ってます?」
田上はゆっくりと頷いた。そして、マテリアルが「どこです」と聞くと、そのクラスの番号を重々しく言った。その後に、またマテリアルが「私と一緒にデジタルさんのところに行きます?」と聞いたのだが、田上は首を縦にも横にも振らないで、固まってマテリアルのことを見返すばかりだった。だから、マテリアルは仕方なく一人で行くことを決めると、田上に「バイ」と片手を上げてから立ち去っていった。
田上は、マテリアルがドアを閉めた後も暫くそこを見続けながら、どうしようもなさそうに後ろ頭をぽりぽりと掻いた。