ケロイド   作:石花漱一

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三十九、メイクデビュー・芝二千メートル・降雨④

 田上は、その後に伝えたかった事を上手く伝えられないままに、そこを後にした。タキオンは寮へ、田上はアパートへ帰って行った。多少の寂しさはあったが、これも全て二人の未来のためにした事だった。まだ、不確実な要素、不安定な要素が多い未来だが、それでも、二人共未来を夢見ずにはいられなかった。赤ん坊とか、結婚とか、同居とか、生活とか、不安な事も折々含まれていたが、同時に期待も籠っていた。

 田上とタキオンの中に存在する問題は、全て解決してはいなかったが、そもそも全て解決して結婚できるのだろうかとも思う。問題が解決した後に、別の問題が出てきて、その問題に取り掛かれば、新たな問題が出来上がる。そのようにして、終わりのない問題に取り掛からなければならないのかもしれないと思ったが、田上は、やるべきことはやらなければならなかったし、問題は放置するよりも解決したほうが良いだろうと思えた。果たして、その問題を解決して、それからの日々に全くの安寧が訪れるのかどうかはあまり分からないが。

 田上が、タキオンを抱き締めたいと思うのは、もしかしたら、脳内にほとばしるホルモンによる事かもしれないが、その気持ちのまま素直に抱き締められないのは、何もホルモンによるものだけではないだろう。ルールとか、観念とか、そういうものも絡んでくるだろう。それを解決すべきなのかとも思う。彼女を抱き締める事に素直になれない男などこの世のどこにでもいるだろう。しかし、素直になれない事で自分を押し殺しているんだとしたらどうだろうか? それは解決するべきかもしれない。彼女が抱き締めても良いと言っているんだから、抱き締めない理由など自分以外には在りもしないだろう。ありもしないだろうが、…今の所は、田上は何をなすべきなのかどこへ行くべきなのかは分かっていなかった。

 変化といっても変化は変化だ。変化という言葉そのものであって、変化という概念が田上の中に入り込んできているのかと言われるとそれも違うかもしれない。

 どちらにしろ、月曜の時のマテリアルの話は、田上のタキオンに対する姿勢の在り方を変えてはくれたが、それ以上の何かはくれなかった。もしかしたら、それは自分で見つけなければいけないのかもしれない。

 

 木曜が過ぎ、金曜の朝になった。田上だって、何度もやってきたことではあるが、緊張がないわけではない。それでも、今回はタキオンではなく、高等部一年と中等部一年を引率する義務があるので、二人の為にも緊張はなるべく内の方へ押し込まなければならなかった。

 金曜の朝には、田上はタキオンと共に二人きりでトレーナー室に行った。タキオンは、田上を抱きしめ、そして、彼から抱きしめられながら「寂しい…」と呟くように言った。田上は、タキオンが本気で寂しがっていると知りつつも、それが少し可笑しくてふふっと笑った。

「たった一日だよ。これまで何度でもそんなことはあっただろ?」

「……付き合ってからはない…」

「……そう?」

「……そう…」

 タキオンがそう言った後に、田上も自分の記憶を探ってみた。確かに、会わない日はなかったかもしれないと思った。喧嘩も、お互い言ってしまえばすぐに怒りが引くたちだったし、周りもそうできるように画策してくれていたので、一日以上長く続いた試しはなかったかもしれなかった。いや、もしかしたらあったかもしれないのだが、田上は、それは全く覚えていなかった。

「そうかもな…」と田上は頷いた。それから、タキオンは田上の胴に回してた腕を、少し苦しくなるくらいにぎゅっと抱きしめて「ここに居て…」と少し泣いてしまいそうなくらいの落ち込んだ声で言った。対称的に、田上はタキオンを元気づけ勇気づけるために明るい声で答えた。

「まぁ、一日だよ。それに、連絡もまめにする。タキオンも寂しくなったら、電話かけてくれればいい。電話出れる場所だったら出れるし、部屋に着いたら俺の方から連絡するよ。…電話は、それまで待ってもらった方がいいかな?…俺がかけるまで待っていてくれ。LANEならいつでも送ってくれていい。返信できるときはできるだけ返信する。……偶には、一日一人ってのも少しは気分が変わっていいんじゃないか?」

「よくない…」とタキオンは田上の首筋に鼻を擦り寄せながら言った。田上は、そう答えられるのを予想していたので、苦笑してからまた口を開いた。

「退屈だったらマテリアルさんを呼んで話とか、…トランプとかしてていいから。マテリアルさんもいいって言ってた。…別に、マテリアルさんじゃなくても、カフェさんとか、アルトさんとか、ハナミさんとか、デジタル君の方も忙しくなかったら遊んでくれるんじゃないかな? …それに、あんまり体が落ち着かないって言うんだったら、自主練しててもいいよ。自主練するんだったら、一応…マテリアルさんか俺に連絡は入れておいてほしい。俺の方に来たら、マテリアルさんの方にも言っておくから、そのうち来ると思う。ただ、あんまりオーバーワークはやめろよ? それが宝塚記念に響いちゃうと不味いから」

