マテリアルは、初め床に寝そべっていたのだが、デジタルの勧めで、今はデジタルのベッドに腰掛けて、タキオンに思いついたことを適当に話しかけたりしていた。それが急にタキオンの顔が険しくなったものだから、マテリアルも少々驚いた。それで、田上との何かで何かが起こってタキオンの顔を険しくさせたのだと解釈をすると、「田上トレーナーとのやり取りは終わったんですか?」と聞いた。いきなり「田上トレーナーと喧嘩でもしましたか?」と聞く道理はない。それは却って向こうを怒らせるだけだ。
タキオンは、そう聞かれると、じろりとマテリアルを睨むように見てきた。それから、目を空中の方に泳がせて、何かを考えている表情となった。マテリアルは、その表情から、当然ではあるが、何か楽しくない事でも起きたのだろう、と察した。しかし、どう話しかけようかと思った。今日一日くらいは、女友達として、友達の片割れである彼氏が居なくなった寂しさを産めてやろうと考えていたのだが、そうそう簡単に、彼氏の事から頭を引き離せるのでもない。他の友達がわいわいがやがやと話している頃は良かったかもしれないが、やはり、一人では集中できない騒々しさを醸し出すのにも無理がある。
少々、自分の無計画さを阿保らしく思ったが、今は、目の前に居るタキオンだ。この子と言えば、彼氏の事が好きで好きでたまらない様子だが、下手な口出しをすると、こちらが怒られてしまう。そして、また、同時に塞ぎ込んで口を利かなくなるだろう。このような気難しい女子高生相手に何を話せばいいのだろうか? ただ、月曜の時は、成り行きで話が通じるようになったし、ここ最近は、自分の言動に対して少し寛容なところもあったから、マテリアルは思い切ってこう聞いてみた。
「また、田上トレーナー絡みですか?」
生返事ばかりのタキオンと会話を続けようとして頑張って、少し疲弊気味でもあったが、できるだけ表情と声色は明るくしてみた。それでも、普段より明るいかと問われれば、普段よりも幾分真剣な面持ちだった。
タキオンは、またマテリアルの顔をじーっと見つめてきたが、やがて、ため息を吐いてから、気怠そうにのろのろとベッドの上に体を起こした。そして、これまた気怠そうに首を傾げながら、マテリアルに言った。
「君は男は好きかい?」
「……今の所は…」
「………君は、……私が圭一君と別れると言ったら、圭一君を好きになるかい?」
「………さぁ?」
マテリアルは、実際にどうなるのか分からなかった。もしかしたら、好きになるかもしれなかったし、特に好きにならないかもしれなかった。ただ、少なくとも、好きになるという選択肢が頭の中にチラついていたから、マテリアルはその事を押し隠するのに必死だった。
タキオンは、マテリアルの心を見通すような目で、マテリアルのパチリと開かれた目を見つめてきたので、マテリアルは、少しの間タキオンと睨めっこをしていたが、やがて、目を耐え切れなくなってふいと逸らして、「好きになりませんよ」と言った。
タキオンは、目の前の女が案外強敵になりうるかもしれないと思った。今の言動や表情を見ている限り、女としての恋心をマテリアルが抱かなくはないかもしれない事を察した。それは、初めに、返答を誤魔化したので分かる。もしかしたら、好きになるかもしれないという選択肢が、僅かなりともあるかもしれないという事だ。これが、自分の恋心に気付くとか、目覚めるとか、暴走するとかしたら、タキオンの立場も危ういかもしれない。彼女は何と言っても絶世の美女だ。そして、こっちは、走ること以外には何の取り柄もないただのウマ娘だ。勝ちの差は歴然だろう。その上、自信もないときてる。
タキオンは、一瞬参りそうになって、おでこを髪の隙間からぽりぽりと掻いたが、次には、圭一君が私を裏切るはずもないと思って、不確かな安心を得た。そして、マテリアルが話しかける前に考えていたことに思いをはせた。
