ケロイド   作:石花漱一

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一、アグネスタキオン(後編)

 カフェテリアに着くと、そこはまだ人で溢れかえっていた。昼食が始まってから三十分たったのだが、まだ、人の減る様子はないようだ。このカフェテリアは、広いには広いし、厨房にもたくさん人はいるのだが、育ち盛りのウマ娘の食欲を抑えきるには時間がいるようだ。タキオンもその一人だったのだが、今日は、少し量が少ないようだ。田上は、思わず、今まで閉じていた口を開いた。

「今日は食欲がないのか?」

 タキオンは、自分の運んでいるお盆を見た。そして、驚いたような顔で自身のトレーナーを見つめて言った。

「食欲…はいつもよりかはないが、気にするほどのことでもないさ。ただの誤差だよ」

「…そう、ごめん」

 そう言うと、田上は、また口を閉じようとしたが、タキオンが少し怒ったふりをしながら言った。

「ごめんってなんだい?ごめんって。まさか、さっきの口論のけりを今つけようってのかい?そんなことは許さないよ。私は、ごまかすような男は嫌いだ」

 田上は、困惑した眼差しでタキオンを見た。すると、タキオンが言った。

「冗談だよ冗談。君、本当に面白い顔をするねぇ。遊び甲斐があるよ」

 その時、カフェが後ろで咳をした。振り向くと、苛立ちの籠った顔でこう言った。

「コーヒーが甘くなります」

 手に持った缶コーヒーを軽く振りながら、カフェは、後ろについてきていた。そして、カフェに会話を邪魔されてからは、二人とも口を閉じて、ただ、黙々と自分たちの座るところを探した。

 結局見つかったのは、料理を受け取る場所から一番遠い、壁際の席だった。そこにタキオンとカフェが隣同士で、田上がカフェの正面の席に座った。田上は、タキオンの真正面に座るのは、正直生きた心地がしなかったので、カフェの前に座った。カフェは、そんな田上の様子を見て、少し顔をしかめた。

 このテーブルでは、田上は会話には参加しなかった。ただ、喋る人がタキオンしかいないので、会話というよりもタキオンが一方的にカフェに語りかけているだけだった。その中に、こんな話題があった。

「カフェ、カフェ。この勝負服どう思うかい?」

 タキオンは、白衣を広げていった。カフェは、缶コーヒーをじっくりと飲み込みながら、それを横目で見て、数秒後に言った。

「もう少しどうにかならなかったのか、と思います」

「君もかぁ~。…今朝これで、トレーナー君と口論をしたんだ。トレーナー君曰く、隠せるものも隠せないんだってさ」

 タキオンは、田上が目の前にいるというのに、遠慮なくそう言った。その時は、横目で自身のトレーナーの反応を窺いながら言っていた。田上は、反論したかったが、そんな元気はなく、カフェが話すのを待った。

「…確かに、随分破廉恥な格好ですね。タイツだけなんて、気でも狂ったんですか?」

「何!?タイツは、ズボンだろ?その下にパンツを穿いているじゃないか?カフェもそうだろ?」

 そうタキオンが言うと、カフェもさすがに戸惑った。そして、田上の方をチラと見てタキオンに言った。

「ここには男性がいて、そして、私の下着事情なんて明かす気はありません。こういう心がないからあなたは、ここにいるトレーナーさんと喧嘩したんじゃないんですか?」

「口論だよ」

「さっきあなた、喧嘩したって言いましたよ。それに、喧嘩も口論も変わりません。これ以上、私に口答えするのなら、私はここを立ち去ります。ちょうどコーヒーもなくなった事ですしね」

