ケロイド   作:石花漱一

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三十九、メイクデビュー・芝二千メートル・降雨②

 タキオンは、暫く黙った後、苦しい息を吐き出すように、はぁとため息を吐くと田上に話しかけた。

「圭一君、何か話をしてくれ…」

「……宝塚記念はどう?…あんまり深くも聞かないから、…緊張してる?」

「……ああ…」

「………今回は、……どう応援しようか迷ったんだけどさ」

「…ああ…」

「……ここの所、お前も不調みたいだから、……俺はとりあえず、お前が帰ってくるのを待ってるよ。お前が、何の怪我もなく、無事に帰ってきてくれればそれでいい。……まぁ、言ってしまえば、それは初めのレースの時からそうなんだけどさ。…お前もここ最近は、勝ちも続いて気負い過ぎてるだろうから、とりあえず、楽しんでくることだけ考えててくれればいいよ。カフェさんとのレースはどう?」

「……カフェの名前を出す前までは良かったんだが、カフェの名前を出した途端に気が重くなったよ」

 タキオンは、軽口気味にそう言ったが、嫌な事には嫌な名前だった。

「それはごめん。…まぁ、じゃあ、遠足だと思って楽しんでくれ」

「雨天決行の遠足かい?」

「…帰ったら、その次の次の週には、俺の父さんの家に行けるよ」

「ああ、……ここ最近の楽しみはそれだけだね…」

「俺と話すのも好きだろ?」

「…好きな事には好きだが、……うん、まぁ、感謝はしてるよ。…ありがとう」

「…俺もタキオンと話すのは好きだから、感謝はこっちの方も充分にしてるよ。…ありがとうって言葉もあるし、…マテリアルさんの言葉で結構心が軽くなったような気がする。…だから、…お前にもちょっと迷惑かけすぎたかな?って」

「……何言われようと、私は君のことが好きだがね…」

「…ありがとう…」

 そうして、会話が途切れた少し後に、またタキオンが、田上により一層擦り寄りながら口を開いた。

「……宝塚記念の後の選抜レースで、また一人スカウトするんだろう?」

「…そうだね…」

「……また、…私のライバルが一人増えるって事だろう?」

「何のライバル?」

「……恋愛」とタキオンは適当に言った。本当の所は、田上の親しい関係としての席にライバルが増えるという事だったのだが、自分でもそんなのは難癖だと分かっていたし、それを簡単に説明もできなさそうだったので、タキオンはその一言で誤魔化した。

 田上は当然、タキオンの方を向くと、その戯言に驚いた声を出した。

「恋愛? …俺、お前以外の人間を好きになるつもりはないんだけど」

「……でも、私の様な高校生を好きになったのだろう?」

 タキオンは、自分が言った嘘に田上が反応してしまったがために、引っ込みがつかなくなって、また本心のようで本心でない事を話さなければならなくなってしまった。

「俺は、付き合っているうちは他の誰かを好きになるなんてことはしないと思うよ? 俺の中では、お前が一番大切な人で、唯一無二だよ? 他の人なんてライバルにもならない」

「……」

 田上の言っている事は嬉しかったのだが、それはもう知っている事でもあったし、自分がついてしまった嘘のせいで、自分の本心が勘違いされているのがもどかしくて堪らなかった。それで、俯いたまま黙っていると、タキオンの様子がおかしいのを察した田上が、またこう言った。

「お前、…本当は恋愛じゃないんじゃなくて?」

 タキオンは、コクリと頷いた。田上も今までのタキオンの話から、なんとなく何のライバルなのか察することができていたから、こう言った。

「本当は、タキオンが俺を独占するためのライバルだったり?」

 タキオンはまたコクリと頷いた。田上は、すこし深く呼吸をすると、空を仰ぎ見た。所々雲はあったが、晴れと言える天気だった。その青空を流れる雲を見て、少しだけ子供だった時期を思い出してから、田上はタキオンにこう言った。

「………俺は、…これまでお前を突き放すような事ばっかり言ってきたから、あんまり強くは言えないんだけどなぁ……。なんで、俺を自分の物にしたいと思う?」

「………分からない…」

 タキオンが小さな声でそう言うと、田上も頭の中にある考えを整理するために、また暫く黙り込んだ。

 それから、校庭で行われている体育の授業のホイッスルが小さく聞こえてきたときに、田上はタキオンの方を向いて言った。

「……寂しい?」

 タキオンは、口を開く気になれなかったので、微かに首を横に振った。別に、否定というわけではなかったのだが、首を振るだけでは、肯定か否定しか伝えられなかったので、田上には否定だと伝わってしまった。本当は、自分の気持ちがあんまり分からないだけだった。

