ケロイド   作:石花漱一

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三十九、メイクデビュー・芝二千メートル・降雨⑥

 タキオンが廊下に出ると、田上の姿は案外そう遠くない所に見つけることができた。三十メートルほど先の自販機の前に突っ立って、悩ましげに顎に手を当てている。タキオンは、その姿を見ると、途端に、自分の中から怒気がしゅうと抜けていくのを感じた。ただ、その怒気の抜けた体には、迷いだけが残って、遠くの田上を見つめさせた。

 その内に、ここにじっとしていてもしょうがないと感じたので、タキオンは、田上が自分に気が付いて、何かアクションをとってくはしまいかと期待しながらゆっくりゆっくりと近づいて行った。しかし、そんな事が起きる事もなく、タキオンは、田上まであと二三歩という所まで来た。余程考えに熱中していたからなのか、それとも、タキオンが足音を立てずに来たからなのか、田上は、全くタキオンに気付かずに、ただ黙念と自販機の前に立って、一人寂しくジュースの並ぶ列を見ていた。

 タキオンは、田上の近くまで来た時にどうしようかと迷ったが、最後には、ただ、無言で横に立ってみる事にした。そこまですれば、田上も、隣に人がやって来たことに気付き、横を見れば、それがタキオンであるという事に気が付いた。

 初めは、どう反応すればいいのか分からなくて、田上はまた自販機の方に視線を戻したが、やがて、数秒したあとに再びタキオンを見て口を開いた。

「何か欲しいのある?」

 自販機に紅茶が置いてあった。タキオンは、それを数秒見つめて躊躇った後に、「紅茶」と一言で答えた。田上は、自分の物は買わずに、タキオンの紅茶を先に買って、手渡してきた。タキオンは、それを受け取って、「ありがとう」と呟くように言った。

 どうもぎくしゃくした雰囲気はあったが、今は、田上の心もタキオンの心も大分落ち着いてはいた。二人共、仲直りをしたいという気持ちを持って、そこに突っ立っていたが、依然として動かず、また言葉も交わさずに、ぼんやりと自販機を見つめていた。

 それから、また唐突に田上がタキオンの方を向くと、こう話しかけた。

「………俺の事、…まだ怒ってる?」

 タキオンは、数秒してから静かに首を横に振って、それから、「ごめん」と言った。田上は、自販機とタキオンを交互に二三度見た後、こう答えた。

「………お前って、…俺の事本当に好きなの?」

 遠くで、ドアが開閉する音が聞こえたから、田上はその音を気にした。この廊下は、案外声がよく通る。誰か見知らぬ他人に、痴話喧嘩など聞かれたくもない。しかし、タキオンは構わずに言った。

「好きだよ…」

「………本当に? …本当に好きな人間に対して、『私の事なんて好きでもないくせに』って言うの?」

「………君が、…君の事が、…好きだから…」

「…………俺は、……あんまり、誰かに道具にされるのは好きじゃない。……タキオンだって、俺がお前から離れるためにここに来たんじゃなくて、仕事の為にここに来たって事は知ってると思うんだけど…」

 タキオンは、微かに頷いて見せた。

「………じゃあ、尚の事、あのLANEは何? ………俺の事が嫌いなんじゃないかとしか思えないんだけど」

「…………今は違う……」

 そう言ったところで、またドアの開閉音が聞こえてきた。見ると、三四室向こうの扉が開いていた。それで、田上もここで悠長に話もできないと思うと、もどかしくなって、きょろきょろと辺りを見回してから言った。

「まぁ、お前の言いたい事もなんとなく分かる。俺もそんなには怒ってない。…タキオンはどう?」

「……怒ってない…」とタキオンは沈んだ声で答えた。田上は、少しタキオンの事を困ったように眉を寄せて見つめると、またタキオンの手を躊躇いがちに握ってから言った。

「話したい事たくさんあるのにさ。出先になってこういうことが起きる。…出先だから起きたのかもしれないけど。…とにかく、ちょっと声の通らないような場所まで行こう?」

「……時間は?…」

「……もう少しでリリーさんのお母さんが来るかもしれないけど、あと十分くらいは大丈夫。……あんまり聞きたくないかもしれないけど、…エスさんはよく走ってたよ」

 田上にしてみれば、自分の仕事が成功した良い報告だった。タキオンもそれは理解していたが、それでも、彼女からしてみれば、――なんで今そんな事を言うんだろう、という気持ちだった。

 

 田上は逸る気持ちを抑えながら、意気消沈しているタキオンと歩調を合わせて、どこか自分たちが静かに話せる場所はないかと探した。そうして歩いて行くうちに、人気のない裏口の様な場所で、雨がざあざあと降っているのを見つけた。そこを見つけた時には、もう五分ほど経っていたから、田上も少々困ってしまった。たった五分でどれくらいの事が話せるのだろうか? それでも、制限時間ギリギリまで話しておきたいので、とりあえず、田上は話し出した。

