ケロイド   作:石花漱一

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三十九、メイクデビュー・芝二千メートル・降雨③

 昼食が終わって、二人でのんびりといつものベンチに行こうかと歩いているとき、田上がこう話しかけた。

「お前、今日はよく喋ったな」

「ん?…そうかい?」

「そうだよ。…カフェさんはそれくらい話せる人なの?」

「カフェ?……そんなに喋ってたかな?」

「結構、研究してたときのお前くらい話してた」

 田上がそう言ってから、タキオンが自分の様子を振り返ってみると、まぁ、確かに饒舌には話していたように思う。ただ、それ程気にすることでもないと思ったから、また首を傾げて「そうかなぁ?」と言った。

「……私は、これくらい喋るだろう?」

「…そうだけど、……俺の前では、最近はそんなふうに喋ることはなくなったのかな?って。…それで、カフェさんの方にはあれくらい流暢に話していたから、俺とカフェさんの違いってなんだろうと思って」

「……ああ、……なんなのだろうね?……」

 タキオンは、そう言いながら、俯いたまま田上と目を合わせようとしなかった。田上は、そんなタキオンを少しじっと見つめると、またこう口を開いた。

「……最近暑くなってきたな」

 田上がこう言ったのは、自分たちが繋いでいる手に汗が滲むようになってきたからだ。それを言ったら、大分前からそうだが、改めて田上は、これから来る夏もずっと手を繋ぎ続けるのだろうかと思って、その言葉を発した。

 タキオンは、その言葉を受けて、自分たちの手を見つめた。タキオンも丁度同じことを思ったからなのだが、このくらいの手汗ならば大丈夫だろうと思って、特に何も言わなかった。すると、田上の方が口を開いた。

「お前って、手を繋ぎたがるよね」

 タキオンは、田上の顔を心外そうに見上げて言い返した。

「君だってもう、私が言わなくても自分から手を差し出してくるようになったじゃないか!」

「いや、…別に悪いって言ってるんじゃないけど、………まぁ、いいや…」

「……煮え切らないなぁ…」とタキオンは変わらず田上の顔を見上げながら言った。田上も少々タキオンの言うような煮えきらない顔をしたあとにこう言った。

「………些細なことだよ」

「どんな?」

「………ちょっと手汗が気になるかなって」

「君の?」

「特にどっちのかは分からないけど」

「ああ、…拭く?」

「んん」と田上は煮えきらない返事をしたが、タキオンが手を放したら、自分のポケットからハンカチを出して、丁寧に手汗を拭った。

 タキオンもまた自分のハンカチで手汗を軽く拭き取ると、また手持ち無沙汰に漂っている田上の手を握った。田上はタキオンの顔を見た。タキオンは、得意そうに口角を上げた。田上はその顔を暫くじっと見てから、諦めたように前方を見つめた。

 

 ベンチに着くと、田上の心は少々落ち着かなかった。ここでは二人きりだった。タキオンを抱き締めたくて堪らない気持ちを抑えながら、二人横に並んでベンチに座った。そのときになると、二人の手は放された。だから、田上は手汗を軽くズボンで拭った。

 二人は、目の前の暑くなりつつある景色を見つめながら、ぼんやりと話した。タキオンは、昼時の饒舌が嘘のようにぽつりぽつりと話していた。

 見てみた限りでは、こういう話し方でもタキオンは充分に幸せそうだった。だから、田上は少し安心したのだが、タキオンと触れ合いたい気持ちは変わらずに抑え続けなければいけなかった。できることなら触れ合いたかったのだが、彼女は自分の物じゃないと、自分に言い聞かせていた。その一方で、田上はタキオンの事を愛しているということを認めつつあった。

 残念ながら、タキオンが昼のカフェテリアで長めに話していたので、昼休みの残されていた時間は、二人が深く話し合うためには短かった。二人共、それを分かっていたので、表面をかすめて飛ぶような話をするばかりで、話の本題には中々入ろうとしなかった。それでも、お互いがお互い共、お互いの肌触りや温もりが欲しかったので、残された僅かな時間を、彼女が差し出してくれた膝枕でぼんやりと過ごしていた。

 

 午後の授業は出なければならないとタキオンが言ったので、二人は昼休みが終わると別れる事となった。それに、田上の方も仕事をしなければならなかったので、あんまりタキオンとばかり居るわけにもいかなかった。

 トレーナー室に戻ると、マテリアルが「お早いお戻りですね」と皮肉交じりにそう言った。田上は、それに軽く頭を下げて謝ると自分の机に座った。

 まだ、昼休みにタキオンと居た時の心地が残っていた。触れ合えた充足感と、もっと触れ合いたいという不足感だ。その心地が、むずむずと胸の奥や手足の先を痺れさせたが、とりあえず、やるべきことはやらねばならなかったから、それをもっと胸の奥の方押し込んで、仕事を進めた。

 トレーナー室には、エスとマテリアルしかいなかったが、模擬レースの時間になると、リリックが体育服に着替えた格好で、不安とも安心とも言い難い顔つきでその部屋にやって来た。