 田上は、そこで一息ついて、タキオンの髪を撫でてからまた口を開いた。

「勝負服は忘れるなよ? …今回から、ホットパンツを履くって話だったよな?」

 タキオンは、田上の腕の中でうんと頷いた。

「じゃあ、いいや。…勝負服は忘れないように。それから、……今回はお義父さん方は来るのか?」

「………母さんだけ来るって言ってた…。…父さんは仕事…」

「じゃあ、また挨拶しよう。……伝えることはそれくらいだったかな? ………うん。…多分ない。…よし、じゃあ行こう。……シャキッとしな。一日会えない分、その次の日がより楽しみになるってもんだよ。…大丈夫。俺が事故にあったりもしないし、通り魔に突然刺されることもない。明後日にはいつものように会えるよ。……よし、じゃあ、本当に行こう。エスさんたちももう居るかもしれない。…よしよし、大丈夫。さあ、行こう」

 田上はそう言って、床に置いてあった荷物を取って、肩にかけると、足の鈍いタキオンをなんとか引っ張りながらドアを開けて、廊下を歩いていった。

 

 田上は、待機しているバスの、そのまた前で待機している人の群れからマテリアルとエスとリリックを見つけて、やぁと声をかけた。田上の後ろにはタキオンが引っ付いていて、田上はさも歩きにくそうに、マテリアルたちの方へやってきた。

 マテリアルたちは、タキオンがこんな様子であるのは見慣れていたので、少しは心配して気にかけながらも、大した気配りはしないで田上といくつか言葉を交わした。時間には余裕を持って到着したので、まだバスに乗り込むまで十数分ほどあった。その間に、マテリアルは、遂に我慢していた言葉をしきれなくなって、タキオンを見ながらこう言った。

「この子は朝からこんな感じですか?」

「ああ、はい。一日だけなんですが、寂しいと」

 そう言われると、マテリアルは、呆れたような目で田上に目配せしてから口を開いた。

「このままついていくって言うんじゃないですか?」

「…多分、大丈夫だと思いますけどね。流石に、寂しいって言っても、一日だけだったら余裕で我慢できると思いますし、多分、覚悟もちゃんと決めてきてると思いますよ」

 田上は、後ろにピッタリと張り付いて離れないタキオンの姿を確認しようとしながら言った。その後に、タキオン唐突に田上を抱きしめていた右手を動かして、その手を田上の喉仏へと向けた。それから少し主張するように、田上の喉仏を触り始めたから、田上もマテリアルも苦笑した。

「話さないでほしいってことみたいです。ちょっとこの輪から離れたところで少し話をしてきますね?」

 田上は、そう言ってから、人の群れから少し離れたところまでタキオンを引き連れていった。タキオンは、とぼとぼと田上の後ろにくっ付きながら、ペンギンの様に歩いて行った。

 田上は、人から離れた所で、タキオンに「離れてくれないか?」と呼び掛けた。タキオンは、それでも中々離れようとしなかったが、最後の時間くらい顔を見て話したいと言うと、タキオンは、ゆっくりと田上を抱き締めていた腕を解いた。そして、田上は、タキオンに向き直ると、その顔を見つめた。やっぱり、予想した通りの落ち込んで意気消沈した暗い顔つきになっていたから、田上は明るい声で言った。

「明日にはまた会えるんだから、元気を出しな。笑った方が可愛いんだから」

 タキオンはそれでも軽く俯いたまま顔を上げようとはしなかったが、そうすると、田上がタキオンに一歩近寄って、その頬に手を当てた。そして、口の端を親指で強制的に上げると共に、顔も上げさせた。口の端が上がると、少し元気が湧いたし、田上の顔を見ると、またもう少し勇気が湧いた。田上はタキオンの頬を親指で揉みながらこう言った。

「笑った方が可愛いよ」

「……口説き文句かい?」

「声も可愛い」

 田上がタキオンを褒め倒すと、タキオンもまた端から少し息を吐き出しながら笑った。田上もそれを見て笑顔になった。

「やっぱり、俺には勿体ないくらいの美人だ」

「…褒めて私の気分を良くさせてから行こうと?」

「気分悪いよりかは良い方が良いだろ? それに、事実だし」

「………私を騙すの?」

 これには、田上も少し眉を寄せたが、変わらずの励ますような明るい声で言った。

「俺が何もお前を騙したいって思って無いっていう事は、お前も分かってくれるだろ? …お前を励ましたいんだよ。…大丈夫。たったの一日だよ。死にに行くんじゃないんだから、必ず向こうで会える。…今は、話す時間がそんなにないからね。…あっちに行った時か、宝塚記念が終わった後にゆっくり話そう。…もうすぐ、夏だから長い休暇に入る。当分、何も気にしなくてよくなるんだよ…」

 田上がそう話していくと、次第にタキオンの顔も落ち込んで、俯いていったから、また田上はタキオンの頬に手を当てて、顔と口角を上げた。

「……俺、夏合宿に行く東北の所の景色が好きだよ…」

「………私より?」

 タキオンは、田上の心の核心を突いてきたので、田上は少し眉を寄せた。タキオンは、田上が野や山の風景や、過去と言ったものに思いを寄せている事を知っている。その上で、田上に聞いてきたのだ。

