田上は、当然今回の食事も抜いて、トレーナー室で落ち着かないそわそわとした時間を過ごした。一度は、ゲームや読書などで気を紛らわそうとしたのだが、それをしても結局落ち着かずにただトレーナー室でぼんやりする事となった。
トレーナー室の外に出て行って、逃げ出したい気分でもあったのだが、わざわざ自分から逃げ出して折角の機会を失ってしまうかもしれないと思うと、どうも動く気にもなれなかった。しかし、外に出ないにしてもそわそわとした気分があって、部屋の中を歩き回って落ち着かせたいとも思ったのだが、こっちはこっちで鬱気分から抜け出せずに動き始めることも儘ならなかった。
田上は、回らない頭でこれからタキオンにどう言おうかと考えたのだが、考えは泡の様に浮かんでは消えて、浮かんでは消えてを繰り返していた。
マテリアルはデジタルを捉まえてどうしているのだろうか? と思った。そもそも捉まえきれただろうか? マテリアルが出て行ったすぐ後に、四時間目の終了を告げるチャイムは鳴ったが、あの時間ではまだマテリアルはデジタルの教室に付いていないはずだ。
仮に、デジタルを捉まえきれたとしても、後はどうするつもりなのだろうか? タキオンの部屋に行って、「田上トレーナーは怒ってないから出てきて話しましょう」と説得するつもりなのだろうか? そんな説得がタキオンに効くのだろうか? 効いたとしてもタキオンはどんな表情で、この部屋に来てくれるだろうか? 別れ話を切り出されたりしないだろうか? それとも、別れ話を切り出された方が自分は嬉しいのだろうか? 嬉しかったとしたら、自分は最低な男に違いない。自分はタキオンの事を好きなのだろうか? 好きであってもいいのだろうか? 優しくしろ、好きになれと言ったって、それが正しい事かも分からないのに、そんな事をしてもいいのだろうか? そもそも自分はなぜタキオンの事を好きになってしまったのだろうか? 十八歳を好きになることは正しくないのだろうか? それとも正しいのだろうか? 誰かから怒られたりしないだろうか? 神様に不実な行いだからといって、地獄へ落とされたりしないだろうか? タキオンは、俺と結婚したとして幸せな人間になれるだろうか? タキオンの事を幸せにできるだろうか? いや、そんな自信は到底持ち合わせていない。せめて、彼女を突き離してあげることが、自分にできる最低限の償いかもしれない。しかし、そんな事をしたら、あの人は悲しむだろうか? もう、十分悲しませてしまったし、そんなことをしても問題ないのだろうか? これで、別れてしまったら、自分たちの愛は、恋は、遊びだったのだろうか? 本気じゃなかったのだろうか? 間違っていたのだろうか? 自分は間違った感情故に彼女を徒に引き止め続けて、その一生に残る傷を与えてしまったのだろうか? 自分は、この世に生まれてきても良かったのだろうか? 悪人はそもそも生まれてくるべきじゃなかったんじゃないだろうか? 自分だって、この世に生まれてくることを拒否できる選択があったのなら、拒否する方を選択していたかもしれない。苦しまずにいられるなら、生まれてこないほうがそもそも良かった。誰も傷つけずにいられるなら、生まれてこないほうが良かった。なぜ、自分は善人として生まれてこなかったのだろう? なぜ、自分は普通の人生を歩めるものとして生まれてこなかったのだろう? 普通に生きられるものなら、自分は普通に生きられる人生に生まれて出てきたかった。十八歳に恋せずに、愛を抱かずに、歳の近い同僚に恋して、幸せな一軒家を築いて生きれるのなら、そちらの方が何倍も何十倍も良かった。責められるべき人間が根っからの悪人ならば良かったが、中途半端に妙なことをしでかしたばっかりに、責められるべき人間へとなってしまった。自分はどうすればよかったのだろうか? 神様でもいて、自分の行く先を善なる行いとして照らしてくれるのならば、そちらのほうが良かった。そして、神様の言うことは絶対で、その善なる行いで生じたどのような結果でも、神様が責任を取ってくれるというのならば、そちらのほうが良かった。どのような結果になったとしても、自分は悪くなく、神様が全ての罪を負ってくれるのならば、そちらの方が良いに違いなかった。
田上は自分を責めてくるこの世の全ての物が途方もなく恐ろしかったのだが、今はぼんやりとそれを感じ取っているに過ぎなかった。
そうやって、ぼんやりとしていると、突然田上のスマホにピロンと連絡が来た。
『どこいます?』との事だったから、少し躊躇ってから『トレーナー室』と返した。
それから、五分程してから、これまた唐突にトレーナー室のドアを開けて、マテリアルが入ってきた。田上は、もうその時にはマテリアルが入ってきても狸寝入りを決めておこうと思っていたので、机に突っ伏したままピクリとも動かなかった。しかし、マテリアルの方も従えてきたデジタルとタキオンを、田上と話をさせなければいけないので、寝ていると分かっていても田上を起こさなければならなかった。田上の肩を多少強めにはたきながら、マテリアルは「田上トレーナー起きてください」と呼んだ。