 エスは、パイプ椅子に座って、集中して物を書いていたので、もう模擬レースの時間が近づいていることに驚いていた。順番で言えば、リリックよりもエスの方が早いからだ。田上も仕事に集中していたので、時間に気が付かず、エスに声をかける事はできなかった。だから、エスは慌てながら、「着替えてきます」と言って、自分の寮の方に走って行った。

 ただ、慌てるほど切羽詰まった時間でもなかったから、マテリアルはその後ろをのんびりと歩きながら、自分も着替えるために寮に向かった。田上は、着替えをトレーナー室に置いていたから、リリックを少しだけその部屋から追い出すと、ぱっと着替えて、リリックに「行こうか」と声をかけた。

 

 考えてみると、田上とリリックの二人だけという組み合わせは珍しかった。いつも傍には他の誰かが居て、それが、タキオンだったり、マテリアルだったり、エスだったりした。そうなってみると、二人は少々話題に事欠いた。田上は、リリックから警戒されているのか知らないが、それ程喋ったこともないし、喋りかけられたこともない。トレーニングの事を別にすればそうだが、ここで、トレーニングの事を話したって、今まで言ってきたことを繰り返すだけのように思う。

 それで、何か身近な事に関する話題を探していたのだが、それもそう簡単には見つからなかった。田上は、そもそもリリックが何を好きで、何を趣味としているのかそんなに知らない。以前にゲームの事は聞いたような気がするのだが、そんなに確かな事も言っていなかった。少なくとも、田上程ゲームを遊んでいるわけではなさそうだった。それで、田上は何を話題にしようか悩んだ挙句、こう言った。

「……リリーさんは、好きな本とかあるの?」

「んー……、そんなに…本は読んでいませんね……」

「へぇ? ……じゃあ、好きな映画とかは?」

「んー、……あの…『クスノキと蛍』は好きですね…」

「へー、トート(アニメ制作スタジオ)作品?」

「ああ、はい。可愛いのが好きなので、トート作品も結構好きですね…。『走れ今日子』なんかも…」

「へー、『走れ今日子』の雰囲気は俺も好きだね」

「はい、私もです…」

「……リリーさんは、あれなんかも見たりする? 今度上映される佐藤幸次監督作品のアニメの『同窓の夏』。絵は綺麗だったけどね?」

「ああ、……あんまり佐藤幸次作品は、…観る気にはなれませんかね…」

「そう。……じゃあ、実写の方とかは観たりする?」

「実写も……海外の方とかだったら、偶にテレビであるのを見たりはしますが、…好んで観るって感じじゃないですね……」

「じゃあ、あれは? ステップの作品。今度、あのバスケ漫画…えーっと…」

「『ドン・キホーテ・バスケ』?」

「そう、それ。それの映画があるって言ってたけど。…そもそも、ステップ作品は読むの?」

「んー…、『ドン・キホーテ・バスケ』はあんまり読まないですけど、……『空を駆けろ!』なら、五巻くらいまでは読みました」

「『鳶の名』は?」

「『鳶の名』は、……長すぎて読んでませんね…。…読みたいとは思ってるんですけど…」

「そうだね…。もう八十巻もあるからね…。でも、結構面白いから、…あ、そう、全巻持ってるから貸そうか?」

 この田上の提案にリリックは少し困ってしまった。読みたいなぁ、と思っている事は本当なのだが、田上に貸してもらって読むほど、本気で読みたいとも思っていなかった。ただ、流行っている人気の漫画だそうから、何となく面白いのかなぁ? と思っていただけだった。わざわざ自分の担当トレーナーに漫画を貸してもらうほど、読みたいと思ってもいない。

 しかし、別に断る程の事じゃないし、気になっていることも事実であるから、リリックは「貸してもらえるなら…」と曖昧に頷いた。田上も嬉しそうに頷くと、こう言った。

「宝塚記念が終わった後ででも貸そうか? …それとも、もう明日がいい? 丁度、授業がなくて暇だろうし」

「……どちらでもいいです…」とリリックが頷いた。この様子を見ると、田上も少し強引だったかな? と自省したが、「じゃあ、とりあえず、明日持ってきて、トレーナー室に置いてみておくよ。…読みたかったら、取っていってもいいからね」と言った。リリックは、また曖昧に頷いた。

 

 トレセン学園内に建てられている生徒専用の模擬レース場にリリックと田上は向かった。漫画の話をしたあとは、特に話すことも浮かばずに、ただ黙々と歩き続けた。

 田上とリリックは、レース場の観客席に腰掛け、あとの二人を待った。タキオンは、まだ授業中だったが、エスのレースが終わる頃には、今日の最後の授業も終わる手はずだった。そして、その後のリリックのレースが終わったら、今度はタキオンのトレーニングのために、田上はトレーニング場へ行く事になっている。タキオンは、田上が自分以外に対して手を煩わせることにあまり良い顔はしなかったが、それでも、何も言わずに予定は聞いてくれた。

