ケロイド   作:石花漱一

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四十、宝塚記念①

四十、宝塚記念

 

 田上は、リリックの母が帰った後に、マテリアルたちの方を見て聞いた。

「マテリアルさんはどうします? タキオンもマテリアルさんも送迎のバスの席は空いてないだろうから、また歩いて帰らないといけないと思いますけど…。歩いてきたんでしょ?」

 最後の言葉はタキオンに向けられたものだったから、タキオンはコクリと頷いた。マテリアルは、少し嫌そうな顔をして「んん?」と唸った後にこう言った。

「ああ、そうだ。歩いて帰らないといけませんね」

 タキオンは、「圭一君と一緒に帰りたい」と言いたかったのだが、まだ、今野さんの手前で黙していた気分が抜けきらずに、ただ黙ったまま、――マテリアル君と二人で帰らなければいけないのか…とがっかりしていた。別に、旅の道連れとして、悪い人選ではないのだが、マテリアルと帰るよりかは、田上と帰った方が十倍も二十倍も嬉しいものだった。ただ、幾分冷静で、口も重いタキオンは、素直に諦めて、マテリアルと二人で帰る心地だった。面倒ではあるが。

 田上たちは、リリックの後の最後の午前中のレースが終わるまで、ここに居る予定だそうだった。タキオンは、田上ともう少し居たかったのだが、同時に、ここにあんまり長居しても意味が無いような気がした。ここはあんまり寛げる場所ではないだろう。いつものトレーナー室という場所とは環境が違うからかもしれないが、他の三人の目が気になって、タキオンはあんまり話ができなかった。

 それに、タキオンは、田上ともっと密な話がしたかった。もっと彼に甘えるような空間に居ながら、自分が犯した過ちについて、彼の低い声でどうすればいいのか話してほしかった。それが、この控室ではできない。皆が皆、自分たちの話す事に聞き耳を立てているだろう。そんな所で話したくはなかったから、タキオンは仕方なく、暫く田上の横で時間を過ごしてからマテリアルと共に帰ることにした。

 帰る時になって、建物の出口まで見送りに来た田上に、タキオンは「すまなかったね」と元気のない声で目を見ながら言った。田上も、少し落ち着いた低い声で「大丈夫だよ」と答えると、二人は別れた。タキオンは、少し不安だった。このまま別れてしまったら、また部屋で、自分は圭一君に怒り出してしまうのではないだろうかと思った。そんな不安を抱えながら、タキオンは雨の中で、傘を差してとぼとぼと一歩ずつ歩を進めていった。マテリアルは、そんなタキオンをじっと見つめたが、あんまり余計な口出しはしない事にした。

 

 タキオンが部屋に戻ると、何をするという事もなく、暫くぼーっとベッドに顔を埋めて寝ていたのだが、マテリアルの方から「昼食を食べに行きましょう」と誘われると、何もする事が無いので、その誘いに乗ってレストランに昼食を取りに行った。

 タキオンとマテリアルの昼食が終わる頃になって、田上たちがレストランにやって来た。こうなると、タキオンは田上を待ってから食事をとればよかったと思った。そうしたらもう少し談笑を楽しめたかもしれない。ただ、一緒に食事をとれたにしろ取れなかったにしろ、タキオンはあんまり自分から話す気力もなかったので、食事をとってる田上の横で、腕を枕にしながら机に突っ伏していた。少々気怠かった。

 田上が昼食を食べ終わると、タキオンと田上は二人連れ立って、同じ部屋に入った。マテリアルとリリックとエスも三人で同じ部屋に入って行った。エスとリリックは、田上とタキオンが同じ部屋に入るのを、びっくりしたような顔だったり、ニヤニヤした顔で見たが、何も言う事はしなかった。大抵、いつもの事だったし、今回は喧嘩した後の事だったので、仲直りの為に二人で話したいのだろうと察した。

 二人で同じ部屋に入って、田上はこの後どうするべきなのか迷った。前回ここに来た時は、まだ付き合っていなかったし、距離は近かったと言えども、二人でベッドに寝転がるのは、田上は拒否し気味であった。そして、今、付き合ってこういう場所に来て、田上はベッドに喜んで寝転がるべきなのかと思った。

 そう思いながら、田上はとりあえず、タキオンを部屋の奥の方に連れて行って、碌に座る物もないので、ベッドに座らせ、自分はとりあえずのその場しのぎに自分のバッグの方へ行って、水筒を取り出すとその中身を飲んだ。