 田上は、また「んー…」と唸った後にこう言った。

「………俺はもうあんまり――分からないね、で済ませたくないんだよね。勿論、お前に無理して話させるのもあんまり好きじゃないんだけど、…分からないねで済ませた結果があの喧嘩に繋がったと思うんだよ…。……だから、月曜にマテリアルさんが言ったように、お互い歩み寄る気持ちが必要なんじゃないかな、と思うんだけど、…タキオンはどう?」

 タキオンは、俯いたまま何も答えなかったが、田上はめげずに話を続けた。

「じゃあ、俺がお前に質問して、お前もできるかぎり俺の言葉に寄り添って答えるってのはどう?」

 タキオンは、コクリと頷いたが、自分から話すという雰囲気でもなかったため、田上も、自分の意図ができるだけタキオンに伝わるように独り言を発しつつ、タキオンに話しかけた。

「と言ってもね……。俺の質問も多分創意工夫が必要なんだよね…。タキオンが分からないと言ったことも、少し角度を変えて質問してみたら、分かるということがあるから…。そこの所を面倒臭がると、多分見えるところも見えなくなるんだよ……。…俺はさ、…少しこの話には関係があったりなかったりすることなんだけどさ…、…言ってみてもいい?」

 タキオンはすこし顔の角度を変えながらも、田上の顔を見ようとはせずに頷いた。

「……俺、…お前に恨まれてたりしないのかなぁって…。お前に酷いこと沢山言ってきたし、…日曜もそうだし、日曜のときだけじゃない。…心無い言葉を言ったときもあったし、気の利かない、不甲斐ない言葉を言ったときもあった…。…正直恨まれててもしょうがないんじゃないかなぁって思うんだよ…。…どう? …恨む気持ちと好きという気持ちはもしかしたら、両立するかもしれないんだけどさ…。…こう…、果たして、…気持ちというものが、どんな風にお前に働いているのかなって…。…どう? …恨んでる?」

 タキオンは、静かに首を横に振った。田上も予想していたことではあったが、少し自分の事を情けなく思って、呆れ笑いをした。

「……まぁ、お前が好きでいてくれていることは分かってた。……だけど、…何なんだろうなぁ…。…お前が好きでいてくれる理由が分からないというか、…世の中にいる普通の男女だったら、こういう男は見捨てられてもおかしくないんだろうなぁ、と思うんだよ」

 タキオンは、また首を横に振った。

「…んー…、……まぁ、話を戻そう。……いや、あと少し話すとさ。恨まれてるってのは、俺の被害妄想だろ? …うん。…俺が思ってることであって、お前が思ってることじゃない。…タキオンにもそういうのあったりしないかな?」

 タキオンは、少し考えたあとに、「分からない…」と小さく言った。

「んー…、じゃあ、…タキオンが俺の事好きだと思うときは、…どんな感じで思ってる? やっぱり、自分の物にしたくて好きだと思ってる?」

「んー…」とタキオンは悲しそうに悩んだ後に、田上にこう言った。「………私の好意が、……もし、偽善とか、…幼稚さによって生まれたものだったら、君はどうする…?」

「……それでも、好きだよ」

「…………私は、……自分を信じてもないし、君を信じてもない。…そういう意味では、君の事を騙していると言っても間違いないだろう……」

「……一旦、深呼吸しようか? 息が詰まると考えも詰まるから、一旦頭をスッキリさせよう?」

 田上はそう言うと、タキオンが自分の肩に寄りかからせるのをやめて、座ったまま向かい合いながら、「吸って〜」「吐いて〜」と二人で繰り返していた。その内に、タキオンも、今こうして、二人でお互いを真似しながら呼吸を繰り返しているのが面白くなって、思わず顔に笑みを浮かべてしまった。すると、彼氏のほうも嬉しそうな笑みを浮かべて言った。

「うん。やっぱり、タキオンは笑った方が断然可愛いよ」

 今度は照れ臭そうに笑いながら、「ありがとう」とタキオンが言った。それから、また二回ほど深呼吸を繰り返したあとに、そのまま話を始めた。

「うん。いい顔になった。やっぱり、お前は笑顔の方が良いんだよ」

「……落ち込んだ私は嫌いかい?」

「嫌いとかじゃないよ。やっぱり、自分のとなりで嬉しそうな笑顔を浮かべてる彼女のほうがいいだろ? タキオンだって、俺が落ち込んでいるよりかは、笑って過ごしてる俺の方が良かったりしない?」