 やがて、マテリアルとエスが二人連れ立って歩いてきた。リリックは、エスが来るとそちらの方に歩み寄って、話し掛けた。田上は、その光景を見て、今日の昼食にペラペラとカフェに話し込んでいたタキオンのことを思い出した。

 勿論、リリックがエスだけに話すことに嫉妬しているわけではないのだが、――女の子にとって、友達はどういう存在なんなのだろうか、と考えざるを得なかった。ただ、その後に、マテリアルが話しかけてきたので、その考えは中断されることとなった。

 

 エスのレースは順調だった。一着を取ることはなかったが、三着とアタマ差で二着と好調だった。

 その後のリリックのレースを待っているタイミングで、タキオンが田上の隣の席へとやってきた。もう体育服に着替えてきて、準備は万全だった。田上は、無言で隣に座ってきたタキオンに「お疲れ様」と声をかけた。タキオンは、一瞬黙ったまま、田上の顔を見つめると、こう口を開いた。

「あの時を思い出すね」

「あの時?」

「リリー君をスカウトする時」

「ああ」と田上は頷いて、顔に笑みを作った。

「君、恥ずかしいとかなんとか言って、リリー君をスカウトするのを渋っていたじゃないか」

「うん」と言いながら、田上は口元を恥ずかしそうに歪めた。

「あの時、私の事を――気性が荒いだとかなんとか揶揄していなかったかな?」

「ああ、…確かに、そうだったかもね」

 田上がそう答えると、タキオンは田上のほうに身を乗り出して言った。

「あの時の借り、今ここで返しておこうかな?」

「今ここで?」

 田上が戸惑いながらそう言った。

「そう。思い出すと少し腹が立ってきた」

 そう言いながらも、タキオンの顔は全く腹が立っていなさそうだったから、田上も笑みを作った。

「お前、腹立ってそうな顔してないし、第一、何するつもりなの?」

「…久々に公衆の面前でキスでもしてやろうかな?」

「…嫌だよ…」

「…まぁ、私も今は身を弁えているから、わざわざそんな事はしないがね?……君の事好き…」

 唐突な言葉に田上はまた戸惑った。

「…なに?」

「…なんにも。…言いたくなっただけ」

「…そう」

 田上は、タキオンの言動を怪しんで、その心を読み取ろうとするかのように、タキオンの事を見つめていたが、やがて、リリックのレースが始まるので、そちらの方に意識を向けた。

 

 リリックは、前回の三着から順位を一つ落として、四着という結果になったが、田上とマテリアルは普通に好走だと思った。だから、リリックに特に文句をつける事もなく、褒める事を中心にしたのだが、本人としては、順位を一つ落としたのを気にしているようだった。だから、田上は一応こう声をかけた。

「リリーさん」

「…はい」

「……レースってのは絶対じゃないからね? いくら、タキオンがGⅠウマ娘で、勝率もほとんど優勝だと言っても、日本ダービーでは優勝を逃してる。あの時も、タキオンはしっかり走ったと言っていた。……タキオンの事は、レースの先輩としては尊敬しているだろ?」

 リリックは、はっきりと首を縦に振った。

「そう。そんなタキオンでも勝てないときがあるんだから、いつでもどこでも勝てると思ったら大間違いだよ。大事なのは、勝ちに向けて焦ることじゃなくて、自分のやるべきことをやることなんだよ」

 そう言うと、またリリックははっきりと頷いた。どうやら、田上の言った事は伝わったようで、順位を落としたために不満足げだった顔も、また次を見据えた顔に変わっていた。

 ――本番もこんな感じで走ってくれればいいが…、と田上は思った。田上は、まだ、選抜レースで、前に進もうとしなかったリリックを覚えていた。

 

 タキオンのトレーニングとなった。エスとリリックは、そのまま帰っても良かったのだが、何とは無しに土手の方に座って、タキオンのトレーニングを眺めながら雑談をしていた。

 マテリアルと田上は、タキオンのトレーニングを見るために、その下の方にいた。初めにタキオンが田上とやりとりをしていた時に、マテリアルが近くで会話を聞いているの嫌そうにしていた。

 タキオンからしてみれば、エスなど眼中にもなくいちゃつけるが、マテリアルは、目の前でいちゃつくと何かしら反応を示すので、タキオンはあまり好まなかった。そして、そもそもマテリアルは、いつもはリリックの相手をしているという事が大きかった。それから言えば、今日は久々の田上とタキオン二人きりのトレーニングになるはずだったのに、マテリアルとか言う女がしゃしゃり出てきた。

 マテリアルも嫌がられているのは分かっていたが、タキオンも露骨にその機嫌の悪さを表現しないようになっていたので、お互いそれ程悪い方に作用せずに済んだ。

 田上は、トレーニングの予定を少し変えて、ちょっとだけ早く終わるようにした。マテリアルが何故かと聞くと、タキオンと話したい事があるからだと答えた。わざと曖昧に答えた田上に、マテリアルは「何を話したいんですか?」と切り込んでいったのだが、田上はまた「ちょっと二人の事です」と答えをはぐらかした。マテリアルは、これはダメかもしれないと思って、少し黙って考えていたのだが、やっぱり、田上のはぐらかし方が気に入らなかったので、またこう言った。