 タキオンはそれをじっと見ていたが、何も言わなかった。言いたい事は幾つかあったのだが、なんだか憚られた。

 田上は一先ずお茶を飲んでその場を濁すと、水筒を片手に、タキオンと目と目を合わせた。二人は一瞬見つめ合った後に、田上が口を開いた。

「元気?」

 タキオンは、少し間を空けて、愛嬌を漂わせながら首を傾げた。田上はそれを見て軽く笑みを浮かべると、もう一口水筒からお茶を飲んでから、その蓋を閉めた。そして、タキオンの横に座るのも憚られて、腰くらいの高さの机に腰かけ、少しの間、タキオンと目を見交わした後にこう口を開いた。

「…………明日は大丈夫そう?」

「…無理かも…」

 タキオンは弱弱しくそう言った。田上は、その顔を見てしょうがなさそうに微笑んだ後、また口を開いた。

「…どうしてそんなに弱気なの?」

「………そんなこと聞くのかい?」

「………理由はない?」

「………分からない…」

「………今日はちょっと疲れたな…」

「…」

「………リリーさんの走り。お前から見てどうだった?」

「……中盤まではそれなりだったが、最終コーナーになって、やはり、グンとスピードが落ちたね。…いや、周りが上がったから、スピードが下がって見えたと言ったほうが正しいだろうか。普段のトレーニングであれば、もう少しは走れていたような気はするが」

「…お前、リリーさんのトレーニング風景は見てるんだ」

「…見てるが?」とタキオンはキョトンとしながら言うと、田上が微笑みを浮かべた。

「いや、お前、俺以外に興味が無いなんていう態度をしておきながら、リリーさんの事は頭に入れてるんだな、と思って」

「君が興味のあることには興味があるんだから、必然的に、チームの子の情報も入っては来るよ」

「じゃあ、エスさんの走りはどうだった?」

「…あの子は見てないから知らない」

「ああ、そうだった。お前たち、後から来たんだったな。…映像あるから見てよ」

 田上はそう言うと、レース場に持っていっていた手持ちバッグからスマホを取り出すと、ごく自然にタキオンの隣に座ることに成功した。そして、肩を寄せ合いながら、タキオンと二人で、スマホを横画面にして、エスの走る映像を眺めた。

 一通り眺めた後に、田上がタキオンの顔を見て「どう?」と聞き直した。タキオンは、んーと唸ってから答えた。

「……エス君もこのレベルだったら勝ち抜けそうな気もするがな…。特に、一着との差もそれほど大きくもない。…もう少し順調に勝ちたいのであれば、もう一捻りくらい入れる必要はありそうだね。………特に、先行の方が得意のような気もするが…」

「…俺もそう思うけどね。…如何せん、ちょっと出遅れるんだよね…。…今後、成長でそれが改善されたりとかもあるかな?」

「…無い事もないだろうが、……それに期待し過ぎるのも……何だかだろうね…。…足運びも少々乱れがちだね…」

「…そうだね…。……ちょっと出遅れたとしても、取り戻しに行く?」

「……本人の力量次第だろう…」

「……そうだな。…まぁ、お前にGⅠ三回も勝たされてしまって、俺も余裕があるから、試してみる事はできそうだな…」

「……あんまり振り回しすぎる事もしないほうが良いんじゃないかな?」とタキオンが言うと、田上が、タキオンの顔を見て「それ、お前が言うか?」とツッコんだ。

 タキオンは、田上の顔を、少々不愉快そうに見つめ返した後に、「言っちゃ悪いかい?」と言い返した。田上は首を横に振ると、今まで見ていたエスのレース映像を消して、スマホを机の上に置くために立ち上がった。

 そして、またタキオンの横に座ると、今度は、その背後の方に、タキオンと垂直になる様に寝転がった。タキオンは、寝転がった田上の後ろ手にぼんやりと見やった。田上は、暫く枕に顔を埋めてじっとしていたが、やがて、顔を上げるとこう言った。

「………俺の事、好き?」

 その言葉は、田上が不安だからタキオンの気持ちを確かめるというよりも、むしろ、タキオンの気持ちを真正面から確かめているような気がして、タキオンは、試されてるような気分になった。だから、これまでで一番真面目に「好き」と言ったのかと思われるくらい、慎重で丁寧に「…好き」と言い返した。その表情には、一切のおふざけも入っていなかった。田上はそう答えられると、鼻からため息を吐きながら、仰向けに寝転がった。タキオンは、足をベッドの上に乗せて田上の方に体ごと向いたが、寝転がりはしないで、座ったまま、天井を眺めている田上を上から眺めた。田上は、暫くそうして天井を見つめていたが、やがて、そのまま天井を見つめながらこう言った。

