雨が降る建物のなかで人気のない所を探すのは少々骨が折れた。もうすぐライブなので、関係者の入り口には人が出入りしているし、かと言って、声が外に放たれる窓らしい窓もない。
それで、田上は仕方がないので、人気のないそれらしい廊下の中ほどに立って、タキオンに電話をかけた。プルルルルと田上の電話の音が鳴るか鳴らないかの内に、タキオンがすぐに電話に出てきて、「もしもし」と然程覇気のない声で言った。田上は、その声を聴いて少し安心するとこう言った。
「電話できる所全然見つからなくて、遅くなっちゃった」
「全然構わないよ」と向こうから低いタキオンの声が聞こえてきた。
「…そっちはどう? 大丈夫そう?」
「…一人寂しくライブを観賞しようとしている所だよ」とタキオンは、冗談めかした低い声で言った。
「…そう。……何か話したい事ってある?」
「…あんまり」
田上は、そのタキオンの返答に笑みを作ると、「俺も」と言った。
「でも、あんまり、電話はやめたくないよね」
「…私も」
「……」
「……」
それから、二人共、暫く黙って、向こうにいる相手を感じながら、静かに息をしていた。それから、田上が何か話したくなって口を開いた。
「……話したい事ってさ、……たくさんあるんだけどさ」
「…うん」
「………話すと微妙だよね」
「…うん」とタキオンは、相手のその気持ちを理解しながら、頷いた。
「………本当だったら、タキオンにももっと話したい事があるんだけど、…話し出すと、それが途端につまらない事だったり、…お互いがあんまり話したくない事を話すようになる。……もっと明るい事を話したいんだけどね?」
「……私のせいだね…」
「………あんまり暗くなられると困る。暗くなればなるほど、お前の魅力は半減していくんだから、もうちょっと、…前みたいに、……こう……――私と共に行こう!的なやつをさ、…欲しいよ」
田上の冗談めかした言葉に、タキオンが覇気なくふふふと笑った。
「…――私と共に行こう?」
「そう。……別に、今のお前も今のお前で、魅力はあったりするんだけど、…やっぱり、お前は笑った方が可愛いよ」
「……『好きでもないくせに』って言ったのに?」
「…掘り返せば掘り返した分だけ辛くなるのはお前だよ。…俺の第一目標は、お前が笑顔で、元気でいる事だよ。それが御両親の為になるし、俺の為にもなる」
「………私の心は醜いよ…」
「…そう思えば思った分だけ、お前も醜くなる。…俺は気にしてないんだし、お前が過去にやったことは、全て吹っ切らなきゃ」
「………君も過去にとらわれているのに?」
そう言われると、田上も少し困って、頭をポリポリと掻いてから言った。
「…そう…、そう言われると、……俺も少し困るんだけどさ? お前だって、俺がお前にした事ほとんど気にしてないんだろ?」
「うん…」
「…なら、お前も気にしなくていいんだよ。今の言葉だって、双方に重みのある言葉だけど、それが、どっちもマイナスの方向に働くと不味い。どつぼだ。……要は、…責めるのは簡単だよ。相手の矛盾を指摘するだけでいい。…でも、それだけだと、どの方向にも動かない。ただ、自分の憂さを晴らしてるだけになる。……だからさ、……あんまり……、俺が言うのもなんだけど、…きつい言葉は言わないようにしない? …その方が、お互い、そんなに傷付かずに済むと思うんだよ」
田上の言葉の所々に、タキオンからは矛盾点が見える。それらをすべて無視したほうが良いのだろうか? それとも、指摘したほうが良いのだろうか? と、タキオンは電話越しに彼の声を聞きながら考えた。確かに、お互い傷付かないのは賛成だが、果たして、これから先、誰も傷つかずに済むなんて事が絶対にあり得るのだろうか? それは、前に進むと見せかけて、逆に、後ろに引き返しているだけではないのだろうか?