「二人の事って何ですか?」

「ん?」

「二人の事です。…なんですか?」

「……二人の事ですよ」

「……その二人の事の内容をできれば、三人目の私にお教え願えればと思って質問しているのですが」

 田上は、そう言われた後に、遠くを走っているタキオンに、迷うように目を向けた。少しの間、その姿を追い続けていたのだが、やがて、こう言った。

「一言では言えませんよ?」

「…一言で話せるもんだとは、こちらも思っていませんとも」

「……タキオンは怒りそうだけどなぁ…」

「言っても、今日は自制している感じはありましたよ? 私が来ても、そんなに迷惑そうな顔をしなかった」

「それは仲直りしたからでしょう?」

「いえ、初めは嫌そうな顔をしてましたが、許されてる感覚は有りましたよ?」

「…そうですかぁ…?」

「…そうだと思います。…それで?」

「……僕だって、…二人の事はそんなにマテリアルさんに話したくないんですよ」

「恥ずかしいから?」

「……それもありますし、……それは、二人の事であって、三人の事じゃないですから」

「私は仲間外れですか?」

「……三人の事は三人の事です。そして、二人の事は、…言わば、好きとか嫌いとかの話であって、…自分の心を打ち明けるような物みたいなんです…」

「私に、自分の心は打ち明けられないと?」

「…ええ」と田上は、マテリアルをはねつけるように頷いた。それにしては、物言いは柔らかだったので、マテリアルははねつけられたようには感じなかった。それでも、断られたのは分かったので、暫く黙ってからこう言った。

「三人寄れば文殊の知恵ですよ」

「……話すんだったら、タキオンも込みで話してください。僕一人からは話しません」

「了解しました」

 マテリアルの言葉は、敢え無く田上一人の前には拒絶された。

 

 タキオンが休憩の時になって、マテリアルが彼女にこう言った。

「田上トレーナーがタキオンさんに話したい事って何ですか?」

 タキオンは、無言でマテリアルを鬱陶しそうに見た後に、相談するように田上の方を見た。すると、田上が言った。

「二人で、昼前に話した事。あれを話そうと思ってたんだけど、マテリアルさんが、何を話したいのか聞きたいそうなんだよ」

「へぇ…」とタキオンは、マテリアルを冷ややかな目で見やりながら頷いた。

「私は、なにも会話に参加したいんじゃなくて、ただ何を話すのか、何が起こっているのか、その状況を知りたいだけですからね。…それを聞こうとしたら、田上トレーナーが――タキオンも込みで話してください、って言うから、今聞いているんです。…二人の事って何ですか?」

「……それを聞いて私が答えると思ったのかい?」

「思ってないから、田上トレーナーに聞いたんです。そしたら、――二人の事は二人の事にしていたいって言うから、あなた方似たり寄ったりですね」

 タキオンは、その言葉に嬉しそうに口の端を上げた。その後に、またマテリアルが続けて言った。

「それで、どうなんでしょうかね? なにも、私は会話に参加したいんじゃなくて、事情を聴取したいだけなんですが、…しゃしゃり出て話す事もしませんから、果たして、トレーニングを縮めるまでに話す事っていったいどれほど重要な事なのか、トレーニングを縮めるくらいに重要なことくらいは、私に話してくれたっていいじゃないですかね? こっちだって、トレーニングを監督している身なんですから」

 タキオンはそう言ったマテリアルの顔を見た。マテリアルは、真剣な目でタキオンの目を見つめ返した。その目を見ると、タキオンもマテリアルが、しゃしゃり出てこないという言葉は本当なのかもしれないと思ったが、どうにも自分で決める気にはなれなかった。だから、少し悩んでいるふりをして休憩時間を過ごした後に、こう言ってまたトレーニングに戻っていった。

「判断は圭一君に任せるよ。…話すべきだと思う箇所だけ話してやってくれ。それ以外は、別に、話さなくてもいい」

 その後に、マテリアルが、隣の田上の顔を見て聞いた。

「で? …どうなんですか?お許しが出ましたけど」

「……僕も……あんまり話して気分がいいもんでもないですよ……」

「……それは、レースに関わることなんですか?」

「……まぁ…」

「レースの何に?」

「………まぁ、……引退ですね…」

「引退? …引退する予定で?」

「いや、……タキオンに……。んー…、説明するのが難しいですね…」

「話したくないところは話さなくても大丈夫ですよ」

「………んー……、まぁ、結論を言えば、タキオンは俺との関係が崩れることを怖がって、レースから引退する瞬間を恐れているって事ですね」

「はぁ…」とマテリアルは頷いた。「じゃあ、タキオンさんはそれでレースに対しても、元気がないってことですね?」

「そうです」と田上は、遠くのタキオンを見ながら頷いた。マテリアルも真面目な顔して走っているタキオンを見つめたあとに、「へぇ~…」とまた頷いた。

 