「………俺の事恨んでないんだよね?…」

「……うん」

 タキオンがそう答えてから、田上は目だけを動かしてタキオンをちょっと見た後、また天井を見つめながら話を続けた。

「………何か俺に言いたい事ない?」

「………ない」

「……なんでもいい。俺のこういう所が嫌いとか、前々から俺のこういう所を不満に思ってたとか。…俺だけ一方的に話すのも気分が悪いだろうし…。…ない?」

「………私の事だけ見てくれない……」

「……それが不満?」

「…うん…」

「…それだけ?」

「………」

「…もっとある?」

「…うん」

「…どんな?」

「………」

「…俺の方が料理が上手だとか?」

「……」

「違う?」

「……違わない」

「…それだけ?」

「…ううん」

「……他に何かある?」

「……」

「……なんでもいいけど…」

「……」

「……あんまり分からない?」

「…うん…」

「…じゃあ、最初の『私の事だけを見てくれない』だけど、…私だけ見てないじゃなくて、私以外を見るなって事だよね?」

「……うん」

「……んー……、うん…。…それも一つには、お前が生き急いでいるのがあるような気がするんだよね…。………詳しい所は微妙なんだけどね……。どう思う?」

「……私が生き急いでいるか?」

「うん」

「……まぁ、……あるかもしれないだろうね…」

「……それが、『私の事なんて好きでもないくせに』って言わせたと思う?」

「………否定はできないかもしれない…」

「……他に理由があったりする?」

「………分からない…」

 この後に、田上は詰まっていた息をゆっくりと吐き出すと、言葉を続けた。

「……『私の事なんて好きでもないくせに』って、タキオンとしては心にもない言葉のつもり?」

「……」

「そう思ってはいるの?」

「……」

「………心当たりはあるって事でいい?」

 タキオンは恐る恐るコクリと頷いた。田上は、その顔を見た後に、また天井を見つめて「んー」と唸った。

「んー………。……じゃあ、その時は、確実に、タキオンは『俺はお前の事を好きじゃない』って思ってたって事でいいの?」

 タキオンは、俯いたまま答えなかった。田上は、その顔をじっと見た後に、目を瞑ると、また息を吐いてから口を開いた。

「……今の気持ちじゃなくて、その時の気持ちを思い出してほしいんだけど、『俺はお前の事好きじゃない』って、本気で思ってた?」

 タキオンは、また俯いたままコクリと頷いたから、田上も確認の言葉を発した。

「本気で思ってたの?」

 すると、タキオンが首を横に振ったから、少々訳が分からなくなって、「本気では思ってない?」と聞いた。

 それに、タキオンがコクリと頷いたから、一先ず、今の質問は『タキオンは本気で田上がタキオンの事を好きじゃないとは思ってない』という事が確認できたが、それでも、以前の質問とは矛盾している反応だったから、田上はまたこう聞いた。

「じゃあ、『私の事なんて好きでもないくせに』って言葉は、心にもない言葉ではないけど、本気で、俺がお前の事を嫌ったとも思っていなかったって事?」

 タキオンは、これにコクリと頷いた。また、田上はゆっくりと呼吸を繰り返した。

「…………これまで、…お前に言ってきたこととか、お前にしてきた態度を考えると、……俺は恨まれてるんじゃないかなって思うんだけど……、…考えすぎかな?」

 タキオンは、俯いたまま何も答えなかった。田上は、そんな様子のタキオンを見た後に、また疲れた様にため息を吐いた。

「………はぁ……。……お前は、……。いや、……俺の事本当に好きなの?」

「………好き…」とタキオンが掠れた声で言ったが、それを言ったところで、この場の雰囲気がよくなるというわけでもなかった。

 田上としては、もっと別の言葉が欲しかった。タキオンの田上へ一方的に向かう言葉というよりも、田上がタキオンの事を想っているという事を理解した上での言葉が欲しかったが、そういうのを無理に催促しても良くないような気がする。また、催促しようとしたところで、自分の意図が伝わらなければ意味がない。

 田上は、自分のこの気持ちを向こうは理解してくれているのだろうか? と少々疑心暗鬼になっていた。初めから、何もかもダメだったんじゃないだろうかという気さえした。

 そうやって、暫く黙ってから、田上はまた口を開いた。口を開けば、タキオンに嫌な言葉を投げかけそうな気がして、こっちも嫌だったのだが、タキオンが話し出そうとしないからしょうがない。この仲を修復してより強い絆にするためにも、田上は、タキオンと会話をなるだけ続けなければならなかった。

「………お前は、……。…いや、……何て言ったらいいかな? ……本当に、根に持ってない? 前の日曜の事とか、今まで俺がお前にやった事とか態度とか。本当に根に持ってない? …俺を恨んでたりしないのか?」

 タキオンは、何の反応も示さなかった。少々話し出すのが唐突だったので、反応しにくかったのかもしれない。田上は、そんな事をぼんやりと考えた後に、またタキオンに向かって言った。