 カフェは、そう言うと、タキオンを置いて立ち去ろうとした。その袖にタキオンは縋りついた。

「待ってくれよ~。トレーナー君と二人きりじゃ何話したらいいか分からないじゃないか」

「勝手に話せば良いじゃないですか」

 カフェは、そう言って、タキオンの腕を振り払った。

「君、私が口答えしたら立ち去るって言ったじゃないか!」

 立ち去るカフェの後ろ姿にタキオンがそう叫んだ。カフェは、カフェテリアを出る前に、一度タキオンの方を振り向いたが、いい気味だ、という風に鼻を一度鳴らしただけで何も言わずに去って言った。タキオンの前には、喋るのに夢中で全然手をつけていなかったカレーの大皿が残った。それを見ると、タキオンが呟いた。

「参ったなぁ。喋るのに夢中になって手をつけていなかったけど、少し食べただけで、食欲が失せちゃったよ」

 田上は、もう食べ終わったので、そのタキオンの様子をじっと見ていた。タキオンは、面倒くさそうにカレーをスプーンで口に運びながら、時折、手遊びをしスプーンを眺めた。もう、カフェテリアも終しまいになりそうな時間だった。あと五分ほどだ。タキオンは、まだ食べ終わりそうになかった。

「食べようか?」

 田上が不意にタキオンに声を掛けた。すると、タキオンは嬉しそうに目を輝かせた。

「その言葉を待っていたんだよ。君、全然声をかけてくれないから、もうこれを残してしまおうかと考えていたところだったよ」

「そうか。…でも、俺ももうご飯は食ってしまったから、全部は食い切れない。タキオンも最後まで食べてくれないか?」

「ああ、いいとも。お安い御用さ」

 そう言って、タキオンは皿を机の中央に寄せようとしたが、田上は、首を横に振って、右寄りの中央に戻した。そして、自分は席を移動して、タキオンの正面についた。先程まで面倒くさそうだったタキオンの顔が急にニコニコしだしたのを見て、田上は少し嬉しく思った。――やはり、彼女はこの顔をしている方がいい。そう思ったのだ。

 それから、二人は黙々と、しかし、にこやかに料理を食べ続けた。タキオンの食べる速度は急に速くなったように思えた。事実、残りの四分の三はタキオンが平らげてしまって、田上が食べたのは、四分の一程度だった。そして、カフェテリアが閉まりますよ、というころには、二人は完食できていた。自分たちの皿をそれぞれに持ち運んでいる途中でタキオンが言った。

「……やっぱり、タイツだけはまずいのかなぁ」

 田上は、何も言わなかった。しかし、目線だけはタキオンの方にやってみると、タキオンもこちらを見ていて、目が合ってしまった。

「君の考えではまずいと言うのだろう?」

 田上は、コクリと頷いた。

「ふむ……、この下にスカートでも穿いてみるか。君もその方がいいのだろう?」

 田上は、この問いには、あんまり反応はしたくなかったのだが、実際のところはそうなので、躊躇いながらも頷いた。すると、タキオンが笑い出した。

「君のその反応!面白いねぇ。日本人らしい躊躇い方とも取れるけど、やはり君自身が躊躇いを覚えたのだろう?自分の意見を発するのに。どうなんだい?」

 田上は、また困惑した眼差しでタキオンを見つめた。

「…どうやら、あんまり話したがらないようだね。…ふぁ~~あ、昼ご飯を食べたら何だか眠たくなってきたよ。トレーナー室で寝よう」

「…午後の授業は?」

 田上は、低く呟くように言った。

「そんなもの初めから出る気はないよ。まだ、研究室でしたいこともあったんだけどね。何しろ眠くって。ふぁ~~あ、…決めた。これを片づけたら絶対に眠るからね」

 タキオンは、そう言うと少し早足になった。田上は、置いていかれまいと、自分も早足になった。そして、二人は食器を厨房の前の洗い籠の中に入れると、トレーナー室へと急いだ。

 

 タキオンは、トレーナー室に着くと、早速ソファーに寝転がって眠ろうとし始めた。しかし、体を半分寝かせたところで、「そうだ」と言って、部屋から出ていった。田上は、二人でこのトレーナー室でのんびりできると思っていたのに、タキオンが自分に何も言わずに出ていってしまって少しがっかりした。けれども、田上も午前中に眠っていてできていなかった仕事があるので、それに集中しなければならなかった。それは、今後の予定と明日の昼食のことだった。