田上は、起きるか起きまいか悩んでいたのだが、このくらい強く叩かれて起きないのも不自然のような気がしたので、起きざるを得なかった。だから、田上はノロノロと顔を上げると、状況が見えないような振りをして、ぼんやりとマテリアルを見つめた。視界の端には、デジタルと共に座っているタキオンの姿が見えたが、そちらの方にはできるだけ目を向けないようにした。今タキオンと目を合わせても、何を話せばいいのか分からなかったからだ。
マテリアルは、田上を少し眉を寄せて見つめた後、「昼食に行きますか?」と聞いた。田上は、首を横に振って断った。
「顔色悪いですよ?」
「……そうですか…」
田上は、要領の得ない返事で誤魔化そうとしたが、マテリアルの表情に誤魔化されている気配はなかった。しかし、マテリアルはとりあえず、デジタルの方を向くと言った。
「デジタルさん、今までありがとうございます。本当に、デジタルさんの協力なしではタキオンさんをここまで連れてくるのは無理でした。ただ、デジタルさんも交えて話してみようと言った手前ですが、少々昼飯の方に難がありそうなので、デジタルさんにそこまでの迷惑をかけるわけにもいきません。…あの、ここまで付き合わせてしまって申し訳ありませんでした。昼食の方、カフェテリアの方で取りに行かれても全然構いませんので…」
「ああ、はい。…あたしは、退出してもいいのでしょうか?」
「ええ、…購買で買ってきた物なんかで済ませるという選択肢もありますが…、どうでしょうかね…?」
「えー…、…じゃあ、…あたしは、暫しのお暇をさせていただきます…」
「ええ、はい。ありがとうございました」
「はい、どうか、上手くいくことを祈っております…」
そう言って、デジタルはトレーナー室から出て行った。マテリアルは、その後ろ姿を見送ると、雰囲気の暗い田上とタキオンに向かって言った。
「それじゃあ、……どうしましょうかね? 何か要望とかあります? 今から購買に昼飯を買いに行きますが」
田上は首を横に振った。タキオンは、マテリアルの顔を見つめるだけだったから、マテリアルがタキオンの方にまた直接聞いた。
「何かあります?」
タキオンは首を横に振った。
「じゃあ、…二人で何か話してても良いですよ。三人分の食事を買ってきますので」
マテリアルはそう言うと、部屋から出て行った。田上は、昼食など買ってこられても食べる気などさらさらなかったのだが、断るための言葉は中々出てこずに、そのままマテリアルを送り出すことになった。
トレーナー室には二人きりになった。お互いがお互いの事を気にしつつも、田上は気にしていないふりをした。タキオンは、時折田上のほうを期待を込めて見つめていたが、田上の視線は机に向けられたまま微塵も動こうとはしなかった。
やがて、マテリアルがこの雰囲気に似つかわしくない。明るい声で入ってきた。といっても、この部屋では明るいと言うだけで、マテリアルの声色は、ただの平常な物に過ぎなかった。
マテリアルは、ウマ娘用のおにぎりを二個とヒト用のおにぎりを一個、机に置くと、田上に呼び掛けた。
「田上トレーナーもこっちで食べましょう? タキオンさんもどちらかと言うと、落ち込んでいるんですからね? あなたも落ち込んでいるんですから、こっちに来て皆で話し合うしかありませんよ?」
田上は、そう言われても躊躇って動き出そうとしなかったが、マテリアルにもう一度「どうします?」と聞かれると、勇気を出して、一思いに立ち上がった。そして、誰も見ないように俯きながらタキオンの向かいの席に座った。マテリアルは、その姿をお道化たように見つめた後に、タキオンの隣のパイプ椅子を持ってきて、机の端のタキオンと田上の間に腰を据えた。それから、おにぎりを一口頬張った後に、二人に向かって話しかけた。
「話の粗方はタキオンさんから聞きましたがね、……どうやら、タキオンさんはあなたの何を騙していたのか分からないそうなんです。私にも、そこら辺の事は分からないですからね、…お聞かせ願えませんかね?」
そう言われても、田上が言葉を発するのに躊躇ってばかりいると、またマテリアルが口を開いた。
「お二人共、とりあえず腹に物を入れたらどうです? タキオンさん朝ご飯食べてないでしょう? 田上トレーナーもそんなんじゃないですか? …昨日の夕食は食べました?」
田上は首を横に振った。マテリアルの口ぶりによると、タキオンの方も同じように首を横に振ったらしい。
「まぁ、あなた方揃いも揃って夕食抜いたんですか? それでも、GⅠウマ娘のトレーナーですか? それでも、GⅠウマ娘ですか? …そんな食生活で宝塚記念が勝てるんだったら、私は間違いなく、今頃タキオンさんよりも凄いGⅠウマ娘として歴史に名を残していますよ」