「………俺が、恨まれてるのを心配するのって、…まぁ、自分のやって来たこともあるけど、…あるからこそ、…お前を傷つけた結果、お前がそれを引きずって、『私の事なんて好きでもないくせに』って言わせたんじゃないかと思うんだよ……。…恨んでる?」

 タキオンは首を横に振った。田上は、んーと唸った。

「んー………、じゃあ、…なんで、俺がお前の事を大切に思ってないなんて欠片でも思ったの? ……少なくとも、あの時だけは、俺が仕事でここに来たって分かってたはずだ。お前を大切にしてないなんて思ってないし、仕事でしょうがなくお前を置いて行ったって事も分かってたはずだ……。………俺の態度が、お前よりも仕事を大切にしているように見えた?」

 タキオンはコクリと頷いた。田上は、また、んーと唸った。

「んー………、それなら、恨みもしそうな気はするか……。……となると、『私の事なんて好きでもないくせに』も、俺の気を引くためだけに吐いた嘘?」

 そこの所は微妙だったから、タキオンは何の反応もしなかった。

「………そうなると、……仕事でたった一日離れるだけで、そんな反応をされるようになるとこっちも困るわけだ。…………なんて答えれば良かった? どうすればお前は満足だった?」

「…………私と…一緒に居る事を選んでくれれば……」

「…………一緒に居たくないわけじゃないって事は分かってくれる?」

「……うん…」

「…………次、…レースとかで、また同じように一日とか二日とか空けることになったら、どうする?」

「……」

「……また怒る?」

「……分からない…」

「…………、………分からない?」と田上がオウム返しに聞くと、タキオンはコクリと頷いた。

 その答えを聞くと、田上の気分も多少良くなったような気がして、仰向けだった体をごろりと横向きにすると、そこからタキオンを眺めながら言った。

「………どうして怒ったとかは分かる?」

 タキオンは首を横に振った。田上は、鼻から息を吐いてから「寝転がれば?」と提案した。

 そう言われて顔を上げると、タキオンは、田上の顔を見つめた。田上は少々疲れた様に、ベッドへ身を横たえていたから、タキオンもその横におずおずと寝転がった。田上は、横にタキオンが来ると、横向きにしていた体をまた仰向けにして話し出した。

「………疲れたな…」

 タキオンが、何も答えなかったので、これは独り言として消化された。その後に、田上は隣のタキオンの手に、指先を少し触れ合わせながら言った。

「………俺、人付き合いがそんなに、…苦手って訳でもないんだけど、……こう親密になるとぶつかることも多くなるからさ、あんまり親密にはなりたくないんだよね…。……そして、こうして、二人で考えすぎかもしれない事を話してると、こっちも辛くなるからさ……。世の中の夫婦って、よく付き合えてるよ…。離婚もまぁ多いけど。………こうやって、親密になって、辛い事を話すくらいだったら、俺は、初めから付き合わなければよかったって思う人間だからさ、……別れる事に考えが行きがちなんだけど、……タキオンはどう? …こういう話して、別れたいと思った事はない?」

「……ない……」

「………そういう奴だよな…、お前は…。……俺なんか、責めるのも責められるのも嫌いだから、できるだけ丁寧に話そうとするんだけど、そうすると、気を配り過ぎて辛いしね? ……かと言って、お前と大喧嘩っていうのもあんまり好きじゃない…。どうなったって、あんまり本気で怒ってもいけない、大切な人だってのには変わりはないし…。…この前のはごめんね…」

「……気にしてないよ…」

「……どうするべきだったんだと思う? 俺が、仕事も何もかも放り出して、お前の傍に居るべきだったんだと思う?」

 タキオンが正直に言ってしまえば、そう思った。何もかもなげうってでもいいから、生活さえなげうってしまっていいから、自分の傍に居てほしいと今でも思っていた。ただ、そういう事を今正直に言うには憚られるから、タキオンは黙ったままでいた。すると、田上は、そのタキオンの沈黙に僅かでも肯定の意味があると察して、少し目を丸くしながら言った。

「仕事も何もかも放り出してお前の傍に居るべきだと思うの?」

 タキオンは、重々しくコクリと頷いた。田上は、その横顔を見た後に、おでこをポリポリと掻くと、難しそうな顔をしながら唸った。

「んー………、…だとすると、…やっぱり、生き急いでるんじゃない? …でも、生き急いでるって言葉で片づけてもなぁ…。…どうにもならないし……。んー………、何か案ある?」

「………ない…」

「……んー………、……お前がさ、……もし、俺と理想の世界を作りたいんだとしてさ、……その世界が、誰か頼れる彼氏と一緒に居られるだけ居れる世界だって言うんだったらさ、……俺は必要ないんじゃない?」