 十数分したとき、またトレーナー室のドアが開いて、タキオンが入ってきた。白衣の下には学校のスカートを着ていた。

「いや~、無駄に広いねこの学校は。おかげで眠くって眠くって。…そうだ、トレーナー君。これで満足かい?しっかり、パンツを隠せていて、十分過ぎる程だろう?」

 タキオンは、良く見えるように白衣の裾を持って、たくし上げた。田上は、少しだけ反論した。

「スカートが十分過ぎるってことはないと思うけど…」

「まだ文句を言うのかい?」

「いや、別にそれでいいよ。ありがとう、…なんか」

「なんか?ハッハッハ、なんかとはなんだい?君、相変わらず曖昧な物言いをするよ。…ああ眠い。もうだめだ寝よう」

 タキオンは、一瞬前まで笑っていたのに、急に眠気が来たようで、ソファーに体を預けるとすぐに眠りにつき始めた。やがて、自分が叩くキーボードの音とタキオンの寝息しか聞こえなくなった時、田上は、これまでにない幸せを感じて、そして、それに抵抗するようにふんと鼻を鳴らした。

 

 その頃、タキオンは夢を見ていた。縄跳びをする夢だった。子供の頃の記憶だろうか?しかし、タキオンにはそんな子供時代はなかった。終始、友達とは交わらず、教室の窓からその光景を見ているだけだった。

 夢の中のタキオンは、友達と郵便屋さんの歌を歌いながら縄跳びをしていた。「郵便屋さん、落とし物」から始まり、一枚二枚とどんどん数を数えていった。そして、十枚になった時、終わりになるのかと思ったらそうではなかった。友達は、数えるのをやめなかった。

「タキオンちゃんはまだ飛べる」「タキオンちゃんだったら行けるよ」

 その子たちは口々にそう言った。タキオンは、困惑し、そして、怒った。

「もうこんなのしない」

 そう言うと、まだ回っている縄を無視して、タキオンは、学校の校庭の別の方に歩いていった。それから、後ろを振り返ってみると、もうその子たちは別の子を縄の上に置いて遊んでいた。タキオンは、悲しくなって、…そこで夢が途切れた。

 起きると、自身のトレーナーが携帯ゲーム機を持って、夢中で遊んでいた。

「おはよう、トレーナー君」

 タキオンは、そう声を掛けた。しかし、ゲームに夢中な田上には聞こえていないようだ。もう一度、今度は少し大きな声で、「おはよう」と言った。すると、田上は、ゲームからチラと目を上げて、タキオンを見た。そして、「おはよう」と返した。それ以上は、話さなかった。ただ、中学生のようにゲーム画面をじっと見つめて、時折、あっと驚いて顔をしかめるのだった。

 田上は、タキオンが寝ている間に、仕事を終わらせて暇を持て余し始めた。一回、立ってタキオンの寝顔をこっそり見に行ったが、それでもすることがなかったので、自分の寮から持ってきたバッグからゲーム機を取り出した。トレーナーの本業というのは、トレーニングにあるので、事務仕事はすぐに終わり暇になりがちだった。だから、田上は、自分のゲーム機を持ってきていた。ここ最近ハマっているのは、2Dの横スクロールシューティングゲーム(飛行機などで、右から来る敵を倒すゲーム)だったが、オンラインのゲームも霧島の影響でやっていた。しかし、このトレーナー室はオンラインゲームができるほど、ネットの回線が強いわけではないので、やはりやるものと言ったら、オフラインでできる横スクロールシューティングゲームだった。このゲームの主な内容は、宇宙から来たエイリアンがUFOに乗って襲ってくるので、それをやつけろ、というものだった。別にストーリーが面白いというわけではなかったが、やってみると楽しいので最近はこればかりしている。しかし、こればかりしていると、集中しすぎて周りの声が聞こえなくなり、タキオンに怒られる時がある。例えば、今がまさにそうだった。