田上が悪の大王で、自分を支配しているかもしれないという事や、自分が彼を支配しているという事だ。そういう事を真面に考えようとすると、頭が参りそうになった。マテリアルに話しかけられて、多少気が紛れたから良かったのだが、あのまま悶々と考え続けていくと、自分が参ってしまう。
タキオンは、早く圭一君に会いたいと思った。早く圭一君に会って、色々な事を話したいと思った。騙してごめんとか、許してほしいとか、自分が果たして圭一君にふさわしい存在なのか、あくどい女だったりはしないのだろうかとか、色んなことを聞いて、共に考えたかった。
――そうだ。今、自分には共に寄り添って考えを共有してくれる親しい人物が必要なのだ。
タキオンはそう思った。そして、そういう人物は田上しかいない。田上こそ、自分の心の内の赤裸々まで語れる人物だ。例え親だとしても話せない事を、自分は田上に話すことができる。
タキオンは、隣に座る田上の存在を切に願ったが、そうもいかないので、とりあえず、マテリアルに気の紛らわしにこう言ってみることにした。
「私は、圭一君に相応しい人間だと思うかい?」
「…相応しい人間…?」
「…そう。……どう思う?」
「……まぁ、……いいんじゃないですか?」
「……どういう理由で?」
「んー……、田上トレーナーがあなたの事を好きだと言っているから?」
「………君、家事は?」
「家事?」
「そう。料理洗濯掃除とか、家の中の事」
「……そりゃあ、…ある程度はできますがね?…」
「…私はできない」
「…初めから誰でもできるもんでもないでしょう?」
そう田上から言われた事と同じことを、マテリアルに言われると、タキオンは、少しの間俯いてから呟くように言った。
「圭一君と話をしたい……」
「電話とかができるんじゃないですか?」
「……分からない。…連絡はまめにするって言ったけど、もう一時間くらいなんにも来てない……」
「一時間?…そりゃあ来ませんよ。メンヘラ彼女なんですか?あなたは」
「メンヘラ?」
「……厄介な女って事です。LANEを少しの時間で何件も何件も送ったり、彼氏を束縛したがる女の事です」
そう言われて、タキオンも自分がいつの間にか、何件か田上の気を引くような文言を送っていたことに気が付いた。流石に、いつかの創作か御話かで見たLANEを何百件も送る様な女ではないが、それでも、短い時間に十数件のLANEを送りつけた。そこで、――不味いな、と思った時にはもう遅かった。自分の発言を取り消す暇もなく、タキオンのスマホがピロンと鳴って、恐らく田上からのメッセージが入ったのではないかと思われる。タキオンは、おもむろにスマホを取り上げると、マテリアルとの話を中断して、メッセージの中身を確認した。
それは、やっぱり、田上からのメッセージだった。
『エスさんたちにここら辺の行ける所を案内してたら遅くなった。寂しくさせてごめん』
せっかく、田上を許してやろうと思った矢先に、他の女と遊んでいたと報告されると、タキオンもいい気はしなかった。そうやって、微妙な表情でスマホを見ていると、マテリアルが聞いてきた。
「それ、田上トレーナーからでしたか?」
タキオンは、マテリアルのことをじっと睨むように見てからこう言った。
「………これ」
そして、スマホをマテリアルにかざして見せようとしたが、間一髪の所で、自分の醜態がこのLANEの中にあるのを見せびらかす事を阻止した。勿論、寂しいとか一緒に居たいとか、そんな事は普段マテリアルが居る時でも言っていたのだが、メンヘラ彼女と言われた後に見せるのでは少し話が違う。
多少の後ろめたさと、マテリアルに、それ見た事かという顔をさせないためだ。タキオンは、「やっぱり」と言って、マテリアルを制すると、適当に要約して読み上げた。