「……」

「………お前の彼氏って、俺である必要ってある?」

「…………私と一番親しい人……」

「……まぁ、言ってしまえば、大体そんなもんか……。……でもさ、……お前が思い描く理想の俺って言うんだったらさ、現実の俺はお前の理想には適っていないわけだからさ、そんな人に用はないんじゃない?」

 これには、少々タキオンも動揺したが、「現実の君がそうなってほしい」と元気のない声でそう答えた。

「んー……、でも、今ここに居る俺。そして、仕事で出張しに行った俺は、お前の理想の俺ではないよね? 同一人物だから。今日俺と出会って怒りが引いたって事は、理想の俺に限りなく近づいたからで、また、お前の理想から離れてしまえば、俺に怒りが湧いてくるんじゃないかな?」

 タキオンは、田上の言うことは尤もであるとも感じたが、同時に、そうなってほしくないから、ああして怒ったんじゃないかとも思った。そして、またわざわざこういう理想の場をぶち壊しにもしたくないので、黙したまま心優しい彼氏が話を続けてくれるのを待った。

 それから、「んー……違うの?」と田上は再度聞いてきた。そこまで聞かれると、タキオンも敢えて断る術を持っていなかったので、「……そうかもしれない……」と陰気に答えた。あんまりこう言うのも嫌だったのだが、答えないまま雰囲気が悪くなるのも嫌だった。

 田上は、顔を横に向けて、タキオンの顔を少し見た後に、また部屋のあちこちに目を泳がさながら言った。

「そうかもしれないんだったら……、……俺は、お前の理想通りには動けないって事を、お前が理解しないといけないよ。……今この時間にだけ目を向けて、辛くなったら俺に当たるって言うんだったら、俺はやってらんない。………うん」

 田上は、最後に曖昧な言葉を付け足すと、それ以上話す気が無くなった。ゴロリとタキオンに背を向けて寝転がろうとしたが、すぐに、――これでは冷たすぎるだろう、と思って、また仰向けに寝転がり直した。かと言って、いつもするみたいにタキオンを抱き締める気にもなれなかった。本当だったら抱き締めたい気持ちもあった。ただ、まだ心の中に釈然としないものがあったから、田上は、仰向けのまま目を瞑っていた。リリックとエスのライブがあることは念頭にあったのだが、それでも少々眠りたかった。

 

 少しの間眠って、起きる時にはタキオンに揺り動かされた。「もうライブに行く時間だよ」と言っていた。どうやら、マテリアルが声をかけてきたらしい。田上が、何故時間を知っているのかと聞いたら、マテリアル君から連絡が来た、とタキオンが答えた。

 タキオンは、そう答えた後に少々不貞腐れた様に田上の横に寝転がった。田上は、その顔を寝ぼけ眼で見つめてから、その垂れている髪にそっと触れた。腕を組んでうつ伏せになっていたタキオンは、少し顔を動かして田上の方を見た。田上は、目を見合わせると、少々今までしてきたことが申し訳なくなって、「ごめんな……」と謝った。今、タキオンを抱き寄せられる体勢だったら、抱き寄せている心地だった。

 タキオンは、そう言った田上のから目を逸らした後に、「君のせいじゃないよ」と答えた。田上は、何とは無しに「うん…」と答えて、タキオンの髪を撫で続けた。彼女の方に自分の思いが伝わってほしかったが、それより後は、彼女はこちらを見ようとはしてくれなかった。だが、タキオンは、触られるのが不快で目を逸らしていたというよりも、今は、彼氏に髪を触れられる心地良さにじっと浸っていたい気分だったから、大人しく触らせていただけだった。

 田上は、また少しした後にこう言った。

「………お前の事、嫌いじゃないんだよ…」

「……」

「………いつも苦労掛けてごめん…」

「………苦労掛けているのは私……」

「………なんでもできる人間だったらよかったのに……」

「………私の理想を君に押し付けてるだけだよ…。…ごめん…」

「………」

 田上は、何か言いたかったのだが、何も言うべき言葉が見つからなかった。それに、抱き締めやすい位置にタキオンが居たなら、本当にタキオンを抱き締めたかった。抱き締めて、胸の奥にあるムズムズを伝えたかった。矛盾とか、恨み辛みを超えて話をしたかった。そのムズムズが堪らなく辛かった。そして、田上は、いつの間にかタキオンの髪を触るのをやめて、天井を見つめながら、心の中で――ごめん、と何度も何度もタキオンに謝っていた。

 

 理想とか、恨みとかがどちらから始まったのか、田上にはさっぱり分からなかった。タキオンもそうかもしれないが、詳しい所は分からない。ただ、一つ確かな事は、田上は、初めタキオンと付き合うことに抵抗していたし、つい最近までそうだった。そして、その為にタキオンに色々な心無い言葉を浴びせかけた。今更、それを許してくれと言っても詮無い事かもしれない。彼女が一生をかけて自分に罪を償わせ、自分を恨んでいくというのならば、それを受け入れていくべきなのかもしれない。これから幸せになろうだなんて話自体が、虫の良い話なのかもしれない。タキオンは、俺を恨むためだけに生まれたのかもしれない。