 雨は土砂降りだった。二人の声は近くに居れば聞こえるが、この狭い裏口にはざあざあと降る雨の音が大きく木霊していた。田上は、昼前に走らなければならないリリックを考えると、先行きを憂いたが、ここにもう一人考えなければいけない人物が、田上と一緒に壁際に座って、話し出すのを待っている。だから、田上はこう言った。

「………お前は、……もう少し、俺に優しくしてくれるとありがたいんだけどな…」

 タキオンは、黙って俯いたままだったから、田上は少々困りつつも、またこう口を開いた。

「……お前……、…お前がさ、…俺の事を道具かと思っているんじゃないかと思う理由ってさ、……お前が、俺の事を顧みないからなんじゃないかなーって思うんだけど、…どう?」

 タキオンは、暫く黙したままだったが、田上が次の言葉を話し出す前に、唐突に話し出した。

「…………君だってそう……」

「俺? …お前を顧みない?」

 タキオンは、コクリと頷いた。田上は、ため息まじりに唸ると、少し考えてから話した。

「そりゃあ、俺だってそうかもしれない。…………フラれてもしょうがないかもしれないって思いながら過ごしてはいるんだけどね……。……お前が好きって言ってくれるし、……好きって言ってくれるなら、できる限り付き合おうとは思ってる……。でも、……俺だって、そう思うんだったら、タキオンがなんで好きでいてくれるのかが分からない。……嫌いな人はフればよくないか?」

 タキオンは、また暫く黙した後にこう言った。

「…………君が私を好きでいるのと同じ…」

「んー……、同じ…。…ああ、……俺は、怒ってる時は、ちょっとお前の事を嫌いになってるかもしれないけどさ、……お前は怒ってても俺の事好きじゃない?」

「……そんなことない…」

「そんなことない……。…どうしたもんか……。…今は俺の事好きなの?」

「……少し…」

「…少し嫌い?」

「…少し好き…」

「んー………、俺はさ、……男だからかもしれないんだけど、……嫌いな人間はフればいいって思うんだよ。人付き合いとか、そんな事は関係なく、気に入らない人間が目の前に居るなら、追い返すか、自分が立ち去るか。そうすればいいと思うんだよ。そして、俺は、お前から見たら、俺の事は気に入らない人間なんじゃないかと思うんだよ。お前の我儘も聞いてやれない。お前の思い通りに動かない。そういう人間を気に入らない人間だと思うからさ、…俺は、…なんでお前が俺の事を好きでいてくれるのかが分からない…」

「………好きだから…」

「…好きだから……。…好きだったんなら、……LANEで…。……聞きたいんだけど、…俺のLANEは何が間違ってた? 言い包めるって言っても、寂しいとか会いたいとか言われたら、ああ言うしか、…『明日会えるよ』としか言えないと思うんだけど、…俺の言葉の何がダメだった?」

 当然、タキオンもあの時の苛つきを思い出してしまえば、ただのいちゃもんとしか思えなかったので、そういう自分の悪い所を田上に言うにもいかず、ただ黙して、俯いていた。隣の彼氏が困っているのが分かったので、タキオンは申し訳なかった。だが、わざわざ自分から、自分の悪いところを大切な彼氏に見せたいとも思わなかった。そうやって、自分の悪い所を隠すのも、自分の事を卑しい女だと思わせた。

 田上は、困ったようにタキオンの事を見つめた後に、またこう言った。

「………『好きでもないくせに』ってのは、……ただ苛ついたからだったりする…?」

 こう言われると、自分からその事を言うよりかは、頷く方が幾らか容易いので、タキオンは、静かに俯きながら頷いた。それを見て、田上は眉毛の端をポリポリと掻き、また言った。

「………苛つく度にそう言われると、俺も嫌な気持ちになるからなぁ…。……もう少し、俺には寛容な気持ちを持ってもらいたいもんなんだけどな……。……生き急いでるのも、一つにはあるかもしれないとも思うんだよな…」

 田上はこう呟いた途端に、田上のポケットにあったスマホがピロンと鳴った。マテリアルからのメッセージだった。

『リリーちゃんのお母様が来ました』とあった。

 だから、田上は、一応その人に会って話をしなければならない。それが、社会を生きる上での礼儀だろう。エスの両親にだって、こんにちはと挨拶をした。リリックの母にも挨拶をしなければならない。それが、この世で生きるという事なのだ。人は、人に触れずして生きてはいけないだろう。

 田上は、それをタキオンにも分かってほしかったが、今はそんな時間はなかった。話したい事はいつだって急に現れるのかもしれない。ある日ふと閃くとか、切羽詰まったぎりぎりの状態の中からそれが垣間見えるとか、状況は多々あるかもしれない。しかし、安寧の中に身を浸しながら、生きることに事欠きもしないで、死なない方法を探すというのはあり得るのだろうか。

