ケロイド   作:石花漱一

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三十九、メイクデビュー・芝二千メートル・降雨①

三十九、メイクデビュー・芝二千メートル・降雨

 

 エスには今、少し嫉妬している人が居る。それというのが、同学年で優秀なウマ娘であるアグネスデジタルだ。ただ、エスはデジタルのウマ娘たる部分に嫉妬しているのではない。端的に言ってしまえば、SNSのフォロワー数だ。こっちは、百人ちょっとしかいないというのに、あちらの方は三万人程のフォロワー数がいると、風の噂で聞いた。それでいて、優秀なウマ娘なのだ。なんと神様は不公平なことなのだろうか。天はアグネスデジタルに二物を与え給うた。こっちには、すっからかんなのにもかかわらず、アグネスデジタルにばっかり目をかけて、一つ二つと優遇していくのだ。そして、タキオンさんとも大の仲良しと言うのだろう。いっその事、世界は上級層と下級層に分割してしまえばいいのではないかと思う。そうすれば、目上の者を見ても嫉妬せずに済むのではないのだろうか?

 こっちは、タキオンさんには因縁をつけられるような相手である。いや、普通に話してくれることはあるが、ここの所、警戒されているし、田上トレーナーとちょっと親しく話そうものなら、すぐに間に割り込んでくる。

 まるで、私の物に手を触れるなと言わんばかりだ。こっちは初めっから田上トレーナーなどに興味はないのだ。田上トレーナーの人の好さは分かるが、恋などしようとは思わない。別に、タキオンさんが田上トレーナーの事を好きになるのは全く構わないが、それで、こっちも同様に好きになると思われると困る。自分は、どれだけ田上トレーナーと仲良くしようとも、タキオンさんと田上トレーナー程仲良くなることはあり得ないのだから。

 ただ、ここのところ気になるのは、タキオンさんと田上トレーナーよりもアグネスデジタルの方である。一度、その本名でSNSを適当に探してみたのだが、どうやら、本名でアカウントを作っている様子はなかった。絵は上手いらしい。一度友達伝手でその絵を見た事はあるが、普通にプロのイラストレーターくらいあるんじゃないかと思った。そこで、自分が最近練習している絵を見てみれば、まるで、幼児のお絵かきだ。なんだか、バカらしいし、恥ずかしくなって、ここ最近は絵を描いていないし、SNSに上げてみたイラストも全て消去した。あんなものは黒歴史に違いない。

 フォロワーが三万人くらい居るのも、その絵の上手さを見れば本当の事なんじゃないかと思った。どこかでやっている同人誌の即売会というイベントにも参加したことがあるらしい。エスもそういうイベントがあるという事は知っていたが、果たして高校生が参加していいのかも知らないし、なんだか良く分からなくて怖かったので、参加したことは無い。もしかすると、デジタルが参加しているくらいだから、高等部でも中等部でも参加していいのかもしれないが、自分が参加した所で、自分の恥を外部に巻き散らすだけで終わるんじゃないだろうかと思う。

 尤も、デジタルに嫉妬していると言っても、友達越しに少し話した事はあるが、ほとんど知らない人である。だから、嫉妬してもしょうがないのではあるが、なぜ、同学年であるにも関わらず、向こうは三万人という大人気のイラストレーターで、こっちはしがない物書きであるのだろうかと思わずにはいられない。そして、神様は不公平だと思う。片方にばっかり融通を利かせて、こっちには人生ハードモードを用意する。神様はなんて愚かなんだろうか。

 

 階段で不意にすれ違う人がいる。その中に左目の周辺に火傷痕がある金髪のウマ娘を偶に見る。恐らく、高等部の三年だ。胸にあるピンバッジが、タキオンさんと同じ三年生の色になっている。

 その人の名前は知らないが、その人がこれまでにどういう人生を送ってきたのかが気になる。一緒に歩いている友達の方は、廊下でも偶に見るガラの悪い人たちだ。そして、そういう人たちと一緒に歩いている火傷の人も、そのガラの悪い友達と悪ふざけをしながら笑っていることがある。

 なにも、エスはその人たちのことを快く思っている訳では無いが、火傷の人に関しては少し思うことがある。それは、火傷の人が偶に一人で歩いている瞬間を見かけるのと、そのときの顔が、他のガラの悪い人たちと悪ふざけをしていたのかと思えない程、本当に大人しい顔つきをしていたからである。そして、そういうときは慌てて、顔をジロジロ見るのも悪いだろうと思って、目を逸らすのだった。