 理想や恨みが、どちらか一方から出たのだと判別しさえすれば、話はまだこんがらがららずに済んだかもしれない。ただ、双方共、自分の身の内から出た理想を持っていて、その中に恨みが見え隠れしているかもしれなかった。二人共、感情というものに敏感なのかもしれない。いや、違うのかもしれない。

 田上には、もう詳しい所は分からなかった。幸せになりたくはあったが、タキオンか自分か、はたまた、誰かがそれを許してくれなかった。田上の頭には、常に可能性というものがあって、それに怯えて過ごしていた。

 極端な話で言えば、この通りには、通り魔が居て、今にも横の人がナイフを取り出して自分を刺してくるのではないかという話だ。

 可能性としては、限りなくゼロに近いが、実際に事件があれば、それが田上の頭で再現された分だけ現実に近くなる。田上もこのような自分の特性は分かっているのだが、タキオンの前となると、右も左も分からなくなる。

 どうして、自分が、タキオンを裏切らないという保証があるのだろうか? どうして、タキオンが、自分を裏切らない保証があるのだろうか?

 いや、タキオンは恋人であるだけ自分よりはマシだ。問題は自分だ。どうして、自分がタキオンを裏切らない保証があるのだろうか? 人の好意なんて今まで意にも解さなかった自分が、今一度人に向き合って、その好意を受け止めきれるという保証はあるのだろうか? タキオンだって、何から何まで大人じゃない。そんな中で彼女をどう評価したらいいのだろうか? 自分だって、零から百まで人を愛せるわけじゃない。そんな中で、どうやって、人を愛せというのだろうか?

 逃げれるものなら逃げている。そんな感情を持つ人間を誰が信用するだろうか? まず第一に自分が信用しない。してやらない。そんなのは人間の屑だ。

 それでも、この世で一番自分の信用における恋人が、「君は信用できる人間だ」と言ってくれるから、できるだけ自分を信用してやるようにしているのだ。ただ、こんな奴だって、腹黒い一面を持っている。その面をどう説明すればいいのだろうか? 綺麗事で、「君の腹黒い所も美しい」と言ってやればいいのだろうか? そんな者は恋に酔いすぎている。誰だって、人間の腹黒い所に好感を持つ者はいないのだ。持つ奴は詭弁だ。

 田上は、自分の頭のなかを取り巻く考えを鬱陶しく思った。

 バスは、タキオン一人をホテルに置いて、走り出していった。結局、タキオンを抱き締める事もできずに、胸のムズムズも解消する事はできずに、田上はその場を後にしてしまった。できる事なら、尤もらしい愛を彼女に伝えたかったのだが、別れる際に「バイバイ」と言うのが精一杯だった。田上は、今のような状況で、タキオン一人を残して仕事に行く冷淡な彼氏にはなりたくなかった。

 

 関係者控室に田上は行った。控室は、レース場の様な個室ではなく、それなりの大部屋に、机が何個かと、椅子が幾つか、そんな中に関係者が詰め込まれる。と言っても、関係者の皆が皆ここに居るわけでもなく、普通に時間通りに来る者もあれば、別の部屋に通される人も居る。

 田上の役目は、タキオンを特別扱いし過ぎず、リリックとエスが、順調に係り員の指示に従って、リハーサルなどをする事を見守ることだった。ただ、田上としては、二人を見送れば、後は大概暇だった。だから、まだ時間がある内に、タキオンの下へ帰ろうかとも思ったのだが、ここからホテルまではそれなりに距離がある。田上がぜえぜえはあはあと全力で走って十分程だ。だから、少々躊躇って、マテリアルに相談してみると、「走りゃあいいんじゃないですか?」と他人事だ。

 タキオンにLANEで聞いてみると、『私の事は気にしなくてもいいよ』と帰ってきた。拗ねたとかではなく、忙しい田上を気遣っての事なのだろうが、これでは、あまりに健気で申し訳ない。田上は、少々右にも左にも進めないジレンマを抱えたまま立ち往生していた。そして、結局、立ち往生するままに、タキオンの所へは帰らない事を選択した。