 暫くしたあと、トレーニングを終えると、土手で田上はタキオンの横に寝転がりながらこう話しかけた。

「お前、俺のこと好きだね……」

「……そうだが?」

「……別に、そんなに話すことでもないけどね…」

「……話すことがあったから、私のトレーニングを早めに終わらせたんじゃないのかな?」

「……何をどう話そうかなと思ってね……」

「……君とあんまり遅くまでま話せなくなったのは寂しいもんだね…」

「…そうだね…」と田上が頷いたあとに、少しの沈黙が生まれたから、タキオンは田上の左手を取って、暫くの間その手を握ってみたり、つねってみたりしながら遊んでいた。その後に、田上がこう言った。

「俺、…お前のこと好きなんだけど、…好きでいていいのかが分からない…」

「分からない?」とタキオンは聞き返した。

「…そう。……好きなんだけどね?………お前を本当に抱きしめていいのかとか、お前のことを好きでいていいのかとかは、まだ思ったりする。……土曜か日曜に、――お前を万力込めて抱きしめたいって言っただろ?」

「ああ」とタキオンは頷いた。その時に、脳裏にちらりと浮かんだ日曜の出来事に、多少不快になりながらも、田上の話を聞いた。

「お前のことを本当に、万力込めて抱きしめてもいいんだったら、俺はお前が潰れてしまうくらいにぎゅっと抱きしめたい」

「うん」

「………あとは、お前のことを本当に見つめてみたいとか、他にもしたいことはたくさんある。………どう思う?」

「…どう? ………私のことは好きなんだろ?」

 タキオンがそう言うと、田上は真剣な目でタキオンを見つめながら頷いた。

「うん。お前のことは好き。それだけは間違いない。…でも、果たして、…俺の心を開くというか、…お前を愛するというか…、……それがやってもいいことなのかが分からない…」

「……んー……、あんまり大した言葉はかけてやれないがね。……私は、今の所それには怒ってないと思う。だって、君は、私の事を好きなのは間違いないって言ってるから。……寂しく思うのかは分からないが、…その度に君の気持ちを伝えてくれたらいいよ。…私の事を好きだと」

「うん」と田上は、困り半分嬉しさ半分といった顔で頷いた。

 その後に、田上は起き上がって、タキオンに話し出した。

「お前は、……いつ引退するつもりなの?」

 田上の言葉にタキオンは目を逸らして、未だにトレーニングを続けている人の群れを見つめながら「いつでも」と半ば投げやりに言った。

「………いつでもって言っても、……んー……、……勝手な事言ってみると、お前が楽しく走ってる姿を見るのは、俺も好きだったんだけどなぁ…」

「……勝手な事だね」とタキオンは、まだ投げやりな口調のまま答えた。田上はそんなタキオンの横顔を見つめた。

「………問題は、…多分引退じゃないよね。…タキオンが、…いかに楽しく走れるかであって、……。…走ることしか取り柄が無いって冗談だろ?」

「冗談に聞こえたかな?」

「……お前、走ること以外にも取り柄はたくさんあるじゃん。…ちゃんと俺の相談に乗ってくれるとか、覚えも良いし、頭もいい。初めての事でも、結構卒なくこなす事もあるし、走ること以外に才能がないとは思えないんだけど」

「………君に対しては?」タキオンが身近にある短い草をくるくると指先で弄りながら聞いた。

「……相談に乗ってくれるだろ?」

「……それが、何か君の役に立ったかい?」

「…………俺が、日曜に怒った事を気にしてる?」

 田上は、痛む心を我慢しながらそう言った。タキオンは、その言葉で、悩ましげだった顔をさらに苦しそうに歪めた。

「………君が悪いんじゃない」

「傷付いたんだったら傷付いたって正直に言ってほしい。そっちの方が、まだ楽にお前と話すことができる」

 そうすると、タキオンの顔の苦しさも少し解れた。

「………分からないんだよ」

「……分からなくてもいいよ。……探そう…」

 それから、二人は暫くの間黙り込んだ。トレーニング場で騒いでいる女生徒の声がやけに大きく二人の間に木霊したが、二人共物思いに沈んだままそっと寄り添っていた。

 

 それから、暫く黙り込んでから、田上が口を開いた。

「タキオンは、………何が不安?…宝塚記念で不安な事はある?」

「……特に」

「……………」

 田上は何か言いたくて、俯いているタキオンの横顔を見つめていたのだが、言葉は喉の方まで出かかっているはずなのに、いざ言ってみようとすると、それはまた喉の奥の方へ戻ってしまった。田上は、自分を拒絶してくるタキオンに向かって何と言えばいいのか分からなかった。

「俺の事好き?」と聞いてみればいいのだろうか? そして、わざわざ分かっている事を彼女の口から言わせるのだろうか? それこそ、言葉で騙して、支配しているように感じる。マテリアルは、月曜に「お互いの事を大切にしろ」と言っていたのだが、タキオンは、それをもう忘れてしまったのだろうか? と思った。