 果たして、あの人は良い人なのだろうか? とエスの中では判じかねていた。普段の、悪ガキたちとつるんでいる様子を見れば、あまり関わりたくない人だと思う。しかし、一人で歩いている時の顔は、どちらかと言うと寂しそうな顔なのだ。大人しそうな顔だし、物思いに耽っていそうな顔といっても良いだろう。下手すると知的だし、顔に残る火傷痕が、その人生に重い影を残したような深く沈んだ顔でもある。

 エスは、物書きを目指している者として、あの人をモデルに何か書けはしまいかと、無遠慮に思ったりもしたが、あんまり良さそうなものは出てこなかったし、ここ最近のエスの生活での重点を占めるものは二次創作だ。あんまり一次創作に注意を割く気はなかった。

 二次創作では、ここ最近はウハウハである。推しの結城光が人気なキャラなのも相まって、一次創作をしていた頃よりも十倍も二十倍も評価をつけられている。コメントも一次創作をしている頃よりもずっと来るようになったし、中には、――これは自分より歳上なのでは? と思う人からコメントが来たりしたので、エスは自分の存在が認められたような気がして嬉しかった。

 二次創作の結城光に火傷痕ができたら、なんていうネタも考えたことには考えたが、どうもその先があんまり思いつかなかったので、書くことはしていない。いずれ、書くことはあるかもしれないが、今の所は、結城光は両親も亡くなっている上に、火傷まで付け足したら可哀想だという事で、そんなネタを書く気はなかった。

 しかし、エスは変わらず、あの火傷の人の事だけはずっと気になり続けている。ずっと気になり続けているという事は、何も調べていないから気になり続けているという事で、何か行動でも起こせばいいのだが、行動を起こす程の事でもないし、行動を起こせる程仲が良いわけでもない。それに、火傷の人が仲が良いのは、どちらかと言うとガラの悪い人たちだ。真面目に宿題を提出するような人間とは反りが合わないのではないかと思う。そして、単純に、仲がよくなる理由が無いのである。もし、顔に火傷を負った女を研究対象として、好奇心満々で近寄ってしまえば、怒られそうな気配はあの表情の中にあると思う。

 それでも、エスがあの火傷の人が気になるのはなぜなのだろうか? 一人で歩いている時に見た表情が忘れられないと言っても良いだろうし、もっと他の理由があると言っても良いかもしれない。しかし、火傷を見たら失礼だと思って顔を背けるが如く、エスもその考えを中々見つめることができなかった。

 

 宝塚記念まで、もう一週間を切った。と言っても、エスのレース日は土曜なので、タキオンよりかは一日早い。若干の緊張で落ち着かない所はあるが、今の所は、レース前の授業免除日が楽しみだ。友達なんかは、エスよりも先にデビューしている子もいて励ましてくれたりするし、逆に、デビューしていない子も授業免除日を羨ましがりつつ「エスちゃんなら勝てるよ」と応援してくれたりする。中には、同じレースには出ないが、同じ日に阪神レース場に行ってデビューする子が同じクラスにいたので、二人で頑張ろう頑張ろうと言い合っていた。ちなみに、その子はそんなに仲が良いわけでもなかったのだが、エスに度々話しかけてくれたりと人当たりが良かったので、大分、エスの緊張を緩和するのに一役買ってくれていた。

 宝塚記念は、どうやら天気はあまり芳しくないようである。エスが走る午前中の時間帯に、雨が降り始めるかどうかと言ったところそうなのだが、リリックが走る頃にはもうざあざあと降っているそうである。リリックは、大分参った顔をしていたので、エスは自分の緊張も顧みずに「一緒に頑張ろう!」と応援してあげていた。リリックもそれで多少は元気が出ている様子だった。

 土曜の夜になると、一度雨は上がるそうだが、またタキオンが走る直前頃になると、雨が降り出すそうだ。つまり、十二時ごろになると降るそうだが、なにしろ、一週間前の天気予報なので、まだそこまでの詳細は当てにならないだろう。しかし、エスとしては、曇天よりも晴天の下で走るのが好きだったので晴れることを望んでいたのだが、どうも雨が降らなくても曇りのようだった。

 

 今日は六月四日火曜日である。あと三日経てば、七夕かと思っていたが、そう言えば七夕は七月だったという事をカレンダーを見てたら思い出した。もしかしたら自分は旧暦を生きているのかもしれないと適当に思ったりもしたが、それを同室のアルファに言ってみると、「旧暦って一か月遅いんじゃなかったっけ?」と言われた。それにエスが「あれ? そうだっけ?」と返してみると、アルファの方も自信なさげに「分かんない」と言ったので、二人とも適当だった。それでも、適当は適当なりに、校舎に出掛けた。

 月曜にもまた田上トレーナーとタキオンさんが喧嘩をしたらしいが、今度もまた無事に仲直りしたらしい。マテリアルさん曰く「今度こそもう全て解決しました」との事だったので、もう喧嘩はしないらしい。