 想像力のある人ならば、できるのかもしれない。ただ、その想像だって、生きることに事欠かない限りは、切羽詰まった物にはならない。結論を急ぐというよりは、切羽詰まることによって、より現実的に物を考えられるという事になるのだろう。今のタキオンは、切羽詰まっていないのかもしれない。田上が甘やかしすぎているからなのか、どうなのか。ただ、田上だって、できるかぎりタキオンとは別れたくないわけで、できるだけ彼女の心情には寄り添っていたいと思っている。

 田上は、タキオンをどうすればいいんだろうと思っているうちに、頭の中がこんがらがってきて、少々訳が分からなくなった。

 

 タキオンは、田上の言う事を素直に聞いて、落ち込みながらも、田上の腕に引っ付きながら、自分たちの控室に戻った。田上は、タキオンをこんな落ち込んだ表情のまま、リリックの母に会わせたくなかったのだが、そうも言っていられない。ここで、自分がタキオンを排除しようとしたら、それこそ仕事の事ばかり考えて、彼女の事を考えない男になってしまう。もとより、こんなチームだからしょうがない。リリーさんのお母さんに何か聞かれても、正直に答えようと田上は思った。

 田上とタキオンが部屋に入ってくると、リリックの母が、マテリアルと楽しく話しているのが見えた。マテリアルの方が、社交的な人間だから、そこには大いに助かっている。リリックの母の、今野恵(こんのめぐみ)は、部屋に入ってきた田上とタキオンを見ると、朗らかに「こんにちは~」と挨拶して立ち上がった。タキオンは、田上の手を握っていたが、状況を察して、手を解いてくれたのは助かった。

 今野さんは、立ち上がって田上の方に手を伸ばすと、「今野です~」と言いながら、田上と握手を交わした。田上も「田上です。これからよろしくお願いします」と頭を下げながら、挨拶をした。それから、二人は社交辞令の言葉を何度か交わした後に、田上がタキオンの方を紹介した。どうも、落ち込んでいる気分は抜けていないようだったが、それでも、口元に微笑を浮かべながら「アグネスタキオンです」と頭を下げて、今野さんの握手に応じた。

 小柄で小太りな今野さんは、タキオンを見ると、さも年来推してた大スターに会ったかのように顔を輝かせて、「あらま~」と言っていたが、今野さんがタキオンの事を然程知りもしないし、ファンでもない事は、娘であるリリックが知っていた。

 この母は、タキオンさんが好きと言うよりも、有名人が好きなのである。そう知りながらも、適当な事を言って、場を混乱させるのも面倒臭いので、リリックは半ば呆れながら、目の前に有名人が居る事に興奮している母の背中を見つめた。

 今野さんは、タキオンの事をじろじろと見ながらこう言っていた。

「あら~、やっぱり、テレビで見るのと、実際に見るのとじゃ違うってのは本当ねぇ」

「…ありがとうございます」とタキオンは、ただ単に愛嬌もなく頭を下げた。これでも、ついさっきまで物も言わないくらい落ち込んでいたのだから、よくやっているほうだ。

 この様子を、今野さんは、礼儀正しいと解釈したらしい。「思ったよりも、礼儀正しい方なんですねぇ」と言っていた。それから、自分の鞄の方に行くと、二枚の色紙を取り出して、田上とタキオンに両方差し出した。これにサインを書いてくれ、との事だった。

 タキオンと田上は、お互いに微笑み合って、心の内にある苦笑を分かち合った後、さらに手渡された黒ペンで、それぞれサインを書いた。田上も、たまにサインをねだられることはあったので、そういう時用に、自分のサインは用意してあった。こういうのを書く度に、自分は偉くなったものだと思う。十歳の時の自分に聞かせたら、小学生なりに喜んだり驚いたりするだろう。

 サインを書き終わったら、話は雑談へと移った。話は主に田上の事やタキオンの事、リリックの事、マテリアルの事、エスの事とその場にいる人たちの事を根掘り葉掘り聞いていて、それを話し上手のマテリアルが軽く言葉を交わして、田上も時折聞かれたらそれに答えるという形式になっていた。

 タキオンも田上と同様に、聞かれたことに対して答えるという形式を取っていたが、田上よりかは愛想もなく、ただ、田上の隣に黙然と座って、聞かれたことがあったら、俯いていた顔を軽く上げてそれに答えていた。これは、少々相手の目には礼儀を弁えていないと映ったかもしれない。そして、考えを改められて、――思ったよりも、暗くておどおどした子なんだな、と思った事だろう。ただ、今野さんも一先ずの礼儀は弁えていたから、タキオンのそういう様子や、二人が初めに入ってきたときに手を繋いでいたことも触れずに、マテリアルやリリックと話を進めていた。

 途中で、今野さんが田上の方に「うちの子は勝てそうなんですか?」と聞いてくる場面があったから、リリックの指導を主にしているマテリアルに代わって、田上が答えることにした。まぁ、少し「リリーさんの指導はマテリアルさんが主にしています」と答えるのも、チームのトレーナーとしてどうかと思ったし、わざわざ自分が答えなくてもいい主たる理由もなかったので、田上が答えた。