「圭一君が、エス君たちにホテル周辺の案内をしていたそうだ」
「へぇ。…私も知らせてくれるんでしょうか?」
「……二人きりでは行かせないとも」
タキオンがそう牽制を仕掛けたのを、マテリアルは鼻で笑って、「毛頭です」と答えた。そして、暫しの沈黙の後に、タキオンは田上にメッセージを返信した。
『私の事だけ考えてって言っただろ?』
『マテリアルさんはまだ居るの? タキオンと電話したいんだけど』
タキオンは、田上の方から電話をしたいと提案してきたのを嬉しく思ったが、残念ながら、同じ部屋にタキオンの事を見つめてきているマテリアルが居た。
『まだ居る。できない。でもしたい』
『タキオンが良いんだったら、俺は良いよ?』
『良くない。でも、私の事だけ考えて』
『自分の主張ばかりしてると良くないよ』
タキオンは、これにバツが悪そうにおでこを少し掻いたが、こう送り返した。
『分かってる。でも、君に会いたい』
『俺も会いたいけど、一時の我慢だよ。明日、ホテルの方に来たら、レース場の控室の方に来てくれ。多分、そこで会える』
タキオンは、この文面を読んで、田上と再開する瞬間を想像したが、同時に、――男は何て淡白なんだろう? と思った。女が幾ら男の事を想っていても、振り向いてこようとすらしない。必ず、次がある、次がある、だ。女の求めている所はそこじゃないのだ。もっと、自分を包み込んでくれるような、抱擁してくれるような、感情に訴えかけてくれるような行動をしてほしいのだ。言葉じゃなく、行動なのだ。そこの所を圭一君は良く分かっていないから、言葉で諭そうとしてくる。無論、タキオンだって言葉の大切さくらい心得ているつもりだが、行動だって同じくらいに重要だ。向こうは、自分を何だと思って行動しているのだろうか? 体の良い彼女だとは思ってないだろう。すると、聞き分けの良い彼女だろうか? 田上は、そちらの方向に自分を持っていきたいと思っているのかもしれないが、そう簡単に変わるものではない。全力で抵抗してやろうと思って、タキオンはまず手始めに、マテリアルの方にこう言った。
「男ってのは淡白だね?」
「田上トレーナーですか?」
「うん。……会いたいって言ってるのに、――明日には会える、だよ」
「仕方ないじゃないですか。明日にしか会えないんですから」
「普通は、飛んでくるのが男ってもんじゃないかな?」
「今、あなたが、――男って淡白だね、と言ったところじゃないですか」
タキオンは、見事にマテリアルに論破されてしまったが、それでも諦めきれずにこう言った。
「じゃあ、淡白にしろ淡白じゃないにしろ、彼女の事を本当に思っているのであれば、飛んで戻るとか、仕事をそっちのけで彼女の所に駆けつけてあげるべきじゃないんじゃないかな?」
「恋愛ドラマの見過ぎですよ。あなたが、病気っていうのなら、田上トレーナーも多分戻ってくるでしょうが、病気でも何でもないんだったら、戻ってくる理由はないんですよ。仕事には、二人の生活がかかっているんですから、金が無くちゃまず何も成り立たない」
そう言われたタキオンが、じっと一点を見つめて考えているのを見ると、マテリアルがまた言った。
「それで、病気のふりをしてみようってのが、メンヘラです。リストカットでもなんでもして、彼氏を心配させてみますか?」
マテリアルが、ずばりタキオンの考えを当ててきたので、タキオンは鬱陶しそうな顔をしながら、マテリアルの方を見た。そして、次に田上とのメッセージ画面を見た。向こうからのメッセージがあって以来、返事は送って寄越してない。
――もしかしたら、心配しているんじゃないだろうか――自分から返信が無いのを気にしているんじゃないだろうか、とも思ったが、ああいう言葉の後に送る言葉をタキオンは持ち合わせていない。それでも、送ろうと思ったら、出てくるのは田上の気を引こうとするメンヘラ言葉ばかりだ。タキオンは、少々嫌になって、どうしようもなくなって、とりあえず、ため息をはぁ……と一つばかり吐いた。