その後にこうも思った。
――ただ矛盾を指摘するだけでは、その場に停滞しているだけになるのは確かだ。
そうすると、自分に考えろと言うのだろうか? 今、もう何もかも失くしてしまった自分に? 唯一の取り柄と言えるのは、圭一君という優しい彼氏が傍に居てくれることくらいだ。
つまり、自分には何もない。考える力も走る力も、勝つ気力も負ける気力も、これからの展望も自分の魅力も。何もかも失ってしまったのだ。いや、元々あるというのが、全て自分の妄想だったのかもしれない。確かに、昔、元気のよかった私は居るが、今は、ただ空虚な幻に思えてくる。そんな自分が、彼氏に何を教えろと言うのだろうか? どんな矛盾から解放しろと言うのだろうか?
――今の自分にあるのは、ただ一人、世界で一番優しい彼氏のみなのだ。
タキオンが、暫くそう考えて黙っていると、待ちかねた田上が口を開いた。
「タキオン、…聞いてた?」
「……うん…」
「……どう思う?」
「………良い…とは思う。……でも、……そう上手く行かないのも事実だろう?」
「……上手く行かないからって、初めから投げ出すような奴じゃなかっただろ?」
「……以前の私はね…」
「…今のお前は?」
「……君以外には何もないよ……」
「………俺だけ?」
「…そう。…君だけ…」
「…………そんな卑屈にならずにさ、…もう少し…、上手く行く道を探してみたりしない?」
「……上手く行かないよ…」
「……上手く……、行きたくないの?」
田上は、今の言葉に選択ミスを感じつつもそう言った。
「………まぁ、………どうだろうね…」
「…………だとするとさ、………どうしたい? ………いや、…この言葉も違う……。……でも、上手く行かないんだとしても、もう少し…何と言うか…、…未来の事?を考えなきゃ。……上手く行かないんだとしたら、上手く行く方法を見つけるしかない。…タキオンだって、これまでそうやって、自分の足を治してきたんだろ?」
「……君に黙ってね…」
「………俺が怒ったのって、本当に嫌だった?」
「………別に…」
「…………タキオンが、…俺のことを許す気が無いんだったら、…そりゃあ、何も進展はしないよ。……許してくれなんて言える立場じゃないけど、…俺の事が好きで、これからも仲良く生きていきたいんだったら、……許してくれないと、…この先どうしようもない……」
「………許さなくても…傍に居るだろう…?」
タキオンが、いつになく辛気臭く、ドロドロとした言葉を吐いた。田上は、胸が締め付けられるような思いだった。
「………タキオン…。……お前だって苦しいだろ?」
「…………でも、傍に居てくれる……」
「………お前だって、心の底のほうでは何もかも分かってるんじゃないかと思う。考える能力のない人じゃないから。……お前にあるのが俺だけなんて事は全くないって事は、タキオンが一番知ってると思う。そう言えば言う分だけ、また雰囲気が悪くなっていくのも。………俺は、…そんなお前でも、お前の事が好きなんだよ」
そう言われると、タキオンは体の中から何かを吐き出すように、口を開けたり閉じたりを数回繰り返したが、肺の中にある苦しさは出てこなかったような気がした。それで、またこう言った。
「………でも、……私が弱ったら、…君は私の事を見てくれるだろう?…」
「…………弱る…事だけが、人の気を引く方法じゃないと思う……」
「…詭弁かい…?」とタキオンは皮肉まじりに言った。
「……詭弁でもいいよ。…とにかく、俺を助けると思ってやってくれ。…このまま辛いままではいたくない…」
その後に、電話の向こうから彼のため息が聞こえてきた。そうすると、タキオンの胸にも同情の念が湧いてきた。無論、タキオンだって、苦しいのはあんまり好きじゃないし、大事な彼氏が苦しんでいるのも、あんまり見たくはない。
だからと言って、自分の理想を捨てきれないのが、今までのタキオンだったが、タキオンは、――もうそろそろ、自分の理想を捨て去る時が来たのかもしれない、と思った。具体的な方法は分からなかったが、それでも、彼氏をこれ以上苦しませるわけにも行けないし、自分だって脱却できるならしたい。
だから、タキオンは深呼吸をすると、今まで無意識に入れていた体の力を抜いて、電話の向こうの彼氏に向かって、こう言った。
「分かったよ……。…できるだけ努力はしてみる」
これに、彼氏の方は大いに安心したようで、心底から感謝するように「ありがとう」と言った。タキオンは、一瞬、この彼氏の心をまた締め付けてやりたい衝動に駆られたが、――強くなれ、強くなれ、と自分に言い聞かせた。