 田上は、頭を抱えながら、隣で備え付けられているお菓子をパクパクと食べているマテリアルに言った。

「……俺は、どうすれば良かったんでしょうか?……」

「……悩み過ぎですよ。案外、タキオンさんの方だって、田上トレーナーが明るくなれば、向こうも明るくなるんじゃないですか?」

「……そうですかね…?……」

「……そうじゃないですか?」とマテリアルは、薬指に付いた菓子の欠片を摘まみながら、田上を見て言った。

 田上は、どうも言いたい事があったのだが、下手すると、タキオンの悪口と受け取られかねないし、実際、ほとんどそのようなものだったので、田上は中々口に出して言えなかった。すると、マテリアルがこう言った。

「…何か言いたい事が御在りで?」

「…………タキオンの事が嫌いっていうわけじゃないんですけど、……僕にはどうも、打開策が思い浮かびませんよ……」

「…なんの?」

「………どうすればよかったんだと思います?」

「…だから、なんの?」

「………タキオンが、俺を好きとか、……恋人という関係とか…」

「……付き合えばいいんじゃないですか?」

「……付き合ったって辛いだけですよ?」

「そりゃあ、そうすると、生きてるだけで辛い理論も充分に成り立ちますね」

 マテリアルが、皮肉っぽく言った。田上は、頭を指先でぽりぽりと掻いた後に、口を開いた。

「………そりゃあ、…俺だって、なんで生まれてきたんだろうって思う時はありますよ」

「思ったって無駄ですよ」

「……んん……。……なんで生きてるんですか?」

「…月曜に言ったじゃないですか。…生まれたから生きてるって」

「……なんか、適当すぎませんか?」

「じゃあ、自分で探してみたらどうです? …多分、これ以上は見つからないんじゃないでしょうかね?」

「……まぁ、…そんな事はどうでも良いんですよ。タキオンが、明るい顔で居てさえくれたら」

「我が身よりタキオンさんの方が大事と?」

「ええ…」

「……ずっと聞きたかったんですが、過去が故郷って何ですか?」

「…過去が故郷?」と田上は、まるで、今は初めて聞いたかのような反応で、そう聞き返してきた。

「ええ、そうです。 過去が故郷って何ですか?」

「………別に、……深い意味はありませんよ」

「……じゃあ、なんですか?」

「………何って言われても、……ありませんか? そういう感覚」

「……過去が故郷?」

「そうです」

 そう言われて、考えてみると、マテリアルは自分の胸に思い当たる様な、思い当たらない様な感覚がする。「過去が故郷」という言葉を考えてみて、浮き上がってきた思いを捉えようとした途端に、その想いは、ふわりと手の中で萎んで消えて行ってしまうような感覚だ。

 だから、マテリアルは少し難しい顔をして考えた後に、「分かりませんね」と田上に答えた。田上は、少し眉を寄せて口角を上げたのちに、「そうですかぁ…」と残念そうに言った。

「でも、何でしょうかね? 私だって、ノスタルジーは好きですけどね?」とマテリアルが言った。

「……過去が故郷ってのは、そのままですよ。場所じゃないですよ。…僕は九州出身ですけど、…別に、九州が悪い所ってよりかは、……何と言うか、……過去そのものなんですよね、ふるさとは。場所じゃなくて、記憶なんですよ。ふるさとって言うのは。…だって、マテリアルさんも覚えがあると思いますけど、…自分の住んでた町って、子供の頃と大人とでは全然違うでしょう? あそこのドラッグストアが潰れたとか、書店が潰れたとか、そういうので、街の景色は全然変わってくる。僕はそういう所を故郷とは呼びたくないんですよ。記憶の中そのものが故郷なんですよ」

「……タキオンさんが可哀想じゃありませんか? そういうこと言ってあげたら」

 マテリアルが憐れな物を見るような目付きで、田上を見ながらそう言った。田上は目を逸らしていたので、その表情こそ分からなかったが、口調から、マテリアルが自分の事を憐れんでいるのは理解できた。

「……だから、…付き合ったって辛いだけって言ったんですよ」

「その気持ちをもっと前向きにしてあげなきゃいけないんじゃないでしょうか?」

「………大分、…前向きにはなりましたがね…。……マテリアルさんが言うように、僕の方にも悪い事があるでしょう?」

「…」

「……この悪い所をどうするべきでしょうね?」

「………とにかく、今の所、田上トレーナーが悪すぎるという事は無いと思いますがね? ……私もあのLANEを拝見しましたが、問題は、結構タキオンさんにアリですよ」

 マテリアルが、あのLANEを見たと言うと、田上は少し動揺した。一体どこからどこまで見たのだろうか? 自分の醜態をどれくらい見たのだろうか? と頭の中で考えを巡らせたが、考えても詮無い事だったので、すぐに話し出そうとした。しかし、その前に、田上の同様を知ってか知らずか、マテリアルがニヤッとしてこう言った。