タキオンは、田上の『一時の我慢だよ』という言葉に対して、こう返信をした。
『今会いたい』
すると、やっぱり、出かけているとき以外、彼氏は自分のことを気にしてくれていて、すぐにこうメッセージをしてくれた。
『俺だって、お前に会いたいけど、こればっかりは、望んだところでどうしようもないよ。明日になったら会えるんだから、明日を楽しみにしててくれ』
そのメッセージから、田上が自分に対して困っていることがありありと分かった。そして、タキオンはそれに対して、嬉しく思った。しめしめと思った。こうやって、圭一君が自分に対して困ってくれればくれるほど、圭一君は自分のことに対して気を遣わざるを得ないのだ。
タキオンは、脳裏にぼんやりと、自分が自分の手を使って、自分の彼氏を傷つけているのは分かっていたが、今更それが分かった所で止まれるようなタキオンではなかったから、またこう文字を打った。
『君はまたそうやって、私を言いくるめて良い気になっているんだろ?』
その後に少し迷ったが、こうも付け加えた。
『私のことなんて好きでもないくせに』
田上の返信はそれから三分経ったあとに来た。
『そんなことはない。俺の気持ちも考えてくれ』
タキオンが後悔した時にはもう遅かった。タキオンがいくら『ごめん』とか、『許して』とか送ったところで、田上はうんともすんとも言わなくなっていた。
そうやって、タキオンが後悔のために、大きな大きなため息を吐くと、マテリアルが時計を確認してから、「もう昼食ですよ」と言った。タキオンは、それで、田上が昼食に出かけただけかもしれないと思ったが、やっぱり、メッセージを見返してみれば、自分が向こうを傷付けたのは明確だった。
タキオンは、自分の愚かさに腹が立ちながらも、表では落ち込んで、マテリアルに導かれながらカフェテリアに、デジタルと共に向かった。
果たして、自分が昼食を食べたのか分からないままに、タキオンはいつの間にか昼食を食べ終わってしまっていた。そして、ぼんやりと部屋に戻って、スマホを取ると、マテリアルに田上とのメッセージを見せた。最早、身近に田上が居ない今、頼れるのはこの人しかいなかったからだ。
マテリアルは、難しい顔でそのメッセージの中身を見た後、苦笑をするとこう言った。
「そりゃあ、田上トレーナーだって、こんなことを言うでしょうよ。タキオンさんが、まるっきり自分の事を考えてくれていないんですから」
「向こうだって私の事を考えてくれていなかった……」
タキオンたちは、デジタルに悪いからと自分たちの部屋を出て、田上といつも座っていたあのベンチに腰かけて話していた。
「これで考えてくれないって言うんだったら、よっぽど贅沢な事ですよ。ちゃんと言葉を尽くしてから、明日を待とうって言っているじゃないですか。ご丁寧に絵文字まで使って」
マテリアルは、そう言ってから、少し小バカにするように、二人のやり取りが映し出されたメッセージ画面を見ていた。タキオンは、反論を少し考えてから言った。
「…………私の事を理解できてない…」
「理解? しているじゃないですか」
マテリアルは、さも当たり前の事を言っているような表情だったが、タキオンはそうではなかった。相手が自分の心情を真に理解しているという時、その相手は、自分とそっくりそのままの心情にならなければならないと思っていた。ただ、そんな事までマテリアルに言う義理もないと思っていたから、タキオンはじっと俯いて黙したまま、何も言わなかった。
そんなタキオンをマテリアルはじっと見つめた後、またこう口を開いた。
「どっちにしろ、向こうに嫌われたくないんだったら、あんまり乱暴な事を言うのはよしたほうが良いですよ。…嫌われたくないんでしょう?」