その後に、案外呆気なく電話は終わって、田上はマテリアルの所に行ってしまった。仕事だと分かってはいたが、自分はこのためだけに呼び出されたのかと思って、少し複雑な気持ちになった。
ただ、やっぱり胸は空いていたし、頭もなんだか晴れ晴れとしたような心地だったので、まぁ、許してやろう、という気持ちになった。どうせ、帰ってきたら、真っ先にこちらに来る圭一君の事だから、私の事を都合の良い女だと思っているという事はあり得なかった。それよりも、少々元気が湧いてきたので、これからの事に想いを馳せていた。
これからの事と言うと、よく言う子供は何人作るとか、軽井沢に別荘を建てて、そこに遊びに行くとか、そういう人生設計ではなくて、田上とこれから何を話すのか? という事だった。どっちにしろ、話す事は山積みにある。ここで、自分が一々落ち込んだり、圭一君をメンヘラの如く束縛したりしてみてもダメだろう。また、同じことの再来になる。
タキオンは、澄んだ頭でそう考えられることが少々嬉しかった。ここ最近は、自分の欲望に頭を苛まれていたような気がしたから、このような論理的な考えは久々じゃないかと思った。
落ち込まないで話を続けていくと言うと、少々事は難しそうに見えるが、難しそうに見えるのならば、簡単に見える場所も探していけばいい。初めの頃は、そうやって圭一君に接していたような気がする。…と言っても、大阪杯で付き合い始めた頃も、少々欲望が顔を覗かせ気味ではあったが。
何を考えようと考えていると、考える事がぐるぐると頭を回ってきて、少々覚束ない心地になった。だから、タキオンは、自分のベッドにゴロリと横になると深呼吸をして、――圭一君とのこれからについて考えよう、と自分に言った。そして、こういう問いを出した。
――圭一君の郷愁とは?
果たして問題の本質がそこにあるのかは分からないが、圭一君が、過去の事を「お前が思っている以上に魅力的に思っている」と公言したのは事実だ。そうすると、その中に何かあるのではないかと疑ってしまう。いや、あることは確かなのだろうが、それが果たして、どのように働くのかが分からない。良い方向に働くのか、はたまた、悪い方向へ働いてしまうのか。それが、タキオンにはとんと分からなかった。
タキオンだって、懐かしいという気持ちが分からない事はない。ここ最近読んでなかった本を久々に見てみれば、第一に――ああ、懐かしい、と思って、ページをぺらぺらと捲り、時には読み耽る。だから、田上の気持ちがまるっきり分からない事はない。しかし、タキオンの感情に照らし合わせて考えてみれば、それ程問題はないかのように思う。タキオンが考えている限りでは。
しかし、田上が言うには、「お前が思っている以上に魅力的に思っている」という事なのだから、タキオンが思う以上に、それが魅力的なのだろう。――男という生き物は皆そうなのだろうか?と思った。遺伝子上の違いはありそうだが、タキオンがこれまで見てきた男性を思う限りでは、そのような男性はいなかったように思う。いや、無論、それ程親しくもない男性が大勢だから、田上のような話は聞けなかっただけなのかもしれないが、創作で語られる男性を鑑みてみても、自分と然程変わらないように思う。
その後に、――いや?と反論を思いついた。昔見たアニメ映画には、過去を恋焦がれる男性が現れていたような気がする。そうすると、男性にその特色が濃いような気はしたが、生憎、タキオンはそのような論文は読んでいなかったので、知らなかったし、大概個人差だ。そう言えば、女性作家のそういう小説も読んだような気がする。
男という生き物にそういう特色が強いにしろ、強くないにしろ、問題はそこではなく、田上がそういう人間であるという事だ。そして、それがどれ程の問題があるのかという事だ。男にそういう特色が強いのか、という事は、その問題の重大さを測るためだ。
ただ、まぁ、言ってしまえば、そういうのは必ずしも値が一定に保たれているわけでもなく、こういう場合は、個人差があるのではないかと思う。
男に過去を偲ぶ特色が強かったとしても、立派に結婚して、立派に年を経ていく人も居る。できれば、自分の彼氏である圭一君もそのように生きてほしい。妻の事を大切にして、一緒に生きてほしいと思う。
そう思った後に、ん?と考えついた。
――今の自分たちに何か悪い事があるのだろうか?