 田上にはどちらが上かなんて答えることはできなかった。タキオンもこの世で最も大切な物の一つだったが、それは、過去や野山も同じことだった。田上はどう答えようと思って、暫く困った表情で黙っていたが、やがて、タキオンの方が口を開いた。

「………悪かった。…悪い質問をした…。君が私の事を大切じゃないなんて思ってるはずがないのに…」

「………お前も充分に大切なんだよ……」と田上は絞り出すような声で言った。

 それから、バスの引率が呼び掛ける声が聞こえた。田上はもどかしくなって、タキオンの体をぎゅっと縋るように抱き締めた。タキオンは、田上が怖がってくれているのが嬉しかった。大切な物が去ってしまうんじゃないかと恐れて、それを手放すまいとしているその仕草、その力の入れ具合が堪らなかった。

 タキオンは、心の内に嬉しさを秘めたまま、じっと田上に抱き締められ続けた。このまま、もしかしたら、バスは自分たちを置いて行ってしまうのではないかと思ったが、不意に、田上の頭の中にマテリアルがどこかで話している「田上トレーナーは…」という声が鮮明に入り込んできた。

 そうやって、田上は現実に引き戻され、タキオンを抱き締めるのをやめた。遠くでは、チームのメンバーが気遣わしげにこちらの方をチラチラと見てきているのが分かった。田上は、今の一瞬で憔悴しきったような顔をしながら、タキオンの手を取ると、「愛してる」と伝えた。タキオンは頷いたが、少しの罪悪感が生まれた。自分に良いように使ってしまったかもしれないと思った。それでも、心に生まれた嬉しさははっきりとタキオンの脳内に記憶されていた。

 

 バスは田上とエスとリリックを乗せて、走り去っていった。田上は、今回は知り合いという知り合いもいないので、バスの中に一人で座っていた。田上のすぐ後ろの座席の方には、リリックとエスが乗っていて、リリックの方が窓際の席だった。

 走り去る際には、リリックとエスは身を乗り出して、見送りに来ていた友達とマテリアルとタキオンに手を振った。タキオンも一応二人に手を振り返してあげたが、その視線の大部分は田上に注がれていた。田上の方も同様だった。顔に朧げな笑みを浮かべながら、タキオンにばかり手を振り返していて、マテリアルの方は見もしなかったんじゃないかと思う。

 タキオンは、その田上の朧げな笑みを見つめながら、悪い事をしてしまったかもしれないと思った。つくづく、自分の言葉の軽薄さには嫌気の様なものがあったし、何か対処をしなければならないとも思っていた。ただ、田上に縋るように抱き締められるのは好きだった。

 田上が去った後に、マテリアルが話しかけてきた。「トランプをしませんか?」との事だったので、暇だし、付き合ってやることにした。

 一旦、部屋に戻った後に、デジタルが居たので、「君もやるかい?」と声をかけると、暫く迷った後に「やります」と答えてきた。だから、この部屋に集まってする事にした。三人でするのでは、トランプも何だかつまらないだろうと考えて、もう一人二人居ないかと、マテリアルが来る合間にタキオンは寮の中をぼんやりと歩いた。カフェ辺りが適当かとも考えたが、残念ながら見つからなかった。それに、カフェの方もトランプを知らない人とするのは嫌だろう。あまり知らない人が食事の席に同席するだけならまだいいが、一緒になって遊ぶとなると、また話は別だろう。

 そうやって、ぼんやりと歩いていると、丁度いい二人組みを見つけた。親友のアルトとハナミだ。丁度、もう一人遊んでいた人たちと別れる所らしかった。タキオンは、廊下を歩いてくる二人に声をかけた。