マテリアルが、そう聞いてもタキオンは何も返さなかった。だから、またマテリアルが口を開いた。
「………うん。…やっぱり、嫌われたいって言うんだったら、この選択は大正解かもしれませんがね。…まぁ、田上トレーナーも優しいですが、その内うんざりするかもしれませんね…。…………タキオンさんは、……嫌いになってほしいんですかね?」
マテリアルは、そう聞いたが、やはりタキオンは何の反応も示さなかった。タキオンの心はもう田上の方に定まっていた。明日、彼に直接会って談判してやろうと決めていた。マテリアルや他の人に話したって何の解決にもならない。やはり、自分を真に理解してくれている人は田上しかいなくて、自分の願いを真に聞き入れてくれるのも田上しかいない。きっと、話してくれたら分かってくれる。だってあんなに優しいんだし、彼女思いの良い人なんだから、仕事よりも彼女を大切にしないわけがあるだろうか? 今回は、自分の主張が彼に行き届き損ねて、残念ながら関西まで行かせるという結果になってしまったが、直接話せばきっと分かってくれる。きっと愛してくれる。何て言ったって、自分は彼の最愛の人なのだから。
タキオンは、こんな風に希望的観測を抱いて、明日会う田上を自分の方に振り向かせようとしていた。
タキオンが何も話さなくなったので、マテリアルはしょうがなかった。元より、マテリアルは、タキオンを振り向かせる術を持ち合わせていない。辛うじて持ち合わせているのが、あの彼氏と、タキオン本人の両親と言ったところだろうか?
詳細は知らないが、マテリアルはそんな所だろうと考えていた。こうなってしまえば、もうまず言葉を頭の中に入れようとしないのだからしょうがない。言葉を頭の中に入れてくれる気持ちでもあれば、まだ話は通じるのだが、こうなってしまえば、前述のように、タキオンが話を聞くのは田上か御両親だ。
まぁ、ここで自分が怒ってタキオンをここに置いて行ってもしょうがないので、マテリアルは、ベンチから降りて丁寧に刈られている芝生の上に横になって、そこに吹く草の匂いを嗅いだ。夏の近さを帯びた、湿気交じりの空気は、草の匂いによって少しは緩和されたかもしれない。
その内にマテリアルは、うつ伏せになって、草の上に居る小さな虫を見つけた。その虫が歩いて行くのを追っていると、蟻に行き当たった。その蟻をじっと見つめて、後を追って行くうちに、ベンチの下にある蟻の巣に行きあたった。だから、マテリアルは唐突にタキオンに「タキオンさん、ここに蟻の巣がありますよ」と呼びかけた。
タキオンは、体が怠くて動く気になれなかったが、多少の興味だけは湧いた。それだけではあったが、頭が田上から蟻の方に少し移ったので、体の怠さも少し忘れた。
タキオンは、マテリアルが言う蟻の巣がどこにあるのか確かめてみたいとうずうずしながらも動かなかった。その内に、マテリアルが起き上がって、特に何とも言えない真面目な顔で「蟻の巣埋めてきました」と言った。大分長時間蟻の巣を観察していたあとのそれだったので、――この人は大人になってまで何をしているんだろう? という目でタキオンはマテリアルを見たが、その目は先程よりも大分柔らかくなっていた。
マテリアルは、その横に座り直すと、うーんと伸びをしてからタキオンに話しかけた。
「田上トレーナーから何か連絡ありました?」
タキオンは、微かに首を横に振った。
「……うーん、……なにかやりたいこととかあります? …暇じゃないですか?」
「帰ってもいいよ…」
「……準備はしました?」
タキオンはまた首を横に振った。
「じゃあ、今の内にしておきましょう。私も一緒にするので、その内、田上トレーナーから何か来るかもしれません」
そう言って、二人はタキオンの部屋に向かったが、結局、その日の内に田上からの連絡はなく、タキオンは、彼を怒らせてしまったと落ち込んだ。