 そして、それが発展して――俺の事は嫌いになってしまったのだろうか? とすら思った。タキオンはタキオンで、頭の中で考えが入り乱れていて、田上の様子にまで気を回している余裕はなかった。だから、田上がこの状況を打開せねばならなかったから、長い沈黙の後に田上はタキオンの手を握りに行って、気を引いてみる事を選択した。

 田上がタキオンの右手を優しく丁寧に、指を絡めて握ってみると、タキオンの注意はそちらに向けられた。

 そして、田上が少し強くその手を握ると、タキオンは田上の顔を見てくれた。田上は、ここで「俺の事は大切だろ?」と言ってみようと思っていたのだが、その言葉もまた、意味のない言葉のように思えて、喉の奥の方へと引っ込んでいった。

 それで、田上は代わりの仕草で、タキオンに自分の思いを伝えなければいけなかったので、繋がれていない右腕をそっと伸ばすと、タキオンの頬に優しく触れた。

 そうしてしまうと、なんだか今から自分たちはキスをする準備をしてしまったのではないかと思った。タキオンは、自分の顔をじっと見上げている。田上はその彼女の頬に手を当てて、もう少し顔を近づければ、もうキスをすることになるだろう。田上は、そこの所で迷ったが、流石にもうそこからは脱していた。田上は、タキオンの頬を親指で撫で擦りながら、結局、「愛してる」という当たり障りもない言葉を告げた。途端に、タキオンの顔は苦悩に苛まれたようになった。

「………こんな私を?」

 田上は、タキオンの事を騙すな騙すな、と自分に言い聞かせながらも、「愛してる」ともう一度繰り返した。果たしてこの言葉が正しいのか、田上には確証が持てなかった。どちらかと言うと、間違っているような気がしたから、田上は少々辛かった。

「私も」とタキオンは、顔に滲んでいる苦悩を消せないままにそう言った。

 そして、タキオンの苦悩は、田上の方にも伝染した。いや、田上の苦悩が、タキオンの方に伝染したのかもしれないが、少なくとも、どちらとも愛を囁いているはずなのに苦しそうだった。

 田上は、次の言葉をどう続ければいいのだろう? と思った。また、昼の時の様に、冷静に話をしたかったのだが、今この状況に陥っていると、どうしても、どのようにして冷静に話していたのかが思い出せない。もう自分が取る次の行動は、タキオンと熱い抱擁を交わす以外にないかのように思えたが、それだけは避けたかったし、なんだか恋愛ドラマチックで滑稽のようにも思えた。

 それで、田上は苦しんだ末に、タキオンの側頭部や後頭部を撫でただけに止めて、あとは、思い切って顔を背けた。どうか、これがタキオンを期待するだけさせて、傷付ける結果になっていませんようにと祈りながらする行為だった。

 タキオンは、ここから起こる展開を少しは期待していたのだが、田上が恐れる程傷付けられてはないかった。田上がしたい事は分かっていた。自分との冷静な話し合いだ。そして、その事に理解があったからこそ、タキオンは、田上の仕草によって、自分も冷静な場へ引きずり出されなければならなかった。

 田上は、その後も苦悩に苛まれた顔で俯いていたが、やがて、顔を動かし、タキオンの膝の辺りを見ながら言った。

「………お前の事は好きだし、好きって伝えたいんだけどさ」

「…」

「…………どうも、………言葉が軽くなるというか……、……大切なんだけどさ……」

「………私と話がしたいの?」

 タキオンがそう聞くと、田上はその顔を少し見て、また地面の草に目を向けた。

「……したいけど、……。…お前に伝えたい事ってたくさんあるのに、伝えようとすればするほど、言葉がどんどん軽くなっていく」

「………私もあるよ…」

 そう言ったタキオンを、田上は困ったように見つめた。

「………お前が――愛してるって何回も言う気持ちも分かるよ…。……伝えたい言葉がたくさんあるのに、それが上手く伝わらないし、伝わらない程もっと多く伝えたくなる……」

「……私も……」

 その後に、田上は少し顔に笑みを浮かべた。

「……こう……、こういう事だけ話せばいいのにね」

「…こういう事?」

「……自分の気持ちを伝えるというか、……表現するというか…。……そうした方が、穏やかな気持ちで過ごせるのに、…愛とか……何かに頼って気持ちを伝えようとすると、途端に言葉が物足りなくなる。……だから、聞いてくれる人が必要なんだよね。言う人が必要なのと同じくらいに、聞いてくれる人も必要なんだよ。自分の心の事を聞いてくれる人が。……お前のそういう人になれたらいいな…」

 そう言うと、タキオンも嬉しそうに微笑を浮かべて、「もうなってるよ」と答えた。田上は、タキオンの手をしっかりと握り直して、もう少しだけ強くタキオンに肩を寄せると、俯いたまま、「愛してる」と言った。タキオンは、「私も」と擦り寄ってくる彼の肩の大きさを感じながらそう言った。

 