「やあ」

「やあ、タキオン。なんか用?」とアルトが答えた。

「うん。トランプしようと思ってね。三人じゃ少し寂しいから、もう一人二人欲しくて。どうだい?」

 タキオンがそう聞くと、アルトとハナミは顔を見合わせた。

「どうする?」とアルトが聞いた。「私は行くけど」

「んー、…タキオン、宝塚記念は?」

「明日出掛けるよ」

「じゃあ、ちょっとここ最近勝ちすぎている親友を、前哨戦でコテンパンにしておくか。これで私は、GⅠウマ娘に勝ったって事になる」

 ハナミはそう言うと、指をわざとらしくぽきぽきと鳴らした。タキオンは、それに微笑で応じた後に、また言った。

「二人というのは、デジタル君とうちのチームの補佐のマテリアル君なんだが、そこら辺は大丈夫かな?」

 アルトとハナミは顔を見合わせたあとに、ハナミは頷いたが、アルトの方がこう言った。

「むしろこっちの方がお邪魔だったりするんじゃない?」

「んー……、…マテリアル君は大丈夫だろうが……。デジタル君の方かな? デジタル君には聞いてなかった」

「どこでするの?」とまたアルトが聞いた。

「私とデジタル君の部屋」

「じゃあ、とりあえず、そこまで行こうや。そこでもし駄目っていうんだったら、まぁ、何も今日の予定はトランプだけじゃないから適当に退散するよ」

「じゃあ、そうしようか」と言うと、タキオンは二人の横に並んで、歩き始めた。そうすると、タキオンの左で、三人の真ん中に居たアルトがタキオンに言った。

「そう言えば、田上トレーナーの事はまだ好きなの?」

「ん? 好きだが?」

「いや、……タキオンってそんなに人の事を好きになる人だったんだなーって思ってさ」

「私も人だとも」

「そこが不思議なところなんだよ。まさかあのタキオンが人だったとは」

 アルトの言い方に嫌味がなかったので、タキオンは微笑しながら言った。

「ロボットか何かだと?」

「近しいね。とにかく、いや、歳上と付き合うのって凄いしね…。最近は田上トレーナーと喧嘩してないの?」

「……日曜に喧嘩はしたね…」

「ああ、だから、月曜休んだの?」

「…そう」

「仲直りしたの?」

「まぁ、できないこともない」

 タキオンの言い方があやふやだったので、アルトは少し驚きながら「仲直りしてないの?」と言った。

「ああ、することにはしたよ…」

「……まぁ、なんだ。…あんまり多くは言うまい。どうせ碌な事は言えないんだしな。……でも、恋バナに口は挟みたいからなぁ…。ハナミは浮いた話の一つも二つもないだろ? ……タキオンが一番ないもんだと思ってたんだけどなぁ……」

 アルトは、その後に続く言葉を言おうか言うまいかを、うーんうーんとずっと悩み続けながら、遂にタキオンの部屋まで行き着いた。アルトも滑稽なふりをしながら悩み続けていたから、タキオンも大してその話題について不快にもなりはしなかったし、アルトが少々言いづらい言葉を、滑稽なふりをしながら引っ込めているのだと分かっていたから、微笑したまま部屋に入った。

 

 マテリアルは、もう部屋に居た。タキオンが、アルトとハナミも仲間に入れていいかと聞くと、マテリアルは二つ返事だったが、デジタルは少し遠慮していた。マテリアルとは気心は知れずとも、おしゃべりな性格で、細かいことは気にしない人と分かっていたから、デジタルは部屋でのんびりと寛ぎながらトランプをする予定だったのだが、そこに知らない人たちを交ぜられると話は変わってくる。寛げないから予定が変わる。今の所、緊張しながらトランプする予定はなかったのだ。

 いや、アルトとハナミという人物の名前は勿論、タキオンの口から聞いた事があって、良い人だという事も知っていたのだが、急にとなると話は違う。デジタルは迷ったが、人が良いので、「良いです」と承諾してしまった。タキオンは、デジタルが迷い気味であることを察して、「本当にいいのかな?」と聞いた。デジタルはまた頷いたが、そう聞かれるとむしろ――アルトとハナミという人物がどういう人物か見てみようという気が起こった。そうでもしないと、その場を楽しめなくなりそうだった。

 マテリアルは、部屋に入ってきたアルトとハナミとタキオンを快活に迎え入れた。そして、タキオンのベッドにマテリアルとハナミが腰かけて、反対側のデジタルのベッドにはデジタル自身が腰かけた。そして、タキオンとアルトは、それぞれタキオンとデジタルの机から持ってこられた椅子に腰かけて、トランプがシャッフルされるのを待った。

 マテリアルは、トランプをシャッフルしながら、アルトとデジタルが話しているのを聞いた。デジタルは、アルトと打ち解けやすくするために、多少大袈裟なリアクションを取りながら、「ああ、そうです!」とか、「はい」と大きく頷いて見せた。

 それから、マテリアルがトランプを皆に順に配ってみた。まずは手始めにババ抜きからだったが、残念ながら、二枚揃ったものを置く場所が無かったので、それは床の上に捨てられることとなった。

 時間は、マテリアルから始まり、ぐるりぐるりと回りながら単調に進んでいった。タキオンは、一番初めに手札を失くしてゲームから上がることができたのだが、少なからず、運も絡んでいるはずなのに、何だかそれらしい貫禄を持って、余裕綽々でゲームの行方を見ていた。

 マテリアルは、それに少し文句をつけ、ちょっかいをかけてみたが、「それなら君が勝てばいいじゃないか」と上手くあしらわれた。他の三人は笑ってくれたし、タキオンもそう言った後にクスクス笑っていたので、マテリアルはこのトランプに誘った甲斐があった。田上が居なくなって寂しがっているであろうタキオンの気を紛らわすために、このトランプはなされたので、タキオンが笑ってくれればマテリアルには御の字だった。

 一ゲーム目は、ハナミがババを持って終了したから、ハナミの負けだった。これに、ハナミは悔しがって、「あと少しだったのに…!」と何度も頻りに言ってから、「もう一回!」と提案した。この場に居る皆、特にババ抜きに飽きてもいなかったので、ハナミの雪辱戦に付き合ってあげることにした。ちなみに、ハナミの最後の相手はアルトで、中々の接戦を演じていたのだが、最終的には負けていた。