次の日の朝に起きてみると、タキオンはなんだか嬉しいような、嫌なような心持ちがした。相変わらず、田上からのメッセージは来てなかった。自分のメッセージは読まれていたようで、どうやら、そのメッセージの横に『既読』という文字はついている。
タキオンは、その二文字を見つめながら――どうしたもんか…、と思ってため息を吐いた。『俺の気持ちも考えてくれ』というのは、本当にそういう事かもしれない。口先だけの謝罪とか、言い訳とか、そういうのは受け取らず、もっと別の何かで伝えろという事かもしれない。別の何かで伝えろと言ったって、タキオンは文字だけでそれを伝える術は知らない。もしかすると、直接会って話してほしいという事なのかもしれないが、本当の所がどうなのかは、タキオンにもさっぱり分からない。ただ一つ分かっているのは、自分が今怒られているという事だ。
圭一君の事だから、向こうも本気で怒りたくはないだろう。むしろ、彼女に対して怒っているという事に苦しんでいるはずだ。そうすると、悪い事をしたとも思うが、それは向こうだって同じだ。男なんだから、彼女の事がこの世で一番大切なのは同じだろう。いくら、生活の為に仕事をしなければならないと言っても、そんなものを投げうっても彼女に愛を伝えるべきじゃないのだろうか?
タキオンの心の中では――いや違う、と反論する声があったが、それは聞こえないふりをした。聞いてしまえば、自分の欲望を満たせない事になってしまう。田上に、縋るように抱き締められなくなってしまう。
ただ、タキオンは、無意識の声に耳を傾けて、暫く迷うようにじっと固まっていたが、やがて、息を吐いて、出掛ける準備をした。結局、無意識からの声は聞こえてこなかった。
マテリアルの隣に座って、バスから外の景色を見た時、――圭一君は今何をしているんだろうかと思った。朝食はどうだっただろうか? この時間だっただろうか? それとも、午前中の組は、もうご飯を終わらせて、レース場に向かっていただろうか? そこら辺は、あんまりよく覚えていなかったから、タキオンはじっと窓の外を見続けていた。
――大体、まめに連絡すると言ったのに、先に裏切ったのは向こうの方じゃないだろうか?
これにも反論の声が聞こえてきそうだったが、タキオンはそれを無視して思考を続けた。
——向こうの方が先じゃなかったとしても、まめに連絡するという約束を破ったのだから、これは立派な裏切り行為だ。私じゃなかったら、嫌いになっていてもおかしくはない。それを、心優しい私だからこそ許してやっているのだ。彼が縋って私を抱き締めるように、彼にとって私は、この世にただ一人しか居ない、大切な大切な彼女なのだ。それを蔑ろにして、よくものうのうと仕事仕事と言っていられるものだ。ここらで一つ分からせないといけないのじゃないだろうか? 大切な彼女を蔑ろにして、よくも平気で仕事ができるね、と。なにかガツンと一言言っておかなければいけないだろう。
そう思った後に、また田上と喧嘩をするところを想像して、一瞬嫌だと思ったが、――いや、ガツンと言わないと向こうが私の事を蔑ろにしたまま、仕事を大事にする人間になるだろう、と思った。そういうのは今すぐ矯正してあげなくてはならない。彼女よりも仕事が大切な人間なんて、碌でもない人間に違いないのだ。私の大切な彼氏がそういう人間になってしまってはいけない。屑な人間になってしまう前に、何とか説得して、元の優しくて彼女思いの圭一君に戻してあげなくてはいけない。第一、こういう諍いは恋人同士にはつきものだから仕方がない。圭一君の少しばかりのダメなところも、私が許して、二人で改善の道へ持ってゆかなければならないのだ。
タキオンは、その後に――圭一君と喧嘩はしたくないなぁ、と思って、ため息を吐いた。
バスは、コンクリートの街並みを走り去っていく最中だった。