 田上は、「愛してる」とタキオンに言った後に、暫く落ち着いた大きな呼吸を繰り返してから、顔を上げて言った。

「今の愛してるは、駄目な愛してるだったかな?」

「……どうだろう?」

「………分からないな…」

「…私も分からない」

「…愛に頼っては……いない…。いや、いるのかな?……んー……、いるのかもしれないけど、……なんだか難しいもんだね」

「…難しいもんだよ」

「……お前を支配したいとも思ってないし、お前に背きたいとも思ってないし、……。こう……、自分の気持ちだけで構成されているわけでも無くて、……そうしたいと思っちゃう時もあるからね。……一朝一夕で行けたらって思ったりもするんだけどね…」

「……私は、……こうやって、君と一緒にぼんやりとしながら話す時間は結構好きだよ?」

「そう? …悩みとか話してても?」

「…うん。…結局、君は私の事を支えてくれるし、……私はそれに頼って生きていける。…それに、二人の時間だからね…。こうやって、ぼんやりと話をしている時の大半が。…だから、……幸福と言えばいいのかな…?」

「…そう…」と田上は頷いた後に、少し考えてからまた口を開いた。「……タキオンって、……自信ないの?」

「自信?」

「そう、自信。ないの?」

「……あんまりかな」

「……前は、自信モリモリにあると思ってたんだけど」

「んー……、……そうかもね」

「…無くなったのっていつ?」

「んー……、分かんない」

 タキオンは甘えたような声でそう言った。

「………あれ? …あの日? …あの……バドミントンに俺の友達と行った日?」

「…んー……、…そうかもしれないし、…そうじゃないかもしれない。…あんまりよくは分からない」

「………走る事以外に才能が無いって、具体的に、何が才能が無いなぁ、とかって思う事ってある?」

「………料理…とかかな…」

「料理? …普通に作ってるだろ?」

「………どうだろう…」

「…多分、並の人と同じくらいには作れてると思うよ?」

「……君とは?」

「……同じじゃない?」

 田上がそう言うと、タキオンは黙したまま地面を見つめた。だから、また田上が口を開いた。

「え、…俺はそんなに料理は上手くないよ?」

「……上手いよ…」

「ええ? ………俺を三ツ星料理店のシェフか何かだと思ってる?」

 タキオンはコクリと頷いた。

「違うよ! …全然違うけどなぁ…。……やることだって、…まぁ、大学の頃から料理の事は学んでたし、料理を作る手間だってそんなに嫌いじゃなかったけどね? ……やることは、三ツ星シェフレベルに繊細な事はしてないと思うよ? ただの家庭料理をざっと作ってるだけだと思うんだけど。…それなら、タキオンだって普通にしてるでしょ?」

「………家事もできる…」

「俺が?」と田上が聞くと、タキオンはコクリと頷いた。「家事? …洗濯、掃除…、…料理? ……俺が?」

 またタキオンはコクリと頷いた。

「んー……、多分、タキオンでも余裕でできる事を俺は適当にやってるだけだよ。…お前より、少し長く生きてる分ね。経験とかもこっちがあるから、時間の使い方もちゃんと心得てるし、手の抜き方も分かってる。タキオンだって、お前は卒なくこなすタイプだけど、何も全てが全て初めから上手く行かないって事は、お前も身に染みて分かっているだろ?」

「………君は天才だよ…」

「…トップアスリートに天才と呼ばれる日が来るとは思わなかったけど、俺が天才だったらお前も充分に天才になれる。要は学んでいく事なんだよ。何もかも一朝一夕でできると思わないほうが良い。俺も、初めは大変だったんだから。………それとも、…お前はあれかな? …大人になるとか、…結婚して主婦になるとかいう事を気負っているのかな?」

 タキオンは、コクリと頷きもしないで、繋がれている自分たちの手を見つめた。彼氏の手の甲には、その筋と血管が浮いているのが見える。

「どう?」とまた田上が聞いてきたから、タキオンは、また暫く考えるために黙った後に「そうかもしれない…」と呟くような声で言った。

「そうかもしれないんだったら……、お前が卒業した後の事かなぁ…。……お前、結局、第一志望は近くの○○大学にしたんだろ?」

「…ああ…」

「………悪いことしたなぁ……。お前の進路を狭めるようなことをした……」

「……まだ、入金はしてないよ……」

「……勉強は大丈夫?」

「…大丈夫。…分からない所はほとんどない…」

「……そこの大学って、トレーナー資格取れる所だったよな?」

「……ああ…」

「………どうも、……先行きが定まってないな……。…高校卒業したら、…んー……、不安だ。お前よりか、俺の方が不安かもしれない」

「……私も不安だよ…」

「……そうか…。……スポーツ推薦はお前大丈夫だろ?」

「……分からない…」

 タキオンがそう言うと、田上は怪訝な顔をして聞いた。

「GⅠ勝ってるんだから、推薦受けれないわけがないだろ」

「……高校で引退するかもしれない……」

「ああ、……タキオンの中ではその選択肢も、一応視野には入っているんだね?」

「ああ……」

「………結婚って言う選択肢は、お前が大学に行くんだったら、まだ早いような気もするんだけど…」

 そう言うと、タキオンの手は少し強く田上の手を握った。

「……そう思う?」

「……いや、んーー……、お前は前に――自由でいたいって言ってたよな?」

「……」

「…それで、責めたいとかじゃなくて、高校卒業しても、まだあんまり二人共心は整っていないんじゃないかと思ってね? ……どっちにしろ、子供を作るにしても、まだ若すぎるような気もする…。………俺は、…そんなに生き急ぐ必要もないんじゃないかと思うんだよね…。特に、お前がまだ自由で居たいって言うんだったら」