「まぁ、そうだね…」

「それに加えて、笑顔だと可愛くもなるんだよ。落ち込んでるときのお前の顔よりも、笑ってるほうが可愛い」

「…やけに口説くねぇ…」

「…それくらい、お前の笑ってる顔が好きなんだよ。こっちまで嬉しくなるような笑顔だから」

「私の笑顔が?」

「そう。ホント、俺が悪くて落ち込ませることも沢山あったから、お前が笑顔のときは、俺は何も悪いことをしてないんだなって安心もできる」

「じゃあ、私もできるだけ笑顔でいないとねぇ…」

「そう。そうしてくれると、俺も嬉しい」

「…いいとも」

「……ここで、また暗い話に戻るってのも、なんか勿体ないね…。…何か…、話してて楽しい話ってある?」

「……君のお義父さんの家に結婚の挨拶に行く話は?」

「ああ、…どんなもんかな…三連休の、えー、二十日木曜のトレーニングが終わった後には、もう出掛けるって話だったよな?」

「そうだね」

「……特に、何をしようってわけでもないけどな…。…そう言えば、昨日の夜に連絡が来てたけど、父さんが――赤飯炊いてもいいかって」

「赤飯?」

「そう、赤飯。息子が初めて家に彼女連れてくるからって、赤飯炊こうとしてるらしい。しかも、それが顔見知りだから、調子に乗ってるんじゃないか?」

「それで、君の返答は?」

「やめとけって送っておいたけど、赤飯美味しいからな。別にそれでもいいんじゃないかと思ったけど、…流石に気が早すぎないか?」

 田上がそう聞くと、タキオンは少し微笑んで言った。

「私も赤飯は嫌いじゃないし、それに、早すぎると言ったって、君は付き合ってまだ一ヶ月の彼女とその両親の家に行ったんだぞ? 赤飯なんて、今更な話だろう?」

「それはそうだけどさ…。…俺は、…お前のお義父さんお義母さんもそうだし、俺の父さんもそうなんだけどさ…。息子たちの未来を信じすぎていて怖いわ…」

「君は信じていないのかい?」とタキオンが顔に口の端を軽く上げながら聞いた。

「いや、……お前のことが嫌いな訳は全くないんだけどさ…。……この話不快じゃない?」

「私は、君の心も解き明かさなくちゃならないんだ」

「んー…、まぁ、…うん。……だって、俺たちはつい月曜まで喧嘩していたわけで、そんな息子たちの大変さを向こうが知らない訳はないだろうし、言っても、教え子とトレーナーっていう関係だし、そして、まだ付き合ってそんなに軌道に乗ってるわけでもないからね…。そんな息子とその彼女のために、普通、赤飯を炊こうって発想になるか?」

「……それだけ、君と私のことを信用しているのか、君が結婚するのが嬉しいんじゃないかい?」

「……結婚って言ってもねぇ…」と田上が困ったように言った。タキオンは、その言葉の裏にある田上の言いたい事は分かっていたが、今はそれに気付いていないふりをしてこう言った。

「とりあえず、赤飯の結果はどうなったんだい? 作られないのかな?」

「やめとけとは言ったし、オッケーって返信も来たけど、全然、手の平返しても大丈夫だと思う。行くまで、まだあと何日もあるし。…タキオンが食べたいんだったら、別にもう一度頼んでも良いけど」

「なら、ぜひ頂きたい気分だね」

「じゃあ、連絡しておく」

 田上は、そう言ったあとに改めてタキオンを見つめて、困ったような笑みを作りながらため息を吐いた。

「はぁー……」

「………結婚かい?」

「うん……。…お前はよく俺のような人間を好きになってくれるね……」

「…私のような人間を好きになってくれるからだよ」

「……そう。……俺の弱いところも知ってて信用しているというか、そもそも、俺の弱いところを信用してくれているよね…」

「魅力的なところだよ?…」

「そう言ってくれるのはありがたいけど、どうも、俺は自分の弱いところを魅力的に思ったことはないんだよな」

「……どうだろうね…? ……君だって、私の弱い部分をそのまま受け止めて、愛してくれているような気はするが」

「そりゃあ、そういうところもお前の魅力的な部分の一つだよ。…そもそも、お前という人間が魅力的過ぎる」

「褒めるねぇ」

「褒めるよ。好きだから」

「そんなに良いところもないよ」

「あるよ、沢山ある。お前の知らないところを俺は沢山知ってる」

「……嬉しいもんだね…。こういう熱量のある彼氏がいると」

 タキオンがそう言うと、途端に、田上は心の痛いところに思わず触れてしまったかのように、少し顔をしかめた。

「……まぁ、こっちはこっちで…ね。……すまないことをしてきたけどな…」

「……今ので全てチャラになったよ」

 その言葉で田上は可笑しそうにふふっと笑った。

「……いくら他の人にそう言われたところでね…。自分の世界は自分の認識で構築されてるわけだからね……。タキオンもこの気持ち分かるだろ?」

「他の人に言われたところで、自分の世界の認識は覆らないってこと?」

「そう。…そうじゃない?」

「……まぁ、そうだろうね…」

「だから、他の人が言うだけじゃなくて、自分自身が納得する必要もあるんだけどさ……。…彼女に言われても、分かってないんだから、難しいよね」

「私も彼氏に言われても分かってない口だから、私達お互い似た者同士だね」

「そうだねー」と言って、お道化たように首を傾げてみせると、タキオンも少し微笑んでくれた。だから、田上は少し嬉しくなりつつこう言った。

「ああ、だから、俺は難しいで話を済ませたくないんだよね。できるだけ、お前と居ても、二人共、心の平穏が得られるような形で触れ合えるようになりたい。タキオンもそう思うだろ?」