 唐突にゲーム画面の前に手が出てきて、田上は驚いた。そして、「邪魔だよ」と言って、手をどかそうとしたが、びくともしないのでさらに驚いた。

 田上が、顔を上げるとタキオンの怒った顔がすぐ近くにあった。途端に、田上の心臓がドキリとして跳ね飛んだ。

「な、何?」

 田上は、どもりながらそう聞いた。

「私が研究室に行くって言っているのに、ゲームから目を離そうとしないし、声も聞こえていないようだったからこうした。いい加減ゲームなんてやめたらどうなんだ?」

「い、いや、ゲームって楽しいし、癒しだし…」

「人とのコミュニケーションを害するのにかい?」

「いや、別に害するって訳じゃないよ」

「じゃあ、何だっていうのかい?」

「……」

 田上は、黙ってしまった。

「ほら、何にも言えないじゃないか。人の声聞こえなくなる程に夢中になるんだったら…」

 そのタキオンの言葉を聞いていると、田上は反論を思いついた。

「だったら、タキオンの研究もどうなんだ?人のこと言えないくらいに夢中になっているじゃないか」

「いや、それとこれでは訳が違うだろ。君のはゲームで…」

「それは、ゲームに対する偏見だ。身のためになるかならないかで判断するんだったら、ゲームはダメなんだろうけど、人とのコミュニケーションへの害で判断するんだったら、ゲームも研究も同じだ」

 タキオンは、ふむ、と考えた。そして言った。

「…それもそうだな。……でも、返事がもらえないのは寂しいじゃないか。もう二年も君と過ごしているけど、相変わらずだよ」

「……善処します」

 田上が、こう告げると、話は終わったようだ。タキオンが、「研究室に行ってくるからね。今日は、トレーニングをする予定だから、もし私が運動場にこなかったら研究室に呼びに来てくれ。三時半までには、そちらに行くつもりだ」と言って、トレーナー室を去った。田上は、「了解」と一言だけ言うと、またゲーム画面に目を戻した。

 

 田上が、顔を上げた時には、部屋がすっかり暗くなっていて窓の左手からは夕日が差していた。田上は慌てた。もう、三時半はとっくに過ぎていた。タキオンは、どうしているだろうか?そう思って、急いでジャージに着替えた。肌寒い寒さと夕日の温もりを背に浴びながら、田上は運動場まで走った。運動場には、人がもうたくさんいた。――この中にタキオンはいるだろうか?田上は、きょろきょろと辺りを見渡しながら、トレーナーが集まっている場所に駆け足で行った。

 その集まりの中にいくつか知っている顔が見えたから、タキオンの行方を聞いてみた。皆、「サボっているんじゃないのか?」とか「もう帰ったんじゃないのか?お前が来るの遅かったから」とか知らないなら知らないで、聞いてもいないことを言ってきた。腹が立ったので、そいつらには唾を吐くふりをした。そして、結局、運動場にはタキオンはいなさそうだということが分かった。タキオンも研究に夢中で忘れてしまっていたのだろう。田上は、また校舎の方に戻り、三階まで駆けていった。

 土日の二日間を全く運動もせずに過ごした田上には、三階まで道のりは辛いものだった。なんで、研究室を三階につくったのだろう、と恨めしく思った。そして、ようやっと上り切ったとき、タキオンが曲がり角から出てきた。

「おや、トレーナー君。…さては、君も忘れていたねぇ?」

 タキオンが、ニヤッと笑って言ったが、膝に手をついてはぁはぁ言っている田上は、それに反応できなかった。しばらく、田上はそうした後に、タキオンにまだ息も絶え絶えに言った。

「タキオン…、ごめん。はぁはぁ、……もう夕方だ」

「ごめんというのは私の言葉でもあるよ。私だって忘れたんだ。そうすれば、君も呼ぶことができたというのに。…とりあえず、運動場に向かおうか。…その前に、少し寮に戻って着替えなくてはいけないのだが、私は先に行っておくよ」