圭一君は、ここ最近、少しは前向きになったようだし、私も今はなんだか気分はいい。これが、これから先も長く続いて行けばいいのだが、…これまでは、こうやって気分がよくなっても、必ず、二人の間に諍いが起きた。大抵は自分の物かもしれない。圭一君が私を見てくれないとか、圭一君が私を置いてったとか。問題が双方にあるように見せかけた自分のいちゃもんなのではなかっただろうか? とタキオンは思ったが、実際、田上は、「お前が思っている以上に過去の事を魅力的に思っている」と言っているのだから、あながち間違いでもないだろう。
ただ、やはり、圭一君の言うように、それをマイナスの方に振り切ってはいけないから、自分も何とかしなくてはいけない。特に、ここ最近は圭一君のほうも前向きになったと言っているのだから、自分の事を振るつもりはないのだ。そこら辺には、もうあんまり怯える必要もないだろう。
では、問題はどこにあるのだろうか? やはり、過去なのだろうか? と思っても、タキオンには解決策がとんと思い浮かんでこなかった。
過去と言っても、タキオンにとって、過去は過去であり、過去以外の何物でもなかった。今はただ、田上との恋に夢中になっているタキオンにとって、過去が恋ほど良いものには思えなかった。田上の口ぶりからすると、タキオンは――圭一君は恋よりも過去の方が好きそうだ、と思っていた。
無論、自分の事を嫌っているというわけではないだろう。ただ、タキオンが思っているより魅力的に思っているという事に過ぎないのだ。
だから、言ってしまえば、過去に恋をしていると言ってもいいんじゃないかと思う。タキオンも相手が生身の女ならば、まだ現実感を持って立ち向かえたのだが、相手が、彼氏自身の空想となると、少々正体を捉え難かった。また、危険度も判別し難かった。これが、現実の生身の女に彼氏が恋しているというのならば、危険度は絶大な物だろう。なんとしてでも、今目の前にある恋を打ち止めなければ、自分の事は忘れ去られてしまう。
そう思った後に、――そういう時には、もうすでに忘れ去られているのかもしれないな、と思った。結局、自分に振り向かせられなかったから、他の女に目移りしてしまったのだ。それか、元々そういう人だったから目移りしたのだろう。そうすると、圭一君がまだ私の事を大切だと言ってくれるうちは安泰だし、私自身が、圭一君にとって魅力的な人間である内もまた同様だ。
ただ、話を戻せば、問題は人間じゃない。取るに足らない空想にすぎないものかもしれない。あの日が懐かしいなぁ、と思った事はあるが、何も「お前が思ってるより魅力的」と発言するほど恋焦がれているわけではない。公言するからには、それなりの重みはあるだろう。
だが、今更それが自分たちの間に何の障害になるだろうか? 彼氏の方だって、もう帰ることができないことくらいは分かっているはずだ。そして、実際に、物理的に彼自身がその郷愁へ帰ることは、今の科学では不可能だ。最早、彼氏の目の前に居るのはタキオン自身であって、それ以下でもそれ以上でもない。実際に、実行すること自体が不可能なのだからしょうがない。それとも、突然、鹿児島の方に雲隠れでもしてしまうのだろうか? ある日起きたら、隣の布団が空になっているという事があり得るのだろうか? あの、私の事を愛してやまない圭一君が? 私を置いて行ってしまうのだろうか?