「リリーさんは、…まぁ、見込みはあると思います。恐らく。ただ、少し本人も自覚している通り、緊張し気味なところもありますので、本番という舞台に打ち勝てるかどうかですかね」

 当然、実の娘の事なので、娘が緊張しがちというのは母親として今野さんも充分に知っていたから、娘の背を元気づけるように叩くと、明るく言った。

「あんた、小学校の時の劇も、今みたいな顔で――私無理かも…とか言って、頑張ってたからねぇ! 元気出しな! 根性よ! 根性!」

「うるさい…」とリリックが鬱陶しそうに、背を叩いてくる母親の手を払いのけたのを、田上が見ると、またこう言った。

「だから、メイクデビューは、勝つという事よりも、舞台を知るという事を目指しています」

「舞台を知る?」と今野さん。

「ここではどんな風に行動するとか、レースを走っている時は、どんな風に歓声が聞こえてくるとか、そういう事を知って、緊張を無くし、本人のパフォーマンスが引き出せたらいいかな、と思っています。…つまり、あれですね…。…あの、……長期的な目標と言うか、その時その時に応じた、臨機応変な対応。そういう事を心がけて行きたいです。…勿論、契約更新のタイミングである三年っていうのは、長いですから、こっちの方も、長い目で見て、リリックさんの勇気を育んでいければなと思っています」

 これは、リリックはちゃんと聞いていた事だった。マテリアルも了解している。今野さんは、今の話を聞いて――案外しっかりした人なんだな、と思った。そして、隣のタキオンを見て、――やっぱりどうなんだろう?とも思った。ただ、今野さんは、タキオンの事をよりも今の言動の方を信じて、田上の事を『思ったよりもしっかりした人』との所に位置づけた。

 それから、話は、三年は思ったよりも早いという数々のエピソードに移って行って、タキオンや田上やエスもその時その時で、頷いたり言葉を発したりしてお茶を濁した。そして、時間が経つにつれて、リリックの顔が情けなくおどおどとしてきたので、母親も流石に同情して、背を撫で擦りながら、元気づけてやっていた。それで、多少の元気は出たかもしれなかった。

 

 時間はあれよあれよという間に来てしまった。リリックは先程から、――このレース場に今から爆破予告でも来ないかなぁ、と夢想しながら過ごしていたのだが、残念ながら、そう都合の良い事が起きるはずもなく、自分はパドックの方へ来てしまっていた。自分の傍についていた係り員が、優しいお姉さんだったので、リリックはその係り員の気遣いをありがたく享受して、多少安心しながらパドックをとりあえず一回りしてみた。どの顔も揃いも揃って、自分を値踏みしてくるような目をしている気がしたが、まぁ、ちらほらとおふざけ半分に手を振ってくる輩もいた。自分の事なんて一ミリも知らないだろうに、今日デビューするからという理由だけで、手を振ってくれている。そんな観客の中に居る心の優しい女性にリリックもおずおずと手を振り返してあげた。

 パドックの観客席には、思ったよりも人がいなかった。それも当然ではある。いつも自分が見ていたのは、GⅠという何千何万何十万という人々に見られる舞台であって、今日、今から自分が走るのは、メイクデビューだ。GⅠに興味があっても、素人同然のウマ娘が走るのには興味が無いという人も居るだろう。だから、リリックは、そんな中で手を振ってくれている優しい女性を心底からありがたく思った。例え、それがただのおふざけであったとしても。

 母も当然パドックに居て、意外な事にエスもタキオンもそこに居てくれた。リリックと言えば、自分の緊張に手一杯で、エスのパドックを見に行くなんて事は思いつきもしなかった。そして、タキオンが居るのも意外である。そちらの方に手を振ると、タキオンも少々義務的ではあったが、振り返してくれた。リリックは、――案外良い所もあるもんだな、とタキオンの事を見返した。

 

 タキオンの事を男に惚れて弱り切った女と思っていても、大先輩であることにはいよいよ間違いが無いように思えてきた。こんな自分より数倍も数十倍も注目されている中で、三度もGⅠという強敵も多い大舞台で、優勝を飾り、日本ダービーだけは逃したと言っても、しっかりと掲示板内に入った二着だ。大先輩中の大先輩である。正直、あのレベルにまでは、リリックもいけないと思っている。最早、トップ中のトップである。何をやっても三流の自分に、あのレベルを夢見ろと言われても、流石に興醒めするほどだ。夢ならもっと現実的な夢を見たほうが良いと、逆に諭してしまうだろう。それを、己が身で体現してしまっているのだからしょうがない。まさにトップ中のトップで、自分の入り込んでいける余地などないのだ。