「……私は、………欲を言うんだったら、心に平穏が戻らなくても、君とずっと二人で一緒に暮らせるんだったらそれでいい」

「ああ、じゃあ、月曜のマテリアルさんの話は、全くお前に効かなかったんだな」と田上が面白がるように言ったから、タキオンも少し微笑みながらこう言い返した。

「全くじゃないさ。私も少しは皆の事をはね退けすぎたと反省はしたよ?」

「でも、俺との交流は自分を通してからじゃないと駄目だというわけだ」

「まぁ、…そうだね。…私の好きな人だもの」

「………俺よりも好きなものってある?」

「ない」とタキオンは首を横に振りながら、きっぱりとそう言った。

「じゃあ、俺の次に好きなもの」

「君の次に?」

「そう」

「う~ん………。…走ることか……、研究は…違うかなぁ…。…君の家族かな?」

「俺の家族? お前、走ることよりも俺の家族の方が好きなの?」

「いや、…じゃあ、…どっちかなぁ…? 走ることは好きなんだがね……」

「ここ最近は、クラシックの頃みたいに楽しそうに走らないね」

「う~ん………。…難しい質問だね……」

「俺を好きになる前は、何が一番好きだった?」

「………走ることや、ひいては、研究だったが、…君も、…まぁ、私の中では重要なポジションの人間だったね。…私のお弁当を作ってきてくれていたし」

「それが今では、走りに取って代わって、俺がお前の今の人生の中で、一番重要なポジションに収まってしまったと」

「…当たり前だろう?君よりも走ることを愛する理由があるかい?……私の人生の彩りそのものが君なんだよ」

「……まぁ、その気持ちは俺も結構分かる。やっぱり、大切な人って本当に…大切な人になるからなぁ…。言ってること分かる?」と田上が、自分の言葉の不甲斐なさに呆れて笑いながらそう言った。

 彼氏が笑うと、タキオンも嬉しかったので、微笑みながら言った。

「分かるよ。…大切だから、…こう、…この世で最も大切な人になってしまうんだよね。子供が生まれた途端に、その子がこの世で最も大切な人間になるのと同じ感覚なのかな?」

 タキオンは当然結婚をしたこともないので、子供も産んだことはなかったが、なんとなくそんな感覚なのではないのだろうかと思っていた。田上も少しだけ曖昧にコクコクと頷くと、話を続けた。

「……でも、二番手である『走ること』に関して、悩みもあるよね」

「……ああ…」とタキオンは、あんまり考えたくなさそうな顔をして頷いた。

「今の話で予想してみると、お前は、走ることが一番なのか、それとも、俺が一番なのか迷っているような気もしたんだけど、…どうかな?」

「……走ること…? ………どうなのかな…。……君が一番なのは…間違いがないとは思うがね……。否定もできないような気はする…」

「そうか……。……走ることは好き?」

「……」

 タキオンは、答えかねて俯いていた。田上は、核心に迫っているんじゃないかと思って、もう少し歩を進めた。

「……なにか、…好きと言う事に悩む事でもあるの?」

「……んー、……なんなのだろうね?…」

「……好きじゃない事はない?」

「……走ることは好きだよ?」

「……最近はどう?トレーニングをしている時は。気持ちよく走れてる?」

「………んー、……んん……、……んー…、……どうなんだろうね?」

「答えは単純だよ? 気持ちよく走れてるのか、そうじゃないのか。…それとも、そんなに自分の気持ちが分からない程、微妙な境目の部分とか?」

「んー……、…まぁ、……気持ちよくは…ないのかな…?」

「うん。…どう? 宝塚記念は気持ちよく走れそう?」

「……どうなんだろうね…?」

「気持ちよく走れそう?」

「んー……」

「気持ちよく走れなさそう?」

「……んー…、…まぁ、……そうなのかもしれないね…」

「じゃあ、なんでタキオンは気持ちよく走れなくなったんだろうね?」

「……それは、…なぜなんだろう?…」

「……俺の予想だと、走ることと、俺、どっちを大切にすればいいのか分からなくなって、迷っているうちに、走ることも気持ちよくなくなったんじゃないかと思っているけど…」