そう言うと、田上の前方でおにぎりの包みを開ける音がした。どうやらタキオンが昼食を食べ始めたらしいということが、田上には分かった。田上はタキオンが物を食べるくらいの元気があるのだと知って少し安心したが、自分はもう食べる元気も勇気もないので、おにぎりには手を付けようとしなかった。
すると、マテリアルが、俯いている田上の視界に入る位置におにぎりを置いて、「あなたの恋人も食べてくれているんですし、一口くらいの食べてみたらどうです?」と言ってきた。今度は不思議と声が出てきそうだったので、田上は「お腹が空いてません」と断った。
「そんなわけはないでしょう? 一日ご飯抜いて平気でいられるなんて、それで人間が務まりますか?ってことなんですよ。匂い嗅げば思い出しますよ。ほらほら」
マテリアルはそう言って、嫌がらせをするように、田上の鼻におにぎりを近づけてきた。マテリアルの言っていることは遠からずだった。香ばしい海苔と温かい白米の匂いをその鼻で感じ取ってしまうと、田上の口の中には涎が溢れてきて止まらなかった。しかし、田上の空腹に対する忍耐は、最早覚悟の表れであったので、匂いなどでは食べようとはしなかった。だが、最終的に田上がおにぎりを口に運んだのは、マテリアルが大いにしつこかったからである。そうして、田上は無事に二食ぶりのご飯にありつく事ができた。マテリアルは、おにぎりを躊躇いがちに口に運んだ田上を見ると、満足気に笑ってから話を続けた。
「まぁ、腹に物入れれば、多少は気分も良くなるってもんですからね。これで、二人共落ち着いて話せるんですよ」
それから、マテリアルは皆が腹に物を詰め込み終えられるまで、適当な雑談でもしながらぺちゃくちゃと話していた。
田上が最後の一口を食べ終わると、マテリアルが話し出した。
「さぁ、まぁ、ご飯も食べて舌の回りが良くなったところで、仲直りの時間、そして、これからどうするかも、話していけるのであれば、話していきたい所存ですね。……じゃあ、まぁ、一つ大きな疑問点である『田上トレーナーは、タキオンさんに何を騙されたのか?』というところに行きましょうか。…タキオンさんは何を騙しましたか?…」
「…………愛してるという言葉が僕は嫌いです…」
「愛してる? ……なんで?」
「………その言葉一つで僕を支配できると思っているからです…」
「……だそうですが、…タキオンさん…」
タキオンが話し出す気配がなかったので、マテリアルはまた田上に向かって話を続けた。
「それの何が騙しているのか、私は今一ピンと来ませんでしたが、…どうでしょうかね…?」
「…………タキオンは、……愛してると言えば、俺が跪くと思っている節があると思います」
マテリアルはその言葉が合点がいったので、今度はタキオンに向かって言った。
「つまり、…分かりました? 田上トレーナーは、あなたの愛しているという言葉にうんざりしてたんですよ。…今の言葉に反論はありますか?」
タキオンは首を横に振った。
「……じゃあ、タキオンさんは、田上トレーナーを跪かせるように――愛してると言っていたということを、全面的に認めるという事でよろしいんですね」
マテリアルがそう言うと、タキオンは机を見つめてむっつりと黙り込んだ後に、こう口を開いた。
「………私は、…しかし、じゃあ私はどうやって愛を伝えればいい?」
「…だそうですが、田上トレーナー」
「………愛してるという言葉に頼らなければいい…」
「……」
タキオンが言葉に詰まったので、代わりにマテリアルが口を開いた。
「愛してるという言葉に頼らなければいいというのは、どういうことで? じゃあ、なにで愛を伝えればいいんですか?」
「………困った時に愛しているという言葉に頼っている…」
「ほう。…これはどうですか?」とタキオンに聞いた。タキオンは、じっと机を見つめた後にこう言った。
「………そういう所はあるかもしれない…」
「……ふむ。……困った時って言うのは、例えば、喧嘩したこういう時で…?」
「……そうです…」と田上は答えた。
「じゃあ、普通の時はどうです? 平常の時は。あの机で、タキオンさんと田上トレーナーが普通に話している時でも、愛してるという言葉は聞こえてきますが、その時はどう思っているんです…?」
「………できれば、…やめてほしい…」
「……ふむ…」とマテリアルが頷くと、タキオンが横で顔を上げて田上の方を見た。
「……それは、……騙しているとかじゃなくて、……君が罪悪感を感じているだけじゃないのかい?」
「……ふむ」とマテリアルが頷いて、田上を見た。田上は、相変わらず俯いて、自分の手の中でくしゃくしゃにされたおにぎりの包みを見ていた。
「………俺は、……愛してるとお前が言う言葉全般に、その言葉で俺の意思を捻じ伏せようとする意志を感じる」
「じゃあ、愛しているという言葉を使わなければいんですね?」とマテリアルが口を挟んだ。
「………別に、……使うなというわけではなくて、………使い方を間違っているという事です…」
マテリアルはその言葉を聞くと、タキオンの方を見て言った。