 そんな事を考えているうちに、リリックはいつの間にか係り員のお姉さんに連れられて、地下バ道を通って、コースの上に、芝生の上に立っていた。雨が体や土を打つ音は不快かどうかすら分からなかった。だが、観客は思ったよりも少なかったことを知った。これは吉報だった。それもそのはず、リリックは、GⅠ並の観客が居る事を想定していたのだからしょうがない。これはGⅠではないし、遠くに見えるのはただの人影だ。その上、雨だから、もしかしたら人もいつもよりは少なくなっているかもしれない。もしかしたら、幼稚園のお遊戯会や小学校の劇くらいの人数かもしれない。リリックは、遠くにごちゃごちゃと集まっている人影を見つめながら、そんな希望的観測を発揮したが、実際の所は、やっぱり思ったよりも人がいてびっくりした。

 ウォーミングアップの時間だったが、皆、あんまり何をすればいいのか分かっていなさそうだったので、リリックはフラフラと歩いて行って、トレーナー席の前に立った。トレーナー席の奥から田上とマテリアルが出てきて、トレーナー席のテントの端から風に吹かれて入ってこようとする雨に少し目を細めながら、田上が言った。

「リリーさん、蹄鉄は大丈夫?」

 人々が話す声と、雨がテントを打ってざあざあと大きな音を立てるので、聞き取りずらかったが、なんとか意味を聞き取ると、「大丈夫です」と声を張りながら答えた。その後に、マテリアルが「頑張ってください!」と声を張って言った。田上も「頑張って!」と言った。そこで話は終わりのようだった。リリックは、躊躇いながらもざあざあと降りしきる雨の中にウォーミングアップをしに行った。

 

 視界は、まぁ、然程の土砂降りでもないので、バ群の最後尾からでも先頭は見えるくらいだ。観客席から双眼鏡で見るのでは、少々見えにくいかもしれない。リリックは、とりあえず、軽く体を動かして、体の動きをほぐしたあとに、近くを走っていた知らないウマ娘の後をついていった。あんまり近くをついて行くのも失礼かもしれないと思って、少し後ろをついて行っていたが、その内に、少し後ろでも失礼かもしれないと思って、リリックは、あんまり気づかれにくいもっと遠くの位置まで速度を落とした。

 リリックからは、自分よりも六バ身くらい前を走る、自分よりも十センチほど背が高い高等部らしきウマ娘の後ろ姿を見つめていた。――私があの人に勝ったら、あの人はどんな顔をするんだろう、と思った。また、――あの人が私に勝ったら、私はどんな顔をするんだろう、とも思った。もう、決着の時は随分近くまで迫ってきている。雨が容赦なく自分に振り付けてきて、痛い程自分の肌を打つのが分かる。

 痛いのは、自分が走っているからで、走るのをやめたら、この痛みも止むのだろうという事は分かっていたが、今更立ち止まれもしないで、競技場をただ一周して、一息を吐いた。自分に似たような子はたくさんいた。皆何歳かは知らないが、自分より背の高いのも大分混じっているし、自分と同じくらいなのもそれと同じくらい混じっている。ウマ娘というのは、主にその時のコンディションに左右されるものと言われている。また、個人差というものが大きく、小さくても走れる人は走れるし、大きい人が有利というわけでもない。統計としても、身長が高い方が有利と出ているわけでもないらしい。それは、この世界の常識だ。

 リリックは、小柄な方なので、上背の大きな人の中を走るのは怖かったのだが、思ったよりも、自分と同じくらいの身長の子がいた。そういう子たちも、自分と同じように周りに怯えているような気がしたが、それはもしかしたら、リリック自身が周りに安心を持ちたいがために、自分と似たような子に自分の心境を重ねるからかもしれない。実際、身長が高い高等部の様な人たちは、みんな威風堂々としていて、まるで、今からGⅠでも走るのだろうか? という形相だった。

 今回のレースは阪神レース場の芝・二千メートル・右回りだ。皆、それぞれメイクデビューだという事は、これが、デビューする人に向けて誂えられたレースだから知っている。つまり、今日デビューする人以外は居ないというレースだ。だから、皆それぞれレース初心者であって、どんなに歳を取っていようが、リリックと同じように初めての舞台なのである。とは言え、年も取れば、度胸も付くかもしれないから、歳を取ってる分だけ、リリックよりもメンタルは強いかもしれない。

 田上トレーナーは勝たなくても良いと言っていた。その言葉をそのまま受け取れば、自分は正真正銘勝たなくても良いという事になる。とは言え、自分が何の為にこんな阪神まで出張ってきて、見知らぬ舞台でレースをするのかと言えば、勝つためである。それは、田上トレーナーが何と言おうと、見逃してはならないように思う。しかし、自分が三流なのも事実である。そうやすやすと勝たれてもらっては、GⅠの名が廃るというものだろう。そうすると、自分はなんでここまで頑張って緊張を我慢してまで来たのだろうと思う。

 リリックはそう思って、空を見上げた。曇天の空から次から次へと、雨が降り落ちてきて、リリックは目をたちまちの内に閉じた。今度は、雨が自分の顔を打つのを感じる。むしろ心地が良いくらいだった。今から、自分が阪神レース場を二千メートルも走るという事を除けば。