「………それも、あるかもしれないね…」

「…あんまりピンと来ない?」

「…んー…、……まぁ、あるのかもしれないとも思うが、…言葉として納得感があるのかと問われれば、…違うだろうね…」

「んー…、そうか…。…走ることは好きなんだよね?」

「……そうだね」とタキオンは、田上の様子を伺いながら頷いた。

「……そうすると、…本来好きであることが好きでなくなっているという事だ。…トレーニングはどうだった? お前が研究してた時のトレーニングは。不快に思う事とかあった?」

「……トレーニングは、……特に、……私がサボっても怒らなかったしね」

「……となると、……トレーニングもあの時は普通に楽しく走っていたんだけど、今は、楽しく走れなくなったという事だね」

「……そうだね…」

「………もう一度、気持ちよく走りたいと思う?」

「………どうなんだろう…?」

「………走りたくないの?」

 田上がそう聞くと、今まで考えるために俯かせていた顔を上げて、タキオンは田上の顔を見つめた。少し悩ましげだった。

「…………走りたいと思うかい?」

「………どうして俺に聞くの?」と田上は優しい口調で聞いた。すると、タキオンはもっと悩ましげな顔をして俯いた。

「んー………、んー………、んん…、んん……。…まぁ、…ね。……どうしてと聞かれても、…ね…」

「………俺が怒るかもしれない?」

 すると、今度はタキオンは顔を上げて、田上の顔を見つめた。

「……んー……、……どうだと思う?」

「……走りたくないって言ったら、俺が怒ると思う?」

「………まぁ、……そうかもしれないね……」

「じゃあ、走りたくないって事?」

「……いや、……走りたくないわけじゃない……」

「……じゃあ、…走りたいとは思うけど、気持ちよく走ることもしたくなくなるような事が、タキオンの身の回りで起きてるとか、…そんな心境だって所かな?」

「……まぁ、そんなところかもしれない……」

「………じゃあ、どうしようか? ……それは、……レースが関係してたりするかな?…レースに出走することが重荷になっていたりとか…」

 そう言って、田上はタキオンの顔をじっと見つめた。タキオンは、田上に見つめられるのが嫌で、俯いていた。

「んー………、………どうかな……。……私は、…分からない……」

「……じゃあ、レースに出走することが重荷になってる? なってない?」

「…んー……、……どうかな……」

「……分からない?」

「うん……」

「……じゃあ、中間辺りとか?」

 タキオンは無言で俯いたまま首を傾げた。

「じゃあ、さっきの気持ちよく走れてるかの質問の時と比べるとどう? さっきは悩んでたけど、やっぱり、気持ちよく走れてない方だった。さっきの心境と比べるとどう?」

「……んー……」と唸りながら、タキオンは何も言えない自分に呆れて、少し鼻で笑った。

「んー……、中間辺りなのは間違いがない?」

「んー……まぁ、…そうなのかな…?」

「…その中間ってのはどんな感覚?」

「………んー……、レースは重荷でもあるんだが、……重荷にしたくもない? …走りたい?」

「ふぅん。……重荷にしたくもないってどういう事?」

「……んー……、んー……、まぁ、そういうことだよ」

 そう言って、誤魔化すような笑みを浮かべて顔を上げたタキオンと目を合わせながら、田上も微笑んで言った。

「どういう事?」

「……やめたいって言ったら、君と離れないといけないことになるだろ?」

「…そうなる?」

「…なるかもしれない」とタキオンは、挑みかかるのを微笑みの奥に抑えた表情をした。

「……お前が引退しても付き合い続けるつもりではいるんだけどね…。…それに、別に今引退しても、お前は学校にまだいるから、俺と同じ職場に居続けるって事は変わらないと思うけどね」

「それは、…私も分かっているがね…。……レースというのは、ある種君と私を繋ぐ強固な絆じゃないか」

「それがなくなると、俺たちの絆は崩壊してしまうと?」

「…そう言いたいわけじゃないんだがね……。…これまで、私と君が出会ってから、付き合って、ここに至るまで、私達の間には常にレースという単語が横たわっていたじゃないか。……それが、常に私達の間にあったものだから、…私達の絆の中にレースという三文字が複雑に組み込まれているわけだよ…。…分かるかな?」