移動の間は、タキオンは、田上の事をずっと、初めから終わりまで悶々と考え込んでいた。そして、とうとう目的のホテルについた時はどうしようかと思って参ってきていた。この時になって、田上はタキオンに『もう着いた?』となんの気もなく送ってきた。――軽薄な男だ、とタキオンは一瞬軽蔑しかけもしたが、すぐに――軽薄にならざるを得ない、とも思った。元より、文字だけで伝えられる情報量などそんなにないのだ。軽薄にならざるを得ない。
タキオンは、少し迷った後に、お互い何もなかったような振りをして『着いた』と返した。その後に、田上はこう返信してきた。
『良かった。話したい事がたくさんある。昨日は無視してごめん』
タキオンは、――何を今更、と思って、憎々しげにスマホの画面を見つめた。そして、それに何も返信しない事を選択した。こうやって自分のした行為を思い返させた方が、あっちの身にもなるだろうと考えたが、その考えの中には、単なる仕返しの感情も含まれていた。
エスは、残念ながら二着だそうだった。マテリアルがタキオンに、バスの中で言ってきた。だが、残念ながらという割には嬉しそうだった。まぁ、出だしは好調かもしれない。皐月賞まで無敗だったタキオンには劣るが。
荷物を部屋に置くと、マテリアルはタキオンに「レース場に行きましょう」と声をかけた。この「行きましょう」というのは、半ば強制的な雰囲気を帯びていたが、タキオンであれば、断れそうでもあった。しかし、断るのも頷くのも何だか億劫だったタキオンは、まだやりやすい頷くという動作を曖昧にして、マテリアルの後について行った。
どうやら、リリックのレースには間に合いそうだからと、マテリアルはタキオンを引きつれて、足早にレース場へと向かった。レース場へは、ここからでも歩いて行けるほどの距離だった。
空は、灰色の雲の中からパラパラと雨が降ってくる天気模様だったから、二人共用意していた折り畳み傘を持って、外に出た。と言っても、傘が無ければびしょ濡れになってしまうという程降ってもいなかったので、二人共傘は差さずにレース場へ急いだ。
タキオンは、田上と相合傘をした時の事をぼんやりと思い出していたが、それ以上の会話とか出来事とかは特に思い出さなかった。ただ、あの時の肩を寄り添わせ合う幸福感が脳裏によみがえってきただけだった。
レース場近くになってくると、雨は強まってきた。だが、タキオンもマテリアルも、レース場がもう見える位置にあるのに、傘を開く必要もないと思って、開かずにそのまま速足に無言でレース場を目指した。
マテリアルが、控室の場所を知っていたので、タキオンはその後に黙ってついて行った。彼に会った時の第一声をどうすればいいのか、ずっと迷いっぱなしではあったが、ここまで来てしまった以上、もう後戻りするわけにはいかなかった。
そうして、二人は、漸く控室の方へと辿り着いた。田上の方はトイレでいなかったらしい。エスとリリックとマテリアルは、一日ぶりの再会を喜んだし、エスの二着も喜んだ。リリックの方には、マテリアルが満面の笑みで元気よく「頑張ろー!」と言ったが、リリックは、具合の悪そうな顔に力無く笑みを浮かべて、目を空中にうろうろさせ、気圧されたように笑うのみだった。
その内に、ドアを開けて、田上が困ったようにおでこをぽりぽりと掻きながら入ってきた。一番初めにタキオンと目が合った。その後に、田上が控室に目をうろうろとさせてから、「よう」と緊張し気味に言った。どうやら、タキオンが田上のメッセージを無視したことは、大分効いているようだったが、ここまで怯えられると、流石にタキオンも悲しくなって、涙が出そうになった。
マテリアルは、そんな二人を見た後に、苦笑しながら鼻からため息を吐くとこう言った。
「あなた方、やっぱり週一で喧嘩するんですね」