「使い方を間違っているそうですがね……。どういう時に使えばいいのか…」
タキオンも俯いて机の一点を見つめながら考え込んだ。マテリアルは、田上に「じゃあ、正しい使い方ってなんですか?」と聞いていた。しかし、田上が俯いて答えなかったので、また違う言い方で聞くことにした。
「私は、タキオンさんが普段言うような愛してるは、正しい使い方だと思うんですがね……。…どうも、……過剰なんですかね? …確かに、…私はこれを聞きすぎて慣れていましたが、タキオンさん、暇さえあれば愛してると言いますからね」
「……付き合いたての恋人はそのくらい言わないのかい?」とタキオンが、悲しげに眉を寄せながら聞いた。
「うーん……、………分からないですがね……。…過剰に使うのが、使い方を間違ってるという事なので?」
マテリアルは田上に聞いた。
「……そうです…」
「……ほう…」とマテリアルは頷いた。その後に、タキオンがマテリアルに向かって言った。
「しかし、……私は、好きだと思った瞬間にしかそういう言葉は使っていないつもりなんだがね…」
「……でも、今までのタキオンさんからの言動からすれば、田上トレーナーがその言葉に罪悪感を持つと知っていても構わずに言い続けてきたのでは?」
「いや、……じゃあ、私はどう気持ちを伝えれば良いんだい? 私ばっかり気持ちを我慢し続けろというのも不公平じゃないかい?」
「んー、それを今から考えるのが、今日の目標ですよ。…まず、私の意見を言わせてもらうと、恋人同士の間で公平不公平という感情が必要ですかね?」
「……」
「いや、これはタキオンさんに限った話ではなくて、田上トレーナーもそうだと思うんですよ。ね? いや、これは絶対的価値観ではなくて、私個人の意見として消化してくれてもいいんですがね? ……恋人ってのは自分を顧みるべきでしょうか?」
「……」
「タキオンさんもある種我儘なところはありますし、田上トレーナーだってね? 我儘じゃないと、外見では見えそうですが、充分に自分の事を顧みているじゃないですか。世間体を気にして、タキオンさんの事を突き放そうとしているんでしょう? 元々好きだったのに」
タキオンはじっと田上のことを見た。田上は、俯いたまま動かなかった。
「……放っておいて、あなた方が週一で喧嘩しなくなるって言うんならいいですがね? どうも、中々行き詰まっているようなので、私がまた司会をせねばいけないのだろうと思います。……尤も、私が口出ししすぎるのも良くないですからね…。…言う事は慎重に選ばないと…」
マテリアルはそう言って、少し考えたあとに口を開いた。
「まずは、仲直りですね。田上トレーナーは、もうタキオンさんの事が愛おしくて愛おしくて堪らなくなりましたか?」
田上は、何も答えずに俯いたままでいた。タキオンも、まさか今ここで仲直りできるとも思っていなかったが、多少の期待はどうしても寄せていたので少しがっかりとした。マテリアルは少し眉を上げるとタキオンに言った。
「これでも、夕食と朝食抜くくらいには後悔しているんですからね。仲直りできなかったら、多分今日の夜も抜くから、彼氏の健康のためにも仲直りしておいた方がいいですよ」
タキオンはそれにコクリと頷いた。それから、マテリアルは田上の方を向いて、口を開いた。
「まぁ、…なんですか? えー、…田上トレーナーは勿論仲直りしたいですよね?」
田上は俯きながら微かに頷いた。
「そしたら、田上トレーナーはタキオンさんとの間に何を望みますか?」
「……解決…」
「……それはどんな解決でしょうか? 騙された事への謝罪? それとも、今後騙さないための具体案?」
「……具体案…」
「えー、…じゃあ、…何について話しましょうか? ………愛してるという言葉が騙していると感じるわけでしょう? そして、タキオンさんは自分の愛を田上トレーナーに伝えたくて、逆に、田上トレーナーは愛してるという言葉に罪悪感を持ったりする。……この情報はあってますか?」と田上に聞いた。田上はコクリと頷いた。
「よし。…えー、では、田上トレーナーは愛してるという言葉に罪悪感を持つ。そして、その上に、タキオンさんの『愛してる』という言葉に、自分の意思を捻り潰す響きを感じると。……ここで、問題になるのは、………困った時に『愛してる』という言葉で誤魔化そうとすることじゃないですかね? 自分が悩んで、困っているのに、そんな時に――愛してると言われたらどうですか? それも、田上トレーナーは優しい上に、タキオンさんと付き合うべきかを本当に悩んでいるんです。それなのに、――愛してる、と言われたら彼女の気持ちに応えてあげなければと思うでしょうし、自分の気持ちを蔑ろにされているとも感じるでしょう。だから、そういう意味でタキオンさんの『愛してる』は、相手のことを考えていない押し付けがましいものだったのではないでしょうかね?」