 エスは、どうなんだろうか? と思っていたが、確かに、昨日のトレーニングでは少し物腰が柔らかかったような気がする。エスと田上トレーナーが話をしていても、近くでそれを羨ましそうな目でじっと見ているばかりで、いつものように機嫌を悪そうにするでもなく、当て付けのように田上トレーナーとベタベタしているのでもなかった。

 確かに、少しは落ち着いたようだが、それがいつまで持つかは分からないと、エスは睨んでいる。タキオンさんと言ったら、これまでエスに敵意しか向けていなかったので、エスの方だってタキオンさんの方をあまり信用しないでいた。自分に敵意を向けてくる人間を信用できるはずもないだろう。いや、敵意しか向けられていないというのは、誇張かもしれなかったが、それでも、タキオンと普通に会話した事も引っくるめて、エスはタキオンの事を信用していなかった。

 授業に出る前には、必ずトレーナー室に行って、少し書いてからまた教室に行く。書くことがなくても、適当に音楽を聞いてから行くつもりだ。そしてまた、トレーナー室ではタキオンさんも同様に、朝の時間を過ごしてから教室に行く習慣がある。それも、田上トレーナーとベタベタしてからである。

 今日も、部屋を開けて中に入ると、マテリアルさんと田上トレーナーとタキオンさんが居たので、適当に「おはよーございまーす」と挨拶をして自分の定位置に着いた。特に決められた席でもないが、ここが気に入っているので座っている。気に入っている理由も特にはないが、強いて言えば、端の席が好きだからとか、ここからなら外の景色が見えるからとかがあるんじゃないかと思う。

 窓はもうここ最近は開け放されている。自分が熱心に自然の風を取り入れた効果が出ているのかもしれない。そう思いながら、エスは席に着いた。そして、デスクの方の二人をちらりと見てみた。二人共、全く動かずに、まるで眠るかのようにして、椅子の上で抱き合っていた。何も喋っていないので、本当に抱き合ったまま眠っているのかもしれない。

 田上トレーナーは一応挨拶を返してくれたが、膝のうえに向かい合って座っているタキオンさんに隠れて埋もれていたので、顔は見えなかった。そして、今も顔はよく確認できない位置にある。ただ、まぁ、手は恋人の体に添えてじっと動いていなかったので、二人共、同じように眠っているように見える。――なんとまぁ、お気楽で物好きな恋人たちだろうか、とエスは思ったが、そのすぐ後に、――これは二次創作に使えるかもしれない、と思ったので、しめしめとほくそ笑みながらスマホで文章を書く準備をした。いくら、自分たちの世界に浸りきったような恋人たちでも、夢小説の糧にはなってくれるのだから捨てたものでもない。

 エスはニヤニヤしながら、自分と結城光の夢小説を書いた。

 

 朝の時間はそれほどなかったので、エスは大した量も書けないで、授業に出なければならなかった。授業に出ている間も、エスは暫く妄想を繰り返していたが、次第に授業に集中するようになっていった。

 授業から戻ってトレーナー室に行くと、その直後にタキオンの方も来た。最近、田上トレーナーがどっかのアパートに移り住んで、週末になれば二人でそこに泊まっているらしいが、もし別れたとしたらどうするのだろうかと思う。特に、喧嘩の多い二人のようだから、別れる事も思い浮かばないことはないのではないのだろうかと思う。そして、田上トレーナーはタキオンさんと付き合い続けることに悩んでいるそうだが、そんな状態で部屋を借りてよかったのだろうか? 別れることになったらどうするのだろうか? 部屋を借りた分、その愛の園となるべきだったはずの場所で、相当な喪失感を味わいながら過ごすのだろうか?

 田上トレーナーもそんなことを考えない程バカではないだろうから、それを覚悟の上で借りたのだろう。そうすると、エスも田上のことを――案外思い切りのある人なんだな、と見直した。確かに、まだ、付き合ってそんなに経っていないであろう恋人のために部屋を借りるなど、とんでもないバカか、惚れた女に入れ込み過ぎて、見境がなくなっている人のどちらかだろう。

 ただ、エスも、なら何ヶ月経てば部屋を借りていいのかと問われると、そこら辺の詳細は、まだ付き合ったことがないため分からない。一年と言うと、切りがいいからそこら辺でもいいように思われるが、エスの感覚としてはもう少し早くてもいいような気がする。

 だとすると、半年か…? とエスは思った。半年なら、そこそこ安定もしているだろうし、エスが勝手に恋人の節目だと思っている三ヶ月目の倦怠期も乗り越えていることだろう。少なくとも、三ヶ月経てば恋人初心者から、恋人安定者へとランクアップすると勝手に思っている。