「言いたい事は分かる。俺たちの間にレースがないときはなかったからな?」

「そう。………私は、それをなくしてしまったら、どうなるのかが分からなくて怖い…」

「……俺はお前と付き合い続けるよ」

 田上は、訳の分からない思念に怯えている女の子を見つめながらそう言った。

「…走ること以外になんの才能もない私とかい?」

「お前は色んな事ができる人だよ…」

「……お世辞は嫌いだよ…」

 タキオンがそう言うと、田上も自分の気を取り直そうと、目をギュッと瞑ってから、少し大きく目を見開いてタキオンに話しかけた。

「……お前は良い人だよ、タキオン。笑顔になるだけで、俺は気が休まる」

「………私はそんなに魅力的な女の子じゃないよ…」

「…………お前の悪いところって何がある?」

「……性格」

「お前の好きなところだよ…」

「………私を騙してくれるのかい?」

 タキオンは、朧げに微笑みながらそう言った。田上は、タキオンを想うあまりに、まとまらない思考をなんとかまとまらせながら言った。

「………お前の言いたいこともよく分かる! 俺だって、自分の事をなんの才能もない、なぜタキオンに好かれているのかすら分からない人間だって思うときがある」

「…君は良い人だよ」

「そう。お前がそう想ってくれるように、俺もそう想ってる。……話を少し戻してもいい?」

「……ああ、いいとも…」

「………お前の言ってることは、充分身に沁みて分かっているんだけどね? ……分かってるからこそ同情してしまうから、もう少し考えの幅が広がるような話をしたい…。……えー、……だから、………タキオンは俺が、レースをやめてもお前と付き合い続けるって言ったら、レースをやめるつもりなの?」

「……それは、…分からない…」

「…ああ、……じゃあ、レースを続けるつもりはあるの?」

 タキオンは困ったように俯きながら、首を傾げた。田上は、それを静かに見つめたあとに、口を開いた。

「じゃあ、……質問を変えて……。…タキオンは、レースは好きなの? 続けるか続けないかじゃなくて、好きか嫌いか」

「……嫌いじゃない…」

「……ほぅ…。……じゃあ、嫌いじゃないけど、レースが重荷で、その理由がレースをやめると俺と別れることになるかもしれないと恐れているから。……つまり、タキオンは引退する瞬間を恐れているのであって、今この瞬間を恐れているわけじゃないんだね?」

「……そうかもね……」

「……だから、実際には宝塚記念を恐れているわけじゃなくて、宝塚記念の後にあるかもしれない引退を恐れているんだ。…そして、負ける事も恐れてる? 負けが込めば、俺が引退を提案し出すかもしれないと恐れてる?」

「……」

 タキオンが返答に悩んでいる様子だったので、田上は、タキオンが口を開きやすいように、目的をはっきりさせて、言葉を発した。

「負けることを恐れてる?」

「…………負けることは、……君が許してくれるからね……」

「…じゃあ、引退を恐れているんだとしても、…引退はいずれあるからね。…一年後でも二年後でも三年後でも。……辞める瞬間は怖い?」

 タキオンは、俯いたままコクリと頷いた。

「………でも、いずれ起こるからね…。…その時に備えて、心の準備はしておかなくちゃね」

 タキオンは、また同じようにコクリと頷いた。田上はそこで、話すことに少々疲れてしまったので、「休憩しない?」と言いながら、渡り廊下の壁に寄りかかって座った。

 タキオンもコクリと頷くと、田上の横に座って、その肩に頭を預けた。田上には、少々眠気もあったので、休憩がてらに少しだけを目を瞑ってみることにした。すると、段々と意識が朧げになっていって、微睡みの中へと落ち込んだ。隣りにいるタキオンも彼氏につられて、同じように目を瞑り、同じように微睡みの中へと落ちていった。

 

 田上が微睡みの中から目を覚ましたのは、誰かに足を蹴られたからだった。蹴った主は急いでいたようで、「すみません」と謝りながら立ち去っていった。

 田上は、眠気に侵された頭で、「こちらこそすみません」と言おうとして、回らない舌でゴニョゴニョと呟くだけだった。その直後にチャイムが鳴って、田上の頭ははっきりと覚めた。どこからか流れてくるチャイムに気が付いて、空をキョロキョロと見回してから、自分が暫く微睡みの中に陥ってしまっていたと気が付いた。

 自分はどれくらい眠ってしまったのだろう? と思った。その後に、隣のタキオンが微動だにせずに、眠っていることにも気が付いた。田上は、一度タキオンの様子を見てから、どうしようかと考えたが、ここで起こさないで放っておいてもどうしようもないので、とりあえず、起こすしかなかった。タキオンだって微睡んでいるのだろうから、起こしたところで大した罪にもならないだろう。

 田上はそう思ってタキオンの肩を揺り動かすと、「おはよう」と声を掛けた。タキオンは、その一回でうぅんと唸って目を覚ました。それでも、暫くぼんやりとしていたから、田上がまた声をかけた。

「タキオン、おはよう」

「……早くはないがね…」とタキオンは、ぼんやりとした口調で言ったが、冗談を飛ばすくらいには頭は働いていた。田上は、その冗談に少し笑いながら話を続けた。

「よく眠れた?」

「うぅん……、どうだろうね…」

「三十分近く眠ってたみたいだよ?」

「……ということは、もう昼かい?」

「ああ、そうだね。お昼食べないと」

「……負ぶって」

 タキオンが、嬉しそうに微笑みながら、甘えた声を出した。田上も彼女の我儘に苦笑しつつも、嬉しそうに微笑みながら、彼女を背に負って、カフェテリアの前まで運んだ。

 