マテリアルの丁寧な説明により、タキオンも漸く田上がなぜ騙されたと感じたのか納得して、――そういうことだったのか、と思いながら、目の前の俯いている自分の彼氏を見た。なるほど、マテリアルの說明の通りならば、自分は全く大切な彼氏の心情を考えておらず、さぞや鬱陶しい女だったに違いない。
後悔はあったが、今更なんと言えばいいのか分からなかった。謝るにしても、ごめんという言葉だけでは薄っぺらすぎるようにも感じるし、そういう言葉を重ねれば重ねた分だけ薄っぺらくなるような気がする。
タキオンは田上の顔を申し訳無さそうに見やりながら、そう考えていた。マテリアルは、その顔を少しの間見つめたあとに、また話し始めた。
「田上トレーナーは、この説明であっていると思いますか? タキオンさんが田上トレーナーの悩みを理解せず、ただ自分の欲望を満たすために、――愛してるという言葉を乱雑に使った。だから、今回、田上トレーナーの怒りが爆発した」
田上は微かに頭を上下に動かした。マテリアルはその動きを肯定と受け止めると、また口を開いた。
「これで仲直りと行きたいところですがね? どうもそういう雰囲気ではなさそうですし、私もこのまま終わるようなことでもないと思います。もし、このまま変な形でまた仲直りをしても、一週間後、宝塚記念とかで喧嘩したりするんじゃないですかね? まぁ知りませんが、田上トレーナーの悩みがまだ解けていないのは確かです。今日は、これを解決して、晴れて大円団と行きたいところですね」
そう言って、マテリアルはタキオンと目を見交わしてから、話の口火を切った。
「えー、……じゃあ、なぜ、私がこのまま仲直りしても、喧嘩しそうだと考えたのかを説明すると、……田上トレーナーの悩みが解けていないからですね。やっぱり、タキオンさんが――愛してると何度も繰り返すのも、一つには寂しいというのもあると思います。田上トレーナーがタキオンさんと付き合わないほうがいいんじゃないかと思い続けているからですね。まぁ、その気持ちも分からないではないですが、……まぁ、変なアドバイスしても、多分納得できないので、……どうしましょうかねぇ? …田上トレーナーがタキオンさんの事を嫌いになる努力をしてるって表現は我ながら言い得て妙だと思ったんですが、どうですか?」
これはタキオンに話しかけてきていたから、「いいんじゃないかな?」ととりあえず頷いておいた。実際に、言い得て妙だとは思うが、今は田上の事を少し気にしていたので、マテリアルとの会話ばかり楽しむ気にはなれなかった。
マテリアルは、気もそぞろなタキオンの事など気にせずに、また勝手に話し出した。
「そうでしょう? 本来好きであるはずなのに、嫌いの方に傾斜しようとして悩んでいるんですよ。好きなくせに。……だから、私は、元ある気持ちを大切にすべきだと思うんですがね。…どうでしょう?」
タキオンは、少し首を傾げる仕草だけをした。
「んー…、…だから、田上トレーナーはタキオンさんを好きである努力をするべきなんですよ…。…好きなんだから…。ここら辺が難しいところですがね…。…じゃあ、また不意に後悔に襲われてしまったら? また、タキオンさんに――愛してるって言わせて、仲直りというわけにもいきませんからね…。そしたらまた、同じ事を同じだけ繰り返すだけですし……。…後悔ですよね…。…それとも不安? …罪悪感? ……それらに対してどう付き合うべきか……。……――俺はなんてダメなやつなんだ…、ということでしょう? …タキオンさんと触れ合う中で、罪悪感を持つんでしょうかね?」
「そうだと思う」とタキオンが答えた。
「……ということは、……まぁタキオンさんを抱きしめてるときでも、愛していると囁かれたときでも良いですが、そうした瞬間に…おそらく、――俺は十八歳と付き合ってはいけないと考えるんでしょうね…。……やはり、心の向きの問題なのでは? 好きであり続けるという方向に心を向けたら、解決するんじゃないでしょうかね?」
「……そんな事ができるんだったら、もうやっているんじゃないかな?」
「……んー…、少々難しいですね…。無論、嫌いになる努力をしてるんだと思います。……んー…」
「……――お前が思ってる以上に、過去の事を魅力的に思っている、とも言っていた」
「…なにそれ? 初耳ですね」
「ノスタルジーが好きらしい。過去こそが自分の故郷だと」
「ヘ〜。…だとすると、問題は変わってきますかね?」
「私は、過去のことを話す圭一君があんまり好きじゃないね…」
「どうして?」
「………私と話す時よりも、…目が輝いてる…」
「ほえ~…」とマテリアルは感心して頷くと、田上のほうを見て言った。
「だそうですよ? 彼女さん寂しそうですが」
これは一種の煽り文句だったので、田上は俯いたまま何も答えなかった。マテリアルもからかうのは程々にして、また唸りながら考え始めた。
「んー……、ノスタルジーね……。私も嫌いじゃないですし、そういう類の映画で泣いたこともありますがね…。……そうすると、余計分からなくなりますが、……心の向きの問題じゃないとしたら…? …固定観念? 子供の頃からの道徳とかですかね?」