タキオンにはどうもそうなるとは考えられなかった。それくらいに、タキオンは、田上に大切にされていた。また、田上の過去の代わりにタキオンが居ると言っても良かったのじゃないかと思う。これについては、タキオンは、言葉としてそれを感じてはいなかったが、雰囲気で、田上が自分へ依存らしき感情を持っている事に勘付いていた。
ただ、タキオン自身が、田上の理想的な過去の代わりにしろ、それが、タキオンへの愛の担保になっていることは事実だ。少しばかり、タキオンの理想の愛の形とは形状が異なっていたが、タキオンとしては、田上が自分のことを大切に思ってくれていると感じていたので、大した問題には感じなかった。
ただ、それは、別の形でタキオンの中に問題意識として現れていた。それは、やはり『圭一君が私の事を見てくれていないのではないか?』ということなのだが、これもあんまり形は判然としないし、心が落ち着いた今では、本当にそうなのかすらあやふやだった。
ただのいちゃもんなのではないかとすら思うくらい、タキオンの中で、その言葉は判然としていなかった。ただ、なんとなくの違和感がそういう言葉となって現れ出て、タキオンに問題を投げかけていた。タキオンは、それが問題なのかすら怪しいと思っていた。
タキオンがその問題を真剣に受け止めない一番大きな理由は、そもそも、田上が一番大切に思っている過去の代わりとして、タキオンがそこに居るという事実だろう。
それすなわち、現実の世界では、タキオンが一番大切な事に変わりないのだ。得られないものがそこにあるからこそ、その穴を埋める、代わりの大切な女性を見つけて、その穴を塞いだ。
傍から見れば、それはこの世で最も大切な女性だ。本人たちもそう勘違いしているだろうし、田上のタキオンへの想いをそうそう偽物であるとも決めつけられない。田上だって、タキオンに対して、女性としての魅力を感じている。感じていても尚、『過去』はそこに存在し続けているから、分かりにくい事この上なく、厄介な事この上ないのだ。
タキオンが、―—自分たちの間にある問題とは一体何なのだろう? とか、――果たして、実際に問題はあるのだろうか? とか考えているうちに、自然の成り行きとして、「結婚」という語に行き着いた。こ
れだって、タキオンが学生の内は絶対に結婚ができないのだから、今考えたとて、あやふやなものだ。ただ、やっぱり、タキオンは、――圭一君は本当に結婚してくれるのだろうか? と思って、ベッドに寝転がりながら考えていた。
今考えて見た所では、結婚はしてくれるだろうが、あんまり喜んでするという感じではなさそうな気がした。多分、言い出すのはタキオンだろう。そして、一回や二回は、「その内ね」と言って誤魔化すつもりかもしれない。それで、タキオンがいよいよ怒り始めたら、重い腰を上げて、結婚の準備を始めてくれるかもしれない。だから、流れではやってくれるだろう。
——それとも? とその後に思った。――それとも、今の圭一君だったら、案外自分からやってくれそうな気もする。いや、するかな?
こんな具合に、疑心暗鬼になって、一歩進んでは二歩下がって、また一歩進んでいたのだが、最終的には、――あんまり自分から動いてはくれなさそうだな、という事で決着がついた。
卒業して、さぁ、結婚しようとなるかと言うと、タキオンから見れば、あんまりしなさそうだった。四月一日になってもなんとかかんとかごにょごにょ言うだろう。四月二日になっても、まだごにょごにょ言うだろう。お前の誕生日とか…と言い出すかもしれない。
そうして、タキオンの誕生日に結婚することを約束してから、その日になって、ようやくタキオンの為に重い腰を上げるだろう。今の所の、タキオンから田上への解釈はこれだったが、予定という事を考えてみると、また話は違うような気がしてきた。
まぁ、圭一君の性質として、予定にない事はあまり好まないだろう。だから、ともすると、三月も後半になったあたりに、具体的な予定はどうする? と相談を持ち掛けてくるかもしれない。――いや、その時にはもうすでに、自分が楽しみ過ぎて、具体的な言予定を立てようとしているかもしれない、とタキオンは思ったが、これでは話が逸れるので、一応、自分は何も話を持ち出さなかったという体で、思考を続けてみることにした。
圭一君の性質として、予定にない事はあまり好まないから、結婚予定の相談を持ち掛けてくるかもしれないが、タキオンの予想としては、その相談を持ち掛けてくるかこないかは、五分五分と言ったところだった。
持ち掛けてくるとしても、結婚をする嬉しさに胸を膨らませるような表情をして持ち掛けては来ないだろう。恐らく、九割、至極真面目な表情をして、自分に相談を持ち掛けてくるのじゃないかと思う。