 タキオンは、少しだけ呼吸が落ち着いた田上に言った。田上は、ゆっくり頷いた。それから、タキオンは、階段を急ぎながら下りていった。

 田上は、その後ろ姿を見送った後、ゆっくりと歩きながら呼吸をさらに落ち着けた。それは、二階から一階に降りる階段の所まで続いた。そして、一階の階段の下りた先が、外に面している渡り廊下だったので、そこで脱いだ靴を履き直し、また運動場の方へと向かった。

 

 運動場に着けば、さらにもう少し人が増えていて、鬱陶しいくらいに人がいた。タキオンは、他の子を観察してデータを集めるのが好きなタイプだったから良かったが、田上は、人込みはあまり好かなかった。だから、トレーナーが集まっている場所から少し離れて、まだ来ていそうにないタキオンが来るのを待った。

 タキオンが来たのは、田上が来てから数分後だった。長袖長ズボンのジャージを着ていたが、ここに着くと、下のジャージを脱いだ。その下には、当然、体操ズボンを履いていたので、タキオンが急に脱ぎだしても田上は驚きはしなかった。

「トレーニングを始めようか」

 田上は、タキオンにそう声をかけた。タキオンは、運動場に下りてくる土手の方を少し下ると、田上の前に立って言った。

「トレーニングの前に少ししたいことがあるんだが…」

 タキオンが、そう言い始めた所で、横から口を挟んできた人物がいた。

「よう、田上。あ、天下のアグネスタキオンさんもいるね。菊花賞おめでとう」

「ああ、ありがとう」

 タキオンは、そう答えた。すると、田上は、戸惑った。タキオンが、霧島にこんな口の聞き方をするとは思えなかったからだ。タキオンと霧島は、たまに会う時には会っていて、二年間で顔馴染みにはなっていた。だが、そうは言っても、あんまりタキオンの警戒心は霧島には解けていなかったはずだ。いつの間にか自分の知らないうちに、少し仲良くなっていて、田上は困惑した。しかし、誰も田上の困惑には気が付かずに話を続けた。

「うちの聞かん坊がどこに行ったか知ってるか?確かこっちらへんの人込みに紛れていったと思うんだけど…」

 霧島が田上にそう言うと、横からタキオンが口を挟んだ。

「いや、見てないねぇ」

 別にタキオンは、答える必要がなかったのに、なぜ答えたんだろうと思った。霧島は、タキオンの方を見た後、田上の方も問うように見た。

「俺も見てないな…」

 少し落ち着かない様子で田上はそう答えた。すると、霧島は人のいい笑顔を見せて言った。

「分かった。ありがとな、答えてくれて。そして、ササクレ(霧島の担当しているウマ娘)を見つけたら言ってくれ。俺が探してるってな」

 そう言うと、霧島は、あたりをきょろきょろしながら去っていった。田上は、この会話の中で疑問に思ったことをタキオンに聞きたくなったが、聞くのはやめた。それは、口に出したくないことだったし、タキオンがすぐに話し始めたからだった。

「トレーナー君、トレーニングの前に少し話したいことがあるのだけれどいいかい?」

「話したい事?何かあるの?」

「とっても重要な事なんだけど、ちょっとここでは話しづらいから移動したいんだけど」

 タキオンが、少し眉を寄せながら言った。田上は、不思議に思いながらも、「言いけど…」と頷いた。

「よかった」

 そう言って、タキオンは、ほっと安心した顔になった。それから、タキオンが田上に「ちょっとこっちの方に来てくれ」と言うと、土手を下りる階段の方に連れて行った。その階段の左の方は、すぐに運動場が終わっていて、ちょっとした林になっていた。その階段に二人は腰を下ろした。だが、タキオンはすぐには喋らなかった。田上は、タキオンと座る距離が近かったので、そわそわしながらタキオンが話すのを待った。