「そうすると、私と圭一君は付き合ってはいけない方向に行くんじゃないのかな?」「んーー……、だとすると、新しい価値観への適合? 私なんか、これからAIがどう発達していくのか、怖かったりもしますし、興味もあったりしますがね…。だから、古い価値観の老人だと思ったほうがいいんですかね? バブルとか高度経済成長期の頃思い出して――あの頃は良かった、なんて言われても、こっちは一ミリもその時代のことを知らないし、不況になってから生まれた身だし、そもそも時代は変わって行ってるんですからね。生まれてきた子供たちだけに責任を押し付けて、――あの頃は良かったと空想に耽けるような老人にはなりたくないですね」
今までの鬱憤を吐き出すかのように、早口で捲し立てたマテリアルをタキオンは黙ってじっと見つめた。マテリアルは、言う事が切れると、一度息を吸って吐いてから、また話を戻した。
「まぁ、時代が変わる速度が早すぎて、老人にはついて行けないのかもしれませんがね? そして、私も充分にそんな老人になる可能性はあります。新しい技術を忌避して、以前の暮らしの方が良かったと。…いや、確かに、新しい価値観だけが、正しいとも限りませんがね? …何にせよ、時代は変わりますし、人々の生活の仕方も変わりますからね…。ビジネスという側面から、インターネットが発達して、今や私達の暮らしには欠かせない、インフラとなっているのですからね…。便利さと道徳的価値観ってのは、どう触れ合っていくべきなんでしょうかね? …いや? むしろ、自由と道徳的価値観と言うべきでしょうか? 人々の自由が道徳的価値観を貪り食らい出したら? 自由を盾に、道徳を攻撃し始めたら、元も子もないでしょう?」
「……それは、どっちの味方なんだい? 私と圭一君とをくっつけようとしている人の発言には聞こえないが」
「ああ…、…しかし、私の道徳的には、女を大切にしろ、彼女を大切にしろ、と書いてありますがね?」
「そして、まだ未成年には手を出すなと?」
「未成年と言っちゃ悪いですからね…。実際、…うーん…、否定もできませんがね?私も。私がその状況になったら、…まぁ、田上トレーナーと同じように悩むと思います。決して、楽観的とは言えませんがね? ……それでも、自分自身が大切だと思える人は、大切にしていくべきものじゃないかと思います…。何も、世の中が綺麗事だけで成り立っているとは言いませんからね。ちょっとくらい自分自身の悪い所が見つかったとしても、大切な人を大切だと思い続ける事こそが重要なんじゃないかと思います」
マテリアルは、自分の考えをまとめるために、俯きながらそう言った後、田上の方の考えを問うように見た。
「……田上トレーナーは、どう思いますか?」
田上は、自分がそのようなことができるかを別にして、そのような考えを持つことには賛成だったから、「そう思います」と低い声で頷いた。マテリアルもそれに同調するように頷くと、また改めてこう話した。
「だから、田上トレーナーがこれからすべきことは、ゆとりを持つ事、タキオンさんを彼女として大切に思う事、大切な人を大切だと思う事、ですね。…特に、自分を責めそうになった時やタキオンさんを責めそうになった時は私などの身の回りの人に相談したり、そうでなくとも、罪悪感を持つ事を正しい事としたらいけないですね。一番大切なのは、大切な人を大切にする事です。折角、…ね? そんなに悪くなさそうな人にお互い出会ったのに、罪悪感で別れちゃったら残念じゃないですか」
マテリアルがそう言い切ると、田上は俯いたままコクリと頷いた。
「んー…、…このまま仲直りとなっても良いですが、…さっき思ったんですが、タキオンさんだって――愛してるを使うなと言ったって、何かしら具体的なものがないと納得できないんじゃないでしょうか?」
「……圭一君の気持ちを考えれば、使うタイミングとそうじゃないタイミングが分かるんじゃないのかな?」
「んー……、そんなもんなんですかね?…」
「そんなもんだろうとも思うが」
「んー……、…まぁ、言ってみればなんですが、私のこともありますよ。……タキオンさん、ここ最近は私の事を邪魔者扱いしてましたが、今日はなんかよく分かりませんが、何となく普通に話していますよね?」
タキオンは、マテリアルの顔を見ながら、微かに頷いてみせた。
「んん……、多分、田上トレーナーにタキオンさんが怒られたから、仕方なく私を頼って、こういう仲直りの場を仕切ってもらってるんだと思うんですよね? 自分じゃ、簡単に仲直りできなさそうだったから、私に頼るしかなかったんですよね。まぁ、私は過去の事を引きずらない女なので、大概の事は大目に見てあげますがね、…そろそろ私達もここらで仲直りしませんか?」
マテリアルにこう提案されると、タキオンは目を逸らしながら、曖昧に頷いた。そんなタキオンを見て、マテリアルはまた口を開いた。