決して、――わぁい! これからタキオンと結婚できるぞー! というテンションではないだろう。低い声で、――ああ、これから、俺はこの人と結婚してしまうんだな、という表情で、相談を持ち掛けてくるのじゃないかと思う。
そう考えてみると、問題は大アリのような気がした。恐らく、この世で、自分と義務で結婚してほしいと思っている女性は居ないだろう。殊に、その人に恋をしているのならそうだ。
タキオンとしても、――ああ、これから、俺はこの人と結婚してしまうんだな、という調子で、結婚の相談はしてほしくない。せめて、彼の普段の調子に合わせて考えてみるならば、――結婚しようか、タキオン。くらいの前向きな姿勢は持ち合わせてほしいものだ。前向きであれば良いんだから、何も結婚する事を今から地獄に落ちるような事と捉えないでほしい。
この思考によって、問題は明瞭化したような気がしたが、明瞭化した問題はあまり気持ちの良いものでもなかった。問題なのだからそうなのだろうが、ともすると、タキオンは、また今日の午前中のときのような心地に戻りそうな気がした。そうした後に、タキオンは自分の気をしっかりと持って、――圭一君を助けよう、と自分に言い聞かせた。
無論、圭一君は自分の事を好きでいてくれている。でも、結婚は怖い。タキオンもその気持ちは分かる。恐らく、まだ子供でいたいとか、そんな事じゃないのだろうかと思う。厄介な事だろうし、分かりにくい。どこからどう手をつけて考えればいいのか、判断し難い。
それで、タキオンは、少し考えてみた結果、――まず、圭一君は本当に子供でいたいのか、ということについて考え始めることにした。
過去を魅力的に思っている人間だから、子供でいたいと思う事も例外ではないのじゃないのだろうかと思う。むしろ、これが問題の核心ではないのだろうか? とすら思った。
良い記憶として脳裏に輝いている過去は、いつだって華々しく綺麗に思う。魅力的に見えるからこそ、綺麗な過去がそこにあるのだろう。逆に言ってしまえば、魅力的に見えない過去は汚い。
――それとも、圭一君は汚い過去もひっくるめて魅力的に思っているのだろうか? とタキオンは考えた。――そもそも汚い過去とは一体何なのだろうか? …例えば、失敗とか、怪我とか病気とかそこら辺だろうか? いや、しかし、病気に関して言えば、学校を早く帰れるとか、学校を一日休んでいいとか、イレギュラーな幸せを楽しめる。怪我は、言ってしまえば、痛い事には痛いが、今の圭一君に後に引くような大怪我の後は見えない。だから、危険に対して敏感にはなるだろうが、それ以上でもそれ以下でもないような気がする。失敗も、喉元過ぎれば何とやら、ということわざがある。圭一君もそのタイプだろうか、と思ったが、そう言えば、中学の時に告白が失敗したことをまだ二十五になるまで引きずっていた。あの記憶の事はどう思っているのだろうか? 圭一君が自分の事を――バカだなぁ、と言っていた記憶はあるが、果たして、それがまた繰り返されると分かっていても尚、過去に帰りたいと思うのだろうか?
タキオンには、田上がそう思うような気がした。つまり、それは喉元過ぎれば熱さ忘れるという事なのかもしれない。恐らく、そんな汚い過去の事なんてどうでも良いと思っているのかもしれないだろう。彼にとって重要なのは、汚い過去を思い出して煩悶する事ではなく、綺麗な過去のなかに飛び込んで、思い出に耽るという事なのだろう。
そう考えていると、タキオンは元の問題を見失ってしまったので、ゆっくりと、自分は今何を考えていたのかを思い返した。
つまり、今自分は、圭一君が、なぜ結婚に対して忌避感を持っているのかについて考えていた。そして、圭一君が子供でいたいのだろうと考えた。それと言うのが、子供の時の記憶の方が、より魅力的で幸せな物だからである。
つまり、これから先の幸せについては、全く信じていないとか、全く考えを巡らせていないとか、そんな事じゃないかと思う
。勿論の事、タキオンだって、田上の気持ちが分からない事はない。現状維持は素敵な物だ。自分の頬に触れてくる彼氏の手が永遠に歳を取らなければ、自分だってその愛を永遠に享受できる。だから、ここから先に進むのは、時間が進むのと一緒だったから、タキオンもあんまり結婚はしたくなかったのだが、結婚したらしたで生まれてくる幸せもあるとタキオンは思う。子供が生まれてくるとか、時間が進んでより親密になるとか、一緒に生きることができるとか、まぁ、それなりの楽しみが自分の目の前には待っているが、彼にとってはどうなのだろう?