 次のゲームもタキオンが一番乗りでゲームから上がった。マテリアルは、わざとらしく不正を疑ったが、タキオンは口元にを浮かべて、両手をひらひらと振ってみせた。当然何かあるわけでもないので、マテリアルは、適当にぶつぶつ文句を言いながらも、ゲームを続けた。

 ババは、マテリアルとアルトに渡って、二人の決戦となった。結果はマテリアルの負けだった。それも、先程のゲームの様にババが何回も行ったり来たりするわけではなく、二三回行ったきりで、アルトがマテリアルから『二』の数字を引いて、勝ち上がった。マテリアルは、余程根を詰めていたのか、自分が負けた瞬間に「はーー!」と大きな声を上げて、ベッドに倒れ込み、大きく息を吸ったり吐いたりしていた。他の四人はそれを見ながら、表情に笑みを作っていた。

 思えば、こうして、田上と離れてゆったりとしている時の方が、自分は焦ってもいないし、不安になってもいないので良いんじゃないかと、タキオンは思った。だからと言って、田上から離れたいわけではない。彼とは一緒に居たい。しかし、彼の傍に居る時の緊張感が無くなっているのも確かだった。

 彼に対して、決して嘘を吐きたいわけじゃないし、愛していないとも言いたくない。それこそ嘘だが、タキオンの愛の中にも嘘は混じっている。先日、嘘を吐くな、俺を騙すなと怒られたばかりだ。しかし、彼に対する愛の中に嘘を紛れ込ませれば、自分の心地が良くなるのも確かだった。

 ――嘘を吐いているから緊張しているんじゃなかろうか? とも思ったが、ではどうやって、彼に嘘をつかないで過ごせばいいのか分からなかった。水曜には、彼は、「愛に頼らないで話せばいい」とか、「自分の気持ちを伝える時の方が楽だ」とか言っていたが、実際、そういう事はどうすればいいのだろうか? 彼が楽だというのならば、もしかしたら、本当に楽なのかもしれない。しかし、実際、快楽を得るのならば、嘘を吐いた方がそれは得やすいのかもしれない。

 つまり、彼の方は気楽を取って、自分の方は、縋るように抱き締められるのが心地良いという快楽を取ったのだろう。勿論、また騙し続ければ、向こうもそれを敏感に察して怒るだろう。心は半分繋がっているようなものだ。彼の騙される痛みだって、こちらにも十分伝わるのだが、自分は満たされたかった。そして、田上が縋るように抱き締めてくれるその瞬間こそ、タキオンが満たされる瞬間だった。あの時の心地を思い返してみると、本当に心地が良かった。あれこそ、彼の言う「万力込めて抱き締める」なのではないだろうかとも思う。力はそうではなかったが、思いはそれに近しいかもしれない。もしかしたら、あの時彼は心の中で――行かないでくれ…、と唱えながら、抱き締めてくれていたかもしれない。いや、もしかしたら、自分が立ち去る瞬間を脳内に思い描きながら、それでも、現実に居る自分を放すまいと、あんなに必死に縋るように抱き締めてくれていたのかもしれない。

 ――この人には、私しかいないんだ。

 そう思うと、タキオンも嬉しかった。そして、その幸福な気分をもっと得たいと思った。

 そこまで考えが行った後に、目の前に神経衰弱のトランプが伏せられて、並び終えられた。自分も含め、皆床に座って、床に伏せられたトランプを見ていた。そして、マテリアルがタキオンに「あなた神経衰弱得意そうな顔をしてますね」と言ってきた。タキオンは、田上から縋るように抱き締められる幸福感をぼんやりと思い出しながら頷いた。それで、タキオンが、初めにトランプをひっくり返す事となった。

 

 タキオンは、トランプゲームの中でも神経衰弱などは得意中の得意だった。だから、ひっくり返されたトランプの中身も大概は覚えていた。マテリアルも多少頑張った方なのだが、それでも、今回はタキオンの圧勝となった。これには、皆勝つ見込みが薄かったので、もう一回しようという事にはならなかった。それどころか、タキオンが続けて何枚も何枚も引いて行くうちに、「ほぉ~」とか「はぁ~」とか感心する声が漏れていた。

 タキオンは、自分の圧勝でゲームが終わると、自分が所持している多数のトランプを得意気にマテリアルに見せびらかした。マテリアルは、最早文句をつける気も失せて、「駄目駄目、覚える奴はダメです。タキオンさんの一人勝ちになっちゃいますから」と言った。

 その後に、次を何するかを皆で悩んだ。皆、トランプゲームの種類というのはそんなに知らなかった。だから、デジタルは「七並べ…?」と恐る恐る提案してみたのだが、これはマテリアルに却下された。七並べは子供時代に散々遊んできたような気がするので、やる気が起きなかった。だから、マテリアルがスマホで、何かないかとトランプゲームを調べ始めた。その間に、アルトとハナミは、「次の試合で抜けるよ」と言った。