 ——タキオンさんになりたい、と思った。あんなに奔放で周りを気にしないレースができれば、自分は幾らか救われるだろうし、賞讃も受けるだろうし、母からも褒められる。ところがどっこい、自分は生まれながらの三流だ。まず、自分を生んだ母から三流。生まれた地域、育った地域も三流。精神状態も三流。ついでに言えば、一流に生まれてこなかったから三流だ。つまり、初めの遺伝子から三流だという事だ。

 そこから言えば、タキオンさんの方は、祖母から母にかけてから既に一流。育った地域なんて、東京で生まれた分、一流だろう。そして、精神状態は、…今の所は、三流に近しいかもしれないが、その前までに残した結果は全て一流だ。

 つまり、遺伝子がよければ、結果なんて余裕で残せるのだろう。という事だ。無論、リリックだって、ウマ娘の遺伝子が発見されていないことくらいは知っていたが、リリックにとって遺伝子とは、生まれた環境と自身の肉体そのものであって、何かを証明するものではなかった。つまり、結果こそが遺伝子であって、その好ましい結果を作った状況が遺伝子であり、肉体が遺伝子であった。

 だから、もっと詰まる所を言えば、生まれながらにして何かを成し遂げられる力を、何でもいいから形作られた人こそが、優秀な遺伝子の体現者であって、ただ何も成し遂げられないで死んでいくのであれば、粗末な遺伝子やその生まれる前から決められた環境が粗末であったことを運命づけられたという事だ。

――生まれる前から、自分が生まれる場所を決める事は誰にもできないだろう、とリリックはぼんやりと思っていた。それなら、一等地の高層マンションに住んでいる親の元に生まれてやる。貧困層の所に、飢えに喘ぐ子供は生まれなくて済む。世の中は富裕層だけになる。ただ、世の中が富裕層だけになったところで、その中で、また劣等感や格差を感じるのかもしれない。そうすると、三流の生まれである自分たちが、富裕層の劣等感を進んで買ってやっているのだ、とリリックは思った。――三流無くして一流は居ないだろう。

 そう思った後に、その考えを阿保らしく思った。

――何が三流だ。自分は一流になりたいんじゃないか。

 その後に、――自分は一流になりたいのか?と思った。果たしてなれるのか分からないし、なりたいのかも分からない。果たして、世の中への皮肉を自分の頭の中で考えついたのかも分からない。タキオンさんになりたいのかも、タキオンさんに嫉妬しているのかも分からない。

 その内に、自分はいつの間にか、皆とゲートの前でぐるぐると回っていた。

 

 ゲートの前で皆で回る習慣がある。それがどういう意図でなされているのかは、リリックは知らない。ただ、昔からの習慣に従って、ぐるぐると回っているだけだ。

 皆それぞれ、お互いに闘志を燃やしてみようと、おずおずと他の人たちの顔を見て回っている。リリックもぼんやりと不安げに、円の対になっている人に目をやってみると、向こうの長髪葦毛のお姉さんから、からかうように笑いかけられた。リリックもそれに、少しの愛想笑いを返したが、どうも、意気は最低の所から上がりそうもなかった。――どうせ勝てもしないのに何で走るんだろう?という思いと、――もしかしたら、この人たちに自分が打ち勝って、一着に輝く未来があるかもしれない、という思いが、あっちへ行ったりこっちへ行ったりして、雨に打たれてぐちゃぐちゃの地面になった。雨が降って地が固まればいいが、結局、道が凸凹してしまっては元も子もない。歩きづらい事この上ない。むしろ、元の状態より酷いものになるかもしれないのに、何を呑気に雨降って地固まると言っているのだろう。

 リリックはそんな皮肉を思いついたが、その先を考えているうちに、その考えもまたぐちゃぐちゃの地面となって、溶けて消えた。

 なんだか良く分からない心地がする。自分が今から何をするのか、勝とうとしているのか、それとも、負けようとしているのか。負けるのならば、歩いていたって問題ない。わざわざ苦しい重馬場の中を、懸命に足を上げて走らなくても良いだろう。生きているから走るのであれば、死んで走らなくたって問題あるまい。要は方便なのだから、自分の好きにさせてもいいんじゃないだろうか?すると、好きにしても良くなった自分は今から何をするのだろうか?――いや、やっぱり何をする当てもない。やっぱり、走るのだろう。

 ——めんどくさ…とリリックは心の中で呟いた。呟いて、ゲートの中に入った。なんだか朦朧としている気分のようだ。今から走るのは自分ではなくて、他の誰かのようだ。ゲートが開いたって開かなくたってどっちでもいい。どっちにしろ、大した意味はないのだから。たかが、女子中学生の夢が潰えた所で、誰が気にするという事もない。自分にその気があるのだったら、ゲートから出走しないで蹲っている。走る気もしないで、自殺名所の崖から飛び込んでやったっていい。――いや、良くない。――いや、飛び込め。