それについて、少し考えてみると、やっぱり、圭一君は結婚に対して望みらしい望みを持っていないような気がした。ここ最近は、自分の思いをタキオンに打ち明けてくれるが、その中に結婚が楽しみなんて言葉は全くないし、楽しみを語るなんて事もない。二人の間に子供が生まれてくることすら、一種の重荷として捉えていそうだった。
以前に、彼は「自分一人の命すらままならないのに…」と言った事がある。これは、結婚して子供を産んでも、家族の命を支えていく自信が無いという気持ちの表れだろう。この気持ちは一体どこからやって来たのだろうか? やはり、過去を恋い慕う気持ちからだろうか? それとも、家族を支えていく自信が無いから、過去を恋い慕うのだろうか?
ただ、これでは卵が先か鶏が先かという議論になってしまうので、タキオンは、それについて考える事はやめた。もしかすると、同時発生的なものかもしれない。
彼が自信のない男だとして、彼をどうやって、勇気づけてあげたらいいだろうか? 恐らく、理性的な話し合いでは、また堂々巡りを繰り返すだけのように思う。だから、感情に訴えかけるような議論にしなければならないだろうが、そうすると、また喧嘩か何か感情的な議論が勃発するのではないかと思う。
いい加減、あのような思いはタキオンも懲り懲りである。融通の利かない彼氏になんて怒りたくもない。ならば、「私を助けると思って」と言ってみれば正解だろうか? 自分にとって、それは影響力のある言葉のような気がしたが、圭一君にとってもそうであるかは分からない。むしろ、理性から出た言葉は理性的な物だろう。さっき電話をくれた圭一君は、私の事がどうしようもなくなって、苦しさのあまりその言葉が出てきた。つまり、感情的な言葉であることに間違いは無い。とすると、タキオンはまた田上に怒らなければいけないことになる。そんなのは御免だ。もう当分喧嘩はしたくないと思ったが、どうも具体的な方法は思い浮かんでこなかった。
圭一君は元来優しい男のように思う。性格の根っこの方は温和だ。そして、表層になるにつれて怒り出す。圭一君は自分が何に対して怒っているのか知っているのだろうか? とタキオンは思ったが、タキオンだって知らない。
圭一君にとって、自分は大切な人間だ。元来、人を傷つけたがらない性格の人だから、殊に女性の方は大切にするだろう。ああ見えて、女性贔屓なところがあるのは、親の教育の賜物か、はたまた、なにかの作品の影響か、そんな所だろうと思う。あんまり下心の無い人だから、タキオンもこの人の事が好きだ。
それと同時に、ちょっぴり…何と言うか…、こう……、嫌いというわけでもないのだが、……言わば、過去を恋い慕うことに嫉妬する。自分を見てくれない事にモヤモヤする。無論、彼は自分のことを大切に思ってくれているし、自分の方もそれを感じている。ただ、やっぱり、少し…自分の知らない彼が居るのは嫌だ。彼が意図して隠している思いがあるのは嫌だ。
圭一君が怒る時は、目の前が真っ暗になってどうしようもなくなった時だと思う。普段は優しい人間だから、恐らくそうなんじゃないかと思う。だから、――圭一君は自分が何に対して怒っているのか知っているのだろうか? と思った。本来、怒りは別の場所にあるはずなのに、そこでその怒りを発散できないがために、圭一君は、目の前が真っ暗になった時、誰彼構わず怒る。例え、普段は大事にしている人にだって怒る。
――もしかすると、弟に対してもそうなのだろうか? と思った。彼は、弟の事が嫌いだと公言している。それは、普段他の人に対して優しい圭一君とはイメージが異なる。家族相手だからなのだろうか? と思ったが、そうは言っても、正月に帰省した時には、弟嫌いも「家族だからな」で矛を収めた。
タキオンは、――圭一君は、実は弟の幸助君の事はそんなに嫌いでもないんじゃないだろうか? と思う。ただ、弟の方からの兄への態度も少々悪いものがあったので、なんとも言い難かった。…まぁ、できれば、そんな諍いを度々見たいとは思わないので、次顔を突き合わせた時は冷静に居られるように圭一君に提案してみよう。