 これは、実際に調べたというよりも、どこそこで見聞きしたことによるエスの知識である。そして、二人は大阪杯のときに付き合い始めたと聞いたから、三ヶ月は経っていないはずだ。

 よって、田上トレーナーの事を、思い切りのいい惚気けた人物だと認定するが、不図考えてみると、二人はそれ以前に仲のいいパートナーとして、これまで二人きりでレースを共に歩んできたはずだ。となると、大体の手の内は、二人共知っているのだろうし、ぶつかり合うこともあったのだろう。現に、昨日は仲直りのためと言って、二人はマテリアルを仲介役として、色々と話したはずだ。そして、その結果が昨日のトレーニングであり、今日の二人で黙ってくっつきながら寝ているということなのだろう。

 仲直りの為に、エスはマテリアルから直々にトレーナー室には来るなと通告されていたくらいだ。仲直りは、もうチームメンバーとして、やってもらわなくては困る。同時に、田上トレーナーの悩みがなんであるかも知っているので、――そうそう簡単に解決できるものなのか? と訝しんでいた。

 エスにとっては、田上も、果たしてどのような人物なのか詳しい認定はできていない。話して見る限り良識的な人物ではあるが、年下の教え子と付き合ってみたり、付き合って間もない彼女と週末に泊まるために部屋を借りてみたりする人間だ。そして、その裏に、人並な悩みも抱えていたりする。こういうのを小説として書いてみるのも面白そうだが、前述のように、わざわざ読まれないと分かっている小説を書くほど愚かじゃない。夢は、小説家として生きていくことなのだ。もしかしたら、夢小説で名が上がって、それが出版社の編集に偶々見られて、向こうからオファーが来るなんてこともあるのかもしれない。

 そんな夢を抱いたりはするが、流石に、そんな都合のいいことが起こるわけがないと薄々勘付いている。それに、言っても、自分の夢小説は二番煎じ三番煎じ四番煎じだ。何かしら誇れるようなものもなく、他と違っていることもなし、有名だといったって、ネット上の夢小説じゃ見て貰えないことすら分かることには分かっている。しかし、エスは、自分の中でぼんやりと思い描かれる『生きた証』というものが、皆の目に付くところに有りはしないかと夢想していた。

 

 田上トレーナーとタキオンさんは、朝のようにべったりではなかったが、二人でじっと寄り添いながら、手を握って座っていた。エスは、――もしかしたら、昨日の喧嘩の傷を癒そうとするために二人であんなにじっとしているんじゃないだろうか? と思ったが、あんまりジロジロ見ると二人に悪いし、タキオンさんからまた睨まれることになりそうなので、そんなに見つめないようにした。

 エスは相変わらず田上の事が、火傷の人の時と同じように気になっていた。言わば、自分が何を気になっているのか分からないから、もっと気になっていると言ってもいいかもしれない。ただ、エスもぱっと答えを出せるような人間ではないので、乱雑に思考を並べて、少し興味を深めるだけだった。そして、堂々巡りも繰り返して、果たしてその先にあるのは何なのだろうと、疑問を深めた。

 エスの疑問は相変わらず田上の方にあって、今は、田上トレーナーとタキオンさんの関係性について、また堂々巡りを繰り返していた。

 田上トレーナーとは一体何なのだろうと思った。一体なぜタキオンさんのことを好きなのだろうと。

 以前にも聞いたことはあったが、「人となりだよ」と答えただけで、多くを語ろうとはしなかった。まぁ、それが全てなのかもしれないとエスは思ったりもする。人となりさえ惚れていれば、あとは惚れる部分などないだろう。しかし、別の何かがあったりするのではないかとも思ったりするのだ。なにって、二人の立場は一つの壁であって、その壁を越えるのには、その他の人たちよりももっと大きな力を持って越えなければいけないのだろうと思ったりもするからだ。この『思ったり』というのは、エスの考えがまだあまり定まっていないからで、逆に思わなかったりもするのだ。

 興味があったりもするし、なかったりもする。定まっているような気もするし、定まっていないような気もする。

 こんな具合で、エスの思考はふわふわとふわふわと渦巻いては、空気のなかに溶けてゆくので、もどかしかったりもどかしくなかったりする。そして、考えようとしたり、考えようとしなかったりする。

 目を背けていると言えばそうかもしれない。いや、しかし、無理なものは無理と諦めているのもあるかもしれない。実際、目の前にある問題が輪郭も帯びないうちから突き止めようとするのは至難の業だ。輪郭を帯びて、初めて問題となるのならば、エスの疑問というのも輪郭を帯びずに右往左往を繰り返しているに過ぎないのかもしれない。