 その後に、田上はタキオンの反応を確認したが、タキオンは俯いたまま彼氏の手の甲に浮き出ている血管を見つめるだけだった。だから、田上はまた口を開いた。

「お前が、トレーナーになるにしろ、ならないにしろ、それはまだ不確定な要素だし、お前のしたい事を制限したいわけでもないから、それについては、まだお前が大学に行った時でいいや。……問題は、お前が生き急いでるって事なんだよ。なにも、お前の好意まで疑いはしないけど、俺の為に何かしようとしてる。別に、ありがたい事ではあるんだけど、……お前が無理に主婦になる必要もないしね? 結婚だって、…無理する必要が無いって言うとあれだけど、……お前、友達の事は好きだしな? そんな友達の事を蔑ろにしてまで、俺に尽くそうとしてるんだったら、……何と言うか、……本末転倒と言うか、……それが逆にお前を追い詰める結果になってないかと思うんだよ」

 田上は、自分の言葉の裏にある危うさを感じながらも、そう言って、また話を続けた。

「お前は、……未来に怯えているのはそうなんだけどね? ……もう少し、未来を待つって事もしてみたほうが良いかもしれない。未来を確定させることをしなくても、未来を待ってみたら、案外良い未来がこっちの方にやってくるかもしれない」

「………悪い未来だったら?」

「その時でも、お前だったら対処はできる。…お前は、結構柔軟な人だから、大概の問題だったら対処できるし、なんなら、ここまでも俺と別れる事もせずに、励ましながらここまでやってこられた。…ほとんど全部お前のお陰だよ」

「………この前、怒られたけどね…」

 タキオンがそう言うと、田上は少し困った顔になって言った。

「あの時は、俺も悪かったよ。…お前と冷静に話し合える道を探せばよかった…」

「………私が聞く耳を持っていなかったんだから、そんな道はなかった…」

「じゃあ、あれは起こるべくして起こった事だ。そして、俺たちは仲直りをするべくしてしたって事だ。それが例え、マテリアルさんが間に仲介していようとも、それは俺たち二人の絆の中にあった大事なもので、決して、外部から薬を打たれて沈静化したわけでもない。マテリアルさんは、俺たち二人が仲良くなかったらここには居なかったわけで、俺たちが仲が良かったからこそ、ここに現れたんだ。だから、俺たちがここでこうして付き合って、話している以上、マテリアルさんはその為に現れた訳で、これからもその為に居たという事は変わらない。……あの時怒ったのは悪かったよ。傍に居てほしいんだったら、いつでも居るよ。……だから、そんなに落ち込まないほうが良いよ。……お前の笑顔が好きだって言ったろ?」

 田上がそう言うと、タキオンは少し嬉しくなって、顔に僅かな笑みを浮かべたが、それは風に吹かれて今にも消えそうな笑みだった。その顔を上げると、タキオンは微笑んだままこう言った。

「君は、………変わったね……」

「…タキオンも変わっていくよ。…そういう人だもん……」

「………私は、……怖いよ…」

「……なんにしろ、人は変わっていくよ。良いにしろ、悪いにしろ。変わって行かない人なんていない。人との交流とか、外部からの情報や圧力。そして、寿命、健康。そういうものがある限り、人は変わっていく。…変わらない人なんていない。……何に変わるかは、その人次第。タキオンは変わりたくないと思っていても、いつか、この世界にいる限り変わっていく。………」

 田上は、その後に「その時には傍に居るよ」と言おうと思っていたのだが、なんだか胡散臭かったのでやめた。それに、変わらない人は居ないと言っていたのに、自分は変わらず傍に居続けるというのはどういうことなのだろうか? と思ったのだ。

 勿論、そうでありたい。しかし、そう簡単に行かないのも事実だ。いついつまでも傍に居るというわけにはいかない。田上がちょっと目を離したすきに、タキオンの内側で何かが変わっていくかもしれない。

 田上は、それが少し怖くもあったが、同時に、タキオンを信じることにしている。変わるというのは、何も大きな変化ばかりでもない。小さな変化ばかりでもない。身体的な物でも、精神的な物にも限られるというわけではない。限られないから変化するのだ。

 二元論的に変化するのではない。三元論的に変化するのでもない。変化という程の変化はないかもしれない。もしかしたら、自身が変わるのではなく、自身に加えてもう一つ増えるのかもしれない。それを家族と呼ぶのも良いだろうし、友人と呼ぶのも良いだろう。

 変化は決して、対極に移動するだけの物ではないのだ。田上は、その事をタキオンに伝えたかったのだが、言葉としては上手く出てこなかった。タキオンも田上の沈黙の中に、それをなんとなく感じ取ってはいた。

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