 マテリアルは、暫く悩んだ後に、『ダウト』というゲームを選択した。これは、皆が手札から、順番に一、二、三、四…、と伏せながら出していくゲームなのだが、当然シャッフルされているので、有る数字無い数字がある。そこで、嘘を吐かなければならないのだが、嘘を吐けば、見破る人も居る。嘘をいかにバレずに忍ばせて、他人の嘘をいかに見破るかが、この勝負の焦点となる。もし、嘘だと指摘して、場に出た数字が合っていた場合には、その場にあるトランプを間違った人が引き取ることになる。つまり、勝敗は、自分の手札を失くした者の勝ちである。

 デジタルがシャッフルをして、皆にそれぞれカードを配ると、早速ゲームが始まった。まずは、じゃんけんで勝った親のマテリアルからだ。そのじゃんけんに勝った際、マテリアルが勝ち誇っていると、タキオンから「まだ勝敗はここじゃないよ」と諭されて、一つ笑いが起こった。

 マテリアルも笑いながら、まず「一」と言って、カードを場に出した。皆、それぞれの表情を観察する時間が始まった。アルトなんかは、真面目気取って皆の顔を見つめだした途端に、クスクスと笑いだした。

 皆は、マテリアルの顔をじっと見つめた。だから、マテリアルは顔がにやけそうになるのを堪えながら、「初めなんですから、嘘なんて吐きませんよ」と言った。その後に、ふふふっと笑い声を漏らした。

 その次に、ハナミが「二」と言って、カードを場に出した。皆が、ハナミの顔を観察した。ハナミは頬を微かに紅くしながら、口元にあるニヤけ笑いを堪えた。アルトは、「嘘を吐いている顔だなぁ…」とハナミの事を怪しんでいたが、一巡目なのであまり深入りはしなかった。そして、実際にハナミは嘘を吐いていた。

 次に、タキオンが「三」と言って、場にカードを置いた。タキオンの隣に座っていたアルトは、タキオンの顔を覗き込んできた。タキオンは、ピクリとも口元を動かさずに、無表情のままアルトの顔を見つめ返した。アルトは、それを暫く訝しんで見た後に「君が、無表情の方が怪しいんだよなぁ」と言うと、その後に、声を張り上げて「ダウト!」と言った。嘘を見破る時の合図だ。それで、まだ一巡目なのにもかかわらず、一番上のカードが捲られた。すると、それはもれなく嘘だったから、タキオンは、表情を崩して、顔に笑みを浮かべながら、「そこで見破っちゃいけないんじゃないのかな?」と言って三枚のカードを受け取った。

 ゲームは中々進行しなかった。アルトやマテリアルが、見境なしにダウトと言い捲って、手札がその都度、元に戻ったり、アルトやマテリアルに集まったりしたからだ。その内に、アルトもマテリアルも、これでは勝てないと分かって、ある程度、抑えることにした。ただ、それでも、一番多くダウトと言ったのは、アルトとマテリアルだった。大抵は、他の人が怪しんでいる時に、先陣切って言ってくれたからだ。

 ゲームの進行中に、またタキオンがアルトに怪しまれる瞬間があった。タキオンは今度は、表情に微かな笑みを浮かべながら、「十」と言って、場にカードを出していた。皆、少々話疲れたり、笑い疲れたり、長時間トランプに集中している事に疲弊していたりしたのだが、アルトは、変わらずにまたタキオンを怪しんだ。

 タキオンは、今回は、嘘を吐かずに十のカードを出したが、アルトは、ジロジロとタキオンの顔を覗き込んで、その顔を穴のあくほど見つめた。それから、唐突に、微笑んだまま表情を崩さないタキオンに対して、「圭一君」と言った。その途端に、タキオンの表情にじわじわーっと笑みが広がっていき、堪えようと思った頃には、もう堪えられない程に満面の笑みになっていて、慌てて顔を伏せた。そして、そのすぐ後にアルトが「ダウト!」と叫んだ。結果は勿論誤りである。アルトは、相当な数の手札を貰ったが、タキオンの手札は残り僅かとなっていた。

 タキオンは、可笑しそうにクスクスと笑いながら、アルトに「その方法じゃ、嘘を吐いたか確かめるんじゃなくて、私を笑わせようとしているだけになっているじゃないか」と言った。

 アルトは、ニヤニヤしながら自分の手札の多さを眺めた後に、「そう言ったら面白いんじゃないかと思って」と答えた。タキオンはさらにくすくすと笑った。思いがけない所から、恋煩いの彼氏の名前が出てきて、タキオンは嬉しかったのだ。

 アルトは、それを察して暫くニヤニヤししながらタキオンを見つめていたが、タキオンは笑い終わった後も尚、その嬉しさの余韻を引きずって顔に笑みを浮かべていたので、アルトの視線には気が付かなかった。そして、他の皆も漏れなくタキオンとアルトを笑いながら見つめていたし、タキオンについては、最早可愛らしく思っていた。

 

 ゲームはタキオンの勝ちで終わった。皆終わってほしかったし、結局、ダウトと言ったところで、タキオンは正しいトランプの番号を最後の方に揃えて持っていたので、他の皆に勝ち目は無かった。