 カフェテリアの前まで行くと、偶然チームメイトの一人と会話をしながら歩いているカフェを見かけた。それを見ると、タキオンは田上の背から降りて、いつもの調子で話しかけていった。

「やあやあカフェ〜。後輩従えてお食事かな?」

 カフェは連れている後輩のカゲロウと共に、タキオンと田上の顔をじっと見つめた。タキオンもそれに応じて、カフェの顔を見つめた。二人で、一瞬心の探り合いをしていたのだが、やがて、カフェが「…なんの用ですか?」とタキオンに聞いた。

「いや、見かけたから、つい声をかけてしまったんだが、……そこの後輩君さえ良ければ、私もカフェとお食事を楽しもうと思ってね」

 カゲロウは、自分が場違いな気がしながらも曖昧に頷いたが、そのほとんど同じタイミングでカフェがまた言葉を発した。

「あなたには、田上トレーナーがいるでしょう?」

「おや」と言って、タキオンは後ろを振り向いたが、田上は思ったよりも傍には居らず、自分よりも二三歩後ろの方で、自分にはあまり関係のないことを見るような目付きでタキオンたちのことを見守っていた。だから、タキオンは田上に手招きするとこう言った。

「君はどうする? カフェと一緒に食べる?」

「俺は別にどっちでもいいけど」と田上は答えた。

 そして、タキオンと田上はカフェの答えを問うように、その顔を見つめた。カフェは、じぶんの質問の意図が間違った方向に解釈されたので、少し面倒臭そうな顔をした。

 カフェとしては、恋人たち二人の間にわざわざ混ざろうという気はなかったのだが、ここで断るのもなんだか面倒臭いような気もしてきた。

 それで、カフェは――もう適当にあしらえばいいか、と思うと、カゲロウの方を向いて、「よろしいですか?」と聞いた。カゲロウは、大先輩たちの話を聞ける機会なんて滅多にないことだったので、多少喜びながら「いいですよ」と頷いた。カフェは、カゲロウにだけ分かるように冗談っぽく眉を寄せてみせ、次にタキオンを見たときには普通に迷惑そうな顔になっていた。

 それから、四人は、前にタキオンとカフェ、後ろに田上とカゲロウという順番で歩いていた。タキオンは頻りにカフェに「あれがこうで、どれどれで」と愚痴を言っていた。そして、時折振り向いて田上を見て、「そうだったよね?」と問いかけた。田上は、合っている場合には頷いてみせ、間違っている場合には首を横に振って、注釈を添えた。カゲロウは、そんな三人を見ながら、不思議な満足感を覚えた。

 チームの皆もそうだが、カゲロウもカフェによく懐いていた。松浦のチームメンバーがカフェのクラスメイトとは違い、理解がある人だったのは、松浦がそうなるように選んだからかもしれない。カゲロウもそうやって選ばれた一員だったが、何も松浦に懐くように指示されて懐いたわけではない。これも、チームメンバー皆そうであるが、個人的にカフェのことが好きだった。ミステリアスな雰囲気が、どこか大人びて見え、美しく思うし、幽霊が見えるのだって、カゲロウにもボカにもムチュウにもアジサイにも関係がなかった。そりゃあ、カゲロウも幽霊が少し怖くはあったが、カフェがお友達と呼んでいる幽霊に害はなさそうだった。

 初めて、カフェが空気中の見えない何かと声を出して話しているときは肝が冷えたが、幽霊と通訳をしてみると、どうやら、花が咲かなくて困っているらしかった。カゲロウが、水の上げすぎだったんじゃないかとか、肥料を入れてみたらどうだろう? とか、提案してみると、その幽霊は案外簡単に去っていった。その時のカフェの落ち着きぶりを見ていると、カゲロウはやっぱりカフェのことを尊敬した。ミステリアスで綺麗な人だと思った。

 だが、カフェのクラスメイトは別にそんなことはないらしい。クラスではいつも一人ぼっちだそうだ。いや、正確には誰も話せる人がいないほどではないそうなのだが、話せる人はほんの僅かで、その人たちも特段カフェに懐いていることはないらしい。それでも、カフェは「一人の方が心地が良いので、特に問題はないんですよ」と彼女特有の低くて優しい声で言っていた。カゲロウは彼女に憧れている。

 

 仲が良いらしい同級生のアグネスタキオンの事は、カゲロウはあまり知らない。校舎の空き部屋を二人で相部屋にしているという事は知っているが、カフェはあまりそこに人が入ってくると良い顔をしなかったので、カゲロウが訪れたことはあまり無かった。