 ならばその問題の輪郭を突き止めよう、としてもそんな事は容易じゃない。むしろ、容易じゃないから輪郭が突き止められないと言っても過言ではないのだ。

 問題というのは、起こってから初めて鮮明に浮き出てくるものではないかとも思う。すると、エス自身は問題が起こるのを待つことになる。未然に防ぐ手立てもなく。いや、その問題が果たして悪い事なのかというのも分かりはしないが。

 

 こういう風に、エスの思考は混乱を来たしていたが、それは好奇心の奥の方にぐるぐると渦巻いているものであったので、表面上では、その奥の渦巻きに巻き込まれて、より大きく浅く渦を巻いているに過ぎなかった。

 ここから、問題の輪郭が浮き上がってくるのならばいいが、果たしてそうかも分からない事に時間を使うのも正しいのか分からない。だからエスは、より手っ取り早く効果を得られる二次創作、夢小説のなかで自分の身を躍らせていた。時には、マンガを読んだり、ウマチューブを見たりしてゲラゲラ笑う事も良いかもしれない。

 そういう風にして、時間を過ごして行くうちに、授業免除日である水曜日が来てしまった。この日は、また、最後にレースに備えて模擬レースをする日でもある。エスは、自分の緊張を押し隠すために、変な顔を一人でするくらいだった。

 

 水曜の朝に起きてみると、自分は授業免除だから授業になんて出なくていいという高揚感がまず出てきたが、その後に、とてつもなく緊張するデビュー戦もやってくる。自分のトレーニングは充分だったのかとか、自分はあの舞台で本当に緊張せずに走れるのかとか、様々な不安と緊張が脳裏に閃いたが、とりあえず、田上はそれらについて「皆、初めは大体そんなもの。勝つ人もいれば負ける人もいる」と言って聞かせてきたので、あんまり気にしない事にはしている。それでも、多少の緊張があることにはあった。

 同学年のアルファで少々不安を晴らすように、「いってらっさーい」と軽口、または煽る様な口調でそう言った。アルファは、「いいなぁ」と言いながら、授業に立ち去って行った。向こうはもうデビュー済みなので、なにが「いいなぁ」なのか。散々授業を免除されてきただろう。

 エスは、そう思いながら、部屋でダラダラしていたが、十時前になると部屋から出て行った。田上から模擬レースの前に一度皆で集まっておこうと、言われたからだ。この皆というのは、土曜に行く組のことで、タキオンの事は数の内に入っていなかった。エスは、リリックの事が好きなので、あんまりトレーナー室に訪れないリリックとトレーナー室で話すのは嬉しかった。だから、少しウキウキしながらトレーナー室へと向かった。

 

 トレーナー室に行くと、もう田上とリリックとマテリアルが座っていて、ドアを開けたエスを出迎えた。田上はエスの事を見ると「ああ、おはよう」と片手を上げて挨拶をし、机の資料をトントンと整えた。エスがいつも座っている椅子には、リリックが座っていたので、エスはマテリアルとリリックにそれぞれ「おはようございます」「おはよう」と挨拶をしながら、リリックの隣の席に座った。

 エスが席につくと、田上が話し始めた。

「今日集まってもらったのは、まぁ、…もう授業免除日が来たのと、模擬レースがあるのと、不安とか緊張とか、向こうに行ってやること、持ち物とか疑問とか、他に入りそうな物があったら聞いてほしくて、集まってもらった。それ以外は特にやる事もないから、…まぁ、…三十分ほどで終わって、居かったらここに居て何でもしてていいよ」

「はい」と他の三人がそれぞれ返事をした。それから、田上は持っていた資料から何枚か抜き取ると、「まずは、リリーさんの方から話して良いかな?」とエスとリリックに呼び掛けた。エスも今日はやる事もやる気も無かったので、特に、時間の拘束に関して頓着はなかった。だから、エスとリリックがまた「はい」と返事をすると、田上がマテリアルの方を見て言った。

「じゃあ、マテリアルさんも、リリーさんに関して、一緒にやっているので、…はい、…マテリアルさんも一緒にやってもらおうかな? こっちに来てもらえればいいけど。…エスさんもリリーさんのレースの話聞く?」

 エスが興味を持って資料を見つめていたのが田上に伝わったのか、そう聞かれた。エスは、少し嬉しそうに「はい」と頷くと、隣のリリックと顔を見合わせてにやりと笑みを作った。

 