 アルトもハナミもやる事があるので立ち去って行ったが、ハナミは「私がコテンパンにやられただけなのでは?」と訝しげだった。実際、タキオンが全てのゲームで勝っていた。それから、デジタルも自分の趣味やらやらなければいけないことに取り掛かって、トランプの前にはタキオンとマテリアルだけが残った。マテリアルが「スピードしましょう」と言ったので、付き合ってやることにした。

 スピードは、それぞれの前に、数字が見えるように四枚のトランプ並べた後に、またそのタキオンのカードとマテリアルの中間に、二枚並べて遊ぶゲームだ。そして、四枚のカードから中央の二枚に書かれた数字の前後を選んで重ねて行く。二人はそれぞれ、赤色と黒色で分けた山札から、その四枚の場にカードを補充していくので、最終的には、山札の方がなくなれば勝ちである。

 これは、流石にタキオンの運も尽きたか、中々の接戦だった。そして、ゲームスピードも早いので、四五回繰り返して遊んだ後に、勝敗は、タキオン二、マテリアル三で、マテリアルの勝ちとなった。この頃にはもうタキオンもトランプに飽きてしまって、最後のゲームが終わった途端に、自分のベッドに寝転がった。そして、「圭一君、今何してるかなぁ…」と物憂げに呟きながら、スマホを覗いた。向こうから連絡は来ていたのだが、なぜだか、通知の音は聞こえてきていなかった。それで、タキオンが訝しんで、スマホの設定を見直すと、マナーモードにしていた事をすっかりと忘れていた事に気が付いた。

 田上は、言ったようにちゃんとまめに連絡をくれていた。『今、空港に着きました』から、『大阪の方にやってきました』とあり、リリックとエスの二人の教え子の後ろ姿の写真も送られてきていた。そして、最新のものは『部屋に着きました』だった。たった三分前だったので、タキオンは電話しようか迷ったが、ここで、マテリアルに二人の会話を聞かせたくもないので、タキオンは単純にメッセージを送った。

『旅はどうだった?』

 タキオンのメッセージはすぐに、既読の二文字が横について、また、向こうからのメッセージもすぐに帰ってきた。

『順調だったよ』

『今までマテリアル君たちとトランプをしてた』

『へー? 他の人も居たの?』

『マテリアル君とデジタル君とアルト君とハナミ君と私で、神経衰弱とか、ババ抜きとか』

『良かったね! 楽しかった?』

『楽しかった』

 ここで、田上が『いいね!』と文字のついたスタンプを送ってきたので、タキオンは、田上が話を打ち切ろうとしているのかと思った。けれども、まだ話したかったので、田上を引き止めるようにこう送った。

『君に会いたい』

 また、田上がちゃんとタキオンとのやりとりを続ける気があって、メッセージを送ってきた。

『電話する? できるよ?』

『マテリアル君がいるから、あんまりしたくない』

『了解』

 そう送られてくると、話が終わるような気がして、タキオンは嫌だった。スマホの画面越しだと、どうも話が続かない。殊に、文字だと続きにくいような気がする。また、繋がりというのも希薄になる。繋がっているのは、連続してメッセージを送り合っている時だけで、一旦言葉が途切れてしまうと、向こうに相手がいるのか分からなくなってしまう。

 これが、向かい合って二人で居れるのならば、沈黙も一つの遊びになるが、文字だけではそうも行かない。電話はまだ文字通り繋がっていて、相手も電話に気を引かれていることが、そのスマホの状態として確認できるが、文字だけではそうではない。そうすると、――相手が画面を見ているのならば、それが確認できる印でもつければいいのでは?と思ったが、LANEにそういう機能はないので仕方がない。だから、タキオンは田上の気を引くように、こうメッセージを送った。

『寂しい』

 そうすると、やっぱり、心優しい彼氏はスマホの前で待っていて、ちゃんとメッセージを送ってきてくれた。

『明日には会えるよ』

『私の事だけ考えて』

『大丈夫だよ(≧∇≦)b。お前の事を好きじゃないときなんてない』

 タキオンは、らしくない顔文字まで使って慰めてくれる彼氏をありがたく思ったが、同時に、その言葉の裏にある嘘を読み取った。しかし、これは慰めるしかないから出てくる嘘である。つまり、自分がその言葉を引き出しているようなものなので、一概に彼を責めてもどうしようもなかった。

 タキオンは、少しの間、返信する言葉に迷ったが、やがて、『ありがとう』とだけ送っておいた。ただ、これだけでは、二人のやり取りは終わってしまう。向こうの方も、LANEでは結局用件を伝えるくらいでしか使わないので、どうしても、言葉は淡白になるし、簡潔になるし、長続きしない。そもそも、話題を探そうとしないのだ。彼が悪いというのではないのだが、文字だとあまり喋っている気がしないからなのか、あまり大したことを聞こうとはしない。それはこちらも同じなのだが、どうも心の矢印がお互いの方に向き合っていないような気がする。こっちは、こんなに彼の事を思っているというのに、彼の方は私の事なんてどうでも良いと思っているのだろうか?