 そう思ったところで、ゲートが開いたから、リリックは、ゲートの外へ飛び込んだ。人が騒ぐ声が聞こえる。人の緊張も知らないでいい気なものだ。観客席から人が走るのを見ていればいいだけで、その中の何人が、この場を走ろうと目標にしてるかも知らない。大概は、自分を娯楽として楽しんでいるだけだ。――いい気なもんだ、いい気なもんだ、とリリックは心の中で呟いた。今すぐこの場で暴れてやろうかと思った。右の子に体当たりして、左の子を蹴り飛ばす。前の子の踵を踏み、蹄鉄で蹴り砕く。皆、自分の事を凶悪な犯罪者として恐れ慄くだろう。

 そうして、意識がレースから遠のいている間に、ゲートに入る前に笑いかけてくれたお姉さんが隣に居るのに気が付いた。その顔を見ると、リリックは一気に暴れる気を失った。元々、暴れる気などなかったそれだけなのだが、リリックは、どうも釈然としない気分のままま第一コーナーを曲がり切った。

 

 例えば、ここで誰かを転ばせたとして、それから、自分はどういう罪に問われるだろう?と思った。まぁ、よっぽど悪質じゃない限り、出場停止などの処分で済むだろう。何日かは知らないが、もしかすると、除籍もあり得るかもしれない。まぁ、どっちにしたって、自分は転ばさないからいいや、と思った。だが、そう考えた所で、気分は釈然としなかった。

 しかし、いよいよリリックもレースに集中しなければならない時が来た。リリックは六番手当たりの位置で、一群は、最終コーナーを回り始めていった。状況は良しとも言えず、悪しとも言えず。…少し悪しかもしれない。バ群に押し込められ気味ではあるが、ここから状況も転々とするだろうから、そこからできる抜け道を探っていくしかない。それは、マテリアルから習った事だ。

 雨は容赦なく自分たちの体を打つが、それはここに居る皆が同じ思いをしている。リリックは、何とかして勝たねば、と自分に言い聞かせて、進む道を懸命に探した。しかし、探せば探そうとするほど、視界は雨に埋もれて見えなくなっていくような気がした。芝は足に絡みついてくるし、土は踏み応えもなくぬかるむ。前の人から泥が飛んでくるのを何とか避けて、リリックは、バ群の外側へ抜け出した。

 それでも、走らなければならない。もう、コーナーも終わり、最後の直線だ。遠くの声援が微かに鳴り響いてくるような気がする。それが、自分の耳に届いたのか届いてないのかも定かではない。足が重くなる。息が苦しくなる。一人二人と見知らぬウマ娘に抜かれ、その背をリリックは見つめた。どうも何も分からない状況だった。自分がどこへ向かってるのかすら分からなかった。ただ、足が重くて重くて、それでも走らなければならず、肺が苦しさにきゅっと締まるのを何とか動かしながら、懸命に懸命に走って走って、手を振り、この心臓が張り裂けんともする中で、ゴール板が見えたが、そこを駆け抜けたのは自分ではなく、見知らぬ人だ。

 リリックは、体中が痺れるような倦怠感に苛まれながら、ぜえぜえと苦しい息を吸っては吐いて、ただ雨の中に立ち尽くしていた。自分がどこに居るのか分からなかった。泥まみれの自分が、今何をしに来たのかも分からなかったが、係り員のお姉さんが、走者をまとめて引き連れに来ると、リリックは重い足を引きずるようにしながら、空っぽの頭でお姉さんについて行った。

 

 体に着いた泥をある程度外のシャワーで落として、廊下を前も後ろも右も左も分からずに、ただ、周りに人がいるから、その流れに沿って歩いていると、唐突に左の肩をとんとんと叩かれた見ると、田上とマテリアルが微笑んで立っていた。リリックは、それを何の気もなく眺めた。一瞬誰かも分からないくらいだったし、分かってからも、それが本当に、田上とマテリアルなのかはあやふやだった。

 あやふやな田上は、リリックの肩を大きな男らしい手で叩いて、「よく頑張った」と言った。――頑張ったのだろうか? それとも頑張っていないのだろうか? とリリックは自分に問いかけたが、問いかけた自分の方からも、同じ問いが返ってきた。それで、全く何も考えていない顔で、リリックは田上を見上げた。すると、今度は田上がこう言った。

「どうだった? 走ってる時に何か思ったりした?」

——自分は何か考えたのだろうか? それとも、何も考えなかったのだろうか?