 リリックのレースの全貌などはあまり知らなかったので、自分とはやはり違うアドバイスをされていて、エスは新鮮味を覚えた。

 ――はぁ~、こんな走り方や考え方があるのかぁ、と感心したりもした。リリックは、どうやらこれらの事は聞かされていたようで、今回はおさらいと言った感じのようだった。

 田上は、頻りに「他の周りの人もデビュー戦だから、リリーさんだけ遅いという事も速すぎるという事も全くあり得ないし、道が分からなくても係り員の人たちが誘導してくれるから大丈夫」と繰り返していた。どうやら、肩肘張り気味なリリックの緊張を和らげようという意図の言葉らしい。エスは、――リリーちゃん、少し人見知りだからな、と他人事の様に思っていた。

 自分の番になると、途端に緊張がぶり返してきて、エスは少し具合の悪いような気持ちがしてきた。田上もそれを察して、微笑みながら「エスさんも緊張しちゃう?」と聞いてきた。エスは、田上とマテリアル、そして、リリックをそれぞれ順々に見やりながら、最後にリリックと目を合わせて「緊張しちゃうよね」と言った。リリックは、口元に緊張気味の笑みを浮かべながら「緊張しちゃう」と言った。

 エスの説明もトレーニングの時に聞かされていた事をしっかりとまとめて、再度分かりやすくしたものだった。作戦の方は、「今の所、バ群の様子を見つつ、差しという所で行こう」と言われた。エスは、その作戦を多少不満に思ったり、不安に思ったりもしたが、『とりあえず』という話なので、まぁ、一応今日の模擬レースはそれで走ってみることにした。

 それから、これからの日程についての質疑応答が交わされた。

 エスとリリックと田上は、金曜日にここを出発するらしかった。それは、事前に配られた資料からも知っているが、田上が念の為に、と言っていた。金曜の朝にここを出て、空港について、飛行機に乗って、関西で降りて、またバスに乗ってホテルまで行くという事は、木曜にはもう出発の前日という事になる。

 つまり、明日が前日で、あさってが本番一で、しあさってが本番二だ。エスにとっては、もうここを出るバスに乗ってしまえば本番の様なものだった。ここで、今更、――やっぱり、付いてくるのは田上トレーナーじゃなくて、マテリアルさんの方が良かったかもしれない、と思ったが、今更な事なので、口には出さなかった。

 それに、ちゃんと考えてみれば田上トレーナーの方が経験は豊富なので良いだろう。マテリアルさんほど人当たりがよくて気か利くのかと問われれば、エスは、少なくともマテリアルの方を尊敬していて、田上の方は、タキオンさんと喧嘩して落ち込むような人間だとしか思っていなかった。

 まぁ、変な事に文句を垂れてもしょうがないので、リリックという友達と行ける分だけマシかと思っていた。それに、田上の事を尊敬していないと言ったって、ちゃんとやる事はやってくれる男なので、自分たち三人で迷子になって途方に暮れるという事もないだろう。

 ただ、エスとリリックは、自分たちの不安と緊張を解消するために、色んなことを聞いて行くうちに、まあまああな時間が経っていた。これは、田上が、後腐れが残らないようにエスとリリックから上手いこと不安や悩みを聞き出して、詳細に事柄を伝えていたせいでもあった。

 そうして、最後には段々と雑談らしくなってきたところで、タキオンが授業を終えて帰ってきた。タキオンは、一日遅れのレースなので、授業免除も一日遅れなのだ。そこで、自分以外のチームメンバーが楽しそうに雑談しているのを見た。タキオンは、心の中では少し動揺したが、口では「やぁ」と小さく呟くように挨拶をして、田上の隣に行った。田上は、すっかりチームTruthの一員らしい顔で、自分のとなりの席にタキオンを出迎えた。

「今、世代のマンガの話をしてたんだけど、タキオンは何か読んでた?」

「いや、…特に」とタキオンは、あまり芳しくない調子で答えた。本当なら、ここで少し放っておいて欲しかったのだが、田上は、タキオンと居る前の彼らしくなく、舌を軽く回転させながら話し続けてきた。