 やがて、遠くから喜びの歓声が聞こえてきたとき、タキオンが口を開いた。

「ここのところ妙に落ち着かなくてね。何が原因かは分からないんだけど、嫌な気分になるときがあるんだ。…ただ、今日ある夢を見たんだ。私も目覚めた当初は意味が分からなかったが、研究室で思考を重ねていくうちに分かったことがあったんだ。……それは、多分、…君が、私の代わりを作ってしまう事だったんだよ。菊花賞を優勝して、道はまだまだあるけれど、もう君は他の子のことを考える時期にあるだろう?いつまでも私にかまけている時間などないはずだ」

 そう言うと、タキオンは、不安そうに田上を見た。田上は、タキオンの方など見ておらず、静かに林を眺めていた。

「トレーナー君、こっちを見てくれ」

 タキオンはそう言った。実のところ、田上は、タキオンとの距離が近くて、身動きできない状態にあったのだが、タキオンはそれを知る由もなかった。田上は、タキオンに呼びかけられると、モゾモゾと体を少し横にずらしてタキオンから離れてから、その顔を見た。タキオンの赤い目が、夕日を受けてキラキラと輝いていた。それは、まるでこの世にあるもの全てに劣らない多大なる価値を持った宝石のようであった。しかし、その瞳の上にある眉は、今は曇っていた。

「君は来年から、新しい子を二,三人担当したいと言っているのを聞いたよ?」

 それを聞くと、驚いて田上は、思わず思ったことを口に出した。それと言うのも、タキオンには、少なくとも次のレースを終えるまでは言うつもりがなかったからだった。

「だ、誰に聞いたんだ?」

 田上は、そう言った。すると、タキオンがこう返した。

「君の友達の霧島君に。偶然話す機会があって、向こうからその話をしてきたんだ」

 すると、田上は納得したようにため息をついた。

「ああ、あいつには話したんだったな…。妙に仲が良かったのもそのせいなのか?」

 田上が、そう聞くとタキオンは、ん?と聞き返した。どうやら、タキオンの耳には田上の声は届いていなかったようだ。田上は、そのことを二度も言うのは億劫だったから、「いや、何にも」と言うと、もう一度ため息をついた。

 そして、タキオンに言った。

「俺は、それを今の時期にお前に言う気はなかったんだけどな。聞いてしまったのなら白状するが、全くもってその通りだ。お前と二年間走ってきて、ある程度のことは掴めたし、自分のレベルアップもしたかったから、次の年には複数人に挑戦しようと思っていたんだ。勿論、タキオンにもいずれ言うつもりだった。ただ、それは、もう少し後のことで、次のレースが終わってからにでも言うつもりだった」

 田上がそう言うと、タキオンが「次のレース?」と聞いてきた。

「ああ、次のレースだ。大阪杯あたりがいいと思うんだけどどう思う?」

「……私は別に構わないし、それに大いにそそるねぇ。期間は開くけど、その分腕を上げる子もいるだろうし、データ収集が捗るねぇ。私は賛成だよ」

「よかった。じゃあ、今日からはその方向でトレーニングを本格的にしようか。…実のところ、いつ話を切り出そうか迷っていたところだったんだ」

「なんだい?それが迷うことかい?もし、それが迷うことだったんなら、私の心配なんて自殺ものじゃないか」

「自殺なんて、いやなこと言うなよ」

 田上は、顔をしかめた。

「いやいや、もう少し真剣に私のことを考えてほしいね。まだ君の答えは貰っていない。…私の代わりの子ができても、…その…あるかい?情って奴が」

 田上にとってタキオンに対する情は有り余る程あった。そして、突然、そのことを言いたい衝動にかられたが、田上は唾を飲むと言った。

「別にタキオンのことをおろそかにするつもりはないよ。実際、俺の予定では大阪杯が終わるまでは、タキオンの環境を変えないように、スカウトしたい様子すらも微塵も出さないつもりだったから。…それも、あの霧島の野郎のせいで挫かれたけど」