エスもリリックも、田上からその事を聞き出していたので、話の経緯は心得ていた。タキオンは、俯いて白い机を見つめた。田上は座る気にもならずに、控室の白い壁に背をもたれ掛けさせて、黙ってマテリアルと目を合わせた。マテリアルは、眉をけしかけるように少し寄せた後、また口を開いた。
「とりあえず、あなた方二人で話したらどうなんです? 話はそれからでしょう?」
——そうともいかない、と言うように田上は、顔をタキオンの方に向けた。マテリアルもエスもリリックもそちらの方を見て、二人の恋人の行方を静かに見守った。
また、マテリアルは田上の方を見て、表情だけで、――あなたが話しかけてください、と伝えた。しかし、田上にはどうも、タキオンに何と話しかけても上手く行かないような気がしてならなかった。また、話しかける勇気がどうしても湧かなかったから、遂に「俺、ちょっと疲れました」と言葉を小さくぶつぶつ曖昧に並べて、ドアを開けて部屋から出て行った。この部屋にいた全員、タキオンまでもが、――逃げた、と思った。
そうなってくると、話も変わってくる。田上が逃げたのであれば、なりふりは構っていられない。タキオンもそうだろうと考えて、マテリアルはこう言った。
「タキオンさん、あなた、仲直りしたいんでしょう? 仲直りするんだったら、今追いかけるしかありませんよ。…元々、あなたが蒔いた種なんですから、あなたが収穫しないと。私は、田上トレーナーの方に少し同情してますよ」
そう言われた数秒後に、タキオンは微かに首を横に振った。マテリアルは、眉をひそめた。そして、昨日の事を思い出した。
タキオンが、「自分の事を理解してくれていない」とか、「考えてくれていない」とか言っていた事だ。そういう考えが未だにタキオンの頭の中にあるのであれば、タキオンは、むしろ向こうが謝るべきだと考えているのかもしれない。マテリアルも流石にそれは横暴だろうと考えた。田上だって、健気にタキオンに尽くしていた。何も間違った事はしていなかったから、あんなに困って出て行ったのだ。流石に、田上が可哀想だ。
マテリアルはそう思った後に、机をタキオンの気を引く様にトントンッと強めに叩いた。そして、少し厳しい口調でこう言った。
「タキオンさん、あなたが追いかけるべきですよ。田上トレーナーは困ってるんですよ。レースの事だって色々考えなきゃいけないのに、あなたという恋人がいて、その人の事を考えなくちゃいけないから困ってるんです。……彼氏が仕事仕事言って少し寂しい気持ちは分かりますが、あんまり横暴な事言うのはやめてあげてください。田上トレーナーは、そんなに仕事にかまけてばかりで冷たい人間じゃありません。立派に、しっかりとあなたの事を考えてくれている上で、あなたは、それでも自分の事を見てほしいと言っているんです。いえ、見てほしいというよりも、自分の事以外を考えないでほしいとか、自分の事だけで脳内を埋めてほしいとか、そんな事です。そんなのはただの迷惑はメンヘラに過ぎませんよ。そして、そういう女の態度は必ず彼氏に鬱陶しがられます。程度の差こそありますが、タキオンさんのは明らかに、田上トレーナーの生活に対する妨害行為です。……今すぐ謝ってきなさい。そして、話してきてください。自分の心の事を。田上トレーナーだって聞く耳を持っていない人間じゃないんです。あなたがそう解釈をしているだけなんです。だから、今すぐ立ち上がって、ドアを開けて、田上トレーナーを探しに行ってください。ほら、今すぐですよ」
マテリアルは、そう言って煽るように机をトトトトトンと叩いた。タキオンは、それに焚き付けられると、マテリアルを憎々しげに見つめた後に、チッと舌打ちをしてから、乱暴にパイプ椅子をガタガタ言わせて、部屋から立ち去って行った。
マテリアルは、やっと終えた一仕事のあとに、同情でも求めるようにエスとリリックを交互に見つめて、ため息を吐いた。