「ええ、そう? 少女漫画とか、雑誌とか、読んでなかった? 俺なんか、少女漫画の方は、内容どころか名前すら分からないのを上げられたんだけど」

「……学習漫画とかは読んだことがあったかな? ……『○○の中身シリーズ』…」

「ああ! 懐かしい!」とエスとマテリアルと田上がそれぞれ声高に言った。

「小学校の頃に滅茶苦茶読んでたなぁ~」と田上が言った。

「あの…!…入門書みたいなものの近くに置いてありませんでした?」とエスが言ったが、流石に、それはエスの小学校だけの話だった。

 それから、また田上がタキオンに向かってこう言った。

「あれだよな。社会科見学みたいな、電子レンジの中身とか、それを作る工場とかあったよね」

「私それ記憶にあります!」とマテリアルが口を挟んだ。「確か、…こう…白い…工場の服を着た人が、卵に羽が生えたようなキャラクターと話してましたよね?」

 これには田上も苦笑してから、「それはあんまり記憶にないなぁ」と言った。それから、話をタキオンと自分の方に戻した。

「俺は、…あれだよ。『製本の中身』を覚えてる。確かに、卵に羽が生えたキャラクターは居たけど…、あれ、今考えると、大分手抜きマスコットキャラだな」

「私、あれ手抜きだと思うんですけど、簡単に書けるから、授業中で先生の話を聞く気もなくて暇なときにノートの端に滅茶苦茶書いてました」

「あれを?」と田上がマテリアルの方を見て言った。「そのノート見たら、病気だと思われるんじゃないですか?」

 その言葉にマテリアルはケラケラと笑った。その後に、田上がタキオンにこう聞いた。

「タキオンが覚えてる本とかある?」

「『○○の中身シリーズ』で?」

「それでも良いけど、他のでも」

「んー、……私は、『人体の中身』を覚えてるね」

「へぇ」

「……ウマ娘と人の特徴が良く描かれていて面白かった。マンガだから読みやすいのもあったね」

「へぇ…、タキオンらしいね」

 田上が、あんまり言う事もなさそうにそう言ったので、タキオンはその顔をじっと見つめた後にこう口を開いた。

「君、そんなに興味なかっただろ?」

「そんな事無いよ。タキオンがしてることは、なんでも興味があるよ?」

「嘘だろう?」

「嘘じゃないよ。…ただ、人体ってのには、その時はあんまり興味がなかったかな? 機械とか、工場とか、そっちの…何と言ったらいいかな…。…自分の体って、自分でもよく知ってるように思うじゃん」

「まだ知らない事はたくさんあるがね」

「幼少期の時はそうじゃないじゃん。…こう…やっぱり自分の体は自分の体であって、興味が内側に向けられると言うよりかは、外側に向けられたりしない?」

「…まぁ、分からない事もないが、…まぁ、私は足の事があったからね…」

 そこで、エスが口を挟んできた。

「え、タキオンさんの足の事って詳しく聞いた事は無かったんですが、具体的に何があったんですか?」

 タキオンは、少しばかり鬱陶しそうな目をエスに向けた後、田上と話しつつエスの方に目を向けながら説明した。

「まぁ、…私の足は関節炎になりやすかったんだね。生まれつき脆かった。特に、ウマ娘はこういう症状が起きやすい。通常ではあり得ない速さで走っているからなのかもしれないが、まぁ、頻繁にこれで引退したという人は見るだろう?」

「はい」とエスが頷いた。リリックやマテリアルも興味深そうに聞いていた。

「こういうのは全て圭一君には話したんだがね。……それで、私は幼いころから研究を重ねていて、…高等部に入った六月の頃に、圭一君に出会った。それまでは、従順なモルモットを恒常的に得るのが難しくてね…、難儀はしたものだが、まぁ、遂に圭一君に出会ってしまって、私の研究も地に足がつき始めた。私も、無理はしない程度に、研究を進めたが、……。君の聞きたい事はこれで良いのかな? 薬の成分の詳細かな?」

「いえ、全然。私、薬の成分とか知らされても全然分からないので、むしろ、どうやって、足を治したか。田上トレーナーとどんな事をしてここまで来たのかな?って事を聞きたいです」

「じゃあ、…今の話で良いのか…」とタキオンは言いながら、田上の方を見た。田上は、タキオンの話に感化されて、昔の事を思い出しているような顔でコクリと頷いた。

「まぁ、…えー、…そう、…私も、無理はしない程度に研究を進めて、まぁ、皐月賞頃には少々先行きが怪しくなり始めてね……。日本ダービーの後には、もう全てを投げ打ってでもいいから、出走してやろうという気持ちで月桂杯の出走を決めた」

「…例のやつですね…」と話を聞いていたマテリアルが小声で言った。タキオンはその顔をじっと見つめたあとに、田上の顔をチラリと見てから、また話し出した。

「ああ、例の月桂杯だね。多少騒ぎにもなったりしたが、全ては、プランBへと移行するためだった」

「プランB?」とエスが聞いた。

「……カフェに全てを委ねようとしたんだ。…つまり、私は走ることを諦めて、他のウマ娘で限界の速さを追い求めようとしたんだね。……あれから、もう一年程か……。菊花賞に至っては、まだ一年も経っていない…」