「だってですよ? 考えてみてください。私を鬱陶しがっているタキオンさんは冷静じゃない、感情的なタキオンさんだと思っています。だって、全く敵でもない女を敵だと勘違いして、田上トレーナーの前から排除しようとするんですから。そして、そんなタキオンさんは田上トレーナーのことも考えずに、好きだ好きだと言いまくっているタキオンさんの姿と重なります。だから、この話は今までの話と無縁とも言い難いんですよ」
タキオンは、今の話をあんまり好ましくなさそうにしながら頷いた。マテリアルも早口で捲し立てたは良いものの、タキオンを自分の殻に閉じ込めさせてしまっては元も子もないと気が付いて、少し冷静になりながら話を続けた。
「んー……、だからですね…? ……話の筋を見失わないようにしないといけませんね…。……だから、…とりあえず、『愛してる』の使用用途について話しましょうか? ……普通の使用用途は駄目なんですかね? …ドラマとかで、恋人同士が囁くような」
これは田上に向けられた質問だったのだが、田上は、自分の事についての話し合いが一先ず丸く収まりそうな様子になったのを見て安心し、今の話を聞いていなかった。だから、もう一度マテリアルに「田上トレーナー?」と呼びかけられると、慌てて我に返って「ん?」と思わず顔を上げてマテリアルの方を見た。
そうするとともに、タキオンとも思わず目を合わせてしまうことになった。二人の目は一瞬合うのみだったが、たった一瞬でも、久々に目を合わせられたとなると二人にとっては幸福なものとなった。
二人は、今の一瞬に少しの喜びを覚えながら、マテリアルの顔を見た。マテリアルは、田上が聞いていなかった説明を繰り返した後で、「どうなんですか?」と再度聞いた。
「………んー、…俺は、……理想的過ぎるんじゃないかと思います…」
「使うなと言う事で?」
田上がうんと頷こうとしたところで、タキオンが口を挟んだ。
「しかし、…君だって、私に対して言う事があるじゃないか。君だって私の事が好きなんだろう?」
すると、田上が静かにタキオンの目を見てきた。タキオンは、今自分が良くないことを言ってしまったのではないかと思って怯んだが、伝えたい事は伝えたので、少し後悔しながらも田上の目を毅然として見返した。田上は少しすると、ゆっくりと目を下におろしてから口を開いた。
「………多分、俺はそんなに数多くは言っていないと思いますし、理想的でないとも思います…。…確かに、言う瞬間とかはありましたが、それは多分大体自分の気持ちを伝えるためだったと思います…。…ただ、……タキオンの使い方は、自分の気持ちを伝えるだけじゃなく、…理想の世界に浸るために、その言葉を利用しているに過ぎなかったと思います…」
「ほぉ~…」とマテリアルが、その言葉をゆっくり理解しながら頷くと、タキオンの方に向かって言った。
「まぁ、その面でいうと、田上トレーナーの方が一歩リードしている感じはありますね」
その後に、タキオンが田上に向かって言った。
「君だって、私といることよりも、理想的に思う世界があると言っていたじゃないか。私が君と居たいと思うのと同じくらいに、過去に帰りたいって。それで、自分は勝手に理想に浸るんだろう?」
その後に、マテリアルがこう言った。
「タキオンさん、…あなたが好きなのは田上トレーナーなんでしょう? なら、まずは反論するんじゃなくて、相手の気持を考えて、寄り添ってあげるべきなんじゃないですか?」
「…どうやって」とタキオンが不愉快そうに聞いた。
「田上トレーナーだって、なにもあなたのことを嫌いだとは言ってないでしょう? それぞれ理想の世界があるんですよ。それを不公平だなんだと言っていたら、くっつくものもくっつかないでしょう? だから、寄り添ってあげることが重要なんですよ。田上トレーナーであれば、あなたのことを愛しているということはあなたが一番良く知っているでしょう? そして、その中で苦しんでいることも知っているでしょう? そこで何が重要なのかって、自分本位になりすぎず、常に相手の気持ちを大切にすることなんですよ。自分本位の気持ちを相手にぶつけたって、それは、相手には、ぶつけられたということしか分かりません。そして、それには、田上トレーナーだって、相手と同じように、相手の気持に寄り添って上げることが重要なんです。相手が相手の事を相互に思いやってこそ、人間関係というものは成り立つものでしょう?」
それに、タキオンがうんん…と悩ましげに頷くと、またマテリアルが言った。
「だから、こういう話し合いという事になった時に、自分の意見ばかり主張しないことが大切なんですよ。こういう困った時に、――愛してる、と言うのも、一種の自分の意見の主張でしょう? タキオンさんは、そこの所をこれまでやってきていなかったんですよ。田上トレーナーがなまじ優しくて、タキオンさんが言う事も、引っ越すという事まで叶えてあげましたからね。だから、これからはタキオンさんが、田上トレーナーの話を聞いてあげる番なんです」