むしろ、圭一君は、人付き合いから生まれる鬱憤を家族で晴らしているのではないのだろうか、とタキオンは思った。家族であれば、生まれた時からの知り合いなので、嫌いだという事を公言してもいい。ところが、圭一君は外面を気にする方なので、あんまり誰かを嫌いだと公言する事はない。その視点で見れば、面倒な態度を取る弟は絶好の対象だ。つまり、あれが元々の圭一君の素なのかもしれない。そう思うと、タキオンは、なんだか自分一人だけ、圭一君の正体を掴んだような気がして、少し嬉しくなった。
弟の事を嫌いだと公言することが田上の正体だからと言って、タキオンは幻滅もしなかった。むしろ、外面の方が嘘を吐いていて、こっちの方は真実だ。そして、大して悪い事でもない。この世の中で、嫌いな人間が居ない人の方が珍しいだろう。だから、その情報によって、人間味も増してくるという話だ。丁度、どうも善人すぎると思っていた所だ、とタキオンは適当に考えて、悦に入っていた。
まぁ、彼の無意識から出た行動なのだろうから、タキオンも自分に外面ばかり見せていたことに怒ったりはしない。むしろ、ここ最近は、自分の内面を見せたがっている彼の事だから、その彼よりも先に、彼の内面を見つけられたのは嬉しい。これでこそ、彼女のやりがいがあるというものだ。
そう悦に入ったところで、話が脱線してしまっていることにまた気が付いた。ただ、大分長らく考えていたので、時間も大分過ぎている。時計を見ると、もうエスとリリックの公演が始まる所だったので、タキオンは、スマホの小さい画面を片手に、ベッドに寝転がって、後輩たちの勇姿を見てやることにした。
公演が終わって、タキオンは、はぁ、とため息を吐いた。この「はぁ」には色々な意味があった。まず、じっとして観ていたのが疲れたという事。次に、明日は自分の番だという事。その事について気が重いという事。そして、やっと、圭一君が帰ってくるという事だ。
公演が終わって一番初めに思ったのは、田上の事だった。そして、次に疲れたという事。それから、後輩はよくやったな、という事。その後に、次は自分の番か、という事。
後輩がよくやったのは、彼氏の仕事の成功として嬉しいし、その後輩自身に対しても、上手くいって良かっただろうと思う。特に、自信の無いリリックの事は、見ていて少々ハラハラしたが、ちゃんと最後まで間違えずに踊り切っていた。その為に、最後の方は、リリックも自分が負けた人間だという事も忘れて、ほっとしたような笑みを作ったのじゃないかと思う。尤も、彼女の表情の動きはあまり色を見せずに動くので、恐らくそのように思う程度の物だった。あんまり予想は外れていないものかと思う。
エスの方も良く動いていた。まぁ、二着になって、嬉しそうな人間だ。恐らく、次は一着になれると信じ切っているだろう。そう考えてみるのもいいが、驕る者は足をすくわれる。油断はしない方が良いだろうとタキオンは思ったが、まぁ、そこは圭一君の領分だろう、とタキオンは考えた。あんまり油断させ過ぎる事もないだろう。
そうは思ったものの、タキオンは晴れ晴れとした頭でまた圭一君と会えることが楽しみだったので、皆がライブを終えて、帰ってくる間の大半は、田上の事をずっと考えていた。そして、その考えの端々に、レースへの不安が現れ出てきていた。
タキオンは、ガラス張りのホテルのロビーで田上が帰ってくるのを待った。外には雨が降っていて、日はもう落ち、真っ暗だった。ホテルのロビーからは、外に振る雨が光に照らされて、白い筋となって落ちていくのが見える。その向こうに、車が右へ行ったり左へ行ったりするのが見える。街は案外明るい事に気が付いた。
タキオンは、この雨を見て、大阪杯の後もこうやって雨が降っていたことを思い出した。あの時は、田上の方が倒れていたので、タキオンが一人でライブへ行って、田上はここで待つ形となっていた。
――圭一君もこんな気持ちで待っていたのだろうか? と一人心地良く妄想したが、そう言えば、あの頃は少々付き合う付き合わないで揉めていたので、自分を快く待っていたのかどうか分からない。
ただ、その後には、バスの中で落としたシャーペンを一緒に探してくれたことを思い出した。思い返せば、案外思い出はある。タキオンは、その事を少し嬉しくも思ったし、時間の進みを少し寂しくも思った。