 タキオンがそう言いながら田上の方を見ると、田上はコクリと頷いてくれた。

「私は、もうあれから何年も何十年も経ったような気がするよ」

「俺もだよ」と田上は呟くような低い声でそう答えた。

 タキオンはそれから少しの間、昔を懐かしむのか、はたまた、思い出すことを嫌がっていそうな顔で机を見つめた後に、エスの方を向いて、また話し始めた。

「ああ、足の事だ。……そう。…まぁ、ただ、私のその想いは、この隣の圭一君によって、結構すぐに破られることとなった。私と一緒に果てが見たいだとか何とか言って、私もまぁ、それに乗っかることにしたのだよ。私だってそもそも、諦める事は本位じゃなかったわけなのだよ。……そして、例の月経杯をキャンセルして、炎上し、それからも、研究をこのモルモット君と共に重ねて、夏合宿で遂に成功と至ったわけさ。そして、菊花賞を走り切ったのちに、私の足の事も教えてあげた」

「研究って、なんで今はしてないんですか?」とエスが聞いた。これは、タキオンもあまり聞かれたくはなかったのだが、それなりに話して、舌も軽くなっていたので、嫌そうながらも答えてあげた。

「……腑抜けたからといっても良いかもしれないし、興味が無くなったからといっても良いかもしれない」

「へぇ…?」

「……つまり、走り続けることに少々嫌気が差したのだよ」

 となりの田上が自分の顔を見ている気配を感じたが、タキオンはそちらの方は見なかった。

「無論、走ることは嫌いじゃないがね。…まぁ、研究するもしないも私の勝手というわけさ。…もうそろそろ時間だな」

 タキオンは、時計を見てそう言った。確かに、長々と話していたら、もうタキオンが授業に出なければいけない時間となっていた。その後に立ち上がると、タキオンは田上の肩をちょんちょんとつついた。田上は、このトレーナー室からタキオンを見送るつもりだったので、初めは何のことか分からなかったが、やがて、タキオンの視線とこの状況から察すると、「ついてきてほしいの?」と言った。

 タキオンは表情を少し嬉しそうにさせてうなずいた。だから、田上は、タキオンと手を繋いで、トレーナー室から出て行った。他の三人は、そんな二人の背中を、可笑しそうに、愛おしそうに微笑みながら見送った。

 

 タキオンと田上は廊下をゆっくりと歩いて行ったのちに、石の渡り廊下までやって来た。まだチャイムは鳴っていなかったので、タキオンはそこで田上と一時を過ごそうと思って、壁際の方に手を引いた。田上は引かれるままに動いて行って、やがて、タキオンの隣で渡り廊下から見える景色を見つめていた。

 タキオンは、景色を退屈そうに眺めて少しした後にこう言った。

「……君、随分と楽しそうだったね…」

 これは、多少の嫉妬はあったのだが、嫌味っぽくは聞こえなかった。田上はその言葉に対して、「嫌だった?」と返した。タキオンは少ししてから首を振った。

「いや、…嫌というわけじゃないんだがね……。…多少の嫉妬心というものを分かってくれるかい?」

「……俺は、お前も含めて、チームの皆で話すのは楽しいと思ってるよ?」

「……そう…」

 タキオンはそう返事をした後、またぼんやりと景色を見つめた。一番上の渡り廊下から見える校庭には、次の体育の授業の為にまばらに人が集まってきていた。次いで、キンコンカンコンとチャイムが鳴った。タキオンは、そのまばらな人影を見つめながら、はぁ…とため息を吐くと田上に向き直って言った。

「今の私の気持ち分かるかい?」

「……俺とチームの皆が関わると、自分だけ疎外された気持ちになって寂しい?」

「……そうかもしれないね…」

 タキオンは、そう言って俯いてみたり、景色に目を移してみたりして目を泳がせた後、田上にこう言った。

「………君と一昨日仲直りしたばっかりなのに……」

「………タキオンは、チームの皆とどういう風に関わりたい?」

「………そりゃあ、…欲を言うなら、……君とチームの皆を関わらせないようにしたい…」

「…つまり?」

「……君と皆の間に立って、…君との交流は全て私を介してからでないといけないようにしたい…」

「………嫉妬かな?」

「………どちらかと言うと、……君を私の物にしたい…」

「…独占欲?」

「…そんなものかもしれない…」

「……俺がどこかに行くっていう不安があったりする?」

「……まぁ、……これまでの事からも、無い事はないんじゃないか?」

「ああ、……どうする? 授業はサボる?」

「教育者としてそんな事を提案してもいいのかな?」

「お前の彼氏として言っているんだよ」

 田上はそう諭してから壁際に座ると、「どうする?」と聞いた。タキオンは、座っている田上を見下ろしながら、暫く悲しそうな顔をして悩むと、「休む」と言って、田上の隣に座った。田上はそんなタキオンを癒せるように、自分の肩へ寄りかからせてあげた。

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