「……これまでもずっと聞いてきたような気がするけどねぇ」
「…じゃあ、これからはもっと聞いてあげないと。少なくとも、心の奥の奥の方まで、困ったら諦めずに、思考を重ねるんですよ。そういうのは得意でしょう?」
「……ここの所はどうだかね…」
「やるしかありませんよ。どっちにしろ、自分の意見ばかりを主張したって、絶対に田上トレーナーはついてきてはくれませんよ?」
「ううん…」とタキオンは唸ったが、同時に理解したように頷きもした。
「んー…、じゃあ、まぁ、田上トレーナーはゆとりを持ってタキオンさんの事を大切に思う事。タキオンさんは、自分の意見を主張しすぎず、田上トレーナーの考えに寄り添う事。主張して失うものはあっても、得るものなんてそんなにないですからね。重要なのは、二人の気持ちの矢印が、お互いの方向に向かうことですからね。
二人の仲が上手く行かないということも、二人の気持ちの矢印がお互いに伸びてからこそ話し合えるもんですからね。そして、二者で話し合ったとしても、ともすると、傷の舐め合いに発展しかねないですから、私のような第三者に相談してみるのがいいです。私のような『ちゃんと状況を弁えて、話を整理しながら話せる頭のいい第三者』をね。第三者の言葉というのも、また違った響きを持って伝わるもんですから、自分たちの気持ちなんて自分たちにしかわからないと思わずに、話してみるのがいいんです。私のような人間にね?」
マテリアルの得意そうな言動に、田上もタキオンも苦笑いをしながら聞いていた。そして、その後にまたマテリアルはタキオンの方を向いて言った。
「そして、私達も仲直りをしましょうか。まぁ、あなたと田上トレーナーの仲をくっつけるためにこれだけ尽力したんですから、これでやっと田上トレーナーを奪う泥棒猫でないとご理解頂けたのではないのでしょうかね? それに、まぁ、普通に考えれば、エスさんもリリーちゃんも田上トレーナーなんて奪わないですし、そもそも田上トレーナーがあなたに惚れきっていて奪う余地なんて全くないですからね。…じゃあ、仲直りの握手と行きましょうか?」
マテリアルがそう言ってタキオンに右手を差し出してきたので、タキオンも――まぁとりあえず、といった表情でそれに応えた。そして、手を離すと、タキオンは田上の方を向いて少し表情を明るくしながら言った。
「もう怒ってない?」
田上は、少し口角を上げながら、無言でこっくりと頷いた。途端に、タキオンは顔中に安心して脱力してしまった笑みを浮かべると「良かった〜」と言って、背もたれに大きく体を預けた。
「私もマテリアル君に言われて、やっと分かったようなやつだからね。あー…、もっと君の事を考えるべきだった。君の身になってみるべきだったよ。…言い訳になるかもしれないが、愛で全てを解決できると思っている節があったからね…。本当にいけない。こんなんじゃ君の彼女が務まらない」
「……俺も悪いところがあったよ…。急に怒ったりして悪かった…。…マテリアルさんの言ったようなこともある。…これからは、もう少しゆとりを持ったり、タキオンのこと好きになりながら接してみることにするよ…」
田上がまだ落ち込みの抜けきっていない低い声でそう言うと、タキオンは多少泣きそうでもあったり、嬉しくもあったりするという感情がごちゃまぜになって、田上をどうしようもなさそうに口角を上げて見つめたあとにこう言った。
「ああ…、もう、……なんて言えばいいのか分からないよ。…とりあえず、こんな離れて座らなくても良いわけだ、私達は」
タキオンはそう言うと、マテリアルを回り込んで田上の横に行き、椅子を引いてそこに座った。それから、落ち着かなげに田上に引っ付いてみたり、手を握ってみたり、見つめてみたりした後で、「もう!」となにかのもどかしさに一喝すると、座っている田上の膝の上にタキオンが乗っかってきた。
田上も断るつもりはなかったので、タキオンが座りやすいように姿勢を整えてあげた。パイプ椅子が二人分の重みに耐えかねて、ギシギシと苦しそうな声を出していたが、その声を心配したのは田上のみで、タキオンは田上の体に抱き着くと、体の力を抜いて、「君と一緒に居るのは落ち着く…」という安堵の言葉を吐いていた。田上はその背中を優しく撫でながら、「寂しい思いをさせてごめんな」と謝った。タキオンは、それにただふふふと笑い声を漏らして「いいんだよ、こうできるんだったら」と返すのみだった。
マテリアルは、そういう二人を見たあとに、多少羨ましいとも思いもしたが、今は自分の仕事が上手く行って、満足した気分だった。しかし、こういう恋人たちがいちゃいちゃしているのを眼前で見続けるのは鬱陶しかったし、折角仲直りできた恋人たちの憩いの時を邪魔する気にもなれなかったので、マテリアルは暇を持て余した振りをして、トレーナー室の外に出て行った。
そしてまた、どこに行こうかと思いながら、小さく口笛を吹いて廊下を歩いた。