 これすらもあやふやで、リリックは何とも言えない顔で空中に目を泳がせた。傍では田上とマテリアルが目を見合わせたのが、分かったり分からなかったりした。それから、マテリアルがこう口を開いた。

「とりあえず、暖かいシャワーで顔をさっぱりさせてからですね。まぁ、冷えた体に温かいシャワーをかければ、大分頭もはっきりしますよ。…頑張りましたね」

 マテリアルがそう声をかけてきた。リリックは、これに頷いたり頷かなかったり、「あぁ」と返事をしたりしなかったりした。果たして、自分の返事が口から出てきたのか分からなかった。

 

 マテリアルの言うように、シャワー室に入って、元の服に着替えると、大分さっぱりしたが、その代わりに、初めてのレースを負けてしまったという喪失感が襲ってきた。果たして、悲しいという感情がそこにあるのかどうかは分からなかった。あるような気もしたし、無いような気もした。しかし、そこのところは今は気にしないで、とりあえず、悲しいかもしれないという事にして、少々悲嘆に暮れながら皆が待機している控室に向かった。

 控室に入ると、まず母が見えた。その後ろに、田上トレーナーとマテリアルさん、タキオンさん、エスちゃんが見えた。皆、自分せいで悲嘆に暮れているという事もなかったが、母は、リリックにかける第一声を笑いながらこう言った。

「あー、おかえりぃ。根性が足りなかったね、根性が」

 冗談にしてはつまらないし、今時根性論など時代遅れだ。だから、リリックは適当に頷きながら、とぼとぼと歩いて、母の隣に座った。こういう憔悴しきった娘を見ると、母も流石にこれ以上の根性論を持ち出す程残酷でもないので、その背を擦りながら言った。

「ほら、元気出しな。ここで挫けちゃいけないって、田上トレーナーも言ってたでしょ? 勝つことが目標じゃなくて、舞台を知ることが目標だって。舞台は知れた?」

 リリックは、俯きながら曖昧に頷いた。涙が出そうな気がしたが、同様に、出ないような気もした。もしかしたら、こういう状況では、涙を出したほうが良いかもしれないと思った。田上が、静かに母娘を見つめているのだが、リリックには分かった。今から、田上トレーナーから、どんな言葉が出てくるのだろうと思って、半ば恐れながら、母の言葉を左から右へ聞き流していたのだが、一向に、田上が話し出す気配はなかった。

 リリックは、その理由を、母がずっと適当な励ましの言葉を捲し立てるように話しているからだと見当をつけた。だから、リリックは、母に黙ってほしいと思った。今は、母がどんな励ましの言葉をくれるのかという事よりも、田上トレーナーが何を自分に話してくれるのかという事の方が気になった。母よりかは、田上トレーナーの方が幾らか理性的であるという信頼はある。だからこそ、もしかしたら、田上トレーナーが予想だにもしない自分を責める言葉を吐いてくるのかもしれないとも思ったし、理性的で冷静で落ち着いた、何か自分の失敗から学べるような言葉を行ってくれるのかもしれないと期待していた。

 母の、何もレースの事を知らない浅い台詞など聞きたくもないのだ。ただ、徒に自分を慰めようとする言葉など聞きたくもなく、今はただひたすらに母の粗雑な言葉を耐え凌ぐしかなかった。

 

 暫く、母が、ずっと落ち込んだ振りをして黙したままであるリリックに、慰みの言葉をかけていたが、それも切りが無いように思えてきたので、田上が「あのぉ」と言って遮った。

「ちょっと、こちらの方もレースの事で少しばかり話したかったのですが…」

「ああ」と今野さんは頷いて、素直に喋ることをやめた。

 それから、田上は少し話を整理するために黙すると、こうリリックに話しかけた。

「……んー、…リリーさんの…今日の走りを言う前に、…お母さんと同じように、俺もマテリアルさんも気にしてないよって事を伝えたいかな。…聞こえてる?」

 リリックは、俯きながらコクリと頷いた。田上も、それになんとなくコクコクと頷き返すとこう言った。

「そう。…良かった。…まぁ、落ち込む気持ちも分かるけど、それを乗り越えてまた次も走ってみようって話で…、うん。……リリーさんの今日の走りは、…やっぱり緊張があったかな?」

 そこの所はリリックにも判然としなかった。緊張もあったと言えばあるのだが、負けた理由が、それだけだと言われると、違うような気もする。ただ、詳細の所は分からない。だから、リリックは頷きもせず、首を横に振りもせず、ただ、俯いたままで多少首を横に傾げただけだった。しかし、その仕草はあまりにも微かだったので、田上には伝わらなかった。だから、田上がもう一度聞いてきた。

「緊張はあったかな?」

 リリックは、先程よりも大きく首を傾げて見せた。だから、田上が「分からない?」と聞くと、リリックはそれにちゃんと頷いた。田上は、その反応を予想していなかったが、かと言って、全く思い当たる節が無いというわけでもないようだった。けれども、予想していない分、返答も用意していないので、「んー」と唸った後にこう話した。

「うん。まぁ、後々考えて行こう。今はそんなに急く必要はない。…ウイニングライブは大丈夫そう?」

 リリックはぼんやりと頷いた。

「そう。なら良かった。…まぁ、負けたのはショックだろうけど、それから色々と考えられることもあるよ。…そして、またこれから大分ゆっくりと過ごせるしね」

 リリックは、またコクリと頷いて、話は終わりとなった。母は、また暫くリリックに声をかけたり、田上トレーナーや他の人たちと、レースの事やその他の事を話した後に立ち去って行った。「ライブは見に来るからね」という話だった。

 そうして、リリックのレースはぼんやりと終わっていった。

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