 目の前で繰り広げられている話を聞く限り、二人はそれなりの仲の良さはあるようだった。旧知と言うべきか、それとも、言えないくらいの仲の良さだったから、カゲロウは多少混乱した。タキオンが一方的に話しかけていて、カフェがそれに迷惑そうな顔をしている構図にも見えるが、カフェの方はと言えば、話しかけてくるタキオンの扱い方は充分に心得ているようだった。

 カゲロウにとっては、果たして、カフェがタキオンの事を嫌いなのか、そうじゃないのかが争点だったが、カフェがタキオンの扱いを充分に心得ているという点に於いて、カフェはタキオンの事を嫌いでないように見えたし、逆に、表情は普通にタキオンの事が嫌いなようにも見えた。それでも、変わらずタキオンは話しかけているので、この人が鈍感なのか、それとも、気付いていながらも話し続ける迷惑な人なのか、…カゲロウは、どっちつかずのまま二人の話を聞いていた。

 田上は、話に加わっていなかった。カゲロウにしてみれば、優しそうじゃない知らない男の人はあんまり好きじゃなかったのだが、タキオンに話しかけられた時に出てくる声は、案外柔らかな物だった。あまり楽しげじゃない表情でご飯を食べていても、この人には、もしかしたら、この女子会の中で話を聞いているのは楽しいのかもしれない。

 

 カゲロウには、偶に、タキオンの方から話を振られた。中々口が回るタイプの人らしく、一度話し始めたら全く止まろうとしなかった。この前、田上のチームと松浦のチームで遊んだときは落ち込んでいるようだったが、本来ならばこのくらい話すようだ。

 無論、カゲロウだって、アグネスタキオンの噂は聞いたことがある。最新のものは、『アグネスタキオンはトレーナーと付き合っているらしい』ということだったが、古いものでは、『アグネスタキオンは怪しげな薬の実験体を探しているそうだから、絶対に飲むな』ということらしかった。

 その旧来のイメージから言えば、今、喋ることや食べることや飲むことで忙しなく口を動かしているタキオンは、それに近しいもののように感じた。いや、一度は見かけたり、会話を聞いたりもしたのだが、なんとなく忌避を感じて、近寄らなかった。カフェにも聞いたことはあったのだが、「悪い人じゃないけど、良い人でもない」と言っていたので、カゲロウは判然としないまま、ここで初めて、こんな近くで、かのアグネスタキオンを見ることとなった。

 カゲロウに話しかけてくる感じでは、カフェの言い方は的を得ているように感じた。確かに、悪いと言えるほど悪い人ではないが、かと言って、良いと言えるほど良い人でもない気がする。これは全て、口調や話す内容から算出した事だったから、もっと深く付き合えば、また違う良い所や悪い所などが見つかるかもしれないと思った。特に、アグネスタキオンの隣に居るトレーナーが、その人に惚れてしまうような何かが。

 友達の言い分では、一説によると、アグネスタキオンがトレーナーに惚れ薬を盛ったという事らしかった。それで、カゲロウが、「何故?」と聞いてみると、「自分の実験に良いように使う従順な人を手に入れるためよ」と友達はニヤニヤしながら答えた。カゲロウには、果たして目の前のこの男が惚れ薬を盛られているのかは分からなかったが、盛られているにしては、大分大人しくご飯を食べる人だな、と思った。

 

 タキオンは、天気のことですら延々と話せるのかと思うくらい話していたが、それもご飯が終わる頃になれば、止まらざるを得なかった。

 カゲロウと田上は、それぞれ一人で黙々と隣の人たちの会話を聞きながら食べていたから、食べるのが一番早かった。その後に、カフェが食べ終わって暫くしたが、タキオンは喋ることにばかりかまけていて、あんまり箸を動かしていなかった。だから、カフェは痺れを切らしてこう言った。

「もうそろそろ……お暇させて頂いてもいいでしょうか?……」

 その時になって、タキオンはカフェの皿が空になっていることに気がついた。タキオンは、その皿を驚いたように見つめると、次いで、カフェの顔を見てから、「ああ…」と頷いた。

「うん。引き止めて悪かったね」

 カフェは、その後に静かに「ごちそうさまでした」と挨拶をすると、カゲロウに目配せをした。カゲロウは、別れの言葉を告げるべきか迷いながらも、黙ったままタキオンと田上に軽く一礼をして立ち上がった。そして、食器を持って立ち去って行こうとするカフェの後に続いた。

 タキオンと田上は、残されたテーブルで顔を見合わせた。二人共、何も言わないまま見つめ合っていたが、やがて、田上が食事の残っている皿を指さして「食べないの?」と聞くと、タキオンは少し思うところがありそうな口調で「食べる……」と頷いた。

 それから、タキオンは残りの食事を義務として処理するような具合で、黙々と食べ始めた。

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