 田上が、憎しみ籠った声でそう言うと、タキオンがハハハと笑った。

「彼を責めないで上げてくれ、悪気はなかったんだろうから」

「なおさらタチが悪いね」

 田上は、そう言うと立ち上がった。田上の顔には、より一層夕日が照った。

「早くトレーニングをしよう。今日は、遅かったからあんまりトレーニングの時間はないけど」

 そう言って、まだ座っているタキオンのアホ毛をパシッと叩いた。長いアホ毛がビヨンと揺れた。

「怒るぞ」

 タキオンが、田上を睨んでそう言った。田上は、笑って「ごめん」と言った。その様子が気に食わなかったのか、タキオンは先に歩いて行った田上に駆け足で追いつくと、その脚を軽く蹴った。

「あイテ」と田上が情けない声を上げた。すると、タキオンがそれを煽った。

「君の情けない声面白いな~。悔しかったら私に追いついてみたまえ~」

「この野郎!」

 田上は、そう言って、タキオンの誘いに乗った。タキオンは、笑いながら走っていた。一方田上は、すぐに息が切れて脚も疲れたが、タキオンの後を追い続けた。それは、田上が、疲れて膝に手をつくとわざわざ戻ってきて、再度煽り散らかすからだった。田上は、ヘロヘロになりながら暗くなるまで走り続けた。そして、暗くなって、人も消えていった運動場で寝転がって思ったのは、運動場の明かりでせっかくの星空が何も見えないことだった。田上は、見えるはずだった星々に手を伸ばした。すると、視界の外からタキオンが出てきた。

「もうバテたのかい?」

 田上は、ふーーっと深呼吸をしながら頷いた。タキオンは、屈みこんで田上を真上からしばらく見つめたが、数秒後に言った。

「今日は早くに寝れそうだね」

 そう言って、タキオンの汗が田上の顔に滴り落ちた。目に入りそうになって慌てて避けた。それをタキオンが、不思議そうに見つめた。自分の汗が滴り落ちたのに気が付かなかったのだ。

「何をしているんだい?」

 タキオンは、そう言ったが、田上が答える前に土手の上の方から声が聞こえた。

「もう寮に帰る時間だよー」

 見ると、寮長のフジキセキが、運動場の光に霞んで見えていた。

「今行くよ」

 タキオンが、そう声をかけた。そして、田上に「一人で起きれるかい?」と声をかけた。田上は、「起きれる」と言いながらも、少しばかりの時間をかけて、最後にはタキオンの差し出した手を取った。運動した後なので、少し湿っぽく暖かかった。しかし、同時に秋の夜の冷たい風が吹き、田上は身震いした。

 タキオンの手を話すと、二人は土手を階段を使わずに真っ直ぐにフジキセキの方に上って行った。

 フジキセキと十分に距離が近づくと、向こうから声をかけてきた。

「おや、君たちか。声を聞いても気が付かなかったよ。タキオン、少し喉が枯れているんじゃないのかい?」

「んん?」

 タキオンは、そう言って、疑わしそうに自分の喉を触った。そして、「あー」と声を出した。確かに、少し喉が枯れているように感じた。

「笑いすぎたな」

 タキオンは、誰に言うともなく呟いた。すると、フジキセキがその言葉に返した。

「ハハハ、それは良かった。笑いすぎて喉が枯れるなんて、それ以上にいい喉の枯れ方はないだろう。超高速のプリンセスは、今宵、自分の恋するプリンスと楽しく踊り続けたのかな?」

「その言い方は止めてくれ」

 タキオンが、フジキセキを睨んだ。田上は、その表現はとても喜ばしいことだったのだが、タキオンが嫌がったのを見ると、少しがっかりした。フジキセキは、その様子をしかと見止めていたが、何も言わずに微笑むと「さあ、君たちを寮までエスコートしてあげよう」と言った。それから、田上の方に手を差し出したが、タキオンがそれを「面倒くさい。さっさと行くぞ」と言って邪魔をした。フジキセキが、ハハハと笑った。

 それから、明かりの灯る寮へと三人は歩き出した。運動場からも街の明かりからも離れた場所では、夜空にキラキラと光る星が瞬いては、消えていた。

 


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