 そんな事を考えながらも、マテリアルが何か適当に話しかけてくるので、タキオンはそれにまた適当な生返事を寄こした。それでも、マテリアルが帰ろうとしないのは、タキオンが人と喋れば気が紛れると思っているのかもしれない。実際そうなのだが、タキオンは、今は田上とのやり取りに集中したかったから、できれば、マテリアルには居なくなってほしかった。ただ、気が紛れるのも事実なので、マテリアルが話しかけてくる分だけ生返事を放って寄越して、自分は田上にメッセージを送った。

『私の事愛してる?』

 迷った末に、くだらないと思いながらもそう送った。こうすれば、田上は必ず振り向いてくれるというのをタキオンは知っていた。無論、どんな言葉を送っても振り向いてくることは確かなのだが、こう言ったほうが、心配や気持ちをより多く傾けてくれるから、この言葉を発した。

 案の定、田上は、ちゃんとしたメッセージを送ってきた。

『心配しないで(#^.^#) 一日離れたくらいで浮気する男じゃないよ』

 また、らしくない顔文字を使ってきたな、と思いながら、タキオンは少し嬉しそうに微笑んだ。その間もマテリアルは、話しかけてくるから適当に返事をしておいた。

 彼は、自分を楽しませるためにこんな顔文字を使ってきたんじゃないかと思った。それなら、大成功だった。今、タキオンは、この顔文字が嬉しくて嬉しくて仕方が無くなっている。だから、悪いと思いつつも『そうかな?』と送ってみた。これで、向こうを疑うのはやめようと思った。あんまり無闇に疑って、向こうから怒られるのはただの信頼を損なう行為でしかない。

 田上は、またこうやってメッセージをタキオンに送った。

『そうだよ(´゚д゚`)!? 疑ってるの!?こんな健気な彼氏を(TOT)』

 これは、もう完全に遊んでいるらしかった。――これで、私が本当に圭一君の事を疑っていたら、どうするつもりだったんだろう? と思いながらも、タキオンは表情に微笑を浮かべてメッセージを送り返した。

『ごめん悪かった。愛してるよ(´ε` )』

 無論、タキオンが考え出した顔文字じゃなく、スマホの変換候補にその顔文字が表れ出てきたから、悪ふざけとして送ったものである。

 そして、田上の方もその悪ふざけに乗ってきた。

『俺も愛してるよ笑(´ε` )』

 そうやって、タキオンが顔に笑みを浮かべていると、マテリアルが「田上トレーナーと何話してるんですか?」と聞いてきた。マテリアルは、もうすでに、タキオンにメッセージのやり取りの相手の正体を聞いていたので、それが田上だということは知っていた。

 タキオンは、マテリアルに「ひょんな事だよ」と適当に言ってあしらった。マテリアルも会話の中身は知られたくないのだろうと察して、それ以上踏み込まなかった。

 タキオンは、また、田上にメッセージを送った。不図すると、また、田上の気を強引に引く言葉を吐きそうになったので、気を付けなければいけなかった。

『もう一回言ってみて』

『愛してるよ(´ε` )』

 タキオンは、先程と同じ言葉を繰り返されただけにも関わらず、嬉しくなって、また顔に笑みを浮かべた。

『私も(´ε` )(´ε` )(´ε` )』

 最早、現実でのキスの疑似プレイのような気がしてきたが、そんな気分でも、味わえないよりかは、味わえたほうがタキオンは良かった。それで、タキオンはまた『もう一回』とせがんでみた。

 ただ、流石に今回は飽きてしまったのか、顔文字はなしの『愛してるよ』だけだった。タキオンはこれにがっかりしたが、それでも、一方的にでも愛をぶつけたかったから、キスの顔文字だけを大量に送っておいた。

 自分の冗談交じりの愛は、冗談として消化される他なかった。文字だけで、真面な話はできないのだからしょうがない。

 次に、田上から『ありがとう』と送られてくると、それ以降のタキオンの返信には全く既読の文字も、それへの返信も来なかった。用事を済ませに行ったのかもしれないが、タキオンは裏切られたと感じた。こちらは、こんなにも向こうのことを思っているというのに、向こうはこちらのことなど微塵にも思ってくれていない。やっぱり、私は彼の遊び相手だったんだ。彼は、本気じゃなかったんだ。

 そういうことを、苛つく心のなかで考えた。なにも、これを本心で思っているわけではない。ただ、彼の事を裏切り者と決めつけて、徹底的に糾弾したかった。そして、無惨にも打ち砕かれて、泣いて、消沈している彼に縋られたかった。捨てないでくれと言ってほしかった。そうすると気は紛れるだろう。自分は、心優しく彼を支配するのだ。彼の身も心も自分の物になるのだ。彼の我儘なんて許されない。自分は、彼と共になんの苦しみも痛みもない世界へ導いて貰うのだ。そして、そこで、この世で最も幸福な人間が得ることになる、この世で最も幸福な感情を得るのだ。

 そう考えた所で、我に返った。そんなことをしたら、彼は間違いなく自分を軽蔑するだろうと思った。そして、冷たい目で自分を見捨てるだろう。タキオンは、急に彼の事が恐ろしくなった。自分は悪の大王に支配されているのではないかと思った。それでいて、彼は、優しい彼氏の側面を持っていた。

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