「あ、そう。見ましたよ? LANEになると、随分人が変わるんですね?」

 田上は、これにどう返すかと、瞬時に頭を働かせてから口を開いた。

「……趣味が悪いですね…」

「いえいえ、お褒めの言葉、私には勿体ない限りです。……良い顔文字使ってますね?」とまた、マテリアルはからかってきたから、田上は最大限の嫌そうな顔をして、話を逸らした。

「どうやって、タキオンからそのLANEを見たんです?」

「ん? …頼んだら見せてくれたんです。大分、落ち込んでいる感じでしたからね」

「へぇ……。トランプって何してました?」

「トランプ? …ババ抜きとか神経衰弱とかですね。…タキオンさん強かったですよ?」

「……強そう…」

「…まぁ、後は、タキオンさんにでも聞いておいて下さい。……問題はタキオンさんですよ? あのLANEは一体どういうつもりなんでしょうね?」

「……自分よりも仕事を優先されたことが気に入らなかったみたいです…」

「…そうタキオンさんが?」

「…はい」

「……あれはですねぇ…。…やっぱり、あまりにも田上トレーナーの方を思いやってない言葉ですからね……。あれを続けてたら、いつか大事なものまで失いますよって事は、ちゃんとタキオンさんの方にも知らせてやらないといけないですよね…」

「……一応、言いましたがね…」

「…田上トレーナーの言葉だとね……、自分に負い目があると思っている分、タキオンさんの方に勝負する手札を与えてしまいますからね…」

「…実際、悪い所はあるでしょう?」

「……悪い所があるって言っても、タキオンさんの方は、田上トレーナーが自分の事を大切に想っているという事を逆手に取って、好き放題しようとしますからね…。……かと言って、田上トレーナーに、タキオンさんを大事に思うなと言うと、逆戻り…。タキオンさんに――田上トレーナーを大事にしろと言っても、言うだけじゃ多分変わらないでしょうね…。…何か、……んー……、…良い案でも…あれば、…いいんですがねぇ……」

 マテリアルがそう言い終わると、田上もマテリアルもその事についてじっと黙ったまま、考えていたのだが、一向にその良い案とやらは思い浮かんでこなかった。全くの打開策もなかったのだが、マテリアル不図、――これでは辛気臭すぎる、と思うと、田上には全然別の適当な事を話し始めた。田上は、それを適当に聞いていた。

 

 マテリアルが話している途中で、タキオンからメッセージが来た。『今何してる?』との事だったので、『控室でぼーっとしてる』と答えた。ここで、マテリアルの事を持ち出さないのは、タキオンを刺激しないためだ。下手に刺激して、またああなってもらわれては元も子もない。適度な言葉選びは重要だ。

 タキオンは、その後に、またこう連絡をくれた。

『明日の午前中に行ける場所とかあるかい?』

 田上は、少し考えてから、文字を打ち始めた。

『散歩とかならいけるけど、ここらへんで遊ぶ場所ってなると、また探さないといけない』

『無理に探さなくてもいい。遊ぶよりも君と居るほうが良い』

『了解』と田上はメッセージを送ったが、なんだか良くない流れのような気もした。この後には、また『君に会いたい』とか『寂しい』とか言う文言が、向こうから送られてくるのではないかと、少し身構えていたのだが、案外そんな事もなく、LANEの画面はそれから動かないままで終わった。マテリアルはスティック菓子を咥えながら、スマホを弄っていた。

 田上は、暫く、タキオンからメッセージが来るのを待ってみたり、それとも、自分が送ってみようかしら、とも考えていたりしたのだが、結局、タキオンからメッセージも来ないし、自分からメッセージを送るにしても、なんと送ればいいか思いつかなかったので、もうそろそろスマホを見つめるのもやめて、本格的にぼーっとしようかという所で、タキオンからメッセージが来た。

『圭一君』とただ呼び掛けてきたから、田上はすぐに『なに?』と打ち返した。

『朝のメッセージを無視してごめんなさい』

 田上は、こんな顔も見えない所で謝ってくることに、若干の卑怯さを感じたが、タキオンが、どうしても自分と話したいという気持ちは分かった。田上だってそうだ。タキオンがそうであるなら、謝ってくるという事も出汁には使うだろう。田上は、少々釈然としないながらも、『大丈夫』と答えた。

『大丈夫。気にしてないから、それ以上謝らなくても大丈夫だよ』

 その後に、タキオンはこう送ってきた。

『君と話したい』

 田上もこの提案はいいものだと思った。直接声と声で話せるなら、まだ文字よりかは感情や言葉の想いの伝えようがある。だから、こうタキオンに返信した。

『今からなら電話できるかもしれない。する?』

『したい』と返ってきたから、田上は、隣のマテリアルに「ちょっとタキオンと電話してきます」と声をかけつつ、タキオンには、『電話かけられる場所探すから、ちょっと待ってて』と送った。

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